アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

一点と世界全体、一瞬と永遠

2017-02-28 05:25:37 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎華厳経とドン・ファン

華厳経から
『一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲が遍く護念し、弥綸して、一切を覆う。
一つの微塵の中において、仏は自在力を現じ、神変することもまたかくの如し。
諸仏及び神力は、盧遮那の示現したもうなり』
(華厳経盧遮那仏品 第二之二)

一粒の微塵の中に巨大な仏国土が存在している。

これに対してヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス
『「一瞬が永遠にもなるということを知ってるか?これはなぞなぞなんかじゃないんだぞ。事実なんだ。
ただし、お前がその瞬間に乗って、自分の全体性をどの方角へも広げていけるようにそいつを利用すれば、
の話だがな」』
(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

さらにドン・ファン、
『いまこの瞬間、お前が不滅というものに囲まれているのがわかるか?そして、お前が望みさえすればその不滅というものを利用できることを知ってるか?』
(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

ドン・ファンは、一瞬が永遠であることを示し、それすらも利用できることをほのめかす。この言葉に続いて彼は、自分の全体性をまとめて、肉体という境界を越えて出ることすらもできると言う。

自分の全体性とは本尊のことであり、アートマンのこと。一即全、一瞬即永遠とは、無味乾燥な戯言にも聞こえるが、そこには体験とはいえない体験の裏打ちがある。

肉体から出ると言ってもヘミシンクのことではない。神人合一を見ているわけだ。

例の広島県三原の隠遁者エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父も華厳経のことは評価していたようだ。

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絶対に行けない世界の非公開区域99

2017-02-27 05:31:41 | 時代のおわり
◎伊勢神宮

絶対に行けない世界の非公開区域99(ダニエル・スミス/日経ナショナルジオグラフィック社)の中に伊勢神宮が入っている。

絶対に行けない世界の非公開区域のほとんどは、本当に誰も行けないわけではないが、誰かは入っていて、普通の人は入れませんという場所である。

エリア51とかエアフォース・ワンと並んで我が国の伊勢神宮が入っている。伊勢神宮は、誰でも入れるが、昔は、私幣禁断であって、平民や侍でも勝手に拝むことはできなかった。いまや往年の鬼畜米英の人でも入れてしまうオープンぶり。

そのわりには、歴史上天皇陛下ご本人の伊勢神宮参拝はまれだった。

さて正殿には、一般人は入れないので、ここは一般にいけない場所ではある。

地上にはこのようなフロンティアがとても少なくなった。エベレストですら相当近くまでヘリコプターで上がり、女性や老人までがんがん登れるようになった。

人間は、未踏の異次元の世界を踏みしめたいみたいなどと単なる好奇心から入ると神々に地上に叩き落されるものだ。でも少々の好奇心がないと、そうしたものに取り組みたいなどとは思うまい。

それは、異次元や異世界への憧憬から始まるのかもしれないが、最後は自分自身を投げ出し、捨てるので、オープンマインドでありながら恐怖と苦悩が立ち現れるシーンがクライマックス直前に待ち構えている。

そこから先は現代世界の常識的中有的現実感を超えた世界だが、そこを進めなければ、解脱はない。あらゆる自分の世界が崩壊するかもしれないと聞いていたとしても・・・・。
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一休正月にしゃれこうべを見せて回る

2017-02-26 07:22:32 | 丹田禅(冥想法8)
◎目出度い めでたい

目出度い正月に、一休は、どこかの墓地からしゃれこうべを拾ってきて、それを竹竿に刺し、それを京都の町の家々の門口ににょこにょこと現れてはしゃれこうべを差し出し、「ご用心、ご用心」と言って回った。

これを咎める人に一休が解説するには、

めでたいことの始まりは天の岩戸開きというが、このしゃれこうべ以上にめでたいことはないとし、歌を詠んだ。

にくげなき このしゃれこうべ あなかしこ
目出度かしく これよりはなし

これを見よ。目が出ていた穴だけを残しているのを目出度しというのだ。人は皆それぞれにしゃれこうべになるとは知っているようだが、明日何が起きるかわからない身の上とは自分のことだから「用心せよ、用心せよ」と思うのだ。

空とは、人間の肉体も命も滅びがあること。人間に永久不滅はない。例えば金があるから大丈夫、権力があるから大丈夫と思う人は、表には出さないように心がけているかもしれないが、それを失ってしまうことに不安で汲々としているものだ。

人間は一皮むけば孤独で寄る辺ない。絆とは最近言われるが、その病気や死や老いを他人が代わってやることはできないので、絆が万能であるわけではないし、親切な家族がいたとしても、本質的な孤独には変わりなく、死もいつか訪れる。

一休は、シャイなので、こんなパフォーマンスをするとは思えないが、死の本質を見通す一隻眼を持ってもらいたいと思っていただろう。
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カンタベリーの聖トマスの奇跡

2017-02-25 06:22:03 | キリスト者の秘蹟
◎たましいにとってなんの役にもたたない奇跡

カンタベリーの聖トマスは、トマス・ベケットのことであって、12世紀にイギリスのヘンリー2世のもとで宰相までやったが、後に聖職者に転じた。

1162年カンタベリー司教となったが、1174年王との対立から王の差し向けた4人の騎士により、カンタベリー大聖堂の祭壇上で、首を刎(は)ねられた。

以下は黄金伝説から。
『イギリスに、身勝手なよろこびのために、というのは、もっと美しくなりたいとおもって、眼を入れかえたいと願っている女性がいた。

そのために、願かけをして、聖トマスの墓にはだしでもうで、望みをかなえてくださいと真剣に祈願した。ところが、祈願をすませて立ちあがると、眼が見えなくなっていた。彼女は、すぐにたいへん後悔して、聖トマスに、べつの眼ではなく、自分のもとの眼をおかえしくださいとたのんだ。これは、そう苦労しないでかなえてもらうことができた。』
(黄金伝説 1 ヤコブス・デ・ウォラギネ/著 人文書院 P163から引用)

さらに、
『生前の聖トマスにたいへんかわいがられた人があって、ある日、病気になった。彼は、きっと治してもらえると信じて聖トマスの墓にもうで、快癒を祈願した。すると、たちまち健康なからだになった。

しかし、家に帰ってから考えてみると、肉体の健康は、ひょっとするとたましいの障害になるかもしれないという気がした。そこで、その人は、ふたたび墓にもうでて、自分の健康がたましいにとってなんの役にもたたないのならば、どうかまた病気にしてくださいと祈った。すると、即座にもとのように病気になった。』
(黄金伝説 1 ヤコブス・デ・ウォラギネ/著 人文書院 P164から引用)

病気が治ったのは奇跡かもしれないし、プラシーボかもしれない。どちらにしても願をかけて実現したのだ。

けれども、その現世利益な願望の実現であっても、いつかその喜びは薄れ忘れ去られ、老いと死の恐怖の中に取り紛れていく。

元のように病気になった人物こそは、奇跡は起きたが、その意味することに気づき、奇跡が起きないところに戻したかに見える。でも本当のところは、何も特別な奇跡が起こらなくても、彼が生きていること自体大きな奇跡だと気がついたということが大きい。

黄金伝説らしい、口当たりの良すぎる逸話である。
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東方三賢者

2017-02-24 05:07:12 | キリスト者の秘蹟
◎それぞれの名において彼を支えよう

日本でも、街の「神様」と呼ばれる霊能力者、呪術師はいる。近世欧州のこうした街の老女のプチ呪術は病気癒しに用いられたが、こういうのは、「老女の繰り言old wives tales」と呼ばれた。

『また代替療法として、人骨、それもできれば地中か
ら見つかった頭蓋骨を砕いた粉末も用いられたようだが、この治療では幼な子イエスを祝福した三賢者に関連する、次のような呪文が唱えられた。

カスパールが没薬で
贈り物を始めると
次にメルキオールが
乳香を届け

そしてバルタザールが黄金
をもたらした

今や彼は聖なる諸王の王
それぞれの名において彼を
支えよう

降りかかる病など、
キリストの恩寵により
恐れるいわれもまるでない。』
(魔術の人類史 スーザン・グリーンウッド/著 東洋書林P161から引用)

三賢者の出典たるマタイ伝には賢者の人数も名もない。だが西欧中世からイエスに贈り物をした東方三賢者の名は、メルキオール(黄金。青年の姿の賢者)、バルタザール (乳香。壮年の姿の賢者)、カスパール (没薬。老人の姿の賢者)が充てられているという。

こうした浮き浮きするエピソード、それも大きく展開するスペクタクルの最初には大きな力が宿っている。それを感じて、病気治療に応用しようというもので、それなりに理にかなったところはある。

生まれてまもないイエスは、大悟はしていない。頭頂の封印を切りに来る高級神霊は2、3人だそうなので、東方三賢者は、そのイメージでもある。

プレゼントを持参し、頭頂を見に来たということはあるだろう。
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ベン・シラの智恵-5

2017-02-23 05:26:30 | キリスト者の秘蹟
◎自分の手に負えないことを詮索するな

旧約聖書の外典・偽典に分類されるベン・シラの智恵から。いつもながら、人生経験を相当に積んだ人物だけが持つ洞察が並ぶ。

『二一 自分に難解すぎることを追求するな。自分の手に負えないことを詮索するな。

二二 きみの領分と定められたこと、それについて思索せよ。隠されたことはきみには用はない。

二三 きみの職分に過ぎたことにかかわるな。きみは
人間どもの理解を越えたことを示されたのである。

二四 多くのものが自分の観念によって惑わされ、悪しき空想が彼らの判断を誤らせた。

二六 かたくなな心は最後がみじめである。危険を好む者はそれによって命をおとす。

二七 かたくなな心は重い難儀を背負いこみ、罪人は罪のうえに罪を重ねる。

二八 思いあがった者にふりかかる災難には手の施しようがない。彼のなかには悪の樹が根をおろしている。

二九 悟りある人の心は格言を解し、注意深い耳は賢者の欲するところ。

三〇 水は燃える火を消し、施しは罪を償う。

三一 恩を返す者はさきざきまで記憶される。転んだときには支えを見出すであろう。』
(聖書外典偽典2 教文館P91から引用)
(二五は最初から抜けてます)

人は、日夜マスコミやメディアの流すニュースにより、そもそも彼らに必要のない不幸なニュースを受け取り続ける。火事、交通事故、政争、暗殺、他国の天変地異、芸能人・有名人のゴシップなど。

どんな情報でも断片だけを伝えられたのでは、全体像を見誤るものであり、マスコミ情報は全体像のすべてを伝えていることはむしろ少ないものだろうし、様々なマスコミ特有の制約のもとで出されてきた、いわば断片的な情報であるだろう。

一方身近で他人の深刻な不幸不運な情報を耳にすることがある。しかしそういうものですら、ほとんどの情報は、自分が知る必要のない情報である。

まさに『自分に難解すぎることを追求するな。自分の手に負えないことを詮索するな』である。

こうして世には、ちょっと不幸な気分が蔓延し、他人の幸福はねたみ、他人の不幸は慶ぶという、地獄の住人的な卑しい品性の人ばかり増えるということになっている。

スマホには始終こうした類のゲスな一行情報が流れ込み、こうしたニュースで作り挙げられたかたくなで悪しき観念世界に生きる人には、しばしば『悪の樹が根をおろ』す。
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自分自身を笑う日

2017-02-22 04:02:00 | 現代冥想の到達点
◎目撃者であることも捨てる

気温の日較差が20度もある日が、3日くらい続いている。こうした日々は精神の日較差も大きくなりがちである。

『他人を笑う限り、あなたは目撃者ではない。自分自身を笑う日、あなたは目撃者になる。その日からあなたは目撃し始める。』
(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社p230から引用)

さて目撃者とは見ている自分のことである。見ている自分は、シャーマニズム、チャネリングをやる霊能力者において、神仏と合一できない決定的な原因となるので、最後はそれすらも捨て去らねばならない。

ここでは、それとは逆に、見ている自分を最後まで持っていなさいと言う。

見ていられるかどうかが問題になるのは、世界の裂け目に直面した時である。ああ、だめだ。こんなひどい、ありえない状況には耐えられないと、自分の内に退行した場合、精神を病み、自殺にまで至る場合もあり得る。

あるいは死が発生した時、次々に自分の宇宙が崩壊していく。たいていの人はその目撃者を続けることはできず、無意識になり、中有に至るまで感受性は低下し、起きたことをダイジェストし、三途の川を渡ったなどと云う。

自分自身を笑うというのは、何にも侵されることのない自分を知っているということで、見神、見仏、見性のことを言っているのだろうと思う。

そして最後に世界が逆転しても笑えるのは、ダンテス・ダイジで言えば老子狂言の世界である。OSHOの講和には、古代ローマで身体をバラバラに刻まれながら神聖な態度を崩さなかった女性殉教者ペルペトゥアの言葉が残っているが、それと似たように最後刑死していく中で聖なる言葉を語るイスラムの殉教者のこともよく出てくる。

彼らこそ世界が逆転しても笑える人たちである。そういう厳しいシチュエーションは、オリエントから西の聖者であって、日本、中国では、対照的に酒瓶をぶら下げながら半酔で、街をぶらつく聖者を見ることができる。

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副守護神とエーテル体の近似

2017-02-21 04:39:58 | 古神道の手振り
◎神憑というトランス

出口王仁三郎は、人間の守護神を3分類している。曰く、我が魂の本体は、本守護神。本守護神とは、クンダリーニのエネルギーコード(大神の直接内流)につながった個別な魂のこと。
これを常時エスコートしているのが、善玉である正守護神であり、悪玉である副守護神

副守護神については、ザ・ジャンプ・アウト215の記事で、アストラル体に分類していたが、肉体にあまりにも近いことを考えれば、副守護神とはエーテル体のことではないかとも考えられる。

副守護神の悪玉扱いは、「神的」という視点からすれば、肉体に近いがゆえに悪玉分類だが、肉体生命の維持に必須の機能も有しているので、単純に排除という方針をとるわけにもいかない。

さてエーテル体とは、肉体では検出することはできないが、針灸で用いる経絡図の経絡をそのまま抜いてきたような形状であって、傘の長い骨状。

一方副守護神のことをまとめると、
1.肉体の睡眠中は副守護神がその精神の支配を任され、これが夢として認識される。

2.出生直後から幼児期は、正守護神よりも副守護神の方が、本人のことをより強くサポートするものであり、また成長した後も、睡眠中は副守護神がイニシアティブを握るもの。


3.正守護神、副守護神とも、自分のついている人間が自分とは別のものであるという認識がなぜかなく、人間が自分のものであると信じ込んでいるがために、一生懸命その人間を守護するという。

もう一つ注目したいのは、神降ろし・憑依は、帰神・神懸・神憑(しんぴょう)に3分類されるが、この神憑(しんぴょう)の説明。

『3.神憑(しんぴょう)
 外部より、人件の肉体に侵入し罪悪と虚偽とを行うところの邪霊を悪霊または、副守護神というが、副守護神に侵入されたこの状態を神憑という。

チャネリング(交霊術)の達人には、神憑が多く、このような副守護神は、地獄の団体に籍を置き、人間の善霊を亡ぼし、肉体をも亡ぼそうとするもの。』
(霊界物語第48巻/出口王仁三郎/天声社から引用)

こういう説明をされると、副守護神のエーテル体説は揺らぐかもしれないとも思うが、さにあらず。意識の表面がエーテル体意識優勢となった状態であって、要するにトランスである。いわゆるローレベル・トランスの一種がエーテル体意識優勢のトランスであり、出口王仁三郎は、これを副守護神に侵入された神憑の状態と見ているのだろうと思う。

副守護神は悪の属性をも有するので、神憑というトランスを世間的に見れば、「悪霊の憑依」と見えるというメカニズムではないかと思う。
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ダンティスの悪影響

2017-02-20 05:34:08 | 究極というものの可能性
◎神聖極まりない何かすら余計なもの

ダンテス・ダイジは、本人の発音では、ダンテスであり、ダンティスではなかった。以下のダンテス・ダイジの遺作の一つメディテーション・トラベル・ガイドの一節では、なぜかダンティスになっている。

『ダンティスの悪影響

中国の臨済禅宗の開祖・(臨済将軍)臨済義玄は、ダンティスの霊系に属する分身の一人だったが、こうしたダンティス・ケンタウロスの系流が、その逆説的な表現ゆえに、多くの誇大妄想狂やデカダンスやニヒリズムや野狐禅者を生み出してしまう結果になったのは、各時代に現れたダンティスの分霊分身達の言動の悪影響としての社会的な事実である。

これは、ダンティスの教示が、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめることからくる誤解であるが、ダンティスの系流は勿論誤解や悪影響など知ったことではない。

 ダンティスは方便を好まない。ダンティスは聖者を好まない。ダンティスは人間的人格性と人間的努力を認めない。何故なら、こうしたものは、常に人生を「あるがままである」ということの真意から遠ざけることになりやすいからである。

それ故、無数の時代の無数のダンティスたちは、常に戯れるものとして生きた。ダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済・・・・・・。彼等は、本質的には己の真実を生きただけであって、宗教などという神聖極まりない何かすら余計なものであったと言うべきである。』
(メディテーション・トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

この文章を最初に見たのは30年も前になるだろうか。あの黄砂舞う河北省の寒村で活躍した臨済が、喝一本でもって衆僧を驚かせては普化にきりきり舞いさせられていたが、彼もダンテスの系流だとダンテスは指摘していた。

当時ですら冥想は日常生活に根付いていたとはいえず、それは現代においても変わらない。冥想なしで、このバランスを崩しながら進む時代に適応してまともに生きられるかといえば、それは相当に頑張らないとダメだし、頑張ってもダメな人も相当いて、そんな人は退行したり薬物治療の厄介になったりしている。

その時代と人間のアンバランスぶりが、普通に学校や職場や街頭で見られるようになったというのが30年前と今の違いというところだろうか。

方便なしで悟りそのものを生きるにはまず悟らねばならないが、既に悟った者にとっては、悟った人と悟っていない人の差などないから、こうした表現の仕方となる。だが、悟っていない人が、人生あるがままなどと言ってわがまま放題に生きたり、冥想はよいものだとして洗脳や願望実現に用いたりすると、いろいろな人生上、社会上の悲劇を引き起こしまくる。

冥想の可能性は無限であるがゆえに、未悟の者こそその対応には慎重であるべきだと思う。
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ブログ開始満12年

2017-02-19 06:17:10 | 時代のおわり
◎わかってきたこと

ブログを開始してから満12年を迎えた。コンサートでは、聴衆の皆さんが素晴らしかったので、演奏も良かったなどというが、ブログも読者あっての記事である。

最初の頃は、意外にものを知らない自分に愕然とすることが多かったが、今となるとむしろほとんど何も知らない自分のことがもっとわかって来たというところ。

このブログは、内容的には、自分の求道方面における私的メモなのだが、まとめの一つである「悟りとはなにか」と「ザ・ジャンプ・アウト」を出してからは、記事は書きやすくなった。

最近「ザ・ジャンプ・アウト」を読み返してみたが、見出しの快調な進み方とは裏腹に、内容はなかなかさくさくとは行っていないことに気がついた。もともとこの分野はそう簡単に進めたら誰も苦労はしない分野である。

だが、ブログを始めた2005年では絶対に書けなかったことが今なら書けるというものはある。

OSHOバグワンは、2005年には、没後ではあってもその熱気は生存しているが如く残っていたが、いまや過去の人のようだ。

クリシュナムルティは、その純粋さとその生きぶりの一徹さは、2005年当時にも理解されることは稀だったが、いまも同じ状況。

ダンテス・ダイジは、日本人であるせいもあるが、当時よりは関心を向けられてきているように思う。

出口王仁三郎は、最近は天皇家がらみで語られることが多くなったが、その宗教観の全容は、古神道の再興であって、鎮魂帰神という行法から出てくるところのクンダリーニ・ヨーガ風の世界であり、霊界物語がその本体である。ところが未だに教義の全容把握を大本事件の裁判資料によっているのは情けないように思う。

さて日本国の精神世界は数名で負っている訳ではなく、日本全国津々浦々の善男善女が負っているが、昭和以降は、出口王仁三郎とダンテス・ダイジの負うところは大きいように思う。

この12年で最大の天変地異は、東日本大震災だった。これは、地震津波被害以外に原発災害を伴うもので、政府とマスコミ報道、政治のあり方、利権誘導と地方など各方面に問題提起をしたが、千年に一度の天災でありながら半分は人災と言われるからくりを多くの国民が気がついてしまった。そして文明生活が停電や断水などで途絶するとは、こういうものだというリハーサルを奇しくもやることになった。

3.11以前は家庭の食料・水備蓄は3日分と言われていたが以後は7日分に変わった。

不滅の神国日本は、青森から千葉にわたる海岸線を津波に急襲され、これは、出口王仁三郎の一連の予言に影響が出るほどの天災(一部は実現した)であるという印象を持った。

2000年以降の日本社会の世相は、ITの進展と生活への浸透とは裏腹に悪がさらに発達してきたという側面は見逃せない。要するに生活の表面はよりスマートになったが、内実は貧困と悪の相乗でもって、より地獄的になってきたということ。

まともな宗教ももちろんあるのだろうが、組織宗教は金もうけの手段と仕組みになり、スピリチュアルの多くは人を騙して金をもらうテクニックとなっている側面もある。世間的にはまともな宗教の中にも実はカルト的な面があり、そうした中に本物のカルト集団も混在し、無垢で純粋な素人には、何が正しい宗教、スピリチュアルなのか見分けのつかない時代になって久しいのではないか。実はそうなっていたのは、1990年代からではないかと、最近になって考えるようになった。

オウム真理教事件は20年以上を経過。これが世間の組織宗教離れを決定づけたと思う。だが、こうした宗教的にノンポリの個人には何も冥想法のガイダンスは与えられていない。そこが時代のニーズではある。

人は正しいものなしには生きられないし、正気でない状態をいつまでも続けることはできない。ちょっと異常であることが、この時代に適応するコツではあるが、そうしたノーマルでない状態が、いつまでも続くものではないと思う。

この12年ご来訪いただきありがとうございました。歳星である木星は12年周期ですが、これが一周し、明らかに変わった部分があります。もうひとつ別のシリーズを始めようと考えています。

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夢窓国師の大悟まで

2017-02-18 06:31:57 | 丹田禅(冥想法8)
◎思い上がりがあっては悟れない

日本の禅カルチャーの源の夢窓国師。夢窓国師は、20歳で建仁寺で出家し、翌年の冬鎌倉の建長寺に入学した。

最初一山国師に師事し、禅語録を読みふけった。ある日、万寿寺の仏国禅師のところに入室参禅し、禅語録の内容を説明してくれと頼み込んだところ、仏国禅師は驚いて、「禅語録の内容は説明できないし、自分で悟らなければいけない」と答えると、

夢窓は、「どんどん読書していけば、自然に悟れますか」などとなおも云うので、

仏国禅師「悟りたければ自分で究わめよ」、と。

以後、夢窓は、白隠みたいに全国を行脚し、深山幽谷でも坐禅した。

ある日、仏国禅師が別れに際して、求道者が世間と出世間を毛先ほども区別するところがあれば、その人は悟れないと教えてくれた。

要するに出家僧をやっていることに、出家は偉いんだみたいな毫毛もの思い上がりがあっては悟れないということ。

これを聞いてただぽかんと坐るだけの日々が続いたが、ある夜、大悟して、仏国禅師の教えが本当だったことを知った。

夢窓国師は旅フリークで、集団坐禅でなく一人坐禅だと殊更に言われるが、いまは個人個人で分断された生活が普通なのだから、一人坐禅が基本で、たまにはグループ坐禅もあるというペースの方が多いのだろうと思う。

禅では、その密儀は、教えられるものではないが、大悟後の感激のインタビューの中に教えてくれなくてありがとうという感謝の言葉が入ることがある。それは、もちろん教えられないが、ヒントも教えてくれない方が、その歓喜は大きいということなのだろう。
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ヘーラクレースがわが妻子を殺す

2017-02-17 05:38:39 | 現代冥想の到達点
◎英雄も気が狂う

ギリシア神話の英雄といえばヘーラクレースだが、冥界から帰ってきたヘーラクレースは、知り合いを見分けることもできなかったし、自分の名前も失念してしまっていた。

そのうえ彼の妻メガラーとわが子3人を仇である人々と誤認し、子の一人をこん棒で撃ち殺し、残り二人は射殺し、メガラーをも矢で殺してしまったという。

この話は、単に冥界のような深い無意識に入った場合、人間は、見当識を失い、自分のアイデンティティも忘れ去るシーンがあることを言っていること。あるいは、死の世界に入る修行法によって死の世界に入った場合、生還の後はしばし自分が誰であるかもわからない状態になることのどちらかを示しているのかわからないところがある。

悟りというピーク・エクスペリエンスにおいては、大徳寺の大燈国師のように、乞食を9年やらないと戻らない状態になったり、荘周胡蝶の夢のようにまったくどちらの状態も真の現実であって区別のつかない状態になったり、そうした社会的には危険な状態が隣り合わせになっているということなのだろう。

ギリシア神話では、アテーナーが目覚めの石を彼に投げつけて深く眠らせ、容易には目覚めなかったという。
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プロメテウスの解放

2017-02-16 05:35:35 | 冥想アヴァンギャルド
◎火力文明の終焉

不死なるプロメテウスは、ゼウスを騙して人類に火を与えたかどで、大岩に縛られ串刺しにされ、毎日肝臓を大鷲に食べられるという責め苦を与えられ続けている。

この苦痛は永遠ではなく、解放される日が来た。英雄ヘーラクレースが、その大鷲を矢で殺したからである。彼が岩に縛り付けられていたのは奇しくも三千年。

火力を用いて救済がないのが、三千年
火力を用いても責め苦のない時代、至福千年がその後に続く。

大鷲はそれまでの世界のシンボル。それまでの世界が死んで、初めて新時代が到来するのだ。

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クンダリーニと神話

2017-02-15 05:34:31 | クンダリーニ・ヨーガ
◎リビドーの変容

クンダリーニ上昇の秘儀において、クンダリーニのエネルギーコードは、背中のチャクラから外れていき、脱身し、アートマンを目指し、「なにもかもなし」へと進む

クンダリーニのエネルギーコードは、燃える火として表象されるが、錬金術などのシンボリズムでは、スワジスターナ・チャクラの三角の炉の下方にいるとぐろを巻く蛇ともされる。

古代インド・ペルシャのソーマは飲み物ではあるが、その実、火でもあり、最初は飲み物だったが、火に変容した。ギリシア神話のプロメテウスは火を奪い取るという形で、一歩進んだ。

蛇は、もともとリビドーであり、蛇が火に変わると、火は英雄を生む。英雄とは、自由と無限の力を持ち、遠方に旅をすることから脱身のイメージではないか。

英雄の誕生周辺では、母なる死からの再生を伴うものであり、クンダリーニ上昇プロセスにおいて、肉体死と同時に脱身が起こるとは、死を経て再生する英雄のイメージそのものである。

更に太母から自由になるシーンが待望される。これは、アートマンそのものが中心太陽に突入しモクシャとなるくだりだが、アートマンそのもの、自我いや全宇宙なる自我を犠牲に捧げないとこれは起きない。

著名神話のプロットは英雄と神々の死と犠牲、再生、困難との闘いが散りばめられているが、神話こそは人間進化の最重要のテキストでないはずはなく、順序とシンボルの意義を悟った者だけが、英雄の自己犠牲の彼岸に到達できる。
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買い物とプチ洗脳

2017-02-14 07:12:07 | マインド・コントロール
◎何かとやたらに人をはまらせる世界

ジョン・ブアスティン(Jon Boorstin)は、映画は情動の三つの異なるレベルで訴えかける、すなわち本能(原初的情動:スリル、破壊、セックス、残忍、恐怖、嫌悪)、代理(その行動を眺め観察している自分)、のぞき見(新しく素晴らしいものを発見したがる詮索好きな観察者)だと指摘している。

これに対してドナルド・A・ノーマンの三つのレベル、本能、行動、内省は上記の3レベルに対応していると主張する。

ドナルド・A・ノーマンによると、この3レベルは情動に関する脳機能の3レベルであって、以下のように刺激され得る。

本能:自動的生来的機能→外観から刺激
行動:日常の行動を制御する機能→使うことの喜びと効用から刺激
内省:熟慮機能→自己イメージ、個人的満足感、思い出から刺激
(以上参考:エモーショナル・デザイン/ドナルド・A・ノーマン/新曜社)


こうして見るとよくできた印象的なコマーシャルは、この三つを兼ね備えているように思える。

コマーシャルで情動を起動させられ、その製品を使うことで、機能を再確認し、使った・消費したという体験は、思い出となり潜在意識の水底にしまい込まれる。

こうしてその製品は再度購入されることを期待できるようになる。

しかし、そのコマーシャルに揺り動かされた買い物って、プチ洗脳ですよね。そういう目でみると、テレビというのは、極めて洗練されたプチ洗脳手法のオンパレードであって、一日に30分以上も見れば、頭の中は既にテレビ次元の世界に生きるバーチャル・ヒューマンになっていること疑いなし。パーフェクト・ヒューマンではなくて、夢想の世界に生きるバーチャル・ヒューマン。

現実世界は一時的に意識の視野から消え、一時的に出したヴァーチャル世界で注意力が活動し、まず注視、次に買い物、最後に消費へと誘導される。

ポイントは、注意力を固定させず、次から次へと、彼の意識の中では「合理的」に動かしていき、目指す行動へとはめ込んでいくこと。

こうしたプチ洗脳の結果は、『むだ使い』という結末を招く。
モバゲーなども注意力の誘導という点では似たような洗練された手法に進化してきている。

こうして何かとやたらに人をはまらせるのは、求道的にみれば、人間本来の感じ方、あり方を忘れさせ遠ざけさせる邪境とも言うべき世界だが、もはやそういう世界になっちまっている。
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