アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

チベット密教初心者向けの8つの心得-1

2017-03-31 05:41:45 | 密教
◎自らをもっとも劣った者とみなす

ダライ・ラマが師匠ティジャン・リンポチェから受けたチベット密教初心者向けの8つの心得。

『(1)如意宝珠をもしのぐ
一切の衆生のために
最高の目的(仏の境地)を成就しようという決意をもって
常に衆生を慈しむことができますように

(2)誰と知り合いになろうと
自らをもっとも劣った者とみなし
心の奥底から他者を
もっとも優れた者とみなすことができますように

(3)何をするにも自らの心の流れのなかで吟味し
自他に危険をもたらす煩悩が生じるやいなや
雄々しく立ち向かい
退けることができますように

(4)よこしまな本性をもった衆生が
重い罪や苦しみに苛まれているのを目にしたならば
貴い宝と遇ったがごとく
めったに見いだせないものとして慈しむことができますように』
(ダライ・ラマ日々の暝想 ダライ・ラマ十四世 講談社P84-88から引用)

自らを最も低くし、さらに悪人に出会ってもその仏性を見るようにして慈しむ。

最後の4番目は愛の聖者イエス・キリストの言葉と同じだ。

2番目の頌句は、観想法ならではの、意識を見つめるという動きが特徴である。

これは初心者向けの心得だが、基盤は深遠である。
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体癖

2017-03-30 05:39:27 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎時計を見て食べ、眠っているような生活

整体野口晴哉の体癖についての文章。

『体癖というのは無意運動の偏ったり歪んだりする習性をいうのであるから、大抵の人は持っていても、それに気づかないでいる。

それでいていつの間にかその支配を受け、その影響を受け、いつも偏った体の使い方をし、歪めて体を使う習慣を持つようになり、そのため疲労が、体の余分に使われる一部の処に偏って、その一部が疲労しているのに全体が疲れたように感じ、その疲労感によって休んだり眠ったりしている。

だから、実際の体の状態からだんだんかけ離れて、自分の体の要求を感ずることにも鈍くなって、時計を見て食べ、眠っているような生活につい陥ってしまうから、いつも体の全力を発揮して生き生きしているとはいえない暮し方をしてしまう。

簡単な体の偏りでも、長い間には体を歪めたり、偏って発達させてしまっていることは珍らしいことではない。ある体癖を有する人は共通した姿勢をしやすく、その体形も類似している。このことは体癖が体形をもたらしたとの言えるのである』
(体癖2/野口晴哉/全生社P5-6から引用)

日々体操をやっているのだが、柔軟系と筋力回復系である。その中に姿勢を直す体操も入っているのだが、なかなか顕著な効果というほどまでには至らない。

また、勿論体操だけで精神のストレスが解消するものでもない。

仕事では日常的に同じ姿勢をとることを強要されるのだが、その蓄積体癖が影響を与えるのは、健康面もさることながら、精神面でもある。

過労死とは、その極みだが、ようやく社会全体で、(外国による日本弱体化施策という面もあろうが)それに取り組もうという動きになってきた。

肉体には体操を、精神には冥想を。ただし効果を求めて冥想をしてはならない。


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レムリアでの日常

2017-03-29 05:32:40 | 究極というものの可能性
◎飛ぶ一瞬間の歓びに口づけするもの

スピリチュアル・おたくの目には時々目につくことがあるレムリア。アトランティスにしてもレムリアにしても、そこに生きる人間と日常が今の人間の肉体と日常であったなどと思うのは大きな間違いであることがダンテス・ダイジの遺稿を見るとわかる。

かれは、そうした霊がかりなものは晩年にはなるべく出さないようにしたのだが、断片的に残っているものもある。

レムリアでは、大半の人間が冥想習慣を有しており、ダンティスの属するケンタウロス族は冥想習慣のあまりない「遊ぶ」民だった。だから彼らは、『飛ぶ一瞬間の歓びに口づけするもの』とも呼ばれた。

何よりケンタウロス族は、ギリシア神話のケンタウロスのように、人面馬身のボディを有する、今では見られない人間たちだった。

ダンテス・ダイジの数ある名のうちの一つは、ダンテス・ケンタウロス・アメンティであって、レムリアとアトランティスの連係を体している。

人間は、紀元の変わり目に肉体も精神も進化するらしく、古い肉体と精神の人間は滅び、新たなタイプの肉体と精神の人間が生き残っていくということがあるらしい。レムリアのこの話でもケンタウロスな肉体の人間は残っていない。この時代の終わりにも、そういうことが起こるのかもしれぬ。


ダンテス・ダイジの遺稿に残されているレムリアの風光は、次のようなものである。

『諸君は、アストラル・ライトの中でのヴィジョンを見たことが今までにあるだろうか?

レムリア人の見るレムリア大陸のあらゆる光景は、アストラル・ヴィジョンのように鮮明であり、そして、その熱帯の気候は、あらゆる視覚に原色の美をそえていた。』
(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

さらに、
『レムリア文明の中で、何かを売買するということはめったになかった。

とりわけ、ケンタウロス族は、イマジネーションによってほとんど完璧にその肉体をコントロールできたから、食物と衣服については、ほとんど必要がなかった。

住居についても、レムリア人種は、ほとんど自然の岩堀などを精神物質エネルギーか、原始的肉体労働によって穴を開け、それを芸術的に装飾して、住居としていた。

レムリア人種は、赤褐色の肌をしていたが、ケンタウロス族達は、どちらかというと紫色に近い濃い褐色のつややかな肌の色を持っていた。

ケンタウロス族は、半神半ジュウという特質をとりわけ強度にもっていて、その決して自己処罰に落ち入ることのない原色の太陽と海、底抜けに明るい動物的エネルギーを欧歌していた。

彼らケンタウロスのトモガラは、レムリア世界全土の中で極めて少数部族の一つであった。

彼らは、何よりも形而上的な黙想とは無縁な一族であり、彼らのもっぱらの天命は、ただ、ただ、霊的官能を享楽することに尽きていた。』
(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

自己処罰は、厭世につながり、仏教の世界観の得意技である。ケンタウロス族は、仏教とは全く逆の方向での人生を謳歌していたのだ。
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神代文字考

2017-03-28 05:35:47 | 古神道の手振り
◎神代文字は自由に現われ、判らない者は判らない

神代文字は、漢字伝来以前の日本にあったという説があり、それを否定する説もあるが、最も重要なのは、伊勢神宮の古い願文や古い神社のお札に神代文字が存在しているということ。

一方で、神代文字文書や碑文がさほど多くは見られないということも一つの特徴である。

誰が用い、またこれほどまでに普及しなかった理由は何か。それに対して出口王仁三郎は一つの示唆を与えてくれている。

『○水茎文字は神代文字

琵琶湖に出る水茎文字を水茎の岡山から見るのは彼岸の中日であって、神界から使命のある人でないと竜宮から見せられぬ。
王仁と大石凝先生だけが見たのであって、側にいても見えないのである。

琵琶湖に見にゆくのが大変だから後では、金竜海(綾部大本神苑内)を造って見ていたのである。一つの証拠に見るだけであって一度見たら十年か十五年は見る必要はないのである。

神代文字で自由に現われるから、これの判らないものは出ていても判らないのである。
(昭和十八年)

○大本の筆先と水茎文字

大自然に出る水茎文字がお筆先と同じであるから、天地創造の神がお筆先を書いておられることを証明するものである。大石凝先生はお筆先を知られないから、これで見当をつけていたのである。お筆先に現われるか、水茎文字に出るかの差である。
(昭和十八年)』
(新月の光 下巻/木庭次守編/八幡書店P96-97から引用)

これからすると、神代文字一般はいわゆる神聖文字であって、天地創造の神が下したものであって、とある滅亡した文明の下で広く市民が日常生活に使用した文字ではない。

神代文字は表音文字なので音読はできるが、その意味するところは神意である。

神代文字の現れは霊眼が神代文字に同調した者に現れるのであって、誰もが見えて読めるものではない。たとえばイエスがあなたの傍に出現したとしても気がつかなければ何も起きていないのと同じことである。

神代文字は仮名50音を当てられるので読めることは読めるが、それだけでは何の意味もない。

神代文字は、お筆先と同様であって、10年15年先までも通用する神意、この世の成り行きを示すものであって、いつもいつも日常的に見る必要のあるものではない。

神代文字は、審神を経た文字であって、見えること自体が、その人が最低でも大神を知っている境涯であるということ。

このように考えられる。
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幽斎と顕斎の混合

2017-03-27 05:13:28 | 古神道の手振り
◎神像も神社もなく

出口王仁三郎のマスターである本田親徳の道の大原から
幽斎は霊を以て霊に対し、顕斎は形を以て形に対す。
故に幽斎は神像宮社無し、而して真神を祈る。
顕斎は神像宮殿有り、而して象神を祭る。俗学蒙昧にして古義を知らず、混じて以て一と為し、岐して以て万と為し、底止する所無し。実に祭儀の大疵なり』

古神道では、幽斎と顕斎を分ける。幽斎では、「霊を以て霊に対し」とは、祭祀に形がなく、神像も神社もなく、大神のみを祈ることを言う。

これに対し顕斎では、「形を以て形に対す」とは、神像も神社もあって祭祀にも決まった形があることをいう。

ところが、世の中にはこの基本を知らず、まぜこぜにしている神社があるのは、祭儀の疵(きず)になっていると、本田親徳は指摘する。国家神道などは、その典型だったのだろう。

およそ物事の初めには不思議な力が宿っているものなので、最初に出す言葉は慎重にせねばならないし、祭儀もいわば最初に出すパフォーマンスなのだから、慎重にせねばならない。

道の大原では、「神界の中は、無形之中なり也。その中は測ることができないので、言葉をまぜる勿かれ」と。この中は、未発の中のこと。

参拝客を増やすのには、わかりやすい拝殿やら大祠、小祠があったほうがよいが、それでは信仰の半分に過ぎず、不足している。

この時代の人間が悪くなりすぎたせいか、帰神は、冥想テクニックとしては棄てられ、今や鎮魂だけになった。鎮魂で幽斎が、古神道のメイン・ストリームなのだと思う。



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ダライ・ラマの超能力による弟子たちのフォロー

2017-03-26 05:53:31 | 密教
◎ダライ・ラマと転生

「ダライ・ラマと転生/石濱裕美子/扶桑社新書」は、要所要所でダライ・ラマが登場するが、インドに亡命したチベット密教の高僧ロブサン・ガワンとその弟子平岡宏一氏の関わりが中心の本であって、その点では看板に偽りありみたいな本だった。

ただロブサン・ガワンは、ダライ・ラマに近い人物であるということもあるのかもしれないが、ダライ・ラマは、関係のある人物のことは死ぬまで、さらに転生するまでフォローしているのだということがよくわかった。

ダライ・ラマが転生地域を予言し、その地域の候補者リストから真の転生者を特定することまでやるのだ。

まことに大物覚者の転生は霊団がグループで転生してくるとはいうが、チベット亡国から約60年、この苦難の時代を乗り切るために同時期に転生してきたダライ・ラマの盟友たちも次々に鬼籍に入って行っているのだろう。

この本には、天河神社奥宮は12億円もかかって落成できたが、本殿は巨額過ぎて資金調達できなかったこと。

また中国共産党政権の崩壊が意外に近い将来かもしれないなどの微妙な情報も散りばめられている。

この世界的に冥想的でないライフ・スタイル全盛の時代に、出家が前提ではあるが、観想法主体の冥想メソッドの教団が中国共産党の圧力と亡命先の困難な環境にもかかわらず維持されていることは、21世紀の奇蹟である。
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タロットの構造

2017-03-25 07:00:35 | 冥想アヴァンギャルド
◎アレイスター・クロウリーのトートの書

アレイスター・クロウリーは、後半生は、薬物濫用、両刀使いであって、男女パートナーを次々に替え、パートナーとなった相手は次々に不幸な死を遂げた。スキャンダルの帝王であり、手もと不如意である時期が長く、人格的にも好ましからざる人物であったようだ。

ところが、そんな彼の前半生の一時期について、求道的にまともであった時期があって、その頃の彼に限っては、ダンテス・ダイジは評価していたことがある。

そんなアレイスター・クロウリーが晩年に書いたタロット・カードの解説書がトートの書

それによると22枚の大アルカナは、10惑星+12星座。惑星と星座を平板に置いてどういうつもりなのかと思うが、これはまたヘブライ語の22字のアルファベットに照応するという。

タロットの起源が14、5世紀と思われる一方、スペインから欧州各地にユダヤ人が流出し始めた時期もまたその頃なので、タロットの正確な出自は怪しいけれど22という数字を重用しているところを見ると、タロットはユダヤ人の手になるものなのだろう。

儒教の易には、天意を伺う道具として筮竹があり、古神道には、神意を伺う道具として天津金木がある。その道具個々には記号を付して意味づけされているものもあるが、あまりその意味づけは、詳細には及ばない。

もともとユダヤ人のニーズとしてそうした道具の必要性があったのだろうと思う。タロットカードの並びの象を見て、
世界全体を、過去現在未来を直観するという作業なのだから、あまり詳細にわたる意味の解説を事前にしてはならないのだ。

トートの書によれば、数札の四大の照応は、
棒→火
杯→水
剣→風
貨幣→地

さらにコート・カードの騎士、女王、王子、王女も四大に照応し、

騎士→火
女王→水
王子→風
王女→地

よって例えば、棒の騎士なら「火の火」、杯の騎士なら「水の火」というようなことになる。

この四大と12星座と10惑星が、ユダヤ式“世界のプロファイル”の基本線だったわけである。
この22はカバラの生命の木とも照応するが、生命の木の10球に対するクロウリーの四大の当て方は、
1→火
2,3→水
4~9→風
10→地
であるが、本当にそうかどうかは怪しいかもしれない。

起こっている象に対する解釈の深度ということに関していえば、例の「起こることは起こったが、何が起きたのかは本人にはわからなかった」とか、「イエス・キリストがすぐそばにやってきたが、本人はそれに気がつくことはなかった」というたぐいの話と同根であると思う。
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鶴田浩二園遊会を辞退する

2017-03-24 04:56:16 | 時代のおわり
◎先に死んだ奴のことを考えてやらんと可哀相で

『俳優鶴田浩二は学徒出陣体験を持ち、戦後は数多くの映画で本物の特攻隊員以上にその苦悩や生き様を演じた。さらに遺骨収集や英霊の顕彰に多額の私財を投じた人物でもある。

その鶴田の下にある時、昭和天皇から園遊会への招待状が届いた。しかし鶴田はこの招待を拒絶した。

「天皇陛下から『お前たちは、よくやってくれた。どうも有り難う』と一言、言ってやってほしいのだ。僕にじゃないよ。もう帰らない奴にだよ。

言葉も出ない奴にだよ。それがあれば、成仏はできないまでも、ある程度、納得できるんじゃないかと思うんだよ。先に死んだ奴のことを考えてやらんと可哀相でね。・・・・・たった一言でいいから『すまなかった』と言ってやってほしい。

その一言がない限り、俺は園遊会には行かない。」

ところで、特攻を送り出した軍幹部は、戦後一様に特攻は志願であったと強調したが、彼らは部下の出撃を見送るばかりで、最後まで自らは出撃しようとしなかった。』
(特攻と日本人の戦争 許されざる作戦の実相と遺訓/西川 吉光/芙蓉書房出版p208-209から引用)

鶴田浩二は、老いた二枚目みたいな印象しかなかったが、なかなかに心ある人物であったらしい。死んでいった者たちへの深い慈しみを持っている人は多いものではない。

単に遺骨収集や英霊の顕彰に大金を出したから偉いということではなくて、彼なりに若人が国のために苦悩しながら死んでいったのはなぜかと自問して、前の戦争を総括している行動が園遊会辞退だったのだろう。

戦後GHQの意向や朝鮮戦争の勃発などもあり、戦争を遂行した旧体制はそのまま温存された部分が少なくない。しかしそれすら70年経って、そうした古色蒼然とした体制の遺構のなかに新たなライフ・スタイル、新たな精神構造、新たな貧困、新たな苦悩を持つ若者たちが育って来ている。

ゆとり教育は、社会の生産性という点では失敗だが、求道に向かうモチベーションを涵養するという点では大成功だったかもしれない。

『モーレツからビューティフルへ』という1970年のキャッチ・コピーは、ゆとり教育で根を張り、さらに冥想のライフ・スタイル化で結実を迎えようとしている。

日本社会全体は、かつてもそうだったように迷いの中で悟る道しかないのだと思う。
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微細身の分離と自然さ

2017-03-23 05:26:13 | 究極というものの可能性
◎悟りと不健康

肉体と微細身が分離するのは死の時である。

死の時以外で、微細身が肉体から分離するのは不自然である。それは健康な状態ではなくなることを示す。

微細身が肉体から分離する時、それらが結合している時に行われた相互の調整は、行われなくなる。

OSHOバグワンは微細身が肉体から分離した状態があまりにも長くなると、肉体は死に始めるという(死ぬこと生きること/市民出版社/P297)。

大悟覚醒、神人合一は、そういう状況で起こるだろうことは、薄々感じられてはいるが、証明もできないし、追体験することも簡単ではないし、追体験した後に生還できる保証もない。

そういうことだと唱えることはできてもそれを直観したり、信じる人で準備ができた人だけが追体験に成功する。

神の国に入る、ニルビカルパ・サマディーというのは、この世的なものではないだけに、社会的に表面的にアピールはしない。

「迷いのうちに悟る」と言うのはかっこよいが、この地獄的な世界で、冥想を継続的にできる環境を作り出し、更に冥想していくというのは、OSHOバグワンのコミューン経営のように今でも容易なことではない。

それでも日々冥想を。


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精神科の隔離、初の1万人突破

2017-03-22 05:34:59 | マインド・コントロール
◎悪化する日本人のメンタル・ヘルス

2017年3月21日の朝日、日経、産経新聞などで、精神科の隔離に関する記事が上がっていた。記事の内容は各紙ほとんど同じ。

厚生労働省の集計によると、精神科病院で手足をベッドにくくりつけるなどの身体拘束や、施錠された保護室への隔離を受けた入院患者が2014年度にいずれも過去最多を更新したことが、分かった。隔離は調査が始まった1998年度以来、初めて1万人を突破した。

精神保健福祉法では、患者が自らを傷つける恐れがあるなどと精神保健指定医が認めた場合に身体の拘束や隔離ができるが、症状の重い患者の増加も要因とみられ、厚労省は詳しい調査を始める。

 14年度の保護室への隔離は1万94人で、前年度に比べ211人増えた。都道府県別では東京が683人と最も多く、大阪が652人と続いた。

 拘束は453人増の1万682人。最多は北海道の1067人、次いで東京の1035人だった。調査項目に拘束の状況が加わった03年度以降、増加の一途をたどっている。

 厚労省は毎年度、精神科病院の6月末時点の状況を聞き、14年度は1599カ所について入院患者数や病床数などを調べた。入院患者全体は減少傾向で、14年度は前年度比7030人減の29万406人で、重度で症状が安定しない急性期の患者が増えているという。

拘束や隔離が増えている理由を詳しく把握するため、厚労省は次回の調査から患者の年齢や疾患の内容なども聞いて、隔離や拘束が増えている要因を分析したい方針だ。

この記事の主眼は、精神病院入院者総数は減少傾向なのに、重度で症状が安定しない急性期の患者が増加傾向であることと、拘束や隔離が増えていること。

全国の職場でうつ病を中心としたメンタル・ヘルス対策が採られる時代になり、投薬を継続している軽度のうつ病の人は珍しくもない時代になった。

こうした中で、拘束や隔離が増えたりするというのは、精神的に不安定な状況が急速に昂進しやすい環境に、よりなってきたということになるだろうと思う。

現実感を喪失し、社会性をほとんど喪失し、妄想を現実とみて、その中に閉じこもるというような人が増えるのは、結局孤立した人が孤独なままで生きていける精神的「おひとり様」社会の拡大が原因ではないだろうか。
衣食住はあって、孤独。そんな人が増えた結果なのではないだろうか。

西欧では、生まれた時はから人は孤独に生き、孤独に死ぬものだという社会通念と社会制度がそもそもあるのだが、特に戦後日本では、こうした個人主義的社会通念も社会システムも未整備なまま孤立的ライフスタイルが生活の隅々に浸透してしまった。

子供が5、6人集まってそれぞれ別のゲーム機で遊ぶ孤独、電車で大人も子供も別々の携帯・スマホで時間をつぶす孤独。孤立した時間が常態化すると、やがて人は妄想の世界に遊ぶことも出てくる。

幼少期からテレビゲームに親しんだ人(30代以下の人たち)は、簡単に妄想世界に入り込みやすい素地があるということはあるのかもしれない。トランスに容易に入りやすく、かつその状態が躁となれば、身体拘束、隔離につながることもあるだろう。

こうした精神環境は、企業が構築し、マスコミも煽り、大衆もデジタルだのITだのと言って歓迎してきた。デジタルとITは人の本質的に孤立したライフ・スタイルを確立してきたとも言える。

人間の進化は悟ることだが、ハイテクが気晴らしや遊びや軍事主体で利用されるなら、その因果は時代が受けねばならないと思う。
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キリスト教映画『復活risen』

2017-03-21 05:29:31 | キリスト者の秘蹟
◎アストラル体での復活

これは、イエス・キリストの復活を十字架刑の執行を現場で直接指揮した百人隊長クラビアスの視線から見た映画。

岩の扉に封をされた墓室から、大きな音と光でイエスが再生したというのはともかく、イエスが、復活して十二使徒らと歓談している最中に二度までもその姿を突然消したのは、アストラルでの『復活』らしくて良かった。

百人隊長クラビアスは、イエスが復活してわいわい盛り上がっているところに二度とも居合わせたが、見た奇跡をなかなか信じられなかった。

イエスも釈迦も、見ないで信じるのが上であって、見て信じるのは下みたいなことをやはり言っている。イエスの復活の奇跡を見ても信じない者は信じないし、それを聞くだけではっと気がつく者もいる。

復活したイエスが、弟子に槍で刺された脇腹の傷口を手で触らせていたシーンがあったが、傷口は既に閉じていたのだが、史実?では傷口が開いていたのでは?

百人隊長クラビアスは、最後に道で光輝くイエスに出会って回心するのかと期待していたがそれは起こらなかった。

全体としては、とても内省的映画であった。こういう視点の映画もあって良いと思う。今見ると、これだけでは食い足りない人も多いかも。


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最澄の籠山

2017-03-20 07:11:50 | 密教
◎十二年籠山行の起こり

延暦4年4月、最澄は、国家の俊秀として近江の国分寺から奈良の都に行き、東大寺で具足戒を受けた。ところが、彼はこのエリート・コースを自ら打ち捨て、孤独な比叡山での山の修行に入る。

延暦4年7月中旬、最澄は山に入った。今の比叡山延暦寺根本中堂付近とされる、蝉の声と梵音の争う松の下の巌の上に草庵を結んだ。これは小さい竹で編んだ円房であって、藁を寝具として、求めずして与えられたものを食し、修行を続けた、

今でも比叡山には、蚊はいるは、猪、猿、狐、狸も歩き回るはで、大変なところ。その一方で、冬はほとんど雪に埋もれる。寒い暑いを厭わず、飢えを恐れず、約束されたエリート僧としての将来を捨て、餓死、犬死をも厭わず、最澄は山中修行に入った。

山では、冥想の他に、法華経、金光明経、般若経などを読誦していたという。師匠はいないようだったが、トランスのコントロールはどうしたのだろうか。

こうした修行の末、どの程度まで行ったかどうかはわからない。
それでも12年間籠山し、これが後の12年籠山行の起こりとなる。

最澄は、延暦十年、俗の六位にあたる修行入位に進み、延暦13年桓武天皇が最澄を比叡山に訪問。延暦16年最澄は内供奉(宮中で天皇の安穏を祈ることを職務)に列せられたとあるが、これは俗界のことで、本人の境涯のことではない。

最澄は世俗的にはビッグになったが、その実老境に至るまで謙虚さを失わなかったのだろう。

だから在世中の境涯は、空海に及ばなかったかもしれないが、比叡山延暦寺は、日本仏教界の柱石である、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍らを次々に輩出することになった。
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朝鮮の予言

2017-03-19 05:43:55 | 時代のおわり
◎胡兵(東北地帯)の中国兵がやってくる

朝鮮の予言といえば、これ。

姜甑山の預言:
『将来日清戦争が二度あるだろう。初めは清国が敗れるだろう、二度目に起こる戦いは10年かかり、その結果日本は追われて本国へ戻るだろう。

また胡兵(東北地帯)の中国兵がやってくるだろうが、漢江以南は犯せないだろう。その時疾兵(病)が猛襲するが、米国は一指も動かさなくても容易に引き上げるであろう。』
(回天の聖者/姜甑山先生顕彰会刊から引用)』

出口王仁三郎は、海外の宗教と提携することが多かったが、その中でも特筆すべきは、中国の紅卍会と朝鮮の普天教の姜甑山。普天教は、霊界物語別巻入蒙記第四章微燈の影でも言及されている。

姜甑山は一流のクンダリーニ・ヨーギであって、その予言集は、水準に達している。

日清戦争は、明治に起こり、二度目の日清戦争は、昭和の初めの日中戦争を指す。この結果日本軍は、故国に退却した。

1950年の朝鮮戦争には、中共軍が北朝鮮の友軍として参加したが、この予言はそのことを言っているのではない。
中国軍の朝鮮侵攻を語っている。

朝鮮戦争の時には北朝鮮軍は、一時釜山目前にまで迫ったが、この予言では、ソウルを分断して流れる川である漢江以南を中国軍(東北部が主体)が侵すことはないとする。

要するに北朝鮮領内が戦場となるとみている。そうなると自国領内で核は使用しずらいので、生物化学兵器が使用されるだろうから、『その時疾兵(病)が猛襲』するとは、猛烈な生物化学兵器戦のことか。米軍は当然参戦するが、ほとんど戦闘らしい戦闘もなく、引き上げるということになろうか。

時しも3月の草木の芽吹く頃。日本の最終戦については、出口ナオ、出口王仁三郎には別の予言があるが、『3、4月』『8、9月』

朝鮮の動乱が日本に連動するかどうかは神のみぞ知る。
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人を愛で慈くしむとも天地(あめつち)に

2017-03-18 05:53:51 | 古神道の手振り
◎おそるるなくば道にさからふ

出口王仁三郎の霊界物語第三巻余白歌をしみじみと読む。

1.生活
形ある宝に眼(まなこ)くらみなば
罪に汚れし身となりぬべし
(第二十二章)

人を愛で慈くしむとも天地(あめつち)に
おそるるなくば道にさからふ
(第二十二章)

味気なき舌の剣や大砲(おほづつ)は
万(よろづ)のあだを招き集むる
(第二十二章)

苦しみて数多(あまた)の人に使はれて
始めて人を使ふの道知る
(第二十九章)

2.神威
和妙(にぎたへ)の綾の聖地に召めされたる
人は伊都能売(いづのめ)みたまなりけり
(第三十三章)

奴婆玉(ぬばたま)の闇に御魂(みたま)を汚したる
ひとを清むと伊都能売の神
(第三十三章)

根底までおちたる人を救はむと
ミカエルとなり現(あ)れし伊都能売
(第三十四章)

3.信仰
神殿(かむどの)に神は在(ま)さねど人々の
斎(いつか)むたびに天降(あも)りますかも
(第十八章)

皇神(すめかみ)の恩頼(みたまのふゆ)に報いむと
直心(まごころ)かけて拝(をろ)がむ斎庭(いみには)
(第十八章)

国々の神の政(まつり)を知食(しろしめ)す
生国魂(いくくにたま)の御勲功(みいさを)著(しる)きも
(第十九章)

久方の天津御神(あまつみかみ)の御心(みこころ)は
人の魂(みたま)の基(もとゐ)なりけり
(第二十三章)

肝向(きもむかふ)人の心は天地(あめつち)の
神のまにまに動きこそすれ
(第二十三章)

反(そむ)きたる人も吾が子の如くして
神は恵みに活かせたまはむ
(第二十六章)

命まで道に捧ぐる心あらば
如何なる事も叶はざらめや
(第二十九章)

天津神依(よ)さし給ひし真心も
省みせずば曲津霊(まがつひ)とならむ
(第三十一章)

年若き時より神と呼ばれたる
人の世に立つ五六七(みろく)の神代(みよ)かな
(第三十二章)

何もかも知りつくしたる人の子の
出づる五六七(みろく)の御代ぞ待たるる
(第三十二章)

蹴落とされ踏みにじられて世のために
つくせしひとは真の神なる
 (第十六章)

4.救世主としての出口王仁三郎の述懐

斯(この)道の蘊奥を深く究めたる
人のひらきし三五(あななひ)の教(のり)
(第十七章)

逆(さかしま)の世に悩みたる人草を
生いかさむとして天降(あも)りし神子(みこ)はも
(第十七章)

天津空(あまつそら)ゆ地上のために降くだりたる
ひとの子独り世を偲び泣く
(第十七章)

敷島の道開きたるひとの声は
天地四方(あめつちよも)に鳴り渡るなり
(第二十一章)

皇国(すめくに)のために誠を尽したる
人の子攻むる世こそ歎(うたて)き
(第二十一章)

背に腹を替へて斯(こ)の世に降りたる
人の子攻むる世こそ歎(うたて)き
(第二十二章)

軒ゆがみ壁の落ちたる人の家に
産声あげし瑞御魂(みづみたま)かも
(第二十四章)

高天原(たかあまはら)紫微の宮より降くだりたる
ひとつの魂(たま)ぞ世の光なれ
(第二十七章)

千早振る神の任(よさし)に天降(あも)りたる
人の御魂(みたま)は顕幽に照る
(第二十七章)

腹借て賎ケ伏家(しづがふせや)に産声を
あげたるひとの神の子珍らし
(第三十六章)


神のまにまに』とは神意、天意のままにという神聖な言葉、諸外国にはこうした言葉はあるまい。

『命まで道に捧ぐる心あらば』というのは簡単だが、そこまでやれる準備ができた人だけが、無限の光明に入る。これは最終ステージの直前にある人のための言葉。

現代は、人口が増えたが、『蹴落とされ踏みにじられて世のためにつくせしひと』があまりにも多くなりすぎた。それが黙示録の『叫び』になっている。
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海馬切除と記憶

2017-03-17 05:36:43 | マインド・コントロール
◎過去記憶は残る

1953年コネチカット州ハートフォード病院のスコービル医師は、重度のてんかん患者ヘンリーの海馬を吸い出した。

『手術から数日のうちに、ヘンリーの発作が極端に減ったことがはっきりした。また、何かを記憶する能力が失われたこともはっきりした。

新しい看護師が自己紹介をして、五分経って戻ってくると、ヘンリーには、それがもう誰だかまるでわからなくなっていた。自分の母親のことはわかったが、手術の日以降に新たに知った人や物事は、まったく記憶にとどめることができなかった。

五〇年経った今日でも、ヘンリーの状態は変わっていない。彼は、かなり高齢とはいえ存命であり、MITの近くの介護施設で暮らしている。母親は一九六〇年に他界したが、今でもヘンリーはそのことを聞くたびに新たな涙にくれるという。

いつでも、はじめて母の死を知らされたと思うのである。彼の頭の中ではいまたにトルーマンが大統領であり、施設の中で新しい人間関係を作ることができない。人の顔かたちや声を記憶できないのである。顔と声という、人に安らぎを与える本質的な要素を。

ヘンリーに安らぎはない。』
(心は実験できるか 20世紀心理学実験物語 ローレン・スレイター/著 紀伊國屋書店P318から引用)

ヘンリーは認知症のように新規の記憶は保持できない。しかし、過去の記憶は有しているので、海馬を取り去ったとしても過去の記憶はどこかに保持されている。それは、どこだろうか。だからといって、脳が精神活動のすべてを行っていると考える現代科学にその解があるとは思えない。

さてヘンリーに安らぎはなかったのだろうか、あったのだろうか。

トランスも深くなると、完全に社会的なことを忘れる状態があり、自分は誰?の状態がある。それはでもある。そうした社会性の喪失は絶対的孤独感と並存するのだろう。
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