アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ハイチのゾンビ-2

2015-01-31 06:22:31 | 冥想アヴァンギャルド
◎あちこちにゾンビ生成の技術が伝わっている

最近見たゾンビ映画は、ワールド・ウォーZだが、爆発的な感染力で人間がゾンビに変化して人類の存亡を危うくするという基本線は、バイオハザードなどと一緒。

以下の引用文は神経毒によって人工的に自発性を欠いた能動的意思なき奴隷を作り出すというものだが、実はインターネット・ゲーム依存症、スマホ依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症などのあらゆる依存症こそ人間が自発性を失っていくという自覚なしに自発性を失っていく「神経毒」のようなものであるとも考えられる。

依存症は安定志向する心性がある多くの人が陥りがちな罠である。安心、安全、安定した生活は、役人ならずとも平和的情緒の市民なら誰もが願うところである。ところがそれがあらゆる依存症の温床になり、その温床は、ゲーム業界、IT業界、パチンコ業界、麻薬業界などのあらゆるビッグビジネスの隆盛によって日々下支えされている。これらの産業はゾンビ生成の技術群とも言える。

そのシンボリックなエビデンスが、歩きスマホする人だが、これを毎日我々は目撃しているのだ。

そこで「実はわたしはゾンビなのだ」などと話しかけられても驚くにあたるまい。

『ハイチのゾンビ-1』は、通常の死におけるゾンビ召喚であるが、以下は神経毒を用いたゾンビの人工的生成の説明である。

ゾンビの誕生

しかし実際のところ、人に呼ばれたくらいで死体がよみがえるはずがない。この話は無学な農民たちの言い伝えに過ぎない。本来ゾンビとは、嫌われ者に対する制裁だそうだ。もちろんハイチにも刑法はあるが、ゾンビは刑法とは無関係の伝統的な制裁の一つである。

まずフグ毒・テトロドトキシンを主成分とする毒薬(通称「ゾンビ・パウダー」) が嫌われ者の傷口にすりこまれる。神経毒であるテトロドトキシンは心筋や呼吸中枢の活動を抑制し、仮死状態をつくりだす。医者も欺かれ死亡診断書を書いてしまう。そして毒の量がちょうど良いと薬と施術によって蘇生されるのだ(毒薬の量が多すぎると本当に死んでしまう)。

しかし1~2日間という長い間無呼吸状態だったため脳の前頭葉は死んでいる。自発的意志のない人問、ゾンビの誕生だ。この状態のまま死ぬまで奴隷として働かされるのである。

この毒の起源はナイジェリアの小数民族でニジェール川デルタ地帯に住んでいたエフィク人やカラバル人が使っていたものらしい。毒物に対する知識が進んでいた西アフリカ社会では伝統的な司法機関によって毒が用いられていた。その知識が奴隷たちによって持ち込まれたのだ。

一方土葬が中心であったヨーロッパには、埋葬したはずの死者が墓の中から甦るといった伝説や迷信が数多く伝えられていた。またよみがえった死者は生者を襲ってその生き血をすするとも信じられていた。

この両者を結び付け、「ゾンビ=甦る死人」というイメージを定着させたのが、映画監督ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ三部作』である。
残念ながらハリウッド映画に出てくるような「不死の化け物」はいない。だがゾンビが興味深い存在なのは間違いない。

いまもハイチでは「マーケットでゾンビをみた」「私は実はゾンビだ」といった類の話は本当に多い。「あいつらは塩に弱い」といった俗信もひろく知られている。だが広く環カリブ世界一帯に黒人奴隷が運ばれたことを鑑みると、ハイチ一国にとどまらず、あちこちにゾンビ生成の技術が伝わっていると考えるのが普通ではないだろうか。

例えばジャマイカの「ダピー (duppy ,dupy)」はゾンビと同じものだと考えられるし、ブラジルには(カズンビ(cazumbi)と呼ばれる神霊がいるそうだ。』
(ヴードゥー大全/檀原照和/夏目書房P59から引用)

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ハイチのゾンビ-1

2015-01-30 03:11:18 | 冥想アヴァンギャルド
◎連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる

ゾンビと言えば、映画バイオハザード・シリーズのヒットで今や知らぬ者とてないが、ゾンビの起源はカリブの小国ハイチである。

『よみがえった死体

ソンビの目撃例は今世紀に入ってからも絶えないし、大勢のハイチ人がソンビを恐れている。ハイチに長く滞在すれば必ずゾンビの話を聞く。民衆の多くがそれを信じている。伝え聞くところによると、ソンビはつぎのようにして誕生するという。

ヴードゥーの司祭にはウンガンとマンボの他に、ボコ(bokor,boko)と呼ばれるものがいる。ボコはクライアントの依頼により金銭で他人を貶めることを生業としている。このボコがゾンビづくりの魔術を執り行うのだという。 ウンガンの中にはポコを兼ねている者も多く、彼らは「両の手で仕える者」と呼ばれている。

まずボコはこれといった死体に目星をつけ、死体が腐り出す前に墓から掘り出す。そしてなんどもなんども死人の名前を呼ぶ。すると死体がむくりと起きあがる。ボコはさらに名前を呼び続ける。 死体は墓から這いだしきったところで両の手に縄を掛けられ、以後、ボコの使用人として、遠く離れた農園に売られていく。連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる。ゾンビには魂がなく、したがってどんな仕打ちにも文句一ついわない。かれは未来永劫、奴隷として働き続ける。

終わりのない奴隷生活は奴隷の子孫たちにとってこの上ない恐怖である。たくさんの家族が死体が目を覚まさないようにと策を立てる。

埋葬後三六時間を過ぎると死体は復活しないとされるので、ずっと見張っている家族があれば、死体に毒を注射したり、死体を切り裂く家族もある。死者の右手に刃物を握らせ、ボコが起こしにきたら一刺し出来るようにしているケースまであるという。』
(ヴードゥー大全/檀原照和/夏目書房P58から引用)

死体が再度働き出す話は、ハイチだけでなく、チベットにもヨーロッパにもあるが、真偽のほどは不明。ただ「連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる」という技術は、仏像などへの「魂入れ」という技術と同根なのだろうと思う。

こういう話が広汎に広がる社会というのは、社会全体に希望がなく、あの世とこの世の境目が近く感じられるような恵まれない日常生活があるのだろうということは想像できる。


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モバゲー依存症も覚醒剤依存症と変わらない

2015-01-29 03:21:14 | 時代のおわり
◎亡国への近道

モバゲーなどのインターネット依存症の人も覚醒剤依存症の人と同様な大脳の器質的変化が見られるそうだ。

『覚醒剤依存と変わらない

インターネット・ゲーム依存の深刻さを知る人は、「アルコールや薬物への依存と何ら変わらない」「覚醒剤依存と同じ」と断言する。インターネット・ゲーム依存の治療にかかわればかかわるほど、筆者自身もその感を強くする。筆者は医療少年院で、覚醒剤依存のケースの治療にも数多くたずさわった経験があるが、インターネット・ゲーム依存の若者がとてもよく似た症候を示すのに驚かされる。どちらも過敏でイライラしやすく、不機嫌で、集中力が低下し、目はうつろである。色は白く蒼ざめて、顔は伏せがちで、目を合わせようとしない。何も手につかず、以前はそれほど苦労せずにできていたことができない。無気力で、目の前のことには意欲が湧かず、投げやりである。

神経過敏、易刺激性(不機嫌になりやすい)、焦燥感(イライラ)、不安、うつ状態、無気力、注意力や集中力の低下、社会的機能の低下などは、どちらにも認められる症状だ。こうした症状の類似は単なる空似ではなく、必然性をもったものだったのだ。インターネット・ゲーム依存症の人の脳内で起きていることは、覚醒剤依存症やコカイン依存症と、基本的に同じだったのである。

問題は、覚醒剤やコカインは、白昼の店先では売っていないが、インターネット・ゲームは、いつでも誰でも、子ども部屋からでも、ときには学校の教室からでもアクセスできるということだ。タバコやアルコールでさえ子どもには販売されないが、インターネット・ゲームは、小学生や中学生といった子どもでもプレイすることに何ら制限はない。

そうしたことが放置されているのも、その依存の恐ろしさと弊害を、まだほとんどの人が理解していないためである。免疫のない集団に、新型ウイルスが感染爆発を引き起こすように、インターネット・ゲームは、あっという間に若者層に広がった。インターネット・ゲーム依存を中心に、それ以外のインターネット依存も含めると、その数は、子ども成人を合わせて、わが国だけで五百万人以上と推定されている。』
(インターネット・ゲーム依存症/岡田尊司/文春新書P8-9から引用)

長期にわたり覚醒剤や麻薬に依存すると、無気力・無関心で何事にもなげやりな人格の荒廃した状態が見られるが、インターネットやインターネット・ゲームに長期間依存した場合も同様な状態になる可能性が高いとみられる。

今やスマホを握って離さない若者は、街を歩いていても決して珍しい風景ではないが、実はそうした若者のうちのかなりの数の人が、衝動的でキレやすく、ややもすれば現実の課題よりもネットやゲームを優先するというのは、ありそうなことである。
そうでなければ、歩きスマホがこれほど増えることはないだろう。

200年ほど前、隣国中国の清国は、一説には国民の四分の一が阿片を嗜好し、阿片中毒者の蔓延は阿片戦争の原因となり、深刻な亡国の原因と考えられていた。
同様にインターネット・ゲーム依存の蔓延は現代日本の亡国への近道であると言えよう。


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誠は天の道なり

2015-01-28 03:48:38 | 道教
◎天道を誠にするは人の道なり

中庸より。
『誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中り(あたり)、思わずして得て、従容(しょうよう)として道に中る。聖人なり。これを誠にするは善を択んでこれを固執する者なり。』

【現代語訳】

誠とは天の道である。天道たる誠を現実のものするのが、人の道である。誠はさかしらな努力をすることなく道に中(あ)たり、思考することなく道を得て、心の自然な動きのままに道に中(あ)たる。これを生きるのは聖人である。誠を実現する者は、善を択んでそればかり行う者である。

【コメント】
仏教の七仏通誡偈にも諸悪莫作・衆善奉行とあり、聖人の生きる姿は善を択んでそればかり行う者であるとする。よって仏教も儒教も聖人の行動は共通である。誠は人間に属するものでなく、天の道である。これを人が履(ふ)み行う道とは、中国的には功過格みたいなものを思い浮かべるかもしれないが、それだけではないところがむずかしいところである。




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ダンテス・ダイジの著作と断簡について

2015-01-27 07:04:43 | 冥想アヴァンギャルド
◎どうでもいいには、二つある

ダンテス・ダイジの著作は、「超宗派的冥想」、「メディテーション・トラベル・ガイド」、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」と「アメジスト・タブレット・プロローグ」だけである。

詩集「絶対無の戯れ」は遺稿をまとめたものであり、講話録としては、渡辺郁夫氏のまとめた4冊の「雨宮第慈講話録」(十三番目の冥想、素直になる、君がどうかい、最高に生きたい)がある。

この他に最近ネットに出てきたものに、
老子狂言
戯れに冥想を
などがある。

基本線は、「著作」は万人向けに読まれることを意識したものであって、それ以外については、ダンテスの係累(弟子、知り合い)向けに限定的に残された断簡であるということだと思う。

著作については、冥想道についても冥想体系全体と冥想への取り組みがある程度論理的に説かれているが、そのロジックは、ニルヴァーナの体現者としてニルヴァーナに日常から出てきているものであって、通常の社会人の常識から理解することが困難な部分が多々ある。

絶対無の戯れは、勿論珠玉の作品が集まっているが、彼の詩の中でも社会人がすんなり読めるようなのを集めた印象がある。
これに対して老子狂言などは、いわゆる通俗社会人や駆け出しの冥想修行者が読んでも理解不能なものがほとんどである。


例えば「どうでもいい」【老子狂言】から
「どうでもいい

どうでもいいには、二つある。
初めのどうでもいい、は、
キマッテいない。
終りの、どうでもいい、は、
ステキだ。
そして、
初めも終りもないどうでもいい、は、
どうでもいいもどうでもいい!
みんな、
どうでもいいんだ。
みんな、
オレなんだ。」

これなどは、表面的に意味が取れるだけに、あらゆる低級俗悪なパフォーマンスを惹き起こしえる危険な詩である。

私ならこの「どうでもいい」は、悟った者が言う「どうでもいい」は正しいが、悟っていない者が言う「どうでもいい」は嘘であると説明するだろう。

ダンテス・ダイジは1950年生まれだから存命していれば64歳。彼は次の転生でフロリダ沖にい再浮上してくるネオ・アトランティス大陸に現れると予言したが、それまでの大峠・大転回はいまだ到来していない。はて、人間はそれに耐えられるほど成熟したのだろうか。

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ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-2

2015-01-26 06:41:29 | ザ・ジャンプ・アウト
◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ----

 確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。
 私が地獄なのだ
 それに間ちがいない。
 宇宙が地獄なのだ
 それに間ちがいない。

 私は宇宙の
 トラワレ人で
 頼るものなぞ
 何一つとてない。 』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


更にこの光景は現代日本とシンクロする。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。
 そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。
 ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

  われ神自身
  時々おもえり
  ニルヴァーナこそ
  サクラン
  ではないのかと---』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常ではない自称覚者は偽ものである。




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ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-1

2015-01-25 07:02:04 | ザ・ジャンプ・アウト
◎超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

ダンテス・ダイジ自身の手による未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」に彼のニルヴァーナの見方が書かれてある。

超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

一般的な歴史の中でダンテスの名を発見する事はむずかしい。もしあなたがあらゆる宗教神秘主義的伝説への妄従者であり、その表に現れた密教的規律に従う事をもって、満足する人であるならば、ダンティスのアトランティス以来、現代に至るまでの間にいたる所にちりばめられたダンティスの暗示を読み取る事はできないであろう。

なぜなら、ダンティスのアトランティス密教の高度な道術は、アトランティスの黄金時代を別にすれば、ダンティスの教育的使命にはならなかったからである。

例えば、ヘルメス・トートメの秘教的奥義に決定的影響を与えたアトランティスの聖王トオスは、明らかに導師(グル)としてその立場を規定できるものであったがダンティスは常にその様な規定の枠外にあった。

ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。

無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。
ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 無          有    (タオイズム、禅仏教)
 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)
 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)
 メン         アー    (キリスト教)
 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)
 ウン         ア     (真言密教)
 カ          ミ     (日本古神道

ダンティスの生涯には、超越界を、自分の住所とし続けているいわゆる、聖者的な姿というものを、見いだす事は、できない。

彼は時に、多くのアトランティス並びにエジプトの人々にとって、そして、とりわけ、選ばれたごく少数の者に対しては、まぎれもなく、絶対無の内に宇宙を手玉に取って見せる事もできる人物であった。確かに彼は、人間という者が宇宙の内でどの様に戯れたら良いかを、ごく少数の弟子に伝えている。

もしあなたが独自の観察眼を、神秘学の歴史にむける事のできる密教学徒あるいは、完全にあたりまえな人間であれば、古代エジプトのヘルメス秘教の中に、エメラルド・タブレット、沈黙の声の中に、古神道の野立彦の神示の中に、ヴェーダやウパニシャッド文献の中に、さらには、オカルティックな奇説、例えば、悪名高き魔術師、アリエスタ・クローリーの若く純粋であった当時の著作の中に、さらには、ファンタジー作家のインスピレーションによる書物の中にさえ、ダンテスの名前やその足跡を発見できるかも知れない。

なぜなら、ダンテスとは、あなたの魂の暗闇の中に秘められている完璧な愛自身のことにほかならないからである。』

ニルヴァーナは、善も悪も超えた、有も無も超えた絶対であるが、そのニルヴァーナなる言葉自体がそもそも二面性を含むことを多くの正統的宗教の主たる用語において解き明かしている。古神道のカミという言葉すらも。

天国や極楽、浄土に入るということは間違いなく人間にとってまともな方向性であり必要なことである。しかしそれだけでは、ダンテス・ダイジの語る「天国と地獄を超えて」や「天国と地獄の結婚」については知的理解すらもできない。
また「人の個的自我は、固定概念や抑圧を受けることにより発達していく」というのも紛れもない事実であるから、一足飛びに「あらゆるくびきからの解放」を主張することが万人に受け入れられるものでもない。

個的自我を持って天国に入ることと、個的自我を棄てて天国も地獄も超えることは、全く違うことである。ところが、その後者の方は、現代社会の一般人にとって想像もつかないことかもしれないが、いまやそれがほとんどの日本人の人生にとっての最終課題になっている。

このように何の前提条件も詳細説明もなく、「個的自我を棄てて天国も地獄も超える」ことが自明とされる文章は、様々な誤解が生まれやすいことに注意して読むべきだろう。
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日本のタブー

2015-01-24 06:25:04 | 時代のおわり
◎亡国の精神思想環境

日本には、タブーが多い。
天皇、皇室
アメリカ
宗教
政治
戦争責任
明治維新
ユダヤ
同和
原発
電通
芸能プロダクションのメディア支配
役所の裏金
第三国人(ヘイト・スピーチ)

マスコミというのは、当事者ではなく傍観者であるから、事の真相を伝達することができるのだが、タブーに関する報道をするとマスコミが暴力を受けたり、名誉毀損で高額な賠償金の訴訟を受けたりするようになって、マスコミはタブーに関する報道をますますしなくなってきている。

マスコミがタブーがらみの報道をしないのは、大いにタブー周辺の利害関係者をのさばらせることになり、真相を知るまともな人にとっては常に忸怩たる思いが募るものであって、腹ふくるるわざである。そういうものが至るところにはびこっていて、ネット上にそうした断片がころがっているのを見つけることもできる。

日本の平和な時代は70年続き、十分に爛熟し、大いにその間の膿が蓄積され、かたや国民のほぼ半分が貧困にあえぐ時代に再び回帰しつつある。タブーの広がりにより自由な思想言論は巧妙に封殺されている。こうした閉塞、鬱屈した国民の精神状態・集合的無意識が最近の大暑、大寒、洪水、大風などの激烈な気候変動を形成しているということもあると思う。

更に国民の日常の知的情的生活は、あらゆる依存により相当レベルにまで蝕まれている。依存とは、パチンコなどのギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、インターネット依存、スマホなどのモバゲー依存などである。

これをして亡国の精神思想環境と云うことができるのではないか。

自由国家日本にしてこうなのだから、中国や韓国など諸外国は推して知るべし。また近代西欧文明全体が死をタブーとして成立していることも忘れてはならない。


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浄土真宗のヘッド・バンキング

2015-01-23 06:46:19 | 冥想アヴァンギャルド
◎坂東曲(ばんどうぶし)

ヘッド・バンキングはヘッド・ハンティングのことではない。ヘヴィ・メタルなどの音楽のリズムに合わせて、上体折り頭を激しく上下に振り、時時左右に振る動作である。
これをやると頭がふらふらし、トランスに入ることがある。

これは、乳児でやると揺さぶられっ子症候群であり脳内出血に至ることもあり、いつも激しいヘッド・バンギングをやっている成人ミュージシャンの中には首、頚椎を痛める人もいる。

さて親鸞聖人の命日は、11月28日。毎年この日に浄土真宗大谷派では、大ヘッド・ンキンング念仏和讃大会が行われる。ただし歴史ある行事であるせいか、信者全員がこれをやると一定数の脳内出血などの障害を発症することが知られているのだろうか、約6000人の信者がこの坂東曲(ばんどうぶし)というヘッド・バンキング法会に参加しているにも係らず、実際にヘッド・バンキングしているのは、わずか56~80人ほど(朝日新聞と産経新聞で報道している人数が異なる)だけ。

坂東曲は、浄土真宗大谷派の本山・東本願寺(京都府下京区)、宗祖・親鸞の遺徳をしのぶ法要「報恩講」を締めくくるフィナーレとして行われる。念仏行の極致は、すべてが阿弥陀仏である世界を通過する。そこに至る伝統的テクニックとしてヘッド・バンキングによるトランス発現を用いているわけだ。

ヘッド・バンキングにより弥陀の慈悲の大海を目指すというのは、ある意味で正統的でもある。いわば肉体の損傷リスクを負って命を懸けて悟りを求める一風景である。

和製ヘヴィ・メタルでビルボードの年間ランク5位だったBABYMETALにヘッドバンキングをテーマにしたヘドバンギャーという曲があり、その中でもヘッド・バンキングが見れます。坂東曲もyoutubeで観れます。
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猫と個人主義

2015-01-22 03:28:40 | 冥想アヴァンギャルド
◎日本的個人主義の本格的目覚め

欧米ドラマでは、ピンチや別れなどの山場になると必ず「愛している」と云う。日本人なら絶対に言わないこのせりふを、臆面もなく云う西洋人の感覚は謎だった。
欧米ドラマでは、女も一人で生き、子供を作った後でも普通に離婚し、一人で子育てをして、老後は一人で死ぬ覚悟が出来ているというのが、実に通常の風景として登場してくる。単に女が強いということではなく、男は当然だが、西洋では女でも一人で生き一人で死んでいくことが当たり前の精神世界に生きているのだ。そうした厳しい個々人の間の架け橋が「愛している」なのだろう。

さて、この頃テレビドラマでもテレビ・コマーシャルでも画面に猫が短時間登場することが非常に多い。

これは、日本の個人主義は、これまで中途半端だったが、ようやく万人の表層意識に上るようになってきたという証左。日本人は表面はともかく内実は無神論者がほとんどである。明治の個人主義導入より100年を経てようやく西洋流のライフ・スタイルの孕む『孤独』の苦痛と不安と憎しみと怒りを『猫』という神秘と愛らしさの形で皆が感得するところまで発達してきたわけだ。

猫は愛玩動物であって、人間が養わないと生きていけないが、その性は個人主義である。

夏目漱石の「吾輩は猫である」は中学生向けに書き下ろしたわけではないが、日本人の個人主義的ライフスタイルを評価するとなぜか猫にそのシンボルを求めがちという事だろうと思う。

不幸にしてそれは、国民全体の貧困化と、薬物依存、ギャンブル依存、スマホ・ネット・ゲーム依存などのプチ廃人化の浸透を伴って起きて来た。覚醒に進むか廃人に進むか、すべての日本人にとっていよいよ正念場である。

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「幕末戦慄の絆 加治将一」読後

2015-01-21 03:32:24 | 時代のおわり
◎綾部に天子を隠せり

「幕末戦慄の絆 加治将一」は、副題に「和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎」とあるので、出口王仁三郎ファンとしては、目を通さざるべからざる書。と言っても。出口王仁三郎のことは、少々触っている程度で、半分以上は和宮のことばかり。大本宣伝歌に「綾部に天子を隠せり」などが暗号風によみこまれているのは、初めて知った。大本では、綾部に遷都するという予言もあるが、それは「今ここ」のことであり、「綾部に天子を隠せり」を字義どおり採るわけにはいかない。

北朝の有栖川宮熾仁は、明治新政府に利用されるだけ利用され、挙句は有栖川宮家は一旦断絶。長州力士隊の数少ない生き残りの旭形亀太郎が、明治32年愛知県知多郡武豊町に孝明天皇を祀る玉鉾神社を創建していた。この力士がアサヒビールの総代だった。

なぜこの土地なのかという点は、単に神社建立の土地をあっせんしてもらったのが、たまたまこの土地ということなのかもしれないが、知多半島と言えば、例の中国の日本分割構想の中間ボーダーであることに思い当る、霊的因縁というべきか。

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』では、南朝復興派の吉田松陰の妹が主人公なので、南朝のかかわりが描かれるのかどうか、横井小楠がどうかかわっていくのか(横井小楠が南朝派だっていうのはこの本で知った。)に注目していきたい。


大正天皇への見方が、本書と鬼塚英昭では180度違うのが気になった。

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クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2

2015-01-20 03:46:53 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ダンテス・ダイジのケース-2
◎ディメンション・トラベラー

(2)クンダリーニ・ヨーガ

クンダリーニ覚醒について、冥想法と実際を解き明かしたのは空前絶後と言ってよいだろう。特徴的なのは、チベット密教や日本密教にみられる諸尊格、諸神霊についての観想がほとんど出てこないこと。つまり霊がかり、神がかりのバイアスをほとんど排したクンダリーニ・ヨーガとして画期的なものであると思われる。

そして技法はマハー・ムドラー、ヨニ・ムドラー、クンダリーニ冥想と進行し、七つのボディと七つのクャクラでクンダリーニ上昇の過程を説明していくのだが、七つのボディについても七つのチャクラについても定説がない現代社会では、そのメカニズムを誤解せずに、知的に理解することすら、頭でイメージすることですら簡単なことではないように思う。

ヘルメス文書もかなりきわどいところまで書いている、慧命経も核心に迫ったところまで書いているとは言っても、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」でもって、ここまでさらけ出さなければわからないほど、現代人類の闇は深まったことを感じざるを得ない。

そしてクライマックスは、中心太陽への突入と帰還であるが、それが安手の脚本による大型シネマと違うところはあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというところである。ここにタイム・トラベラーでも、スペース・トラベラーでもない、ディメンション・トラベラーの面目躍如たるものがある。

しかしそれは、宇宙のロケットの座席で一人のパイロットが体験する数日間のツアーというようなものではなく、「すべてはすべてであった」という全く個々の人間の想像を絶したものであることに注意が必要である。旅行会社任せで何とかなるようなしろものではないのである。

全身全霊をもって、その誠実さ、素直さ、敬虔さ、それまでに経てきたあらゆる実感をもって取り組まねば、重い扉のノブにも手もかからないし、最終ステージ近くでは、その自分も棄て去るというとてつもない恐怖のシーンにあわてふためくことにもなる。

最後に残された謎として、冥想十字マップがある。これは、時間的進化を縦軸に空間的進化を横軸に排し、その交点に「愛」が位置するものである。

縦軸については、7チャクラであり、この文明全体のテーマが「愛」なので、このマップが、社会における自己実現たるマニピュラ・チャクラから愛のアナハタ・チャクラに移行するというこの文明のテーマを意味しているので、この構図がこの文明全体のあり方を示唆するのものであることはわかる。

しかし有想定から無相三昧にいたる横軸が、なぜ空間的進化なのか、謎として残っている。

【チャクラと七つの身体-396】
◎ニルヴァーナ-24
5.ニューエイジ-4 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2
(ザ・ジャンプ・アウト450)


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クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1

2015-01-19 03:42:46 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ダンテス・ダイジのケース-1

ダンテス・ダイジは、生前経典を残しており、そのものズバリで、ニルヴァーナへの王道とされるクンダリーニ・ヨーガも只管打坐も極めたことを自ら明かしている。なお両方極めた人物には他に釈迦がいる。

(1)只管打坐
 その著書ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、只管打坐の体験記が二種盛られており、一つは絶対愛の目覚めであり、もう一つはニルヴァーナの目覚めである。

絶対愛とは、大慈大悲でありmercyのことであり、神の七つの属性の一つという位置づけであろうことがわかるので、ニルヴァーナの前段に置かれているようだ。

そして、ニルヴァーナの目覚めの方は「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」と章が立てられており、その違いを明示している。要するに「愛」だけ悟っても、それは全体ではないことを強調している。

また、ニルヴァーナの目覚めで覚知した境地を「空」であると見て、空とは時空の超越状態であって、坐禅をしている自分もなく、絶対的静寂というか、絶対的充実というか、その空があるという表現を用いている。

そして只管打坐とは宇宙と一体になることでもないという。

『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも、物質にも、現象にも束縛されず、まして宇宙と一体になることでもない。

もちろん初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元はそれを「身心脱落」と言ったのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版p112-113から引用)

これだけ具体的で親切な只管打坐での覚醒のプロセスを書いてくれているものは、この他には、バグワン(OSHO)のそれくらいではないかと思う。

【チャクラと七つの身体-395】
◎ニルヴァーナ-23
5.ニューエイジ-3 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1
(ザ・ジャンプ・アウト449)

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コミューン-一定数の覚者

2015-01-18 03:39:39 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ニルヴァーナの臨在に人は集まる

これは、OSHOバグワンが、コミューンを舞台にした伝道を始めた頃の世界の行く末展望。覚者らしく、金がどう、生活レベルがどうなどということは言わない。ただ、彼がいるだけで世界中から人を呼び寄せ、コミューンが巨大化するという呪術みたいな語りでもある。

『ブッタは創造するのではなく触発する
「彼は触発する」と言うことさえ適確ではない
彼の臨在のもとで、物事が起こる
彼の臨在のもとで、物事が触発される、さまざまなプロセスが始まる
まさに彼の臨在がひとつの炎、ひとつの火花だ
そして物事が動き出し、それが次から次へとつながってひとつの偉大な連鎖ができる

そうやって私たちはこれまで進んできた
私は、何もしないでただ自分の部屋に坐っているだけだ
そうすると、世界中から探求者たちが流れこみはじめた
私は一通の手紙すら書かない・・・・・ただの臨在だ
一人が来て、もう一人が来て、やがて連鎖ができる

いまや、ブッダフィールドが必要とされるときがきた
母体(マトリックス)が必要とされるときがきた

なぜなら、あなたは知らないが、何千人以上もの人たちが道の途上にいるからだ
彼らはすでに動きはじめた
彼らはすでにここへ来ることを考えている

そして人々の数が多ければ多いほど、ますます大きなブッダフィールドがそこにできる
そしてますますそれは強力なものになる
私たちは、かつてこの世に創造されたなかで
最大、最強のブッダフィールドのひとつを創造することができる可能性がある
なぜなら、いまだかつてこのような探求はなかったからだ
いまだかつて、人間がこのような危機の状態にあることはなかったからだ

私たちは、人類に起ころうとしている新しい何かの瀬戸際にいる
人類は死んで消えるか、あるいは跳躍、飛躍して、新しい存在が形成されるか――――

私たちは、何年か前に猿が樹から降りて
人類が始まり、新しい存在が誕生したのとまさに同じ時点にいる
再びその瞬間が迫っている
それは非常に危険な瞬間だ
なぜなら、あらゆる可能性があるからだ・・・・・


その猿は地上で生き延びられなかったかもしれないということはありえた
その猿は地上で死んでいたかもしれない
しかし少数の猿たちは危険を冒した
彼らはほかの猿たちからばかだと思われたにちがいない
ん?ほかの猿たちはずっと樹の上で暮らしてきて、まったく幸せだった

彼らは思ったにちがいない
「この連中は頭がおかしくなっている、狂っている
第一、なぜ地上で生きていこうとするのか?
なぜ自分でむだな骨折りをつくり出すのか?
われわれの父親もその父親も、そしてその父親もみんな樹の上で暮らしてきたのだ」

再び同じ状況が起ころうとしている
人間は長いあいだ、昔ながらの暮らし方をしてきた
今世紀末までに、重大な量子的飛躍が可能だ
人間は、第三次世界大戦で死滅するか
それとも、人間は飛躍をとげて新しい人間になるか、そのいずれかだ

それが起こる前に大きなブッダフィールドが必要だ
私たちが未来を創り出すことのできるフィールドが』
(ダイヤモンド・スートラ/OSHOバグワン/めるくまーる社p562-565から引用)

この時点では、コミューンが失敗することを彼は予期はしていない。

これから20年、OSHOバグワンは既に古典となった。その教訓の一つは、悟りに至るメソッドの基本は、一つの流派を押し極めていくのが基本だということで、あまりファッション冥想などの脇道にそれたりしてはいけないということだろう。

まずは、めいめいがめいめいのスタイルで坐り、悟りという体験とは言えない体験を目指す。それでも、悟った人がある一定数に達しないと、生活レベルを落とす動きも政治を正す動きも新時代モデルにはならないだろう。この一定数というのをOSHOバグワンはコミューンで達成しようとしたわけだ。

【チャクラと七つの身体-394】
◎ニルヴァーナ-22
5.ニューエイジ-2 ◎コミューン-一定数の覚者
(ザ・ジャンプ・アウト448)
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悟りが夢であるように

2015-01-17 03:35:33 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神よ、「何もかもなし」それ自身よ、私自身よ

ダンテス・ダイジ遺稿の一つ老子狂言から『悟りが夢であるように


『悟りが夢であるように
迷いが一場の夢であるように
悟りもまた場を持たぬ一場の夢

悟りが夢であるように
迷いが夢であるように
7つのスペースから
熱と光は去り
私は未知以外の未知を知らぬ

かつての情熱は今や消え去り
私の夢は
私自身である「何もかもなし」それ自身を夢見る

一つの夢が終わり
新しい夢は始まっているはずだが
悟りが夢であるように
私には何一つ
つかまえるものが見えない

私の眼がくもってしまったのか
新鮮な何かを私は
なおかつ、待ち続ける

神よ、
「何もかもなし」それ自身よ
悟りが夢であったように
私という夢をことごとく
あなたの中に消し去りたまえ

神よ、
「何もかもなし」それ自身よ、
私自身よ』

あらゆる情熱はあたかも終わったかに見え、そこに七つの次元を縦横無尽に駆け回った欲望の激しい動きはもはや消え失せた。
そこにはニルヴァーナなる「なにもかもなし」とわたし自身が残っている。

迷いが夢であるというのは、第五身体コーザル体以前で起こるが、悟りが夢であるというのは、我なる第六身体が第七身体に消え果てるところで、起こる表現である。

我なる第六身体が第七身体に移行するという形跡もなく言語表現を峻拒する「なにもかもなし」がある。それがすべてのものが未知である風光であるという。これぞ神秘の中の神秘。

悟りが夢であるように悟る、これが只管打坐型の悟りなのか。生の側から窮めるという悟りなのか。

【チャクラと七つの身体-393】
◎ニルヴァーナ-21
5.ニューエイジ-1 ◎悟りが夢であるように
(ザ・ジャンプ・アウト447)

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