アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

インナーラビリンス/ナルタン/めるくまーる

2016-11-30 03:52:32 | 現代冥想の到達点
◎バグワンの高弟たち

バグワンものの訳者として知られるナルタンさんの冥想修行記。

大手出版社からは、神秘体験のところを問題にされてお蔵入りだったのが、めるくまーる社から出ることになった由。一読したが、問題になるような神秘体験の記述はなかったように思う。

がらくた神秘体験ものの本は世の中に多いが、まじめな求道者のそれは知っておく価値があるのではないか。究極の神秘体験は、「体験とはいえない体験」であり、その神秘体験について大手マスコミは勿論敏腕記者も文豪も、大聖者も表現する術を持たぬ。

ナルタン女史は、草創期のバグワンの弟子のひとりであり、かの有名なマニーシャは勿論、実力者のラクシュミやシーラとも知り合いだった。さらに光明を得た21名にも入ったそうだし・・・・。

彼女はもともと霊媒体質のようではあったが、ビジョンで見えるタイプではない。ただしバグワンからテレパシーで指示があったり、バグワンがアストラルで飛来してきたりと十分にバグワンの高弟のひとりといえるのではないかと思った。

とても冥想に熱心に取り組む姿勢がある。

日本での生活を捨離し、アメリカでの生活をも捨離し、完全なる出家者としてインドに渡った。そうした環境の作り方こそ、十分に準備ができている人物であるといえる。

バグワンについていえば、集団が初期の頃は、一人一人の準備のできている弟子についてはとても親身に面倒をみていたようだ。ところが何千人もの大所帯になると、彼自身の体調不良もあってか、それまでの熱意は一歩引いたものになっていった印象がある。

質問すれば教えてくれるけれど、必ずしも質問者本位でなく、人間本位でもなく、神本位な教え方と言おうか。

バグワンの講演集のシリーズには、秀作もあるが、冗長すぎて全部読み切れないのがいくつかあった。昔は、そういうのも我慢して?一生懸命読んだものだった。

バグワンと個々の弟子の関係は、確かに一度コンタクトのあった弟子はそれなりに大切にしたに相違ない。だが、弟子には準備のできた弟子とできていない弟子がいる。それは如何ともしがたい。縁の濃淡というべきか。

バグワンの弟子の書いた作品はいくつかあるが、このインナーラビリンスは、最もまともな求道記録であるように思う。

彼女の過去世記録もあまり愉快なものではないがゆえに、過去世というものはそういうものなのだろうと思った。
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古事記言霊解通読-3

2016-11-29 03:32:22 | 古神道の手振り
◎正しい教え、誠の信仰

さて伊弉諾命は、黒御鬘(くろみかづら)を投げ捨て給うたところ、誠の教えの信仰の若い信者が出てきた。ところが追ってきた黄泉醜女はこれを拾って取って食らうという挙に出る。

この妨害行為にたまらず伊弉諾命は、今度は御角髪(みみづら)にまかせる湯津津間櫛(ゆづつまぐし)を引きぬいて、世間に正しい教えを宣伝したところ、箏(たかむら)という上流階級の貴紳の理解を得るようになった。ところが黄泉醜女軍団は、これをも抜いて食べ、この試みをも亡きものにしようとした。その隙に伊弉諾命は逃走を続けた。

さて、正しい教え、誠の信仰と気軽に使っているが、ある宗教教団が無条件に正しいと言えることはなく、またずれたような教団でもちゃんと神仏に出会った正しき人は時にいるもの。また一方で万教同根と云い、宗派を問わず正しい教えはあるものだという主張もしている。

よってその教えが正しいかどうかはその人次第ということでもあり、加入している教団が正しいかどうかは、神仏がどういうものかを知らない本人には見分ける術はないということでもある。また正しい教団でも正しからざる信者もいる。


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古事記言霊解通読-2

2016-11-28 05:24:55 | 古神道の手振り
◎世の上流から下流まで濁りきる

古事記では、腐敗した伊弉冊命(いざなみ)の死体に巣くう神々の名を挙げるが、これらはいずれもこの火力文明の暴虐のシンボリックな説明になっている。

この惨憺たる有様にしびれを切らした伊弉諾命(いざなぎ)は、自ら黄泉の国に入り、伊弉冊命に改心せよと直接談判に臨むが、彼女はここでもう食事をしたので改心できないと申し出を拒絶した。よくよく彼女の姿を見ると、頭にも腹にも胸にも女陰にも手にも足にも悪神が巣くい、手の付けようがない状態である。つまり世の中の上流から下流まで嘘と虚飾、メリットデメリットだけの強欲な悪人、偽善者ばかりとなり果てていた。

世界のゴッドファーザーたる伊弉諾命のお出ましに、各国首脳たち(黄泉神)は鳩首して今後の方針を議論するが、なかなかまとまらなかった。

結局、世直しをしようとお出ましになった伊弉諾命のことを、その妻たる伊弉冊命(いざなみのみこと)は、汚いところを見られ恥をかかされたと逆恨みし、黄泉醜女(よもつしこめ。世間の人の9割がたは黄泉醜女の如きもの)を派遣し、追手をかけたので、このような社会全体の矛盾撞着に神様も驚いて跣足(はだし)でお逃げになることになった。
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古事記言霊解通読-1

2016-11-27 07:19:30 | 古神道の手振り
◎伊弉冊神(いざなみのかみ)火の神を生んで亡くなる

古事記言霊解(霊界物語第八巻)は、何度も読んだつもりだったが、読み始めると個々の字義や言霊の説明に気をとられ、全体の流れをなかなか汲み取ることができなかった。

まず伊弉冊神(いざなみのかみ)が最後の出産で、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだことで亡くなる。迦具土神は火力文明たるこの近代西欧文明のシンボルであって、火力がこの文明の交通機関、戦争兵器、生産機関などのメインとなることを云う。それによって本来の健全な地球の姿が失われ、滅亡に瀕したことが、伊弉冊神が出産で亡くなったことで表象される。

伊弉諾命(いざなみのみこと)は、彼女の死体を生気がないか日本魂が残っていないかと調べてみたが、ほとんど生命のないことを確認した。このことで世の中に、暖かみはなく冷酷さが蔓延し、しかも道義心、公徳心が失われたことを大いに泣き悲しんだのでこれを泣沢女神(なきさはめのかみ)と呼ぶ。

以後、伊弉冊神は悪神の代表として機能する。

神去(かむさ)りました伊弉冊命は、死人として出雲の国と伯耆の国の境に葬むられた。出雲は何処(いづくも)ということで、また雲出ずる国ということ。これは世の中のどこでも乱れきっているということ、害となる情報がどんどん流されるということ。

一方伯耆の国というのは、掃はきということで雲霧を掃き払うと云うこと。よって伊弉冊命は、善悪正邪の分水嶺に立ったということ。

このままではいけないと伊弉諾命(いざなみのみこと)は、わが子迦具土神(かぐつちのかみ)の首を十拳剣(とつかのつるぎ)で切って葬った。これは、戦争を以つて物質文明の悪潮流を一掃するということ。世界戦争は既に2回あり、大本事件は2回だが、物質文明の悪潮流は隆盛であるがゆえに、次の世界戦争あることが示されている。
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ダライラマ来日

2016-11-26 06:40:48 | 密教
◎慈しみと悲しみ

ダライラマが、来日していた。コンビニで紅茶を買ったニュースも流れていたが、オバマ大統領はダライラマと何度も会っているのに、日本の首相は会おうとしないのはなぜだろう。

国際的に有名な覚者で、現代日本の物欲主義ぶりにあきれて来日しなかったの人は二人いて、OSHOバグワンとクリシュナムルティ。なおクリシュナムルティは訳者の日本人と日本の空港でのトランジットの時に会ったということはあるらしい。

それにしても、こんな日本人を見捨てずに毎年来日されるダライラマは有難いことだ。一方マスコミがローマ法王の動静はガンガン報道するのに、難民たるダライラマ来日は報道しないのは、赤い国との約束のせいか。

さて櫻井よしこブログに「ダライ・ラマ法王14世が語った3つの事柄に対するコミット」という記事が上がっている。

第1は、70億人の地球人口の1人であること。
第2に、仏教徒であること。
第3は、チベット人であること

コミットとは、信条くらいの意味なのだろうが、この三つに通底しているのは、慈悲である。慈悲とは慈しみと悲しみ。悟りは通俗人間体験における喜びの一兆倍もの喜びをはるかに超える喜びであって、また一兆倍もの悲しみをはるかに超える悲しみであるというようなニュアンスでダンテス・ダイジは悟りの側面を語った。慈悲とは悲しみのサイドなのだ。

慈悲の慈しみの側面は、〇〇羽募金や、歳末〇〇募金でわかっているとする人も多いだろう。それは実は本当の悲しみから出てくるものでないと本当の慈しみにはならないと改めて考えさせられた。

本当の悲しみを受けいれるには人間のキャパがでかくないとね。だから釈迦やダライラマはすごいと思う。

道元などは、悲しみサイドはあまり得意でないようだ。
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こころを至上我へ合一させる

2016-11-25 05:37:27 | クンダリーニ・ヨーガ
◎グルへの帰依

ヨーガ経典の一つゲーランダー・サンヒターの最後の方に、
『こころを肉体から分離して、それを至上我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。これはダシャー等からの解脱と名づけられている』
(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平川出版社p131から引用)とある。

ゲーランダー・サンヒターでは、観想修行がメインなのだが、サマーディの説明の先で、突然至上我への合一が登場する。これは、グルへの帰依に基づき、グルの慈悲と恩恵により起こるということが意味深長。

個的ボディがあるのは、メンタル体までだから、脱身は、肉体からメンタル体で出てなどと露骨には表現しない。こころが肉体から出ると云う。

佐保田鶴治は、ダシャーを訳出していないが、忘我トランスのようなものとも考えられるとしている。ダンテス・ダイジは、こういうプロセスにおいても意識清明と説くので、この前段で忘我トランスであっても、そこを清明にはっきりしていなければならないのだろう。

ダンテス・ダイジが中心太陽への突入を説いた文を初めて見たときは、独自説かと思い、ただ目新しかったが、その後このような古代インド文献や道教やアイルランド神話出口王仁三郎の霊界物語などにこうしたシーンが記載されているのを確認して、その正当性に改めて思いを致したのだった。

※体外離脱には3種あるが、これは最も正統的なものである。
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釈迦の見る他人とのかかわり

2016-11-24 05:38:46 | 究極というものの可能性
◎真の聖者

釈迦の説く他人とのかかわり方は、以下のようなスッタニパータにみられるが、その姿は孤高であり。絶対的な孤独の影が差している。

勤勉であり、慎重であり、道心堅固なのだが、その姿は、戦後の新興?宗教の教祖に見られた、金満で、人格者で、周囲の取り巻きにより近寄りがたく、政治好きで、ファッショナブルで贅沢な私生活で、艶福家という姿ではない。

二度の食事は、信者からもらったものであり、少々腐ったり、量が少ないことにも文句を垂れない。そして生活スタイルの基本は、冥想であること。

『213 独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞讃とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

214 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。』
(ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)p48-49から引用)

釈迦の時代は聖者は、リーダーとして存在していたが、21世紀には聖者は、低所得で質素な生活の友人として登場する。
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物理的エネルギー、金、食料、寿命、そして心的エネルギー

2016-11-23 07:00:44 | 時代のおわり
◎余剰心的エネルギーの調整へ

物理的エネルギーとは、石油、石炭、そして原子力が主たるものだが、先進国は後進国や、150年前の先進国の1千倍を消費するとする。先進国においては、その物理的エネルギーは、生存のために使われるのはごく一部であり、大半は、ぜいたくな生活のために消費される。先進国では当たり前とされる、冷暖房、洗濯機、テレビ、電子レンジ、マイカー・・・・。

原爆ができてからは、兵器のメイン・ストリームは核兵器となり、エネルギーは、人類の自殺のために用いられることが当然の世界ともなった。

金も人類の生存のために用いられるのは、全体のごく一部で、為替相場の変動理由を聞くとよく出てくる実需というのが、生存のための部分。生存目的以外の金は、実需の20倍ともそれ以上とも言われ、これが投機。世界の金の大半は資金運用という美名のもとにゼロサムのギャンブルに投じられている。

食料の用途は原則食べるだけだが、21世紀になって穀物燃料で車を走らせるバイオ燃料が盛んになったことで、発展途上国と先進国の一人一日の食事エネルギー供給量の格差は広がった。一人一日の食事エネルギー供給量では、北朝鮮は2000kcalちょっとなのに、日本は約2800kcal、アメリカは、約3800kcal。

食料をガソリン代わりに使うのはバチ当たりな発想だと思う人は多いのではないか。でも本来食べられないものや普通には人が食べないで捨てている部分や材料から作られるサプリメントを食するのも逆の意味で怖いと思う。

こうして食料も浪費され、先進国が本来の必要以上に浪費している。

そして寿命。一人当たりのエネルギー消費量が高い中東産油国や先進国は、平均寿命が70歳を超えるが、一人当たりのエネルギー消費量が低い低開発国では、平均寿命が30台、40台の国はざらにある。このように先進国等では生活での高い消費エネルギーが長寿を支えてきたが、それもせいぜい平均寿命90歳までが頂点であることが見えてきた。

石油、石炭、原子力が長期間止まる大峠の時期には、それだけでも平均寿命は短くなるのだろう。

こうしてエネルギー、金、食糧の実質的な浪費で支えられている日本人は幸せかというと、貧困化が広がり、家庭は半ば崩壊し、限られた集中力は、マスコミや手許のスマホなどから無駄な情報の洪水と宣伝で浪費され、正気すらも脅かされている。

本来肉体の体力の余剰は心的エネルギーを増加させる。その心的エネルギーを人間の進化に向かわせようとするのが宗教の本義だが、この近代西欧文明は、エネルギー、金、食料の大量投入で高まった心的エネルギーのはけ口を金儲けやセックスや娯楽という平板なレベルのもので摩耗させ、本来もっと鋭敏たるべき感性を鈍麻させ続けている。これでは精神病者が大量に出るのは当然である。

余剰心的エネルギーには、本来流されるべきルートがある。それを調整するのが冥想。まともな社会はまず日々の冥想から。
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比叡山延暦寺の侍真

2016-11-22 05:20:38 | 究極というものの可能性
◎12年籠山行なるトランス

最澄の御廟である比叡山延暦寺の浄土院。浄土院を守る役目が侍真

侍真制度は江戸時代中期に成立。侍真には、希望してなれるものではなく、12年籠山行をして仏を見ないと満行とならない。これを仏の好相をみる行、すなわち好相行とし、浄土院の仄暗い一角で五体投地により、一日に三千仏、つまり三千回の礼拝を繰り返す。

すると釈迦を見たり、観世音菩薩を見たり、阿弥陀仏をみたりするのだが、これをもって満行とする。(出所:修行と信仰/藤田庄市/岩波現代全書P12-13)

トランスに入って見るというからには、見るという自分を残している。見神、見仏は、禅の十牛図でいえば、第三図。見神、見仏でも世間でこれを成し遂げた人は稀であり、世間では十分に評価される。

ただし、見るという自分がなくなった先もある。よって12年籠山行で仏を見た京都大原三千院の門跡堀澤祖門師は、自分のことを求道者と自称する。
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本来もなき古(いにしえ)の我なれば

2016-11-21 04:36:10 | 丹田禅(冥想法8)
◎罪の重い人間が仏になる

本来もなき古(いにしえ)の我なれば
死に行く方も何もかもなし
一休

禅門では、父母が生まれる以前の自分はどれかとか、見たこともないことについて無理な質問をしかける。その自分が本来の自分であるなどと講釈を垂れることもあるが、ここでいう本来の自分は、ここから来ている。

本来の自分とは、本尊のことでありアートマンのことである。

本来の自分を本来の位置で感得するには、意識を清明に持ち、意識レベルを低下させねばならない、とか言っている自分が残っているうちには、「本来もなきいにしえの我」には出会えない。

本来もなきいにしえの我をグリップして初めて、死んでいく方向もなにもかもないと言える。

またある人が言うに「毒薬は変じて薬になるという。だから罪の重い人間が仏になるのだろうか」と。

わりとそうかもしれない。地獄とは罪の多い人間が行くところ。この時代こそ地獄が現前しているとは一休の認識だからである。

地獄が深いほど、後の天国は高い。
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逃げるアタランタ

2016-11-20 07:17:01 | 錬金術
◎古事記の黄泉比良坂の桃

これは錬金術文書で有名な逃げるアタランタの話だが、出典は、ギリシアの変身物語。

西洋では、逃げる死を人が追いかけ、東洋では、死の世界から人が逃げようとする。

さて年頃になったアタランタは、自分の将来の結婚について神託を請うた。アポロンは、「結婚は避けるべきだが、結婚は避けきれないだろう。そして生きながら本来の自分をなくすだろう」と告げた。

これに驚いたアタランタは、うるさい求婚者たちを振り払うために、彼女と徒競走をして、負けたら死ぬこと、勝ったら彼女と結婚できるという条件を出した。

この厳しい条件にも係わらず、何人もの若者がこのレースに応募し、全員亡くなった。

ある日ネプチューンの子孫のヒッポメネスは彼女の美貌に負けて、この無謀なチャレンジに挑むことにした。彼はレースの前に必勝を女神ウェヌスに祈り、3個の黄金のリンゴを手に入れた。

レースでは、地力ではアタランタが圧倒的に有利だったが、勝負所で、ヒッポメネスが黄金のリンゴを投げる都度、アタランタがそれを取りに遠回りするという展開が3度あり、ヒッポメネスが勝利を収めた。

この夫婦は、女神ウェヌス(アフロディーテ)にお礼参りをしなかったことと、キュペレ神殿で不敬にもこの夫婦が一戦交えたので、キュペレ神殿の番をするライオンに変身させられたというオチが付いている。

これは、勝利を金で贖った科により、帰途その罰を受けたという読みが本筋だろう。チベット密教のマルパの秘儀伝授のチャンスを、準備のできていなかったミラレパが宝石で買って罰を受ける話があるが、それと同じ。

さて、アタランタは死である。人は、生死の違いを乗り越えねばならないが、古代ギリシアでは、生の側から死を乗り越えようとするが、チャレンジャーはことごとく死ぬ。

純粋な道心があって、三つのリンゴを持つ者だけが、それを成功させられる。リンゴのヒントはない。

これは、古事記で黄泉比良坂からの逃避時に3個の桃の実を投げて、逃げ切るのと同じ。

西洋では死を追い、東洋では死から逃げる。錬金術文書の表題は、逃げるヒッポメネスでなく、逃げるアタランタであるところを考えねばならないと思う。

出口王仁三郎では、三個の桃の実を大悟徹底、解脱とみる。
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正しく世の中を遍歴するには-2

2016-11-19 03:47:09 | 究極というものの可能性
◎ブッダのことば(スッタニパータ)

最古の仏典とされるのがスッタニパータの続き。

『367 修行者が、貪りと迷いの生存(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

369 かれにとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、ねがうこともなく、求めることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

371 信念あり、学識ある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

373 過去及び未来のものに関して(妄(みだ)りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

374 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる(生存を構成する要素)を滅しつくすが故に、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」

375 「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」』
(ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)p77-78から引用)

367以降は、すでに究極の境地を知った人間の姿であり、それ以前とは趣を異にしている。

ここで描かれている遍歴修行者の姿は、究極の悟りを携えながら、もろもろの悪いことを為さず、もろもろの善いことを行う、そして冥想修行を継続するという菩薩の生き様である。

373の『過去及び未来のものに関して(妄(みだ)りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり』とは、宿命通という超能力の存在を暗示する。

冥想修行により究極の体験とはいえない体験をしたとしても、現実の生活では社会的不適応なシーンがあるものだ。それに対して、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しみ、安らぎに帰すという努力も必要になるのだろう。

解脱の現実というのはそういうものなのだろう。
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正しく世の中を遍歴するには-1

2016-11-18 03:41:51 | 究極というものの可能性
◎ブッダのことば(スッタニパータ)

漢訳経典にはないが、最古の仏典とされるのがスッタニパータ。格調が高く一読して釈迦のオリジナル・テキストだとわかる。

『359 「智慧ゆたかに、流れを渡り、彼岸に達し、安全な安らぎを得て、こころ安住した聖者におたずね致します。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」

360 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。

361 修行者が、迷いの生活を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

362 修行者がかげぐちをやめ、怒りと物惜しみとを捨てて、順逆の念を離れるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固に実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘(ひ)かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

366 修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心にふくむことなく、他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。』
(ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)p75-77から引用)

このあたりは、ダイレクトに真理そのものに切り込むという内容ではなく、遍歴出家者の日々の心得みたいな段階。気持ちの持ち方、世の中の見方などが何気なく説かれている。

だが、実はこの辺が覚者が厳守している行住坐臥における精密なルールだったりするので、簡単に見過ごすわけにはいかない。
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悟りは体験ではない

2016-11-17 04:23:46 | 現代冥想の到達点
◎文字通りいつでも死ねる

ダンテス・ダイジが、「悟りとは、神秘体験ではない。悟りとは態度のことだ。」と語っているところがある。

この態度のことを、冥想者の日常的な態度である、
常に、素直であること
常に、正直であること
常に、情熱的であること。
常に、リラックスしていること
のことだと思い込んでいたが、そうではなかった。

いつでも悟りが到来する態度のことである。それは何度でも悟れるということ。何度でも悟れるというのは、2度目の悟りというピークエ・エクスペリエンスを待つ準備ができていないと2度目はないし、3度目4度目ともなるとさらに何回もの人生をかけた準備が必要となるだろうと思う。

ところがつらつら思い出してみると、まさに悟りの到来をいつでも待っているという態度を生きた人物がいた。それはクリシュナムルティ。

クリシュナムルティの冥想録をみると(講演集は別)、悟りがothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。

これに対して、道元は、天童如浄の下で最初の身心脱落し、2度目への憧憬が正法眼蔵という哲学書になったと見ることができると思う。

出口王仁三郎は、最初の死と称する高熊山の洞窟での死の修行が最初の悟り。以後、彼の死の記録にはお目にかからないが、彼は六度死んだという。死の体験後しばらくは体調が戻らないようなので、長期間寝込んでしまった期間を探れば、いつ死んだかがわかるかもしれない。

身心脱落、中心太陽への突入という2種の究極の悟り、最終解脱は、呼吸停止、心拍停止を伴うとされる。そしてそれは、何かの拍子に生の世界に戻らないことになるかもしれない。

悟りとは態度だということは、文字通りいつでも死ねるということであって、素直だ、正直だというたぐいの人格的なことでは全くないということに最近思い当たった。
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トマス・アクィナスの記憶と祈り

2016-11-16 04:58:12 | キリスト者の秘蹟
◎推敲なしの口述筆記と冥想

13世紀のトマス・アクィナスと言えば、博覧強記で知られる人物。彼は、ハードディスクもSSDもない時代に、膨大な聖書の四福音書のテキストデータを頭の中に保有していたらしい。

記憶データの入力については、トマス・アクィナスは若い頃、各地の修道院を遍歴したのだが、そこで読んだ聖書のテキストデータを記憶に保持していたらしい。

記憶には、記憶データの保存と保存位置のマーキング、そして想起という手番がある。

彼は、一度に3、4人の弟子の僧に対し、それぞれ別々のテーマの著作を同時進行で口述筆記させた。

彼は、論点を検討したり、整理したり、あるいは講義したり口述筆記したり、著作する前に、題材を理解し適切な言葉で表現できるようにと、必ず心の中でそっと祈りを捧げた。

記憶が彼の中にある宝物を繰り出すのに任せているように想起は起こり続けた。

これが証拠に、彼の後半生の著作について自筆原稿が残っていない。後半生は、口述筆記オンリーだったようなのだ。

記憶データを入力した順に想起するのは、無文字社会で、大部の叙事詩が残されている社会では、詩人といして出現する。それは例えばアイヌの叙事詩ユーカラであって、無文字社会には時々あること。だが、内容を組み替えて出すのはまた別の想起技であって、一段高度になるのだろう。

トマス・アクィナスは、悪筆だったそうだが、出口王仁三郎は達筆だった。推敲しない口述筆記は、出口王仁三郎もやった。口述筆記とは想起技だが、出口王仁三郎は口述筆記した霊界物語の内容を以前のどこかで記憶データとして保持していたわけではない。

この辺にも祈りあるいは冥想が、大きく著作の内容を創造することに関与していたことがわかる。これも冥想の効用。
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