アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

メンタル体のマニピュラ・チャクラ

2014-08-31 03:10:21 | ザ・ジャンプ・アウト
☆メンタル体のマニピュラ・チャクラ

メンタル体のマニピュラ・チャクラは、社会的人間関係の座である。すなわち社会に対する個人というエゴを持ちながら、あらゆる人間社会のドラマを演じていく原動力である。

イエス・キリスト出現以降のこの2千年は魚座の区分であり、この2千年は、社会的な意味での自我意識を育ててきた。イエスの山上の垂訓をみると、「幸いなるかな柔和なるもの、そのものは地を継がん。」のように自我が発達した現代であれば、柔和なるものの定義は何かとか、柔和だとなぜ地を継げるのかという基本的な質問とそれに対する回答が入るべきところが、それがない。このことは当時の人々とイエスの間に大きな家族意識的・部族意識的なつながりの方が強く、個人としての問題意識は前面に出ることなく、個人対個人の意識の上での分離が進んでいなかったことを示している。

2000年経って、個人対個人の意識の分化が進むと、現代日本に見られるように、核家族化に起因する個人対個人の衝突、生存競争が次第にエスカレートし、結果的に不況とあいまって犯罪の増加につながって来ている。
また国家間の戦争についても、生存が脅かされるのであれば、やむを得ないと考える人が相当数いるようになったのでは有るまいか。この意識なら、戦争すべきか否かという判断の瀬戸際では戦争支持になる可能性が高い。

 そのような世界戦争や人類滅亡の危機を回避するためには、社会と個人の関係の調和が必要であるが、イデオロギーや、教育や宣伝・プロパガンダ、法律の規制によるものでは、そういった争いをあおるだけである。そこで、個々人が大慈悲を体験することで初めて、限界まで発達した個人間の争いや社会との緊張した関係が調和できるのである。

大慈悲はメンタル体のアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の属性であり、それが開けた時に大慈悲を知る。底知れぬ生命の絶望と悲しみ、すべてが一体であるという感謝を実感し、大慈悲は人間の感情というようなちっぽけなものではなく、神の愛、神の現れそのものであることを知る。したがってメンタル体のアナハタ・チャクラの開顕こそが時代の要請なのである。

さて大災害や熱核戦争を予感して、あなたは、自分や家族だけは生き延びられますようになどと祈るが、その祈りの心境が無私であればよいが、財産がそのまま維持できますようになど自分勝手なところが少しでも入った瞬間にその祈りは、自分勝手な祈りに落ちてしまう。そのような祈りをするよりは、世界平和の祈りのように自分のない祈りのほうがましである。(あなたの財産はあなたのものでなくて、神のものでは?) 

そして行動についても、良いとされる行動を意識的にやろうとするが、神に触れたことのないあなたは、自分のとる行動が、本当に良いかどうかすらわからない。自分のお金や持ち物を困っている人にあげても、そのことが結果的に社会の生存競争を逆にあおったり、もらった人の我欲を増長させて、全体からみると善行でなくなることもある。

結局、本当の祈りも本当の善行も、神や窮極に一瞬でもふれたことがなければ、わからないし、あり得ないのである。したがってまず絶対というものにふれることが、何をするにしても必要なのである。

【チャクラと七つの身体-279】
◎メンタル体-29
7. メンタル体のアナハタ・チャクラ-1
☆メンタル体のマニピュラ・チャクラ
(ザ・ジャンプ・アウト333)

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聖者出現のコネクション

2014-08-30 03:44:31 | ザ・ジャンプ・アウト
◎聖者出現のコネクション
◎万教同根

出口王仁三郎による古神道以外の聖者出現のコネクションも面白い。

月照彦神らの諸神がサハスラーラ・チャクラたる天教山に身を投げて幽界に入り、幽界の諸霊を安息せしむとは、サハスラーラ・チャクラからメンタル体で肉体を出て、死の世界に入ることを暗示する。ここに熟達したクンダリーニ・ヨーガ技を見ることができるわけである。

 また月照彦神らの諸神は、「野立彦神、野立姫神の御跡を慕ひて」とあり、彼等のご神業の指導は野立彦神、野立姫神をリーダーとして行われたことをうかがわせる。

こうした諸エリート神人が前世でもってクンダリーニ・ヨーガで開悟した後、再誕してきて、釈迦や達磨やイエスやモーゼやエリヤや、大日如来、地蔵尊、孔子として再誕したという。(大日如来、地蔵尊については、伝記が残っていない。大日如来ってニルヴァーナの別称だと思っていましたが、人格神だったとは。)

最後に老子出現の因縁が示されているが、ダンテス・ダイジには老子狂言という著作(未出版)があり、それはとてもぶっ飛んだ内容のものなのであるが、彼がわざわざそれを残したこととシンクロしていることも感じる。老子は野立彦神が直々に分霊したのである。

あらゆる宗教が同じところから来ている(万教同根)という説明は、一つには教義としての側面がある。つまり冥想法として只管打坐かクンダリーニ・ヨーガによってニルヴァーナに至るのだが、ニルヴァーナの現実への顕現の仕方を様々に説明して、それが教義となる。よってニルヴァーナはどの宗教でも共通であるから万教同根という説明の仕方がある。

もう一つの説明の仕方は、こうした覚者出現の霊統を説明する方法で、出口王仁三郎の霊眼ではこのように野立彦神、野立姫神を元祖として出てきていることを見ている。ただ後者の霊統で説明するのは、よくよく注意が要る。すなわち悟っていない低級霊能者もジャンジャンまがいものの「聖者の誰それは、誰の生まれ変わり」という怪しい(見た人によって異なる)説を大量生産してくれるので、「私の霊眼に映ったところでは、うんぬん・・」という話はまず信用できないものだからである。

『是より二神は撞の御柱を、左右より隈なく廻り給ひて、青木ケ原の真中に立てる八尋殿に立帰り、息を休め給ひける。

 ここに月照彦神、足真彦、弘子彦、祝部、岩戸別の諸神人は、野立彦神、野立姫神の御跡を慕ひて神界現界の地上の神業を終へ、大地の中心地点たる火球の世界、即ち根の国底の国に出でまして、幽界の諸霊を安息せしめむため、天教山の噴火口に身を投じ給ひける。
 神徳高く至仁至愛にして、至誠至直の神人は、神魂清涼の気に充たされ、さしもに激烈なる猛火の中に飛び入りて、少しの火傷も負はせ給はず、無事に幽界に到着し給ひぬ。

これらの諸神人は幽界を修理固成し、かつ各自身魂の帰着を定め、再び地上に出生して、月照彦神は印度の国浄飯王の太子と生れ、釈迦となつて衆生を済度し、仏教を弘布せしめたまひけり。ゆゑに釈迦の誕生したる印度を月氏国といひ、釈迦を月氏と称するなり。

 また足真彦は、これまた月照彦神の後を逐ひて月氏国に出生し、達磨となつて禅道を弘布したり。
 時により処によりて、神人の身魂は各自変現されたるなり。何れも豊国姫命の分霊にして、国治立命の分身なりける。
 少名彦は幽界を遍歴し、天地に上下し、天津神の命をうけ猶太に降誕して、天国の福音を地上に宣伝したまふ。
 天道別命は天教山の噴火口より地中の世界に到達し、これまた数十万年の神業を修し、清められて天上に上り、天地の律法を再び地上に弘布せり。之を後世「モーゼ」の司と云ふ。
 天真道彦命も同じく天教山の噴火口に飛び入り、火の洗礼を受けて根底の国を探険し、地上に出生して人体と化し、エリヤの司と現はれてその福音を遍く地上に宣伝し、天下救済の神業に従事したり。

 また高皇産霊神の御子たりし大道別は、日の出神となりて神界現界に救ひの道を宣伝し、此度の変によりて天教山に上り、それより天の浮橋を渡りて日の御国に到り、仏者の所謂大日如来となりにける。神界にてはやはり日出神と称へらるるなり。

 また豊国姫命は地中の火球、汐球を守り、数多の罪ある身魂の無差別的救済に、神力を傾注したまへり。仏者の所謂地蔵尊は即ちこの神なり。
 天教山は後にシナイ山とも称せらるるに至りぬ。併し第一巻に表はれたるシナイ山とは別のものたるを知るべし。

 弘子彦司は一旦根底の国にいたりしとき、仏者の所謂閻羅王なる野立彦命の命により、幽界の探険を中止し、再たび現界に幾度となく出生し、現世の艱苦を積みて遂に現代の支那に出生し、孔子と生れ、治国安民の大道を天下に弘布したりける。

 然るに孔子の教理は余り現世的にして、神界幽界の消息に達せざるを憂慮し給ひ、野立彦命は吾が身魂の一部を分けて、同じ支那国に出生せしめ給ひぬ。之老子なり。』
(霊界物語第6巻第二三章 諸教同根から引用)

【チャクラと七つの身体-278】
◎メンタル体-28
6. メンタル体周辺・要素-6
☆聖者出現のコネクション
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フィチーノの天と霊魂

2014-08-29 03:40:03 | ザ・ジャンプ・アウト
◎フィチーノの天と霊魂
◎上昇と下降

最近は、霊魂の上昇たるアセンションブームだが、15世紀のイタリアの哲人フィチーノは霊魂の下降について、斯く述べる。

『霊魂は巨蟹宮を通って、銀河の集団の中に下降し、天上の輝く紗(ヴエール)に身を包まれる。これは霊魂が地上の肉体に入るために纏わねばならぬものなのである。それというのは自然は、至純なる霊魂が不純な肉体と結ばれるためには、清らかな紗(ヴエール)を仲立ちにすることを要求するからである。

これは霊魂ほど純粋ではないが、肉体より純粋で、プラトン主義者には霊魂を地上の肉体と結びつけるには好適な手段とみなされているからである。

惑星の霊魂と肉体が人間の霊魂と肉体のそれぞれに対して、神の与え給うた七つの基本的才能を確認し補強するのは、これ〔下降〕に基づくのである。

同じ機能が天〔上の神々〕と人間の仲介者である〔七つの種類の〕神霊によって果たされる。

観照の才能はサテュルヌスにより土星の神霊(ダイモン)を通じて強化され、(後略)』
(ルネサンスのエロスと魔術/ヨアン・P・クリアーノ/工作舎から引用)

上昇、アセンションと昨今は上昇ばかりが注目されるが、ルネッサンス期では、個別人間への下降があって、上昇もあることが平等に観察されていた。クンダリーニは上がりもすれば、下がりもすることを見ていたのだ。

七つの身体的な説明としては,霊魂とは、コーザル体であり、 天上の輝く紗(ヴエール)がメンタル体ということになる。神の与え給うた七つの基本的才能は、七つの惑星の属性に擬して、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星にそれぞれ配当されているが、ここでは、土星は観照の才能と表現しているが、最も精妙なるレベルの表現としては、七つの属性のそれになるだろう。

【チャクラと七つの身体-277】
◎メンタル体-27
6. メンタル体周辺・要素-5
☆フィチーノの天と霊魂
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最近のクンダリーニ・ヨーガ動向

2014-08-28 03:37:00 | ザ・ジャンプ・アウト
◎最近のクンダリーニ・ヨーガ動向
◎肉体偏重、ハタ・ヨーガ偏重

9年前に比べると、チャクラとかナディのことは、ハタ・ヨガのスタジオが至る所にできたり、ヨーガ本やDVDがどんどん出ていることや、オーラソーマの普及やパワー・ストーン屋さんの出店の多いことなどでいまや常識みたいになった。

しかしクンダリーニ・ヨーガを論じたり、指導する人が結構増えている中で、ほぼ共通して問題と感じる点がいくつかある。

1.メンタル体チャクラ
チャクラに言及しても、肉体やエーテル体チャクラのことまでのケースがほとんどであり、チャクラの本丸である、メンタル体チャクラについては、あることすらも認識していないように思われるケースが大半であること。

チャクラは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体のそれぞれにある。チャクラの効能とか色とか特性を語る場合に、そのチャクラはどれのことを言っているのだろうか。

2.逆転がないこと
クンダリーニ・ヨーガの修行ステップは徐々に進むとはいえ、中心太陽合一を最終ステップとするが、その場合、あらゆるものに別れを告げて、社会性を捨てて、世界が逆転するという道筋をたどる。

社会性を捨てるということは、その修行者に大きな覚悟が必要なものだが、お金をとってクンダリーニ・ヨーガ指導している先生方は、弟子の全人生についてそうした責任を感じて指導しているのだろうか。

最後の逆転というものは、社会から自らを抹殺するみたいなもので恐ろしいものだ。そのことを表明すると客が減るって?

3.ハタ・ヨーガ偏重
佐保田鶴治の影響やアメリカから流入してきた商業ヨーガ(アシュタンガとかビクラムとかパワーとかホットとか多数あります)がハタ・ヨーガ偏重である影響を受けて、なんだかクンダリーニ・ヨーガといえばハタ・ヨーガみたいな誤解を生みかねない勢いである。

ハタ・ヨーガは心と体のヒーリング効果はあるにはある。しかし、一生をハタ・ヨーガに捧げたハタ・ヨーギが目指すのは、次の転生でこの世で作り上げた完璧な肉体をもってラージャ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガを修行することにあると言ってもよいのではないか。

ハタ・ヨーガはあくまで本格的冥想修行のサポートメソッドなのである。

只管打坐の修行でも血行改善のために経行というショート・ジョギングみたいなものをやる。
まずは本格的冥想(クンダリーニ・ヨーガ、只管打坐)が主であって、ハタ・ヨーガは従なのである。

最近クンダリーニ・ヨーガで身心脱落するなんて妙な宣伝のも出てきた。只管打坐の坐り方とクンダリーニ・ヨーガの坐り方は全く異なるものだ。身心脱落は只管打坐で語られるものなのだが。

ハタ・ヨーガで身体をほぐして只管打坐するってのはあるが、クンダリーニ・ヨーガの全容がきちんと把握されていないのだろう。


【チャクラと七つの身体-276】
◎メンタル体-26
6. メンタル体周辺・要素-4
☆最近のクンダリーニ・ヨーガ動向
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過去世記憶とカルマの保管場所

2014-08-27 03:34:15 | ザ・ジャンプ・アウト
◎過去世記憶とカルマの保管場所
◎脳、スクリーン、「関」

現代の医学では、脳と関連なしにはいかなる意識も経験も成立しえないという唯物論医学が支配している。

さて本山博は、個人のカルマの種子と記憶(経験)が貯蔵されているところは、肉体の脳だけでなくメンタル体(カラーナ)にもアストラル体にもあると言っている。

自分の思い込みでない過去世のことも語れる人がいるが、こうした人は、メンタル体ないしはアストラル体に保管された過去世記憶を脳の意識野に映写せしめそれを描写するものであろう。ところが今生以前の情報とは肉体以前の情報であるから脳由来の情報ではない。よって過去世情報の場合は、脳は単なる映写スクリーンの機能しか果たしていないということになる。

一方で脳は、その生で誕生以来の出来事を記憶として(本山博は退行催眠でそこまで遡行できる可能性をいう)、またその時の肉体や心理の情報をも保持しているものだから、その点では単なるスクリーン以上の機能をも果たしている。

脳の意識野は、現世と過去世双方の情報、および肉体由来の情報とスピリチュアル・ボディ由来の情報が行き交う「関」のようなものである。

一方で関と言えば、肉体を抜ける時にはサハスラーラ・チャクラ=頭頂から出ることをベストとする。肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体にそれぞれサハスラーラ・チャクラが配置されており、それぞれのサハスラーラ・チャクラ(ブラフマ・ランドラ)は、上位ボディへの関門となっている、『関』なのである。

禅の有名な公案の一つに「関」の一字あるが、なぜかこの一字から脳とサハスラーラ・チャクラを連想するのである。

【チャクラと七つの身体-275】
◎メンタル体-25
6. メンタル体周辺・要素-3
☆過去世記憶とカルマの保管場所
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プトレマイオスの天体の見方

2014-08-26 05:20:36 | ザ・ジャンプ・アウト
◎プトレマイオスの天体の見方
◎時を選ぶ技術

プトレマイオスの占星術書テトラビブロスから。プトレマイオスは専ら外的事象の占断に占星術を用いていたように見えるが、天体は地上のものに、ある影響を与えると言うのが基本的な視点である。

『そこから、すでに複合されているものが、何らかの仕方で、天体の影響を受けるだけでなく、種子の発芽や結実もその時の天空に相応した性質にしたがって成形されるはずだと結論できることに、誰も異存はあるまい。

(中略)

個々の人間に関しても、その生誕時の[天空の] 状況から、彼の身体はこれこれしかじかであり、彼の魂はこれこれしかじかであるというように、その気質の一般的特徴を察知できないはずがあろうか。

また、ある状況はこれこれしかじかの気質に適合し、繁栄をもたらす可能性があるが、他の状況はそんなに適合せず、危害をもたらすという事実を利用して、その時々の出来事についても予言できないはずがあろうか。』
(古代占星術/T.バートン/法政大学出版局P100-101から引用)

さて、アヴィラのテレサの言うように奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。クンダリーニ・ヨーギは時を選ぶのだが、占星術はその伝でいけばクンダリーニ・ヨーガのパーツの一部分である。

時には質の違いがある。それを利用して、中国の禅者ホウ居士は、時を選んで坐脱し、日本中世の虚空蔵求聞持法修行者は、満行に時を選んだ。

そして私たちは生まれてくる子宮を自らセレクトし、生まれてくる時刻を自らセットして誕生してきたわけだ。

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、過去記憶は退行催眠で誕生時まで遡れるみたいなニュアンスのことを言っているが、誕生とは肉体の記憶だから脳にその記憶が残っているというのは理屈ではある。

個人のホロスコープでは誕生時の天体図を用いる。人間は七つの身体。誕生時とは第一身体である肉体のものだが、この肉体を動かすパワーは、肉体よりは、エーテル体が強く、アストラル体は更に強い、メンタル体はもっと強い。

つまり誕生時ホロスコープは、サトル・ボディと肉体の境目に位置するからいわば脳みたいなものである。脳はアストラル体の感情も反映し、メンタル体の想念も反映し、肉体の状態も受け付ける。

天体の位置を選ぶということが時を選ぶということ。天体の位置を選ぶということはメンタル体の影響を選ぶということ。そういうことを意図的に出来る人間とは、単に英語の占星術技術書が読める人間とかいうことではなく、メンタル体チャクラを自在に使えるぐらいの人間だろうから、熟達のクンダリーニ・ヨーギだけがそれを成しえると思う。

【チャクラと七つの身体-274】
◎メンタル体-24
6. メンタル体周辺・要素-2
☆プトレマイオスの天体の見方
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無門関第四十七則  兜率三關

2014-08-25 03:28:32 | ザ・ジャンプ・アウト
メンタル体については、そのものズバリで描写してくるものがほとんどないので、何かのついでのほのめかしの中にその気配をうかがえる場合がある。これを「メンタル体周辺」と題して何篇かを掲載する。

◎無門関第四十七則  兜率三關(メンタル体周辺)
◎肉体から去る時

兜率和尚の三つの関とは、次の公案である。

「諸方を暦参して、人間の真相に参究する理由はただ一つ、自己の本性を見届けるにある(見性)。さあ、今あなたの自性(自己の本性)はどこにあるか。」

「自性さえしっかりと把握することができたならば、たちどころに生死の迷いを脱却するはずだ」

「生死を脱することができたならば、死んでからの行く先もわかるはずだ。さあ、あなたが肉体死を迎える時、どこに向かって去りゆくつもりか」

これは、単に見性するだけではなく、死ぬ瞬間にどこに行くかを見届けなさいということ。それを見届けないとこの公案を透過できないというのは厳しい。

「何の根拠もない安らぎ、大安心があって、清明なはっきりした意識のまま、頭頂からメンタル体で抜け出ることになることを見極めましょう。」
などと参禅して答えると痛棒を喰らうこと疑いなし。

【チャクラと七つの身体-273】
◎メンタル体-23
6. メンタル体周辺・要素-1
☆無門関第四十七則 兜率三關
(ザ・ジャンプ・アウト327)

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西洋錬金術の外形-2

2014-08-24 03:22:19 | ザ・ジャンプ・アウト
☆西洋錬金術の外形-2

西洋錬金術のわかりにくさの原因をいくつか挙げてみると、

1.どの文書が正統の折り紙つきかどうかわからない。
これは、中国錬丹で、慧命経の柳華陽や呂洞賓の文書が正統と評価されているのと対照である。中国錬丹でも無数の関連文書はあるが、真正な文書は少ない。
西洋錬金術でも無数の文書があるが、どれが正しそうかがわからなければ、評価・追体験のしようもない。
この結果、一つの言葉が、同じ文章の中でも全く違った意味で用いられまくる。その上もともと神秘主義文献では、前に述べた内容を否定するような表現がままとられるので、ますます晦渋な文となる。

2.何度読んでも冥想手法と世界観がわからない。
冥想技法の文献であったので、キリスト教から異端として断罪されることを避けねばならなかったため。
またテクニカル・タームも統一的なものを用いるわけにはいかなかったのだろう。

3.先生が肉体を持っているとは限らない。
チベット密教では、異次元に埋蔵された経典があって、時にそれを異次元から発掘されるものがありこれを埋蔵経と称する。また大日経を説いたのは、報身の釈迦(肉体ではなく、霊体の釈迦)であることから、先生(グル)は、肉体を持っているとは限らない。
そういうキーあるいはサポートがあるから、西洋錬金術文書は、素人、門外漢、異教徒に対しては、内容を想像することもできないように仕上げていったのだろうと思う。

【チャクラと七つの身体-272】
◎メンタル体-22
5. 西洋錬金術-2
☆西洋錬金術の外形-2
(ザ・ジャンプ・アウト326)

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西洋錬金術の外形-1

2014-08-23 03:18:46 | ザ・ジャンプ・アウト
☆西洋錬金術の外形-1

ユング派の心理学者が中国錬金術と西洋錬金術の類似に着目したのは卓見であったと思う。彼らの解釈は心理を出ることはなかったが、そんな心理学の色眼鏡を離れて、チベット密教や中国道教がメンタル体の体外への離脱メソッドを主要な目標の一つ、前半の重要なステップとして掲げていたことを念頭に置いて、改めて見てみるならば、西洋錬金術もほぼ同様のことを丁寧に説明しているように思われるのである。

そうしたヒントがなければ、西洋錬金術の言葉はひたすら難解なものと感じられる。

錬金術者ニコラ・フラメルが、『賢者の術概要』で指摘しているが、多くの錬金術者は、普通の金や銀や卑俗の水銀を動力因として用いて、この三つを混ぜたり、熱したり、かき回したりして、賢者の水銀を作り出そうとするが、決して完成することはない、としているので、錬金術では鉱物の話をしているのではないことは想像がつく。

またニコラ・フラメルは、象形寓意図の書の第六章で、白い石に表象されるものを得る。続く第七章では、この錬金術の石は、人間と同じく肉体、魂、精神を有するとする。この石を薬とも呼ぶのは、中国錬金術風でもある。

また肉体と魂と精神は、一旦死に、蘇って生に帰ってくるが、この蘇生によって太陽と月と水銀が得られると言う。白い石の白は、生の象徴である。太陽と月と水銀は、死からの蘇生以後に初めて出現すると強調されているので、それ以前には存在しないことがわかる。

肉体も魂も精神も、復活してから以降は、腐敗しない性質となると言っているので、これは、第六身体=アートマンを意識した物言いであることがわかる。腐敗しない、不壊の存在レベルは第六身体にしかないからである。

従って、白い石とは、メンタル体の肉体からの発出をまずイメージしたもので、それが上昇過程の中で、コーザル体からアートマンへとその性質を変容させていくことを描写していると見るとあまり不自然ではないように思われる。

まず肉体が死ぬことによって白い石たるメンタル体が打ち出され、次に自我が死ぬことによって自我の最後の姿であるコーザル体が死にアートマンとして復活する。この時アートマンは月(本来の自己)であり、太陽は中心太陽であり、水銀とはクンダリーニの白銀の道であったことを語っているとみれば、すべて符号することになる。

つまりニコラ・フラメルもクンダリーニ・ヨーガの究極のメカニズムを説明していたと考えられるのである。

さてここで人は救世主となり、王として登場する。この時『白い霊薬エリクシール』=白い石が現れ、以後これが金属を極めて精妙な本質に変えるとされる。金属を極めて精妙な本質に変えるとは、世界そのものがそれ以前とは全く変わって、何の問題もない調和した世界に変わることの比喩であると読むのだろう。

なるほどこの『白』を地水火風の次の第五元素と呼ぶのは、アートマンとして個別性を超えたのならば、それは当然のことであり、アートマンに到達するまでの様々な苦難を『坩堝をくぐり抜けて七度精錬される』と表現するのは、クンダリーニ・ヨーガで窮極に到達できた人を英雄と呼びならわすように、その苦難の道のりを意識した言葉と感じられる。

このように西洋錬金術は、例によって人から神に至るテクノロジー解説であったように考えられる。

【チャクラと七つの身体-271】
◎メンタル体-21
5. 西洋錬金術-1
☆西洋錬金術の外形-1
(ザ・ジャンプ・アウト325)

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究竟次第

2014-08-22 03:23:17 | ザ・ジャンプ・アウト
☆究竟次第
◎死の光明と幻身

チベット密教修行のメイン・イベントである究竟次第では、メンタル体を舞台として修行するように思われる。

斎藤保高氏は、ダライラマと同じゲルク派の方。ゲルク派といえばツォンカパの理論の影響が大きい。同氏の究竟次第の見方はこんな感じ(参考:チベット密教修行の設計図/春秋社/斎藤保高)。斎藤保高氏自身は、死の光明(原初の光)も幻身も未体験のようだ。

死の直後の死の光明は、完全に澄み渡った心の状態。(全く新たな認識環境に放り込まれたことによる、フレッシュな白紙の感性という側面があるように思う。)

冥想により死の光明と同じ状態を事前に実現し、日々の哲学思弁の訓練で、空を理解することができれば、究竟次第の後半で、空を直観的に悟ることができる(倶生の大楽)。

そして死の光明の状態で空を直観すれば、我執と煩悩が滅尽してしまう。

この時幻身が死の光明から立ち上がる。

幻身は肉体とは別であるが、微細な風(ルン)がわずかに震動することが原因となって幻身が成立する。幻身はどこへでも瞬時に移動できる。

というわけで、幻身ってメンタル体のことでは?

また冥想により死の光明や幻身を実現することは極めて稀なことだそうな。

慧命経の出神とチベット密教の幻身が同じメンタル体かどうか証明するためには、それぞれの修行法でそこまでやってみなければ証明にはならないし、たとえ実体験できたとしても、その証明を他の人が確認する手段は、やはり実体験しかないだろうから、凡そ現代科学にはなじまない種類のイベントなのである。

【チャクラと七つの身体-270】
◎メンタル体-20
4.チベット密教-6
☆究竟次第
(ザ・ジャンプ・アウト324)

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死のプロセスから

2014-08-21 03:20:26 | ザ・ジャンプ・アウト
☆死のプロセスから

チベット密教では、死に際しての頭頂からの脱出を最優先とする。これぞメンタル体の重視である。

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら求道トライアルとしては失敗なのである。

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。

将来予想される同時大量アセンションにおいても、この点は、間違いなく大きな焦点の一つになるのだろうと思う。

○メンタル体での肉体離脱のサポート

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするば、それは妨げられねばならない(←意識を清明に保つための工夫)。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。

そうすることによって、生命力(クンダリーニ)は、中枢神経(スシュムナー管)から帰って来ることができず、ブラフマの開き口(サハスラーラ・チャクラ)を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書)
(※スシュムナー管は背中を通る3本のエネルギーコードの中央の1本。)


〈参考〉
アストラル体での肉体離脱

残念ながらクンダリーニが、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。

【チャクラと七つの身体-269】
◎メンタル体-19
4.チベット密教-5
☆死のプロセスから
(ザ・ジャンプ・アウト323)

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虹の身体-2

2014-08-20 03:11:27 | ザ・ジャンプ・アウト
☆虹の身体-2
◎まず死から

更にナムカイ・ノルブのチベット密教の虹の身体の作り方の説明だが、ダイジェストするとこのようになる。

1.まずその修行者は死ぬ

2.肉体が五つの原質(地・水・火・風・空)真の本性の中に溶け入っていく

3.この結果数日~一週間たつと、肉体は、その最も不浄な部分である髪の毛やを残し消える。髪の毛と爪だけになるまでの途中では、肉体は縮んでしまうことが知られている。

4.しかし肉体は消えても、その形や特徴は五色の光(五つの原質)の中で保たれる。これを虹と見る。
(叡智の鏡・ナムカイ・ノルプP147による。)

これは、我が意志のままに肉体を虚空に溶け込ませる技術を持ったという証明なのだろうが、その人がどんな悟りにあるのかはさっぱりわからない。技術的にすぐれていることはわかるが、それが単なる達観だったのか、本当の至福にあったのかわからないのだ。

髪の毛も残さなかった禅僧普化は、ひたすらすごいのひとこと。

『顕教にも、身体が消える悟りはある。ゾクチェンにおいても、テクチューの修行一をつうじじて、こういう成就が生じることはある。ただし、この場合には、特に、原質のエッセンスの再融合が起こるというわけではない。また、空性を行じ、それを通じて、不二の境地にとどまる修行をおこなった場合や密教の修行においても、身体が消える悟りは存在する。

このような悟りは、チベット語では、ルー・ドゥルテンというふうに呼ばれる。

「ルー」というのは肉体、「ドゥル」というのは原子、微塵という意味である。「テン」というのは、この原子、ないし微塵の状態に入っていくという意味だ。徐々に、ゆっくりと、空性のなかに消え去っていくのである。けれどもこれは、虹の身体とは別ものである。

●虹の身体

虹の身体というのは、肉体が五つの原質の真の本性のなかに入り、そのことによって消える、ということだ。五つの原質というのは、五色の光、だ。したがって、肉体は消えても、その形や特徴は、五色の光のなかで保たれたままなのである。

グル・パドマサンバヴァを虹の色で描いたタンカがある。それが虹の身体だと言う人もいるけれども、これは正確ではない。虹の身体の場合、鼻や目の形は、全部もとのままだ。ただ、ふつうの人は、それを見ることができないのである。なぜなら、すべて、原質のエッセンスのなかに消え去ってしまっており、わたしたちには、それを見る能力がないからだ。すこし進歩し、いささかなりとも光明が増せば、虹の身体を見ることは可能だ。光明があれば、虹の身体は見えるのである。

虹の身体であることを示すしるしの一つは、爪と髪の毛が、あとにのこることだ。爪と髪は、肉体の不浄な部分だ。肉体は、純粋な次元に入る。ただ、その不浄な部分は、あとにのこされるわけだ。

ポワ・チェンポ、すなわち大いなる転移という悟りもある。これは、ふつうの虹の身体とは異なっている。伝承によるとガラップ・ドルジェは、この大いなる転移の悟りを得たのだという。しかし、ふつうの虹の身体の悟りを示したという伝承もああ。いずれにせよ、伝記によれば、ヴィマラミトラとグル・パドマサンパヴァは、この大いなる転移の悟りを示したとされる。この場合、死という現象も、ないことになる。

ふつうの虹の身体の場合、まず最初に、死ぬ。その後、肉体がしだいに融解していくのである。たとえば、ひとかけらの氷を太陽の光のなかに置いておくと、 ゆっくりゆっくり、小さくなり、溶けていく。それと同じように、肉体、物質の身体が、原質のエッセンスのなかに溶け入っていく。このエッセンスは、そのまま維持されており、形はのこるのである。したがって、まず最初に死があり、それから一週間、ないしそれ以下の時間がたつと、虹の身体があらわれることになる。』
(叡智の鏡/ナムカイ・ノルブ/大法輪閣P147-150から引用


【チャクラと七つの身体-268】
◎メンタル体-18
4.チベット密教-4
☆虹の身体-2
(ザ・ジャンプ・アウト322)

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虹の身体-1

2014-08-19 03:05:19 | ザ・ジャンプ・アウト
☆虹の身体-1
◎ナムカイ・ノルブの説明

虹の身体とは、七つの身体のどこに位置づけられるのだろうか。虹の身体とは、通俗的な説明をすれば、チベット密教行者が、この世を去るにあたって、7日間密室にこもり、その肉体を虚空に霧消させ、爪と髪の毛だけを残すこと。これだけの説明では、世界の転換もなく、精神性のかけらもない。

以下はナムカイ・ノルブの説明。

『しかしゾクチェンの場合、ただ一回の生で悟ることができるだけでなく、〈虹の身体の大いなる転移〉という特別な悟りが可能になるとされている。この特別な悟りは、パドマサンバヴァやヴィマラミトラ(Vimalamitra)、あるいはボン教の伝統においては、タピラツァが成就したものである。

肉体的な死を経過することなしに、身体がふつうの生きものの目から見えなくなり、さまざまな元素の光り輝くエッセンスに変容し、あるいは再吸収される。

たとえ生きているうちに、この虹の身体を悟ることがなくても、死後においてその悟りを成就することができる。現代でも、チベットにおいてこの悟りを成就したゾクチェンの行者は、たくさんいる。この悟りにいたるには、ゾクチェンの特別の修行法が不可欠なだけではなく、師からの伝授が根本的な重要性を持っている。』
(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P67-68から引用)

更に
『虹の身体を成就することはゾクチェンの究極の悟りだ。虹の身体は、報身の本尊とは違っている。虹の身体を成就した存在は、他の生きものと直接に接触し、積極的に助けることができるからだ。虹の身体はまるで肉体のようなものだ。物質的な構成要素はその本質である光に吸収されているが、その微細な側面における元素の集合体として生き続けているのである。

それに対して、報身の神々は受動的だといえる。光のたわむれに満ちた本尊の姿を見るだけのヴィジヨナリーな力を持っている者でなければ、接触は不可能だからだ。

悟りは何か人為的に作りあげるものではない。行為や努力から生まれるものでもない。』
(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P82-83から引用)

これだけ読むと、報身の神々よりも虹の身体は微細ではないことはわかる。虹の身体は物質ではないので、肉体でもなく、半物質のエーテル体でもない。他の肉体と意識的にコンタクトできるということなので、アストラル体なのか、メンタル体なのかということになる。

もうひとつ。肉体死を経過しないというのであれば、プロセスとしてどうして一つの悟りと言えるのかという疑問は残る。

【チャクラと七つの身体-267】
◎メンタル体-17
4.チベット密教-3
☆虹の身体-1
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虹の身体と幻身の違いについて

2014-08-18 03:57:35 | ザ・ジャンプ・アウト
☆虹の身体と幻身の違いについて

これについては、ナムカイ・ノルブが明快な見解を出している。要するに、幻身は、アストラル体かメンタル体のことであるのに対し、『虹の身体』とは、特定の微細ボディの呼称ではなく、肉体を捨て窮極とコンタクトしつつ別の微細ボディに生きるアートのことなのだと思う。

『ゾクチェンの修行によってもたらされるジャリュ(ja-lus)すなわち虹の身体の悟りは、無上ヨーガ・タントラの密教の修行による「ギュリュ」(sgyu-lus) すなわち「マーヤの身体」ないし「幻の身体」の悟りとは別のものだ。幻の身体は個人の微細なプラーナをもとにしているが、ゾクチェンにおいて、プラーナはつねに相対的な次元だとみなされている。そのため、幻の身体の悟りは、完全な悟りとは見なされないのである。

これに対して、ジャリュ、つまり虹の身体の悟りは、ロンデとメンガギデの成就者たちがもっとも好んで示した悟りの形である。非常に短期間、相承がとだえたことはあったけれども、現在に至るまでずっと、この悟りをあらわす成就者たちは存在している。たとえば、わたしのラマだったチャンチュプ・ドルジェのラマも、このレベルの悟りを成就した。チャンチュプ・ドルジェは、その時現場に居あわせた。だから、それが作り話ではないことを、わたしは知っているのである。

チャンチュプ・ドルジェは、自分のラマだったニャラ・ペマ・ドゥンドゥルが、それまで全部は与えていなかった教えをすべて伝授したいと言って、弟子たちを全員、近くに住むものも、遠くに住むものもすべて呼び寄せた時のことを話してくれたことがある。ニャラ・ぺマ・ドゥンドゥルは教えを伝授し、それから全員で一週間以上も、供養のガナ・プジャをおこなった。ガナ・プジャはラマと弟子、あるいは弟子同士のあいだの障害をなくす、すぐれた方法である。

そうやって一週間が過ぎると、ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、弟子たちに、死の時が来た、近くの山頂をその場所に選ぶつもりだと告げた。弟子たちは死なないでくれと泣いて頼んだ。だが、時は来た、それを変えることはできない、というのがラマの答えだった。そこで、弟子たちは彼について山の頂上まで登っていったのである。

ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、そこに小さなテントを立てた。それから、弟子たちにテントを完全に縫い合わさせ、完璧に自分を封印させた。そして、それから、七日間のあいだ静かにほうっておいてくれるように言ったのである。

弟子たちは山を降り、ふもとで野営しなから、七日間待った。その間じゅうものすごい量の雨が降り、たくさんの虹が立った。七日後、弟子たちは山頂に一戻り、テントを開けた。テントは弟子たちがそこに置いて山を降りたときと同じで、縫われたままになっていた。そして、その中に弟子たちが見いだしたのは、ラマの服と髪の毛、そして爪だけだったのである。彼の服は俗人のものだった。それが、彼の坐っていたところに、真ん中にベルトをつけたまま重ね合わされ残されていた。ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、ちょうど蛇が皮を脱ぎ捨てるように、その服を残していったのである。
わたしのラマはその現場にいてわたしにこの話をしてくれた。だから、わたしはそれが事実であり、またそういう悟りは可能だということを知っているのである。』
(虹と水晶/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P175)

【チャクラと七つの身体-266】
◎メンタル体-16
4.チベット密教-2
☆虹の身体と幻身の違いについて
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幻身の正体

2014-08-17 03:53:58 | ザ・ジャンプ・アウト
☆幻身の正体
◎メンタル体の特徴

チベット密教では、幻身と虹の身体が微細ボディとして頻出する。幻身は、夢の操作あるいは夢中修行の舞台であり、ドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガにおける夢見技術にも通じるところがある。まずは、幻身について明らかにする。

チベット死者の書によれば、死の直後の最初の原初の光明において覚醒できなければ、第二の中有に入る。

第二の中有において、その人のボディは、『清浄な幻身』(原典訳チベット死者の書/川崎信定訳/筑摩書房P23では、意成身の一種である『清浄な幻化身』と訳されている)となる。

第二の中有でも解脱できない場合。第三の中有に進む。第三の中有においても意成身があり、これはカルマからできている。これも幻身の一種と考えられるが、カルマにより成るから、ナーローの六法で言うところのマーヤの身体(幻身)(出所:夢の修行/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P161)というのがこれではないかと思われる。マーヤとは無明(迷い)だから、幻身には清浄と不浄と二種あることになる。

チベット死者の書では、第二の中有のレベルがより高く、第三の中有のレベルがより低い。よって、第二の中有における『清浄な幻身』がメンタル体、不浄な幻身がアストラル体と考える。

これを前提にして、幻身は、以下の説明のように体外離脱し、空間を瞬時に自由移動するという説明を見てみる。

シリーズ密教2の『チベット密教(春秋社)第4章幻身(平岡宏一)』によれば、幻身には12のたとえがあるという(「」内のキーワードがたとえにあたる)。智金剛集タントラに曰く、

1.微細な風(ルン)と心(意識のことだろう)だけでできた智慧の身体なので「幻」のようだ。
2.「水月」のように、どこで助けを求めてもすぐに現れる。
3.火や武器で焼いたり壊したりできないから「影」のようだ。

4.瞬時に揺れるので「陽炎」のようだ。
5.「夢の身体」(アストラル体か)のように体外離脱する。
6.幻身は肉体とは別で、「こだま」のようだ。

7.幻身が成就すると「乾闥婆(妖精)の城」が瞬時にできあがるように、マンダラが瞬時にできあがる。
8.幻身を成就すると一度に32尊を成就し、また32尊は一瞬にして1尊となることができるので「魔術」のようだ。
9.幻身は5色であり、「虹」のようだ。

10.幻身は、肉体内で成就するのと体外離脱するのが同時である様子は、「稲妻」が雲の中でできるのと同時に外に発光する様と似る。
11.水中から「水泡」が現れるように、空なる本性から幻身は忽然と現れる。
12.「鏡の鏡像」のように身体を映すと一瞬にして全体が映るように、一瞬にして幻身全体が成就する。

これらの比喩をみると、この説明が、アストラル体とメンタル体共通の説明であるとしても、齟齬はないように思う。また幻身の説明がコーザル体のものとすれば、コーザル体がうつろいゆく現象世界の空間をあちこち活動して回るとも思えないので、窮極の7つの属性を備えながら、娑婆世界に出現するものとして、幻身とはメンタル体またはアストラル体と見るのが適当であるように思う。
                                        
ところで大日経の十縁生句段には、これとよく似た十縁生句というのがあって(12でなくて10)、幻、陽炎、夢、影、乾闥婆城(蜃気楼)、響、水月、浮泡、虚空華、旋火輪の十を言い、一般的には、実態のない仮のものを現すたとえとして用いられている(旋火輪は闇の中で火をぐるぐる回すと残像で円に見えることを謂うそうだ)そうなので、由来はともかく、とりあえず別の意味で用いられているのだろう。

【チャクラと七つの身体-265】
◎メンタル体-15
4.チベット密教-1
☆幻身の正体
(ザ・ジャンプ・アウト319)

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