アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

アートマンとブラフマン-4

2014-10-31 03:49:08 | ザ・ジャンプ・アウト
◎最高の光明

インドラの師匠プラジャー・パティは次のように語る。
『この肉身は死すべきものであり、死に捉えられている。しかし、それはこの不死で肉身のないアートマンの住処である。肉身を具えた者は実に好悪の二者によって捉えられている。肉身を具えている以上、好悪の二者を絶滅することは不可能である。しかし肉身のない者には、好悪の二者も触れることはない。

風は肉身のない者である。雲、稲妻、雷鳴など、これらの者も肉身を持たない。あたかもこれらの者があの虚空から上昇して、最高の光明に到達し、それぞれの形で出現するように、

まさにそのとおりに、完全な心の平静はこの肉身から上昇して、最高の光明に達し、自己の姿で出現する。彼は最高のプルシャで、彼はそこで食べ、遊び、女ども、車駕の類あるいは親類の者たちと戯れて歩き回り、付属物である肉身のことを思い出すことはない。彼はあたかも牛車が車に繋がれているように、まさしく生気(感官とその機能)はこの肉身に繋がれているのだ。

さて眼が空処(アートマンの住処としての心臓内の空処)に注がれている場合、それが眼のプルシャである。(感官としての)眼は見るためだけのものである。つぎに『わたしはそれを嗅ごう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)鼻は嗅ぐためだけのものである。

また『わたしはそれを喋ろう』と意識する者、それがアートマンである。(機能としての)言語は喋るためにあるにすぎない。また『自分はそれを聴こう』と意識する者、それがアートマンである。(感官としての)耳は聴くためだけにあるものである。

次に『自分はそれを考えよう』と意識する者、それがアートマンである。(思考機能としての)意識はアートマンの神的な眼である。この神的な眼である意識によって、それはその欲望の対象を見て、満足する。

ブラフマンの世界にいる人々は、このアートマンを神として尊崇する。従って、彼らは一切の世界と一切の欲望を掌中に収める。このアートマンを見出して認識する者は、一切の世界と一切の欲望を達成する。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP229-230から引用)

更に
『余は、黒いものから斑色のものに逃避し、斑色のものから黒いものに逃避する。馬が(抜けたたてがみの)毛を振るい落とすように、悪を振るい落とし、月がラーフ(月を欠かせる悪魔)の口から逃れるように、余は肉身を振り払うて、自己を確立した余は、創造されたことのないブラフマンの世界に赴くのだ。赴くのだ。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP230から引用)

プラジャー・パティ(創造主)のインドラに対する説明は、次のとおりであるが、その説明を全体として見れば、
肉身を持つ人間は、好悪の感情の反映であるアストラル体を持つ。冥想により「完全な平静」を実現した時に、肉身を出て上昇し、最高の光明に到達して、その世界で遊び戯れるという、クンダリーニ覚醒の秘儀が示されていると見ることができる。 その後個別性を持つ自己の形で現れ・・・・と、帰還後の秘儀までほのめかす。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持ってその世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。

最後の比喩の、黒いものは、ブラフマンであり、無のこと、斑色のものはアートマンであり、有のことだろうと思う。

ブラフマンにあって、初めて一切の世界と一切の欲望たるアートマンを掌中に収めることができるが、ブラフマンとは、最高の光明のことである。これを人間個人、個我のことと考えると間違えるかもしれない。神が神を神している世界だから。

※『ブラフマンの世界にいる人々』という言い回しは、個なきブラフマンの世界に人々がいるはずはなく、食いつきを良くするための呼び込み文句みたいなものだろうか。

【チャクラと七つの身体-315】
◎アートマン-19
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-4
(ザ・ジャンプ・アウト369)

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アートマンとブラフマン-3

2014-10-30 03:53:34 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神と悪魔の悟境の差

創造主プラジャー・パティが「アートマンを見出して認識する者は一切の世界を得て、すべての欲望を満足させる」と唱えたのを聞いて、神々代表としてインドラが、悪魔代表としてヴィローチャナが、アートマンを認識するべく、創造主プラジャー・パティの下で32年間修行した。

創造主プラジャー・パティは、眼の中に見られる自己(プルシャ)がアートマンであるという説明を行い、悪魔代表のヴィローチャナと神々代表のインドラに、水盤に映る自分の姿を確認させ、「それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」と説明した。 すると両名とも心から満足して立ち去った。

これを見てプラジャー・パティは、「彼らはアートマンを理解せず、見出すこともできずに立ち去った。神々にせよ、悪魔どもにせよこのようなことを秘義として信じる者は必ず滅びよう。」と評した。

ヴィローチャナは、(アートマンを自分の肉体のことだと思い、)「この世においては、アートマンをこそ悦ばすべきであり、アートマンに我々は奉仕すべきである。この世においてはアートマンを悦ばし、アートマンに奉仕してこそ、この世界とあの世界の両者を得るのだ」と語った。これは悪魔どもの秘義である。

さてインドラは帰り道で、不具になったり、肉体がなくなったら、その理屈が通用しないことに気づき、またプラジャー・パティの許に立ち戻って更に32年修行を続けた。

プラジャー・パティは次のような説明を与えた。
「夢の中で祝福された者のように歩き回る者、それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」

インドラは、一旦はこれに納得したが、夢の中の肉体でも不快を感ずることがあるため、納得できないで、プラジャー・パティのもとでさらに32年間修行を続けた。

プラジャー・パティは次のような説明を与えた。
「人が眠り込んで自己に没入し、完全な心の平静を得て、夢を見ない場合、それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」

インドラは、一旦はこれに納得したが、眠っている人は自分を認識しないので、まして一切の存在を認識することはないとして、納得せずにまた師のもとに戻って行った。

さてプラジャー・パティはどのような教えで最後を締めくくろうとするのだろうか。
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP227-229を要約)

【チャクラと七つの身体-314】
◎アートマン-18
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-3
(ザ・ジャンプ・アウト368)

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アートマンとブラフマン-2

2014-10-29 03:49:09 | ザ・ジャンプ・アウト
◎梵我一如に非ず

ウパニシャッドの現代語訳の著作がある湯田豊も梵我一如ではないと述べている。

『アートマンとブラフマンが本質において一つであるという学説は少なくとも初期ウパニシャッドには存在しない。したがってアートマン=ブラフマン説がウパニシャッド全体を代表する思想であるはずはない。

大宇宙の原理であるブラフマンが人間の本来的自己に他ならないというインド思想上有名な梵我一如は、わたくしの関知する限り、ウパニシャッドのテクストによって実証されないように思われる。』
(ウパニシャッドの哲学/湯田豊/平楽寺書店p102-103から引用)

ウパニシャッドの中で出てくるブラフマンという言葉は、アートマンの説明またはアートマンという言葉の後に唐突に、何の解説もなく、挿入されているケースが多い。だからといって、それがブラフマンがアートマンと同一である証拠にはならない。

七つの身体論からするとニルヴァーナが第七身体(無)であり、アートマンが第六身体(有)であるので、ウパニシャッドのように、十分な微細レベルの身体の記述がある書物において、有に属するものと無に属するものをよもや取り違えようはずがない。

言詮不及、言葉で表現できないものは、ニルヴァーナであり、アートマンではない。言葉で表現できないものをかりにニルヴァーナと名付けているのだから、ウパニシャッドでブラフマンについて、何の解説もついてないのは、却って正統的な表現であると言わざるを得ない。

【チャクラと七つの身体-313】
◎アートマン-17
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-2
(ザ・ジャンプ・アウト367)

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アートマンとブラフマン-1

2014-10-28 03:41:06 | ザ・ジャンプ・アウト
◎梵我一如か?

よくウパニシャッドでは、梵我一如と呼ばれ、アートマンとブラフマンは同じであるといわれ、実際にウパニシャッドの中でも、アートマンとはブラフマンのことであると書いているものがある。

しかしそうではないと読めるものもある。アートマンとは、不死のことであるが、次のヴェーダの「1.」では、死もなく不死もない世界のことを語り「一なるもの」も未出現なので、ここはブラフマンのことを謂うのだろうと思う。またブラフマンが言葉では説明できないものであるということは、ウパニシャッドの随所に出てくることも考慮されるべきだと思う。

また太陽などの天体や地水火風などの元素や、人間という現象のことをブラフマンと呼ぶ場合がある。これは、「有」の世界のことをブラフマンと読んでいるもので、誤解を招きやすい表現ではある。

さて以下の文の「2.」以下は、「一なるもの」の説明なのでアートマンである。

只管打坐で、いきなり身心脱落してンニルヴァーナに到るメソッドでは、中間段階としてのアートマンなどというものは、おそらく登場してこないだろうから、密教=クンダリーニ・ヨーガ的な体系の宗教で特有の説明の仕方であると考えるべきかもしれない。

リグ・ヴェーダ第10巻第129讃歌
『1.そのとき、非有もなかった。有もなかった、空間の領域もなかった。その上の最高の(領域)もなかった。いかなるものが按撫したのか、いかなるところで、いかなるものの保護において、底知れない深い水は在ったであろうか。

2.そのとき、死もなかった。不死もなかった。夜と昼のしるしもなかった。そのただ一つなるものは、風をたてることなく、みずからの力(独立の力)で息づいていた。そのもの以外のほかのものは何ひとつ存在しなかった。

3.太初には暗黒が暗黒によっておおわれていた。この(世の)すべてのものは、しるしを持たぬ水であった。空虚によっておおわれて発達しているものである。あのただひとつなるものは,熱力の力によって生れた。

4.太初に欲求がそのものに発生した。そしてそれは、思考作用の第一番目の種子であった。(天賦の詩的霊感をそなえた)詩聖たちは、熟慮によって、(霊感の坐である)心において追求し、非有において有の関連をみいだした。

5.これらの(詩聖たちの測量のための)縄は横に張られた。下には在ったであろうか。上にはあったであろうか。射精者はあった。増大する力はあった。独立の力(女性的力?)は下に、収める力(男性的力?)は上に(在った)。

6.だれがほんとうに知っているだろうか。ここにおいてだれが告げられようか。この(二次的な)創造は、いかなるものより生じ、何物から(出現したのか)。神々はこのものの創造ののち(に誕生したの)であった。このとき(創造が)なにものより起こったかをいったいだれが知っていよう。

7.この創造がなにものより起こったかを、あるいは(それが何人によって)実行されたかを、あるいは(実行され)なかったかを、最高の領域において、これを監督するところの者だけが、(そのことを)知っている。あるいはまた、(だれも)知っていない。
』(人類の知的遺産2 ウハニシャッドの哲人/講談社p124-125から引用)

【チャクラと七つの身体-312】
◎アートマン-16
2.ウパニシャッド ◎ アートマンとブラフマン-1
(ザ・ジャンプ・アウト366)

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クンダリーニ・ヨーガのステップ

2014-10-27 03:23:19 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ステップの多いクンダリーニ・ヨーガ

只管打坐系冥想にはステップはない。これに対してクンダリーニ・ヨーガ系冥想はステップそのものである。

クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を扱う技術であるから。まず死の世界に入る。それからステップが並ぶということになる。

ステップは、只管打坐系のように意識の深化で見ることもできるが、七つの身体、七つのチャクラで見るのが正統的なのだろうと思う。

チャクラは七つの身体すべてに配置されているわけではなく、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体のそれぞれに七チャクラ配置されている。コーザル体には、チャクラがあるかどうかは不明であり、アートマンとニルヴァーナは、人間の個別性はないのでチャクラはない。

このように説明すると、電車が一駅づつ停車して進むように各ボディの各チャクラを進むかと言えば、必ずしもそうとは言えないようだ。代表的なテキストである「チベット死者の書」や「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を見るかぎり、一チャクラ一チャクラづつ整然と進んでいくような印象はない。

生の世界から死の世界に入り、また生の世界に戻るというダイナミックな動きによって世界の真相を極めようというものだから、結果的に7つの身体7つのチャクラで整然と説明できるのかも知れないが、その実際は肉体意識中心のまともな社会人である常識人の想像を絶するものであることは間違いあるまい。

【チャクラと七つの身体-311】
◎アートマン-15
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎クンダリーニ・ヨーガのステップ
(ザ・ジャンプ・アウト365)

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冥想の深浅高低-12

2014-10-26 03:09:54 | ザ・ジャンプ・アウト
◎冥想十字マップ-2

ダンテス・ダイジの冥想の縦軸は、以下の7段階である。ダンテス・ダイジは、この冥想十字マップにおいて、直接に、各段階がチャクラ七つの身体に対応しているなどとは語っていないが、総合的にはそのように考えざるを得ないのである。

何の前提もなく、いきなり、『人間の精神性の七つのレベル』として、意志だの情熱だのという概念語が並べられたら、それはそのままでは、一個人の単なる人間像のプロファイルのアイディアを表明しただけにしか思えない。ところが各チャクラの性質と、七つの身体のシンクロを思い起こすと次のような説明になるのだろうと思う。

勿論こうしたものは、本来、自分自らそれを見渡せる冥想に入り、確認してみるべきものだとは思う。

1.力、渇望
これは、チャクラでは、ムラダーラ・チャクラに対応し、ムラダーラ・チャクラは、七つの身体で言えば肉体に照応している。

2.意志
これは、チャクラでは、スワジスターナ・チャクラに対応し、スワジスターナ・チャクラは、七つの身体で言えばエーテル体に照応している。

3.情熱
これは、チャクラでは、マニピュラ・チャクラに対応し、七つの身体で言えばアストラル体に照応している。

4.愛
これは、チャクラでは、アナハタ・チャクラに対応し、アナハタ・チャクラは、七つの身体で言えばメンタル体に照応している。

5.調和
これは、チャクラでは、ビシュダ・チャクラに対応し、ビシュダ・チャクラは、七つの身体で言えばコーザル体に照応している。

6.知恵
これは、チャクラでは、アジナー・チャクラに対応し、アジナー・チャクラは、七つの身体で言えばアートマンに照応している。

7.ニルヴァーナ
これは、チャクラでは、サハスラーラ・チャクラに対応し、サハスラーラ・チャクラは、七つの身体で言えばニルヴァーナに照応している。

【チャクラと七つの身体-310】
◎アートマン-14
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-12 ◎冥想十字マップ-2
(ザ・ジャンプ・アウト364)

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冥想の深浅高低-11

2014-10-25 03:49:45 | ザ・ジャンプ・アウト
◎冥想十字マップ-1

ダンテス・ダイジの冥想の横軸は、以下の4段階であるが、無想定と有相三昧の間に「愛」が挟み込んであるところが特徴。しかし、ダンテス・ダイジは「愛」を一つの段階と定義してはいない。冥想の横軸が冥想の縦軸と交わる交点として、愛を位置づけているところが特徴である。神(仏)と個人の結節点(結び)として愛を見ているのである。合気道家植芝盛平のいうところの天の浮橋の位置である。

1.有想定
ヨーガ・スートラで言う有尋定とほぼ同じであり、仏教でいう欲界定や四色禅定のこと。要するに欲界定と初禅から第四禅までのことである。
幸福感、安心感、清らかさなどの肯定的な情感を感じることができる。

2.無想定
ヨーガ・スートラで言う無尋定とほぼ同じであり、仏教でいう四無色禅定のこと。
(1)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識    
(2)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識
(3)無所有処定:なにもかもがないという意識
(4)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

3.有相三昧
ヨーガ・スートラで言う有想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう滅想定のこと。ダンテス・ダイジは、「一切万象、多様次元自身が目覚めている。」と説明している。

4.無相三昧
ヨーガ・スートラで言う無想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう涅槃(ニルヴァーナ)のこと。 

ダンテス・ダイジの説明は次のようなもので、滅尽定(滅想定)とニルヴァーナを区別している。
「仏教なんぞの滅尽定でもない。
禅なんぞの無でもない。
隻手の音声なんぞ夢のまた夢
ヨーガの解脱なんぞでもない。

いわゆる概念的には、ニルヴァーナのことだが、真のニルヴァーナは、いかなる概念内容も持っていない。」
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス.ダイジ/森北出版P193から引用)

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版p188から引用)


【チャクラと七つの身体-309】
◎アートマン-13
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-11 ◎冥想十字マップ-1
(ザ・ジャンプ・アウト363)

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冥想の深浅高低-10

2014-10-24 03:45:34 | ザ・ジャンプ・アウト
◎冥想の縦軸と横軸

以上のように冥想の深浅高低について、ヨーガ・スートラと釈迦の冥想レベルの比較を出した。これは、ケン・ウィルバーが、その著書意識のスペクトルで覚者の世界観の区分をいろいろと並べているが、そうしたものの一つであって、これぞ絶対的な区分と頑張る必要はないと思う。おおまかにいえば、どのレベル区分法にもニルヴァーナとアートマンは大体あるものだ。ただしそれ以外の区分は人によって千差万別。

冥想の縦軸を七つの身体とし、冥想の横軸を深浅高低にとった場合に、冥想の縦軸である七つの身体でいう最後の2つは、第六身体(アートマン)と第七身体(ニルヴァーナ)であり、個別性を超えた神(仏、無)のことである。

そして冥想の横軸である深浅高低では、ヨーガ・スートラの最上位の二つである有想三昧と無想三昧は、個別性を超えており、いつかは滅びるものである物質性や時間性というものを超えた世界のものである。したがって有想三昧は、第六身体(アートマン)に照応し、また無想三昧は第七身体(ニルヴァーナ、宇宙意識)に照応するものであると考えられる。

したがって冥想の縦軸と横軸において、最後の2段階はそれぞれ照応するものと考えられ、特に最後の第七身体と無想三昧は同じことを言っているように思われる。
この結果冥想の縦軸と横軸は、縦軸たる七つの身体では、第六身体の手前で横軸と交わり、かたや横軸たる深浅高低では、有想三昧の手前で縦軸と交わるイメージになるように考えられる。

政治の紛糾、経済の混乱、人間関係・家族関係の悪化などは、いわば身体の表面に現れる病状であって、病気の原因ではない。これらの病気の本質的原因は、我々の心の内にあるのであって、それを探るためには冥想によるしかないのである。

ところが、あらゆる観点と立場というものは、ジコチューな欲望の一つのツッパリにすぎない。そのため、その原因を探るためには、観点と立場を相手にしない冥想が必要なのである。付言すれば、冥想は、縦軸から追っても、横軸から追っても、ついには「そこ」に到達できるのである。

【チャクラと七つの身体-308】
◎アートマン-12
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-10 ◎冥想の縦軸と横軸
(ザ・ジャンプ・アウト362)

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冥想の深浅高低-9

2014-10-23 03:39:26 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類6
◎釈迦成道

釈迦が、非想非非想処定を教えてくれるウッダカ・ラーマプッタ仙人のところを去ったのは良いとして、いくらでも天国気分を味わえる非想非非想処定を捨てて、わざわざ釈迦が苦行を選んだのはとても不思議なことである。人生を苦の連続と見る超ペシミスティック(厭世的)人生観の宗教を作り出した人だから、そのような苦行モードに入ってしまったためなのか・・・・・?

閑話休題
それでは入滅での釈迦の冥想レベルのアップダウンはわかったとして、成道の時はどうであったかは、一度は調べておく必要があると思い、調べて見ました。

悪魔の誘惑を退けた後、釈迦は、初禅、二禅、三禅、四禅と、移っていき、夜明けの光の中で、『アムリタ(不死の霊薬)を使う治療法は完成の域に達した。彼は、医師の王として現れ、あらゆる苦痛から解放し、法の王である如来の偉大な座席である如来の母胎(如来蔵)の上に坐って、ニルヴァーナ(寂滅)の幸福の中に(自己)を確立された』
(ブッダの境涯/東方出版p308から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

とあるので、ニルヴァーナに至っている。しかしながら非想非非想処定などの無色界の禅定についての記述がないこと、滅想定の記述もないことについての疑問があり、それらの段階を経過したかどうかはわからないが、ニルヴァーナには到達したということだろう。

 釈迦がニルヴァーナに至る前夜の夜中(第二分)
『かのボサツは真夜中の時刻(第二分)において、過去世の住まい(境地)を正確に思い起こす賢明さの見解の知を直接生み出すために、精神を調え、精神を導かれた。かれは自分自身の,および他人の過去世の数多くの住まい(境地)を正確に思い出された。

たとえば、一つの、二つの、三つの、四つの、五つの、十の、二十の、三十の、四十の、五十の誕生、百の誕生、千の誕生、十万の誕生、何十万の誕生、一億の、百億の、千億の、百千億の誕生、百兆の誕生、何百億の誕生、何百千億の誕生から、一つのカルパの破壊、一つのカルパの再生、一つのカルパの破壊と再生、多くのカルパの破壊と再生に至るまでを。

このような場所に来て、私の名はこれであった。私の種族はこれであった。私のカーストはこれであった。私の生命(生涯)の範囲はこうであった。私がそこに留まった時間の長さはこうであった。私が経験した幸福と不幸とはこれこれであった。続いてそこから去って、他の場所に生まれ、続いてそこから去って、私はこの場所に生まれた。続いてそこから去って他の場所に生まれ、続いてそこから去ってここに生まれた。

このようにして、自分自身、及び全ての衆生の、数多くの種類の過去世の住まいを正確に思い出された。それぞれの性格と記載とを伴って』
(ブッダの境涯/東方出版P302-303から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

これを読むと、メキシコのマサテコ族の呪術師マリア・サビナの境涯と似ていることがわかる。マリア・サビナはニルヴァーナの一歩手前まで行ったのだ。マリア・サビナの言葉「過去も未来も既に達成してしまった、既に起こってしまった、一つのものとしてそこにある。」。

【チャクラと七つの身体-307】
◎アートマン-11
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-9 ◎原始仏教の分類-6
(ザ・ジャンプ・アウト361)

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冥想の深浅高低-8

2014-10-22 03:13:17 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類5

原始仏教の遊行経の、釈迦の入滅シーンの続きです。
『(これまでただ釈尊の説法を数多く聴聞して、それを記憶することには特に傑出していたものの、その説法には説かれなかったこのような場面に遭遇して、すっかり窮地に陥った)アーナンダ(仏弟子)は、(天眼をもってこの情況を見通しにわかに出現した)アヌルッダ(阿那律=仏弟子)に質問します。

「世尊は、もはやすでに完全なるニルヴァーナを遂げられたのでしょうか。」
アヌルッダは答えて言います。
「まだです。アーナンダよ。世尊はいま(色界・無色界すなわち三界のすべてを超えて)
滅想定におられるのです。私はむかし親しく仏から聞いたことがあります。「第四禅から出て初めて完全なるニルヴァーナを遂げる」と。」

その時に世尊は(はたしてアヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、

その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅からから出て、第三禅に入り、
その第三禅からから出て、第二禅に入り、
その第二禅からから出て、初禅(第一禅)に入り(3たび繰り返して)、

その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む/青土社P952-953から引用)

ここでポイントになるのは、欲界・色界・無色界すなわち三界のすべてを超えれば、既にそこは人間の体験でなく、仏の領域であるが、その滅想定はニルヴァーナではないと、釈迦自身が否定したとアヌルッダが述べているところである。

滅想定(滅尽定(滅受想定))は、三界を超えているので、定ではなく、ヨーガ・スートラでいえば、三昧に該当する。ところが滅想定はニルヴァーナではないので、滅想定はヨーガでいう有想三昧に該当すると考えられる。
で、ニルヴァーナは、ヨーガ・スートラでいえば無想三昧。

これによって仏教で見ている冥想(禅定)のレベルは9ではなく、実は10段階であり、それぞれがヨーガ・スートラの分類に符合するものとなると考えられる。

【チャクラと七つの身体-306】
◎アートマン-10
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-8 ◎原始仏教の分類-5
(ザ・ジャンプ・アウト360)

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冥想の深浅高低-7

2014-10-21 03:07:14 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類4

原始仏教の遊行経において、釈迦は今まさに入滅しようとします。
『ここで、世尊は直ちに、
まず初禅(第一禅)に入り、
その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て(以上で色界の禅定を終え)、

空処定(虚空が無限であるという禅定の境地)に入り、

その空処定から出て識処定(心の識別作用が無限であるという禅定の境地)に入り、

その識処定から出て不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に入り

その不用定から出て有想無想定(心の表象が存在するのでもなく、存在しないのでもないという禅定の境地)に入り、その有想無想定から出て(以上で無色界の禅定を終えて、これにより生あるものの全世界である三界を超え出て)、

滅想定(心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定の境地に入りました。)』
(阿含経を読む/青土社から引用。P951-952)

※空処定:空無辺処定のこと
※識処定:識無辺処定のこと
※不用定:無所有処定のこと
※有想無想定:非想非非想処定のこと
※滅想定:滅尽定(滅受想定)のこと

以上のように釈迦は、禅定のレベル1から順番に上昇していってレベル9に入ったのである。

滅想定は、既に色界、無色界を超えたところなので、個人という人間性を超えたところにある。ということは、個人が体験しているのではなく、仏が仏を体験する、つまり仏の側の経験のことであると思う。

また滅想定は、禅定の最高レベルである。禅定という定に分類してあるが、ヨーガ・スートラの分類では、定ではなく有想三昧と見られるので、定と三昧がここでは混同されているように考えられる。

【チャクラと七つの身体-305】
◎アートマン-9
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-7 ◎原始仏教の分類-4
(ザ・ジャンプ・アウト359)

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冥想の深浅高低-6

2014-10-20 03:54:04 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類3

色界の禅定4レベルの説明が終わったので、無色界の禅定です。
9レベルのうち上位の4レベルを説明するが、無色界は、物質を離れた世界であるとは言っても、あくまで人間という個人が体験する個人性を残した定のレベルであることに変わりはない。人間の体験なので、それがどんなに素晴らしい体験であったとしても、いつかは変わり、消えてゆく体験なのだと思う。

(3)無色界 
欲望もなく、物質的なものも超えた精神性だけの世界。

(e)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識
    
(f)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(g)無所有処定:なにもかもがないという意識

(h)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

なにもかもがないという意識もないという状態は、何も問題がなく、不安もなく、快適で懐かしく、とても素晴らしい状態であるに違いない。初心の冥想修行者としては、一つの目指すべき境地であることは間違いない。また、おそらく通俗霊能力マスターなら、このレベルに至れば大物霊能力者と呼ばれるようなことになるのではあるまいか。

非想非非想処定とは、最上の天国に相当する状態でもあると思う。

しかし釈迦は、 非想非非想処定に満足することができず、その上の段階を目指した。釈迦の何回も繰り返された転生の中で、なにもかもがないという意識もないという状態ですら、本物ではないことをわきまえていたのだろう。定は定であって、人間性の限界を超えることはないのだ。

【チャクラと七つの身体-304】
◎アートマン-8
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-6 ◎原始仏教の分類-3
(ザ・ジャンプ・アウト358)

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冥想の深浅高低-5

2014-10-19 03:46:25 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類-2

原始仏教の遊行経において、釈迦の前生の一つ、大善見王の物語の中に四禅の解説がある。

大善見王が人間としての幸福を得たので、次に天としての幸福を得る実践をしようとして冥想すると、
『そこでむさぼりと淫欲という悪不善について、じっくりと考えをめぐらし(そのような座禅の中で)覚と観がとあり、(欲望や悪を)離れることから、純粋な喜と楽とを生じて(そのような境地からなる)、第一禅(初禅)を獲得した。』
(阿含経を読む/青土社P799から引用)

※この中で「覚」と「観」は、いろいろな物事をあれこれ考える働きの中で、心の粗い働きを「覚」とし、細かい働きを「観」とよぶ。「喜」は喜び、「楽」は楽しみ、幸福感。

『(つぎには)その覚と観とをすっかり除いてなくし、心の中は浄らかなまことに満たされて、心の底からすっかりよろこび、うれしくて、しかもその心だけをひたすら見つめて統一し、こうして覚もなく、観もなくなり、禅定から喜と楽とを生じて、(そのような境地からなる)第二禅を獲得した。

(つぎには)その心にある喜を捨て去ってしまい、(心を)どこまでもしっかりと守り、ひたすら念(こころの思い)のみに集注して、散乱することがなく、自らの身体の楽をよく知り、賢聖の求めたところである「念をまもりつつ楽が実践される」という、(そのような境地から成る)第三禅を獲得した。

(つぎには)そこにもなお残っていた苦(不快)と楽(快)との両方をすっかり捨ててなくし、それよりもまえに、すでにこころの様々な憂いと喜とを除いてあって、こうして苦楽を超越した不苦不楽の境地に達し、そこでは念を守ることが浄らかであり、純粋そのものであって、(そのような境地から成る)第四禅を獲得した。』
(阿含経を読む(下)/青土社p799-800から引用)

全体としては、釈迦の前生である大善見王の、天としての幸福を実現するためには、第四禅の冥想をすることが必要であるという説明である。天とは仏教十界説の天(上から5番目)のことであり、最高の「仏」に至る冥想ではないのである。

この四禅の段階では、ちょっとスピリチュアルな冥想体験でよく出会う、楽しさ、うれしさ、平静さ、調和した感じなどが、冥想の深まりとともに純粋になっていく消息がうかがえる。

【チャクラと七つの身体-303】
◎アートマン-7
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-5 ◎原始仏教の分類-2
(ザ・ジャンプ・アウト357)

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冥想の深浅高低-4

2014-10-18 03:27:17 | ザ・ジャンプ・アウト
◎原始仏教の分類1

釈迦は、王子や家族という社会的なすべてを棄てて、出家して二人の仙人に教えを受けた。

まずアーラーラ・カーラーマ仙人は、無所有処を説いた。無所有処は、禅定の9段階の7番目であり、世間から見たらかなりすごい。

そしてウッダカ・ラーマプッタ仙人は、非想非非想処を説いた。非想非非想処は、禅定の9段階の8番目であり、冥想ティーチャーの実力としては相当なものがあると言える。
釈迦は、これら二仙人に教えを乞うたが、結局納得することができず、苦行に入って行った。

1.原始仏教では、世界を三つの分野に分類する。欲界と色界と無色界である。
それぞれの分野が冥想の横軸である9つの冥想レベルに対応している。 
(1)欲界
最も下の世界で、淫欲と貪欲などの欲望を持つ生き物が住んでいる世界。
十界説では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間と、天の一部が含まれるとされる。
天の一部までのレベルの冥想は欲界定とされる。

(2)色界
欲界の上の世界で、既に欲望を離れた生き物の住む世界であり、姿や形のある「色」(物質)から成っている世界である。
十界説では天の一部、声聞、縁覚、菩薩、仏に当たる。

冥想(禅定)の4つのレベル(四禅)は、この色界からスタートする。 次回記事で説明するが、初禅から四禅まで、どれも、気持ちよかったり、楽しかったりする状態のこと。
(a)初禅
(b)二禅
(c)三禅
(d)四禅
 
以上の欲界や色界での冥想の中で、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

ここまでは、ヨーガ・スートラでいう有尋定が対応すると考えられる。


【チャクラと七つの身体-302】
◎アートマン-6
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-4 ◎原始仏教の分類-1
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冥想の深浅高低-3

2014-10-17 03:14:57 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3
○三昧の分類

三昧には、有想三昧と無想三昧がある。三昧とは、心をなくして、対象のみとなった状態である。

有想三昧と無想三昧に、もはや人間個人というものはなく、神の側、絶対者の側の体験のことであり、もはや体験とは呼べない体験のことである。

仮に誤って有想三昧と無想三昧を、個人という人間の認識形態の一つと理解したり哲学したりするならば、それは現実とはかけ離れた夢想のようなものになってしまうだろう。

(1)有想三昧
  三昧でも、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているもの。
※楽:尋、伺が消えた心地よい状態。
我想:見る主体である力と見る働きである力とを一体であるかのように思い込むこと。(あらゆる現象が顕現するための最初の要件がこれである)
(出典:解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P49-50)

有想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、認識対象があり、個人を超えた神のレベルなので、第六身体、アートマン、天地創造神話の世界、不壊なるイデアの世界が、有想三昧の舞台ということになるだろう。

(2)無想三昧
  心の動きを止める想念を修習した結果止念の行だけが残っている境地。
(出典:解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P51)
  ヨーガ・スートラの劈頭に、ヨーガとは心の働きを死滅することとあり、ヨーガの目的は無想三昧である。

無想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、第七身体であり、ニルヴァーナであり、仏教で言う空であり、禅で言う絶対無であり、密教で言う大日如来であり、太極であり、タオであり、神であり、最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
言葉で表現できないものである。

以下の摩訶止観は、ヨーガスートラより時代が下るが、止念をそれなりに評価している。
「ここでいう絶対の止観とは、横と竪(たて)のあらゆる相対的な意味を超えており、あらゆる思議を超えており、あらゆる煩悩や苦果を超えており、あらゆる教や観や証を超えているのであり、これらのすべてがみな生ずることがないから、それを止と名付け、その止も得ることはできないのである。」(詳解摩訶止観現代語訳篇/大蔵出版P120-121摩訶止観巻第三の上から引用)

【チャクラと七つの身体-301】
◎アートマン-5
1.クンダリーニ・ヨーガ ◎冥想の深浅高低-3 ◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3
(ザ・ジャンプ・アウト355)

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