アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

破竈堕(はそうだ)和尚

2015-04-30 05:09:03 | 丹田禅(冥想法8)
◎竈の神が成仏する

破竈堕和尚は、唐代中期の人、嵩岳(すうがく)の慧安国師の法嗣である。

破竈堕和尚は、嵩岳に隠棲していたが、嵩岳の近在のある霊廟に祟りをなす竈の神がいると聞きつけた。

ある日和尚は、侍者を連れてその霊廟に入り、杖でその竈を三回叩いて言った。「こら、この竈はただ泥と瓦でできているだけだ、お前はどこからきて、祟りをなすのだ。」

そしてまた竈を三回叩くと、たちまち竈が崩れ落ち、青い衣と高い冠をつけた人物が出現し、和尚を礼拝した。

和尚がお前は誰だと問うと、その人物は、「私はもともとこの竈の神で、長い間カルマの報いを受けていた。本日和尚の説法のおかげで、竈を脱し、天に生まれ変わることができた。そこでここに戻って謝意を表するものです。」

和尚は、「これはあなたの本有(ほんう)の性(本来の自己、アートマン、十牛図の牛)です。私の説法の力などではない」

竈の神は一度礼拝して、姿を消した。

以後和尚はこの故事を以って破竈堕和尚と呼ばれた。この話は除霊のことではない。

竈の神ですら、自分が本当は一個の神であることを悟る。いわんや人間をや、いわんや仏弟子をや。その悟りは他人から教わるものではない。
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人間としてやってはいけないこと-1

2015-04-29 06:20:50 | 時代のおわり
◎国家分割は悪魔の所業

ある日、昭和30年代のコメディアン植木等主演の映画を見ていた。すると彼がもめごとが起きている二つの当事者の間に割って入り、当事者双方から金をもらうという生業をしていたのには驚いた。いわゆるやくざの所業であるからだ。

これは個人レベルのことだが、国レベルでも似たようなことがまかりとおっている。

つまり、もともと一つになっている国や地域をわざわざ2つの国に割れば、割った側は儲かるものだ。割られた国は、その二者間にもめ事が必ず起こるものだから、第三国(宗主国や戦勝国)が適度に割って入れば口利き料やら利権(石油など)やら儲けることができる。

こうして割られた国は、北ベトナム・南ベトナム、韓国・北朝鮮、中東全域、ソヴィエト連邦、東西ドイツ、インド・パキスタン・バングラデシュ(昔は3国一体だった)、ユーゴスラビアなどがある。

こういった分割を主導したのは、英米のアングロサクソン系が表面に立っているが、裏面ではフランスやドイツもそれぞれ自国の獲物を追って、こうしたプロジェクトに一枚噛んでいるものだ。日本の明治維新の時も幕府にフランス、薩長にイギリスが付き、国を割られるところだった。

さてこうして分割された国家地域が統合する時にも、大体統合主体になった側がそのコスト負担をするのだが、旧宗主国などの第三国は仲介者や既得権者の立場で多くの利権を獲得できる。

要するに欧米の旧帝国主義列強は、割った時もおいしく、また統合した時もおいしいという、二度おいしさを味わえるスキームを組んでいる。

分割統合された地域では、しばしば軍事紛争が発生し、兵器マーケット活況を招来し、戦場となった地域は、生活水準が下がり、民生用資材・商品の輸入需要が高まる。ところが、戦場となる地域は、沖縄でもわかるように数世代にわたって戦争のトラウマは消えないものだ。

こうした外国による他国の分割・統合は、被害国の悲惨は全く顧慮しないので、悪魔の所業である。能天気な日本人には想像もつかないが、そうした陰謀・たくらみの密談が欧米の政策決定層ではいまでも平気で交わされているそうだ。例えば朝鮮統一は既定事実みたいに語るなど・・・(参考:北朝鮮VSアメリカ/原田武夫/ちくま新書P139-141)。

世間にそういうことがバレると拙いので、旧帝国主義列強はグローバルとかフェア(公正)とか規制緩和とか、歴史認識とか言って、マスコミ支配と情報操作を盛んに行っているものだ。

さて、こうした目でみれば、AIIB=アジアインフラ投資銀行は、欧州がAIIB側に付き、アメリカが加入しないので、さも欧米が分離したかのように見えるが、その実、中国分割に向けた壮大な陽動作戦が蠢動始めたのかもしれないと見る事もできる。
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元政上人 心を入れる所作

2015-04-28 05:24:00 | マントラ禅(冥想法7)
◎整っていない所作などない

元政上人(1623年生)は、江戸時代に京都深草で活躍した日蓮宗の僧。姉が彦根城主井伊直孝の側室であった事が縁で、城主の近習に取り立てられたが、後に洛中妙顕寺に入り、出家した。日蓮宗ながら他宗を批判する折伏主義をとったのではなく、内省・観心を重視したことから仏教各宗の僧と交流が広かった。

彼の日記から。
元政が草紙を作ろうとして紙を折っていると、ある僧が手伝いましょうと言ってきた。元政は、「これも修行である。心からひずまないようにすれば、ちゃんとしたものができるだけでなく、心も正しくなる。大体心を入れず手だけをもってすることは、これに限らず美しくないものである。

戸の開けたても鳴らないように気をつけ、履物を脱ぐのも曲がっていないようにするは、見栄えをよくするだけのことではない。心を修めるためである。

(中略)

心を入れてやるべきである。およそ何事も修行にならないことはない。物を二つにするは皆根本に基づかないゆえである」

最後の文の、物を二つにするとは、あなたと私の区別がないこと、主客一体、男女の別がないことなどと同じ。

根本に基づく行住坐臥を行うために挙措一つ一つに心を入れるというのは、未悟の立場から語っている。まだ世界は逆転していないのである。

悟ってしまえば、挙措も自ずから整う。整っていない所作などないという。禅ではこの違いを六祖慧能と神秀のエピソードなどで示している。
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弓と禅

2015-04-27 03:30:45 | 丹田禅(冥想法8)
◎不射之射

オイゲン・ヘリゲルの「と禅」には、彼の弓の師匠が、真っ暗な中、1本の細い線香を点じさせ、2本の矢を放って、二本とも金的にあたりしかも二本目は一本目の矢の軸に当たっていたという奇跡的技を見せたと書いてある。

似たようなモチーフが『列子』湯問篇の「名人伝」にある。

弓の名人飛衛に紀昌が弟子入りして6年、既に師匠の技をしのぐ域に達したので、飛衛を殺そうと思い立った。
さる野原で飛衛と紀昌が対決して双方矢を放ったところ、二人の中央で矢尻と矢尻が衝突し地面に落ちたが、ほこりも上がらなかった。この時、紀昌は1本矢を残し、飛衛は矢がなかった。好機と見た紀昌が最後の矢を射ると、飛衛はとっさに道端の棘刺(いばらのとげ)を拾い、とげの先端をきっちり矢尻に当て防いだという。

また『荘子』田子方篇の「不射之射」にも似た話がある。

こうして見ると、オイゲン・ヘリゲルの見た師匠の二本目(乙矢)は、心眼で見た命中だったのではないかと思った。
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ネパールでM7・8の地震

2015-04-26 06:58:30 | 時代のおわり
◎マニピュラ・チャクラの活性化など

2015年04月26日 ネパールでM7・8地震の地震があった。これは、1983年(昭和58年)5月26日の日本海中部地震(震源、秋田県能代市西方沖80kmマグニチュードは7.7。)や、1968年の十勝沖地震(M7.9)並みの巨大地震。

カトマンズやポカラにも相当被害が出ているとのことだが、なんでもネパールの長期滞在日本人は1100人もいるとのこと。ネパールは高地であって、空気も薄く、水も悪い。そういう土地だが、釈迦が生誕したのはネパールである。釈迦在世中から釈迦の王族は没落の兆しがあった。仏教もインドでは13世紀には滅亡し、今ネパールには仏教は残っているが、ヒンズーと混在しているらしい。

日本人がこの地に長期滞在する理由は、勿論真面目な仏道修行者もいるのだろうが、別の理由で滞在している人が多いのではないかと思われる。

ソーマ・ヨーガは薬物ヨーガのことだが、向精神性薬物の本を読んでいくと、彼らの生きざまや死に様は別として、ネパールに入ってアヘン系麻薬やら合成麻薬やらを自由に試したとかいう記事によく当たる。薬物ジャンキーの世界では、ネパールはその道の一つのメッカなのかもしれない。そうしたいわば桃源郷も大地震の洗礼を受けることになったのだろう。

ネパールの他にも最近南米チリのカルブコ火山の噴火(4月22日)や、海道羅臼町の海岸で、海岸線沿いの海底が長さ約500メートル、幅約30メートル、高さ10メートル以上にわたって隆起(4月24日)しているのが見つかったり、沖縄で与那国島近海を震源とするM6.8の地震があったり(4月20日)と、徐々に地球全体で地殻活動が活発化している雰囲気を感じる。これらは、地球のマニピュラ・チャクラの活性化だが、それはアナハタに之(ゆ)く。
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万葉集の言霊

2015-04-25 06:22:21 | 古神道の手振り
◎言霊の助くる国ぞ ま幸(さき)くあり

万葉集には古代日本の通念としての言霊の基本的姿が現れている。

神代(かむよ)より言ひ伝(つて)来(く)らく そらみつ倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)のいつくしき国
言霊の幸はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり 今の世の人もことごと 目の前に見たり知りたり(巻五 八九四)』

古代日本は、皇神が国土を斎き神威に満ち満ち、言霊が幸福にポジティブに活動している国であるというのが社会常識だったわけだ。

『葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く(ことさきく) ま福(さき)くませと つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと百重波(ももえなみ) 千重波(ちへなみ)にしき               言挙げす我は 言挙げす我は』
(巻十三 三二五三)

日本はもともと思いを口に出さず秘める文化。この歌は思いが心中にあるうちは、思いは個人的無意識以下の死の世界である大海にたゆたうが、口に出した瞬間にその思念は生の世界に飛び出して、生の世界から世界に影響しようと活動を始める。

古来人間のパフォーマンスは身口意で、ボディ、ワード、センスとなり、「口」つまり言霊は独立した行動回路であった。
この文は知人との別れに際し、旅から無事に帰ってきたらまたお会いしたいという感情が言葉になるのをせきあえないというもの。

日本はかくのごとく察する文化だが、スマホを見続けて周囲に気を配らないようでは、察するどころの話ではなく、倭国の中枢首相官邸の屋根のドローンがいつ着陸したかもわからないというのは、シンクロした現象であり、別々に起こったわけではない。

アメリカもロシアも中国も日本との友好の旗を掲げながら日本の富を狙っているのは昔から変わらないが(外交はきれいごとではないから)、その悪意への無防備ぶりは昨今目に余る。

『磯城島の(しきしまの) 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ』
(反歌 三二五四)

地獄的意識の人が多くなった現代では、日本にいる限り言霊がサポートしてくれて、ハッピーになると単純に思い込むことなどできない。その証拠に不滅の神洲日本はアメリカとの戦争に敗れてしまって、その後の70年は、食べるものこそ食べているが、内実は腑抜けのように暮らしているのではないだろうか。

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萩原流行さんバイク事故で死す

2015-04-24 05:46:21 | 時代のおわり
◎夫婦でうつ病

萩原流行さんがバイク事故で亡くなった。
事故とうつ病との因果関係はわからないが、うつ病患者は自殺する傾向があることから、この事件でも事故とうつ病の因果関係が連想されがちである。読売新聞には萩原流行さんが自分のうつ病のことを告白している記事まで出ている。

役者、俳優というものは、もともと自分でないものを強制的に演じる職業である。内心ではおかしくもないのに笑う、心底では悲しくもないのに泣く。こうしたことを繰り返すのがこの商売である。

さて念仏やお題目にも、自分が念仏になりきる、自分がお題目になりきるというのがある。そしてすべてが南無阿弥陀仏である世界に入り、すべてが南無妙法蓮華経である世界にはいる。これも自分でないものに自分がなりきるパターンである。

念仏者が念仏になりきり念仏だけの世界に入るように、唱題者もお題目になりきりお題目だけの世界に入り、役者は役になりきる。

なりきった時に何かが起こる。なりきらない時は、ある種のしっくりこない感が残る。

役者は確かに多くの役をこなさなければならないという点で特殊だが、普通の人でも職業人や家庭人という役をこなさなければならない。その役割が人間本来の流れからずれたものであって、それを無理にこなさなければならないときに、とある違和感がある。それが嵩じたものの一つがうつ病なのだろう。

善を行い悪をしないというのは人間本来の流れだが、そうではない流れ、例えば職務上立場上他人の首を切ったりせざるを得ない人たちや、うれしくもないのに毎日上手に作り笑いをして接客せざるを得ない人たちがいる。なりきればその壁を超えるのはわかっていてもなりきれない自分がどこかにいる。それは、演じるべき職業や立場だけの問題なのだろうか。

どこかに「神を生きる」ことしか最終的な解決はないと内心感じている自分がいるのではないだろうか。

念仏になる、題目になるなどは、本来は違和感そのもののはずだが、それだけではない不可思議な展開がある。

そうした違和感解消の糸口が冥想である。投薬だけがすべてではあるまい。
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九つ花から十曜へ

2015-04-23 05:05:48 | 古神道の手振り
◎逆転のイメージ

九つ花は、霊界物語にも大本神諭にも出て来る。九つ花が満開になると十曜の神紋に変ずるというのが基本的なモチーフ。

綾部に九つ花が咲くとは、綾部とは今ここのことだから自分のこと、九つ花とは、10チャクラ中のサハスラーラ・チャクラ以外の9チャクラ。古神道は十種の神宝だから10チャクラ説をとる。

大本神諭に九つ花は誠から咲き出るとするが、誠とは、悟りのことであり、個を残したコーザル体レベルのことか。十曜の神紋は神の側だからアートマン第六身体のシンボルだろう。

9月8日は、旧体制の終わりであって、9月9日はひっくり返って新体制になっている。シンボリックな9月8日に全世界の身魂の審判があって、それで世の中が切り替わる。世の中が切り替わるとは、逆立ちや、逆十字や、逆さ吊りのモチーフで、タロット・カード、北欧神話、キリスト教、世界樹など多くのところで目にすること。

霊界物語2巻付録第一回高熊山参拝紀行歌
『誠一つの教子は  神と君とに二心
 吾あらめやと仕へ行く  三四の栄は五までも
 六び栄えよ七の国  神徳かをる大八洲
 九つ花の咲き出でて  常夜の闇を照らし行く
 十曜の神紋きらきらと  輝く棟を眺めつつ
 玉の御柱つき固め  栄ゆる御代を松村や  (松村仙造)』

霊界物語5巻6章聖地の憧憬 言霊の響
『朝日は照るとも曇るとも
 月は盈つとも虧くるとも  假令天地は倒に
 地は覆へり天となり  天はかへりて地となるも
 何と詮方千秋の  恨を胎すな万歳に
 神の恵の言の葉に  眼をさませ百の神
 耳を欹だて聞けよかし  聞けば香ばし長月の
 九月八日のこの経綸  九つ花の開くてふ
 今日九日の菊の花 』

霊界物語60巻5篇 金言玉辞 三五神翰(その五)
『九つ花が咲きかけたぞよ。九つ花が十曜(とよう)に成りて咲く時は、万古末代しほれぬ神国の誠の花であるぞよ。心の善きもの、神の御役に立てて、末代神に祭りて此世の守護神といたすぞよ。此世初まりてから、前にも後にも末代に一度より無い、大謨な天の岩戸開きであるから、一つなりとも神の御用を勤めたら、勤め徳であるぞよ。それも其人の心次第であるぞよ。神は無理に引張りは致さんぞよ。』

大本神諭 明治三十一年旧十一月五日
『開いた口も閉まらぬ如うな事が出て来るぞよ。世が代るのであるから、是迄に無かりた事が出来るぞよ。日本の国は是位い尊とい国といふ事を、今度世を切替に致して、表に現はれて、三千世界の政教を立替て、金神が世に出るぞよ。此の誠は九つ花の元じゃぞよ。九つ花は誠から咲せる花で在るから、三千年経綸を致した、誠の花の本で在るから、誠の人の世話でないと、此の御世話は出来んぞよ。』

大本神諭 明治三十一年旧十二月廿六日
『今度は三千世界の身魂の審判で在るから、全然斯世が転覆へるぞよ。大分心配を為んならん御方も出来るぞよ。万古末代世は持切りには致させんぞよ。けれども綾部に九つ花が咲いたなれば、万古末代しほれぬ花で在るぞよ。九つ花の初りで在るから、中々判らねども、モウ判るが近うなりたぞよ。』
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謎の御倉魚

2015-04-22 03:50:22 | 古神道の手振り
◎古い宗教を棄て去る

霊界物語30巻に御倉魚のことが出て来る。御倉魚のことは出口王仁三郎は御倉のことだと明かしたが、それ以上明らかにすることはなかった。

御倉魚のエピソードのあらましは以下。

御倉の社という神社のある御倉国の国民の間には、ウラル教という「現世を厭いあの世で天国に入ることが人生の目的である」という現世否定的宗教が流行しており、飢餓に苦しんでいる。ところが、その国にふんだんに居る御倉魚を食べればその飢餓は解決するのになかなかそうはしない。ウラル教では、御倉魚を食べれば神罰が当たるとされていたからである。

そこに三五教の宣伝使がやってきて、御倉魚を食べてみせたが、神罰はなく無事であったことから、国民は御倉魚により飢え死にの危機を避けることができ、ウラル教の信仰を捨て三五教に多数入信したという。

ここは人はパンのみにて生きるものではないが、パンがあってのものだねということがあり、霊と肉のバランスを取ることを表面的には言っている。

※御倉: 1.官司や社寺の貴重物を納める蔵のこと。
2.室町時代,京都にあった土倉(どそう)の中で,幕府財産の管理や出納に当たっていたもの。鎌倉~南北朝時代の土倉とは,文字どおり土壁を持つ倉庫のことで,動産を預かって米銭を融資する金融業者は〈無尽銭の土倉〉と称されたが,室町時代ごろから単に土倉と言われるようになった。
3.江戸幕府が直轄地から収納した米を保管する蔵。御米蔵。

御倉とはお上の財産であることは間違いあるまい。それが飢餓をきっかけに何千年何百年来の古い宗教を棄て、飢渇から救ってくれた新しい宗教を一斉に容れるようになるとは、ただごとではない。肉体あっての人間である。

日本では、将来全国的な飢餓が起こり、その回復をきっかけに、古来の宗教が捨て去られるシーンがあることを云うのだろうか。

『 げに美はしき御倉魚
 彼等に与へ給へかし  神は霊界のみならず
 この世に住める人々を  一人も残さず御恵の
 露にうるはせ永久の  命を守らせ給ふなり』
(霊界物語30巻4章から引用)
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色の基本

2015-04-21 05:28:34 | 古神道の手振り
◎天火結水地

出口王仁三郎の言に、色の基本の説明がある。

まず天地の間に火水(かみ)がある。これを結んでダイナミズムが生まれる。
『天火水地は神なり。天火水地結は神の妙機なり。
祭政一致、神人一致、顕幽一致、霊肉一致、上下一致の大本は和合より生ず。和合は真の信仰を生み、信仰は大和合を生ず。和合は進歩なり、発展なり。併し現代人の宗教信仰は退歩なり地獄なり分裂なり、而して途に虚偽に陥る。』
(大正五年五月一一日 敷島新報第三〇号)

天火結水地とは、それぞれアイウエオにあたる。天火結水地の色はそれぞれ青、赤、紫、白、黄。霊界物語では、五色宝珠として頻出アイテムである。これは錬金術の基礎中の基礎なのだろう。

新月の光の上巻P175に、絨毯は足の下に敷くので、青と赤白の縞はいけない、なぜなら天火結水地で天は青、赤は太陽、白は月だからとする。この逸話では最後に「足の下に青や赤白の縞のものを敷くとひっくりかえる事がある」とダメを押している。

これは、絨毯やカーペットのことであるが、現代はデザインは自由、色の好みは個人の嗜好による時代であるとはいえ、無意識にこうした禁制を侵すというのは、カルマによるのだろうから、広義では無意識とも断じきれないところがあるように思う。

こんな話は、単なる迷信と思う人がほとんどだろう。人は一生でみないとその全容はわからない。人の一番いい時代だけ見ても全容はわかるまい。
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言霊とは日本の風土-4

2015-04-20 03:26:44 | 古神道の手振り
◎天地の真理を知るには自分の水火(息)を知らねばならぬ

出口王仁三郎の言霊学総論の続き。

天地は陰陽あるいは、水火にてできあがっている。天地の真理を知るには自分の水火(息)を知らねばならぬとは、本山博の説明を借りるならば、水はエーテル体の呼吸、火はアストラル体の呼吸。つまりクンダリーニ・ヨーガなのである。ゆえに古事記の神代の巻とは、火水与(かみよ)の巻のことだとする。

天地の間に肉眼をもって見る事の出来ない火水がある。火水(かみ)と云う場合は、これを体すなわち場あるいはポジションと見るもの。水火(いき)と云う場合は、これを用すなわちダイナミズムとみるもの。

これでもって、陰陽(いき)と陰陽とを結合させて万物を産む。

天地と同様に人の体内にも火水があって、これを霊水火(たましい)と云い、また気(いき)とも云う。この火水のことを霊水火(たましい)と唱えるのは体であり、息と唱えるのは用である。

故に息と息とを結合させて物言い、気と気を結合させて人を産むのである。

つまり人がものを言うというのは、一種の創造行為であり、他方人の気と気が結合した場合は人が生まれる。


『博く天地の真理を知り、神の御経綸を究めようとするならば、近くは自分の水火(いき)を知ることにある。

これぞ神国大本の教えであって、既に古事記の神代の巻と唱えたが、それは火水与(かみよ)の巻という意味である。

天地の水火(いき)を結合させて(与(くみ)て)万物を生じさせ、人間の水火を結合させて(与(くみ)て)言(ものをいう)ことを知るべきだろう。

天地の間に肉眼をもって見る事の出来ない火水がある。これを火水(かみ)と云う。神と唱えるは体にして、水火(いき)と唱えるのは用である。故に陰陽(いき)と陰陽とを結合(与(くみ)て)させて万物を産むのである。

人の胎内に火水あり、これを霊水火(たましい)と云い、また気(いき)とも云う。霊水火(たましい)と唱えるのは体であって、息と唱えるのは用である。

故に息と息とを結合(与(くみ)て)させて物言い、気と気を結合(与(くみ)て)させて人を産むのである。』
(雑誌神霊界大正7年3月号の言霊学(by出口王仁三郎)という記事を現代語に直してみました)

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一神教と多神教

2015-04-19 06:09:37 | 究極というものの可能性
◎次元の相違を峻別すべし

七つの身体論からいえば、一神教か多神教か、などという二者択一はナンセンスである。つまり第六身体アートマンにあっては一神教であり、霊界にあたるコーザル体からアストラル体までの高級神霊群については多神教となるからであり、次元によって一神教か多神教かが決まるのであり、現在の科学常識的見地から見れば、全体として一神教と多神教が共存しているなどという奇妙なことになる。

世間では一般に一神教に分類されるかに見えるキリスト教ですら、多神教である根拠をその聖書に持つ。

旧約聖書の創世記第一章に『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。』とあるが、ここで神自身が自分たちのことをわれわれと複数で自称しているから、これは多神教の立場をとっているとわかる。


古神道はこの点、出口王仁三郎はちゃんと気がついていて、幽斎では真神を祈るから一神教、顕斎は、天つ神、国つ神、八百万神を祭祀するから多神教であるとする。だが、顕斎、幽斎を合算して多神教であると考えるのはまずいと思う。

『道之大本 第三章

一.神を斎(いつ)きまつるには、顕斎、幽斎の二つの大別あり。

二.顕斎は、天つ神、国つ神、八百万神を祭祀するものにして、宮殿あり、祝詞あり、幣帛ありて、神の洪恩大徳を報謝して、敬虔の意を表するの道なり。

三.幽斎は、真神を祈る道にして、宮社もなく、祭文もなく、幣帛もなし。ただ願望するところを、吾人の霊を以て祈祷し奉るの道なり。』





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天皇陛下のパラオ訪問

2015-04-18 06:45:54 | 時代のおわり
◎タダほど高いものはない

南洋の何もなさそうな国パラオを高齢の天皇陛下が慰霊訪問された。

第二次世界大戦以前の帝国主義の時代。列強はまず植民地を手に入れて、貿易や通貨発行を支配することで、植民地経済から戦争遂行資金を吸い上げて、本国の懐はあまり痛めずに戦争を起こして、さらに植民地を拡張するというのが、大英帝国などで普通に見られた手法であった。

翻って、日本が戦争するように仕向ける勢力がいたとして、日本を戦争の道に追い込むためには植民地あるいはそれに近いものが必要である。ある国を戦争させるためには餌をまくのだ。

最初のまき餌は、台湾。1895年日清戦争の結果下関条約によって台湾は清朝から日本に割譲されたが、これを列強の干渉によって取り戻されなかったところに、ある意図を感じる。以後台湾の日本統治は1945年まで50年間続く。

次のまき餌は、朝鮮であって、アメリカが朝鮮における日本の優先権を認めた桂・タフト協定(1905年)を遠因として日韓併合(1910年)に至り、朝鮮を手に入れた。

次は、パラオなど南洋諸島(マリアナ諸島(サイパン)、トラック諸島など)とニューギニア東側の赤道以北。これらはいずれもドイツ帝国の植民地だったのが、第一次世界大戦の処理の中で、棚ぼた的に日本の委任統治領になった。これが後の大戦で日本軍の補給線が伸びきり、戦線縮小もままならない遠因となっていく。
今からみると赤道直下のニューギニアや南洋の孤島で、日本が戦争しなければならなかったのは誠に奇妙なことである。

次は満州。日露戦争の勝利をきっかけにロシアに替わって日本が勢力を伸ばし、1931年の満州事変、1932年の満州国建国と進み、同地の支配権を確立した。国際連盟のチャチャは入ったが、なにはともあれ1945年までは同地を実質支配していた。

いずれもそれなりに外交的あるいは戦争のからむ経緯というものがあって、そこだけを見ればその土地の支配権を得たのは『必然』に見えるかもしれない。しかし1945年にすべてを喪失させられた結果をみれば、最初からうまくハメられた感はなきにしも非ず。

孫子の兵法では、兵は詭道なりとして、戦争の本質はインテリジェンスだとするが、第二次世界大戦後、海外に持っていたインテリジェンス・ネットワークを喪失した日本は、もはや戦争を始める能力も数年の戦争を継続できる情報能力もないと言ってよいのではないか。この点で、憲法9条云々する以前に、日本は実質武装解除されたまま今日に至るというのが海外諸国の見方なのではないか。武器、兵装だけ充実しても戦争など勝てるものではないことを皆よく知っているが、当たり前すぎて誰も云わないのだろう。

逆に自前のインテリジェンス・ネットワークを作り出したら危ないのかも。

さて、こうしたことから、今後日本が、他国などからなにか理屈をつけてとても儲かるものを只でもらうような場合はよほど気を付けなければならないと思う。
只ほど高いものはなく、他人がタダでものをプレゼントしてくれる時は、よくよく心してかからなければならないのは個人の生活でも同じこと。
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出口王仁三郎の子猫四首

2015-04-17 05:29:46 | 古神道の手振り
◎仔猫が老練な霊使い出口王仁三郎と戯れる

出口王仁三郎の子を歌う四首。

をさな児(ご)のしひたぐるまま 猫の仔(こ)はかすかになきておとなしく居る

町人(まちびと)に貰ひし 仔猫なきながらわが朝餉(あさげ)するそばにあまえつ

文殿(ふみどの)に雨の音きくゆふぐれを一人さびしく猫とたはむる

親猫を忘れたるらし吾が膝にこころおきなく眠る仔猫は

(出所:出口王仁三郎全集巻7 P277-278)


出口王仁三郎は執筆活動だけでなく、政治家、軍人、皇族、大陸浪人、市井の堅気の信者まで多数の人と会う外交までこなし、多忙を極めていたはずなのだが、こうした閑日月もあった。

猫はかわいいが、就中仔猫は無邪気でしぐさがかわいいものだ。町の人からもらった仔猫だが、何の打算も魂胆もなく、甘えてくる者は人生のうちにそう何度も出会うものではない。

そんな猫だが、そこらじゅう霊だらけの空間だが、霊を猫は追ってくれるという。仔猫が老練な霊使いである出口王仁三郎と戯れている図は、なんともシンボリックな構図であり、これぞスピリチュアルである。
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霊学の不要な現代

2015-04-16 05:30:27 | 古神道の手振り
◎予言でチェック

次の文は、昭和10年に出された出口王仁三郎と信者の会話だが、当時は、霊学がないと霊的ボディのことをつかむ手段がなかったので、神様が関心を引くために霊学のことを殊更に必要性を強調したと説明している。

筆先とは予言のことだが、これは霊学とは関係なく、この世の成り行きを示したものであるから、予言を示すことで、自分の生き方全体をチェックすることができる。自分の行動や思考全体が、善に傾いているのか悪に傾いているのかは、筆先みたいな根源から出されてきた文章を読むことで自己チェックができる。いわば血圧計みたいなものだろうか。

よって、昔の人は、霊学三分筆先七分が適当だったが、現代人は、筆先100%でよい。つまり霊がかりは不要であるということだと思う。扶占(フーチ)や霊媒や占いによらず、この身のままで直接大神を狙うのだ。




『G『霊学三分で筆先七分とありますが、何ういふ程度でせうか』

王仁『それは何時までもと云ふのじやない。あの時分は一生懸命霊学ばかりやつとつた、鎮魂ばかりして居つた。神が在るか無いかといふ事を人に証明する為に、三分位は見せても良い、といふ事だ。先きになつたら霊学などせんでもわかつて来る。それはその時の戒めだつたのだ、永遠の戒めでも何でもない』

F『この間、青木中尉が上海から帰つて来て、「日本でも扶占(フーチ)なんかで出してくれると、神様が直ぐわかつて、いいんですが」と云つてゐました』

王仁『扶占でも幾分そうだが、神様といふものは、人をたらすことがある。開祖さんのお筆先でも、「平蔵どの……」とかいつて、三千世界の神様が「平蔵どの」等とおかしいけれど……扶占でも、「井上留五郎に酒一杯飲まして、二十円やれ」といふやうな事まであるのだ。


神様の神策で勢を附けて働かすためだ。お筆先にでも「御用きいて下さつたら手柄さす……」と書いてあるが、「交換条件みたいに手柄等さして欲しくはない」と思ふけれども、初めは手柄のしたい人が居つたのだから、対者によつてさう言はなならんのだね』』
((出口王仁三郎全集巻2P367から引用)

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