アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

内田良平の『支那観』に見る中国人の悪い面-2

2015-09-30 05:24:09 | 時代のおわり
◎第二の元寇

内田良平の支那観により、中国人の徹底した個人主義と我良し的発想と、公徳心のなさ、守銭奴ぶりを見ることができる。

こうして中国人は、空気を呼吸するように嘘を言い、他人を騙し、小役人も大官僚もなべて賄賂を要求しないことはないし、そうした悪事をなすことに恥じることがない。これを見て内田良平は、この国民精神のなさに驚き、また西欧列強の膝下に屈しても政治家は党争を事とし、国民は私利に汲々とし羞恥を知らないとする。

毛沢東在世時は、中国もここまでひどくはなかったが、小平以来の改革開放は、結果的に黒い猫ばかり増やすことになった。内田良平の支那観以来90年になろうとするが、中国人の本質は人肉食を除けば何も変わっていないのではないか。

また遊民社会は、秘密結社の温床であり、上部構造としての共産党支配を支えているのだろうが、失業者の増加、公害、暴動の増加は、秘密結社の活動の拡大を招き、共産党の締め付けを弱めていくことになる。

内田良平は、巻頭で、中国で前政権を打倒した勢力は、わずかの例外を除いて、首都を離れた僻遠の地で革命の兵を起こしていることを挙げる。中国では、過去一貫して為政者層と民衆層が完全に分離していて、悪政に憤った首都の民衆が革命を起こし政権を握った例が少ない。

今次についても、四分裂を予想する声が多いが、そのきっかけは、北京からはるか離れた辺境の地で起こるというのが有力予想となる。

中国人の思考と行動様式については、全体調和と文明人としての矜持、エチケットが骨身に染みついている日本人からすれば、あまりにかけ離れていることに驚かされるだろう。中国人とは日本人の眼からみれば、えげつなさ、人の悪さ、非情さの極致を生きる民族であり、そのことに納得するのにやや時間を要するかもしれない。中国とは中国人の集団であるが、このようなグループは、いわば集団我欲の暴力装置であり、中国に配置された日本全土を狙う大陸間弾道弾を背景にした外交こそは、中華の夢なのだ。

内田良平の『支那観』の表紙には『国難来る』と併記されているが、いまやマスコミのほんわかな中国報道とは裏腹に、今まさに国難が近いと思う。爆買は一朝事あれば、第二の元寇に転化する可能性を秘める。


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内田良平の『支那観』に見る中国人の悪い面-1

2015-09-29 03:27:17 | 時代のおわり
◎中国4千年の自家の私利私欲が最優先

中国人には良い面と悪い面がある。悪い面については、中国にしばらく滞在したことがあるものなら実感として感じるものだが、戦前の右翼の大立者内田良平が、その著書『支那観』によって、まとめてくれている。
(内田良平の『支那観』は、国会図書館デジタルアーカイブでダウンロード可能になっています。)

内容的には以下のように、激烈な内容になっているが、これが真相に近いことに首肯する人は少なくないだろう。

☆中国人の悪い面

1.読書社会
 インテリ層(知識分子)においては、賄賂をためて蓄財し、権勢を求め私腹を肥やすことが、第一目標。指導者層の金銭万能は、巷の守銭奴におなじ。
国家の存亡とか国民の安寧は二の次である。そのくせ自家の私利私欲のためには、如何なる羞恥をも忍従する。

2.遊民社会
 遊民とは、侠客、博徒、強盗、盗賊、馬賊、土匪のことである。(中国では、侠客上がりが政権を握ったり、軍閥トップになった例が少なくない。)
あいにく中国人の悪弊とは、これら遊民の悪弊によって代表される。

(1)遊民には、政府も祖国も仁義も道徳もなく、ただ自分は快活であれば良しとし、金銀をむしり取ろうとがんばり、塚を暴いて財宝を盗掘し、大甕の酒を飲み、大塊の肉を食らうこと以外には関心がない。

(2)殺人ぶりは家畜の屠殺並みの残虐さであり、人肉を平気で食らう。

(3)盗むことについて、身分の貴賤を問わず、抵抗なく、広く習慣化している。

(4)詐欺を行って他人の財物をだまし取るのが良いこととさえ考えている。人をだますことについて厚顔である。

(5)賭博は中国では悪いこととされない。論語でも何もしないより、博打のほうがましなどと説く。

(6)中国の礼とは、賄賂をもらう作法である。孝ですら利得を求める口実である。中国人は、戦闘中、弾丸の飛び交う中を戦死者の懐中を漁るために、死の危険を冒す。

(7)中国人の淫欲は限りがない。

(8)中国人は、不潔を不潔としない。所かまわず糞尿をする。

(9)中国人は、物を濫費し、再生保存に努めない。(山林など)

だが、遊民社会は、読書社会の消長を左右する。


3.農工商社会
 普通の農工商社会とは、ただ個人の利益を追って生活する者のこと。彼らは全く個人本位で、個人の生命財産さえ安全ならば、君主のようなものは戴いても戴かなくても可である。彼らは、ただ租税や労役が少ないことだけを願う。自己の利益につながらないことにはわれ関せずである。


このように中国人は、徹底した個人主義であり、功利主義であり。そうであることに人間として恥じることがない。
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臨済の悟りの四つのあり方

2015-09-28 06:18:43 | 丹田禅(冥想法8)
◎四料揀の白髪頭の子

臨済は夜の説法で、修行者達に教えて云った、「私は有る時は人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)。有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)。 有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)。有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)」。
その時一人の僧が尋ねた、「人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)とはどのような境地ですか?」
師は云った、「春の陽光が輝く季節になると、大地は百花繚乱、錦のしとねのようになり、みどり児の垂らす白髪は絹糸のようである」。
僧は尋ねた、「境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)とはどのような境地ですか?」
師は云った、「国王の命令はあまねく天下に行われている。辺境を守る将軍は戦乱ののろしを全く上げない」。
僧は尋ねた、「人境ともに奪う(人境両倶奪)とはどのような境地ですか?」
師は云った、「并州と汾州は中央政府と断絶して、今や一方的に独立している」。
僧は尋ねた、「人境ともに奪わない(人境倶不奪)とはどのような境地ですか?」
師は云った、「国王は宮殿に鎮座し、老農夫は自由を謳歌する」。

1.人を奪って境を奪わないとは、見ている自分を去って、世界になりきっている。人は、なんとしても白髪頭の子を産まなければならないのだ。見ている自分は残るのでファイナル・アンサーではない。
2.境を奪って人を奪わないとは、客観性だけの境地で、一般社会人の意識レベル。
3.人境ともに奪うとは、自意識と社会の客観性が並立し、葛藤・対立が起きている状態
4.人境ともに奪わないとは、人も外境もそのままで何も問題のない状態。鼓腹撃壌である。

と読んだ。黄檗は『凡夫は境を取り、道人は心を取る。心境ならび亡ず。すなわち是れ真法なり』と言ったが、これと意味は通ずる。

白髪頭の子は、老いたる子としても洋の東西を問わず現れるが、世間ではあまり意識されていないようだ。
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日本人は正直か

2015-09-27 07:30:31 | 丹田禅(冥想法8)
◎古梁紹岷

古梁紹岷(1753~1839)は、江戸時代の臨済宗の僧。江戸東禅寺の万庵について得度。後に松島の瑞巌寺などの住職についた。

古梁12歳の頃、品川の東禅寺で小僧をやっていた。ある日仙台の伊達侯が、先代の法要のため東禅寺に参詣した。書院で休息している伊達侯に、古梁が茶を持ってきたが、それを受取ろうとした伊達侯は誤ってひっくり返し、袴を濡らしてしまった。

不当にも伊達侯はこれを怒り、刀の柄に手をかけ無礼打ちにしようとした。
古梁はひれ伏して謝罪したが、一向に許してもらえない。

すると古梁が、ささっと前に出て、「それでは、斬ってください」と従容と首を差し伸べて、騒ぐ様子もなかった。

これは自分のしたことについて、言い分が聞き届けられないということで、得心はできないものの、自分の運命に正直に従ったもの。潔いものだ。
これも平素からこのように率直でなければ、いざという場合にこのようにはできない。

最近の日本人はこういう『正直さ』を持つ人が少なくなったように思う。功利が効きすぎてゴネ得を許し過ぎる社会が広がった。

自分の運命に正直であるということは本来自然の姿なのだが、戦後『ネバリとガンバリ』、『運鈍根』など、執着を促すスローガンが広がり過ぎた。『潔さ』は、スケベ心を出さない、つまり余計な欲をかかない、分に安んずるということなのだが、こうした心的傾向も戦後日本人が冥想をしない背景となっているように思う。

直面せずに、誤魔化して粘る心性が良しとされる風潮が強いのだ。
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善行にも悪行にも飽いた人

2015-09-26 06:58:14 | 冥想アヴァンギャルド
◎苦と遊戯

人の行為には、悪行と善行がある。悪行の結果は罪であり、善行の結果は、功徳である。
悪行を積み重ねれば地獄に行き、善行を積み重ねれば天国に行く。

地獄では、あらゆる苦痛を受け、罪に相当する苦痛を受けることが完了すれば必ず地上への再生が起こる、とシヴァ・サンヒターでは述べている。

更にシヴァ・サンヒターでは、
天国では、あらゆる楽を受けるが、他人の繁栄を見れば苦を感じるから、この全世界は苦だ、とする。

天国にあろうが、地獄にあろうが、個である以上個のくびきは逃れられないので、これを苦とするのは、疑問の余地はなく、生真面目であるがゆえに厭世的な釈迦の姿勢につながる。

釈迦は、この世を苦と見たが、ダンテス・ダイジは遊戯と見た。苦と見る視点は、個人からである。遊戯と見る視点は、全体からであるが、その中でも個として味わい楽しめるという愛と冷静さがある。英雄に閑日月あり。

シヴァ・サンヒターでは、善行にも悪行にも飽いた人を想定している。善行にも悪行にも飽いた人とは、現代人のことである。つまり社会における自己実現が現代人の人生の最大の目的みたいに言われるが、その結果が善行であり悪行である。つまり自己実現で起こるあれこれ、すべった、ころんだ、うまい目に会った、そうしたあらゆるものに十分飽いた人が、この善行にも悪行にも飽いた人。これは単なるその時の気分のことではなく、人間のあらゆる実感を味わい尽くした人とも言い換えることができるように思う。

そうした人は、以下のように冥想の道に進む。冥想は万人の道だが、自分を素直に見つめた時に、「十分やり尽くした、十分味わい尽くした」という感じがなければ、冥想を始めるタイミングは熟していないかもしれぬ。だが、それでも坐り始めるのも重要。

『現世と来世における果報を嫌うものは果報を伴う行為をすべて捨てるべし。

定例と臨時のどちらの行為に対する執着をも捨てて、ヨーガの道に進むべし』
(シヴァ・サンヒター(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社P150から引用。))

※定例は毎日行う行為、臨時はそれ以外の行為くらいの意味。
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テレビが壊れた

2015-09-25 06:51:57 | 時代のおわり
◎明るくていつまでもなんとかなる的な世界

テレビが壊れた。購入後6年目。一日に1時間もテレビを見ることは少ないので、さほど支障はないかに思われた。

日常生活の中で最低限必要な情報は、天気予報であり、交通情報であり、一部の自分に関連するニュースだけである。テレビであれば、これらが、他の関係ない情報中に含まれて流れてくるのだが、テレビが壊れると自分でネットで調べなければならない。

よってテレビは人を極めて受動的にし、余計な情報を沢山詰め込まされる。つまりテレビが優秀な洗脳装置と言われる所以はここであったと改めて感じた。ネットは自分で検索しないと情報に行きつかないから、能動的に必要な情報だけを取るので、その点では健全である。

そして、テレビのない日は、気分がテレビのある日と全く異なっているということ。

テレビでは、グロ・怪奇ドラマや事件報道を除くと、テレビの報道もバラエティもドラマも、すべて共通のある心的傾向性を持っている。それは、今日も明るい、明日も明るい、というような予定調和的な世界に万人が生きているという幻想的な現実感を視聴者に与え続けているということ。

こうしたアポロン的世界観をテレビの中で演じ、報道し続けることで、視聴者は自分たちもそんな幸福な気分の中で生きているが如き雰囲気に浸る。

朝起きてテレビをつけた瞬間そんなほんわか気分が始まり、つらい今日一日の勤労や学業も、なんだか癒されて始まる。さらに帰宅してテレビをつけて再びぬるま湯気分が始まって癒される。これが大方のテレビ人の日常だろう。

こうしてみると、テレビはストレスの多い現代人の感情コントロール=癒しに大きなパワーを発揮しているように思う。逆にテレビ・ヒーリングの効能が切れ始めているから、うつ病などの精神病が増えているともいえるように思う。うつ病はある意味で、感情の病気の部分がある。

冥想は、こうした「明るくていつまでもなんとかなる的な世界」の陰に潜む真相に直面させるメソッドである。だから冥想の必要性は見えにくく、わかりにくい。

また人は別の世界観に生きる必要性を感じることは少なく、人はともすれば同じ生き方を何百年でもする傾向があるともいうし・・・。
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背骨をまっすぐにする技術

2015-09-24 04:34:53 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎日課への組み込みと継続

精神状態坐相、つまり坐った姿勢を決めるという側面はあるが、冥想時に背骨をまっすぐに立てるのは基本中の基本である。

クンダリーニ・ヨーギ本山博が、背骨をまっすぐに矯正する体操を説いている。たとえば、一日中マウスを握る仕事だと、右肩が下がりがちなものだ。

彼の背骨矯正体操は以下4種
1.飛び出した背骨をもとに戻す。
(1)手足を伸ばしてうつぶせに寝る。
(2)両足首をつかみ、身体を反らして2、3秒止める。
(3)元に戻す。

2.引っ込んだ背骨をもとに戻す。
(1)手足を伸ばしてあおむけに寝る。
(2)手を使わないで、腹筋だけで上体を起こす
(3)そのまま上半身を前に倒し、額を膝につけ、2,3秒止める。
(4)元のあおむけに戻る

3.背骨の左右のズレを直す。
(1)片足は伸ばし、もう一方の足を尾てい骨の下にかかとを敷くように折って坐る。
(2)右足を折っている場合は、右手、左足を折っている場合は、左手を、伸ばした方の足の膝の外側に当てる。
(3)反対の手は、背中に回す。
(4)右足を折っている場合は、左側にはずみをつけて、上体をねじり2、3秒止める。 
左足を折っている場合は、右側にはずみをつけて、上体をねじり2、3秒止める。
(左右同じ回数やる)

上記1から3の体操を日に数回、2、3か月継続することで、背骨が矯正されるという。
(出典:自分でできる超能力ヨガ/本山博/宗教心理出版P68~73)

あおむけ・エビぞりと上体ねじりは中高年でもできるが、額に膝が付くのは少々時間がかかるかもしれない。中高年にあっては、筋力の衰えを自覚するものだから、筋肉増強系を第一に考えがちなものだが、冥想にあっては内分泌系の活性化が一番なので、こうした柔軟系の体操を根気よく続けることが必要。自分にとっては、出勤前のボディ・チューンアップ・メニューにさらに追加することになるが、年齢的にも必要性は感じる。

老境の禅者が、臨終近くになって、骨折?しても無理やり足を折って坐るようなシーンを時々読むことがあるが、そうならないように冥想修行者ならあたりまえの身体の柔軟性メンテナンスは、老境であるからこそ必要だと思う。
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この70年の真の信仰

2015-09-23 06:02:43 | 究極というものの可能性
◎只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ

70年前までは、宗教あるいは真の信仰というものは、自分の外側にあった。70年経って、自分の内側に感ずることができる人が大半になった。いやむしろ、冥想を行うことにより、自分の内側に感ずることができる可能性のある人が大半となった。

冥想手法の究極つまりツートップといえば、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガだが、只管打坐はシンプルすぎてつまらないというような誤解を生みがちなために、この時代には無視されがちである。

一方クンダリーニ・ヨーガはある意味で迂遠で、頂上が見えにくいが、世間の関心を引きがちなあらゆるスピリチュアルな要素が揃っている。一言でいえば、究極そのものを除くあらゆる中間段階のものということであって、具体的には、体外離脱、チャネリング、ヒーリング、パワーストーン、ホリスティック医療、占い(ホロスコープ、紫微斗数、四柱推命、易、手相、人相など)、風水、そしてこれらによってもたらされる、静寂、安心感、リラックス、神秘体験、ストレス解消などを期待するもの。

ところが、本来クンダリーニ・ヨーガは、密教系のものであって、この世・俗世のあらゆるかかわりを捨てた人間がチャレンジすべきものであって、俗世に生きる人間にとっては害の多いものであって、一生を棒に振る危険性があるもの。

食物を刺激の少ないものに限定し、他人と出会うことのない山間あるいは、寺院の密室で数か月も冥想三昧するのであるから、現実感は失われ、正気をも失いやすい環境に身を置くのである。よってこういう修業は、すべてを捨てた、すべてに別れを告げた人間だけに与えられるラストチャンスな技法であって、素人の生道人(なまどうじん)が手を出すべきものではない。

これもこの時代の大きな問題点ではある。こうしたクンダリーニ・ヨーガのパーツが商売のネタとして利用されていることもまた同様の害毒をまき散らしている。
こうして戦後70年が過ぎた。遠大なるが故に10年ぐらいのズレはある。

出口王仁三郎の玉鏡から。この60年を総括している。
『すべてのものは遠大なる考へのもとに準備せられなくてはならない。物事は準備の時代に六十年を要する。欅は大木になるものとは云へ、今年種を蒔いて来年それを得る訳にはいかない。

春蒔いた種は秋でなくては収穫を得られない。だから種を蒔く事を早くせねばならない。艮の金神様は三千年の経綸がしてあるから、出かけたらバタバタと片を附けると仰有つて居るが物事は準備が肝要である。

又考へると云ふ事、省ると云ふ事もトツプを切るまでの仕事ぢや。いよいよやりかけたら飽くまでそれを断行せねばならない。出発点を離れてから更に考へなほすなどの事、王仁は断じてした事はない。王仁は十分案を練つて、いざ出かけたら一歩も後へはひかぬ性質だが、世にはよい加減に考へて、さて出かけて後、あれでも行かぬ、これでもゆかぬ、と考へたり引込んだりする人が多いが、王仁はそんな事は嫌だ。』
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人の好い日本人

2015-09-22 07:28:21 | 時代のおわり
◎中国人の発想と作法

人の好い日本人は、同盟国アメリカが日本の害になるような政策を日本人には取ってこないと思いがちだが、プラザ合意や、日米貿易摩擦などにより、特に90年代以降アメリカは一貫して日本弱体化政策をとってきた。こうしてアメリカが、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン紛争などで疲弊していく中、中国が日本の脅威として勃興してきた。

日本人はとかく誠心誠意を見せれば相手も納得してくれるはずなどというあまちゃんなことを考えがちなものであるが、中国4千年の歴史は、インテリジェンスの歴史であり、何かあれば一族郎党連座皆殺しのある社会では、日本では眉を顰めるような陰険なだましの作法が当たり前とされる。

そうした作法の代表的なものには、以下のようなものがある。
1.義理を貫くためには汚い手段でも採用する
2.面子を守るためには、不正、不義でもやってしまう。
3.奸計で無実の人も陥れる
4.表では友好を装い、裏では陥れる策を練る(領海侵犯、反日教育、日本批判外交をやりながら、日中友好を唱えるなど)
5.おだてて自滅を待つ
6.味方をも欺く
7.高位者を利用して報復する。
8.お互いの妬みや恨みを利用する

普通の日本人はこうしたあからさまな性悪説を前提とした思考に慣れていない。関西人特に京都人は油断ならないなどといっても、ここまで悪辣なことはない。

およそ外交を考える上で、基本は生き馬の目を抜く厳しい生存競争の方なのだが、それを無視した人の好い土下座外交の成れの果てが、今の日中関係を招いたことになる。

バス停や駅のホームで、今日も中国人らしき人物が列を守らず割り込みをするが、彼らは日本人を仇敵と考える教育・宣伝を受けた民族である。彼らには、謙遜、謙譲、礼儀正しくという発想はまず念頭にはない。そして、一朝事有れば、日本人から奪ったり、襲ったりすることに躊躇はないだろうななどとも思う。

誠心誠意が通じる社会は、それはあるべき社会である。しかしそれが通じない相手も国もある。
かつての右翼の内田良平も中国人の本質を虎狼と見る。
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まだGHQの洗脳に縛られている日本人-ケント・ギルバート

2015-09-21 06:04:43 | 時代のおわり
◎ルーズベルトとスターリンによる世界2分割統治計画など

「まだGHQ洗脳に縛られている日本人-ケント・ギルバート/PHP」は、戦後のGHQの洗脳政策とそれを利用した中国韓国による「日本人の自虐史観」の解説書。中国も韓国も、先進国として一旦は成功した日本へのやっかみが、日本への思想戦のスタートラインになっているが、いまや中国・韓国連合となって世界中で、日本についての悪口雑言、反日情報を言いつけまわっているので、その弊害は甚だしいものがある。

戦後韓国は漢字を廃止し、ハングルだけになった。これは日本でいえば、ひらがなだけになるようなものなので、文化的には大幅に退行してしまう。たとえば橋、端、箸とか、気候、機構、寄港、紀行、機甲など同音異義語が相当にあるはずなのに、文脈で理解するとは言っても、生活面で相当に不便になるし、言語自体の深み、味わい、広がり、そうしたものが失われていく。

中国の簡体字も、同音意義の漢字を相当数思い切ってまとめてあるので、読んでいておやっと思わされることもしばしばある。中国人は、まず繁体字が読めないが、これでは歴史書が読めないということ。中国の歴史教科書の三分の一が現代史だったが、現代史ならば繁体字が問題になることは少ないせいか。

ケント・ギルバートは、これらを自国民の愚民化と、自国の都合の悪い過去の歴史を学ばせない方策と見ている。裏返せば、中国・韓国の現政権の正当化策の一環である。

驚かされたのは、「ルーズベルトとスターリンによる世界2分割統治計画」である。この計画はドイツ降伏頃までは順調にいったが、ルーズベルトの死去により、アメリカはソ連に気兼ねなく戦争遂行して、韓国、日本、台湾はアメリカが抑えることにより、若干の狂いが生じた。どうしてイギリス抜きの「ルーズベルトとスターリンによる世界2分割統治計画」みたいな信じがたいプランが二国間で成立しえたかというと、ルーズベルトの周辺には共産主義者が多かったということらしい。こうなれば、ルーズベルトもスターリンも悪人であったと評価せざるを得まい。

真珠湾攻撃は、ルーズベルトのしかけた罠に日本がはまったものとしている。

戦後70年、GHQ占領洗脳のくびきを超えて、日本人は、公平で素直に、美しい日本を自覚し、再興したいものだ。
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ボブ・フィックス-ある瞑想家の冒険

2015-09-20 07:22:26 | 冥想アヴァンギャルド
◎超能力者であり、霊能力者であり、非常にナイーブ

ボブ・フィックスは、TMのマハリシ・マヘッシ・ヨーギの愛弟子。その悟境は、十牛図でいえば、第三図には行っている。
クンダリーニ・ヨーガ系の冥想家であって、書いていることは、霊がかりである。霊がかりの弊害をあまり気にしておらず、その意味で楽天的と思った。
この著書の中で、一生懸命結跏趺坐での空中浮揚に取り組んでいたのは、どうかと思った。

一日16時間も坐れる人なので、プロの冥想修行者で、相当にわかっている人。彼は自分が普通の人だと思い込んでいるが、超能力者であり、霊能力者であり、非常にナイーブな人物であり、過去世において相当に冥想修行に深く打ち込んできた人物である。とてもじゃないが、普通の人物ではなく、生一本の生真面目さで冥想を極めてきた、人の好い人物であると思う。

やや欠けているアスペクトとしては、愛の分量が足りないように思う。それと文明的の危機という視点があるはずなのだが、こうした著作ではそれを故意に避けるのだろうか。

ラム・ダスティモシー・リアリーにも会ったことがあるというので、もう70歳過ぎの人なのだろうか。

鞍馬山でサナート・クマラの祠を訪問した話は、現代の社会人にとっては、彼とそのとりまきの個人的体験にすぎず、それに広汎な説得力を持たせるのは厳しいのではないか。
彼が唱えるように、サナート・クマラが数百万年前の地球に降臨したとして、それは何か今日の我々の生活に関係あるプロットなのだろうか。

それでもボブ・フィックス-ある瞑想家の冒険/ナチュラルスピリット は、久々に面白い本だった。
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ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

2015-09-19 07:20:55 | 現代冥想の到達点
◎だが、おまえもおれなのだ。

今日も外国人観光客の人気ナンバーワンの観光スポットは、ホワイト・フォックスの伏見稲荷でござる。

そこで、ダンテス・ダイジのホワイト・フォックスの詩。出所は彼の未公刊の「老子狂言」でそこからの引用。

愛も愛情も不安な灰色と化したこの現代に、まだ大金を儲けようという考えから抜け出せない人は、ダンテス・ダイジの歓迎する客ではない。しかしそんな我利我利亡者も彼の一部である。そうした見方は彼のやさしさではあるが、ろくでもない影響を時代に与え続けているという一側面もある・・・・・ダンテスの悪影響

『ホワイト・フォックス

ホワイト・フォックス。
おれは、長いこと、
おまえを嫌っていたらしい。
女の汚れの中の女。

何一つ見ることのないホワイト・フォックス。
おまえの頭は打算だけだ。
フォックス———
だが、
おまえもおれなのだ。
666の
黒光りしたクンダリニーとともに
今、
おれはホワイトフォックスをも飲む・・・

白狐。
所詮、おまえの神通力も、
愛の代用品に過ぎない。

そして、
いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、
ホワイト・フォックス 
おまえに一体、
何ができよう。

快適で豊富なる暮らしの神。
聖なるマンモン。

白狐。

もう、
おれは、
おまえについて、
どんな判断もしやしない!』
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ギャンブルと巨億の富

2015-09-18 05:42:12 | 冥想アヴァンギャルド
◎自分が食べる分以上にどれだけ持っているかの意味

道教系の求道者笹目秀和氏が、戦前に満州で草競馬の当たりを知人に予言してやり、知人は一レースで5百万円儲かったが、笹目秀和からその金は公共のために用いることときつく戒められていたのにもかかわらず、私したために、悲惨な最期を遂げた。

現代の巨億の富といえば、数兆円を保有すると言われる中国共産党幹部たちであり、ビル・ゲーツであり、ヘッジファンドの経営者などがいる。どんな富豪でも死後にその富を持っていくことはできない。

イエスが病気や不具者を超能力で治療してあげるが、その時は彼らは幸福の絶頂にあるが、彼らの人生はそれだけでは終わらず、老いから死に至る続編が必ずあり、それが必ずしも幸福であるとは限らない。

富豪たちも同様に富を保持している間は幸福だが、やはり老いから死に至る続編が必ずあり、やはりそれが必ずしも幸福であるとは限らない。スポーツ界、芸能界のヒーローやスターたちも同じこと。富や名声をゲットしている間すらそれをいつ失うかもしれないという不安にさいなまれる。

人の人生はトータルで見るのが、最も公平でシリアスな見方なのではないか。富はトータルな人生の一側面。人の人生は、せんじ詰めれば、一生が終わったところでどれだけ神に近づくことができたかということ。

富というアスペクトに限って言えば、人はたとえ飢え死にで終わろうと一生の食い扶持を持って生まれてきていることに間違いはない。自分が食べる分以上にどれだけ持っているかが富の多寡ということになるが、それに本質的な意味はあるのだろうか。イエスも釈迦もそれには関心を払わなかった。

今や人は無形の価値を求めるために、有形のブランドを買う。それは自分の外側であり、自分の真の姿の一部とはいえない。

富は、白狐、ホワイト・フォックスの技。ダンテス・ダイジが『もはや、ホワイト・フォックスには何の期待もしない』とつぶやいた所以はこの辺ではないだろうか。


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何か完全なこと、善きことを行おうと考え

2015-09-17 06:02:40 | キリスト者の秘蹟
◎神の意志における平静

ヤコブ・ベーメの「キリストへの道」から
『何か完全なこと、善きことを行おうと考え、そこにおいて永遠に歓喜し、それを享受しようと考える人は、我欲としての我性から脱して、神の意志における平静の中へ入り行き、神と共に働く。』
(キリストへの道/ヤコブ・ベーメ/松籟社P107から引用)

まず『何か完全なこと、善きことを行おうと考え、そこにおいて永遠に歓喜し、それを享受しようと考える人』は、すでにこの世的な幸福とか利害打算から離れた人であるから、滅多にいない人である、こうした人こそ、真の求道者であり、真の出家者であり、準備ができた人だと言える。

「私は、普段から何か完全なこと、善いことを行おうと考えていて、そこにおいて永遠に歓喜し、それを享受しようということをも狙っています」などという発言は、日本では人前で、
するのは恥ずかしいから、まずしないものである。こうしたおくゆかしさのある人が至るところにいて、いわゆる純粋な道心を持ち合わせている人が、昔から辻々にいたからこそ、日本全体が神域みたいな雰囲気を維持できてきていたのだと思う。

このような外国人から見れば聖なる伝統は、日本人の所作、習慣、祭儀などに無形の形で入り込んでおり、それを謙譲、無私などと感じることができるものだと思う。

時代は変わって、戦後、日本人自身がこうしたよき伝統を徐々に忘れ去らせるような生活様式が確立しはじめている。それが個人主義的ライフスタイルであり、最近では、意識の遊びをなくさせるメカニックとしての携帯・スマホである。

人間には社会人としての側面と私人としての側面があるが、私人としての時間のもっともプライベートな時間に自分と向き合う時間がなければ、「自然な流れ」を思い出すことはむずかしい。

社会的に求道者でないほとんどの人が、『神の意志における平静の中へ入り行き、神と共に働く』ためには、功利的価値観を捨てた無用の用に生きなければならない。

一日に5分でも冥想という習慣があれば、そうした方向への糸口になりえる。
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使徒行伝の意識レベルの低下

2015-09-16 03:40:03 | キリスト者の秘蹟
◎若者は幻を見る

使徒行伝では、終わりの世には、あなたがたの息子、娘は預言をして、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るという。この原因は、イエスの霊が下るからだと説明しているが、意識レベルが世の中全体に低下する現象が見られることを云う。潜在意識の表層意識への露出あるいは浮上である。

潜在意識の表層意識への露出あるいは浮上とは、肉体の進化の結果、この身このままで神にコンタクトする準備ができたということであり、また肉体ではないレベルに対して感受性が開けたということである。

予言というと憑依や霊言をイメージしがちだが、そのような中間レベルへの意識現象をペテロが狙っているわけではないだろう。ペテロは、そのものズバリへのコンタクトが多数の人に起きる時代を見ているのだと思う。

だからこそ、「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」と云わねばならない。

スマホを四六時中持って、顕在意識を常時働かせるという技は、潜在意識との壁を強化するという効果があるように思えてならない。顕在意識と潜在意識のギャップが深まるのだ。・・・・若者は幻を見ている・・・・

新約聖書使徒行伝第二章から
『そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、

『神がこう仰せになる。
終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたの息子、娘は預言をし、
若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。

その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、
すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに月は血に変るであろう。

そのとき、主の名を呼び求める者は、
みな救われるであろう』。』
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