アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

霊がかりを排すことの重要性

2014-03-31 03:07:39 | ザ・ジャンプ・アウト
◎アストラル体-1
1.霊がかりを排す-1

現代宗教の最大の特質は霊がかり、神がかりを排除するという点にある。

およそ神に直接コンタクトする方法は、3種ある。一つはクンダリーニ・ヨーガで、死の世界から神との合一を目指す。二番目は只管打坐で、生の世界から直接神に合一(身心脱落)するもの。三番目は、神降ろし・神がかり・霊がかりで、文字通り主神をその身に懸らせるもの。これはチャネリングでもあり、シャーマニズムでもある。

三種のどれも簡単なものではないが、文化人類学者のシャーマニズムに関する調査によって、シャーマニズムは、神がかりによるものが大半であることが知られており、世界中の町や村落に広汎に分布している伝統あるものであった。

20世紀前半までは、悟りはごく一部の精神的エリートのものであった。そういった状況下では、神がかり・霊がかり・シャーマニズムにより主神の意向を知るというのは、意義あることだったと思う。つまり、自意識が十分に発達していない人が大半である社会において、上意下達のスタイルで宗教組織全体を進歩向上させていこうとするためにシャーマニズム・霊がかりを用いることで、成果は上がっていたものだと思う。

ところが20世紀後半以降、自意識の充分な発達により、個々人が自分の悟りの実現を意識的に無意識的に課題とする社会となったところで、霊がかり・神がかりは、事実上その役割を終えたかに見える。すなわち万人に主神を霊がかりさせるのはほとんど不可能なのであることが大正時代の終わりにははっきりしたのである。

神がかり・霊がかりの舞台はアストラル体。アストラル体こそ神がかり・霊がかりの本丸であって、21世紀人類の進化に際しては、あくまでゴールではなく通過点に過ぎないものと位置づけなければならないものである。

ところが、チャネリング・シャーマニズム・霊がかり・神がかりに問題があることとは思っていない人が大半である。意外なことかも知れないが、『霊がかりを排す』ことこそ、20世紀に出現したアヴァターラ(覚者)達の主要テーマの一つだったように思われる。

【チャクラと七つの身体-132】

【ザ・ジャンプ・アウト186】

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聖書と七つの次元

2014-03-30 06:47:36 | キリスト者の秘蹟
◎クンダリーニヨーガと待望された人物

聖書の創世記には七つの次元が平板な描かれ方をしている。どうしてこのような誤解を招くような描き方をしたのだろう。

以下は口語訳聖書の創世記から

『はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。』
これは何もかもなしのニルヴァーナの次元である。

『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。』

第二日では、『光あれ』という言霊があった。言霊は既に有の次元であり、アートマン。ここに万象を発生させる根源である二元性がはじまる。二元性は光と闇であり、夜と昼であり、空と海である。

『神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。』

水を微細身の次元のシンボルとみれば、これを個別性の極限であるコーザル体からエーテル体までの表現と見ることができる。個別な水が集まるのだ。

『神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第三日である。』

ここに物質の次元に突入し、また個別性は明らかである。個別性を有し、意識と言う自由を持つものとして次に人間が登場する。

この創世記冒頭が、わざと七つの次元の区分がわからないように描かれているのはなぜか。旧約聖書自体は、クンダリーニ・ヨーガ型の漸進的な修行形態を意識したテクストである。

現代ですら、『霊や超能力なんぞとかかわっていればまとも社会生活はできなくなる』と言われる。クンダリーニ・ヨーガの社会的問題点は、クンダリーニ・ヨーガ修行に打ち込めば社会生活を営むのがむずかしくなること。

七つの次元というものは、クンダリーニ・ヨーガ修行者以外にとっては知識としても有害な面の方が強かった時代が長かったのだろう。

それと聖書は組織宗教向けのテキスト。組織宗教の修行形態はその修行形態の鋳型にピッタリ合う人物の出現を何百年も何千年も待つために存在するという側面もある。

そうした待望された人物にとっては、この創世記の故意にわかりにくされた文章に触れただけでも、七つの次元を洞察することは容易と考えたのではないか。

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その体験の評価

2014-03-29 06:46:17 | 現代冥想の到達点
◎感受性と智慧と至福千年

精神世界を語る上で最も重要なポイントと思われるのが、神秘体験や窮極の体験である。
しかし体験だけでは、何も先へ展開しない。評価できないと他者へ伝達することが難しいからである。

体験の中でも特に重要な体験は臨死体験神人合一の体験である。
臨死体験の場合、一部の人はその体験を語ることができるのに、一部の人はその体験を語ることはできない。

神人合一の体験に至っては、体験していない人は勿論それを語ることはできないし、体験した人でもその体験は言葉では語り得ないものであるがゆえに語ることはできない。

体験には評価する者がいて初めて他人がその体験を正当に論ずることができる。

それでは臨死体験を語れる者と語れない者の差は何か。しかしそれ以前に、体験者が臨死体験をどのレベルで見ているかという問題があって、語られた臨死体験の内容が必ずしも正しいものではないということがある。

よって臨死体験を語れる者と語れない者の差は、単に起きた出来事を言葉にできるかどうかの差であって、その内容が真正なものかどうかとは別の問題であるように思う。

古神道ではこの点をクリアできるように審神者というものを置く。審神者は、臨死体験の判定者兼解釈者ではなく、憑依してきた神霊の判定者兼解釈者なのだが、求められる役割は臨死体験評価でも同様である。

神人合一体験であっても審神できる人物もいる。釈迦が涅槃に入るというのも神人合一なのだが、以下のように釈迦が涅槃に入る様を段階別に精緻に審神できた人物がいたわけだ。

『その時に世尊は(アヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、
その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅からから出て、第三禅に入り、
その第三禅からから出て、第二禅に入り、
その第二禅からから出て、初禅(第一禅)に入り(3たび繰り返して)、

その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む/青土社から引用)

神人合一を審神できるような人物であれば、過去に窮極の体験は経ているだろう。評価するには、それが起こったことを感知する感受性が要る。更にそれが何を意味するのかを理解する智慧が要る。

それら二つを兼ね備えた人物ならば、その感受性と智慧はその行住坐臥に自ずと表れる。このように悟りが所作・行動に現れることを敢えて『悟りとは態度である』という場合がある。

昨今悟りについて体験至上主義みたいな扱われ方をする場合が多いが、悟りはそれがどんな高みを持ったものであっても一時であって、永続することはない。しかし経験した者からは、その体験をしたことによる恵みが一挙一動から溢れ出る。それが『悟りとは態度である』ということ。

世の中に覚醒とは何か、悟りとは何かを感ずるのが当たり前の人ばかりになった時、それを霊的文明あるいは千年王国と呼ぶ。覚醒も悟りも、死からの恐怖、自分の死、自分のまわりのすべてのものの死を超克した先にあるものだから、死を越えている。

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本当の自分に出会う

2014-03-28 05:47:59 | 究極というものの可能性
◎外から入ってきた情報に別れを告げる

自分の気持ちは、これまでの人生において家族や他人やマスコミから聞いた話、新聞や雑誌やスマホや本で見た話と、少々の自分で感じた事や自分で思ったことで出来上がっている。

冥想修行でよく言われるところの本当の自分は、これらすべてを振り捨てたところにしか出現して来ない。つまり外側から入れたあらゆる情報を捨てないと、本当の自分がどれかなどわかりはしないということ。

最近スピリチュアル系ブログが増えたのは良いことだが、本当の自分を目指すにあたり、外から入ったあらゆる情報や考えを捨てきるというプロセスがないままに、いきなり「そのままでよい」「この身このままで悟りだ」などと主張するから、今のスピリチュアル・ブログの大半はエンタメ・ブログだ、気休めブログだなどと揶揄されることになっている。

確かに迷いのままに悟るという標語もある。それはいわば肉体世界・物質世界は、結局滅びるものであるがゆえに、どこまで行っても迷いだが、それでも永劫不滅の神・仏・宇宙意識を持ちながら生きる姿となることを、迷いのままに悟るというのではないか。

外から入ってきた情報を捨て去るテクニックにはいろいろなものがある。カルロス・カスタネダのように、生まれてからこの方の記憶をどんどん遡らせて、最後にそれらすべての大切な思い出に別れを告げさせるやり方。

南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を何度も何度も繰り返し唱えて、世界が南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経だったことに気づいて本当の自分に出会うやり方。

只管打坐でひたすら想念が起こらないような坐り方を続けて、本当に自分に出会うやり方。

この他にもテクニックは無数にあるが、悟りは特定のテクニックで坐ったからと言って必ず起こるわけではない。というのは悟りは向こうから来るものであるからだ。

本当の自分とは、別名本尊だったり、本守護神だったり、ハイアーセルフだったり、アートマンだったりする。まともな宗教であれば、必ず本当の自分を目指すテクニックがある。

日々冥想を。

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炭火を贈る

2014-03-27 03:23:26 | 丹田禅(冥想法8)
忘牛存人まで

太元は江戸末期の臨済宗の禅者。

『炭火のはなむけ
かつて太元は伊予の行応禅師に従って修行していた。参禅の日々も過ぎて太元が、伊予を去ろうとする時に、行応は、
「わしにはおまえの出立にくれてやるものがないが、これがせめてものはなむけじゃ」
といって、火箸ではさんだ炭火を太元の掌にのせようとした。修行のできた太元ではあったが、さすがにこれを受けることができなかった。

行応の真意が分からなかった太元は、一室にこもり七日間を徹して究明にはげみ、再び行応に参じた。

行応はまた真っ赤に燃えた炭火をはさんで出した。するとそのとたん太元は師の意を悟ることができた。

行応もそれを知り炭火をもどし、太元が去るのを許した。

修禅者の師資は、かくのごとくあるべしと、当時の禅林では美談としてこれを伝えた。』
(禅門逸話選 上 禅文化研究所P248から引用)

ここまでタイムリーに弟子の山場を見抜ける師匠とそれに答えた弟子のセットが美談となった。

現代世界は、今まさに掌に炭火を置かれようとしている。これが現実であって逃げようがない。直面するしかない。人類はその問題を超克できるのか。

忘牛存人までいけるか。

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剣の護法童子

2014-03-26 03:50:20 | 気功、導引(冥想法2)
◎神機発動

有る婦人が合気道開祖植芝盛平の姿を見ていたところ、彼の身体から無数の線が出ていて、それはタワシのようであり、それに触れると相手は一瞬にすっとんだという。

このようなハリネズミ様の武人の姿と言えば、国宝信貴山縁起絵巻にある剣の護法童子である。病気の醍醐天皇に乞われ、クンダリーニ・ヨーギ命蓮が呪法でこの病を平癒させるのだが、その証拠に遣わしたのが剣の護法童子。

剣の護法童子に前から立ち会うならば、くるくる回転する法輪ではじき飛ばされ、後ろから攻めかかれば、ハリネズミのような鎧形の剣で寄せ付けない。

剣の護法童子が人間として登場したならば、植芝盛平のように相手が彼の身体に触れる前にすでに投げられていた武技を持つ武道家がふさわしい。

植芝盛平が綾部の本宮山で修行中、毎日ある時間が来ると彼は神がかりの状態(神機発動)になったという。これ以後、剣の切っ先が来る前に小豆大の白い玉が見えるようになり、剣も銃弾もよけることができるようになった。人間技でなく、神技である。




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出口王仁三郎のモンゴル入り

2014-03-25 03:03:49 | 古神道の手振り
◎東亜の天地統一

大正13年出口王仁三郎は、大正10年の第一次大本事件の衝撃冷めやらぬ中、仮釈放みたいな不安定な身分ながら、モンゴルに脱出した。

世間では、スタンドプレー好きの目立ちたがりの教祖が、辺境のパインタラで銃殺されそうになりながら天佑により無事帰国しただけのエピソードとして、出口王仁三郎のモンゴル縦走を見ている節がある。
出口王仁三郎と大本教を考える上で、ポイントと思われるのは、このモンゴル入りと、笹目秀和による教団のご神体の崑崙山中への返還である。

霊界物語は全120巻の構想だったが、結局81巻と付録の特別篇入蒙記で完成となった。全体が縮小されたにもかかわらず、モンゴル入りの部分は故意に注目を惹くように残されているのである。

モンゴル入りの目的は、モンゴルに精神方面の力で一大王国を築こうとすることだったとされる(霊界物語特別篇入蒙記 第四章 微燈の影)。

モンゴル入りに際して娘婿出口宇知麿への手紙では「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり。事の成否は天の時なり。」(大本/伊藤栄蔵/講談社P161)と述べ、東亜の統一をまず目論んでいる。

韓国中国が連携して反日運動を盛り上げている今、東亜の統一など夢物語に見えるが、ポスト第二次大本事件構想では、日本の大峠の後は、日本はモンゴルで大きく展開するであろうことを出口王仁三郎は見ている。

出口王仁三郎は昭和10年の第二次大本事件での収監前夜、なんと教団のご神体を一介の青年に過ぎない笹目秀和に託し、崑崙山中に奉還することを依頼した。出口王仁三郎にとっては既にこの時点で、教団の使命は終わり、みろくの世の一歩を日本はモンゴルで踏むことが予想されているが如き発言が出口日出麿から出る。

曰く崑崙山行きは素尊(スサノオ)から出ていること。そして「やがて地球の裏表がひっくりかえるようなときがくると、大本神業の地場が崑崙山中に移らないとも限らないからね」(モンゴル神仙邂逅記/笹目秀和/徳間書店P215)と。

笹目氏は当時からモンゴル独立運動を支援してきた。

こうして見てみると、モンゴルは意外にも日本の21世紀における重要なパートナーになっていくかもしれないと思う。誰もそんなことは思っていないのだけれど。

パインタラでの銃殺直前の出口王仁三郎の辞世
「いざさらば 天津御国にかけ上がり 日の本のみか世界まもらん」

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植芝盛平のエーテル体

2014-03-24 05:23:25 | 気功、導引(冥想法2)
◎気配を感じる金光の線

エーテル体が、傘の骨状の形であって、経絡に沿って広がっていることは知られている。合気道開祖植芝盛平は、他人の気配を感じるのに体外にハリネズミ様に広がる金光線を用い、この金光線に触れると、植芝盛平の肉体に触れる前に、他人は一瞬にして吹っ飛んだという。エーテル体では、気で巡らしたバリアーを作れるということだろうか。

『新撰組の猛者よ、しっかりせい
ある時、こんなこともあった。大阪警察署長の森田儀一が、大阪の門弟や東京から来ている若い連中に、
「一ぺんお前たち、先生のスキを見て、一分間でもよいから、みんなで先生を押さえて見ろよ。もし一分間押さえてることが出来たら、何でも御馳走してやるぜ」
といってけしかけた。

若いものたちは早速ある夜ふけ、先生の休んでいる寝所に忍び寄って、それも気づかれたり、音をたてたりしないように廊下に座布団を敷きならべて、ソーッと近づいていったが、一間半〈三メートル)ほどに近づくと何か声がしたようでもあり、起きているようで、どうしても近づけない。何べんもやってみたが、どうしても押さえられなかった。

そのような事が一、二ヵ月もつづいたのであった。それでは先生は熟睡することがなく、いつも半ば起きてるのだろうか、それではノイローゼになるが・・・・と、わざわざ医師を呼んで先生の健康診断をしてもらったが、盛平は、「わしはどこも悪くないよ」といっていた。医者も、「先生の体は三十歳ぐらいの体です」といった。

「森田さん、どうしてわしの体を診断させたんや?」と先生から問いつめられた森田は、「実はこういうわけで門人たちをけしかけ、先生の寝込みを一分間でも押さえてみろと企らんだのですが、先生はいつも気づいているようで寝ていないらしいから、それではノイローゼになると心配になったものですから・・・・・」と説明すると、

「わしは、充分に熟睡してるがな」といって、「わしの体からは常に金光の線が出ていて、普通は九尺から一丈(三メートル〉ぐらい出ているんじゃが、長いときは十五尺〈五メートル)ぐらい出てるから、人がそこまで来るとすぐわかるんじゃ。前から来ても横から来ても、また後ろから来てもすぐわかるんじゃよ」
と話すのであった。これには森田もあっけにとられた。』
(合気道開祖植芝盛平/砂泊兼基/講談社p177-178から引用)

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澄みきる

2014-03-23 07:55:47 | 古神道の手振り
◎言霊の根源

澄みきる」とは、神言あるいは言霊奏上の響きの、冴え渡る様を表現したり、七十五声の言霊の窮極を指し示す言葉として出たり、月の光の底知れない深みを語る言葉として登場してくる。

例としては以下。

(七十五声の説明を一つ一つ述べた後に、)
広々と果しも知らぬ天界に
  澄みきりすみきる心楽しも
(霊界物語73巻 天祥地瑞子 言幸比女の神)

草も木も若返りたる心地かな
  空に澄みきる月の下びに
(霊界物語77巻 天祥地瑞辰 泉の森出発)

老いぬれど澄みきる月を眺むれば
  また若がへりたる心地こそすれ。
(霊界物語62巻 山河草木丑 神瑞)

◎(ス)の言霊に澄みきりし
(霊界物語74巻 天祥地瑞丑 森の遠望)


主の神は高鉾の神、神鉾の神に言依さし給ひて高天原を造らせ給ひ、南に廻りて中央に集る言霊を生み、北に廻りては外を統べる言霊を生み、次ぎ次ぎに東北より廻り給ひて声音の精を発揮し万有の極元となり、一切の生らざる処なき力を生み給ふ。この言霊は自由自在に至大天球の内外悉くを守り涵し給ひ、宇宙の水火と現れ柱となり、八方に伸び極まり滞りなし。八紘を統べ六合を開き本末を貫き無限に澄みきり澄み徹り、吹く水火吸ふ水火の活用によりて八極を統べ給ふ。
(霊界物語73巻 天祥地瑞子 天之高火男)神)

(大意:
 高鉾の神、神鉾の神に高天原を造らせた主の神は、南に廻って中央に集る言霊を生み、北に廻って外を統ベる言霊を生み、東北より廻って声音の精を発揮し、万有の極元となり、一切の生らざる処ない力を生んだ。
この言霊は、あらゆる次元あらゆる宇宙を貫いて、無限に澄みきり、澄み渡り、世界をコントロールする)

世界は月として展開する有の世界アートマン。アートマンは月としてシンボライズされ、月は現象全体である。月は水火という2元のアーキテクチャーであり、それは七十五声の言霊に展開するのだが、
七十五の言霊の根源が、スであり、スミキルということである。

よって世直し、世界のバイブレーションの調整場面では、澄みきるということが言われるのである。


※七十五声:

『ア オ ウ エ イ
 カ コ ク ケ キ
 サ ソ ス セ シ
 タ ト ツ テ チ
 ナ ノ ヌ ネ ニ
 ハ ホ フ ヘ ヒ
 マ モ ム メ ミ
 ヤ ヨ ユ エ イ
 ラ ロ ル レ リ
 ワ ヲ ウ ヱ ヰ
 ガ ゴ グ ゲ ギ
 ザ ゾ ズ ゼ ジ
 ダ ド ヅ デ ヂ
 バ ボ ブ ベ ビ
 パ ポ プ ペ ピ』


『アカサタナハマヤラワガザダバパ
 イキシチニヒミイリヰギジヂビピ
 ウクスツヌフムユルウグズヅブプ
 エケセテネヘメエレヱゲゼデベペ
 オコソトノホモヨロヲゴゾドボポ』

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女性のパッション

2014-03-22 05:48:19 | 冥想アヴァンギャルド
◎二十後家は立つても三十後家は立たぬ

20代の頃の一日、青山の軽食喫茶で昼食をとった。周囲には多くの若い男女も食事していたのだが、とりわけ年の頃25~30くらいの女性の数人グループの妖艶さは印象的で、その成熟したフェロモンにはとりわけ心惹かれるものがあった。自分も20代だったせいもあるが、その頃の私の頭の中の女性と言えば、20代以下であり、30歳以上の女性には女性としての魅力を認めていなかった。

正直に申せば、女性を美化しすぎていて、女性には能動的性欲などというものはないし、ややもすると女性はトイレにも行かないものだぐらいに思っていたのが実際のところだと思う。なぜ美麗な淑女美女がまもなくオバハンに変化するのか、その連続性をずっと不審に思い続けていたのだ。

それから30年以上たって、女性にもしっかり性欲があるものであり、それは彼女たちの年齢によってその現れ方が変化していくものだということがわかるようになった。
西洋絵画のモチーフで一角獣(ユニコーン)が処女にしかなつかないなどというのは、その消息の一コマである。

以下の出口王仁三郎の文章だって20代で読んでいたはずなのだが、その内容について信じようとしていなかったに違いない。

『女性のパッション

いまだ異性の香を知らず、汚されたことのない女を処女という。女の一生を通じて一番におもしろい時代で、理想と希望と空想に富み、なんとはなしに嬉しくて、おもしろくて、おかしい時代である。乳房がふくらんで、顔に艶がでて、全体の皮膚があぶらぎつてなめらかになり、熱烈にかわいがられ、痛烈に憧憬されるようになつてくる。そしてその周囲は誘惑の雲につつまれ、ひかるるままに誘われやすく、四辺の境遇もつとも危険な時期である。

娘の二八、二九のころは、山野の積雪消え、氷はとけ、草木の若芽は緑に萌えいで、春風春水一時にきたるの概がある。筋肉と皮膚は一種美妙な発達をなして、異性の触覚の念をそそりたてる。色と艶と曲線美をいちじるしく帯びてくる。またその異様なる瞳が、異性にたいしてある心を動かさんとする時には、一種別様の輝きと活動とをおこしてくる。

心の宮殿に飼われている愛の雛鳥は、この眼の窓から出入りをするのである。こうした時の女は、自己の貴重なるある局所に、異性のふれることを怖るるようになる。それが漸次に年齢をくわうるにしたがい、いかにして異性との接触抱擁を要求するにいたるか。一朝青春の血が体内にみなぎりそむるや、その若き胸に一つのパツシヨンを生ずる。これを満足せしめんがために、異性にたいして色情の表現をこころみるのである。

ここにいたつて、恋愛という問題が生まれてくるのである。この発情した時、異性からの慫慂に一種の恐怖心がおこるとともに、「怖いもの見たさ」の好奇心に駆られて、これに応ずるようになる。

女として性欲の能動的にもつともさかんなるは、二十七、八歳から三十七、八歳のいわゆる中年期である。いかに強く独身主義を主張するものも、よく一生を通じてその主張を貫くことができようか。中年期の離婚が、往々にして夫の生殖器不健全という点から出発するというが、統計上そうとうの数を占むるというがごとき、俗にいう、二十後家は立つても三十後家は立たぬという諺は、よくその間の消息を物語つている。
(出口王仁三郎著作集第三巻 P34-35 無題、『東北日記』 四の巻 昭和3年9月9日/ 読売新聞社/ 出口王仁三郎から引用)』

※二十後家は立つても三十後家は立たぬ:二十歳代で離別(死別)して寡婦になった女性は、夫婦生活の歓びも浅く、独り身を通すこともできるが、長く夫婦生活を味わって別れた寡婦は、再婚することが多い。

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如浄、道元の只管打坐コンプレックス

2014-03-21 07:16:51 | 只管打坐
◎日常の動作・挙措に及ぶ

天童如浄、道元と言えば、寝食の時間を惜しんでひたすら只管打坐したというのが、第一印象で、その他の冥想修行をしていないようなイメージがある。ところが実際は、天童如浄も師松源嵩岳の下でこそ只管打坐専一にやったようだが、それ以前の叢林遍歴では臨済宗楊岐派の公案参禅主体の修行の方を相当に積んでいる。

道元についても、つらつら日暮さんの記事「只管打坐論」(2005-08-13)によれば、焼香する、師匠を礼拝する、懺悔もする、念仏もする、看経もする、勿論公案もやっている。一般に如浄、道元と言えば、オンリー只管打坐の代名詞だが、実はその修行法は、それ以外の行との複合体なのである。

如浄、道元もメディテーション・コンプレックスだったわけだ。

坐法には身体をがっちり固定する只管打坐みたいなのもあれば、クンダリーニ・ヨーガみたいに楽にするのもある。深まってくれば、心が坐相に反映するということも出て来る。

いずれにしても肉体は何もしなければ、老廃ガスが体内にたまり、肉体の不調の原因にもなるし、魔境や妙な心境の原因にもなる。よって肉体のガス抜きとして柔軟体操(ハタ・ヨーガなど)や呼吸法は必須なものである。そして内分泌腺の活発化のために適度な作業(作務、労働)も欠かせない。

スタート地点の肉体を整備し、呼吸法や体操などで、エーテル体を整備し、冥想を始める。

また人は頭で納得しないと坐り始めない。理解できないと冥想を始めないものだ。しかし、それをやれば金がもうかるとか、健康になるとかいう具体的目的があって、冥想を行えば決して山頂にはたどりつかない。これは冥想修行のモチベーションのジレンマ。

冥想は、ただ漠然とあるポスチャーで坐れば良いというものではなく、冥想以外の日常のそれぞれの動作・挙措の中に複雑で精妙な守るべき多くのルールがある。覚者を身近に見れば、彼らは意外にもそうした細かいルールに沿って生きていることに気が付くことがあるのではないか。
また悟りは簡単ではない。

それでも今日迷いのままに坐らねば、何も始まらないのだ。

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さとり世代

2014-03-20 03:45:21 | 時代のおわり
◎ネオ・クリスタル・ピープル

昨今『さとり世代』などと呼ばれて、悟りの知的理解すら怪しいままに、中有的人生観をぼんやり過ごしている若者が増えた。「さとり世代」は確かに「さとった風世代」だが、それでも中高年に比して若干の進歩はあるように思う。

以下はさとり世代の特徴の一例。
『さとり世代は、モノより思い出
さとり世代は、コスパが何より大切
さとり世代は、「デフレ商品」の申し子
さとり世代は、「面倒臭い」が最上位概念
さとり世代は、就活のためにボランティアをする
さとり世代は、「イタイやつ」と思われたくない』
(『さとり世代 盗んだバイクで走り出さない若者たち/原田曜平』(角川oneテーマ21))の裏表紙から引用)

この中で、“モノより思い出“はイケてる。自分は求めているのは、外形でなくそこに潜む価値の方を求めていることをちゃんと自覚していること。中高年ではなかなかこうはいかない。

さとり世代を見て、内心「この人たちは1999年7月にカタストロフィが発生していれば、今頃若者として、クリスタル・ピープルとして、始まったばかりの千年王国、至福千年を謳歌していたかもしれないジェネレーションだよな。どうしてこうなってしまったんだろうか。」などと思うこともある。

さて文明の発展バロメーターは覚者の数で測る。この文明も覚者の数はさっぱりで、今のところできそこない文明である。この文明はアトランティス滅亡時を凌ぐ過去最大の大輪の華を咲かせる順番の文明とも言われるが、その帰趨は我々一人一人にかかっている。果たしてどうなることか。

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米にプルトニウム返還

2014-03-19 05:34:08 | 時代のおわり
◎野蛮な時代への一歩

2014年2月26日の日経記事で『米にプルトニウム返還』という記事があった。内容は、 政府は冷戦時代に米国から研究用として提供を受けていたプルトニウムを返還する方向で調整に入ったというもので、対象は日本が保有するプルトニウム約44トンのうちの約300キログラム。これは、日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所(茨城県東海村)にある高速炉臨界実験装置(FCA)で使う総重量331キログラムのプルトニウム。高濃度で核兵器にも転用可能な核物質だそうだ。

要するに日本は、安倍政権の右寄りの行動が過ぎて、即時に核兵器転用可能なプルトニウムを預けるほどの信用を失ったから返却してくれと言われたに等しい。

この記事が出た後、安倍政権は、集団的自衛権の解釈変更の閣議決定を延期する意向が出たり、韓国に対して河野談話の見直しをしないことを表明するなど、右寄りの姿勢を微修正し始めたので、安倍政権には相当なインパクトだったのだろう。

太平洋戦争以前は、英米と日本は良好な関係を保ってきたが、日本が軍事力をつけるにつれて、次第に疎遠になり、最後は干戈を交えるまでになった。かつては戦争をやるには、財政も、情報も、産業政策も、その前の何十年かそのために準備が必要だったのだが、最近はミサイル技術の発達で、それほどの資本を投じなくても、核さえあれば、敵国に脅威を与えることができるので、準備に何十年もかかることはない。この一件は、日米軍事同盟の根幹部分が揺らぎ始めた兆候としてこれを見たい。

数ある出口王仁三郎予言の中で、メイン・シナリオに当たる予言は瑞能神歌大本神諭にも諸外国が一丸となって日本に攻めてくることが予言されているが、そうなるきっかけは、太平洋戦争に至るまでの日本に軍備強化の軌跡であり、それとシンクロしていたのが、大本教団傘下の昭和神聖会の軍事教練などの動きであった。

2014年3月18日、クリミアのロシアによる編入が発表され、公然と大国が小国を力で圧殺していく、野蛮な時代が再びやってきた。

日本攻防戦とは別にして、第三次世界大戦では、人類が絶滅するかどうかがキーポイントになる。その時人は、何をよすがに思うのだろうか。

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神武不殺

2014-03-18 03:22:25 | 古神道の手振り
◎敗戦で変わった合気道

合気道開祖植芝盛平は、戦前は人を殺す合気道を教えていたが、戦後は神様に叱られて、人を殺さない合気道に変わった。

直弟子奥村繁信が、植芝盛平のことを語る。

『大先生には大本(大本教)の教えもあって、“神武不殺”ということがあるわけです。ただそれは当時は言えない。大学では“殺すための”技を教えなければならないし、憲兵隊でもやはり相手を倒す合気道を教えなければならないわけです。

ですから戦後私が復員して、岩間で畑仕事をしている大先生とお会いした時「神様に叱られちゃったよ。“一からやり直せ。殺人武道は駄目だ”と」
そう仰っていました。』
(開祖の横顔/月刊秘伝編集部/BABジャパンP182から引用)

それはともかく、合気道の根本原理が“神武不殺”であることがわかる。“神武不殺”の出典は、易経中の白眉である繋辞上伝。

【通釈】
『そもそも易とは何をするものか。天下の隠されたものを開き示し、道を明らかにするものである。
よって聖人は易によって、天意に通じ、天業を定め、天下の疑問を判断する。

これがために筮竹の徳は円であって、神妙であり。八卦の徳は方形であって知である。六爻の意義は変化を伝える。
聖人はこのような占筮によって、心を洗い、世界の仕組みを胸中に包蔵するので、吉であっても凶であっても民と憂いを同じくす。

天の直観は将来を知り、天の知は過去を知る。聖人以外に誰がこの恩恵に浴すことができようか。

それは、超古代の、聡明で、叡知を具え、生き物を殺すことのない神のような武勇を持つ人物なのではないか。』

聖人は、天意を生き、アカシック・レコードを知り、超能力者でもあり、その武勇は、決して人を殺めることはない。


【訓読】
『子曰く、夫れ易は、何爲(なんす)る者ぞ。夫れ易は、物を開き務めを成し、天下の道を冒(おお)ふ。斯(かく)の如きのみなる者(もの)也。

是(こ)の故に、聖人、以て天下の志に通じ、以て天下の業を定め、以て天下の疑を斷ず。

是(こ)の故に、蓍(し)の徳は圓(えん)にして神(しん)なり。卦の徳は方(ほう)にして以て知なり。六爻(りくこう)の義は易(か)はりて以て貢(つ)ぐ。
聖人、此れを以て心を洗ひ、密に退藏し、吉凶、民と患(うれい)を同じくす。

神は以て來(らい)を知り、知は以て往を藏(かく)す。其れ孰(たれ)か能く此れに與(あずか)らんや。古(いにしえ)の聰明(そうめい)叡知、神武(しんぶ)にして殺さざる者か。』


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テオティワカンの雲母フロア

2014-03-17 03:29:27 | ザ・ジャンプ・アウト
◎冥想センター

メキシコシティの北東50キロにテオティワカンの遺跡群がある。太陽の神殿や月の神殿は有名だが、いまだに未発掘の箇所の多い謎の残るところである。

アステカの人々は、テオティワカンは紀元前3113年にケツァラコテルにより建設され、連続する地震により2012年12月24日文明が滅亡することを予言している。

そのうちの太陽の神殿(ピラミッド)の上部の二段の間には雲母の層があった。ここではドレミファソラシドとは異なる7音階の笛も発見された。

また太陽の神殿にほど近いところには雲母神殿と呼ばれる建物があり、この床下には30メートル四方の巨大な雲母の層がある。

テオティワカンとは、「人間が神になった都市」という意味である。

雲母は絶縁体として知られるが、この場所は雲母のフロアで人間のエーテル体に与える電気的影響を最小限に抑えて、さる冥想技法により「人間が神になる」ためのアヴァンギャルドなセンターであった可能性がある。

これに比べて現代人の日常生活はおびただしい電気エネルギーにより干渉されている生活であり、雲母フロアに比べれば、およそ冥想の効果を出しにくい環境に生きていると言える。

チャクラと七つの身体-131
◎エーテル体-68
4.エーテル体から窮極へ-2
【ザ・ジャンプ・アウト185】

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