アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

インド神話のクリシュナ

2015-12-16 05:33:36 | 冥想アヴァンギャルド
◎最後の切り札

天地中和とは世の中の善悪のバランスをとるということだが、イエスなどの神人は、このような目的をもってこの世に生を受ける。クリシュナもそうした一人。

インド神話に出てくるクリシュナは、バガバッドギータにあって、王子アルジュナの御者として参戦する。彼は、親戚一同を相手に開戦することにびびる王子アルジュナを叱咤して、迷いなく参戦させることに成功する。この説得の部分がクリシュナの考え方として有名であるがゆえに彼は一族の精神的指導者として評価されていた。

しかし、インド神話では、クリシュナの特徴は、世の中に跳梁跋扈する、悪魔、阿修羅、悪龍などを次々に退治していくところにある。

ヤムナー河畔に住む毒龍カーリヤを退治したり、悪王カンサの差し向けた刺客の悪魔ケーシンをやっつけたり。最後は、クリシュナの命を狙うカンサ王とその8人の兄弟をも、クリシュナとその兄弟のバララーマが誅殺してしまう。

要するに平和を愛好する日本人としては、神々と言えば「言向け和す」日本神話に慣れた我々の眼には、いかにも強烈な活躍ぶりなのだ。

要するにクリシュナが御自ら降誕するというのは、相当その地が切羽詰まっていたということになろう。その国は爛熟も極まり、善悪のバランサーが直接的に必要なほど症状は悪化していたということ。
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ピュタゴラスの冥想法

2015-12-15 07:07:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎長時間冥想など

謎の多いピュタゴラス。その冥想法が彼の伝記から推測される。

ピュタゴラスはもともとギリシアに居て自然科学者タレスに師事していたが、タレスの勧めによりエジプトに渡って冥想修行を続けることになった。古代ギリシアでは、哲学するとは冥想するみたいなものであった。

ピュタゴラスは、酒を飲まず、肉を食せず、大食は特に避け、消化の良いものを食した。睡眠も少なく、目を覚ましている時間が長く、心身の健康に留意しているロハスな生活だった。

生まれ故郷のシドンやレバノンのテュロス、ビュブロスなどで神官から観想法の指導を受けた。フェニキアの霊峰カルメル山に籠って独り神域に籠って瞑想し、エジプトへの三日二晩の船中では、坐の冥想姿勢を崩さず、常坐不臥、断食、断水、不眠、端座黙然で、短時間まどろんだ。これは哲学者のライフ・スタイルではなく、明らかにプロの冥想修行者の生き様である。

エジプトについて下船する際は、断食と長時間冥想により身体はこわばり、水夫に身体を支えられ、手渡されて降りたというからには、この時分から相当に坐れる人物であった。

以後22年間エジプトで神官という神官を歴訪しては情報収集し、神々の密儀を、奥義をことごとく受けたが、BC525年ペルシャ王カンビュセスのエジプト遠征軍に捕らえられバビロンに連行された。バビロンでも土地の博士らと交流を深めたという。

後、ギリシアのサモスに移り、ここで自分の乏しい食費を削り一人の弟子を育てたが、誠に真の冥想家は、本物であればあるほどいつの時代も貧しいものである。

彼の説法は多いが、彼は性欲コントロールの節制について説き、諸徳のうち節制だけが、万人に対して身体の健全と魂の健全を包み込み、健康を保ち、最善の生活習慣であるとした。

これは、明らかに冥想家の言であって、知性のみを活躍させる哲学者の言ではない。ギリシア哲学とは、そのバックボーンにある冥想法が明らかにならないと、理解の半分にも至らないように思う。どんな観想をしていたのだろうか。
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碧巌録第四十一則 【投子投明】

2015-12-14 05:19:33 | 丹田禅(冥想法8)
◎帰還への意志

趙州が投子に質問した。
大死一番した人が、生き返った時はどうですか」
投子「夜行は許されぬが、明け方には到着しなければならない」

不許夜行とは、唐代の夜間外出禁止令にかける。夜行とは死んだままであり、大死において大歓喜、大慈悲の真っ只中にあり、言葉に尽くせぬ状況に放り込まれて、普通の人はそのまま9割は死んでしまうそうだ。これが夜行。

意識を清明に持ってそこから帰還する。これが明け方に到着する。十牛図でいえば、第八図から第九図に進む。帰還への意志が起こるのは、その人の持つ人間愛からなのだろう。

チベット死者の書の精密な眼から見れば、肉体死の瞬間、誰でも悟るチャンスは来る。でもそれに気づくには精妙さが要る。精妙な感覚は冥想によって培われる。
起こることは起こる。それに気づくかどうかは別物。


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china 2049/マイケル・ピルズベリー

2015-12-13 05:43:00 | 時代のおわり
◎孫子、六韜三略、資治通鑑など

マイケル・ピルズベリーは、若い時分に台湾大学に留学したアメリカの中国軍事系インテリジェンス専門家。
china 2049は、そうした中国専門家にして、中国の世界覇権を狙う獰猛な本心を見誤っていたという悔恨の書でもある。

本書の冒頭に1960年代末にソ連の担当者が中国は、世界の覇権を何年かけても奪い取るという危険な本心を唆めかしてくれるシーンがある。ピルズベリーはその後40年間それを話半分で聞いていたわけで、彼は50年後に、ソ連の中国へのゆるぎなき不信感の根拠たる何かをソ連はその頃から既に知悉していたと気が付くに至る。

そういうわけで、ピルズベリーは、アメリカの中国への軍事支援をその後40年間反対せずに支援のアドバイスを送っていたわけだ。

面白かったのは、最近の中国の政策立案者は、世界覇権獲得のために中国古典の謀略書を盛んに研究しているというところ。中国古典の謀略書と言えば、孫子六韜三略などだが、膨大すぎて和訳されていないのが資治通鑑。

資治通鑑は、周から後周までの帝位をめぐる謀略を論述した書であり、毛沢東主席は、これを17回も読んだほどの愛読書。現代中国の政策立案者たちは、この点について毛主席から学んでいるのだろう。

謀略書を国の舵取りに採用しているのであれば、その国には神も仏もタオも居場所はあるまい。当然に千年王国、至福千年などというビジョンや、私を去った人間達の住処もないだろう。

アメリカですらプロテスタント的世界観のもとに民主主義の看板を下ろさず、世界の公民の安寧を保全するという基本路線があるのに、中国の行き方は21世紀としてはあまりにも異形であり、前時代的ではある。

中国の悪意は、ピルズベリーのような中国専門家にして騙され続けてきたのだから、いわんや人の好い日本人において、信じられないのは当たりまえ。
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先義後利=J・フロントリテイリングの経営理念

2015-12-12 05:43:17 | 冥想アヴァンギャルド
◎日本の経営者の感性

2015年12月11日の日本経済新聞にJ・フロントリテイリング相談役の奥田務氏の「私の履歴書」が載っている。「私の履歴書」は、例外もあるが、大体は公私の出来事の中で都合の悪いことは書いていないものであるから、話半分に読んでいる。

しかしその中で、珍しく「おや」っと目を引く内容があった。J・フロントリテイリングは、大丸、松坂屋の後身。1837年大塩平八郎の乱の時、大丸は大塩平八郎にその徳義を重んずる家風(先義後利)を評価され、焼き討ちを免れたこと。また松坂屋の社是は、なんと「諸悪莫作 衆善奉行」。

更に奥田氏が経営者になった時に、すべての経営活動において先義後利の視点を欠くと必ずと言っていいほどうまくいかなかったそうだ。

この感性が日本の経営者だと思う。この感性が日本の最も美しい部分を護持し続けてきた。大塩平八郎も大丸も松坂屋も、善なるもの真なるものの現われを義と読んで大切にしてきた。こうしたものが規模の大小を問わず、日本の津々浦々で継承されてきたからこそ美しい国日本がある。

老舗企業は、往々にして先行企業としてのノウハウと市場占有率のみで有利だと思われがちなところがあるが、こうした感性が実は時代の変わり目を乗り切るキーとなっているように思う。情報の量、情報の速さというが、実は、それを取捨選択する感性が事の本質に近いと思う。

先義後利には無私が流れている。
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私は私という心身の異郷の客

2015-12-11 05:42:03 | 冥想アヴァンギャルド
◎何一つ見知らない悲しみ

今日は、知る人ぞ知るダンテス・ダイジの命日。

人は、覚醒した世にもまれな人物に出会えば、テレビの突撃リポーターよろしく、なんでも質問しようとするものだ。

そうした心理を見越してか、ダンテス・ダイジは自作の著作を用意してくれている。その一冊についてでもきちんと最後まで同一の実感をもって感得できたり、あるいは知的理解でもできたりしたら、その読者はほとんど覚者だろう。
要するに普通の人は一冊読み通せないだろうと思う。

以下の引用文は、彼の「今でない今、ここでないここで」という詩の一部。

『一刹那の生涯でよい
神の御意のままに生き
神の御意のままに死にたい
一刹那の神の御意は
すべての生命たちの生涯と
すべての生命たちのそれぞれの宇宙であった

神のみが絶対無の中に
久遠の安住を続け
あくび一つも神には無縁だ

私は私という心身の
異郷の客であり
何一つとして
私のかつて見知った事柄はない
この悲しみが
人間に理解できるだろうか』
絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版P118から引用)

教条的に、「人間とは、すべての世界が一つながりになったアートマンと合体できるし、統合している」などと語ることはできるが、その実感を語りえる者だけが真正の本物の超越者である。その悲しみを語った者がかつてあっただろうか。

人間はその悲しみを知りたがるほどに近づいてきた。
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ケルソスの語るイエス一家

2015-12-10 05:51:47 | キリスト者の秘蹟
◎イエスの生い立ちの真相

ケルソスは、イエス一家の姿について当時の有力説を以下のようなものだと披瀝する。

イエスは、ユダヤの村の出身で、田舎の貧しい糸紡ぎ女から生まれた。
彼女の夫は大工で、彼女は姦淫の咎めにより、夫から追い出された。
彼女は夫に放逐されて恥辱に満ちた放浪を続けているときに、ひそかにイエスを産んだ。
イエスは貧困のためにエジプトに出稼ぎに行き、そこで超能力(奇跡力)を披露して、ユダヤに帰還したときに、この超能力ゆえに神と自称したと。
(出典:キリスト教教父著作集第八巻オリゲネス/日本教文館P35)

この話は、広く伝わっていたがゆえに真相に近いものだったろう。我らは週刊誌ではないので、生い立ちについてはあまり興味はないのだけれど。

2000年前に、すでに救世主イエスは、現代の覚者のように弟子たちを友人として遇した。イエスは、処女懐胎した母から生まれたのでなく、大工の夫の夫婦から生まれたのだろうし、イエスは大工で稼いでいたのだろう。

イエスを個人として見れば、一人の政治的にも無力な、経済的にも取るに足らない人物が、宗教的に頑張りすぎてしまって、官憲に捕まり十字架上で刑死するという非業の最期を遂げた。

神の国を実現するためには、2000年前のようにイエス一人、大工一人にがんばらせるのではなく、多くの人、ほとんどの人が神に近づこうとする努力を日々重ねているようでなくてはならない。

そうでなければ、イエスが、『もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたをと呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』(ヨハネ福音書15-15)
と呼びかけた甲斐はあるまい。

今の時代に貧しい大工一人ではどうにもならない。皆が神に近づこうとしなければ。


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ケルソス反駁に見るユダ像

2015-12-09 03:21:52 | キリスト者の秘蹟
◎不安定な悪役

ケルソス反駁という文章は、オリゲネスが著したもので、何かとイエス・キリストの事績を批判するケルソスに対し、オリゲネスが公平な立場で、ある程度イエスを擁護していくものいである。

福音書を見る限り、銀貨30枚で師匠を売り渡したユダは、イエスに接吻することで、イエスに対して尊敬の念を持っていたようである。またイエス刑死後は、銀貨を返しに行ったり、反省の念からか自殺するという挙に出ている。ユダはイエスを敬慕していた。

ところが、イエスは官憲から逃亡の旅をしているところ潜伏先を急襲されて逮捕されたのではなく、ユダヤ官憲に誰がイエスかと問われ、自分がイエスだと答え進んで官憲に我が身を引き渡している。だから、官憲に対してユダが潜伏先情報を銀貨30枚で売ったからイエスは身柄を確保されたという推理は弱い。むしろイエスは自ら官憲の手に落ちたのだろう。

また本当にユダがイエスへの裏切りをしたのであれば、破門されるべきであって、十二使徒から除名ぐらいの話はあるべきだが、そうした記述はない。仮に福音書の想定するように、イエスの逮捕から刑死までの間、ユダはアンチ・キリストな心情であったとすれば、ユダは少なくとも磔刑執行の間、官憲支持に回ってそれを喝采しながら見ている方が自然だろう。

こうしたユダの不自然な悪役ぶりであるが、これによってキリスト教は世界宗教としての教義の体裁を整えることができたとも考えられる。

というのは、キリスト教が人類普遍救済の世界宗教となるには、神の子が刑死するというあってはならないイベントを、預言者の刑死は神との約束である予言の成就であったと宣伝することで、昇華させた。これにより、ユダヤ教の文脈とも折り合いをつけることができ、刑死と復活を経てなおイエスが救世主であるとすんなり考えることができるようになったからである。

しかし禅ならば、これと全く異なる立場がある。道で達磨に逢ったら達磨を殺せとか、不思善悪などである。誰が悪人だとか、誰が裏切ったなどということはどうでも良いのである。


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古伝承中のマグダラのマリア

2015-12-08 06:53:11 | キリスト者の秘蹟
◎十二使徒と同格あるいは同格以上

マグダラのマリアは、最近発見された多くの1~2世紀のテキストの中で以下のようなことが言われている。
マグダラのマリアは使徒ではない。
イエスが復活した後、最初にイエスと言葉を交わした人物である。ヨハネ福音書では、イエスは彼女に特別の教えを授け、他の弟子に復活を伝える任務を与えた。彼女はイエスの指図どおり復活を伝えた。
これによりマグダラのマリアは、十二使徒と同格あるいは同格以上の位置づけを持っていた。

イエスには、男性の弟子集団がいて、また女性の弟子集団もいただろう。その女性弟子集団のトップは、マグダラのマリアとわかる。

  イエスの復活は、肉体での復活ではないだろうから(弟子に胸の傷口に手を入れさせたというエピソードもあるにはあるが)、アストラル・レベルでの出現であったろう。人間にはアストラルを視覚的に捕らえることのできる人、感じることのできる人、わからない人の三区分あるが、マグダラのマリアは、「見える」タイプの霊能力者であっただろう。

マグダラのマリアが覚醒していたかどうかという問題はある。しかし覚醒するしないと霊能力の有無は連動しないのだが、ポストイエスという新たな状況においてイエスの復活は、事実その後2千年にわたって大きな影響力を持ち続けることに成功した。

そしてそれはマグダラのマリアによって始まった。
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シナリオ・ライター兼振付師としてのユダ

2015-12-07 05:37:45 | キリスト者の秘蹟
◎積極的な役割を果たしたユダ

20世紀スイスの神学者バルトはユダについて語るに「ユダは、ある意味で、イエスを別として福音書の中で最も重要な人物だ。なぜならすべての使徒たちの中で彼一人が、神の意志であったことと福音書の本質となったことの実現にとっての決定的な状況において積極的な役割を果たしたからである」。

人間には何の救済もないことを、それを回避する手立てはあったはずなのにそれを採らず、十字架上のイエスという形でシナリオを描いて振り付けたのがユダ。

ユダは後に銀貨30枚を返しに行き自殺したことになっている。観客向けドラマにおいて、主役をさしおいてシナリオ・ライターや演出家が前面に立ってはならない。しかしこのドラマには、シナリオ・ライターや演出家はおらず、偶然の産物だったのだろうか。

そこでナグ・ハマディ文書偽典、外典でユダを再評価しようとする動きが出たのは、時代の進歩というものだったと思う。
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冥想の準備についての説明

2015-12-06 06:31:13 | 冥想の準備
◎坐る前に

冥想の準備については、冥想そのものの前段にあたるチューンアップである。「冥想の準備-2」では、以下のようなメニューになっているが、この構成は、ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックに依っている。

1.冥想者の日常的な態度
2.柔軟体操(身体の運動)
3.プラーナ・ヤーマ(呼吸法全般)
 ⑴基本呼吸法
 ⑵完全呼吸法(丹田呼吸法)
 ⑶片鼻呼吸法
 ⑷題目、念仏、マントラなどの声をあげての読唱も一種の呼吸法としての作用がある。

これらについて出典やら気の付いた点やらは以下のようなところである。

1.冥想者の日常的な態度
自分では怒ったり嘘をついたりするとダメというのは感じる。態度も真似ばないとわからないほど混乱が進んでいるということか。自由になっても真相に近づくとは限らない。冥想者の日常的な態度についてまとめて触れている本はほとんどない。

2.柔軟体操(身体の運動)
ハタ・ヨーガ含めて体操の本は無数にある。最も良いと思った本は、本山博の密教ヨーガ。これは図版が多いわけではないが、説明が親切。けれども入手困難と思います。
長時間冥想では、足腰腕肩などの柔軟性、血行が問題となるので、その中から数種を選んでやることになる。

只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでもずーっと坐っているもの。

3.プラーナ・ヤーマ(呼吸法全般)
⑴基本呼吸法
⑵完全呼吸法(丹田呼吸法)
(3)片鼻呼吸法

これら呼吸法については、基本は佐保田鶴治本の中のヨーガ・スートラなどにバラバラに載っていたと思う。私はベースボールマガジン社の佐保田鶴治本をよく見ていたので、その中に載っていたかもしれない。
ハタ・ヨーガの本には大体載っているもの。

(4)題目、念仏、マントラなどの声をあげての読唱も一種の呼吸法としての作用がある。

題目、念仏、マントラは何回やるか、何時間やるかということを考えがちなものだが、念仏でいえば、妙好人のようにこの世もあの世もすべてが南無阿弥陀仏になるまでやるのだろうと思う。
呼吸法としてやるならば、時間を決めるのだろう。

なお、こういう題目、念仏、マントラの見方はとても機能的であって、既成宗教各派の見方とは異なることは承知しておきたい。
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山河大地をひっくり返す

2015-12-05 06:10:23 | 丹田禅(冥想法8)
◎自己をひっくり返す

唐代の禅僧趙州と並び称される長沙景岑の禅問答。

ある僧が湖南長沙の長沙景岑に質問した。
「どうやって山河大地をひっくり返して(転得して)自己に一致させましょうか」
長沙景岑、
「どうやって自己をひっくり返して(転得して)山河大地に一致させるのだろうか」

質問者にとっては、山河大地は全く別々のものであり、この見解は未悟の一般人にとっては、まったくもって当たり前である。

しかし、長沙景岑の依って立つ現実においては、自己も山河大地も実体のない幻影である。その世界にあって、自己をひっくり返して山河大地に一致させるという質問はどこからも発生してくるものではない。

居る現実が異なるとも言え、同じとも言えるのだが・・・・。


禅は不親切にしないとダメなところがある。親切にしてあげても、今生では、豚に真珠、猫に小判なことがある。その人物の多生のパースペクティブを見て、臨機応変に禅問答にその人物に合った回答をし得る力量のある人物は何百年に一人だろうし、その人物と同時代に生まれ、更にその人物に出会うのはもっと稀なことである。

ただし生きている世界が違えば、アドバイスの言葉は全く通用しない。老婆親切な言葉ほどわけがわからない。

更に禅ではまた、悟りに安住すれば、人間に戻らないことを強調する。それでは、インド人の宗教観に終わってしまうからである。

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わからない部分は飛ばし読み

2015-12-04 05:38:04 | 冥想アヴァンギャルド
◎現実として、神秘そのものとしてあり続け

何の本でもそうだが、人はわからない部分は飛ばし読みをするものだ。
ところが、何年か、あるいは何十年かを経て、その部分の意味がつかめてくることがある。

その代表的なものは、古代ユダヤのソロモンの箴言や、ベン・シラの箴言や、ダンテス・ダイジの詩集や、ウパニシャッドなどがある。北欧神話のオーディンの箴言などは、平易な話としても読めるので、深い含意には気付かずにとばすことがある。こういうのは質が悪い。

『この世の人間にとって、
最も重要なことは、
思考の停止などによって引き起こされる、神秘的な何者かを知ることにあるのではない。

現実として、
神秘そのものとしてあり続けている、
そのこと自体にある。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P125-126から引用)

現実として、
神秘そのものとしてある???
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ホウ居士とそのファミリー

2015-12-03 05:27:53 | 丹田禅(冥想法8)
◎生と死の違いを気にしない

ホウ居士は、唐代の音に聞こえた禅客。その娘の霊照も並々ならぬ禅機を持っていて、父ホウ居士の死を悟って、一歩先に死んで見せたのは有名である。

ホウ居士がザルを売りに行った時に、橋を降りていく際につまづいて転んだ。それを見た霊照は、すかさず父のそばに寄って自分もまろび転んだ。
ホウ居士「お前は、どうしたのだ?」
霊照「父上が転んだのを見て、助け起こしてあげるのです。」
ホウ居士「誰も見ていなくて良かった。」

これでもって、如何に娘霊照は束の間も離れず父娘が一心同体であるかがわかる。父を師とする最も真摯な求道者が霊照なのだ。

ホウ居士には妻と息子もいた。ホウ居士が二人の息子に父の死を伝えると野良仕事をしていた二人の息子もこの世を去った。妻は二人の葬儀を終えるといずこともなく去っていったという。

我ら世俗の現代人の目には、貧窮な生活と求道しか見えず、ともすればみすぼらしい一家族の生活像にしか見えない。だが、真相は生と死の違いを気にしないほど透徹した悟境がこの家族すべてに見える。

霊照には「父と生死を共にする」覚悟が平素からあって、なおかつチャンスがあれば自分の死をきっかけとしてニルヴァーナに入れる自信と実力があってこそできる技があったが、その他の家族もそれに近い実力を持っていたことがこれらのエピソードでわかる。

ファミリー全てが、輪廻転生の終わりに近い人たちだったのだ。あまりにもこの世的なものに枯淡である。
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あなたが愛に変容するまでは

2015-12-02 05:36:43 | 冥想アヴァンギャルド
◎衣食住の不足

『衣食住の不足の中には、
自殺に至るまでの絶望はない。
あなたが、
どれほどまでに外的に豊かであっても、
あなたが、愛に変容するまでは、
あなたは、あなたという絶望の中にとどまる。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P118から引用)

衣食住の不足の中には、自殺に至るまでの絶望はないというのには、反論もあるだろう。でも、ここでは、力点はそこにはない。死を迎える人間のすべてが死の直前に、人生すべてに絶望しきって大悟一番するわけではない。

非正規雇用が4割に達した今、貧困家庭というのは、大雑把に言えば4割だろう。日本人の貧困化がここまで進んだからには、衣食住の不足により自殺する人はいるだろう。明日の糧を思い煩って発作的に死ぬ人がいないことはないだろう。ここではそれを言っているわけではない。

人間が人間にとどまっているうちは、人間が人間的欲望のなかに何か素敵なものがあると思い込んでいるうちは、人は人間という絶望の中にとどまるしかない。

それを離脱した時に人は愛に変容する。

衣食住の不足は、いろいろな意味でトラップである。
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