アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ケンウィルバーのコーザル体

2014-09-30 05:44:02 | ザ・ジャンプ・アウト
◎意識のスペクトル

ケン・ウィルバーは意識のスペクトルを概観する中で、意識のスペクトルが、ヴェーダンタにおけるコーザル体と彼の「意識のスペクトル」の一段階である、「超個の帯域」が対応することを示している。

ケン・ウィルバーの「意識のスペクトル」は必ずしも固定した段階説でなく、4段階説、12段階説など数にこだわっていないが、ヴェーダンタの7段階(七つの身体説)と本質的に一致するとしている。


以下がヴェーダンタ用に出してきた意識のスペクトルの段階。
1.五感
2.影のレベル
3.自我のレベル
以上が肉体に照応。

4.生物社会的帯域
5.実存のレベル
以上がエーテル体、アストラル体、メンタル体に照応。

7.超個の帯域
これがコーザル体に照応

6.永遠-無限
以上がアートマン-ニルヴァーナに照応

このようにケン・ウィルバーは、心理学として意識の全容を説明しているのだが、微細身体レベル以上からは、心理ではなく、現実そのものであることをもっと説明できたのではないだろうかと思った。この構造が冥想により体験可能だと言っているところが、「哲学」だ「思想」だと唱える他の心理学者とは一線を画している。


ケン・ウィルバーのコーザル体の説明
『もっとも、内側の層、至福の鞘(アーナンダマヤコーシャ)は「コーザル体」(カラナ・シャリラ)を構成し、夢を見ない深い眠りの状態(ススプティ)や、特定の瞑想の状態にある人誰もが体験する。

このレベルでは二元性と区別が完全には破壊されないにせよ完璧に調和するため、この状態は深いリラキセーションと至福(アーナンダ)として体験されるそれはほかのすべての鞘の基礎および「原因」であることから「コーザル体」(因果体)とも呼ばれる。』
(意識のスペクトル1/ケン・ウィルバー/春秋社p263-264から引用)


【チャクラと七つの身体-295】
◎コーザル体-13
◎ケン・ウィルバーのコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト349)

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東方キリスト教における人間の神化

2014-09-29 03:52:50 | キリスト者の秘蹟
◎われわれが神化されるために

カトリックでは、至福だ天上だと言うが、東方キリスト教では、神化という。キリスト教が東西分裂する以前から神化の考え方はあったのだが、東方キリスト教にその考え方が残った。その場合神化とは何を意味するかがまずポイントでその次に冥想手法の如何が問題となる。

神化が成立し得る例示として、聖書の中で最も有力なのは、下記の引用文中の(2)「あなたがたは皆、信仰によって、キリスト・イエスと一致し、神の子なのです」(『ガラテア』3・26)。なのだが、そのものズバリの表現とは言えない。

これに対し、クレメンスの「神の御言葉が人間になったのは、いかにして人間は神になりうるかをあなたがたが学ぶためである」は、直截である。

東洋人にとっては、自然環境も社会環境も天であり、地であり神の一部というのは無意識にある。
西洋人にとっては、自分があって、神でも自分でもない自然環境や社会環境があって、それから神と聖霊があるという無意識の前提というのがあるように思う。

その大前提に立って、東方キリスト教徒にとっての神化は、那辺にあるかを見極めるべきだろう。

人はもともと神だったというなら、なぜわざわざ神にならねばならないのだろうか。

東方キリスト教は、古代ギリシアのような神託シャーマン重視の憑依宗教になることもなく、心霊現象偏重や現世御利益大ありの通俗宗教に陥ることもなく、あくまで神化を目指したことでは、正統であったと評価されるべきだろう。


『第三節 神化とは

ところでこの「神化」という言葉は、聖書の用語としてはあまりなじみがない。なじみがないどころか、そういう言葉は、聖書では使われてはいない。つまりユダヤ=キリスト教の伝統では、神は被造物を無限に超越すると考えられているから、この有限な被造物が「神化する」という考えは、神と被造物の間に絶対的な、越ええざる深淵があるとする思想から甚だ遠いと言わねばならないであろう。

にもかかわらず「神化」という言葉はすでに三世紀、アレクサンドリアのクレメンスに見られるという。

クレメンスがそもそもどういう根拠でこの言葉を使い出したのか。
それはクレメンスをもっと詳細に検討せねばならないが、今、一般的に、例えばエフドキーモフや「霊性辞典」Dictionairre de Spiritualite で言われるところによれば、次のようである。

すなわち、聖書そのものに「神化」という言葉はないが、神化という思想が生まれてくるその根拠を聖書に求めると、
(1)まず人間が神の像にかたどって造られた、ということ(『創世記』1・26-27)。
(2)神との養子縁組、つまり「あなたがたは皆、信仰によって、キリスト・イエスと一致し、神の子なのです」(『ガラテア』3・26)。
(3)神とキリストにならうこと。その意味で、「・・・・・・それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。・・・・・だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(『マタイ』5・44)等が挙げられる。

なおこの他に、「わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。』」(『詩篇』八一・6セプトゥアギンタによる)、「それはこの約束によって、あなたがたが欲によるこの世の腐敗から逃れ、神の本性にあずかるためです」(二ペトロ』一・4)。
「『われわれは神のうちに生き、動き、存在する。』あなたがたのある詩人たちも、『われわれもまた、その子孫である』と言っているとおりです。このように、われわれは神の子孫ですから・・・・・・」(『使徒言行録』 一七・28-29)、という聖書の言葉が挙げられる。
このような聖書の句を根拠として、ギリシア教父は人間の神化について語るのである。

たとえば、先のクレメンスはこう言う、
「神の御言葉が人間になったのは、いかにして人間は神になりうるかをあなたがたが学ぶためである」。

またアタナシオスは、
「彼〈キリスト〉が人間になったのは、われわれが神化されるためである」とまで言う。

さらにアレクサンドリアのキュリロスは、「われわれは存在し自存する聖霊の宮居である。聖霊のゆえに、われわれは聖霊との結びつきによって、神的で、言い表しがたい本性と交わりうるかぎりにおいて、神々と呼ばれたのである」。』
(エネルゲイアと光の神学/大森正樹/創文社P66-67から引用)


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かもめのジョナサン最終章

2014-09-28 06:53:16 | 冥想アヴァンギャルド
◎かもめの事上磨錬

30年位前にかもめのジョナサンを読んだ。問題のエンディングは、尻切れとんぼだったが、十分に後の展開を予想し得るものだった。その尻切れぶりは、きちんと描写されたエンド・シーンよりあった場合よりも、その後のダイナミズムを生むための十分なエネルギーを与えるものだった。

ここにきて、最終章である第四章が追加されたわけだが、かもめたちの飛ぶ世界に新たな地平が発見されたわけではない。カモメのジョナサンは、陽明学流の言い方では、かもめ版事上磨錬物語だった。

別世界、別次元は、万人から真に希求されるものではないが、「人間の日常に真に向き合えば、それまでに見えていたものと異なる全く違う世界に生きていることに気がつく」と、老子、道元など只管打坐系の覚者は口を揃える。

別世界、別次元というオカルティックなものが最重要ファクターなのではなく、「退屈な日常」という起爆剤にどの程度エネルギーが詰まっているかが、結果のバリエーションを生み出しているようだ。

一旦かもめのジョナサンの世界に入ってしまえば退屈な世界などはない。しかし覚醒の瞬間は一瞬であり、悟りとは、その覚醒の瞬間であるという体験至上主義では、二度目三度目の体験を追い求めるばかりとなる。

禅僧趙州は「十二時の歌」で素寒貧な生活を描写してみせるが、これこそ体験至上主義でなく、「悟りとは態度だ」を地で行っているのだと思い当った。「悟り」は入り口から覗けば理解することは簡単そうだが、多くのファクターがあり過ぎて、理解するのすら難しい。簡単ではない。

悟りとは、態度でも、体験ですらもないが、それでも「悟りとは態度だ」と言わざるを得ないシーンはある。


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ケン・ウィルバーの「キリスト教の神」評価

2014-09-27 07:03:38 | キリスト者の秘蹟
◎自然からも人間性からも切り離された神

ケン・ウィルバーは禅的悟りから入った人である。最近の著書「ワン・テイスト」を見るとオカルティストみたいなところもあるが、それはクリシュナムルティがたまに見せる霊能力程度のものであって、ことさらに意図してそういうことを書いているわけではないと思う。

以下の文で、『私たちに内在するスピリットそのものである基本的な覚醒あるいは純粋な現前』とは、身心脱落であり、体験とはいえない体験であり、この身このままでというやつで、禅的悟りのことである。

彼の見るところ、キリスト教の神とは『神話的に分離した神が、存在論的に自然と人間性から切り離された』ものであり、もはやこの時代に至っては、それが通用しなくなったようだ。プロティノスの言うように(我にではなく)我々に内在する神は、我々と分離したものでなく、自然と人間性と一体のものだ。それは実は伝統的なキリスト教の神とは異なるものだった。

※神話的段階とは―明晰な論理的思考や内省が出来ないアニミズム的な意識段階(アートマン・プロジェクトP48-51)

ケン・ウィルバーは、『いったいどんな意識構造がこのような神を生成したのか』と自問してみせているが、イエスと彼に続いた時代の意識構造がその神を生み出した。そして、その後始末が我々現代人に託されている。

『プロティノスは上昇と下降の流れを見事に組み合わせ、もともとのプラトンの非二元性をさらに洗練して表現した。プラトンープロティノスの非二元的な伝統は、そのままであれば、シャンカラや竜樹がヒンドゥー経や仏教に対して貢献したように、生き生きと存続したであろうが、決定的な要因によってそうはならなかった、すべてを文字どおりに受け取る神話段階のキリスト教の登場である。

神話的に分離した神が、存在論的に自然と人間性から切り離されたために―――――ティリッヒの言う
「天上における神聖な領域と地上における人間の領域という厳格な二元論」のために神をこの地上に根付かせるいかなる道もなくなってしまった。
したがって人間性の最終的な運命が、この人生この肉体、この地上において実現される道はなくなったのである。

こうして、どこまでも徹底的に分裂して「あの世界」のみ希求する上昇者は、すべての排他的な上昇者と同じく、フォボス(地上、身体、自然、女性、セックス、感覚に対する恐怖)によって突き動かされて西欧文明を一千年にわたって支配しえたのである(かならずしも彼らだけが統治したわけではないが)。

しかし皮肉なことに、こうした神話的に上昇させられた神は、実際には上昇ないし超越の神でも何でもない。それはグノーシスあるいは元因段階の「一者」でさえない(非常の少数の覚醒者のそれは別として)。

それは、どこまでいっても徹底的に神話段階によって生成されたものである。地上中心的、自我中心的、人間中心的な「土地の山神」―――――ヤハウェという名前であるが―――――であって、その本当の構造的な特徴は、彼が人間の歴史に関与するのは、彼が選んだ民に「報償」か「懲罰」を与えるか、たびたび彼の選民の敵を奇跡的にうち殺すことで介入するときしかないという事実によく現われている。そのほかの時間、彼はホウレンソウをポテトに変えて過ごしているのである。

いったいどんな意識構造がこのような神を生成したのか疑問の余地はない。したがってそれは、キリスト教(そしてユダヤ教)自体の伝統におけるより深遠な思想家からの厳しい批判を招いたのである。
それはクレメント、オリゲネス、フィロンらから始まっている。


おそらくその三人ともがパウル・ティリッヒの次の言葉に心から同意するに違いない。「神による奇跡の介入、特別な霊感や天啓などは、真の宗教的経験に比べればレベルは低い。宗教とは直接性である(ティリッヒ自身が非常に明確にしているように、ここでいう直接性とは、私たちに内在するスピリットそのものである基本的な覚醒あるいは純粋な現前を指している)。奇跡を起こすために自然の法則を無視するような超自然的な伝統はまったく根拠がない」』
(進化の構造Part2/ケン・ウィルバー/春秋社P53から55から引用)


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ミルチャ・エリアーデのコーザル体

2014-09-26 03:34:24 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神秘と逆説、そして絶対的自由

宗教学者のミルチャ・エリアーデは、コーザル体がどうしたこうしたという事は述べていないが、第五身体コーザル体の位置づけを、神と悪魔が友人同士だとか、兄弟などの近親だとかいう、中央アジアや南東ヨーロッパの開闢神話でのエピソードに出て来る理由から、極めて正確に見ている。つまりコーザル体は、メンタル体での二元対立を越えたところに置かれるという見解なのである。

それは、生活者として日々苦労しまくっている人間には許しがたいことだが、『善』と『悪』には近親関係があるらしいなどと控えめに表現されるということである。

その前提として、まず語らなければならないのは、人間は常に天国的なものを目指して一挙手一投足を進めていかなければならないということ。それは疑問の余地はないが、最高に天国的なものにほとんどコンタクトしようとする寸前に、なぜだか悪魔が現れる。イエスの40日の荒野修行でもそうだったし、釈迦の成道の直前もそうだった。北欧神話でもトリックスターであるロキは、アスガルドという天国の生活に何の不満があるのか、神々滅亡の遠因となる事件を引き起こしてしまう。『善』と『悪』、天国と地獄、この二元を越えないと、コーザル体には届かない。

イランのズルヴァンという主神の下に善の神アフラマズダと悪の神アーリマンがペアで発生したこともその一例。

エリアーデは以下の文章で、コーザル体での『反対の一致ないし全体性の神秘』が、もっぱら神秘と逆説として表現され、その完全性は、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されることも観察している。

コーザル体は、完璧な全体性ではないが、ある種の全体性ではあるのだ。

『反対の一致の前史

宗教史家は、反対の一致ないし全体性の神秘を、原初の「統一」の分裂によっで「創造」を説明している宇宙開闢説の中のみならず究極の実在、神性の根源(Grund)にかかわるシンボル、理論、信仰の中にも見出すことができる。さらにそれは人間の行動の変換と諸価値の混乱とを生じさせる狂燥的儀礼の中や、対立物の結合の神秘的技法の中、あるいは両性具有の神話と両性具有化の儀礼の中などにも見出される。一般には、これら神話、儀礼、信仰は、次のことを人間に想起させることを目的としている。

すなわち、
究極の実在、聖性、神性は、人間の理性的理解の可能性を超えていること、
根源というものは、もっぱら神秘と逆説として把握されるということ、
神的完全性は質と徳の総和としてではなく、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されるということ、
神性、絶対、超越は存在の特定な様式も、偶然的状況をも構成していないがゆえに、相対的、直接的な人間とは質的に区別されるということ、こうしたことを想起させるのである。

一言でいえば反対の一致を内包するこれらの神話、儀礼、理論が人間に教えることは、神もしくは究極の実在を把捉する最上の方法は、たとえしばらくの間といえども、直接的な体験によって神性を思考したり、想像したりすることを放棄することだということである。というのも、そのような体験は、分裂と緊張とを知覚するだけなのである。』
(エリアーデ著作集第一巻悪魔と両性具有/ミルチャ・エリアーデ/せりか書房P107から引用)

【チャクラと七つの身体-294】
◎コーザル体-12
◎ミルチャ・エリアーデのコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト348)

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北欧神話のコーザル体

2014-09-25 03:29:40 | ザ・ジャンプ・アウト
◎最初の巨人ユミル

北欧神話の霜の巨人ユミルは、巨人族の中で最初に生まれた巨人。巨人と言っても、巨人族の末裔のベルゲルミルという家族一組だけがが世の終わりの世界大洪水において生き延び、次の時代の巨人族の始祖になると言われているので、単なる巨人族ではない。つまり巨人族だから人間とは違うと安直に考えてはいけないということ。北欧神話では人間と巨人は敵対しているようでもあるが、通常の交流もある。


ユミルは、最初に左腕の下から男と女を産み落としたので、両性具有とされる、大神より出てきた最初の個性は、またも両性具有であった。

大衆の理解しやすいように、両性具有なコーザル体が、一なる世界の次に出現することを創造神話の順序のとおり、絶対の側から個の側への方向(古代秘教的)に沿って説明されている。

【チャクラと七つの身体-293】
◎コーザル体-11
◎北欧神話のコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト347)

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キリスト教のコーザル体

2014-09-24 03:17:45 | ザ・ジャンプ・アウト
◎トマス福音書

コーザル体全体について語るとか、その宇宙全体での位置づけと機能について整理した文章は稀少なので、コーザル体の特徴について断片的に語ったものを紹介してみよう。

旧約聖書では、アダムのあばら骨から彼のパートナーたるエヴァを作った。つまりエヴァを作る前のアダムは両性具有である。エヴァ出現以前の世界では、個性はアダムとして分化していたが、神とアダムしかいなかった世界は、実にコーザル体の世界観である。自はあるが、他がないのだ。

以下は聖書外典トマス福音書から。
『イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「この乳を与えられている小さな者たちは、御国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った「私たちが小さければ、御国に入るのでしようか」。
イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは[御国に]入るであろう」(二二)。

イエスが言った、「私はあなたがたを、千人から一人を、一万人から二人を、選ぶであろう。そして、彼らは単独者として立つであろう」(二三)。

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜならあなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから。(四九)』
(荒井献著作集第七巻 トマス福音書/岩波書店P248-249から引用)

単独者とは、ウパニシャッドでいうところの独存の響きがある。そして『男と女を一人にして、男を男でないように女を女(でないよう)にする』とこの単独者が両性具有の原人であると示す。そして単独者になることが、御国に入るというアートマン=第六身体の直前のポジションであることも明らかにする。

御国に入るとは、メンタル体以下のレベルで天国に入ることではなく、神人合一を指すことは、前後の流れから明らかである。

【チャクラと七つの身体-292】
◎コーザル体-10
◎キリスト教のコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト346)

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出口王仁三郎のコーザル体-6

2014-09-23 03:58:38 | ザ・ジャンプ・アウト
◎火力優勢文明=アポロン的文明

この近代西欧文明は、アポロン的文明であり、死を忌避する文明である。死をタブーとする文明とは、闇・無意識の部分を認めまい、闇に出会うまいとしてなんとしてもがんばっちゃう方向性の文明のことである。この文明を出口王仁三郎は火力文明とも呼ぶ。つまり水火で言えば、あまりにも火力優勢になってしまったのである。

『火の系統ばかり処を得顔なる  世は曇るより外に道なし
 猛烈なる力をもちて万有を  焼尽するは火の行為なり
 火の力のみ活動ける世の中は  乱れ曇りて治まることなし
 地の上の百の国々日に月に  禍起るは火のみの世なり』
(霊界物語73巻第一二章 水火の活動)

この水火のアンバランスを冥想により調整する。調整の完成形が、コーザル体であり、伊都能売である。


出口王仁三郎のコーザル体観の全貌を見るには、その和歌で知ることができる。

伊都能売は宇宙全体の調整、世界全体の調整を行うバランサーでもある。
その一方で、伊都能売は一個人たる救世主、予言者としても地上に生きる。今の時代、救世主、予言者は我々無辜の市民の友人として登場するので、「不老不死尽きぬ命」を賜った我々は、一個の伊都能売として生きている以上は、一人一人が冥想により火水の調整を行わねばならない。



以下の和歌は、出口王仁三郎全集 第7巻 全8巻(復刻)から
『やれ五戒やれ十戒とむつかしく人のこころをしばる曲教
釈迦となりキリストとなり木の花の姫とあれます伊都能売の神
(以上二首昭和二年三月)


春来れば花と現れまし秋されば紅葉と照ります伊都能売の神
伊都能売の神の御出ましなかりせば弥生の春の花も咲かまじ
天は裂け地は破るとも伊都能売のいます限りはこころ安けむ

いたづきて枕苦しき真夜中にこころに浮ぶ伊都能売の神
ある時は人とあれまし或るときは曲と化ります伊都能売の神
乱れたる世をたださむと伊都能売の神はみ空ゆ下りたまへり
(以上六首昭和二年四月)


不老不死尽きぬ命を賜ひたるまことの親は伊都能売の神
ひさかたの天王平の奥都城に鎮まりたまふ伊都能売の霊
大宇宙森羅万象ことごとく抱きまもらす伊都能売の神

釈迦孔子や基督となり地の上に現はれませし伊都能売の神
三界の導師となりて地にくだり世人教ふる伊都能売の神
八百萬神は在せども伊都能売のまことの神の御使なりけり

天国に日の神となり霊国に月とかがやく伊都能売の神
(以上七首昭和二年五月)』

(時代全体のアンバランス調整の道程を出口王仁三郎は、伊都能売神諭として残している。)

時代の闇の部分とは、悪の部分もそうなのだろうが、落ちこぼれ、無業者、失業者、貧困者、ギャンブル依存者、薬物依存者、アルコール依存者、うつなどの精神病患者、社会的不適応者、ホームレスなど、強者・勝者優勢原則(火の原理)のもとに切り捨てられた社会的弱者たちの群れのことも指す。こうした人たちの救済(世間の見る目の方を変える)も時代のアンバランス調整の本丸の一つである。

【チャクラと七つの身体-291】
◎コーザル体-9
◎出口王仁三郎のコーザル体-6
(ザ・ジャンプ・アウト345)

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出口王仁三郎のコーザル体-5

2014-09-22 03:09:15 | ザ・ジャンプ・アウト
◎万人が冥想により火と水を調整

出口王仁三郎の霊界物語73巻では、他人である厳の御霊という高級神霊と瑞の御霊という高級神霊がドッキング(接合)すると伊都能売神になるなどと書かれている。しかし真意はそれにとどまるものではない。

すなわち
厳の御霊は、伊都であり、火。
瑞の御霊は、能売であり、水。

以下の4首は、出口王仁三郎の手に成になるもの。

厳御霊瑞の御霊の接合を 伊都能売御霊と称へまつらふ
(コメント:ドッキングです。チベット密教には交合図があり、西洋錬金術には両性具有図がある)

伊都能売の神は地上に降りまし宇宙更生に着手したまへり
(コメント:伊都能売の神が地上に降りるとは、誰か他人の神が降臨するのではなく、現代人が生誕することをも言う。)

火と水を塩梅なして世に出づる 伊都能売神の活動尊し
(コメント:霊界の伊都能売の神が火と水のバランスを取るというのが、字義どおりの意味だが、真意は、個々人が、冥想により、世界の陰陽・水火のバランス調整を行うということ。伊都能売の神は冥想の神でもある。バランスを取るのは他人事でなく、個々人が冥想を通して自分のこととしてやらなければならない)

伊都能売の神の功のなかりせば  世の行先は亡び行くべし
(コメント:個々人の冥想への取り組みが時代の未来を占うことになる)


(霊界物語73巻第一二章 水火の活動から)
『太元顕津男の神は大太陰界に鎮まり給ひて至仁至愛の神と現じ給ひ、数百億年の末の世までも永久に鎮まり給ふぞ畏けれ。至仁至愛の大神は数百億年を経て今日に至るも、若返り若返りつつ今に宇宙一切の天地を守らせ給ひ、今や地上の覆滅せむとするに際し、瑞の御霊の神霊を世に降して更生の神業をよさし給ふべく、肉の宮居に降りて神代における御活動そのままに、迫害と嘲笑との中に終始一貫尽し給ふこそ畏けれ。

 大太陽に鎮まり給ふ大神を厳の御霊と称へ奉り、大太陰界に鎮まりて宇宙の守護に任じ給ふ神霊を瑞の御霊と称へ奉る。厳の御霊、瑞の御霊二神の接合して至仁至愛神政を樹立し給ふ神の御名を伊都能売神と申す。

即ち伊都は厳にして火なり、能売は水力、水の力なり、水はまた瑞の活用を起して茲に瑞の御霊となり給ふ。紫微天界の開闢より数億万年の今日に至りていよいよ伊都能売神と顕現し、大宇宙の中心たる現代の地球(仮に地球といふ)の真秀良場に現れ、現身をもちて、宇宙更生の神業に尽し給ふ世とはなれり。

 厳御霊瑞の御霊の接合を 伊都能売御霊と称へまつらふ

(以下短歌を抜粋。)

火と水を塩梅なして世に出づる  伊都能売神の活動尊し

伊都能売の神は地上に降りまし  宇宙更生に着手したまへり

厳御霊陽気を守り瑞御霊  陰を守りて国は治まる

瑞御霊至仁至愛の神と現れて  天の御柱たつる神代なり

伊都能売の神の功のなかりせば  世の行先は亡び行くべし

万有を育て助くる神業は  瑞の御霊の力なりけり

火と水の二つの神業ありてこそ  天地活動次ぎ次ぎ起る

われは今伊都能売の神の功もて  曇れる神代を光さむと思ふ』

それでは、火と水の調整とは何を調整するのだろうか。どうバランスが崩れているのだろうか。

【チャクラと七つの身体-290】
◎コーザル体-8
◎出口王仁三郎のコーザル体-5
(ザ・ジャンプ・アウト344)

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出口王仁三郎のコーザル体-4

2014-09-21 03:47:48 | ザ・ジャンプ・アウト
◎両性具有=完全無欠の神人

出口王仁三郎は、第二次大本事件の公判での裁判長からの質問に対して、伊都能売こそが、厳の霊(男性)、瑞の霊(女性)の合体した完全無欠の身魂であることを、古事記の素盞嗚尊と天照大神のうけひのシーンを引いてわざわざ証明してみせている。

出口王仁三郎は、天照大神と、素盞嗚尊の誓いのシーンには、伊都能売神という言葉は全く出て来ないにもかかわらず、『天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になる』とまで、洞察すべきと断言している。

伊都能売神の完全無欠性は、人間の一つの極致・極点であることは、日常感覚ではわかりにくいが、疑うべきことではないと、老婆親切にも教えてくれているのだ。

『問 それは後で訊く、大本では霊の性質として、厳の霊、瑞の霊と云ふことを説いて居りますか。
答 説いて居ります。

問 厳の霊、是はどう云ふことですか。
答 ちよつと是は……厳の霊と云ふと、古事記にあります、伊都能売神と云ふのがあります、厳の霊と云ふのは厳粛な魂、荒魂と和魂とが勝つた神様が、厳の霊と云ふのであります。
 奇魂と幸魂とが勝つた神様が瑞の霊と云ふのです。
 霊魂上で云へば、愛魂が即ち幸魂です、奇魂は智恵の魂で、是等の魂の勝つた神様を、瑞の霊と云ふ。
 和魂は親魂と云ひ、是と荒魂の勇魂の勝つた神様のことを厳の霊と云ふ。 之をちよつと申上げます、ちよつと長くなるのでありますが、聴いて貰へまへぬか。

問 判つて居りますが、簡単に判り易く云つて御覧なさい。
答 伊邪那岐命が素盞嗚尊に対して、「お前は泣いてばかり居るならば母の国に行け」と云はれたので、「天照大神に一つ御挨拶を申上げて行かう」と云うて高天原に上られた。

 其の時、天照大神は、「是は素盞嗚尊が、天津国を取りに来た」と思つて、武装を遂げて御迎へになつた。
 其の時に素盞嗚尊は「私はさうぢやない」と云うた。「私は父の命令に依つて母の国に帰りますから、御挨拶に来ました」と云つたら、「さうぢやない、お前は腕力に依つて此の国を盗みに来たのだらう」と云はれた。

 其の時に、天照大神の耳の輪と頚の輪と、五百津の珠を渡して、「之に儂の魂は通つて居るから見て呉れ」と仰しやつた。
 其の時に、素盞嗚尊が珠を受けて、「狭噛みにかみて、吹棄つる息吹きの狭霧になりませる神の御名は、天之忍穂耳命、其の次の霊が天之菩比能命、其の次の霊が是は天津日子根命、それから其の次の霊が活津日子根命、其の次の霊が熊野久須毘命」、此の五つの霊が現れたと、是は厳の霊と云ふのです、厳粛の厳の霊です。或は又、五つの霊と云ふ。

 「それならばお前の心を」と云はれて、素盞嗚尊は自分の十拳の劔を天照大神に渡され、之を一振り振つたら三つに折れてしまつた。
 「さがみにかみて吹棄つる気吹の狭霧になりませる神が、多紀理毘売命、次に市寸島比売命、其の次が、多岐都比売命」、皆是は女の神様です。三柱の神様です。愛と智との神様で、実におとなしい神様です。

 それで、素盞嗚尊の悪意の無いことが判つたと云ふ。それで瑞の霊、厳の霊と云ふのが出来た。
 それで、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になるのであります。
 是は私が云ふことでありませぬで、古事記、日本書紀にちやんと出て居ります。』
(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P392から引用)( 二次大本事件関係資料)

【チャクラと七つの身体-289】
◎コーザル体-7
◎出口王仁三郎のコーザル体-4
(ザ・ジャンプ・アウト343)

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出口王仁三郎のコーザル体-3

2014-09-20 03:26:01 | ザ・ジャンプ・アウト
◎伊都能売の機能

出口王仁三郎による、伊都能売の機能の説明は以下のとおり。

個生命には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四魂があって、そのうち男性っぽいのが、荒魂、和魂のパワーが勝っている厳(いず)の身魂。一方女性っぽいのが、奇魂、幸魂のパワーが勝っている瑞(みず)の身魂。

伊都能売の身魂とは、男女いずれにも偏せず、バランスがとれており、臨機応変の変化を直ちにレスポンスできる性質を持つ。そして、厳、瑞が調和した完全無欠のものである。

出口王仁三郎は、伊都能売について『完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。』とまで、その至高であるところを賞賛している。

『大宇宙には、一霊四魂が原動力となりて、活機凛々乎として活動しつつあり。先づ小宇宙の一霊四魂に就て述ぶるならば、大空の中心に懸れる太陽は直霊にして、これを一霊ともいひ、大直日神ともいふなり。

 しかして太陽には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四魂が完全に備はり、その四魂はまた一々直霊を具有し、また分れ、また四魂をなして居る。さうしてこれらの直霊を神直日神といふ。その四魂また分派して四魂をなし、各々直霊を備ふ。大空の諸星は、皆一霊四魂を各自に具有し居るものなり。

(中略)

大地の一霊四魂の分布は、即ち前記太陽の図に準じて知るべきなり。而て厳の身魂は、荒魂、和魂最も重きを占め、瑞の身魂は、奇魂、幸魂最も重きを占め居るなり。

 つぎに伊都能売の身魂に就て略述すれば、この身魂は、一に月の霊魂ともいひ、五六七の身魂と称せらる。五六七の身魂は、厳の身魂に偏せず、瑞の身魂にも偏せず、厳、瑞の身魂を相調和したる完全無欠のものなり。

 しかして伊都能売の身魂は、最も反省力の強き活動を備へて、太陽のごとく常に同じ円形を保つことなく、地球のごとく常に同形を保ちて同所に固着すること無く、日夜天地の間を公行して、明となり、暗となり或は上弦の月となり、また下弦の月となり、半円となり、満月となり、時々刻々に省みるの実証を示しゐるなり。

 かくのごとく吾人の身魂の活用し得るを、伊都能売の身魂といふ。伊都能売の身魂の活動は、時として瑞の身魂と同一視され、或は変性女子の身魂と誤解さるる事あり。

 伊都能売の身魂は、変性男子の身魂にも非ず、また変性女子の身魂にもあらず。完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。

 かくのごとく自由自在の神人たることを得ば、初めて、五六七の活動をなし得べきなり。月にもまた一霊四魂あり、その四魂の各々にもまた一霊四魂の備はれることは、太陽地球と同一なり。而てこの月球を保持するは、前巻に述べたるごとく、北斗星、北極星、オレオン星および三角星の四大星体である。この四大星体は、月球の直接保護に任じ、瑞の身魂の活用を主としつつ大空、大地の中間を調理按配する重要なる職務を有するものなり。』
(霊界物語第6巻-5章霊主体従巳 体五霊五)


ところが、この出口王仁三郎の説明は、一古神道家たる彼個人の見解ではなかった。

【チャクラと七つの身体-288】
◎コーザル体-6
◎出口王仁三郎のコーザル体-3
(ザ・ジャンプ・アウト342)

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出口王仁三郎のコーザル体-2

2014-09-19 03:08:16 | ザ・ジャンプ・アウト
◎直霊、神直日、大直日

古事記では、神直毘神、大直毘神、伊都能売神、と微妙な順序で描いている。

まず、神直日は神様の直霊、大直日は人間の直霊(新月の光/木庭次守/上巻P313)という説明がある。更に直霊の対極として曲霊の存在がある(霊界物語第10巻第二九章)。
よって、ここでいう人間の直霊とは、天国的なものも地獄的なものも存在するレベルなので、大直日とはメンタル体を指すと考える。
また神直日とは、アートマンに該当するように思う。

『神直日とは、天帝の本霊たる四魂に具有せる直霊魂を謂ふ。
大直日とは、吾人上帝より賦与せられたる吾魂の中に具有せる直霊魂を謂ふ。』
(霊界物語第10巻第二九章より)
※天帝とはニルヴァーナのこと。『天帝は唯一真神にして天の御中主神と称す』(霊界物語大13巻 如意宝珠子 総説)

更に、

『『次に其の禍を直さむと為て成りませる神の御名は、神直日神、次に大直日神、次に伊都能売神』
 神直日神は宇宙主宰の神の直霊魂にして、大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。

所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂すのである。又八十曲津日神、大曲津日神は、大祓祝詞に、之を瀬織津姫神と謂ひ、伊都能売神を速秋津彦神、速秋津姫神と謂ひ、神素盞嗚神を速佐須良姫神と謂すのである。

以上の四柱の神様を総称して祓戸の大神と謂ふのであります。』
(霊界物語第10巻第二九章 言霊解三から)

以上により、神直日が第六身体アートマンに該当し、直霊魂は、メンタル体にも、アストラル体にもあると考えられるが、大直日をメンタル体と考えれば、伊都能売は、その二者の間に位置することから、伊都能売のコーザル体がしっくりする。
それでは、伊都能売とは何か。

【チャクラと七つの身体-287】
◎コーザル体-5
◎出口王仁三郎のコーザル体-2
(ザ・ジャンプ・アウト341)

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出口王仁三郎のコーザル体-1

2014-09-18 03:43:52 | ザ・ジャンプ・アウト
◎伊都能売神(いづのめ)

出口王仁三郎の説明では、伊都能売神は、伊邪那岐尊が黄泉の国の穢れを払う禊を行った時に生まれた10柱神の最初の5柱の一柱という説明であって、主宰神天之御中主神ではないとする。

さて黄泉の国は穢き国。穢き国とは地獄があるということだから、メンタル体以下の世界。ここから出てきたのだから禊を執り行った場所はコーザル体ということになる。

ここで生まれた十柱の神々のメインは、大神である神直毘神、
個性の極点のメンタル体である大直毘神、
そして伊都能売神の計3柱と考えられる。

注意すべきは、伊都能売神とは、大神・ニルヴァーナである神直毘神と大直毘神の間に位置するとダメを押しているところである。
 
以下は、第二次大本事件の裁判における裁判長の質問と出口王仁三郎の回答。この中では伊都能売神の位置づけが裁判長の目から見ると天之御中主神と区別がつかなかったという点から問答が始まっている。

『問 伊都能売神と云ふものは、煎じ詰めれば、結局天之御中主神の極徳の顕現と同じか。
答 それは違ひます。
 古事記に斯う云ふことが書いてあります。

 伊邪那岐尊と伊邪那美尊が御夫婦の喧嘩をなされて、伊邪那美尊が黄泉の国迄逃げて行かれた。伊邪那岐尊がそれを黄泉の国迄追駈けて行つた。伊邪那岐尊は黄泉比良坂で喰止めて、伊邪那岐尊の詔り給はく、「穢き国に行つて居たから」と云ふので、禊の祓をすると云ふので、禊の祓をやつて浄められた。

 其の時に生れたのが、伊都能売神、大直毘神、神直毘神、それから大禍津日神、八十禍津日神などで、十一柱目に天照大神が御生れになつた、十二が素盞嗚尊、十三が月読命、と斯う書いてある。
 其の時の伊都能売神と云ふのは、垢を払つた時の神さんです、浄めた時に生れて、天之御中主でも何でもありまへぬ。

問 さうか。
答 それで大直毘神と、神直毘神との間と云ふ意味です。』
(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P393から引用)(二次大本事件関係資料)

古事記では、伊邪那岐尊が生んだのは十柱と書いてあるが、実は十一柱あるのはなぜなのだろうか。

それはさておき、最初に生まれた五柱神のうち三神である伊都能売神、大直毘神、神直毘神は、出口王仁三郎の世界観において単なる10分の3ということでなく、大本宣伝歌の
『神が表に現はれて  善と悪とを立別ける
 この世を造りし神直日  心も広き大直日
 ただ何事も人の世は  直日に見直せ聞直せ』
にあるように、前後の神直日、大直日は根本的に重要な意義を与えられているのに対し、伊都能売神はないまま。それはどういうことなのだろうか。

【チャクラと七つの身体-286】
◎コーザル体-4
◎出口王仁三郎のコーザル体-1
(ザ・ジャンプ・アウト340)

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OSHOのコーザル体

2014-09-17 03:06:22 | ザ・ジャンプ・アウト
◎夢と現実は一つで、至福だけがある

コーザル体(第五身体)を器質面・形状面から説明しているのが、OSHOバグワン。しかし、コーザル体は我ら常識的社会人の日常生活には全然登場してこない(かのように見える)ので、その説明だけでは、まずピンとは来ない。

コーザル体にあっては、無思考が始まり、言葉を介さないコミュニケーションが可能であり、男女の区別がなくなり、自他の区別も問題なくなる・・・・・とくればますます日常感覚ではとらえられないが、とどめに、ここでは夢と現実は一つになり、コーザル体には至福しかないと打たれると、混乱するばかりである。


まずコーザル体にあっては、生命は息のように中に入っては出ていく。入息が生、出息が死のように。

魂はコーザル体で自由を経験する。これに対して天国と地獄はメンタル体での経験である。
(故に解脱(モクシャ)はコーザル体での経験と彼は言うが、それはもはや経験ではなく、「体験とは言えない体験」に近いのではないか。)

メンタル体以前の睡眠状態は、いわば夢遊病だ。それに対してコーザル体では睡眠状態は「目覚め」だ(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P182-183による)。おそらく、「眠っている間も覚醒している」というインドでよく言われる状態は、コーザル体のことなのだろう。

コーザル体は、第五次元だが、「私は在る」という感覚のうち、ここでは「私=エゴ」と「在る」という感覚が分離する。ここで次のボディに進むには、「私=エゴ」が死に「在る」が残る。(上掲書P187-188による)

というのは、エゴとは他人に対する要求であって、エゴは常に他人との対比で勝とうとするが、コーザル体では、エゴがないので、もはや他者もおらず、もうどんな競争もないからである。(上掲書P359による)

こうして、ここには至福しかなくなる。『痛みも喜びもなく束縛も悲しみもない』(上掲書P358から引用)。

コーザル体には、メンタル体と同様に思考の波動がある。その他にコーザル体には、実存の波動がある。このエネルギーの波動は、人の知り得るエネルギーの中で最も微妙微細なるものである。
そのため、自分自身が騒々しい思考で一杯になっているとこの精妙な波動を見逃してしまう。(上掲書P257-258による)
(昨今のスマホアプリなどはこの意味で、危険極まりない。人の覚醒へ向かうチャンスを極小化するという意味において。)

完全な無思考はコーザル体で達成される。(上掲書P400による)ここで人は思考を起こすも起こさないも思いのままとなり、ここで人は自分自身の主になる。(上掲書P407による)これぞウパニシャッドで言うところのの独存である。

『第五身体は人間として最も可能なものの頂上だ。第五身体は個体性の頂点、愛の、慈悲の、価値あるものすべての頂点だ。』(秘教の心理学/OSHO/メルクマール社P168から引用)

二人が無思考で、そばに居れば、実存のレベルでコミュニュケーションが起こる。これは言葉を介さない以心伝心である。猫は既に無思考である。

ここから先は言葉のない世界が始まる。第六身体は、まったく言葉がない世界。

コーザル体で夢と現実はひとつになる。(秘教の心理学p137)

このようにコーザル体では、およそ現代人の意識生活、社会通念、社会常識とはまったくかけ離れた世界が展開してるが、これこそ実は真実により近い感覚であり、存在の根っこなのだ。

蛇足だが、OSHOバグワンは、クンダリーニ上昇における各ボディの死のメカニズムすら知悉している。曰く、
『第七身体に入るとそれまでの6つの身体は滅びる』(前掲書p471)と。

【チャクラと七つの身体-285】
◎コーザル体-3
◎OSHOのコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト339)

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ダンテス・ダイジのコーザル体

2014-09-16 03:20:07 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ上昇

コーザル体には、体と用、すなわち機能面と器質・形状面での説明があり得るが、機能面で説明したのは、ダンテス・ダイジである。

彼は、その著書「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」のクンダリーニ上昇プロセスの中で、コーザル体の位置づけを明らかにしている。

曰く、「自己意識は頭頂より突出して透明な知覚を顕す」というところで、これがコーザル体・メンタル体(サハスラーラ)であると示す。
(※コーザル体にはチャクラはない。)

次に「コーザル体の離脱」の段として、純粋意識が頭頂を離脱して、地球の次元、宇宙の次元の壁をも越えて現象宇宙を上昇することを示す。

更にコーザル体は上昇を続け七つの次元を超えて、中心太陽に向かって進む。これを彼はコーザル体の光の軌道と呼ぶ。


ダンテス・ダイジによれば、コーザル体は肉体みたいな形ではなく、球形の光。最後の個別性とは自我の最後の形であるとする。

更に、彼のメシアン・ハンドブック断片から
『肉体・エーテル体・アストラル体
メンタル体・コーザル体を死ねば
君と君の世界は消滅して
君でない君自身は

もしくは
ニルヴァーナに目覚める』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版p9から引用)

コーザル体も死んで、ようやく神に出会う。

【チャクラと七つの身体-284】
◎コーザル体-2
◎ダンテス・ダイジのコーザル体
(ザ・ジャンプ・アウト338)

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