アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

クリシュナムルティの末期の一句

2014-11-30 03:34:48 | ザ・ジャンプ・アウト
◎坐禅をしない公案禅みたいな

クリシュナムルティは、日本を訪れたことはないと聞いたことがあるが、正確にはその死の直前にインドからロスへ飛行機で向かう途次、東京で1時間のトランジットの滞在を行なったことがある。

だからといって、誰に会うでもなかったので、何も起こらなかったということろだろう。

彼の死の何日か前に、クリシュナムルティは、メアリー・カドガンの「クリシュナムルティが亡くなる時、その理解とエネルギーの焦点に実際に何が起きるのでしょう」という質問に答えた。

「それはなくなってしまうのです。もしも誰かが教えを完全に極めれば、たぶんそれに触れるかもしれません。が、それに触れるべく努めることはできないのです。

あなた方全員が見失ってきたもの」-あの広大な空(エンプティネス)-を知りさえすればいいのです。」

数時間経ってクリシュナムルティは、付け加えた。
『私が今朝話そうとしていたのはこういうことです。つまり七十年間あの超エネルギー-、いや、あの膨大なエネルギー、巨大な英知-がこの肉体を使ってきたということです。

いかにとてつもなく大きなエネルギーと英知がこの肉体を通過していたか、人々はわかっていないようです-それは12気筒エンジン並だったのです。

そして七十年-相当に長い期間-経った今、肉体はもはやそれに耐えられないのです。
何がこの肉体-非常に注意深く準備され、保護されつづけないかぎりありえなかったこの肉体-を通過していたか、誰も理解できないのです。誰も

理解しているふりをしても無駄です。誰も。

繰り返して言います。ここにいる人々も一般の人々も、誰一人、何が起こっていたのか知らないのです。彼らが知らないというのを私は知っているのです。そして70年経った今それは終わったのです。

あの英知とエネルギーが[なくなったわけ]ではありません-それはなおここに、毎日、特に夜間、ここにあるのです。ただ七十年経った今、肉体がそれに耐えられなくなった-もはや耐えられない-ということです。もはや。

インド人たちはこれについて多くの馬鹿げた迷信を持っています-肉体はなくなるが、あなた[の霊魂]は残るといったナンセンスを。何百年経った後にも、あなた方はこれと同じような別の肉体、あの至高の英知の働きの場となるような肉体を見つけることはないでしょう。二度とそのようなものに会うことはないでしょう。彼が去る時、それは去るのです。

あの意識、あの状態の後にはいかなる意識も残らないのです。それに触れることができるというふりをしたり、そんなふうに想像しようとする人がいるかもしれません。

もしも彼らが教えを生きれば、それなりの可能性が開けてくるかもしれません。が、誰もそうしませんでした。誰も。以上です。』
(クリシュナムルティの生と死/メアリー・ルティエンス/コスモス・ライブラリーP347-348から引用)

というわけで、ここに、冥想という技法なしで、チャレンジしたクリシュナムルティの成果を見た。

クリシュナムルティは、坐禅をしない公案禅みたいな感じだったので、やっぱり実とは言えない実を挙げるには、冥想という技法なしでは駄目だと思った。

あの広大な空(エンプティネス)』は、ニルヴァーナのこととと思う。一方『あの膨大なエネルギー、巨大な英知-がこの肉体を使ってきた』という表現では、『あの膨大なエネルギー、巨大な英知』は例のこの世とあの世のあらゆる現象を含む一なるもの、つまりこれぞ『有』の側であるアートマンのことを云っていると思う。これも天意を生きる、あるいは天命を生きるという一つの形なのではないか。

【チャクラと七つの身体-345】
◎アートマン-49
7.禅 ◎クリシュナムルティの末期の一句
(ザ・ジャンプ・アウト399)

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雪巌祖欽のアートマン

2014-11-29 03:26:16 | ザ・ジャンプ・アウト
◎坐禅のバリエーション

坐り方をいろいろと験してみると言っても、実際にどのようにしたのか、実例を挙げてもらわないとイメージは湧かないものだ。まして投げた小石が竹に当たってカーンという音を聞いて悟ったとか、婆さんにしたたかにほうきで殴られて悟ったなどと言っても、それまでにどのようにしてそうなったのか知らないと、「真理は日常生活に潜む」などという誤解をしがちなものである。

「真理は日常生活に潜む」などと聞けば、何も冥想訓練のない只の人が、道を歩いて犬にぶつかったら悟りが開けた、というようなことを想像することもあるのではないだろうか。

中国の雪巌祖欽禅師は、禅関策進という書物の中で、自分の修行の流れを次のように語っている。

1.16歳の時に僧となり、18歳の時に双林寺で、朝から晩まで禅堂の前庭から外に出ることはなかった。トイレや洗面にたつときも三尺以上先は見ないで、脇見をしなかった。
この時は無字の公案に取り組み、たちまちいろいろな雑念が起こったが、その起こるところを反省してみると、冷たい水のように直ちに心がさっぱり澄みきって静かになり、ちっとも動揺せず、一日が指をはじくほどの短い時間に感じられ、この間鐘や太鼓の音も一切聞こえなかった。

2.19歳になって処州の来書記に、「あなたの坐禅工夫は死んでいる。坐禅する時は必ず疑いを起こすべきだ」とアドバイスされ、こんどは「乾屎けつ」の公案に取り組んだ。その公案は次のようなもの。

雲門和尚はある僧から「仏とはどういうものですか」と尋ねられ、「乾いたクソのかたまり」と答えた。」

東に疑い、西に疑い、縦横に公案を研究してみたが、昏沈と散乱に交互に攻められて、しばしも胸中の浄らかさを得ることができなかった。

3.こんどは浄慈寺に移り、7人の仲間の雲水と組んで修行した。そこでは寝具をしまい込んで、脇を床につけて横臥しないで、ひたすら座布団の上で鉄の棒くいのように坐っていた。

2年間も身体を横にして寝なかったので、のびてしまって目がくらみ、気力もなくなった。そこでこの苦行を一気にやめてしまった。

4.2か月たって身体が回復して、生気を帯びてきたので、必ず夜中にぐっすり眠ることによって生気が回復することを知った。

5.仲間の修上座から、「座布団を高くして、背骨を真っ直ぐに立てて、全身をそのまま公案と一丸にしていけば、昏沈と散乱は問題にならない」と示唆され、これを支えに坐禅したところ、覚えず心身ともに忘れるまでになり、清々として爽快なること3昼夜、両眼のまぶたが合わないでさめていた。

三日目の午後、寺の門の下を心は坐ったままの境地で歩いていた。すると修上座に「ここで何をしているのですか。」と問われ、「道を弁じています。」と答えたものの、「一体何を道と言うのか」と問われ、答えることができず、ますます昏迷した。

そこで坐禅しようと思って堂に帰ると、首座に逢って「お前はただ大きく眼を開けて、これは何の道理かと、しっかり見極めていくことだ」といわれ、座布団に坐ったとたん、眼の前がからりと開いて大地が落ち込むかのように感じた。この時はその心境を人に言って聞かせられるものではなかった。それはこの世のあらゆる相貌でたとえられるものではなかった。

【チャクラと七つの身体-344】
◎アートマン-48
7.禅 ◎雪巌祖欽のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト398)

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至道無難のアートマン

2014-11-28 03:41:28 | ザ・ジャンプ・アウト
◎十牛図第四図から第七図まで

江戸時代の禅僧至道無難が、第四図得牛から第七図忘牛存人までのポジショニングを説明してくれている。(龍沢寺所蔵法語による)

1.ある頭の良い子供が仏のことを問うたので、そこで坐禅をさせたら、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教えて、しばらくたってから、いろいろになった心を訊ねたら納得して去った。

2.男女に限らず、まず見性させて、それから坐禅させると良い。見性(本来の自己・アートマンを見る)が十分にできた時に、万事に対応するやり方を教えなさい。

3.悟ったと同時にそれを守らせなさい。悪念が生まれることがない。長い年月この心を養えば道人となるのである。

4.悟ったと同時に万事はこれであると教えれば、大体は悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は大概は坐禅にとりついて律宗(戒律の実践を主とする)になるものだ。
大道を早く教えて良いのと早く教えて悪いのとは、その人による。よくよく心得て教えなさい。誤ってはならない。

見性が十分にできた時とは、この第七図のあたりだろうか。道人になるとは、この第七図のあたりをイメージしているのだろうか。至道無難も見性したばかりの人間の危なっかしさを厳しく突いている。

至道無難は、悪念が生まれなくなるのは見性した時点ではない、それを長年守り習熟しないとそうはならないと徹見しているが、第三図の見性もなかなか大変なことなのに、このイカレタ時代をまともに生き抜くには第七図くらいが必要であるということで、厳しい要求水準ではある。

【チャクラと七つの身体-343】
◎アートマン-47
7.禅 ◎至道無難のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト397)

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白隠のアートマン

2014-11-27 03:31:21 | ザ・ジャンプ・アウト
○白隠のアートマン

生死はすなわち涅槃である。これこそが世界が変わったということである。

白隠が、32歳の時、夢に母が現れ、直径5、6寸の古鏡を左右の手にそれぞれ1枚ずつくれた。最初は右手の古鏡は光り輝き、その光が心の奥底はおろか山河大地をも底のないほどに照らし抜くほどだったが、左手の古鏡は輝かなかった。そして突然左の古鏡が右の古鏡よりも百千億倍にも輝くように感じた。
これ以後、万物を見ること自分の顔を見るようになった。初めて如来は目に仏性を見るということがわかった。

右の古鏡は生のシンボル、左の古鏡は死のシンボル。左の方が右より尊いからである。これは超能力の発現のようにも読めるかもしれないが、夢の中ではあるが、一つの大悟なのではないか。これぞ生死はすなわち涅槃である確証なのではないかと思う。

如来は目に仏性を見るとは、あらゆる人間・山川草木に神性を見るということか。

白隠はこの夢の後、ある夜法華経を読み、円頓真正の奥義を徹見して、思わず声を挙げて泣いた。



白隠は、まず「自性本有の有様」(アートマン=十牛図の牛)を確認することを隻手の公案で求めたが、これは修行の中間ステージに過ぎない。だから「我があると執着するから生死と涅槃があり、煩悩と菩提がある」として、我つまり「自性本有の有様」すら捨て去った無我こそ涅槃=ニルヴァーナという修行の終着点であるとする。

そこで白隠は説明する。
一本の公案になりきることで、心が死んで意が消えて、万事休した状態となる。そこで何かが起こる。世界の転換であり、「体験とは言えない体験」が起こる。
なぜそれが起こるかは説明していない。
白隠の比喩では、真正でクリアな無我になるには、必ず崖っぷちに手をかけて、その絶体絶命のピンチで、ふっと両手を離せば身体バラバラになり骨も残るまい。しかしそこから蘇(よみがえ)って、四徳の真我にぶちあたることになると。

無我以前の我と以後の我は、同じ我という言葉だが、それぞれ別の世界にある我なのだろうと思う。これぞ世界が変わるということだと考える。

【チャクラと七つの身体-342】
◎アートマン-46
7.禅 ◎○白隠のアートマン
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一休のアートマン

2014-11-26 03:24:14 | ザ・ジャンプ・アウト
○本来もなき古(いにしえ)の我なれば

一休水鏡は一休没後の成立だとされているが、まったく後人の作ばかりということではなくて、当時巷間一休の作と伝えられていたであろう作品がいくつか含まれているとも言われている。

要するにその作品の描いている世界の格調によって、一休の真作かどうか見当がつくと見られているのだ。

本来もなき古(いにしえ)の我なれば
死に行く方も何もかも無し

これは、水鏡中の白眉というべき作品。本来の自己を究明するなどとかまびすしく言うが、本来と言うもおろかな太古の我(アートマン)が屹立している。それには自分などという個性はない。
そこは既に自分という個性が死んだ世界であるから、「死に行く方」ももちろんないし、何もかもない。

これぞ妙な「信仰に対する信念」の果てに見た世界ということではなく、何か憑依した霊ががささやいた奇天烈な宇宙観ということでもなく、個我の消え果た異次元の風光がそこに厳然としてあり、そこでは死すらも包含された、我ら常識的社会人にとっては、全くわけのわからない巨大な世界が広がっている。一休は、その世界こそまぎれもない現実であるという日常に生きている。


釈迦といふいたづら君の世に出でて
多くの者を迷はするかな

その世界のことは、youtubeなどの音声付動画・アニメや漫画で伝えられるものではない。釈迦は、クンダリーニ・ヨーガ(密教)も只管打坐もヴィパッサナー(呼吸冥想)も極めたとんでもないスーパー・ヒーローだったが、その釈迦ですら、その世界のことを伝えられなかった。

釈迦は、その伝えられないという現実に素直だったので、著作を一本も残していない。どの経典も彼の弟子が「私はこう聞いた」になっている。

当たり前だが、釈迦は自分が在世中の弟子たちに説いたのであって、21世紀の知性が発達して、個我と「本来もなき古(いにしえ)の我」との違いが想像がつくような、教化するには極めて困難な手合いを相手にしていたわけではない。だから釈迦の言葉すべてが現代に通用するものでもない。

また釈迦の時代には、弟子たちにはある程度「教えられた」のだろう。今の時代の求道者は釈迦に教えてもらうことなんかできない。自分で捜し当てるしかないのだ。しかし釈迦の時代も今も「それ」を伝えてもらうことはできないという点は変わらない。求道者の平均レベルが大きく変わったのだ。

言葉でも、映像でも表現できない「それ」を伝えようとして、釈迦はいろいろやってみたが、一休がわかってみると、単なるいたづら悪ふざけにすぎなかったと喝破したのだ。いたづらだと知的理解したとしても、ではどうすればいいかは自分で考えるしかない。

【チャクラと七つの身体-341】
◎アートマン-45
7.禅 ◎一休のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト395)

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うしかひ草のアートマン

2014-11-25 03:19:56 | ザ・ジャンプ・アウト
◎長月-◎牛を忘るる

うしかひ草は十牛図の和製12段版。うしかひ草のアートマン相当部分は以下。

『牛を忘るる

長月なかば、あれたるのべのつゆしげきにて、 ててらのすそをそぼちつつ、家ぢはるかに、ゆくほどに、袖ややさむき、かざしぐれに、うらがれの、山べはるばるのどけしや。谷の音などききなれて、こゑおかしく、一ふし、えならずうそぶきなどしけるほどに、やまびこもこたヘぬ。

とかくしてゆくほど、ひもくれつかたに、月のひがしにほの見ゆるも、おもしろからぬかは。

こころぞやすきいはぬべかめるなど、いひて、木のはかつしく、みちしばに、おもふところなくふしぬ。

かれのこる草ばにつゆしも、いたくおきて、虫の音、かごとがましく、すだきあへる頃ぞ、夜さむの風もわたるなり。

はらひはて心にかかるくももなし
月かげたかき みやまべのあき

なにとなくうちぬるあきののらなれば
よさむのかぜのおとばかりする』

旧暦9月半ば、荒れ野の野辺の露繁く、ふんどしのすそを濡らしながら、帰宅の家路を遥かに行くと、袖もやや寒い風時雨に枝先の枯れた木々の山辺ははるばるとのどかなことである。

音も工夫して、気張って口笛など吹いてみたら、山彦も答えた。

このようにしていくうちに、日も暮れようとする時分、月の東に仄かに見えるのも面白からぬはずはない。

安心したなどと言いそうだなんて言って、木の葉散り敷く道の芝に、考えることもなく寝入った。

枯れ残る草葉に露や霜がかなり降りて、虫の音うるさく、鳴き合う頃だが、夜寒の風も渡っている。

既に心に掛かる雲もなく晴れ渡っている。秋の野良には牛の声もなく、夜寒の風の音ばかりすることである。

【チャクラと七つの身体-340】
◎アートマン-44
7.禅 ◎うしかひ草のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト394)

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十牛図のアートマン

2014-11-24 03:10:22 | ザ・ジャンプ・アウト
◎体験ではない何かが起きている
○十牛図 第七 忘牛存人

頌(廓庵禅師)
に乗ってもう家に到着することができた、
牛は姿をみせず、人ものんびりしている。
朝日が高く昇るころになっても、まだ人はゆめうつつ。
鞭と手綱は草屋に置きっぱなしである。

牛が消えてしまったので、人間の体験としてのアートマン(牛)はなくなった。アートマンとの一体化は、個人、個性としての自分のないところにある。
端的にこれを示したと思われる文がクリシュナムルティにある。

『今朝早く途方もない力と美と清廉さを感じながら目覚めた。それはたまたま起こった何か、過ぎ去った体験、夢の中でのこととして目覚めた時に覚えている体験といったものではなく、何か実際に起こっていることであった。人は何か完璧に清廉であるものに気づいた。その中では堕落して荒廃するいかなるものも存在し得なかった。

それはあまりにも測り知れなかったので、頭脳はそれを捉え記憶することはできなかった。そのような清廉さの「状態」が存在していると機械的にただ記録することができるだけである。

そのような状態を体験することは、大変重要である。それは限界を持たず、触れられず、入り込むことができずに、そこにあった。

その清廉さのために、その中には美があった。それは色褪せていったり、何か人の手によって作り上げられた美ではなく、美を装う邪悪さでもなかった。

人はその現存の中にいっさいの本質が存在することを感じ、従ってそれは神聖であった。それは何ものも滅びることのない生であった。死は清廉なものだが、人々はそれを、彼にとってまさに生がそうであるように、腐敗したものに変えてしまう。

それらすべてと共に、何ものも砕くことのできないあの山のように堅固で、どんな犠牲も祈りも美徳も触れることのできない力と強さの感覚があった。』
(クリシュナムルティの神秘体験/クリシュナムルティ/めるくまーるp47-48から引用)

個人の体験ではなく、何かが起こっている。しかし、それはそこにある。『その現存の中にいっさいの本質が存在する』とあるので、それは、無のサイドでなく、有のサイドだと考えるので、アートマンだと考えた。これが、十牛図忘牛存人の実況生中継だろうと思う。

【チャクラと七つの身体-339】
◎アートマン-43
7.仏教 ◎十牛図のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト393)
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解脱の定義

2014-11-23 03:55:45 | ザ・ジャンプ・アウト
◎大乗の大般涅槃経

釈迦による解脱についての懇切丁寧な多種類の説明の中にアートマンへの言及がある。

『また解脱は恒常である。たとえば人々や神々の身体は壊れて死ぬが、解脱は変わらない。移り行くものではない。このように解脱は移り行くものではない。』
(ブッダ臨終の説法/田上太秀/大蔵出版P190から引用)

『また解脱には境界がない。たとえば集落に境界線がないように、解脱にも境界がない。それは虚空に限界がないのと同じである。

また解脱を見ることができない。例えば空中で鳥の飛んだ跡を見ることがむずかしいように、解脱を見ることは難かしい。また例えば人が自分のつむじ(頂上)を見ることができないように、解脱も同じである。未熟な修行者たちは見ることができない。

また解脱は深奥である。未熟な修行者たちは立ち入ることができない。それほど奥深いところが解脱である。またその深奥とは、諸仏や菩薩たちが崇敬するところでもある。ちょうど母父を扶養する孝行な子供の積んだ功徳は計りしれないほど深いようにその功徳の深さは解脱に喩えることができる。』
(上掲書P191から引用)

『また解脱を。感じ続けることができない。例えば幻を見つづけることができないように、解脱を感じつづけることはできない。

また解脱には肉体がない。人には傷や腫れ物やかさなどができるが、解脱にはこのような病がまったくない。無病が解脱である。』
(上掲書P192から引用)

『また解脱は私という考え、私のものという考えを離れている。』
(上掲書P192から引用)

『また解脱は善である。たとえば弟子が先生の教えにしたがって、それを善く学習すれば、それを善という。解脱もそれと同じである。
(上掲書P196から引用)

『また解脱はすべての世俗の生業を離れ、すべての苦しみを克服し、すべての幸せを味わい、永久にむさぼりや憎しみや愚痴を断ち、すべての煩悩の根本を抜き取った境地を言う。

また解脱は人々によって作られたものや世間のあり方に執着せず、すべての煩悩とはまったく無縁の善だけを生み出す境地である。すべての思想の活路を断ったのが解脱である。

その思想には、絶対神の分身であるアートマン(我)がある、アートマンはない、アートマンでないものがある、アートマンでないのではないものがあるなどという思想が見られる。私のいう解脱は、ものに対する執着を断つことを教えているのであって『我見』を断つことを言っているわけではない。この『我見』とは、仏性、つまりブッダになる可能性である。仏性こそ本当の解脱である。』
(上掲書P197-198から引用)

解脱は、私という個人というものを抜けたところにあるので、七つの身体で言えば、最後の個別性のコーザル体を抜けたところにある。

解脱の深奥とは、諸仏や菩薩たちが崇敬するところであるので、諸仏や菩薩そのものではない。だから諸仏や菩薩に出会うことが解脱ではない。

「解脱を感じ続けることはできない。」とは、非常に微妙な言い回しである。解脱を感じている自分があるのは、解脱に出会った時と解脱から出て行った時だけなのだろうか?解脱そのものである時は、感じ続けるなどというものすらもないのだろうと思う。

善なる世界とは、第六身体で、プラトン的にはイデアの世界のことである。それを産み出すものつまり、すべての煩悩とは全く無縁の善だけを生み出す境地が解脱であるとしているので、解脱は、第七身体(仏)のことを言っている。

この解脱についての列挙型の説明の一つ一つは比喩であって解脱そのものではないが、ひとつひとつ点検していくと、解脱のイメージが石材から彫刻を彫りだすように浮かび上がって来る。

最後のアートマンの言及は、「アートマンというものがある」という思想を戒めているものだと思う。

【チャクラと七つの身体-338】
◎アートマン-42
6.仏教 ◎解脱の定義
(ザ・ジャンプ・アウト392)

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空海の十住心論-2

2014-11-22 03:45:16 | ザ・ジャンプ・アウト
◎空海の十住心論-2

空海の十住心論の続き。

第六住心から第九住心までは、十界説で言えば、ほとんど菩薩のレベルだと思う。菩薩のレベルというのは、最低でも見性しているレベルである。ところが、空海は、第八住心までは迷い(無明)であるとする。
つまり見性しているからとりあえず良しとするわけではなく、まずは第十住心の秘密荘厳住心でないと、問題があると指摘している。

第十住心の秘密荘厳住心がニルヴァーナであるのは問題ないと思う。一方第九住心の極無自性住心が、唯一の世界(法界)であるとして、華厳経の毘盧舎那佛のことであるとしているから、アートマンのことと見れる。よってこの十住心論の10ステップのトップ2も、やはりニルヴァーナとアートマンを置いていると思う。


第六住心
他縁大乗住心
心の海は静まり、波立っていないが、迷いの風が吹くために、波風は立つ。天国も地獄も自分の心が作り出したのだということを知らないレベル。

悪を行わず、あらゆる種類の善を長年にわたり行い、菩薩の52段階の修行を積み重ねても、本来の悟りは、自分の心の中にあることを知らない人のことである。心とそれが認識する対象物が別の物だと思っているが、菩薩としての修行がかなりできている人のレベルである。

第七住心
覚心不生住心
概念的な認識(五辺)は、本質的なものでない。原因により生起した心は、それ自体の性質(本性)を持たず、空であり、仮の存在であり、中道であり、アプリオリに存在している。
しかし本来の悟りは、遥かな過去から存在しており、自然や、清浄という表現も不適当で、言葉の表現を離れている。

ここで心の本性が不変で、自由自在であることを知り、無益な議論をすることはなくなったが、まだ本来の悟りの入口に初めて立っただけだ。

第八住心
一通無為住心
空性は、感覚と対象を離れて、形もなく境界もない。こうした認識主体である心と認識される対象との対立をなくしたところに常寂光土(浄土)がある。しかしその対立をなくし、常寂光土へ至る手だてはない。依然として無明のままである。

第六住心の課題は、認識主体である心と認識される対象との対立があることだったが、ここでは、その課題を克服する認識はできたが、実践方法が見つからないレベル。

第九住心
極無自性住心
ここまで積み上げてきた認識や哲学を総合すると、現象(迷い)と実在(さとり)は、唯一の宇宙法界(法界=世界)におけるものであることになるが、これは、単なる客観的な世界観に過ぎず、哲学にすぎない。これでは依然として真の悟りではない。

第十住心
秘密荘厳住心
大日如来は、あらゆる仏と一つであって、迅速な力という三昧(トランス)に入り、自ら証した心理の世界の本体という精神統一を説くレベル。仏界に相当。
仏の位に入るとは、即身成仏のことで、大日如来と一体化することである。

【チャクラと七つの身体-337】
◎アートマン-41
6.仏教 ◎空海の十住心論-2
(ザ・ジャンプ・アウト391)

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空海の十住心論-1

2014-11-21 03:39:26 | ザ・ジャンプ・アウト
◎空海の十住心論-1
 
空海は、人間の意識の発展段階として、十住心論を掲げている。
住心とは、心のあり場所や精神のおきどころの思想・哲学ではなく、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系のこと。冥想の縦軸、横軸という議論からは、十住心論は歴史的な社会の発展段階説でもあるので、縦軸のステップであるという見方も否定できない。

ここでは仏教十界説と並べて、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系の特徴と狙いを考えてみたい。空海の十住心論は密教の世界観の伝統に従ったものであり、その中にアートマンも顕れる。

十住心論の10ステップは、十界説と1段階ずつパラレルの一対一の対応になっているのではなく、第一住心に、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の下位4界がまとめられていたり、更に菩薩段階から上が細かく分類されている、ちょっとデフォルメの効いた十ステップになっているところが特徴と言える。

デフォルメした狙いは、この論が、830年淳和天皇に命じられて編纂されたものであり、また真言密教が国家的にオーソライズされるために、真言密教が諸宗の冠たることを強調できるものに仕上げたということが考えられる。

しかし現代人にとっての課題を見るとすれば、第六住心以降の菩薩に相当する部分が最も必要性が高いので、その意味で十住心論の10ステップはとてもモダンな分類だと思う。

第一住心 
異生羝羊住心
牡羊のように性と食のみにとらわれ、本能の赴くままに生きているレベル
修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に相当。いきなり、下位の4レベルがまとめられていて、十住心論は、上位に力点があることがわかる。

第二住心
愚童持斎住心
愚かな子供ではあるが、生活の規則に目覚め、人への施しに目覚めるレベル。
人間界に相当

第三住心
嬰童無畏住心
いまだ輪廻の世界にいるが、来世の生があることを知って幼子のように一時的に安らいでいるレベル
天界に相当

第四住心
唯蘊無我住心
ただ物のみが実在することを知って、実体として個人が存在することを否定する。声聞の教えは自分一人のための小乗のレベル。
声聞界に相当

第五住心
抜業因種住心
一切のことは因縁によってなることを自覚して、無知の元を取り除いて、ただ一人悟りを得る。縁覚のレベルに相当。

【チャクラと七つの身体-336】
◎アートマン-40
6.仏教 ◎空海の十住心論-1
(ザ・ジャンプ・アウト390)

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身口意

2014-11-20 03:34:17 | ザ・ジャンプ・アウト
◎不死の境地

身口意は密教でよく語られることばだが、もともとは、釈迦の感興のことばの中にもある(第七章)。

『身体に過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。身体について、慎んでおれ、身体による悪い行いを捨てて、身体によって善行を行え。

ことばで過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。ことばについて、慎んでおれ、語(ことば)による悪い行いを捨てて、語(ことば)によって善行を行え。

心で過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。心について、慎んでおれ、心による悪い行いを捨てて、心によって善行を行え。

(中略)

身体によって善いことを為し、ことばによっても、心によっても善いことをするならば、その人はこの世でも、またかの世でも幸せを得るであろう。

生きるものを傷つけることなく、常に身体について慎んでいる聖者たちは、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば悩むことがない。』
(真理のことば感興のことば/中村元訳/岩波文庫P184-185から引用)

身口意で善いことをすれば、かの世でも幸せを得るとあるが、かの世とは何か。釈迦は感興のことばの中で、一貫して迷いの中での輪廻転生を否定していることから、輪廻転生の中での死をかの世と言っているわけではない。

つまり平たい言い方での死んだらあの世に行くという場合のあの世がここでいう『かの世』のことではない。だから不死の境地(くに)のことを『かの世』と称しているように思う。

不死の境地(くに)とは、七つの身体でいえば第六身体であり、アートマンであるということになる。

身体を慎むとは、まず大食、飽食しないことであり、人や生き物を傷つけないことから始まる。保健所に自分のペットを持ち込んで殺処分を依頼する人が、殺処分されたペット全体の半数に上るそうだが、それはやがて飼い主の心底の心配の種になり、またその報いは空恐ろしいことでもある。

口を慎むとは他人の冥想や信仰のやり方を誹謗中傷しないことは勿論、日常生活の中でことばで人を傷つけないことである。いわしの頭への信仰ですら、自分が鰯になりきれば、一つの悟りというべきもので、明治の剣豪山岡鉄舟が男女の別を超えた境地と同じであり、信仰のどんな形態や手法が不死の境地につながっていないなどとは誰もいえない。これこそ冥想のあらゆる可能性というべきものである。

心を慎むとは、日常生活を無念無想ですごして、想念が起きないままでやることなどできないので、他人を傷つけない、自分の利益を求めない、他人のためにするということになるだろうか。その繰り返しが不死の境地への基本ルートであることは、聖者たちの共通認識だと思う。

【チャクラと七つの身体-335】
◎アートマン-39
6.仏教 ◎身口意
(ザ・ジャンプ・アウト389)

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妙法蓮華

2014-11-19 03:31:09 | ザ・ジャンプ・アウト
◎アートマンまで

どちらかというとニューエイジの発想が好きな我々としては、妙法蓮華とは、空から出てきているというが、それはアートマンなのかニルヴァーナなのか、有の方なのか無の方なのか、確認しておく必要があるだろう。

鳩摩羅什の門下で妙法蓮華経翻訳に参加した道生は、現存する中国最初の法華経注釈書である妙法蓮華経疏の中で、「妙法とは形なく、声なく、すべての思考の領域を絶したもの」と訳した。

また梁の光宅寺法雲(467-529)は、妙とは、相対的なるものを絶したところに名付けられたものであるとする。

これらの解釈を踏まえ、天台智は、法華玄義において、「妙とは、絶対のことである。絶対は妙の異名のことである」またこの絶対は、相対に対応する絶対ではないともしているので、独立した絶対であると見ている。ウパニシャッドでよく出てくる独存位ですね。

こういう説明だけだと、アートマンの有の方だろうと思われる。有だけでも絶対は絶対だからである。その有を形象としてシンボライズしたのが泥池の中の蓮華ということになる。

そこでどうもニルヴァーナにあたるものは登場していないという印象を持った。もしあれば、アートマンもあって、なぜかニルヴァーナもあるというウパニシャッド風の記載があるものだと思うからである。ニルヴァーナではあらゆる現象すらも相手にしないからである。このあたりは、天台智の冥想の深みの限界だろうか。そのロジックは、哲学としてはとても魅力的なものだと思うけれども。

【チャクラと七つの身体-334】
◎アートマン-38
6.仏教 ◎妙法蓮華
(ザ・ジャンプ・アウト388)

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原始仏教の10ステップ

2014-11-18 03:27:50 | ザ・ジャンプ・アウト
◎見ている自分

原始仏教の10ステップの個々の説明を再掲する。

1.涅槃:ニルヴァーナ
2.滅想定:アートマン、本来の自己

続く4ステップは無色界となり、個別の人間の体験となる。たとえ「なにもかもがないという意識もない」というもの凄い状態にあっても、見ている自分が残っている限り、向こう岸にある悟りには届かないというつもりで、この分類を見るのが妥当と思う。いずれにしてもステップ分類へのこだわりが感じられるところであり、クンダリーニ・ヨーガらしい特徴といえる。

3.非想非非想処定(有想無想定):なにもかもがないという意識もないという状態(心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもない)

4.不用定(無所有処定):なにもかもがないという意識(いかなるものもそこには存在しない)

5.識処定(識無辺処定):あらゆるものが限りない広がりにあるという意識(心の識別作用が無限である)

6.空処定(空無辺処定):限りない広がりがあるという意識(空が無限である)


その次の初禅から四禅までは、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天(十界の一つ)の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

7.第四禅:苦楽を超越した境地で、心の思い(念)を守ることが清らかで純粋

8.第三禅:心の思い(念)に集中しつつ、楽しい

9.第二禅:浄らかな誠に満たされて、心の底からすっかり喜び、うれしい

10.第一禅(初禅):純粋な喜びと楽しさ

【チャクラと七つの身体-333】
◎アートマン-37
6.仏教 ◎原始仏教の10ステップ
(ザ・ジャンプ・アウト387)

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老子の世界観

2014-11-17 03:14:05 | ザ・ジャンプ・アウト
◎老子第40章反者道之動

訓読『反は道の動なり、弱は道の用なり。天下の万物は有に生じ、有は無に生ず』

大意『すべてのものが無へ反えるのは、それが、この玄たる道のはたらきである。
そしてすべてのものの弱は、それの存在することは、それが道のはたらきを為すものなのである。
この天下のすべてのものは、有から生ずる。そして、その有は無から生ずる。』

大道(タオ)の働きとは弱のことである。
無から有が返り、有から天下の万物が生ずるということは、第七身体である無から、第六身体であるアートマン・有が生じて(ウパニシャッドではこういう表現はしない)、第六身体であるアートマン・有から、第五身体以下の個別性であるコーザル体や肉体が生ずることを説明している。この世界観は、ケン・ウィルバーの世界観や仏教十界説と本質的な差はないように思う。

個別性のある人間や万物が、もはや個別性のない大道(タオ) に反ろうとするのは、大道の働きである。万物に『弱』が存在しているとは、より精妙な存在レベルが存在していることを『弱』とみて、より粗雑な存在レベルを『強』とみているように考えられる。老子は、万物にはより精妙な存在レベルがあるが、それが道の働きをなすものであると述べる。

【チャクラと七つの身体-332】
◎アートマン-36
5.道教と儒教 ◎老子の世界観
(ザ・ジャンプ・アウト386)

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万物は陰陽を抱いて和す

2014-11-16 03:07:51 | ザ・ジャンプ・アウト
◎老子 第42章 道生一

老子は、只管打坐系だが、タオを窮めているからには、アートマンの描写も当然にある。

『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。

人の嫌いいやがるものは、ただ孤(徳がなく孤立すること)や寡(徳が寡いこと)やそれから不穀(自分が不善であること)と言われることである。ところがこれらの語をもって王侯は自称する場合の代名詞としている。

すべてのものは、これを損することが益することであり、これを益することが却って損をすることになる。このことは古人の教えるところであり、そして私もまた教えようとするところである。

事実、強がりのものは、満足な死に方をしないものである。だから私はものに剛強でない柔弱不争の徳をもって、教えの根本とする。』

一は有、二は陰陽、三は万物。ここの、アートマンなる一が陰陽に分かれ、万物を生ずるところは万国共通で紛れはない。

「一」は老子では通常無を指すが、ここでは有となっており、この部分が神仙家による後世の挿入ではないかと疑われる所以である。

毛沢東は近代西欧型の商工業文明を標榜せず、中国共産党指導下の農業中心主義を推進した。文明の型として無為大道的な柔弱な文明とは農業中心の文明であろう。商工業は、その販路拡大のために常に他と争う場面があるので「不争」とは言えないからである。毛沢東には、彼独特の徳治のビジョンがあったに相違ない。

【チャクラと七つの身体-331】
◎アートマン-35
5.道教と儒教 ◎万物は陰陽を抱いて和す
(ザ・ジャンプ・アウト385)

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