アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

2015年の終わり

2015-12-31 06:57:37 | 時代のおわり
◎直面せずに、誤魔化して粘る心性が良しとされる風潮

【この1年ご来訪ありがとうございました。】


この一年は準備の時代だった。

個人と世界の流れは、一見別々に見えるが、全くズレなくぴったり一致している。

現代人は、十分に成熟し、善行にも悪行にも飽いている。つまり社会における自己実現が現代人の人生の最大の目的みたいに言われるが、その結果が善行であり悪行である。つまり自己実現で起こるあれこれ、すべった、ころんだ、ひどい目に会った、うまい目に会った、そうしたあらゆるものに十分飽いた人が、この善行にも悪行にも飽いた人。これは単なるその時の気分のことではなく、人間のあらゆる実感を味わい尽くした人とも言い換えることができよう。

こうした爛熟した現代人は、冥想の道に進み、白髪頭の子を産むことにとりかかる。冥想に専心するためには、それまで暮らし培ってきた社会的なものすべてに別れを告げるシーンもあり得る。

この辺のタイミングが、現代世界の滅亡を目前にする世界情勢の累卵の危機にシンクロする。

今年の世界は、異常気象に見舞われる頻度も高まり、温暖化と低地の水没が進んだ。中国は、中国の夢という世界の覇者となる野心をさらけ出し、漸くアメリカが対応に乗り出した。

中国人とは日本人の眼からみれば、えげつなさ、人の悪さ、非情さの極致を生きる民族であり、個人においては利己優先である。それが集まると集団我欲の暴力装置となり、それは嵩じて中国に配置された日本全土を狙う大陸間弾道弾を背景にした外交こそが、中華の夢の始まりということになるだろうか。

この延長線上に外国(中国など?)による日本立替、そしてその先の中東、東アジア動乱に端を発した世界の滅亡というステップがあるが、それは最悪の想定シナリオとなる。

これを緩和し、バランスを取る手段が、何人悟った人を出せるかということになる。その前段として、日常的に冥想を習慣とする人がどの程度増えるかが課題となる。

過去大悟した人を見ると、いろいろな冥想手法を自らやってきた冥想フリークが多い。冥想フリークでなくとも既成宗教でも冥想手法の品ぞろえはあるものだ。例えば只管打坐といっても、経行あり、作務あり、只管打坐ありで、只管打坐ばかりの修行ではなく、その中に複数の冥想手法を組み合わせていることが多い。冥想フリークならずとも、まともな宗派ならどの宗派でもこうした伝統的な冥想体系を持っているもの。適当な冥想手法の組み合わせで練磨していく。

ただ人間は聖と俗両方の世界で生きるのだが、俗とは現世利益であり、古神道でいえば顕斎サイドになるが、あまりにも現世利益に比重がかかり過ぎた感がある。何か冥想していればよいということでなく、幽斎、すなわち形もない名もないものに冥想するという方向性が弱くなりすぎたと思う。

そうした真相の流れを更に気づきにくくしているのが、マスコミの報道。犯罪、事故、芸能ニュースが、政治経済ニュースより必要以上に大きく扱われている時は、何かろくでもないことが起こっていると思われるので、要注意。自分の心理内の情報の何割かが、マスコミ情報であるのは、現代人の特徴であるがゆえに、マスコミ情報は看過できない影響を人に日夜与え続けている。

さて戦後の日本人は、潔さ、正直さをどんどん失ってきた。功利を求めることが体裁を繕いさえすれば当然とされすぎて、ゴネ得を許しすぎる社会となり、それが、直面せずに、誤魔化して粘る心性が良しとされる風潮が余りにも広がった。冥想では直面しなければ何も起こらないが、この心性では冥想は深化しない。

以下は戦前の出口王仁三郎の和歌であるが、戦後70年、むしろ日本人の心性は悪化したかもしれない。だから日本は良くなりすぎたなどと言われるのだ。

『国民は自己愛にのみふけりつつ神の大道を歩まざりけり

みるを得ずきく声もなき神の前に祈る心は神なりにけり

世人等は利慾に惑ひ智慧くもり終末来るを覚らざりけり

政治経済世界ことごと行詰りゆきつまりつつ世の末近めり

正義公道夢にも解せぬ国民は支那のみならず欧米各国

マツソンの世界覆滅大陰謀 着着爪牙をあらはし来れり』




来年の風が、平安、安寧でありますように。
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裏の神諭の処世訓

2015-12-30 03:29:52 | 古神道の手振り
◎誠の神徳を隠す

出口王仁三郎の雑誌神霊界第60巻の裏の神諭から抜粋。

『○誠の神徳を得たる人は自己の力量を能く人の前に隠し得る者なり。
○神徳なき人は努めて自己の力量を人に知らしめんとする者なり。
○神の道にあるものは自己の力量を誇り、且つ自己の名を売らんと思い煩うことなかれ。

○自己の名を揚げんと欲せばまず神の御名を挙げ、目上の名を挙ぐる事を務めよ。自己の名は自ずから世に現るべし。
○神の名よりも、目上の名よりも、自己の名を先に得んとする者は神を軽んずるものなり、自滅よりほかに得るものはなし。

○我は神に熱心なり信仰強烈なりと自慢する人にして、自己の目的貪欲身欲に熱心の者あり。注意せざるべからず。

○つくすべきの手段を尽くさず、ただただ神のみに祈りて利益を得んとする者は、却って災いの種を蒔(ま)くものなり。
○神は忍耐と勉強と信仰に強き者の上に利益を与え給う。

○苦労せし事なき者及び富める者は誠の神の霊徳を知らず、根の国底の国に陥りつつあるをも自省せず。』

今の時代は、ただただ神のみに祈りて利益を得ようとする者や、苦労したことのない者がとても多い。よって日々、あらゆる混乱と騒擾に悩まされる仕儀となっている。

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磐座について

2015-12-29 05:40:10 | 古神道の手振り
◎天之磐座とブラフマランドラ

俗に磐座とは、神社に社殿がない場合、社殿の代わりに用いられる岩で、神が降臨されるという。降臨する神だから、神の素性は知れる。同様に社殿も岩もなければ、青竹を四方に柱とし、注連縄を巡らし、中央に幣(ぬさ)を垂れる。この幣に神が降臨する。これが神籬(ひもろぎ)。

神籬は地鎮祭などでよく見るところ。磐座は大小様々であり、大は松尾大社の背後の松尾山や大神神社の背後の三輪山などがある。磐座とは、社殿の代わりであるから、パワースポットだろうと想像されることが多いが、そうとも言えないところがある。

というのは、古事記では磐座が出てくるシーンは少ない。天孫ニニギの命が磐座を立って地上に向かうシーンくらいのものである。

出口王仁三郎も磐座をことさらに強調はしていない。大祓祝詞の中に
「かくよさし奉りし国中に荒振神等をば、神問はしに問はし玉ひ、神掃ひに掃ひ給ひて、語問ひし磐根樹根立草の片葉をも語止めて、天之磐座放ち、天之八重雲を伊頭の千別に千別て、天降しよさし奉りき。」とあり、ここに磐座が出てくる程度。

出口王仁三郎の注釈では、
【天之磐座放ち】 磐座は高御座也、【いは】も【くら】も共に巌石の義。放ちは離ち也。古事記には、『離天之石位』とあり。

要するに磐座は天のセンターなのである。
この大祓祝詞では、【語止めて】とは、議論なしに改悟せしむるの意であるそうだから、ここは、あらゆる議論をし尽くして、あらゆる雑念想念を払って、想念停止した時にサハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ)たる天之磐座が放たれるということになりそうだ。

天孫降臨とは他人のことではなかった。
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国分寺と一の宮

2015-12-28 05:39:08 | 冥想アヴァンギャルド
◎歴史とパワー

国分寺は、仏教の寺であり、一の宮は古神道の神社で、宗派が異なる。どちらも宗教センターでありながら、どちらがパワー・スポットとして参詣されているかを見ると、一の宮の方なのは興味深いことである。

国分寺とは、741年,聖武天皇の勅願により,国ごとに建てられた官寺。正式には僧寺を金光明四天王護国之寺,尼寺を法華滅罪之寺といい,奈良の東大寺を総国分寺,法華寺を総国分尼寺とした。歴史は古い。

これに対して925年に全国神社ランキングである延喜式に掲載されている神社が、全国の一の宮になっているが、それぞれの神社で祭神は異なるけれどもその地方で古くから尊崇されてきた神社である。

よってどちらが、日本国のオリジナルなパワースポットかと言えば、一の宮と思われる。
いわゆる師事していた聖者が亡くなればパワースポット巡りをするという傾向があるものだが、それで巡礼するのは一の宮の方だろう。

もっとも神社の方にも護国神社があるが、これは明治以降の神社。創建が新しいから一律にだめということではないが、ご神体を奉斎したからには、由緒はあるということだろう。

仏教のお寺では、ご神体みたいなものは仏舎利になろうが、どの寺にもあるわけでなくとても稀であって、仏教も古神道も物を拝みにいくわけではないとうのが、とてもまともなことと思う。

古神道で言えば,古寺古社参拝は、幽斎と顕斎のうちの顕斎の一部ということになるだろう。
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江角マキコ もう迷わない生活

2015-12-27 07:10:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎ロハスから大慈悲

「江角マキコ/もう迷わない生活/集英社」は、俳優でお子さんもいらっしゃる彼女のロハスな生活ぶりを特集した本。

一般に俳優の人の特徴は、発声練習を繰り返しているので、音量のある声をお持ちでかつ姿勢を正しくする努力を常にしている点。また世間の客商売では、作り笑顔とお辞儀スタイルと身だしなみは要求されるのだが、彼女のロハスな生活では、特に姿勢の正しさに力点があるように思った。

彼女は日頃の生活習慣がちゃんとしていれば、ジムなどでの運動は不要と見ている。
彼女のエクササイズはストレッチと散歩が基本。

ジョギングはしていないけれど散歩時にガラスに映る自分の背筋をチェック。歩くとき、坐っている時、立っている時、左右均等に体重をかけ、頭の先から足の先まで「自分の軸」を意識するようにしている由。

四六時中「自分の軸」を意識できれば、いつかは合気道の達人の如く、自分の肉体の中心点を意識することもできるのではないかと思った。

また江角マキコさんは、横臥姿勢での呼吸法つきストレッチを披露している。これも左右均等を意識している。
残念ながら冥想タイムはない。散歩で冥想している感じ。

更に、通りで出会った交通事故で片足を失った子猫のサリーを病院に連れていき手術を受けさせ、その後一緒に住んでいることについては、簡単にできることではないと思った。ロハスだけの方ではありません。
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イスカリオテのユダは特別扱だった

2015-12-26 06:31:18 | キリスト者の秘蹟
◎13番目の係累

「原典 ユダの福音書」からイスカリオテのユダについてイエスが言及している部分。

※[]は、英訳者が推定して復元した部分。

イエスは、弟子たちに、あなた方には、私がわからないだろうと、やや挑発する発言をした。
『これを聞いて弟子たちは腹を立て、怒りだし、心の中でイエスをののしり始めた。
彼らが[理解]していないのを見ると、[イエスは]彼らに[言った]。

「なぜこの興奮が怒りに変わったのか。あなたがたの神があなたがたの内にいて、[・・・]があなた方に心魂の[中で]腹を立てさせたのだ。あなたがたの内にいる、[勇気のある]完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい。」

彼らは口を揃えて言った。「私たちにはそれだけの勇気があります」

しかし彼らの霊は、イスカリオテのユダを除いて、[イエス]の前に立つだけの勇気がなかった。ユダはイエスの前に立つことができたが、イエスの目を見ることができず、顔をそむけた。

ユダはイエスに[言った]。「あなたが誰か、どこから来たのか私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」』
(原典 ユダの福音書/編著者ロドルフ・カッセル他/日経ナショナルジオグラフィック社P27-28から引用)

「あなたがたの内にいる、[勇気のある]完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい。」とは禅問答でよくある質問。これに対してユダだけが出てきたのも、師イエスに近い悟境の人物がまともな回答をしてくるという頻出パターン。彼らのグループが自由で真剣な冥想修行の場であったことがうかがわれる。

ユダが目をそむけたのは、この時点では、師より一段遅れていることの自覚であろう。

この問答のあと、イエスはユダだけに「王国」の秘密を教えてくれる。王国とは不死の王国だが、当然来るべき千年王国のことでもある。秘密を教えられてユダは王国に達することはできるが大いに嘆くことになるだろうと、イエスは不気味な予言を残す。

イエスは、その嘆きの原因を、12使徒が再び全員揃って神とともにあるために、だれかほかのものがユダにとって代わるからだと、説明する。これによってユダは、王国側に入りながら13番目の使徒という位置づけになった。

ユダが、イエスの磔刑のプロデュースができるには、そうした高みが必要だったが、嘆きという代償を払う。いわゆるメジャーな社会組織の側には居られないということなのだろう。これは13番目の係累はいつもそうなのだということを示す。

不死の王国バルベーローとは、言葉で表現できないからバルベーローなのだろうが、正統的表現である。
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核武装ドミノ

2015-12-25 03:51:02 | 時代のおわり
◎世界は既に不安定

ここに来て、アメリカの核の傘の衰退と、北朝鮮の核武装の長期的影響が周辺国にようやく具現化し始めようとするのか、韓国にも核武装論が登場し、台湾も核武装を検討しているようでもあり、平和国家日本もその延長線上で核武装が想像されるような雰囲気がうかがえる。

中東でもサウジアラビアなど核武装国家が増えそうな雰囲気であり、物騒なことである。

小国が容易に核を持てそうだということになると、国際政治は一気に不安定化する。国際政治の一強の重しが取れれば、いきなりなんでもありの仁義なき戦いが国家間で繰り広げられる可能性が広がるということ。

こうした小国分立抗争から世界が安定するまでは、中国では、春秋戦国時代から秦の統一まで500年を要し、日本では応仁の乱から家康の統一まで200年を要した例から見ても、収束までは非常に時間がかるもの。

おまけに今次は核がある。核は国民と生活基盤を一気に崩壊、喪失させる。生き残っても山野の残留放射能は核種によるが30年も残る。

こうした形勢のあることを20世紀の覚者たちは既に予測して、「第三次世界大戦はある」とか「核戦争は起こる」とか言っていたのだろうと思う。こうなってみれば不思議でもなんでもなく、理の当然の如くこうなってしまったが、一人でも半人でも日々冥想に取り組む人が多ければ、その形勢が変わることがあるかもしれない。
他人の悟りがあてにならぬように、自分で坐るのだ。
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神政とは

2015-12-24 03:00:50 | 古神道の手振り
◎祭政一致の大道

出口王仁三郎の「祭政一致の大道」(国会図書館デジタルアーカイブ)より。
『神政とは、神代における政治の意義であります、故に義は進んで神代の解釈に移らねばならぬのであります。

日本神典及び大本の啓示によれば、神代とは万有万神が各自の大本源を知悉し各自の大本源に基く各自の天職を、完全に成し遂ぐるの世なることを示させ給ふのであります。万有万神が各自の大本源を知悉する事が神代に於ける第一の最要件であります。』
(祭政一致の大道/出口王仁三郎の/天声社P6から引用)

各自の大本源とは、大神のことであり、アートマンのことである。大本源などと古神道らしからぬ用語を出してくることが近代的と言えば近代的。神代とは、構成引全員が大神を知悉する時代。

この文に引き続いて、出口王仁三郎は、万有万神が各自の大本源を知悉しているから、いささかの騒乱も起きず、和気常に満ち、和楽長へに尽きない。また大本源とは、大神であり、ヤソであり、呼び名は様々あるが、その実態は大本源である、とする。

更に万有万神が各自の大本源を知悉しているから、天に二日なく地に二王ないということが全員に了解されるので、ここに天皇の権威を神剣にて示すことになる。これを祭政一致の本義であるとする。

今更ながら、祭政一致の前提は、人類全員が神を知ることであった。
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核戦略の変質

2015-12-23 06:53:41 | 時代のおわり
◎核は使ってもよい兵器になった

核は大量破壊兵器だから、核先制攻撃が起きると容易に全面核戦争に移行するから、冷戦下では核は使えない兵器として存在する。よって沢山核を持っている方が核を抑止力として機能させ得る。これが核抑止力の基本大原則だった。ところが、これが中国が過去20年にわたってこっそり核戦力を増強し続けたことで、崩れてしまった。

いまや核は「使える兵器」になった。ICBM大陸間弾道弾搭載の核は、戦略核とされ、これに対し小型核は局地戦で使える戦術核として、主として旧ソ連戦車隊の西ヨーロッパへの奇襲攻撃における西側の通常兵器での劣勢を挽回する手段として開発が進められてきた。要するに小型核は以前から使える兵器だった。

ところがここに来て、全面核戦争を辞さないで、大型核をも使用する考え方の国が台頭してきた。それが中国である。
『かつて毛沢東は、「アメリカの核兵器など怖くない」とし次のように語ったという。「中国には広い国土がある。よって核兵器を落とされたところで、その効果を吸収してしまう。国民の多くが核爆弾で死んでも、中国人が全滅するわけではない」』
(日本人が知らない「アジア核戦争」の危機/日高義樹/PHPP31から引用)

共産主義の国は相手国を戦乱に陥れて、その混乱に乗じて自国の権益を伸ばすという基本戦略があるようで、前の大戦では日本もこれにやられたふしがある。核戦争によるアメリカの混乱もそうしたチャンス・メークに過ぎないと考えているのが謀略家毛沢東の面目躍如といったところだろうか。

核が実戦では使えない兵器であることを前提にして核戦略を組み立てた時代は終わった。天安門事件では民主化を叫ぶ丸腰の学生たちを戦車や銃で惨殺したように、民主主義に対してリスペクトのない国家が、西側民主主義国に対して核によってそのような挙に出る可能性があることをようやくアメリカも気が付き始めたのだろう。

なにしろ、中国は冷戦下においては、アメリカの軍事的友好国の一つの位置づけであって先端軍事技術をどんどん供与され続けてきたそうだから、これまでのアメリカのあまちゃんな対応の責任は大きい。

戦前の国士内田良平は、出口王仁三郎の盟友だったが、中国の獰猛な本質を早くから見抜いていた。GHQのために戦後そうした議論が表に出ることは封印され続けてきたのだろう。

それと全面核戦争が起こったら、中国人は生き残るかもしれないが、核の冬などの気象異変は全地球に及ぶことなどおかまいなし。そんな姿勢は、大気中のPM2.5が基準の何十倍になっても排出ガス規制を進めない中国各都市のマスク人民のテレビ映像で日々確認できるようになってしまった。

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風土とコーヒー

2015-12-22 06:45:52 | 究極というものの可能性
◎過去食べられてきた日々の意味があるか

先日喫茶店に入った。同じコーヒーのはずだが、コーヒー一杯の値段は、マックの100円を皮切りに、200円程度から400円台までに分化し、観光地での600円コーヒーまである、もちろん一流ホテルでは800円、1000円のコーヒーも出る。値段ほどの味の差がないのは皆知っている。

アイス・コーヒーというのは、フレーバー、アロマを楽しむという点では邪道かもしれないが、夏には欠かせない風味を提供してくれる。夏においしいコーヒーは、ブラジルでよく飲まれるお猪口サイズのコーヒーカップのカフェジーニョ。カフェジーニョは特濃エスプレッソなのだが、これにサトウキビの砂糖をどっぷり入れて飲むのがたまらない。

でも日本でエスプレッソを飲んであまりおいしく感じたことがないので、おそらくカフェジーニョのおいしさは、亜熱帯ブラジルの風土にマッチしているのではないかと思った。

何年か前に初めてスターバックスに入った時に、コーヒーのフラペチーノに直面した時に、おふざけもここまで来たかと、一瞬の感慨を覚えた。コーヒー本来の味も香りもないがしろみたいなものだから。

コンサートでは、アーティストの技量、オーラ、パフォーマンスもさることながら、聴衆の質も問題になる。ことほど左様に、喫茶店ではどんなお客さんがいるかということが肝要。
ドトールとかプロントでは、近所の常連老人軍団が一角を占めていることが多い。これは200円台以下の喫茶店の傾向。これがスタバになると、長居の学生が主流となり、老人はぐっと減る。

老人の談話内容が自ずと耳に入って来るが、老人ゆえの品位とたしなみを感じさせられる会話はなく、下品、ゲス、露骨な話ばかりなのは、戦後70年の文化レスなエコノミック・アニマルのなれの果てのせいか。人間の本質への洞察もそれに迫る迫力もない。こういうのを中有的文明社会と云うのだろう。

中国人は食えることがまず問題さと人は見下したように言うが、翻ってずっと食えてきた日本人の老いてきた姿がこれでは、食えることに意味があったのかと、日本の産土(うぶすな)の神々はがっかりしているかもね、などと思った。

過去何十年食えてきたことに意味があったのかというのは、四捨五入すると還暦に近い我が身の自戒でもある。この年になっても生きる意味を問わざるを得ない。

同年代の同僚をみると、そうした気力、関心、好奇心を失った人も相当にいる。老いるとはそういうものだろう。若さの価値は老いて知るが、老いてからでは間に合わないものが多い。求道なんてのもそうだろう。
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聖者を認めない国

2015-12-21 03:48:26 | 冥想アヴァンギャルド
◎冥想修行者から見た「邪境」

岩波文庫のブッダ 悪魔との対話から

『「人が生まれたときには実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
毀(そし)るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者――かれは口によって禍いをかさね、その禍いのゆえに幸せを受けることができない。

賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その不運は僅かなものである。

しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運〈罪〉はまことに重いのである。
悪口を言いまた悪意を起こして聖者を毀る者は、十万と三十六のニラップダの(巨大な年数のあいだ)また五つのアップダの(巨大な年数のあいだ)地獄におもむく』
(ブッダ 悪魔との対話/岩波文庫P111から引用)

日本は信心深い国だから、善男善女が毀(そし)るべき人を誉め、また誉むべき人を毀るなどということはよもやあるまいなどという先入観があるものである。ところが、日本は出口王仁三郎を二度に渡り10年以上を牢獄に幽閉したばかりであるし、多くの国民はそのことすら知らない。

宗教はアヘンであると言うような国家指導者は、聖者を毀る者の代表格であるが、そういう国のことは、「邪境」と言われてもしかたあるまい。辺境でも異境でもなく冥想修行者から見れば「邪境」。
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毛沢東 日本軍と共謀した男

2015-12-20 06:22:27 | 時代のおわり
◎毛沢東の見た楽園像

毛沢東 日本軍と共謀した男/遠藤誉/新潮社」は、毛沢東についてあちらの国だったら書いてはいけないことを沢山書いた本。

毛沢東による知識分子への文化大革命などの何度かの弾圧は、実は毛沢東が北京大学図書館で単純労働みたいなことをさせられて冷遇されたことに対する知識分子への反発にあるらしいということ。でも北京大学は北京大学で毛沢東自筆の「北京大学」という扁額を大事にしていたりするのだが・・・。

本の題名になっている毛沢東の日本軍との共謀は、別に不思議でもなんでもないが、公式見解やらマスコミのこれまでの報道とは違うだけ。敵の敵は味方。

中国共産党草創期メンバーで、真実・秘密を知り過ぎた有力な人物は、追い落とされたり嵌められたりして、どんどん命を奪われていくが、その中でずっと残ったのが、廖承志、葉剣英や、習近平の父親の習仲勲だったとかは、秘密結社国家ならではのことである。

この本では、毛沢東は悪玉みたいな扱いだが、毛沢東の事績は食料の自給、つまり国民が皆メシを食べられるようにしたことが第一だろう。毛沢東の晩年の時代は、生活水準は低かったが、皆食べられたので、清貧を分かち合うみたいな、清新の気風はあったし。腐敗汚職売官も今ほどひどくはなく、それなりに十億人民の平等感もあった。ただ根本は共産主義なので、いつの時代にも階級敵を見つけ出し批判打倒し続けるという、陰惨であり、地獄的な面は随伴していた。

次の千年王国は、農業中心とも言われるので、毛沢東の時代の農業中心主義と清新の気風は、千年王国に通じるものがあるように思う。毛沢東の国家ビジョンというのは、20世紀の冷戦、コミンテルンの強力な影響という時代背景と中国共産党の血で血を洗う歴史とのコントラストを見れば、人民の生活の安寧という点では、独特でありながら、超時代的な楽園像を映していたのかもしれないと思う。
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ジム・デコーンの時間空間と自我

2015-12-19 05:40:12 | 冥想アヴァンギャルド
◎オカルティストの典型的世界観

ジム・デコーンが、向精神性薬物の使用によって、世界認識が変貌することから、以下の10の仮説を立てた。

『1.人間の精神は物質的存在を超越する。したがってわれわれは多次元的存在でなければならない。

2、自我は精神の中核ではなく、より大きな実体の時空の一部にすぎない。その実体は、自我が無意識の精神として感知するものから現れ、進展する。

3、時空は実体の一部であり、唯物論者の立場は文字どおりにとれば幻想である。

4、意識とはエネルギーの一形態である。

5、物質とエネルギーは同じ基本的現象が相対的に現れたものだから、次元によって物質がエネルギーであったりその逆であったりする。したがって、

6、ある次元では、思想とは「物質的」存在である。

7、自我意識の働く次元では、このような霊的な知性は、通常なら自我意識に気づかないような実体を体験するはずである。

8、これら隠れた力は「自分のことで精一杯」なので、時空の因果関係を離れたところで働き、自我の主観的経験を象徴的に物質的領域に映し出すことが多い(共時性)

9、他者の精神的エネルギーは、意識的に焦点を当てるにしろ無意識にしろ、精神的にも肉体的にも直接人に影響を与えることができる。

10、時は意識そのものに関係があり、複雑に結びついている。』
(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P64-65から引用)

これらの仮説は、大まかには想念の実現について語っていることから、メンタル体と肉体の関連に気がついていて、それの現実への現れ方を示唆している。ある精神エネルギーが現実化するメカニズムは、まず実現に至るケースと実現に至らないケースがあるだろうという区分から始まる。

想念を現実化させるというのは、基本的には密教的アプローチであり、密教では観想法を駆使して現実化にチャレンジしていく。その入り口で問われるのは世界の真善美なる秩序を破壊する方向で、想念を組み立ててはいけないということ。

要するに利己を完全に脱却できていなければ、正しい方向で想念コントロールする修行を行ってはいけないということ。

ところが向精神性薬物は、服用する人物の正邪を問わず与えられるものであるから、以上の10仮説が本当らしいから、ラリって金、地位、名誉、恋愛などの世俗的願望を自分の思うままにしようなどと思い立つのは、地獄への直行便に乗り込むようなものではないかと思う。こういうのがブラック・マジックであって、真正な求道者は相手にしてはいけないものである。

それはさておき、以上10仮説はオカルティストの典型的世界観であり、結構いい線に行ってるとは思う。人間は既に多次元的存在ではあるのだが。


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上杉謙信の死を厭わず

2015-12-18 05:44:44 | 丹田禅(冥想法8)
◎死を必する者は生く

上杉謙信は、禅僧益翁のもとでに打ち込んだ。
謙信は生前に、家臣たちに次のような訓戒を残した。

「生を必する者は死し、死を必する者は生く。
要はただ心志の如何にあり。
よく此の心を得て、守持するところ堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、何ぞ生死に関せんや。
予、つねに此の理を明らかにして三昧に入れり。
生を惜しみ死を厭うがごときは、いまだ武士の心胆にあらず」

これは、命の奪い合いを事とする武士達に対して、死を厭っては敵との勝負に負けると言っているわけではない。あるいは、「生きることに固執してはいけない。死を怖がってはいけない」などとひたすら思い込めば良いなどと言っているわけではない。

生死を超えるという、非日常の、体験とは言えない体験を経て初めて「生を必する者は死し、死を必する者は生く」というロジックに生きる。
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一生を数秒で見る

2015-12-17 05:41:28 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎マリファナと防御の喪失

ジム・デコーンは、1971年冬ニューメキシコの山岳地帯で自給自足の生活をしていた。ある日知人に夕食に招かれ、疲労困憊した状態でマリファナを勧められた。その結果彼は通常の防衛機能を失い、知人の無意識の敵意が彼のみぞおちにショックを与え、彼はほとんど気を失いそうになっている自分に気がついた。

ジム・デコーンは、外の空気を吸いに行くなどと言いながら、零下20度の外に出た。その冷たい外気はショックを与え、彼はトラックにもたれ掛かろうとして気を失って倒れる一瞬の間に、馬車や18世紀の服装をした人が出てくる、誕生から老年を迎えて比較的高齢で死に至る完全な一生が、加速されていない「リアルタイム」で進行するのを見た。

死を迎えた瞬間彼は自分がトラックの泥で固まったタイヤのそばに横たわっていることに気がついた。
(以上出所:ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P39-40)


高粱一炊の夢では、夢だったのでそんなものかと思うが、加速されていない「リアルタイム」で進行するドラマは、現実そのものだが、後で語ることになれば「夢」としか表現できないのだろう。これは、まさに体験であって、体験とは言えない体験とは別物である。
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