アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

神の恍惚者の日常生活

2014-07-31 03:25:18 | ザ・ジャンプ・アウト
◎幻視者マルグリット・マリ・アラコック

正統的な神を知る体験の中にずっとある場合は、日常生活はほとんどできなくなってしまう。ラーマクリシュナもそれに近かったようだが、幻視者マルグリット・マリ・アラコックは、日常生活ができなくなってしまい、調理場での仕事などを言いつけられても、できなくなってしまった。

『彼女は神に言った「おお、神様、私を圧倒するこの激流を引き止めて下さいまし。でなければ、どうかこの激流を受け容れることのできますように、私の心の力を広げて下さいまし。」』(宗教的経験の諸相(下)/W.ジェイムズ/岩波文庫P134から引用)

彼女にあらわれたキリストの聖心の啓示は、『「太陽よりも輝かしい光線で取り囲まれており、水晶のように透明だった。彼が十字架の上で受けた傷は,その上にはっきりと見えていた。この神々しい心臓のまわりには茨の冠があり、心臓の上には、一つの十字架があった。」

それと同時にキリストの声がして、
「人類に対する愛の炎を、もうこれ以上は抑えることができないので、この愛の炎についての知識を広めるために奇蹟によって彼女を選んだ」と告げられた。

彼(キリスト)は、そこで彼女の死すべき心臓を取り出し、それを彼自身の心臓の中に入れてそれに火をつけ、それから心臓をふたたび彼女の胸に入れてこう言われた

「これまではあなたは、私の奴隷という名を使ってきましたが、しかしこれからは、私の聖心の愛弟子と呼ばれることにしましょう。」』
《宗教的経験の諸相(下)/W.ジェイムズ/岩波文庫P135から引用》

『太陽よりも輝かしい光線』は中心太陽を目撃するときによく出てくる表現である。従ってこの幻視の正統性がこれだけでもうかがえる。幻視としては、とても聖なる心臓へのバージョンアップの話である。

マルグリット・マリ・アラコックは学校にも入学させられたが、団体生活の規則は守れなかった。だが、生徒から聖女のような尊崇を受け、その衣服を聖遺物として細かく切りわけさせられたほどであった。

このようにラーマクリシュナと似た、神への愛に溶け込むタイプの聖者になってしまうと日常生活はできにくいということであろう。
こういう状態のバクティ(神との信愛)のタイプの恍惚に生きる生き方では、社会生活ができなくなるのは、その体験の正統性とは裏腹に、現代では、社会的不適応者を作るものとして、日本社会には受け入れられにくいように思う。

だからこそ、そういう神人に対する敬意がこの社会全般に求められるのだ。

【チャクラと七つの身体-250】
◎アストラル体-119
2.アストラル体の性質-100
10.バクティ・ヨーガ-11 神の恍惚者の日常生活
(ザ・ジャンプ・アウト304)

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バクティ・ヨーガの社会性

2014-07-30 03:22:19 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神を恋い求める

19世紀、ラーマクリシュナは、バクティ・ヨーガ(献身)が最も容易な道であると語った。神を熱烈に愛して、神に渇仰心をもって祈り、涙を流す。それでは、どうすれば、そうなれるのだろうか。

『憧れを持って、母(神)を呼びなさい。あの方を見ることができたら、世俗の快楽の甘美さ(糖蜜)は、乾いてしまう。自分の母であるという思いがあれば、直ちに実現します。あのお方は義理の母ではありません。実の母です。

母に憧れを持って、子供のようにおねだり(強要)しなさい。(中略)あのお方は、必ず姿をお見せになります。』
(ラーマクリシュナの福音/東方出版から引用)

これほど純粋に童心に帰って、神を請い求めるのであれば、神もその姿をお見せしようというものだ。19世紀のインドで、まだ農業が主要な産業であった、のんびりした土地では、このようなバクティの歓喜に恍惚となることを皆にお勧めしても、違和感はなかったと思う。

けれども、それに恋い焦がれるあまりに、しばしば恍惚に浸っているのでは、21世紀の秒刻みの生存競争を勝ち抜くことは勿論、日々の糧にも事欠くことにもなろうというものだ。

現代の都市に住み、農業人口がせいぜい1割の、商業、工業中心の社会では、情動をだんだん高めて行って、神の愛に酔い、『母よ私を狂気させて下さい』とまで盛り上がる状態になるのは、クラブ(ディスコ)などの特殊な空間以外ではむずかしいのではないだろうか。

日本で、こういう光景が、巷で繰り広げられれば、「奇矯な人々が集まってボーっとしている」などと通報されかねない。現代の日本社会にはなじまないのではないか。

それに加えて、ラーマクリシュナは大麻入りドリンク好きだった形跡がうかがえるので、こういうのはしらふでは難しいのかもしれないと思う。

ラーマクリシュナは確かに神人だったと思うが、19世紀インドの風土という背景は無視し得ないものがある。いまここにラーマクリシュナが出現したら、日本では即精神病院送りというのもありえない話ではなかろう。

【チャクラと七つの身体-249】
◎アストラル体-118
2.アストラル体の性質-99
10.バクティ・ヨーガ-10 バクティ・ヨーガの社会性
(ザ・ジャンプ・アウト303)

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親鸞の愚禿鈔

2014-07-29 03:19:24 | ザ・ジャンプ・アウト
◎横超=選択本願・真実報土・即得往生

親鸞の愚禿鈔の冒頭『賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。』
愚禿は、親鸞のこと。賢者すなわち悟った人の信仰のありようを聞けば、自分のそれとの違いがはっきりして、自分の愚なることが明らかになる。親鸞がこれを書いた頃は、字面では悟ってないと広言しているわけだ。29歳で信心決定したが、そのピーク・エクスペリアンスは、過去のものになったから、殊更に愚禿と卑下しているのか。

大乗の中に頓教(すぐ悟る)と漸教(だんだん悟る)の二教あるが、念仏は頓教に分類される。
頓教には、二つの悟りに至る道があり、一つは竪超であり、即身成仏や即身是仏を目指すもの。いまひとつは横超であり、弥陀の本願を信じて死後たちどころに真実報土に往生すること。

弥陀の本願を信じて念仏を唱えれば、死後たちどころに浄土への往生が実現すると主張しているのだが、念仏を一生懸命となえても、必ずしも死を待って浄土に往生するわけでなく、人によっては、即身是仏というようなことも起きる。たとえば妙好人浅原才一などは、どうも既に仏に出会うという体験は通過してしまっている。

先入観なく見れば、念仏で到る悉地=マントラ・シッディはマントラ・シッディに留まるものではないというのが、不思議ではあるが、そのことは現代科学の解明手法では手に負えない。自分で察するしかないところがある。

【チャクラと七つの身体-248】
◎アストラル体-117
2.アストラル体の性質-98
10.バクティ・ヨーガ-9 親鸞の愚禿鈔
(ザ・ジャンプ・アウト302)

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親鸞の女犯偈

2014-07-28 03:13:19 | ザ・ジャンプ・アウト
◎性欲がメインではない

親鸞は、19才の時に、法隆寺参詣の帰途、大阪府南河内郡にある聖徳太子ゆかりの磯長御廟に三日の参籠をした。その時に「あなたの余命は10年あまりである」という衝撃の夢の御告げを受けた。

次に26才の時の太陽の火を取る玉の夢告があった。こういう夢を見るということは既に個人的自我の強固な殻がかなり揺らいで来ているものである。

更に、10年になろうとする28才年の暮、比叡山の大乗院で、如意輪観音から夢告を受けた。それは、
「善いかな、善いかな、あなたの願いは、まさに実現(満足)しようとしている
善いかな、善いかな、私の願いもまた、実現(満足)している」であって
この時点で、親鸞にとっては、寿命が29歳で尽きるかどうかなどということは問題にならなくなっていたのだろうと思う。

さて29歳の時の六角堂の百日参籠の九十五日目に親鸞が受けた女犯偈は次のようなもの
「あなた(修行者)が、たとえ宿世のカルマによって女犯するとしても
私(救世菩薩)は玉女の身となって犯せられましょう 
一生の間よく添いとげて(荘厳して)
臨終には引導を渡して極楽に生まれ変わらせて上げましょう」

青年期の性欲の懊悩がこれによって晴らされ、親鸞は晴れて妻帯の決意をする原因となったのがこの女犯偈であると言われている。定説では、僧妻帯の禁を公然と破ったことが評価されているようだが、人生の苦悩の中で、性欲が,常にそれほど重要な位置を占めているわけではない。生きることそのものの苦悩への回答としてこの女犯偈がどのような意味があるかということの方がメインであるはず。ただし勿論カーマ・ヨーガ修行者もいる。

親鸞は、個である自らを男性とみている以上は、全体である宇宙そのものを女性と観じていたのだろう。そのポジションにおいて、救世観音を相手にした女犯とは、大慈大悲という宇宙そのものの属性の一つに没入することである。こうした見方が救世観音の夢告として出てきたからこそ、女犯偈で生きることそのものの苦悩への解決が与えられたと評価できるものであったのではないだろうか。

親鸞教団は、結果として僧の妻帯などを契機に民衆へ拡大したが、親鸞個人の苦悩が解決された道筋は、この女犯テーマだけに留まるものではなかったと思う。

もともと性愛冥想と呼ばれるものは、男性側の冥想法であって、女性側のものではないし、彼がそれにチャレンジしたわけでもないだろう。

【チャクラと七つの身体-247】
◎アストラル体-116
2.アストラル体の性質-97
10.バクティ・ヨーガ-8 親鸞の女犯偈
(ザ・ジャンプ・アウト301)

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親鸞が玉をもらう

2014-07-27 03:10:39 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界全体と個人

親鸞26歳の時、新春の年賀の儀式を終えて、京都の街から比叡山に戻る時のこと。
途中、赤山明神に立ち寄って静かに読経していると、垣根の陰から不思議な女性が現れた。

それは、まるで内裏に住んでいるような気品が漂う人であった。その女性は親鸞に近づいて、「貴僧はどちらにいらっしゃるのでしょうか。」と訊ねました。

お伴の相模侍従が「京都の町から比叡山に帰るところです。」と答えると、女は「私も以前より比叡山の参詣を願ってしましたが、初めてなので道もわかりません。この出会いも何かのご縁でしょうから、ぜひとも連れて行って下さい」と真剣にお願いしてきた。

親鸞は、比叡山が女人禁制の地であることを説明して断ると、その女は、「経典にも生きとし生けるものすべてに仏性があるといいます。比叡山にも、鳥や獣で女というものは、住んでいないのでしょうか。パーフェクト(円頓)な仏の教えから女を除くのであれば、パーフェクトにはならないのではないでしょうか。

法華経でも女人は仏法の器ではないと説きながら、龍女には成仏を許しています。」 と泣きながら親鸞の衣にすがり訴えた。

さて女は、結界の山ならば仕方ないとあきらめ、袖の中から白絹に包んだものを取り出して「差し上げたいと思って、持ってきた物があります。これは、太陽の火を取る玉です。玉と日が重なることの深い理由を、今はまだご存じないでしょう。千日後には必ず身の上に思い当たることがあるはずです。」
と言い終えると玉を置いたまま木陰に隠れて、いなくなった。
(正明伝)

ほぼ千日後に親鸞は、六角堂の100日参籠を経て、夢でのお告げを受けることになる。玉は、個人の自我、日は阿弥陀仏という世界全体。親鸞は、夢の中でそれを直観したのだと見たい。

個と全体の関係を見たということとしては、黒住宗忠の体験を思わせるものがある。

【チャクラと七つの身体-246】
◎アストラル体-115
2.アストラル体の性質-96
10.バクティ・ヨーガ-7 親鸞が玉をもらう
(ザ・ジャンプ・アウト300)

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バクティな世界

2014-07-26 03:04:37 | ザ・ジャンプ・アウト
◎気軽に自分を犠牲にするということ

ここにみんなが自分のことを進んで犠牲にして、他人のために役に立ちたいと考えている社会があるとする。それはこのような社会であろう。

西に生活に困った身寄りのないお婆さんがいると聞けば、必要なお金をいくらでもお渡しするし、一緒に生活を共にするような人がいくらでもいる。

東に体の不自由なおじいさんがいると聞けば、入浴のお世話、家事のお手伝い、買物のお使い、家の掃除なんでもやりましょうという人が、門前に列を作って待っている。

果ては、重武装した悪人が峠にあって、人一人の命と引き換えでないと、峠道を通さないと言い張る時に、我も我もと進んでその命を差し出そうとする人が引きも切らない。
と、こんな感じ。

次にくる時代は、キリスト教では至福千年とか千年王国とか言われるが、その時代の雰囲気はこんな感じなのだと思う。またおそらくは、中国古代の聖天子の時代である鼓腹撃壌(政治が人を縛らなくても世が治まる)の時代とは、このような時代だったのではないか。

そのような感じが日常感覚になるためには、『ある気づき』がその時代の人々全体になければ、日常性の中に「いつでも自分を犠牲にする」「自分が傷つけられることを気にしない」ということはない。

ある気づき』は、冥想の練習がなければ、ある日突然やってくるものではあるまい。例えば日本沈没の日になって、突然皆が気づくというものでは絶対ないと思う。

今にあっては、世間的には、こんな感覚は、単に非常識とされるだけではなく、「悪徳商法」のターゲットに真っ先になりがちなのである。この惨状を指して、聖者たちが「現代は予定ルートより大きくずれた」などと評す。

【チャクラと七つの身体-245】
◎アストラル体-114
2.アストラル体の性質-95
10.バクティ・ヨーガ-6 バクティな世界
(ザ・ジャンプ・アウト299)

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恐怖の聖母カーリー女神

2014-07-25 03:00:01 | ザ・ジャンプ・アウト
◎バクティ・ヨーガで死を見る

ラーマクリシュナの後継者であったヴィヴェーカーナンダも、欧米で求道心のない人々を相手に講演させられたことには辟易していたことがあったようだ。

ヴィヴェーカーナンダが、もっとも深いところから出てきて、そこに近いバイブレーションを持つ高弟と会話をするのであれば、さほど疲労は感じまいが、深遠なるものにほとんど理解のない平板で粗雑なバイブレーションの人々の中に長くいるのは、重荷でさえあるのだろう。

北インドのスリナガルで、カーリー女神への冥想が深まり、「暗く、苦しく、不可知なる面」に全神経を集中して、「恐怖の一者」(カーリー女神)を見神して、彼は、暗闇の中で次の詩を書いて力尽きて倒れた。

『「母なるカーリー」

星々は、消え
雲が雲をおおい
闇は震動し鳴り響く,

吠えたけり渦巻く風は
幾百万の狂える魂であり、
牢獄より放たれ
樹々を根こそぎもぎとり
すべてのものを道から一掃する。

海は騒ぎたち
山なす波を巻き上げて
暗黒の空に届く。

蒼白い稲妻の閃きは
四方八方に汚れた黒き幾千もの
死の影を現す。

疫病と悲哀をまき散らし
歓びに狂い踊りながら、
来れ、「母」よ来れ!

恐怖は汝の名前であり、
死は汝の呼吸であり
震える歩みの一歩一歩が
永久に世界を打ち砕く。

汝よ、時よ、万物の破壊者よ
来れ、おお「母」よ来れ!

悲惨をあえて愛し
死の影を抱きしめ
破壊の踊りを舞踏するもの・・・
彼のもとに「母」は来たる。』
(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯/法律文化社P320-321から引用)

カーリー女神は、死である。
聖なるものへのアプローチには、大別して生の世界からアプローチする方向と死の世界からアプローチする方向がある。生の世界からアプローチの代表格は只管打坐であり、生の世界を極める方向性で入っていく。

一方生は死の世界の一部であり、生は死から出て来るので、死の世界からのアプローチは、必ず生を含むので、生きている人間の宗教として何の不思議もない。死の世界からのアプローチとは、一般にはクンダリーニ・ヨーガ(密教)を指すが、ヴィヴェーカーナンダのこの詩では、バクティ(全身全霊の愛で神に献身)により、死の世界の本質を見るに至っているところが特徴的であるといえよう。

ヴィヴェーカーナンダは、「汝(カーリー女神)は私を殺害しても、それでも私は汝を信頼します」とまで言ったという。しかしここで言う殺害や死が肉体のそれを指すのか、自我のそれを指すのかには議論があると思う。

黒い聖母の世界共通のイメージは、この恐怖の母なるインスピレーションから来ているのだろう。

【チャクラと七つの身体-244】
◎アストラル体-113
2.アストラル体の性質-94
10.バクティ・ヨーガ-5 恐怖の聖母カーリー女神
(ザ・ジャンプ・アウト298)

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見神者の定義

2014-07-24 03:55:26 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ラーマクリシュナの見神者の特徴

ラーマクリシュナは、本当に神を見たかどうか見分けるしるしがあるという。
それは次のとおり、

1.いつもほがらかで、楽しそうだ。物おじや遠慮をしない。海のように表面は波立ったり音を立てたりするが、下の方は底知れぬ海だ。

2.屍鬼(食人鬼のことか)のように、浄不浄の区別なく、ものに接したり、食べたりする。
幕末の剣豪であり、禅家でもあった山岡鉄舟なども、浄穢不二(汚いものも、きれいなものも区別なし)の修行と称して、他人の吐瀉物を食べたりした話がある。

3.幼児のようである。
無邪気で何も気にかけず、着物を脇にかかえて、裸でぶらついている。
少年のように生き生きとして挑戦的だ。いつまでも青年のように若々しくて、人に何か教える時はライオンのようだ。

4.知覚のないバカのように見える。内にも外にも神ばかりだから口がきけなくなる。
狂人のようにところかまわず、笑い、かつ泣く。

5.無生物のようである。
時には無生物のようにじっと黙って座っている。
深い冥想にはいるわけですね。
(人類の知的遺産 ラーマクリシュナ P259-260から抜粋)

これらのラーマクリシュナの見神者の特徴は、とても奇矯なタイプの見神者のことを言っているようだ。
これは、禅僧普化一休などのタイプがこれに近いのであって、見神者すべてがこのようなタイプであるとは思えない。
バクティ、神との信愛で神を見た場合は、このようなタイプになることが多いのだろう。残念ながら、こんな人が、日本で身近にいたら、精神分裂病などと判定されて、精神病院行きになることだろう。

でもみんな、神を見た人など、めったにいないと思い込んでいるので、自分のまわりにいても気づかないかもしれませんよ。


【チャクラと七つの身体-243】
◎アストラル体-112
2.アストラル体の性質-93
10.バクティ・ヨーガ-4 見神者の定義 
(ザ・ジャンプ・アウト297)

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神の化身と信愛の道

2014-07-23 03:51:46 | ザ・ジャンプ・アウト
神の化身と信愛の道

1.アヴァターラ 神の化身

ラーマクリシュナは、神が化身(アヴァターラ)として肉体をとっておられる間は、その御方を礼拝供養しなければならないと述べ、神の化身の存在を肯定する。
神の化身とは、インドでは、例えばクリシュナのことであり、その時代、時代に現れるという。

ただし、すべての人間は神の現われでは、あるが、その現われ方が千差万別である。神は、あるところには、無明無知(マーヤ、闇)の力として現れるし、またあるところには明知(悟り、光)の力として、現われる。そして、ある入れ物(人間)には沢山、ある入れ物(人間)には少なくという具合に、それぞれの人間の神性の分量は平等ではないとする。

そこで神の化身、アヴァターラは、神性に満ちあふれた人間として、人間の中に出現することがわかる。

ただラーマクリシュナは、『神の化身をすべての人が見分けられるわけではないよ。肉体をまとっているから、普通の人と同じように病気もするし、悲しみも、飢えも、渇きも、みなあるんだ。わたしらとおなじように物を思ったり、考えたりもする。』と補足する。
(人類の知的遺産/ラーマクリシュナ/講談社P189-192抜粋。P192から引用)


2.信愛(バクティ・ヨーガ)の道

ラーマクリシュナは、信愛(バクティ・ヨーガ)の道では、有形の神を信仰することであるとする。
ラーマクリシュナは、寺院のカーリー女神像を有形の神の現れと見、その像が『大実母(マー)』であるとして、その像に恋い焦がれ、礼拝供養し、ついには、神と一体となる境地に至っている。

ラーマクリシュナは、無形の神を信仰するより、有形の神を信仰するのが容易であるという。そして有形の神の代表として、神の化身(アヴァターラ)をまず挙げている。
ラーマクリシュナは、人間としての神の化身には出会っておらず、カーリー女神像を有形の神の現れとし、帰依したのだと思われる。

ラーマクリシュナは「神の化身に会うためには霊の修行が必要である」と言うが、神の化身に会う会わないは、縁によるところが大であるから、同じような帰依が、他のバクティ・ヨーガの修行者にできるかどうかは、その修行による霊的な深化がどの程度起こってくるか、すなわち信愛の深まりの程度で決まるように思う。愛が深いほど、出会うチャンスはある。

また信愛(バクティ・ヨーガ)の道にいる人に対し、「すべては夢、幻だ。」などと言って、無形の神への修行や、智慧のヨーガの話をするのは、苦労してやっと芽生えた信愛者(バクティ・ヨーガ)としての信仰をダメにすることになると戒めている。


【チャクラと七つの身体-242】
◎アストラル体-111
2.アストラル体の性質-92
10.バクティ・ヨーガ-3 神の化身と信愛の道 
(ザ・ジャンプ・アウト296)

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信愛の7つのステージ

2014-07-22 03:49:05 | ザ・ジャンプ・アウト
○信愛の7つのステージ

ラーマクリシュナは、神に至る信愛(バクティ・ヨーガ)の七つのステージを説明している。これは、神をひたすらに恋い焦がれている信愛者の道筋であるが、これを見ると、イエス・キリストへのいちずな思いを結実させようとするキリスト者の発達段階も、これに似ているのではないかと思う。

1.修行者・霊的な人と交際すること。

2.神への信仰と尊敬の念が生じる。

3.堅信(ニシユタ)。
神以外のことは聞きたくなくなる。神の仕事をしたいと思うようになる。神への信仰が固定する。

4.信愛(バクティ)。
神に専向した強い愛。

5.バヴァ。
神への思いに心は一杯になり、感動のあまり言葉が出て来ない段階。普通の人はここまで。

6.マハー(大)バヴァ。
時々狂人のように笑ったり、泣いたりする。肉欲は完全に克服されて、肉体感覚もない。この段階以上は、通常の人間には到達不能で、偉大なる人(マハー・プルシャ)か、神の化身のみが至り得る。

ラーマクリシュナの言葉
「「私」意識がある間は、その御方は、人格神として現れる。だから「私」がある間は、つまり差異の感じのある間は、ブラフマンが無相・無性だと言っても始まらない。言う資格がないんだ。この段階では有相・有性のブラフマンを認めなければならない。この有性のブラフマンのことをヴェーダやプラーナ、タントラ聖典では、カーリー女神とか、根本造化力(アーデイヤ・シャクティ)と言っているんだ。」(人類の知的遺産 ラーマクリシュナ/P51から引用)

7.聖愛(ブレーマ)。
世俗のことも自己という思いも肉体感覚も一切なくなる。

ラーマクリシュナの言葉
「ブラフマンは、ヴェーダの儀軌をはるかに超越していて、ことばでは、とても説明できるものではない。そこには「私」も「あなた」もないんだ。」(人類の知的遺産 ラーマクリシュナ 講談社/P50-51から引用)

第6ステージは、まだ自分というのがあるので、第五身体のコーザル体以下のレベル。第七ステージは、私とあなたの区別なく、言葉では説明できないので、あきらかにニルヴァーナである。
(出典:人類の知的遺産 ラーマクリシュナ/P74)



このように私とあなたの区別がないという体験を共有することで、世界の平和が、初めて可能であることを知ることになるように思う。


【チャクラと七つの身体-241】
◎アストラル体-110
2.アストラル体の性質-91
10.バクティ・ヨーガ-2 信愛の7つのステージ 
(ザ・ジャンプ・アウト295)

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バクティ・ヨーガ

2014-07-21 04:27:36 | ザ・ジャンプ・アウト
10.バクティ・ヨーガ

アストラル体での往生あるいは成道で最も重要なルートと考えられるのは、マントラ禅である。マントラ禅とは、マントラ・ヨーガのことだが、現代人がマントラ・ヨーガを全身全霊で行ずる時、マントラ禅に変ずる。
(マントラ:南無妙法蓮華経、アーメン、オーム、主の祈り、祝詞、南無阿弥陀仏、読経など。全身全霊で唱え唱えて唱え切った時に、柔道家木村政彦の70人連続かかり稽古後の体外離脱を越える何かが起こるかもしれない)

マントラ禅の初歩的な効果は、アストラル体のバイブレーションの安定調和であり、感情の安定だが、その最終的に目指すところは、真実在(太母、神、阿弥陀仏など)との間にバクティ(信愛)が成立すれば、そのすべてがマントラである世界を知ることになる。

バクティ・ヨーガとは必ずしもマントラだけによるわけではなく、ラーマクリシュナのようにひたすらカーリー女神などの太母を恋い焦がれるという気持ちの純粋さがそこに連れて行ってくれることがある。また阿弥陀仏の本願(無量寿経)の第十八願に「本気の心でもって信じ切れば往生」(至心に信楽し)とあるのは、同じニュアンスと思われる。

浄土系では、往生と言い、死後での浄土=天国行きと説明しているが、どうも生きながらの往生を想定しているとしか思えない。それが証拠に親鸞や妙好人の境地は生きながら浄土にあるからである。

このようにバクティで典型的と考えられるのは、ラーマクリシュナと親鸞および浅原才一などの妙好人、キリスト教の女性神秘家である。

親鸞はもともとと霊媒的体質であり、段階を踏んで高級神霊から霊的アドバイスを受け続け、29歳の覚醒体験である信心決定に至る。
19歳の磯長(しなが)の夢告で、聖徳太子からあと10年つまり29歳のときに死を迎えると予言を授かった。 

26歳の時に赤山明神で、さる女性から女性の救済を求められ、男女の別という問題から目をそむけてはならないと示された。また玉と日の重なることも予告された。玉は個、日は全体。
28歳の時に如意輪観音からまもなく、大願成就することを予告される。

29歳の時に法然の膝下に入り、大悟徹底、信心決定し、磯長(しなが)の夢告は、ここに自分が死に永遠の生命を感得するという形で成就した。法然の法話を聞いていた時にそれが起こったが、それはただのきっかけであって、法然の法話そのものを大きく評価する必要はないと思う。

信心決定とは、死後における自分の浄土行きを確認したなどというものではないと思う。というのは歎異抄その9で、親鸞も実は私も急いで往生したいと思わないなどといっているからである。この部分は、人間の側には救済などないが、それでも人間を越えた弥陀の本願という愛が厳然としてそこにあることを知っている。社会的不適応者のための救済が間違いなくあることを確言しているのだと思う。

さてダンテス・ダイジは、バクティで大悟を経て復活した場合、アストラル体以上のことはわかるが、肉体やエーテル体のことはわからない、みたいなことを言っている。一方OSHOが、アストアル体からスタートするのがバクティ・ヨーガと言っているのは、アストラル体の呼吸が情動であるからなのだろう。メカニズムはよくわからないが、そうしたものなのだろう。いずれにしてもアストラル体にも覚醒への王道がある。 


○信愛の7つのステージ
○神の化身と信愛の道
○見神者の定義
○恐怖の聖母カーリー女神
○バクティな世界
○親鸞が玉をもらう
○親鸞の女犯偈
○親鸞の愚禿鈔

さらにバクティが行き過ぎて、個人としての社会性を失うケース2例
○バクティ・ヨーガの社会性
○神の恍惚者の日常生活

【チャクラと七つの身体-240】
◎アストラル体-109
2.アストラル体の性質-90
10.バクティ・ヨーガ-1  
(ザ・ジャンプ・アウト294)

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浅い悟り 深い悟り

2014-07-20 03:10:23 | ザ・ジャンプ・アウト
◎人生いろいろ 悟りもいろいろ

ここでは、悟りを第六身体や第七身体とのコンタクトと見た場合に、残念ながらアストラルがらみでそれを騙る人間が非常に多いことを説明する。

今さらいうまでもないが、神人合一とか、身心脱落にいろいろなレベルがあってはたまらない。昨今いろいろな精神世界系、宗教系の書籍やブログに悟りのことが書かれるようになった。時勢柄当然の流れではあるが、そうした中に「私は悟ってます」というものもいくつもある。

「私は悟ってます」という主張をするのは、外人、日本人を問わないが、人生相談、カルマ改善、霊障除去などの商売繁盛のために「私は悟っています」という看板を掲げている者までいる。またいわゆるプチ気づき程度で、世界と合体した気分になったことをして悟りと主張するものもいる。あるいはまた、わが魂が光明を得た、本当の自己になったと言いながら、その語り口に聖性の光が全く感じられない者もある。また肉体を出てアストラル・トリップで霊界の穴場を訪問したことを悟り同然に語るものもあり、その態様は様々である。

本当に悟った人間がごろごろいれば、この世はこんな地獄相を現実に実現しているという有様にはなっていない。「私は悟っています」と語る人は、本人は大真面目なのだろうが、実は偽キリストであることが大半なのだろうと思う。

悟っているかどうかは、財産があるかどうかとは関係ないし、勉強ができるかどうかとも関係ないし、健康かどうかとは関係ないし、人格的に練れているかどうかとも関係ないし、ファッションが決まっているかどうかとも関係ないし、話がうまいかどうかとも関係ないし、ルックスがいいかどうかとも関係ない。

本物は、決してスピリチュアルで商売をしないものだ。人生いろいろ、しかし悟りもいろいろとはあってはならないことだ。

 
【チャクラと七つの身体-239】
◎アストラル体-108
2.アストラル体の性質-89
9.アストラルの冥想の位置-6 浅い悟り 深い悟り 
(ザ・ジャンプ・アウト293)

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OSHOも木から落ちる

2014-07-19 03:06:46 | ザ・ジャンプ・アウト
◎霊魂は肉体と別にあり

これは、肉体からアストラルの分離が意図せずに発生した事件。

OSHOがいつものように木の上で冥想していると、冥想に入れ込みすぎて、自分の肉体が、木から落ちたのにすぐには気づかず、突然自分の肉体が地面に横たわっているのを発見した。明るい一本の線、銀色に光り輝くひも状のものが、横たわっている肉体のへその部分から出て、木にとまっているOSHOにつながっていた。銀色に光り輝くひも状のものとは、クンダリーニのことで霊線とか、玉の緒とも呼ばれる。木の上にいる自分はアストラル体のことだろう。

自分の肉体を外側から見る体験というのは、臨死体験ではよく語られる事象である。これは、OSHOにとっても初めての体験だったので、当惑しているうちに、人間の肉体と魂は別の存在であることを悟り、肉体の死が自分の死であるという恐怖はなくなったと言う。

肉体とアストラル体が分離したまま、夜明けを迎えた。近くの村からミルクの缶を頭にのせた女の人がふたり通りかかり、そこに横たわっているOSHOの肉体を見つけた。OSHOは、冥想していた木のてっぺんから、彼女らが落ちている肉体を見ているのを見ていた。彼女らはその肉体に近寄ると、かたわらにしゃがみこんだ。彼女らの手がOSHOの額に触れたとたん、まったく磁石に引きつけられたかのようにして、OSHOは自分のからだに戻り、そして目を開いた。

その後6カ月の間に、このような体験は6回起こった。起こった事象としては、クンダリーニのエネルギー・コードに乗ってサハスラーラ・チャクラから肉体次元を脱出する本格的なものでなく、『へそ』経由で肉体とつながったいわゆるアストラル・トリップ(体外離脱)と考えられる。OSHOはこの六回の体験で寿命が10年縮まったような気がしたと言っているので、最近見聞きする体外離脱体験ファンには心する点ではあるまいか。

OSHOは、深い冥想性トランス(サマディー)の中で、男性の肉体が霊魂と分離してしまうと女性の手助けなくしては肉体に戻れない。また逆に 女性の肉体が霊魂と分離してしまうと男性の手助けなくしては肉体に戻れない。男性と女性のからだが接触するやいなや、そこに電流が流れ、電気回路が閉じて、その瞬間、肉体に離れていた霊魂が戻る。だから、インドの精神世界の先達は、深い冥想性トランスや死の修行では、女性と一緒に修行していたのだと述べている。

ラーマクリシュナは、肉体をよく離れていたようだが、ラーマクリシュナは、女性が近づくのが嫌いだったようで、このような世話をする女性がいたという記録も読んだことはない。だからラーマクリシュナの場合は女性が協力者としていたとは考えにくく、このOSHOの説が一般に妥当なのかどうか、もうひとつわからないところはある。
(参考:反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社)


【チャクラと七つの身体-238】
◎アストラル体-107
2.アストラル体の性質-88
9.アストラルの冥想の位置-5 OSHOも木から落ちる 
(ザ・ジャンプ・アウト292)

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指導者のいないクンダリーニ・ヨーガの危険

2014-07-18 03:03:43 | ザ・ジャンプ・アウト
◎本山博のケース

これは肉体からアストラルへの流れ。

本山博が、『現代社会と瞑想ヨーガ/宗教心理出版』P234あたりで書いているのだが、25歳の時にヨーガ行を初めて3か月位したときに、尾てい骨がむずむず動くかんじがあり、それが3か月くらい続いたらクンダリーニが上がった。

クンダリーニが上がったとは、下腹部の中にあった少し赤みを帯びた光が熱い水蒸気に包まれているのが、背骨の中を上昇し、頭頂まで突き抜けたことだそうだ。

本山博は、幸いにも頭頂のサハスラーラ・チャクラが開けてエネルギーがアストラルの次元に抜けたために心身にさほどの異常(彼の場合は、身体が熱くなって頭痛がひどいなどでおさまった)がなかったが、頭頂が開かずエネルギーが頭の中や身体に閉じ込められた場合は生命が危険になる場合もあるとしている。

クンダリーニ・ヨーガの行法を我流でやる場合も危険だが、ひきこもりなどの心身のエネルギーが正常に流れないような環境で暮らす人においても、これに類したことも時々起きないとは限らないと想像される。

難しい時代になった。


【チャクラと七つの身体-237】
◎アストラル体-106
2.アストラル体の性質-87
9.アストラルの冥想の位置-4 指導者のいないクンダリーニ・ヨーガの危険 
(ザ・ジャンプ・アウト291)

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ケン・ウィルバーのサイキック

2014-07-17 03:58:55 | ザ・ジャンプ・アウト
◎アストラル体から上位へ

ケン・ウィルバーは第六チャクラ(アジナー・チャクラ)を使うと、意識は超個的、超言語的な領域に進入し始め、このプロセスはサハスラーラ・チャクラに進むにつれて加速すると述べる。そしてサハスラーラ・チャクラを超えた7つのより高次の意識段階に進むとともに超-心的なものになっていくという。彼はこのレベル全体を微細領域と定義し、その領域を上位と下位に分ける。

下位微細領域は、アストラルおよびサイキック(霊能)現象の両方を包含し、これは、アジナー・チャクラに集約されると述べているので、ケン・ウィルバーは、下位微細領域は、七つの身体論で言うエーテル体・アストラル体レベルを意識しているように思う。

彼の言うアストラル現象(レベル)とは、体外離脱、オーラ、真正魔術、アストラル・トラベル(幽体旅行)を含むとし、サイキック・レベル(現象)とは、ESP、予知、透視、念動、その他サイ現象と呼ばれるものが含まれるとしているので、間違いなく、アストラル体、エーテル体レベルのことを言っている。

そして上位微細領域は、サハスラーラに始まり、さらに七段階の極めて高次の超越と分化と統合のレベルであり、より高次の諸存在、案内者(ガイド)、天使的存在たちの領域であるので、これは、アストラル体・メンタル体レベルで登場する高級神霊などのことを言っていると思う。

そして彼は、これらの諸存在は、最初は必然的に他者として現れはするが、後に我々自身の高度な元型的形態であることを知るとしているので、ケン・ウィルバーは、個人・個性・自分というものが最後は超個なる神そのものに呑み込まれる段階を明らかに知っていることがわかる。更にかれは、この先に、より高次の、まったく描写不可能な3つの存在レベルがあるとする。

※以上から彼が言っているサハスラーラ・チャクラとは,肉体のサハスラーラ・チャクラか、エーテル体のサハスラーラ・チャクラを言っているのだと思う。
(参考:アートマン・プロジェクト/ケン・ウィルバー/春秋社)


【チャクラと七つの身体-236】
◎アストラル体-105
2.アストラル体の性質-86
9.アストラルの冥想の位置-3 ケン・ウィルバーのサイキック 
(ザ・ジャンプ・アウト290)

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