アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

聖ドナトゥスのエクソシズム

2016-10-31 05:30:35 | キリスト者の秘蹟
◎別の出口を作る

聖ドナトゥスは、古代ローマのキリスト教の聖者。皇帝テオドシウス一世の皇女が悪霊に取りつかれてドナトゥスのところに連れてこられた。悪霊は、十字架から火が出るドナトゥスを恐れ、出口を作ってくれないとどこから出たらよいかわからないという。

聖ドナトゥスは、皇女に出口を作ってやったところ、悪霊は皇女の体から出て、教会の建物全体を震わせながら逃げていったという。

憑依には3種あるが、このケースはすでに憑依されていたので、ルートはあった。シャクティ・パットは口を作ることだともいうので、ここで作った出口はもともとあった口とは異なるものだったのだろうか。

またこの話には、この皇女が再び悪霊に憑依されなかったかどうかは書かれていないし、その後の彼女は幸福な人生を送れたかどうかも書かれていない。

聖人の奇跡譚ならば、これで十分だが、疑い深い現代人はこの話だけでは納得すまい。

大本教が大正時代以前に盛んにやった帰神という憑霊実験は、低級霊が多数憑依しさんざんだったし、最近ではオウム真理教の道場で似たようなことが起きていたことも伝えられている。

これだけあらゆる洗脳手法と余計な情報のある中で、こうした悪霊追い出し譚はもはや牧歌的とさえ思われる。霊能霊感のあることと悟りは全く関係ないことを熟知している現代人は、もはやこうした憑依霊追い出し話だけでは食い足りないだろう。

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洞窟での隔離実験

2016-10-30 07:19:35 | マインド・コントロール
◎ひきこもりと意識レベルの低下へ

感覚遮断実験では、過去惨憺たる結果をもたらしているが、これは、NASA主催の、洞窟で一人で数か月暮らす人の精神状態の安定などを見ようというもの。

これは1989年アメリカのニューメキシコ州のロスト・ケイブに4か月こもったフォリーニという女性の話、洞窟内には4百冊の本や外界と交信できるPCが持ち込まれ、感覚遮断実験よりは過酷ではない環境。

それでも一日の時間間隔が狂い、睡眠時間が長くなり、14時間睡眠し、一日が42時間にもなることがあったり、7時間のインタビューが1時間に感じられるようにもなった。

一日が長くなると食事感覚も長くなり50キロあった体重は40キロに減った。感情の起伏が激しくなり、怒ったり悲しんだり。思い浮かべるのは、地上の風景や地上の人のことばかり。いろいろな感触やにおいの記憶をよみがえらせ、想像の中でそれに浸り、いろいろな夢を見る。

そして、時間の感覚がなくなり、1時間前にした行動が1か月前にした行動かもしれないと感じ、時間間隔がなくなる。

この実験が終わった後、フォリーニは自分がもうこの世にいないような気がすると述べている。
(以上出典:命がけの科学者列伝/レスリー・デンディ/紀伊國屋書店)

意識はすでにトランス状態にあり、長期間洞窟に籠って観想修行するチベット密教行者と同様のレベルに意識の低下は進んでいる。ただ意識コントロールのテクニックを指導するグルが存在しないだけ、この実験は危険をはらむ。

そして孤独。

だから洞窟生活実験では被験者が時々自殺する。
洞窟でなくとも引きこもりの人がこうした意識状態にあるのは、よくあることなのではないか。

引きこもりの精神状態を研究するのも、この引きこもり大国日本の国益に大きく資するのではないか。

人口の三分の一は65歳以上となり、30歳以下の若者の5%は失業している。若者の失業は将来の中高年の失業である。

こうした就業環境が、引きこもり(2013年での内閣府推計で約70万人)、フリーター、若年無業者を増やしている。健全なライフスタイルでなければ健全な社会は始まらない。

マスコミも、引きこもり、フリーター、若年無業者の実態を知らしめ、皆で貧困を分かち合う社会にもっていかないと、貧困者が徒党を組んで富裕層を襲う治安の悪い社会が出現してくる懸念があると思う。貧富の二極化というのはそういうこと。治安の維持は警察だけの責務でなく、経済政策の責任でもある。

でも今の古いしがらみだらけの日本では、そんな社会の実現は夢物語だろうと思う。
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私にとってオウムとは何だったのか

2016-10-29 06:20:10 | マインド・コントロール
◎組織宗教の悪しき面の露見

「私にとってオウムとは何だったのか/早川紀代秀 川村邦光/ポプラ社」は、オウムの主要幹部早川紀代秀の回顧録。

オウム信者の回顧録は何冊も出ているが、不幸な生い立ちだったり、数奇な事件に遭遇したのがきっかけで入信した人物が多い中、早川は順風満帆な人生を送りながら純粋な求道心により入信してきた人物であるところは珍しい。

地下鉄サリン事件発生時に、彼は国外にいて事前謀議には加わっていないものの、坂本弁護士一家殺人事件の実行犯でもあり、教団内の多くの犯罪に関与してきたことを明かしている。

どうしてもオウム本は地下鉄サリン事件をピークに描くのだが、本書はわりに教団内で行われていた各種修行が体系的に記述されているので、そこについて気のついた点は次のようなところになる。

まず食事を少なく与え、栄養失調にしておいて、マントラ念唱、五体投地、結跏趺坐での観想など、体力、精神力の極限までの長時間修行をさせることで、思考力を奪うのはカルト教団の定番。ただし、まともな組織宗教でもそういう側面がないことはない。

冥想を長時間強制的にがっつりやらせたことは、それ自体はすごい部分があった。ただし、それに見合った覚醒者が続々と出たかどうかについては、世間もよく承知しているところである。

またこれだけ強制的にやらせると、精神のバランスを崩す人も相当数出るものだろうし、まともな教団ならば専門病院に送り込むところが、そうした人が初期には殺害されたりしている。その殺人が次の殺人を呼んでいった。

冥想修行は一気にいけるスーパーエリートみたいな人もいるのだろうが、ほとんどの人は行きつ戻りつで、人生上のバランスや精神面でのバランスをとりながら進むもの。怖いものはこわいし、できないものはできないというところはある。それができるようになる時節があるし、そこを調整指導するのが正師というもの。

それと「成就」と呼ばれる悟りと思われる基準がゆるいこと。魔境あるいは欲界定ぐらいのを「成就」認定していたことが描かれている。古来から悟っていないものは人を指導してはいけないのだが、恐ろしいことである。

温熱修行では、47度のお湯に15分入るのだそうだが、何人もがこれで亡くなったそうだ。教団崩壊までこれを続けていたとのことだが、こういうのもやめなかったところは、「命の悲しみ」を感じない所業といわざるを得ない。

LSDについては、早川がロシアから原材料を購入したことが書いてあるので、教団内ではふんだんにあったのだろう。ソーマであっても準備のできていない者に与えるのは、思わぬ霊道が開いて本人も希望しない好ましからざる世界に入る可能性があるので、カスタネダに代表されるソーマヨーガの世界でも投与には慎重を期しているものだ。この教団では、金と引き換えにどんどん与えていった雰囲気だが、その効果はどうだったのだろうか。

思わぬ霊道が開くデメリットについては、「チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店」に詳しいが、この本を獄中で読んだ早川も推薦していたのは皮肉なこと。

悟りは難しいし、いわんや悟る人を出すことも難しい。禅では一人の正師が打ち出す悟った弟子のノルマは一人あるいは半人などというように、覚者を大量に打ち出すのは悟ったマスターであっても簡単ではない。この教団がそういうチャレンジだったかどうかは知らないが、この事件の後、既成宗教が自らの姿勢を見直し始めたという効用はあったかも知れぬ。

それから略20年、時代は、日本が外国からの侵略による亡国の危機に瀕し、国民は貧困化に苦しみ、国民精神は、あらゆるメディアからの情報洪水により、無思考化、白痴化した。

結局この事件は、組織宗教の悪しき面を露見させ、かえって人を宗教から遠のかせる結果になっただけと思う。

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どうすれば羽翼をゲットできるか

2016-10-28 05:37:53 | 道教
◎浩浩たる黄河の水

寒山詩から

【書き下し】
浩浩たる黄河の水
東流して長(とこし)えに息(や)まず
悠悠として清(す)むを見ざれども
人人 寿に極み有り
苟(いやしくも)も白雲に乗らんと欲するも
なにに由ってか羽翼を生ぜん
唯だ鬒髪(しんはつ)の時に当りて
行住須らく努カすべし


【大意】
はてしなき黄河の水は、東に流れて永遠に止まることがない。悠々として澄むのを見ることはないが、人々の寿命には限界がある。
いやしくも白雲に乗って昇天しようと思いたっても
どうやって羽翼を得ることができようか。
ただ黒髪のころに、行住坐臥の努力を続けるべし

【原文】
浩浩黄河水
東流長不息
悠悠不見清
人人寿有極
苟欲乗白雲
曷由生羽翼
唯当鬒髪時
行往須努力


求道者は若い時分から努力しなければならない。冥想修行に限らなくても、中高年にあっては、よくも悪しくも25歳くらいまでに構想した生き方を多くの人は生きているのではないか。

しかし50、60になってからでは、勢いがない。だが人生の終末にあたって何か成し遂げられる人はそこまでの準備がある。
ハタ・ヨーガも然り、周天も然り。臨終正念というのもあると聞く。
行住坐臥での不断の努力が実はキーポイント。
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マインド・コントロールと冥想

2016-10-27 05:29:52 | マインド・コントロール
◎「縁」

マインド・コントロールも冥想修行も無意識を操作し、時にトランスに導入していくという点では、似たところは大いにある。両者の相違は、マインド・コントロールは、だますという「目的を持った」心理操作、無意識操作であるのに対し、冥想は「目的を持たない」心理操作、無意識操作であるということ。

だが、広義のマインド・コントロールは、政府、企業が広告宣伝、コマーシャル、SNSなどを通じてテレビ、ビデオゲーム、スマホなどを通じて行っている他、ネットワークビジネス、カルト宗教、カルトじゃない宗教、怪しげなヨーガ団体、まともなヨーガ団体が行っている。要するに手法としてのマインド・コントロールは本来それ自体白黒の色はついていないものだ。

また、リラックス冥想や五体投地、マントラ念唱など、カルト宗教は宗教であるがゆえに冥想手法すらマインド・コントロール手段として用いる。だから冥想手法だからといってそれ自体聖なる手法だと主張することもできない。

その相違は指導者が悟っているかどうかというところに行き着く。手法そのものに善悪がついていなければ、指導者、グル、マスター、師が本物であることだけが頼りとなる。

しかし残念なことに、人は上座にいるその人が悟っているかどうかを見分けることができない。なんとなれば、自分が悟っていない限り、悟りの何たるかはわからないし、ましてその人物が覚醒した人物かどうかはわからない。

それでは、人はどうやって悟りに行き着くかといえば、「」という不可思議なものに行き着く。

こうした堂々巡りの状況を踏まえて、釈迦は縁なき衆生は度し難いと言ったわけだ。
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マインド・コントロールと大悟覚醒

2016-10-26 05:25:25 | マインド・コントロール
◎マインド・コントロールを残しながら生きる人が大勢

マインド・コントロールとは、それを行う側がされる側をだまして利益を得ることである。

マインド・コントロールは、いまや日常生活のあらゆる部分にわたっているが、一般にマインド・コントロールとは悟っていない人が悟っていない人に対して働きかける術であるがゆえに、全体としては何も生まない。

大悟覚醒におけるマインド・コントロールは、悟った人が行うマインド・コントロールであるがゆえに、悟っていない人が行うそれとは一線を画す。ただし、悟った人が行うマインド・コントロールであっても、馬を水辺に連れていけるだけであって、馬に水を飲ませることはできない。最後は馬自身が飲まなければならないのである。

『マインド・コントロール/岡田尊司/文芸春秋』では、イスラム自爆テロの実行者と神風特攻隊が、自爆を是とする社会から自分が死ぬことと二度と生還しないことを社会の方が一方的に決めつけられてしまう。よって自爆実行者にとっては生まれ育った社会から疎外され村八分にされることは、社会的な死でもあるから、実行者には、自爆以外の選択肢は残っていない。

このことは、「社会」をカルト教団内の小集団に置き換えれば、オウム真理教の諸々のテロ行為、犯罪行為を正気のまま(催眠術などでへろへろでない状態)で行った心理的メカニズムと同様であることがわかる。

岡田尊司氏は、マインド・コントロールにかかりやすい人の属性の一つに依存性パーソナリティを挙げる。依存性パーソナリティとは、主体性の乏しさと過度な周囲への気遣いを特徴とし、相手にノーと言えず、周りに合わせがちなパーソナリティで、日本人には多い。

しかしこの本の最後には、脱マインド・コントロールを展望する中で、誰もが文明的社会的なバイアスのかかっていない世界観を再構築できて主体的にマインド・コントロールから抜けられるわけでなく、依存性を残したまま、マインド・コントロールの影響を残したままにしか生きられない人も多いことを示唆している。

この時代において、情報の洪水のなかから正しい情報を取捨選択して、なおかつ様々な形態でのマインド・コントロール、情報操作の影響を蒙らずに、悟りに向けた冥想修行を行い、善を行い、悪を行わない人物は極めて稀であるがゆえに、その生きる姿は、アトランティス末期の時代においてすら、既に救世主として評価されていた。今もそうだ。
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シミュレーションとしてのハロウィン

2016-10-25 06:52:29 | 時代のおわり
◎祭りと虚無

最近の若者は、ハロウィン・ネイティブなどともてはやされ、渋谷などの繁華街で仮装やコスプレで盛り上がるようになった。

日本のハロウィンは宗教的土台も迷信の伝統もないのだから、ひたすら商業主義の産物である。

商業での客引きの基本線は、シミュレーションの方が本物よりセンセーショナルに造れるというのがあって、シミュレーションの方が本物の宗教的儀式・デコレーションより遥かにアトラクティブにできる。

夜中に松明を持って、あるいは大きな焚火の周りに集まって土俗宗教儀式を行うよりは、気軽にコスチュームを変えてアクセサリーで飾り付け、仲間などで集まって街頭を練り歩いたほうが気分も高揚しようというもの。

こうして町中に突然出現する自由の女神や金のライオンとか天守閣とか、それを心得た構築物は津々浦々にいくらでもある。

シミュレーションとしてのハロウィンは、こうした流れから出現したもの。ヨーロッパ中世の厳格なアポロン的キリスト教社会において、ハロウィンの季節に仄の見える異界。それは、広義の死の世界だが、それもまぎれもない現実。

シミュレーションといえば、テレビ、ビデオゲーム、スマホとあらゆる液晶画面の世界のことでもあるが、その裏側には広大な虚無が広がっている。その虚無に内側はさいなまれ、貧困化により外側を蝕まれる日本人は、いつのまにか、「どうしてこんな時代になったのか」と自問する。


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アメリカ大統領選挙と冥想

2016-10-24 05:37:36 | 時代のおわり
◎マインド・コントロールの今


アメリカ大統領選挙は、クリントン女史とトランプの対戦だが、既存富裕層をバックグラウンドにしたクリントンと情報弱者で低所得層の支持の多いトランプの争いとなっている。これは、1%と99%の戦いであり、マインド・コントロールで衆愚へと誘導し、マスコミを意のままに動かして肝心なことには無知蒙昧な大衆を操ってきた歴代政権の総決算とも言える戦いになっている。

中国の低所得層はアメリカのそれより更にひどい生活をしているが、それでも仕事が少なくなって毎日中国共産党の政府プロパガンダ満載のテレビを見ていると、いつしか、自分は毎日食うや食わずで明日の糧にも事欠くが、中国には洋々たる未来が開けて安心だみたいなほんわか気分になるものだそうだ。

マインド・コントロールとはそういうものだが、アメリカは、大統領選挙後、普通選挙権の民主主義の継続をやめるようなことがあれば、何を目的とする人が政府を牛耳っているか気がつくことになるのではないか。

マインド・コントロールの大原則とは、重要な情報を最小限に絞り、誤った情報やどうでもいい情報を洪水のように与えることで思考力判断力を奪い、判断を他者に依存させ、他者の思うままに思考させ、行動させること。

こうした環境下では、真に自律的なまともな世界観を持つ人は砂漠の砂から一粒の金を探すことのように難しい。

それでも能動的にこの文明的マインド・コントロールから自分で抜け出す手法はある。それが只管打坐クンダリーニ・ヨーガなどの大悟覚醒を目指す冥想テクニック群である。

大悟覚醒を目指さなければ、冥想しても依然として迷蒙の中から抜け出せない。ところがこうした目的を持った冥想修行もそれ自体誤っている。
それでも真の道はこの二律背反のディレンマの先にしかない。

世の中の真実をつかむ第一歩は、テレビや新聞やスマホやネットを見ないことだというのは、誠に皮肉な情報社会のなれの果てである。
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坐禅儀での禅の効果

2016-10-23 06:12:08 | 只管打坐
◎心は爽やかに正念が明らかに

結跏趺坐あるいは半跏趺坐での禅に効果はあるのか。
効果を求めて坐るのは間違いだが、敢えて坐禅の効果を掲載して、新規の入門者を誘っている。

道元のではない長蘆宗賾の坐禅儀から禅の効果を説く部分。

【大意】
『自ずから身体は軽く安らかになり、心は爽やかに、
正念(無念=念がないこと)が明らかになってくる。このような正法の味わいが精神を助け、おちついて、安らかで楽しくなる。

もし本当の自分にめざめれば、龍が水を得たとか、虎が山に遊んでいるようだと謂うべきだ。
である。よしんば、本当の自分にめざめなくても、風の吹く方向に火を放つようなもので、努力は少しでよい。どこまでも自分が納得することを心懸けよ、決してその努力が君をだますことはない。』

【書き下し】
『若し善く此の意を得れば、則ち自然に四大軽安に、精神 爽利に正念分明にして、法味 神を資け、寂然として清楽ならん。若し已に発明するところ有らば、謂うべし、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。

若し未だ発明するところ有らざるも、亦、乃ち風に因って火を吹くが如く、力を用いること多からず。但だ肯心を弁ぜよ。必ず相い賺(いつわ)らず。』

肉体はさわやかに快適になり、気分爽快、大悟すれば龍が川で遊んだり虎が山で遊ぶように、思いのままになると書いているが、健康で気分爽快なだけでは人生上の諸問題は何も解決しない。また自由気ままに生きるのが如何に周辺に迷惑をかけるのかも気にしない。

かといって、坐禅してもなにも変わらない、何も起きないと宣伝するわけにもいかないので、とりあえずこう言ってみるか、という雰囲気がある。

唐代の禅僧普化は、禅マスターの臨済と一緒に檀家でのごちそうに招かれて、そのテーブルを蹴り倒した。

こんな「効果」を語れば即座に普化に破り捨てられるが、それでもそうせざるを得ない側面はある。


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無門慧開が柱に頭を打ちつける

2016-10-22 07:04:28 | 丹田禅(冥想法8)
◎シンプルと満艦飾

禅語録と言えば、無門関が代表格だが、それを日本に持ち込んだのが、鎌倉時代の信州出身の僧心地覚心。心地覚心は、無門関の著者杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開(1183年-1260年)の直弟子であり、嗣法した人物。

無門慧開は、南宋の時代杭州に生まれた。何度もはっと気が付くことがあったが、今一つ達することがなかった。趙州無字の公案に取り組んで6年、「もしも坐禅中に睡眠するようなことがあれば、自分を壊してしまおう」と思い詰めて、禅定中に疲労困憊する時は、柱に頭をぶつけて修行した。

こうしたクレイジーな修行では、何も起こらなかったが、ある日昼食を告げる太鼓の音を聞いて忽然と大悟した。

無門関は、とりすまして取り付く島もないが、そんな無門の修行ぶりを知ると激マジメなかれの純朴さがしのばれる。

でも禅は、自分では親切だ親切だと主張するわりには不親切で、おしゃべりでもなく、ファッショナブルでもないから、今一つ現代人には食い足りないかもね。

禅はシンプル、クンダリーニ・ヨーガは満艦飾。
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人間と鼠と猫

2016-10-21 05:38:49 | クンダリーニ・ヨーガ
◎アストラルなエコサイクル

人間の寝息からは邪気が発生するという。

以下霊界物語 32巻 海洋万里 北の森林から。

ペストが流行すると云つては、毒薬を盛り鼠を全滅せむと謀る人間の考へも、理論のみは立派なれども到底これを全滅する事は出来ない。

また鼠が人家になき時は人間の寝息より発生する邪気、天井に凝結して小さき恙虫を発生せしめ、その虫のために貴重の生命を縮むるやうになつてしまふ。神はこの害を除かしめ、人のために必要に応じて鼠を作り給うたのである。

鼠は恙虫を最も好むものである。故にその鳴声は常に『チウチウ』と云ふ。チウの霊返しは『ツ』となる。しかしながら鼠の繁殖甚しき時は、食すべき恙少きため、止むを得ず、米櫃を齧り、いろいろと害をなすに至る。

故に神は猫を作りて、鼠の繁殖を調節し給うたのである。猫の好んで食するものは鼠である。鼠の霊返しは『ニ』となる。猫の鳴声は『ニヤン』と鳴く、『ヤ』は退ふこと、『ン』は畜生自然の持前として、言語の末に響く音声である。故に『ニヤン』と云ふ声を聞く時は、鼠の『ニ』は恐れて姿を隠すに至るは言霊学上動かすべからざる真理である。

人試みに引く息を以て、鼠の荒れ廻る時、『ニヤン』と一二声猫の真似をなす時、荒れ狂ひたる鼠は一時に静まり遠く逃げ去るべし。『ニヤ』の霊返しは『ナ』となる。故に猫の中において、言霊の清きものは『ナン』と鳴くなり。

 すべて禽獣虫魚は引く息を以て音声を発し、神国人は吹く息を以て臍下丹田より嚠喨たる声音を発し、また引く息、吹く息の中間的言語を発する人種もあることを忘れてはならぬ。』
(霊界物語 32巻 海洋万里 北の森林から引用)

この恙虫は、河原に生息するツツガムシでなく、別種のもの。猫もニャンと鳴くのが普通だが上根の猫はナンと鳴く。神国人とは日本人のこと。

それにして肉体を持つ以上は、睡眠をとるが、睡眠で邪気起こるからには、禊などして祓い清めが日々必要になるのだろう。この邪気を感じれば清めようとするものだが、感じなければ何もするまい。

こうした総合的感受性の開発の手段がクンダリーニ・ヨーガ系の冥想である。なお只管打坐では恙虫など相手にはしない。

人間、鼠、猫は、肉体レベルからアストラル・レベルまで含めた包括的生態系・エコサイクルの中に組み込まれているわけだ。

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死の世界を意識する

2016-10-20 05:32:35 | クンダリーニ・ヨーガ
◎肉体や物質が世界のすべてではない

この文明は、死を忌避する文明だという。では、死とは何か。死はホラー映画や怪談なども死と言えば死だが、興味本位に流れがちなものである。

また死とは、顕在意識に対して無意識全般のことを死の世界ともいう。七つのボディでいえば、肉体意識ですら一部無意識に反映される部分があり、「肉体の一部が死」という面倒な議論にもなる。

死には肉体死と自我の死があるが、どちらも忌避されているものだが、本質的な部分は自我の死のほうである。

死の世界には入り口があり、通常ほとんどの人には閉じているが、何かのきっかけで世界の裂け目として出現することがある。

世界の裂け目のバリエーションには以下のようなものがある。
(a)ショック
・突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。
・最愛の人の死やペットロス
・突然の災害ですべてを失う
・霊能力の開顕、心霊体験
 アストラル・トリップ(ヘミシンク)
・統合失調症における変化した世界観
・ドラッグ

(b)継続的な努力、冥想手法、芸道、武道
・お題目や念仏、無字などを死ぬほど唱え続けたマントラ・シッディ
・空や無常の観想法
 ひたすら人間の死体に直面させる不浄観
 九想の詩(空海の死体→白骨→灰までを詠じた詩)
 空性の観想(チベット密教)
・現実を直視することにより人間として生きることの不条理に直面させようとするもの(禅)
・すべてを阿弥陀仏、カーリー女神などの太母の前に帰依し投げ出すこと。
 自力が他力にしてもろていまはあなたと申す念仏(浅原才一
・呼吸を見つめる(ヴィパッサナー)
合気道
・茶道
・剣道

つまり肉体や物質が世界のすべてではないことを一見させる人生上のイベントが世界の裂け目なのだ。

日常の安穏とした気分優先のお茶の間に死の世界は無粋だし、時に不愉快でもあるが、人生や日常の本質的な不安定性を感得している人にとっては、それが生活実感でもある。

それは、ときにひどくおさまりが悪く、生きづらい気分を惹き起こすかもしれないが、それはそういうものであって、そこが忌避される理由でもある。

そうした裂け目を示唆するものは、他にもいろいろある壺中天、おむすびころりん、志賀直哉の小説の小僧の神様、わびさび、もののあはれなどなど。東洋ではかつては死と共存していたが、特に日本では、ひどく死を忌避する西欧文明の影響が強くなってしまった。

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自分の判断を疑わずに幸福感に包まれて死へと向かう

2016-10-19 05:33:55 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎不思議な悲しみ

弟子カルロス・カスタネダに対して、ドン・ファンが語る。
『「逃げ出して場当たり的に行動するのではなく、自分の判断を疑わずに幸福感に包まれて死へと向かっていくかもしれないんだ」

ドン・ファンのことばには、不思議な悲しみがこもっていた。たぶんのその悲しみはわたしの悲しみだったのだろう。わたしたちは長いこと黙り込んでいた。』
(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P146から引用)

人は死と隣り合わせに生きている。若いときは、総じて死を意識するサイクルは少ないものだが、親が老いて弱って来たり、自分の肉体の老化を感じるとき、死を意識するものだ。

最近は、東日本大震災、熊本地震と突然の死を意識する時が増えた。

現代文明は、死を忌避するという特徴が文化、社会通念全般に行きわたっており(アポロン型文明)、死から逃げ出して場当たり的に行動するということが起こっても、世間的にはまずその行動に疑念を抱かれることはない。

ところが、このドン・ファンの自分の判断を疑わずに幸福感に包まれて死へと向う生き方とは、死の世界をクリアして生が何の問題もないことを承知しながら天命を生きるということ。死生両全。

換言すれば、悟りを持ちながら人生を押しわたっていくこと。悟りとは命の悲しみのこと。このシーンには、その悲しみがしみ渡っている。
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キリスト教の天網恢恢

2016-10-18 05:04:18 | キリスト者の秘蹟
◎神に謙虚な心

これは、黄金伝説にある聖アントニオスの話。聖アントニオスは、泰西名画の題材として“聖アントニウスの誘惑”として盛んに取り上げられている人物であって、3世紀の砂漠の苦行者。

『ある時彼は幻視の状態に陥り、全世界が互いに網の目のようにつながった沢山のロープでおおわれているのを見た。

そこで彼が『おお主よ、このロープからのがれられる者があるでしょうか』と叫ぶと、「神に謙譲な心」という声が聞こえた』
(黄金伝説 1/ヤコブス・デ・ウォラギネ/人文書院P246から引用)

老子第73章の天網恢恢 疎にして漏らさずとは、禅の公案である因果は昧(くら)まずのこと。そこに対して、「神に謙譲な心」と応対するのは老婆親切である。
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孤独な鳥は至高へと飛ぶ

2016-10-17 07:44:48 | キリスト者の秘蹟
◎十字架のヨハネが愛を語る

十字架のヨハネは、母子家庭で育ったが、貧窮により9歳で孤児院に入った。17歳で病院の看護師となったが、やがてチャンスがあり、カルメル会修道院に入って、アヴィラのテレサと知り合う。

35歳の時に、異端審問に近い嫌疑を受け、トレドで9か月幽閉生活を送った。この時の冥想体験が彼に多くのインスピレーションを与えた。

幽閉から開放後、「暗夜」を手始めに活発に著作を行ったが、49歳で亡くなった。

「愛の生ける焔」から愛の本源的慣性を語る。
『愛とは魂の傾きであり、神に向かうために魂に具わっている力と能力である。魂が神と結ばれるのは、手段としてだからである。このように魂が達する愛の段階に応じて、より深く神の内に潜入し、神の内に集中するのである。』
(キリスト教神秘思想史3 近代の霊性/平凡社P156から引用)

さらに「カルメル山登攀」から、神以外を愛する無益さを語る。
『他のものを愛する魂には、神との純粋な合一も神による変容も不可能である。被造物の低劣さは、闇が光となることができないということにもまして、創造主の身分へと高められることもできないからである。(・・・・・)それゆえ被造物の全存在は、創造主の無限の存在に比べるならば、無である。』
(キリスト教神秘思想史3 近代の霊性/平凡社P157から引用)

こうした正統的かつ体験とはいえない体験を語っている中に、孤独な鳥の詩がある。
カルロス・カスタネダの「力の話」の巻頭の詩のサン・ファン・デ・ラ・クルスとは、十字架のヨハネのことである。
孤独な鳥の条件は五つ、
一、孤独な鳥は至高へと飛ぶ
二、孤独な鳥は連れに煩わされることがない。たとえそれが同類でも
三、孤独な鳥は嘴 (くちばし)を天空へ向ける
四、孤独な鳥は決まった色をもたない
五、孤独な鳥はとても静かに歌う

サン・ファン・デ・ラ・クルス
<光と愛の金言集>』
(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版から引用)

17世紀にスペインは、アヴィラのテレサと十字架のヨハネを得たが、同じ時代日本は、至道無難を得た。

それにしてもカトリック教会の中ですら、神人合一の実体験は語るのをはばかられるし、本人からは語れず、また周囲が、「その体験は語れるはずはない」と動くと異端扱いされる。組織宗教は時に本物を殺すが、恐ろしいことである。
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