アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

組織になった宗教

2017-04-30 06:31:26 | 究極というものの可能性
◎あなたが神に気づくようにすることはできない

OSHOバグワンは、カトリックについてはそれなりに前向きにとらえているが、20世紀のカトリックについては、1963年から1978年まで在位したローマ法王パウロ6世は同性愛者(魂への犯罪/OSHO/めるくまーるP40)とし、マザーテレサのことも同様の理由でこき下ろしている。

(こういう流れからLGBT容認が出てきているのだろうか。)

これらを踏まえ
『私は組織化された宗教に反対する。なぜなら、なんであれ組織になった瞬間に、
--それ自身の既得権益を持つようになるからだ。宗教は忘れられ、ほかのことがもっと重要になる。真理と真理の探求には、あなたの全面的なかかわりが必要だ。そのほかのものは途中に入り込むべきではない。

組織化された宗教は牢獄となる。それはあなたに既成の教義を与える。あなたの唯一の機能はそれを信じることだけだ―――合理的、論理的であろうとなかろうと。あなたは自分で試してみてはいけないことになっている。というのも、誰が知ろう?あなたは既成の教義に反するなにかを見つけるかもしれない。

だが、既成の教義は、あなたの光明を得ることにはなりえない。公義はあなたを博学に、学問的にすることはできるが、あなたを賢明にすることはできない。あなたを直感的にすることはできない。
あなたが神に気づくようにすることはできない。』
(魂への犯罪/OSHO/めるくまーるP41)から引用

日本の組織宗教といえば例えば比叡山だが、比叡山から法然、親鸞、日蓮、道元等々日本の有名宗教リーダーが輩出したことを考えれば、十把ひとからげに捨てるわけにもいかないだろう。比叡山は組織宗教ではあるが、専門道場としての宗教であって、バグワンの批判は当たるまい。

つまりバグワンは、大衆化された宗教の在り方を批判しているのであって、教義の理解とそれを信じ込むだけでは、ノーチャンスだと言っているのだろうと思う。

一人ひとりが坐る。教義があるならその出てきた所以の秘蹟を追体験するこういうことが本旨だと言っているのだろう。

カトリックには、スティグマタの出現やら、イエスの臨在やら、ちゃんとそれができている人も勿論いる。そういうちゃんとした人が、たまに出てくるので十分な時代なのか、続々と出すべき時代なのかを問うているように思う。
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バルドル殺し

2017-04-29 06:55:11 | 究極というものの可能性
◎盲目の神による必殺の矢

バルドルは、北欧神話で主神オーディンの息子にして神々の中で最も美しく万人に愛された神である。彼は、最も賢明で、美しく光り輝く美貌と白いまつ毛を持ち、雄弁で優しかった。

美しいものは妬まれる。母フリッグは世界中の生物・無生物に彼を傷つけないよう約束させた。そのため、いかなる武器でも彼を傷つけることは出来なくなった。ただ、ヤドリギだけは幼すぎてこの約束ができなかった。

さてこれに着目したのが、いたづらものにしてトリック・スターのロキ。ロキは盲目の神ヘズをそそのかして、ヤドリギで作った矢でバルドルを射殺させることに成功。さらに念を入れてまた老婆セック(ソック)に変身してバルドルが甦らないように仕向けた。

ブラフ大好きなトランプはヘズのようだ。外面的に美しかった世界にやがてヤドリギの矢が放たれる。

北欧神話では、この時代の安寧にはほとんど興味やこだわりがないように一気呵成にラグナロクに進んでしまう。

バルドルは、白狐であり、ホワイト・フォックスであり現世的な繁栄の神である。それだけではこの時代を維持し続けることはできない。闇を忌避した時代では全体的かつ永遠の繁栄を保証することはできない。そこで七福神の宝船たる新たな大地が浮上するのだ。

死者も死んだ神も一旦は蘇らないとホリスティックな至福千年にはならない。
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七つの次元を貫くもの

2017-04-28 05:26:21 | チャクラと七つの身体
◎パイロットとクンダリーニ

スピリチュアルおたくとして色々と調べていくと、行き当たる大きな疑問が残る。その一つが、七つの次元を貫くもの。

7つの身体は、それぞれ7つの次元に存在する。そしてチャクラが存在するのは、第4身体であるメンタル体まで。

ここまでは良い。しかしこの他に七つの次元それぞれに存在するものがある。それは神なのだが、もう2つある。

それは、7つの次元すべてのパイロット水先案内人であって、ヘルメスでありミトラであり、猿田彦である。

残る一つはクンダリーニのエネルギー・コードなのだが、ダンテス・ダイジの明かした神人合一にあっては、個はコーザル体までであり、「コーザル体は7つの次元を超えて霊線上を上昇する」という矛盾に満ちた表現で説明している。

コーザル体は上昇を続けそれがアートマンの光線であったことに目覚め、「あらゆる多次元の現象宇宙は私自身の身体である」というアートマンの自覚に至る。

これは、なぜか“ブラフマンとアートマンの合一”という見出しのところに記述されている。(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジによる)

クンダリーニのエネルギー・コードとは霊線のことで、自分がアートマンであるというところにまで至るが、ここまでなら6つの次元だが、あくまで説明は「7つの次元を超えて霊線上を上昇する」となっている。

クンダリーニのエネルギーコードは、正常人ならチャクラと接している。ところが、体外離脱や発狂に際しては、接続がはずれる。

それと関係があるかどうかわからないが、人は絶対絶命の状況に直面した時に、人は取る分かれ道が3つある。発狂か自殺か悟りかということになる。これは、神人合一を悟りとすれば、これは紛れもない悟りのチャンスである。

だから、「恐怖の恵み」などという微妙な、大きく誤解されかねない表現すら出してくる。凡俗の目から見れば、発狂も自殺もあり得るけれども、それでもチャンスなのかと感じられるからである。

そんなことを思うのは、まだまだなのだろう。
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光明とは何か

2017-04-27 06:31:36 | 究極というものの可能性
◎ダライラマの心の説明

ダライ・ラマが心の本性との関係でいうと光明とは何かという説明に対して、光明とは心の本来の輝きのことであるとしている。

概念的思考(分別)が生じるそれぞれの瞬間に光明という心の本性が必ず生じるというサキャ派の観察がある。

実際にくすんだ色の物体を見続けて、それに意識を集中し続けながら、自分自身の思考と経験を注意して観察し、それ以外の外的あるいは内的な対象に惑わされないようにしようと強く自覚する。

この自覚を持続すれば、自分の心が惑わされ、概念的思考(分別)が発生するその瞬間を見ることができるという。

つまり、過去の思い出が浮かんだり、歌が聞こえてきたり、未来への思いが出てきたりするが、それらを雑念として気がつくようにしていく。

この練習を繰り返し積むことで、無数の観念の層をはぎ取っていき、最終的には、心本来の水晶のように光り輝く透明な心の本性を確認できるとする。
(以上出典:宇宙のダルマ/ダライラマP210-212)

雑念を相手にせず、捨てるやり方は禅でも同じ。

ダライラマの説明する心とは心理ではなく、現実現象に踏み込んでいるように思う。それが証拠に、彼は光明という心本来の働きは言葉では十分に説明できないとする。

つまり、光明とは無意識の世界に属すものであり、無意識の世界とは心理だけでなく、現実を生成変化させる世界でもあり、心とは心理だけという見方でなく、現実そのものであるという見方をほのめかしているように思う。

水晶身魂とは至福千年に生きる人々のことである。
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禅の定力

2017-04-26 05:26:35 | 丹田禅(冥想法8)
◎カトリック修道女イレーヌ・マキネスの禅

日本で禅に取り組んだカトリック修道女イレーヌ・マキネスは、その著書「禅入門 -カトリック修道女の歩んだ道 イレーヌ・マキネス/[著] 堀澤 祖門/訳 岩波書店」において定力を次のように説明している。

彼女は、十字架のヨハネの発言を引いて、神は荘厳偉容なビジョン幻視ではなく、いかなる表象や外観、知識を伴わないものである、という理解に到達するには力が必要だとし、その力こそ禅を坐ることによって与えられる、禅でいう定力だと定義してみせる。

『定力とは心が静まり統合され、坐禅で一点集中するときや、日々の生活で「いま、ここ」を意識するときに生じる強い力です。

これは動的な力であり、一度働きはじめると、私たちはより直感的に行動できるようになります。

事実、「予期しない状況に突然陥っても、迅速かつ適切な行動が直感的にとれるようになる」と昔の大師たちは言っています。

定力が作用すると、私たちは激情やまわりの状況に左右されなくなります。こうして、私たちは心の自由と平静さを得ることができるのです。

毎日欠かさず坐禅を続けていると、この力は日ごとに強まります。禅体験が深まるにつれて、短い時間ですが、通常の意識レベルを超えた「サマーデイ(samadhi)」または「三昧」と呼ばれ
る境地に入ることがあります。

三味はたびたびあることではなく、接心の三日目または四日目に起こるのがふつうです。これは精神活動が停止して意識が深層に没入した状態であり、坐禅を終えたときにはじめて、これがつかの間の『空』の体験であったと気づきます。』
(上掲書P70から引用)

三昧には、自分が体験するタイプとそうでない体験ではないタイプがあるが、彼女はそこまでは言及していない。

イレーヌ・マキネスは、定力のことをアントニー・デ・メロ神父(20世紀のイエズス会の人)は、『黙示』と呼ぶ神秘的な力でもあるとした。

冥想が人を正していくのは、科学的証明はできないが、この辺を信じることができないと人は冥想には取り組むまい。

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ヨーロッパの身分の断絶

2017-04-25 01:03:33 | キリスト者の秘蹟
◎キリスト教が形成した社会

『肉食の思想(中公文庫) ヨーロッパ精神の再発見 鯖田 豊之/著 中央公論新社』のp98に、15世紀以降のことだろうと思われるヨーロッパ社会の階層形成模型図というのが出ている。これは、おそらく著者オリジナルのものなのだろうが、これを見るといろいろなことが、はたと手を打って思い当たるような図である。

これによると、ヨーロッパ社会の最上層から下に向かって、
1.僧侶
2.貴族
3.市民
4.農民
5.ユダヤ人
6.非ヨーロッパ人
7.動物

アラブ人とかアフリカ人とか中国人、インド人、日本人は、ユダヤ人より下であり、動物よりは上。これに対し、江戸時代は士農工商といえども実質は士と農工商と二分割だった大雑把さに比べると、ヨーロッパは厳しい横割り階層社会だった。

さらにヨーロッパは、近代になって、社会制度としてこうした階層区分がなくなった後も、こうした階層意識身分意識が抜けない。それは、イギリス貴族数の増加にも見られ、1830年頃には400家だったのが、700家にも増えていることからも察せられる。

ヨーロッパは、キリスト教を社会の頂点に置く厳しい横割り社会であるからこそ、無神論の疑似ユートピアとしての共産主義社会が出てきたのは、歴史の必然だったかもしれない。

今かの地は、英国とフランスのEU離脱の可能性に揺れているが、階層分断意識の厳しさは、個人における意固地さにも通じるところであり、欧州人の共通の気質としてわりと指摘されているところである。

そして中東からの難民流入は、今の階層意識のバックボーンであるキリスト教を脅かすものであるからこそ、深刻な問題なのだろうと思う。そしてそのことは表立って議論することはできない。
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キリスト教と転生

2017-04-24 05:46:07 | キリスト者の秘蹟
◎肉食とペット

キリスト教では、人は輪廻転生せず、一回地獄に落ちたら、救済のチャンスなく、最後の審判の時に釜の蓋が開いて出てくるのが最後のチャンスみたいなものである。

この点は、地獄に落ちても弥陀の本願にすがれば救済されると説く仏教に比べて、キリスト教は、ひとたび道を誤ればノーチャンスである、極めて過酷な宗教であると安土桃山時代の民衆が感じたのはもっともなことである。

キリスト教は慈悲の教えと自称しながら、その実人に優しくない教えと16世紀の日本人には感じ取られたのだ。輪廻転生のない宗教は、信徒がより絶望に陥りやすいのだが、それはキリスト教はそういう風に作ってある(悟りに向かうために)ということなのだろう。

キリスト教では、人が輪廻しないのだから、動物も輪廻しない。人は死んで動物に転生することもないから人は死後動物になることもない。

だから、動物を殺して食べる肉食にキリスト教徒は抵抗がない。という風に論理は展開していく。

日本では、ペットは家族であり、ペットが病気やケガをしたからといって殺して食う人はまずいない。飼えなくなったら保健所に持っていく人は多いが、自分で殺す人はいない。

日本では人間と動物の間に断絶なく、キリスト教国では人と動物は断絶している。日本は、脱亜入欧でもそこまでは入れなかった。
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日本人の民族性

2017-04-23 05:45:06 | 時代のおわり
◎情緒的で血の気が多く

日本人は、感情的な民族である、その上血の気が多く、同じ日本人同士でもすぐ殺し合いを始めることがある。

すぐかっとする情的な部分には一つの傾向があり、社会的あるいは精神的大義、つまり錦の御旗を与えた瞬間にその情的エネルギーは容易に糾合され得る。

ついこの間、戊辰戦争をやったことなど皆忘れているし、禁門の変で京都が丸焼けになったことも情緒的には忘れ去られている。

太平洋戦争では、東京、大阪、名古屋をはじめ全国の県庁所在地以下の都市が隈なく空襲され焼け跡となった。それは
夷狄たる米国の仕業であったが、すでに日本精神のうちに取り込み、尖鋭な反米民族になるのではなく、日本が日本をして国土を荒廃せしめたみたいに心理的な合理化を遂げて、日本人の心の中に取り込んでしまった。

日本人が真に理性の勝っていた民族ならば、今頃反米組織は大きなうねりになっていたはずだが、全然そうなってはない。それは、単純にアメリカの組織的洗脳が成功したということではなく、日本人の情の勝った気質が大きく影響していると見ざるを得ない。

戦時中は、鬼畜米英、八紘一宇のスローガンの下、天皇を現人神とする非科学的国家神道を国を挙げて護持し、仏教や各宗教各派に戦争協力をさせ、古釘に至るまで軍に供出させたまとまりの根源は、日本人の底流に流れる情のパワーの成せる業である。

出口王仁三郎はそういうところを見て取って、太平洋戦争は「外国人の手による祓い清め」などと、敗戦は日本は敗れるべくして負けたと見る。

欧米人は、よく他人と頭に血が上るほど論争しても、直後に感情的なしこりを残さないそうだが、そういうところは全く日本人と違う。日本人なら議論に勝てば相手の気持ちを気にするし、議論に負ければ不愉快なものである。

その辺が、欧米人から見たら、日本人は情的、情緒的と言われる所以なのだろうと思う。

既成の組織宗教は、妻帯の蔓延と僧自身の求道心の低下喪失により、日々地盤沈下し、戦後の無神論教育により、国民はほぼ無神論者となった。終戦直後の宗教者たちは、禅やカトリックでは生涯独身で過ごした者ばかりだったがそんなことさえ忘れ去られている。

悟りに至るパワーの一つのアングルとして、間違いなく情、感情は一つの雄である。禅のアプローチは情に訴えないので、日本はやはり土着の氏神、国津神、天津神から始めて、天御中主神に至るようなタイプのクンダリーニ・ヨーガでないとダメなのだろうと思う。

今回の北朝鮮ミサイル騒ぎは、江戸末期で黒船を騒ぐ気分もこういうものなのかというところがある。国民全体で気分を昂揚させれば、平和憲法も何のその、自衛の名のもとに、(今はだれも夢想もしていないが)軍人内閣が成立すれば世の立替立直しだろう。
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北朝鮮の人々

2017-04-22 06:43:30 | 時代のおわり
◎泰平の夢醒める

日本にいて、私は北朝鮮の人ですと名乗る人に会うことはまずない。中国で何十年も前に北朝鮮の人を見かけたことはある。

さて、今話題の北朝鮮の人の暮らしぶり。
2010年の「朝鮮総督府・封印された証言 趙甲済 洋泉社」を読むと、

・1995年からの5年で北朝鮮では数百万人の人が餓死した。

・戦後より日韓併合時代のほうが北朝鮮の人々の暮らしぶりは豊かだった。

・第二次世界大戦後、ずっと食糧不足の半飢餓が続き、1996年には1日500グラムの食糧消費に落ちたという。この結果、北朝鮮の人は韓国の人の身長より平均7から10cm低く、体重は15~20キロ少ない小人みたいな感じだという。

・日韓併合時代には強制収容所はなかったが、戦後強制収容所が作られた。


こうした生活環境で核開発してきたのだ。
北朝鮮の成人男性で身長160cmある人は少なかったようだが、その状況は今も変わらないのだろう。

有事となれば、ゲリラにも気をつけないと。

なんでも、日本は防衛も脆弱で、反撃してこないのがわかっているから真っ先に攻撃されるのだそうだ。

千年王国の時代になっても軍備はあるというのに、戦後70年の平和憲法下の泰平も、遂に曲がり角に来たのだろう。

なお北朝鮮の日本侵攻予言は見たことはありません。

内閣官房国民保護ポータルサイトのミサイル対策(弾道ミサイル落下時の行動に関するQ&A)を見て詠める

ミサイルは10分で着弾するのに電車でゲームに興じる人の多さよ

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久松真一の悟りの定義

2017-04-21 05:39:50 | 丹田禅(冥想法8)
◎内に向かってさえも求むるな

久松真一の悟りの定義
『さとり―― 悟あるいは覚――とは何かと問われるならば、仏教学者はそれを仏教古来の典籍の中に、禅学者は過去の文献の中に、おそらく対象知的に求めようとし、禅道家は打坐により、あるいは既往の禅の機縁により、主体的に求めようとするでもあろう。

しかしながら、さとりは過去の文献や機縁など、他に求められるものではなくして、即今、当処で直下(じきげ)に、人間そのものの本来の在りかたにおいて、自然法爾(じねんほうに)に自覚せらるべきものである。禅で、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏といわれ、また、さとりは真の自己であり、他に向かって馳求するなかれといわれるのみならず、内に向かってさえも求むるな、求むればかえってそむくといわれるゆえんである。』
(無神論 久松真一/著 法蔵館P86から引用)

久松真一は禅家でありながら、自然法爾(じねんほうに)などと念仏家の用語も引いて悟りを定義してみせる。自然法爾をとあるポジティブな傾向の見方、あり方と安直にとらえれば、その時にそれはさとりではないだろう。

それを見ただけで語るのが十牛図第三図、そのものになったということでもなく、なにもかもなしが第八図、そして人間に回帰するのが第十図

それにしても見性、見仏、見神だけでは修行途上であり、本来危ういはずなのだが。
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歎異抄から念仏を始める気持ち

2017-04-20 05:32:09 | マントラ禅(冥想法7)
◎光明のうちに摂(おさ)めとられる

歎異抄のその1から念仏を始める気持ちの部分。

『あらゆるものを救わねばおかぬと御誓いなされた弥陀の本願の不思議な御はからいに助けられて、

浄土へ参らせていただけると信じて、御念仏を申そうというこころざしの起きたとき、

そのときこそ、もはや光明のうちに摂(おさ)めとって、捨てたまわぬ恵みにあずかっているのである。』
(親鸞全集 第1集 現代語訳 語録 親鸞/著 講談社P26から引用)

これは悪人は悪のままに、弥陀の本願にて既に救われているとは、時間のない世界のこと。ラーマクリシュナはすべての悪人の中にも神性を見たが、それと同様に、悪人であってもなべて仏性を有している。

すべてが救われている弥陀の本願に摂めとられるためには、この日常たる時間のある世界から、時間のない世界である弥陀の本願に入らねばならぬ。

その契機を念仏というマントラ・ヨーガが与えてくれるというもの。
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日本文化を破壊しようと狙う国

2017-04-19 05:43:55 | 時代のおわり
◎日中友好と後の祭り

半年くらい前に福島県内の仏像を多数破壊しまくった朝鮮人が逮捕されたというニュースが流れた。

そして今回は二人の中国人女性が、全国の有名神社仏閣を回って油のようなものを付けて回って全国に指名手配された。その対象となったのは、明治神宮、長谷寺、二条城、金峯山寺、橿原神宮、春日大社、唐招提寺、八坂神社、東寺、金刀比羅宮、永平寺、清水寺などなど軒並みにやられている。

これは、明らかに組織犯罪であって、中国が日本の宗教・文化・精神を「教科書問題」に引き続いて破壊しようと本格的に乗り出したものだと、人の好い平和愛好日本人でも気がついたことだろう。

相手は、他国の宗教を破壊するのには全く躊躇はない。なんとなれば、共産主義革命と文化大革命で、自国の宗教を徹底破壊したのに続いて、チベット密教を壊滅せしめた国だからである。チベット侵攻により、チベットで破壊された寺院堂宇は3千余と言われ、ダライラマは、約60年にもわたる亡命生活を余儀なくされている。

油をまいたら次は火をつけるのが定番。

出口王仁三郎が随筆集玉鏡で、「なづな七草 唐土の鳥が 渡らぬさきに」という古謡を挙げ、中国軍機が日本を空襲し、毒ガス爆弾を投下することを警告している。唐土の鳥とは中国軍機かミサイルのこと。その他にも中国軍機が大編隊で京都空襲というのもほのめかしている。

中国はその精神は虎狼の如しとは、戦前の右翼内田良平も見ていたところだし、旧ソ連もそう見ていた。

日中友好は結構だが、日本人も日本も、自国領土を侵される危険に気がついた頃は後の祭りになるのではないか、と今は、誰もが夢想と思うことを心配する。
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釈迦の争闘観

2017-04-18 05:48:31 | 究極というものの可能性
◎諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ

朝鮮半島有事前夜ということで、釈迦の争闘観を見る。

この中村元訳では、恐怖を感じたとしているが、ぞっとしていやな感じはするかもしれないが、釈迦が今さら恐怖を感じるほど我の立ち位置を失うことはあるまいと思う。

だが、釈迦は覚者らしく、自分が寄る辺ないことも述べている。世界が不定でないことも見ている。

そこで、彼は、その原因たる煩悩を解くには、欲望を捨てるのではなく、諸々の欲望を極めつくせと説く。

ものすごく迫力あるアドバイスである。

『一五、武器を執ること

九三五
殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

九三六
水の少いところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

九三七
世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

九三八
(生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。
またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

九三九
この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。

九四〇 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。―――世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。』
(ブッダの言葉/中村元訳/岩波文庫P203から引用)
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見神、見仏、見性の限界

2017-04-17 05:27:31 | 現代冥想の到達点
◎見性だけでは不徹底

昨日記事では、イエスは見神体験は有していたが、神人合一を得たのは十字架上だったという話を出した。

見神、見仏、見性とは、禅の十牛図でいえば、第三図見牛であり、全然最初のほうであり、その後の人生の送り方によっては、悪に陥ることすらある。

イレーヌ・マキネスという修道女が禅をやる話で、「禅入門 -カトリック修道女の歩んだ道/岩波書店」という本の中で彼女が、山田耕雲という在家の僧について禅修行をする。彼女は見性したのだが、それでは山田耕雲という人の悟境はどうかとネットを探すと出てきた。それによれば、いかにも白隠のそれに似たところがある。

江戸時代の白隠は、多数の出家・在家の弟子を見性せしめ世間的には評価の高いところであるが、なぜかダンテス・ダイジは、白隠を不徹底であるとして評価していないところがあった。

それはなぜか。見神、見仏、見性だけでは、いわゆる最終解脱ではないからである。禅の十牛図でいえば第八図の円相までいって届く。筆で円を描いたからといってその人が人牛倶忘であるということではない。

第三図の境涯しか持たぬのに人を指導してよいのかというところすらある。

ただし世間的には、見性した人すら極めて少なく、見性すれば悟った人と称して差し支えはあるまい。

そんな中、同じ禅僧でも至道無難は、見性だけの人の危険性を指摘しており、わかっている禅僧であると思う。
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イースター復活祭

2017-04-16 06:12:38 | キリスト者の秘蹟
◎イエスはいつ大悟したか

今日は、イースター。イエス・キリストの復活の祝い。肉体でなく、アストラル体での復活っぽいが、例によって現代科学で検証するすべはない。現代科学はそもそもアストラル体など認めていないので。

イースターと言えば、卵型のチョコがスーパーなど店先に並ぶのがキリスト教国の習いだが、日本ではまずあまりみかけない。

さてイエスはいつ悟ったかというのは問題である。超能力がばんばん使えたからといってそれは覚醒の証拠とはならない。

小学生の頃、旧約聖書を読んでいて、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしか」とつぶやくのを読んで、あれ、イエスは神の子なのに何を言っているのと不審に思ったものだ。

要するに、このつぶやきの時点で、人と神は別であり、神人合一は未だ成らなかったのだ。その後神と人との境目がなくなったと見るのが穏当な推理なのだと思う。

逆にイエスは、神の側の立場でなく、無力な一個の大工として、その愛のゆえに十字架にかかることから逃げなかった無私と勇気こそ、人として驚異的な生き様であったと思う。

釈迦成道では、最初四禅から入ったなどと実況中継よろしく解説する神秘家がいたが、イエスの場合は、西洋人向けには神秘主義からの解説は良しとされなかったのか、十字架上でのプロセスを解説するものは出ていない。

それにしても、イエスは、あれだけこの21世紀の危機の時代のことを「終わりの時代には・・・」とその生涯で語ったからには、その昇天による影響のターゲットは現代人に向けられていると考えるのが素直だろう。

彼は本当によくやったし、成功した。けれども一人の大工の影響力には限界があった。今一人ひとりが自分に向き合わないと。
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