アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

PTSD-児童虐待

2013-11-30 03:07:50 | ザ・ジャンプ・アウト
◎両親早世に似る

PTSDの中で、もっとも戦慄すべきものは、児童虐待である。家庭内暴力では、暴力の対象はしばしば子供に及ぶが、その特徴は次のようなところにある。

1.子供は、強固な自我や輪郭のはっきりした人格ができていないので、そこで家庭内暴力・虐待などのトラウマ(心的外傷)をこうむると、このトラウマが人格を形成する。

2.具体的には、自分を虐待して、信頼できない親の下にあって、その親を信頼し愛着するというジレンマの中に生きる。

気まぐれな親から、虐待される徴候があると、いつでもすぐ逃げて隠れられるように、子供は、絶え間ない過覚醒の状態にある。逃げられなかった場合は、虐待されるままになるが、虐待をエスカレートさせないように、心の中の動揺や興奮を表情に出さないようにする。しかし子供は意味と希望を求めて親に愛着せずにはいられない。

3.そのジレンマを自分一人の力で解消する唯一の手段は、自分の心の中で、世界の認識を、非現実的なレベルまで変貌させるか、または自分の肉体の認識や記憶そのものを変えてしまうという、変性意識状態になることが少なくない。

つまり、親の虐待は実はなかったのだと思い込んだり、トランス(忘我)に入ったり、解離(意識が現実から飛ぶ)に入ったりする。虐待される自分は実は自分ではないと思い込み、本来の自分から切り離すところから多重人格が発生したりもする。

恐怖を克服する冥想修行も、簡単なものではないが、児童虐待は、被害者の意図せざるところに発生する悲劇がある。

ところが、人が転生してくる時に子宮をのぞき込んで子宮を選ぶというが、それはとりもなおさず、親を選ぶということであり、その選択すらもその人の全人的カルマそのものであることからすれば、児童虐待されることを承知の上で(意図的に)自らその環境を選びとってきたというところもあるような気がしてならない。

親が早くに亡くなるというのは、残された子供にとっては、トラウマという点では、児童虐待に似ているところかあるのではないだろうか。頼るべき親がないことによる不断の過覚醒、孤立無援感など心理面での道具立ては近い。釈迦の母も生後まもなく亡くなり、道元の両親も早世、このあたりに彼ら冥想家達のディープな境地の出てくる好環境があることを感じざるを得ない。

◎チャクラと七つの身体-43
◎肉体-26 ローレベル・トランス-6
○PTSD-児童虐待
【ザ・ジャンプ・アウト 099】

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8000メートル級の死の地帯

2013-11-29 03:02:15 | ザ・ジャンプ・アウト
◎意識をはっきり持つ

酸素マスクなしで、標高8000メートル級の死の地帯にいる場合には、ある特殊な心理状態となる。

ドイツの登山家トーニ・キンスホーファーが、ナンガ・パルバートを下っている時、片方のアイゼンがはずれてもそれに気づかずタバコ畑の中を歩いていると思い込んで、びっこをひきながら歩き続けたほど、朦朧状態にあった。

エヴェレストでフランク・スマイスは、単独行であったが、見えない同行者のいることを感じ、信頼と力を得ていた。また幻覚であることは知っていたが、空に龍のような動物を見た。

メスナーもナンガ・パルバート単独行の時、それが少女と感じられる、見えない同行者と一緒だった。その他にも見えない子供や男女がかわるがわるいて、かれらとメスナーは語り合った。

メスナーによると、8000メートル級の死の地帯に、酸素マスクなしで長くいると、反応が緩慢になり、思考力が鈍くなる。また一つのことしか考えられないような具合になる。
ところが感情の方は、こうした中でも絶望と歓喜というかたちで残る。つまりこの高所で予定外の野宿をさせられることになったという絶望や、頂上征服時の歓喜である。
(以上出典:死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社)

これは登山の話だが、冥想での呼吸が落ちていってトランスに入っていった時の状態に似ているところがある。
そしてしばしばこうした状態と狂気・発狂とが隣り合わせであることもメスナーは知っている。

滑落、雪崩、凍死など肉体死のチャンスはいくらでもある環境で、想念が不活発になるところで、感情だけが生き生きと駆けめぐるというのは、自分の意識ですらコントロールできないという点で非常に恐怖を覚える状況である。冥想でもこういうステージはあるのだと思う。

こうした中で正気を保っていられるのは、それまでのいろいろな、例えば善を行う悪をしないという平素の努力の他に、ある種の運・巡り合わせみたいなものが必要なのではないかと思う。

チャクラと七つの身体-42
◎肉体-25 ローレベル・トランス-5
○8000メートル級の死の地帯
【ザ・ジャンプ・アウト 098】

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スウェデンボルグの四つの見え方

2013-11-28 03:37:50 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ビジョンと体外離脱

霊能力者スェデンボルグが自らの四つの視覚について言及している。これは、ローレベルトランスに分類したが、集合的無意識あるいは霊界の天国部分に至っているパートについては、ハイレベル・トランスと分類できるので、ハイレベル、ローレベル混在していると考えられる。

第一の視覚とは、彼が眠りの視覚と呼ぶもので、トランスに入った状態で、見るビジョン。それは日中の視覚と同様に生き生きしている。

第二の視覚とは、目を閉じて見るビジョン。想像上の光景がありありと浮かぶこと。それは目を開いている時と同様に生き生きしていて、しかももっと美しく快適。

第三の視覚とは、彼が霊的視覚現象と呼ぶもので、目を開いた状態で見えるもので、霊とか天国とかが表象的に示されるもので、表象のビジョンというべきもので、どこか漠然としたものでもあり、人間の通常の想像とは異なる

第四の視覚とは、人間が肉体と切り離されて霊になること。この状態では覚醒していて、視覚、聴覚、触覚がある。
これはメンタル体なのかアストラル体なのかという問題があるが、霊界のことしか語らないのなら、アストラル体なのだろう。
(以上参照:巨人スェデンボルグ伝/サイン・トクスヴィグ/徳間書店P317-319)

透視能力者マクモニーグルの見え方は、第一の視覚にあたるだろうか。


スウェデンボルグは第四の視覚つまり体外離脱で大いなる喜びをもってそれを体験したのはわずか3、4回だったとしている。それ以外の大半の体外離脱は、決して愉快なものではなかっただろう。

スェデンボルグの体外離脱ですら、「体外離脱に何かいいことがある」と期待させるものではなかった。体外離脱には3種あるが、中心太陽にいたる本物の体外離脱はそう簡単なものではないようだ。

◎チャクラと七つの身体-41
◎肉体-24 ローレベル・トランス-4
◎スウェデンボルグの四つの見え方
【ザ・ジャンプ・アウト 097】

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スマホを見ながら前を注意しないで歩く人達

2013-11-27 03:30:57 | ザ・ジャンプ・アウト
◎意図的な意識狭窄

人間が意識レベルを低下させる手法は明治時代でも多数あって、催眠性トランスみたいなものを引き起こす手段はいくらでもあった。出口王仁三郎のいう帰神は、深いトランスに持っていったところで、幽の幽=天御中主神を憑依させようというものであるが、類似した催眠術や降神術、降霊術などでは決してうまくいかないことを述べている。

まず容れものである対象の人物の適性、審神者のレベル、踏んで執り行うところのプロセス、手順(神界御制定の御規律)こうしたものが妥当であって、更に神界の御許しがないとダメと言っているので、簡単に考えてはならない。

いわんやいろいろな要因で、自己流の催眠性トランス(無意識に落ち込んで、目の前のものが見えていなかったり、ある人物の声にしか反応しなかったり、トランスで起こったことを記憶していなかったり)にはまっているようなケースでは、喜ばしからぬリアクションがあるのだろうと思う。幼児期から成長期でのテレビ・ゲームのやり過ぎでボディの臍付近に穴が開いている人が多いとも聞くが、そうしたことも誘因になっているかもしれない。

結局、無意識に引き入れるためのメソッドそのものには色がついていないこと、人間の悪意というものを今の文明では社会通念としてあまり問題だとは考えていないこと、テレビ・マスコミなど様々なレベルでの洗脳手法の氾濫など、そうしたいろいろなことが相まって、偶発的な自己催眠性トランスを多発させているのではないか。

最近多くなったスマホを見つめつつ人ごみを前に注意しないで歩く人達というのは、既にそうした催眠性トランス予備軍であるように思う。

◎チャクラと七つの身体-40
◎肉体-23 ローレベル・トランス-3
○スマホを見ながら前を注意しないで歩く人達
【ザ・ジャンプ・アウト 096】

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催眠性トランスのレベル

2013-11-26 03:19:35 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ウォルベルグによる催眠段階

催眠の結果が必ずしもローレベル・トランスとは言えないが、馬を水辺に連れて行くことができても、最後に水を飲むのは馬自身である。
催眠をした人みんなが、深い催眠に入れるわけではないが、冥想にも深浅高低があるように、催眠のレベルを見ておきたい。ここでは、ウォルベルグによる催眠段階で説明する。

(1)覚醒状態
目がうづく、涙ぐむ、瞬きが増えるなど。

(2)前催眠状態
なんとなく手が重たいような、動かすのが面倒なような感じがします。ほとんどの人がこのレベルに到達すると言われる。

(3)軽い催眠状態
目が閉じる、身体の弛緩、瞼のカタレプシー、手足のカタレプシー、意志運動の停止、自動運動など、禁止暗示が有効となる段階。75%程度の人がこのレベルに到達するという説もある。

(4)中等度の催眠状態
虫が腕を這っているといった皮膚感覚の障害、部分的な無痛、暗示による自動運動、後催眠性の部分的な無感覚、人格の変換(暗示により、一時的に他人になりきる)。半数程度の人がこのレベルに到達するという説もある。

(5)深催眠状態
簡単な後催眠暗示(催眠から醒めた後でも暗示したことができる)に反応する。広い範囲での無感覚、情動の変化、幻覚、退行。
このレベルに到達するのは、25%程度という説もある。
広い範囲での無感覚ということなので、すでに意識の中心は肉体レベルにはないと考えられる。

催眠では、最も浅いレベルで、運動支配ができ、次に深いレベルで,知覚支配ができ、最も深いレベルで、記憶支配ができるとされる。この深催眠状態以下において、記憶支配が可能であり、自分の意識が過去に戻ったり(年齢退行)、次の夢遊様の催眠状態

(6)夢遊様の催眠状態
後催眠暗示で完全な健忘を作り出す、催眠状態を壊さずに目を開くことができる、後催眠暗示による幻覚。このレベルでは目を開いた状態でも幻覚が生じる。
このレベルに到達するのは、5%程度という説もある。

目を開いた状態でも幻覚が生じるということなので、意識の中心は、エーテル体以上にあると考えられる。どのレベルにあるかは、その幻覚のレベルを点検しないと判別できない。

以上が催眠段階の概観であるが、
テレビという視点からすると、テレビの長時間視聴をした場合などで、前催眠状態が発生することがあるかもしれないが、その状態にしても、半数以上がそうなるといえるほどのものではないと考えられる。したがって、テレビについては、次から次へと暗示(メッセージ、コマーシャル)を繰り出すことにより、前催眠状態のような状態になることはあるが、中等度以下の催眠状態になることはまずないと思われる。よってテレビ洗脳ということについては、ぼうっとした催眠状態になるかどうかはポイントではないと思う。次にニュース、メッセージ、コマーシャルという暗示の効果そのものの検討が必要と考えられる。

また冥想レベルという見地からすれば、被催眠者のレベルが、催眠者の暗示によって誘導されることから、催眠者の境地以上に被催眠者が深いレベルに至ることはあまり考えにくい。要するに潜在意識の入り口に催眠者を立たせることまでは、催眠でできるのではないかと思われる。なんとなれば、催眠の本質は自己暗示であるので、催眠というのは、催眠者の助けを借りた自己暗示による意識レベルの深化という側面もあると考えられるからである。

ちなみに、古神道の鎮魂帰神(神がかり)では、神主(霊媒)が至るレベルは、審神者の境涯の深さに負うところが多いことから、催眠では、催眠者の境涯以上に到達することは少ないのではないか。要するに催眠によって、個人という人間を超え、物質の束縛を超えたレベルに被催眠者が到達する可能性はないとは思わないが、催眠者の実力が問題となると考えるもの。

(参考資料:雑学催眠/武藤安隆/ナツメ社)

◎チャクラと七つの身体-40
◎肉体-22 ローレベル・トランス-2
○催眠性トランスのレベル
【ザ・ジャンプ・アウト 095】

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霊界物語で火の雨について詳述している部分

2013-11-25 05:18:26 | 時代のおわり
○霊主体従-辰巻 魂脱問答

出口王仁三郎は、霊界物語も含め、「火の雨」について、多くの箇所で散発的に言及している。その中でも最も集中的に「火の雨」について記述のあるのは以下の部分である。

『磐戸別の神は常世の国の西岸なる紅の港に漸く着いた。ここには四五の船人が舟を繋いで、色々の雑談に耽つてゐた。

甲『オイ、このごろの天気はちつと変ぢやないかい、毎日毎夜引き続けに大雨が降つて、河は氾濫し、家は流れ、おまけに何とも知れぬ、ドンドンと地響きが間断なくしてをる。初めの間は、吾々は浪の音だと思つてゐたが、どうやら浪でもないらしい。地震の報らせかと思つて心配してゐたら、今日で三十日も降り続いて、いつかう地震らしいものもない。この間も宣伝使とやらがやつて来よつて、地震雷火の雨が降つて、終末には泥海になると云つて居つたが、あるひはソンナ事になるかも知れないよ』
と心配さうに首を傾けた。

乙『何、火の雨が降る、ソンナ馬鹿なことがあるかい。雨ちう奴は皆水が天へ昇つて、それが天で冷えて、また元の水になつて天降つて来るのだ、水の雨は昔からちよいちよい降るが、火の雨の降つた例はないぢやないか』

『それでもこの前に、エトナの火山が爆発した時は、火の雨が降つたぢやないか』

『馬鹿云へ、あれは火の岩が降つたのだい。万寿山とやらの宣伝使が、天から降つたやうに偉さうに宣伝して居つたが、これもやつぱり天から降つた岩戸開けとか、岩戸閉めとか云ふぢやないか』

『火の雨が降らぬとも限らぬよ。この間も闇がり紛れに柱に行当つた途端に、火の雨が降つたよ、確に見たもの、降らぬとは言へぬ』

『そりや貴様、柱にぶつつかつて、眼玉から火を出しやがつたのだ。降つたのぢやない、打つたのだらう。地震雷と云ふ事あ、吾々神人は神様の裔だから、吾々自身そのものが神だ。それで自身神也といふのだ、さうして自身神也といふ貴様が、眼から火の雨を降らしたのだ。まあ世の中に、不思議と化物と誠のものはないといつてもゑい位だ』

丙『ソンナ話はどうでもよいが、この間海の向ふに大変な戦争があつたぢやないか』

丁『ウン、ソンナことを聞いたね。その時の音だらうよ、毎日々々ドンドン云ふのは』

『戦ひが終んでから、まだドンドン音が聞えるが、そりや何かの原因があるのだらう。竜宮島とやらには、天の真澄の珠とか潮満潮干の珠とかいふ宝が昔から隠してあるとかで、ウラル山のウラル彦の手下の奴らがその珠を奪らうとして、沢山の舟を拵へよつて、闇がり紛れに攻め付けよつたさうだ。さうすると沓島の大海原彦神とやらが、海原とか向腹とかを立ててその真澄の珠で敵を悩まさうとした。

しかしその珠は何にもならず、たうとう敵に取られてしまつたさうだよ。そして冠島一名竜宮島には潮満潮干の珠が隠してあつたさうだ。それもまたウラル彦の手下の奴らが攻めかけて奪らうとした。ここの守護神さまは、敵の襲来を悩ます積りで、また潮満とか潮干とかいふ珠を出して防がうとした。これもまた薩張役に立たず、とうたう冠島も沓島も、敵に奪られてしまつたと云ふぢやないか。珠々というても、なにもならぬものだね』

(中略)

『朝日は照るとも曇るとも 千尋の海は干くとも
 世界は泥に浸るとも 誠の力は世を救ふ』』

私が見るところ、ポイントは次のようなところと思う。
1.地震雷火の雨が降つて、終末には泥海になる。
2.戦ひが終んでから、まだドンドン音が聞える。
3.潮満潮干の珠も効果なく、冠島も沓島も敵に奪われる。

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意図せざる意識レベルの低下=魔境

2013-11-25 03:14:11 | ザ・ジャンプ・アウト
◎ローレベル・トランスの例

ローレベル・トランスの例として、魔境、催眠術、スマホでの自己催眠、スェデンボルグのビジョンと体外離脱、8000メートル級登山、PTSDを挙げる。

集合的無意識や個人的無意識は、意識の働きが弱まった時に、強力に、頻繁に出現する。戦場においては、自分の死が目前に迫ることにより、意識のレベルが落ちるという印象がある。それも一種のスピリチュアル・エマージェンシーである。

リラックスを進めて、呼吸を落としていくと、意識レベルの低下、あるいはトランスが起きてくる。しかし冥想の練習のないものがやっても大方は、個人的無意識と集合的無意識から湧き上がってくる夾雑物(ゴミ)みたいなものに圧倒されるだけである。

個人的無意識は、自分の肉体や精神から来る想いのことで、空腹だ、水を飲みたい、ある音楽を聞きたいなどの感覚的なものから精神的なもののことである。

一方集合的無意識(超個人的無意識)は、広くは、哺乳類としての無意識、人類としての無意識、東洋的無意識、日本人としての無意識、東北人とか○○県民としての無意識みたいなものから、小は、ある企業人としての無意識、あるスーパー・コンビニの利用者としての無意識、ある家系での○○家の無意識、宗教の○○教信者としての無意識、通勤通学で利用する○○駅利用者の無意識、○○缶コーヒーを飲む者の無意識などなど、およそ人間集団としてくくれるものであれば、なんでも集合的無意識が発生しえる。

集合的無意識と言えば、心理学者C.G.ユングの著作によく出て来る人間精神の根幹をなす曼荼羅表現みたいなイメージで考えがちだが、個人の集合的無意識の大半は上述のように見近なものである。

そいうことを前提として、クンダリーニ・ヨーギ本山博氏は、集合的無意識や個人的無意識は、意識の働きが弱まった時に、強力に、頻繁に出現するとする。

どういうときに弱まるかというと、

1.神経症的素質
感受性が強く神経過敏、感動興奮しやすく、固定観念にとらわれ偏狂になりやすい。情感が強いのは無意識層の特徴で、悟性・理性の働きが弱いことで、こうなる。

2.睡眠
意識停止すると睡眠し、夢も見る。

3.宗教的修行
精神集中等の方法で、意図的に意識を減弱停止させること。

4.集団
群衆心理においてその個人の行動は、理性の抑えの効かない集合的無意識的な行動になりがちである。
(この4つの出所:超感覚的なものとその世界/本山博/宗教心理出版P140-P143)


よく新興宗教教団がスタジアムなんかを借り切ってイベントをやるのだが、その教団に対する熱狂・興奮と崇拝の気分が盛り上がって参加者の無意識裡に焼き付けられるのは、この辺をよく心得てのことである。

また冥想修行、宗教修行は、意識レベル低下の最初の方で湧き上がってくるゴミを相手にしてはならないと一貫して指導するものだ。
こうしたゴミを禅では魔境と呼び、天台の摩訶止観では魔と呼ぶ。

ただこうした冥想的素養・知識のない者が、ひきこもりやテレビゲームやモバゲーのやりすぎなどで意図せざる意識レベルの低下に陥ることを繰り返す場合は、精神病、狂人予備軍と化してしまうというのが、現代特有の問題点といえよう。

こうした人は、意識レベルを低下させたまま、個人的無意識や集合的無意識から吹き上がってくる様々なイメージ・想いを意識でコントロールできないままの、内的騒乱状態になりやすいのだと思う。

こうした傾向が自殺者の数を押し上げているところもあるのではないか。逆に無意識が容易に露出する人が多いということは、坐ってすぐ悟れる人も少なくないということか。

冥想は、人間意識の調整機能を有するが、無意識へ意識が沈潜するのを防いで、はっきりする(清明)というのは、その効果の中の重要な部分一つと考えられる。

◎チャクラと七つの身体-38
◎肉体-21 ローレベル・トランス-1
○意図せざる意識レベルの低下=魔境
【ザ・ジャンプ・アウト 094】

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ハイレベル・トランスとローレベル・トランス

2013-11-24 05:08:58 | ザ・ジャンプ・アウト
◎チャクラと七つの身体-37
◎肉体-20 ハイレベル・トランスとローレベル・トランス
○催眠状態と宗教経験の違い

トランスの中で、集合的無意識の上の方に行くものを大まかにハイレベル・トランスとし、個人的無意識または集合的無意識の下の方にとどまるものをローレベル・トランスと便宜的に区分してみる。催眠状態と宗教経験の違いとは、このハイレベル・トランスとローレベル・トランスの違いのことである。



現代では普通に生きているだけでも、あらゆる洗脳情報に曝されている。我々はテレビ、ネット、スーパーや量販店の店内放送などの洗脳情報に晒されない日はないからだ。

こうした洗脳は、人をいちいちトランスという意識の低下状態に持っていくことなく人を洗脳している。

これに対して、催眠状態と宗教経験(見神など)はトランスと呼ばれる意識の低下状態を前提にしたものである。

本山博によると(催眠現象と宗教経験/本山博/宗教心理学研究所)、催眠状態と真正の宗教経験の違いは、催眠状態は個人的無意識に留まるだけなのに対し、真正の宗教経験では、個人を超えた普遍的無意識(大いなるもの)に達するということである。

また催眠状態は、外からの暗示(洗脳情報)に対して無批判で受動的、意志が低下し、複雑な思考が除外される。この結果、個人的無意識が表面に表れ、想像力情動が盛んとなる。

これが本山博の分析だが、この想像力、情動の盛んな状態が、統合失調症の中核症状とされる妄想、幻覚が醸成される土壌ともなるのだろう。

本山博は、この個人的無意識が表面に表れた状態は、覚醒時の意識ではなく、覚醒時の意識の低下によってそれの規制を受けることなく意識化した無意識の意識というべきものであると評し、この個人的無意識による意識支配が催眠状態の本質であるとする。

宗教修行、冥想修行では、こうした個人的無意識からでてくるものは、妄想だとか邪境だとかして、相手にしないように訓練されるものだが、そういうテクニックを知らない一般の人が一日中ほとんど口をきかない環境に置かれると、(ひきこもりなど)意識が低下し、個人的無意識から湧き上がってくる自分勝手な妄想に沈潜しがちになりがちなのだろう。

昔、タクシーの運転手の方が、映画タクシードライバーの話になったら、あの映画のドライバーの気分はそのとおりなのだと教えてくれた。タクシードライバーでも意識の低下は起きがちなのだろう。

現代の混乱、地獄的な様相というのは、こうした整理されないままでの個人的無意識の表出が原因という側面もあるように思う。冥想しないことの弊害ともいえる。

なお真正の宗教経験では、外部暗示への無批判性や意志の低下は生じないが、意識の清明は必要だ。

【ザ・ジャンプ・アウト 093】



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意識レベルの低下

2013-11-23 05:50:46 | ザ・ジャンプ・アウト
◎意識レベルの低下

以上のように世界の裂け目のバリエーションを見てみてきたが、世界の裂け目は、位置づけとしては、入り口に過ぎない。すなわち、世界の裂け目は、多かれ少なかれ、肉体の相対性、肉体死を鮮烈に意識づけするにすぎないものだ。その延長線上に自我の死がある。いうまでもなく、裂け目の出方としては、人によっては、いわゆる第二のモチベーション水準にまで到達してしまうこともある。

換言すれば、死者が必ずしも大悟するわけではないように、世界の裂け目に出会ったからと言って、それを経験した大多数が、永遠、全知全能、ニルヴァーナ、黄金の華、道(タオ)などと美称される窮極に届くわけではない。

さて前記の世界の裂け目に導くいろいろなバリエーションは、いずれも意識レベルの低下を伴うと言って差し支えないだろう。意識レベルの低下とは、意識が無意識に落ちていくということ。これをトランスと呼ぶ。
トランスは入り口から入った中に居ることである。

ただし誤解されやすいが、トランスは最終的に目指すところではない。トランスで入っていくところの、個人的無意識も、集合的無意識も、人類的無意識も、生物的無意識も、せんじ詰めればどれも自我の領域だからである。トランスでは自分を捨てていない。あくまで人間の一部なのである。

そして、意識レベルが低下してトランスに入るといっても勿論一本道ではない。最後は冥想の深浅高低の議論に収斂し、どこで自我を捨てるか、自我の死が起こるかという議論が眼目となる。

つまりトランスにもいくつかの階層がある。それは、肉体意識、エーテル体意識、アストラル体意識、メンタル体意識などである。人は夢においても、覚醒した意識ではないものの、各階層を移動するが、これもトランスのようなものと言えるだろう。

肉体意識は、顕在意識または個人的無意識(体調の悪さを夢として見るなど)。
エーテル体意識は、個人的無意識。
アストラル体意識は、集合的無意識。
メンタル体意識も、集合的無意識。
コーザル体意識も、集合的無意識。
第六身体=アートマンまで至って自我の死となる。
<秘教の心理学/OSHOバグワン/瞑想社P124-146による>

また守護霊、守護神もトランスの一つの階層の表現と見ることができる。

一般にトランスと言えば、文化人類学のシャーマニズム研究だったり、テクノポップ&ダンス、催眠、自己催眠、憑依、PTSDだったりするが、人類の伝統は、トランスに遥かな無限の広がりを見据えている。

◎チャクラと七つの身体-36
◎肉体-19 トランスの位置づけ
【ザ・ジャンプ・アウト 092】

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裏山の狸

2013-11-22 03:42:25 | ザ・ジャンプ・アウト
◎狸と若い女

昔さる霊能力者と話をしていた時に、『この前、裏山を歩いていたら、狸が若い女に化けて、赤い着物を着て歩いていた』という話になった。

狸のファッションに興味はないので、どうして狸が若い女に見えるのかという質問をしたところ『旅人が狸に化かされるという話がよくあるが、狸を若い女と見るほどに、そんな時は意識レベルが下がっているためだ』と聞いたことを覚えている。

若い女の人が着物を着て歩いたり、狐の男が登って行ったり、山の中はにぎやかなことである。

大唐大慈恩寺三蔵法師伝に、ハミから敦煌の八百余里の間は、莫賀延蹟と呼ばれ、空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、水草もないとされるところであるが、三蔵法師はそこで奇怪な悪鬼が自分をめぐって前後するのに会ったとあるが、渺々たる所では意識レベルが落ちやすいということであろう。

日本の昔話に出てくる話で、寂しい野原を歩いていたら、狸に、ここは風呂だと言われて入ってみたら、川だったというのがある。これは、を一つの人格と見て、狸と意思疎通ができるレベルまで意識レベルが落ちた、深化したということである。

冥想によるトランス、すなわち三昧、サマディーも、意識レベルを深化させることにより、狸や狐に化かされるレベル程度までは深化していくし、正統的な冥想手法では、勿論それ以上のところを狙うのであるが、どのようなシチュエーションでトランス・三昧・定が起きるかということを示唆しているように思う。

◎チャクラと七つの身体-35
◎肉体-18  
○裏山の狸
【ザ・ジャンプ・アウト 091】

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スカイ・ダイビングでのパノラマ現象

2013-11-21 03:37:13 | ザ・ジャンプ・アウト
○数秒で急速な意識レベルの低下

自衛隊の草創期に習志野第一空挺団に所属していた方の述懐。

この方は、人間の高所恐怖は33フィート(約10メートル)が上限で、それより高度が高くなると逆に恐怖感が薄らぐものだとする。これはおそらく自衛隊での定説であり、この理論に沿って訓練メニューが作られていたりするのだろう。そこで33フィートからの飛び出し訓練を終えて、飛行機からのスカイ・ダイビングに挑む。

飛行機からは眼下に習志野演習場が見えてきた。

『私は二番目に飛び出した。4秒以内に傘が自動的に開く開傘ショックがなければ、予備傘を開く紐を引かねばならない。

「一降下、二降下、三降下、四降下」と心で数える。その瞬間にズシンと開傘によるショックがあった。この4秒間の何と長いことか。

そして、不思議なことにこのわずか四秒の間に、これまでのことが走馬灯のように次々に頭に浮かんできたのだ。開傘、そして傘点検、異常なし。やっとホッとできる。
周囲の空に浮いている同僚の笑顔が見える。

(中略)
地面に降りた瞬間、私は大地を叩いて「私は落下傘で降りた」と小躍りしたい気持ちになった。あの初めての降下の時に感じた恐怖や快感は死ぬまで決して忘れることはないだろう。』
(自衛隊秘密諜報機関/阿尾博政/講談社P66-67から引用)

恐怖を入り口にして、数秒で急速な意識レベルの低下が発生して、個人のアカシック・レコードの高速再生であるパノラマ現象を見る。

「現代人は数秒で悟りに到達することができる」と語る人もいるが、この急速な意識レベルの低下、しかも見当識の低下を伴わないそれ、つまり失神しないこと、意識が清明のままであること。これこそが、その説の根拠であるのではないか。またここに人間の意識の秘密があるように思う。

チャクラと七つの身体-34
◎肉体-17  
○スカイ・ダイビングでのパノラマ現象
【ザ・ジャンプ・アウト 090】

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白兵戦

2013-11-20 03:19:59 | ザ・ジャンプ・アウト
○真っ暗な世界、灰色の世界

およそ冥想と言うと、最初には、スピリチュアル・エマージェンシーというぎりぎりの体験が問題となる。一方戦場においては、自分の死が目前に迫ることにより、意識のレベルが落ちるという印象がある。それも一種のスピリチュアル・エマージェンシーである。

むかし友人の祖父が、満州で白兵での切り込みを中国軍に行った時は、ほとんど半狂乱になって、敵軍に切り込んで行ったものだと聞いた。おなじようなことは、日本の戦国時代の聞き書きにもある。

これは、武田信玄のある家臣が、麾下の勇将として知られた馬場美濃守信勝に質問したもの。
『「敵に向かった時は、暗闇に入ってしまったような気がする。そのせいか自分は手傷をよく負う。あなたはたびたび功名手柄を挙げておられるが、いっこうに手傷をお負いにならぬ。どのようにしておられるのか。」

馬場「敵に向かった時は、なるほど私も暗闇に入った心地がする。だがその時、少し心を静めると、おぼろ月夜くらいになってくる。それを待ってから切り込んで行くので、手傷を負わないのではないかと思う」と答えた。』
(葉隠/日本の名著/中央公論社から引用)

真っ暗闇とは、一寸先も見えない、おそらくは半狂乱状態のこと。おぼろ月夜状態とは、灰色の世界。白黒の夢を見ている時は、灰色の世界である。覚醒しながら、灰色の世界に入るのは、狐や狸に化かされるのがそういう状態だと言う。

このように戦場では、自分の生き死にをやりとりするものだから、自分の意識レベルが低下して、真っ暗と感じたり、灰色と感じたりするものであることがわかる。冥想においては、感受性を徐々に深めていくことにより、意識レベルを深めていくことを狙う。

最近の心理表現で、「頭の中が真っ白になって」という表現があるが、真っ白ならば、ほとんど意識レベルが落ちていない。灰色、黒と進むにつれて重いと感じる。

今の日本では、自分の天命を戦士として生きている人はほとんどいないだろう。しかし戦国時代から、昭和始めにかけては多くの人がこうした戦士であることに生きていた時代があったことを考えると、日本人の精神の発達カリキュラムの中では、戦士としての心理的霊的レベルは既にクリア済みであるということになるのだろうと思う。

◎チャクラと七つの身体-33
◎肉体-16 白兵戦 
【ザ・ジャンプ・アウト 090】

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神1mmのPerfume

2013-11-19 05:47:16 | 時代のおわり
◎僕らのLEVEL3

毎日同じことの繰り返しには、倦怠の芽が出るが、それはみじめで情けない自分に内心気が付いていることの裏返し。好奇心まかせの 日々に退屈して、ひとつのことだけ 追いかけてみるのが、実は難しい。

一行三昧、芸道でも、スポーツでも趣味でも、冥想でも、一つのことに専心するというのが重要なターンポイントになることは知っている。だから、本気になるくらい、気持ち次第だね なんて思ってたけれど、なんてことない そんなわけない。

実際打ち込んでみると、ワン・レベルをクリアする毎に新たな地平線が見えてきて、全く予想もしない展開が始まってしまうものだ。ただ、現実はずっと想像の上を行く、覚悟がまだまだ 1ミリも 足りないね。

出口王仁三郎は、天変地異の最大なるものは、風水火といい、水は洪水、津波、火は、火の雨、火山の噴火と想像がついたものが、ここに来てフィリピンに来た超巨大台風で風もある閾値を超えてしまうと、巨大災害になることに驚かされた。太陽磁極の反転も不分明であり、極ジャンプも頭の片隅をよぎる。極ジャンプがあっても自分がジャンプ・アウトしないと何も始まらない。

ジャンプ・アウトへ向かう列車はいつまでもあるわけではない。最終電車に 揺られてる、このまま遠くへ行きたくて、あああああ 遠回り、あああああ 夢をみて。実は『今ここ』が大正解なのだが、あまりにも身近すぎて、皆外側に求めるものだ。口で言っても文章でも読んでもわからない人はわからない。

生きること自体何かスッキリしないという感じを持っている人は少なくないものだ。何年経っても 難しい、ぜんぜんしっくり きてなくて、あああああ 変わらない。そういう状態でなんとかやっていけるだろうし、そういうぬるま湯でも、ちょっと苦しい生活であっても、もういい もういい くないよ。

天変地異と飢え、パンデミック(疫病)、核戦争・化学戦争、経済恐慌という外面的な懸念が地球全体を覆っている、世界の人類全体が不安に陥ってどうしようもないという気分は誰の中にもある。それは文明全体が、死の恐怖を押し殺してきた結果。けれども、ぜんぜん どうして この気持ち伝わらないね、 このままじゃ、あああああ やりなおし あああああ くりかえす。結果ムナしく地球壊滅かよ、自分も輪廻転生やり直しかよ。

七つの次元を貫く白銀のあるいは黄金のクンダリーニのエネルギーコードは一本。ニルヴァーナ・大日如来・絶対無・タオに向かって一本道であることを知っているだろうか。だんだんそうして 近づくよ。線路は一本だけだから、あああああ 帰ろうよ、さあ。

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ひきこもり列島

2013-11-19 03:10:41 | ザ・ジャンプ・アウト
○非社会的生活での思考力・集中力の低下

第二次世界大戦が終わって間もない時期に、アメリカのプリンストン大学で、約100人の大学生を3日間位、防音装置の施された真っ暗な部屋に閉じ込めた。部屋は1.3m×3mで、中には大型ベッドとトイレがあって、食事はアイスボックスに入れてある。

部屋の中には、いわゆるパニック・ボタンが置いてあって、それを押すとこのSD(sensory depriviation)実験から解放してくれることになっていた。また部屋の外には1名の立会人がついていることになっていた。

この実験によって、いわゆる拘禁反応を見ようというものである。

被験者の心理的な特徴は、思考が混乱するだけではなく、ふつうはある特定の思考を維持することさえできなくなること。更に白昼夢がたえまなくひき続きおこるということである。
他人と接触しない時間が長くなると精神の集中力が低下し、まとまった思考ができなくなる。これは3日間の実験なので、被験者は思考過程に障害が生じたという自覚があるが、長期間にわたるとその自覚さえも怪しくなるかもしれない。

また白昼夢は絶え間なく起こるというのは、意識レベルが低下するということであり、個人の意識はここで無意識の中に沈潜する。既に世界の裂け目の中にはまり込んでいる。

捕虜収容所や刑務所、精神病院などでも、このような環境下におかれた人間は類似の心的反応を示すのだろうから、そのことは昔から経験的に知られていたのだろう。

さて暗室で無音という設定を除けば、社会性を失ってかつ自分の意志で室外に出れるという点で、この環境はひきこもりに近い。むしろ暗室と無音という設定により、ひきこもりで起こる心理の特徴を端的に浮かび上がらせている可能性が高い。

日本のひきこもりは今や100万人と言われる。彼らがこうした環境下にいることは、日本全体の心的ロゴスの状態を想像すると、100万人がまとまった思考を持てずに、白昼夢的な世界に過ごしていて、おそらくそのほとんどは小悪な、小地獄な混乱した世界観に暮らしているわけだから、日本の明るい未来など展望するどころではない状態であるように思う。

かつてソルジェニーツィンはソ連の物理的収容所をして『収容所群島』を描いたが、日本でもひきこもり百万人ともなれば、鉄格子なき収容所をかかえた列島とも見えるかもしれない。

『さて以上をまとめると、SDが思考作用におよぼす効果は多種多様である。少数のひとにとっては、思考はSDのあいだじゅうきわめて明断であり、ふつうの状況よりもいっそう良好でさえあった。

しかし大部分のひとにとっては、SDの状況は思考過程に障害を生じさせるように苛酷なまでに計算されたものであり、とくにSDを生産的な思考を行なえる期間であると期待し、考えるための問題をたくさんかかえて実験にやってきた被験者にとってはとくにそうだつた。

最初この種の被験者は非常によく考え、深く鋭い洞察力を発揮したが、この時期は長くは続かず、ふつうは二日目までに、はげしい変化が起るのに気づいている。すなわち、思考が混乱するだけではなく、ふつうはある特定の思考を維持することさえできなくなるので、この点で被験者は、恐慌ボタンを押してSDから解放されるか、あるいは白昼夢がたえまなくひき続きおこるのに身をまかせて実験を最後までやるかの、どちらかを選んだのである。

精神の集中力を失ったのは被験者の約三分の二であったが、ふつう彼らはこのことを認めたがらなかった。彼らは、自分たちの失敗にたいする非難を他に転嫁するような言いわけを述べ、自分たちは考えることはできたのだが、その考えについて一緒に議論する人がだれもいないのに考えるのは無意味に思われたのだとしばしば主張した。また他の人たちは、自分たちの思考過程に紙と鉛筆がいかに大切であるかがはじめでわかったと語った。ある被験者は、大声で話すことが許されなかったために考えることができなかったのだと主張した。

すべての被験者は、もし誰か他の人が一緒にいたなら自分たちの思考過程はさらに活発になっていただろうと報告した。彼らのほとんどは、聞き手がいることが、考えることを正当化してくれるのだと感じた。自分の思考過程について自信を持ち、他人の保証をいささかも必要としないという人に出あうことはごくまれであった。

それでは、ほとんどの被験者が「聞き手」の必要性に重きを置いているのであるから、それを利用して彼らをだますことができただろうか。もし、マイクロフォンの導線の他端にはいつも聞き手がいると被験者に教えれば、彼らのすべてに比較的良好な思考を維持させることができたであろうか。このような計画はきっと成功したにちがいない。SDの被験者は、聞いてくれる人がいると信じることができれば、きっと満足しただろうと思う。

以上の所見は、われわれすべてにとって社会的な相互作用が重要であることを強調しているように思われる。大部分の被験者にとって、SDはおそらく人生における最初の長い非社会的な体験であった。このことが、SDの他の諸条件と相俟って、被験者があらゆる種類の生産的活動――――精神的なものであろうと他のものであろうと――――にたいする欲求を疑うにいたるような状況をつくり出したのである。

たしかに人間は、感覚遮断によってつくりだされるような高度な知的真空状態のなかでは、考えることはできまい。』
(暗室のなかの世界/J.A.ヴァーノン/みすず書房P94-95から引用)

◎チャクラと七つの身体-32
◎肉体-15 ひきこもり列島
【ザ・ジャンプ・アウト 089】

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東日本大震災

2013-11-18 03:02:23 | ザ・ジャンプ・アウト
○テレビ洗脳と死への感覚(メディアと体験)

テレビッ子ならずとも、東日本大震災後しばらくは、地震と津波の情報と映像ばかりであったから、ほとんどの人が、『この世で持っていたものは、否応なくすべて捨てさせられてしまう』という原初的な感覚を味わったのではないだろうか。

事実、その日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなど(マタイ伝24)していたのだが、そこに地震と津波が襲って来たのだ。地震と津波に関係なかった人たちは、相変わらず食い、飲み、めとり、とつぎ、モバゲーなどしている。

確かに前と同じように楽しんでいるかのように見えるが、本人の心の準備が全くできていない状態で、その人間ドラマが突然スイッチを切られることが、稀ではなく、誰にでも起こりうるということを、思い切り痛感させるというインパクトがあった。

こういうのを日常の裂け目を見るというが、みんなそれを毎日テレビで見せつけられたのだ。これで程度の差こそあれ、日本人はある変心を遂げた。日常感覚の不安定化みたいな。

そこで、心ある人は、自分の本質的な無力さに思いを致すと同時に、今日ここに生きるのは、神の賜物である、大慈大悲であるという感覚を、思い起こすのだと思う。

その日のことは、色々な人が様々にブログなどに書いているが、その時の自分の無力さに対する感覚が、やり場のない『怒り』に向かう人がかなりいるのには驚いた。やり場のない怒りはいずれ何かに向かっていくのだが、それは更なる将来の混乱の原因となっていく。

今回のような大規模災害では、ソドムとゴモラみたいに住民のすべてが不善な人ということではなく、善根を積んだ徳高い人でも、災害の規模が大きすぎる故に、巻き込まれて亡くなるということはあるのだと思う。

というのは、過去の覚者、聖者がすべて、その徳のゆえに、畳やベッドの上で大往生を遂げたわけではないからである。賊に襲われて横死(唐代の禅僧巌頭)したもの、を飲まされた者(達磨)、十字架に磔刑となった者がある。今時、積善陰徳を積めば必ず畳の上で死ねるなどと語るのは、余り当たらない占い者ぐらいのものではないだろうか。

そして、わが身を捨てて他の人を救った例がいくらでも報道されている。

これとその街の正しい人の数を数える者がいるのは別。旧約聖書では、神は事前に正しい人を救い出して後、邪悪の街を滅ぼした話に作っているが、実際の現実はそうでもなかったと考えるべきだろう。


大災害で生き残る保障もなく、この世で報われるあてもないが、人としては日々短時間でも冥想を繰り返していくしかないと思う。

チャクラと七つの身体-31
◎肉体-14 東日本大震災
【ザ・ジャンプ・アウト 088】

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