アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

天国の平安と宗教

2013-09-30 05:54:40 | ザ・ジャンプ・アウト
◎天国の平安と宗教

宗教には、天国の平安を求める宗教とそれを超えた涅槃・ニルヴァーナ・道・神・仏・宇宙意識を求める宗教がある。同一宗教の中に、その両方が組み込まれているケースもあれば、天国の平安だけを専一に求める宗派もある。辺地往生という天国の片隅にまず往生しようという浄土系の宗教などは、天国の平安を求める宗教の代表格と言えるだろう。

人によっては、天国の平安と涅槃・宇宙意識が同一のものだと信じ込んだがために、理屈として理解できない場合がある。
理解できないまま、信仰そのものが進展しない人も少なくないのではないか。

私もその二つが全く別のものであると気が付くまでに、随分時間がかかった。

なぜならば、天国はわかりやすいが、神・仏そのものは極めてわかりにくいからである。

天国にあっては、大いなるすべてのものに対するいとおしさ。すべてが何も問題ないという平安。あたりまえの生命の温かさ。意識する必要のない大安心。完全にあたりまえに生きていること。力に満ち溢れている。こういった肯定的なもの。清らかな高みである神の純粋さ。でもカウンターパートとして地獄がある。天国は高級霊界だからである。

これに対して、神・仏・ニルヴァーナそのものは、極めてわかりにくい。天国も地獄も超えた自由であって、言葉では表現できないものであって、至善至美、無限光明であって、体験とは言えない体験であるなどと言われても一般的な社会の常識人の頭では想像することすら叶わない代物である。神・仏に対するカウンターパートはない。

けれども、本来この程度の違いの理解は、学校教育でやってもらうレベルのものだろう。また現代人は、天国の平安だけでは飽き足らない、何か足りないと思っている人が増えた。そうした人こそが、次のステップに進む可能性を持つ人である。


さて、ある宗教が何を目指しているかは、教団の教学本を見ればわかる。しかしその宗教の修行カリキュラムが例えば「天国の平安」を目指している場合でも、人によって開ける境地がニルヴァーナまで行ってしまうケースがある。南無妙法蓮華経を繰り返し唱えるうちに、マントラ・シッディにとどまらずその先に行く場合があるだろう、それとも曹洞宗の禅寺で修行していても、人によっては、身心脱落でなく、クンダリーニ・ヨーガの極致である中心太陽に突入する場合もあるだろうということである。

その一例として、念仏修行者・妙好人浅原才一がある。彼は辺地往生どころか、既に仏となっている。


臨終まつことなし いまが臨終 なむあみだぶ

自力が他力にしてもろていまはあなたと申す念仏

他力とは身に来たことを他力という

世界虚空がみなほとけわしもそのなか なむあみだぶつ

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-24
◎天国の平安と宗教
【ザ・ジャンプ・アウト 046】

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神の子の位置、菩薩の位置

2013-09-29 07:03:48 | ザ・ジャンプ・アウト
◎神の子の位置、菩薩の位置

菩薩については、52段階あるとか、菩薩とは悟りを開いた人だとか、空海は、52段階の上から10番目のレベルにあったとか、ディテールについての論議はかまびすしい。こういった議論は、却って菩薩の意義について肝心なポイントをわかりにくくしてきたところがある。クンダリーニ・ヨーガは、ニルヴァーナまでの段階を立てるが、只管打坐は段階を立てない。

さて、これまでの世界のメジャー宗教では、呼び名こそ、君子、神の子、神の生き宮、菩薩などと異なるが、菩薩とは共通のテクニカル・タームであった。

古神道では、人は神の生き宮という。
『山と寄せくる荒浪も  地震雷鳴火の雨も
 来らば来れ寄せ来れ  神は吾等と倶にあり
 天地経綸の主宰者なる  人は神の子神の宮
 神と親しくある身魂は  如何なるなやみも恐れむや
 吾等も神の子神の宮  神は吾等と倶にあり。』
(霊界物語61巻1章4節から引用)

儒教の中庸では、「中なるものは天下の大本なり、和なるものは天下の達道なり、中和を致して天地位(くらい)し、万物育(いく)す」とし、更に「君子は中庸す」とし、中庸が人間のあるべき姿=君子であることを言う。

キリスト教では、人は神の子と言う。
イエスの山上の垂訓から
『心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。』

人は、神、仏、ニルヴァーナ、宇宙意識に対して、そこから発した個としてのポジショニングがある。その本来あるべき個としての姿を、君子や、神の子、神の生き宮、菩薩と呼んで、宗派を問わず、とても大切な基本概念としてきた。合気道の植芝盛平の天の浮橋というのも同義だろうと思う。これぞ人の道である。

人が菩薩である条件。それは最低でも神仏を見たりワンタッチしたことがあること(見神、見仏、一瞥、見性)。禅の十牛図でいえば第三図見牛である。

現代社会において、正気で生きるためには、あるいは人間としてあたりまえに生きるためには、余剰エネルギーの流し方を適正化しなければならない。夜帰宅して身体は疲れていて頭はストレスの反響で一杯という毎日を繰り返していては、余剰エネルギーは肉体も精神も徐々にさいなむ。

そこで人は神の子、神の生き宮として生きる道を採るために、余剰エネルギーの適性な解放ルートとして冥想の習慣が必要になる。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-23
◎神の子の位置、菩薩の位置
【ザ・ジャンプ・アウト 045】


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余剰エネルギーと日常生活

2013-09-28 06:40:05 | ザ・ジャンプ・アウト
◎余剰エネルギーと日常生活

余剰エネルギーは倦怠や退屈、不満、いらいら、むかつきという形で出る。

今の日本人の世界観は中途半端な個人主義。アメリカみたいに個人主義の伝統ある国では、孤独で生きるということが認められており、孤独で生きるというライフ・スタイルが確立されている。

日本では、中途半端な個人主義であって、伴侶選びすらも「本当にこの人で良いのかしら」と思いつつ結局そのまま一生を過ごすカップルは結構いる。離婚率は高くなったけれども。

人が本当に魂の伴侶と言えるパートナーに出会えるのは、運がよければ一生に一回あるかないかとも言われる。離婚率3割の日本だが、まだ結婚してふれあい・きずなを保ちながら生きていこうとする人は少なくない。個人主義はまだ徹底しているとは言い難い。

この文明近代西欧文明では、個人と個人は別々の夢を持ち、自己実現に励むものだ。自分の夢を持ちなさい、自分の考えを持ちなさい、自分の好きな願望を実現するために努力しなさい、なんてね。

自分と他人は同じではないという世界観の先には自分と他人は触れ合うこともできるが、決して二人が交わることもないという宿命が待って居る。このように個々人が分断された世界観の先には、「自分こそ一番である」、「いや自分こそ一番である」として、そうした角逐の最終的な結果として、個人の権利を圧殺したファシズム的世界政権の誕生が極点として予想される。いや予言されている。(ノストラダムスの「火星が平和の名の下に統治する」。出口王仁三郎の玉串を座布団に隠す話など)

さてこうした自分と他人がいる世界観は、まずは天国的な安心、やすらぎ、やさしさを希求する傾向がある。キリスト教修道院に入って数か月すれば神を見る。そこに留まってずっといれば、神の平安に抱かれて長年月を過ごすことができる。これぞ天国の幸福と言えるものだ。

あるいは、某教団のアシュラムで、ダイナミック冥想や中空の竹冥想なんかをやって、ストレスや肉体のガス抜きをやることを続けることによって、やがて神を見る。その体験で、本当のあたたかさ、大いなるすべてのものに対するいとおしさ、すべてがokである情熱と平安を実感する。更にアシュラムにとどまることで、これぞ天国の幸福であることを確認する。

神を見た修道女、修道僧や、信者でも一歩修道院やアシュラムを出れば、金の話や法律の話、人間関係の話など予想外の厄介な事情が頻発し、思うようには行かないものだ。
天国を求める世界には、必ず地獄が登場するものなのだ。天国の平安は外では通用しないのだ。

天国の平安は、18世紀ころまではある程度通用していたが、20世紀初めには通用しないことが完全に明らかになったのではないか。それで霊がかりな運動(ルドルフ・シュタイナー、出口王仁三郎の帰神勧奨)が、その頃を境に消えていったように思う。

さて個人主義な世界観とは、あなたと私が別々である世界。そうした世界観の人が、大半の人がそうだが、一日働いて自宅に帰ってくると、肉体の疲れとともに、一日のストレスが、不安や不満やいらいら、倦怠感、むかつきなどとという形で浮かび上がってくる。

ストレスとは、余剰心的エネルギーが、その出口を求めているのだが、ままならぬ、意のままにならぬこの世では、一般にそのエネルギーは、酒やテレビやネットなどで、混乱、葛藤を紛らすしかないと思い込んでいる人が大半である。

つまり個人主義的世界観では自ずと天国的な平安を人は求めるものだが、現代人の日常サイクルでは、地獄に陥ったままで、とてもじゃないが天国的な気分にすらも戻れない毎日を繰り返しているのである。

よって理屈としては、天国も地獄も超えるものしか、この事態を解消してくれないということになる。つまり余剰なエネルギーが我らを地獄にしばりつけているのだから、冥想により、日々の絶望的な心境からエネルギーを別の方向に向かわせて、天国も地獄も超えるものを展望しなければならない。

仔細に見ていけば、天国も地獄も超えるものとは、気分転換などという心理の問題でなく、最終的には、人を別天地に誘っていくものである。

問題なのは、これだけマスコミやネットの発達した時代にもかかわらず、人の余剰エネルギーの向け方の工夫がこの地獄的時代の解消法であるなどとほとんど宣伝されていないことである。

夜帰ってきて、エンタメや酒やセックスでまぎらすだけでは事態は何も改善しない。本来この生活リズムの中では、朝30分、夜30分の冥想が不可欠である。それでも自分を含めて、その一日1時間をねん出するのすら簡単なことではないと思うけれど、事態はそこまで悪化している。

余剰エネルギーこそ、クンダリーニ・ヨーガの入り口でもあり、只管打坐というメインの冥想の眼目である。余剰エネルギー・コントロールは、心理の問題と捉えられがちだが、最後は、それにとどまらず現実そのものを調整していく。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-22
◎余剰エネルギーと日常生活
【ザ・ジャンプ・アウト 044】

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白魔術とは-2

2013-09-27 05:40:39 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-21
◎白魔術とは-2
○天意を読み順う

さらに唐代の禅僧普化の例を挙げる。彼は臨済録で知られる臨済の同僚である。

ある時普化が、「俺もそろそろ冬支度なんかで、ちゃんとした服装がほしくなった。」と言い出した。すると周りの本当に普化の価値をわかっている檀家が、きれいな衣を普化にあげるが、普化は「そんなもの駄目だ」と断る。

そうすると臨済だけがわかって、棺桶を作ってあげた。
普化は「臨済が俺の服を作ってくれた。」 「臨済が俺の服を作ってくれた。」と言って棺桶にひもをつけて、引きずりながら、村中を練り歩く。
それを見に村の野次馬が集まったところで、普化は、「俺は、明日北の門で死ぬことになる。俺は午後3時に死ぬぞ」と宣言する。

翌日午後3時、物見高い村人が、北の門にそれはそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと日が悪いな。うん明日にしよう。俺は、明日南門で死ぬから。」とまたも予告する。

その翌日午後3時、好奇心旺盛な村人が、南の門にそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと肌寒いしな。うん明日にしよう。俺は、明日東門で死ぬから。」と予定変更する。

そのまた翌日午後3時、本当に物好きな村人が、東の門に若干名集まった。集まった村人は、「普化は、きちがいだとか聖者だとか言われているが、さっぱりわからないけれど、死ぬ時にはわかるかもしれない。」などと考えている。
ところが普化は遅れてやってきて「今日もはちょっと調子悪いなあ。うん明日にしよう。俺は、明日西門で死ぬから。」とまたも延期する。

そのまた翌日午後3時、西門には誰も来なかった。普化が棺桶を引っ張ってきて、周りを見ていると、一人の旅人が通りかかる。普化がその旅人に「頼むからここに穴を掘って、俺が棺桶に入ったら、そこに釘を打って、それから埋めてくれればいいから。」と頼む。
それで、普化が棺桶に入って、釘を打ってもらって、土をかけてもらった。

旅人はびっくりして、「なんか乞食坊主みたいなのが、西の門の原っぱで生き埋めにしてくれって言うから、そのとおり、棺桶に入れて生き埋めにしたけれど、あれどうなっているんだ。」などと言うと、村人は、驚いて西門に駆けつけて、掘ってみると棺桶に釘が打ってある。それをこじ開けて中を見ると草履が片方残っているだけで、もぬけの空。そして突然ちりーん、ちりーんと音がして、ずっと空の方に上がっていって、『ワッハッハッハ』なんて大笑いが聞こえてくる。

これは、もともと臨済録に出てくる話で、それをダンテス・ダイジが座談で語っているのをアレンジしたもの。(素直になる/ダンテス・ダイジ講話録4)


普化は、「北の門で死ぬ」と天意を図り、翌日になると、「日が悪いから明日南門で死ぬ」と天意の変化を告げた。また次の日になると、「肌寒いから明日東門で死ぬ」と天の予兆が変わったことを告げた。最後に「今日は調子悪いから明日西門で死ぬ」とさらに変化した前兆に順うことにした。

もとの文を素直に読めば、観客がいなくなるまで、日を変え、場所を変えたのだろう程度にしか読めない。しかし真相は、神意、天意の転変に随って死すべき場所と時間を何度か変えたのだと思う。

こういうのはバカバカしいとか児戯に等しいと思う人も多いかも知れないが、白魔術師の作法というのは、冷厳、精密である。臨済を超えるほどの悟境の普化の死が、適当な気まぐれで起こるはずはない。

時には質の違いがある。それを利用して、中国の禅者ホウ居士は、時を選んで坐脱し、日本中世の虚空蔵求聞持法修行者は、満行に時を選んだ。もっとも時を選ぶのは白魔術師だけではないのだが・・・・。

またアヴィラのテレサの言うように、奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。白魔術師は、時を選ぶタイプの奇蹟に熟達しているのだ。

そして私たちは生まれてくる子宮を自らセレクトし、生まれてくる時刻を自らセットして誕生してきた。この生誕というある種の魔術については、万人自ら執り行ってきたわけである。

最後に、白魔術師と黒魔術師を見分けるということについていえば、自分が悟らなければそれはわかるまい。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-21
◎白魔術とは-2
○天意を読み順う
【ザ・ジャンプ・アウト 043】

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白魔術とは-1

2013-09-26 05:56:14 | ザ・ジャンプ・アウト
◎白魔術とは-1
○天意を読みしたがう

一般論として、現代人がオカルティックなものにかかわって生きると、まともな人生にはならない。

アストラル・トリップしたいとか、エーテル体のエクトプラズム出したい、神降ろししてモダンなシャーマンしたいとか、動機はいろいろあるのだろうが、自分が死なない者がそうした死の世界の技術であるオカルティックなパワーにかかわることは、現代の社会人にとっては、ほとんど自殺行為のようなものではないか。

知らぬが花ということはある。一度知ってしまったがゆえにその後思わぬ不満をかこつということもある。そんなものとしては、飛行機でファースト・クラスに乗ったばかりに、以後ビジネス・クラスやエコノミーに乗れなくなるなど枚挙にいとまはない。

飛行機の座席であれば、それに追われると言うことはないが、オカルティック・パワーになれば、足抜けするのは厳しい。クンダリーニ・ヨーガでいえば、悪霊を信じない者は、彼らに殺されることは決してないのだ。


黒魔術とは、自分の都合で、巨大なオカルトパワーを利用しようとするものであった。

それに対して、白魔術ホワイトマジックとは、先に天意があって、その天意に逆らったオカルトパワーの行使は絶対にしないこと。つまり白魔術師は、必ず天意を読む、天意を窺ってそれを感じ取る能力があること。そしてその天意に沿って動く性質があるものだということ。

典型的な白魔術師としては、明治から昭和にかけて活躍した古神道の出口王仁三郎や在野の神秘的大陸浪人笹目秀和、カルロス・カスタネダの小説に登場するドン・ファン・マトゥスなどがある。

彼らは、まず前兆あることを捉えて、次に初めてミスティック・パワーの行使を行うものだ。

出口王仁三郎は、昭和6年9月8日綾部の鶴山に三体の歌碑を建てて言うには、「これが建ったら満州から世界が動き出す」と。
果たしてその十日後の9月18日に満州事変が起こった。出口王仁三郎は更に日本の行く末を詠みこんだ「「瑞能神歌」の実現期に入った」と語ると、まもなく「瑞能神歌」は発売禁止となった。

これも先に「これが建ったら満州から世界が動き出す」という神意があったことを示す。

※瑞能神歌:
『『瑞能神歌』(大本神歌)(三)に「いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道」のシベリヤ線とあるのは、アラスカ、シベリヤ、モスコーの線のことで、シベリア鉄道のことではない。天羽英二内閣情報局総裁も言っていた。それならば鉄路とか線路とか書くのである。

昭和16年12月8日から初段目が開かれたのである。「天の鳥舟天を蔽ひ、東の空に舞い狂ひ、ここに二段目幕が開く」とあって、次に「三段いよいよ開くとき三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集まる大本の・・・・とあって、途中(二段目)が書いていないのは、あまり悲惨だからである。」(昭和18年3月)』
(新月の光(下)/八幡書店/木庭次守編P65から引用) 

初段は、第二次世界大戦。二段は、第三次世界大戦であり、シベリヤ線を花道にして、天の鳥舟舞い狂う、熱核ミサイル戦争なのだろう。三段は、戦後の新時代。とあるが、二段目はあまり悲惨なので、聖マラキも、王仁三郎も詳述していない。二段目を幻視してショックを受ける人もあるやに聞く。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-20
◎白魔術とは-1
○天意を読みしたがう
【ザ・ジャンプ・アウト 042】

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チャクラもボディの秘密も明かされない

2013-09-25 02:13:44 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-19
◎チャクラもボディの秘密も明かされない
○黒魔術への危険性

世の中にには、七つの身体に関する本や七つのチャクラに関する本が結構あるものだ。残念ながら、その大半がそれについて本当にはわかっていない人が書いている。けれども真実を承知している数少ない人であればあるほど、チャクラの詳細や七つのボディの詳細については明かしていない。

それは、そうしたものを世間に紹介するには、まだ人間精神の成熟が追い付いていないからである。

さておよそクンダリーニ・ヨーガを志そうと思う人間で、超能力に対する色気を持たない者は極めて少ないのではないか。修行のために有る時期に社会からしばらく消えてでも良いから、そうした何か役に立ちそうな超能力を得て怪しからんことをしようとトライする若者は、昔からいたものだ。

中論で有名な龍樹ですら、若い時に透明人間薬を手に入れて王の後宮の連続強姦魔であった時期があった。超能力の悪用とはそういう類のもの。

OSHOバグワンは、チベットが超能力悪用に陥りやすい伝統を持っていたことを指摘する。それは、瞑想による精神的成熟、精錬を待たずに超能力を植え付けようとしたためであった。

『この脳の半分への扉―――第三の眼のチャクラの箇所は、ティラクを付けるところだ。その箇所は、外側に位置し、額からおよそ三・八センチ内側にある、内なるセンターと呼応している。その深いポイント、つまりセンターは、物質を越えた超越的な世界への扉として機能する。

インドでティラクが考案されたように、チベットでは第三の眼のチャクラに至るため、この箇所に実際に外科的な手術を施す手法が考案された。チベット人は第三の眼を見出すために、ほかのどの文明よりも尽力してきた。実のところ、生の様々な局面に関するチベットの科学や理解は、すべて第三の眼の理解に基づいている。

私ははじめのほうで、トランス状態の中で処方箋を与えるエドガー・ケイシーの話をした。アメリカではそのような例は彼ひとりだったが、チベットでは人々が医療の助言を求めるのは、トランス状態に入っていける入、サマーディに入っていける人に限られていた。チベット人は、外科的に外側から切り開くことで、第三の眼のチャクラに至ろうとした。

しかし外科的にこの箇所に至ることと、インドで行なわれてきたように、ヨーガの実践を通じて内側から至ることはまったく異なる。

眠れる脳の半分が、ヨーガの実践を通じて内的に活性化されるとき、それが活性化するのは意識の開発のおかげだ。意識の精練や純化を伴わずに外側からこのセンターを開くと、脳の半分が活性化してから、その偉業が誤用される危険が生まれる―――――なぜならその人は同じままだからだ。彼の意
識は、瞑想を通して内側から変容されていない。必要なのは、瞑想を通して意識を変化させることだ。

この脳の半分が内なる変容を伴わずに活性化した場合、たとえば壁を透視したり、外界にある物質的な障害物の先を見通せるようになった人は、誰かが井戸に落ちたのを目撃してもその人を救おうとせず、地中に隠された宝を見つけてそれを掘り出すほうを好むかもしれない。もしそのような人が、自分に人を従わせる能力があると気づいたら、あなたに命令して、自分の利益になるよう事を運ばせるかもしれない。

外的な手術はインドでも行なわれていた可能性がある。だがインド人は、それを試みようとはしなかった。なぜならヨーガの実践者は、意識が内側から変容されなければ、そのような力を活性化させ、それを誤用するかもしれない人々の手中に委ねるのは危険だと承知していたからだ。

それは子供に刀を与えるようなものだ。子供はほかの人々を殺すだけでなく、自分自身を殺すかもしれない。だから新しい力が活性化される前に、意識の変容が必要なのだ。

(中略)

チベットで黒魔術が生まれたのは、外科的な手術のせいだ。そこにはほとんど霊的な成長はなく、絶大な力を利用できるようになったおかげで、忌まわしい習慣が栄えた。』
(隠された神秘/和尚/市民出版社P132-136から引用)

チャクラと七つの身体の全容を明かすには、時期尚早。明かした瞬間にそれを自分の利益、利得のために遠慮なく利用しようという手合いが手ぐすね引いて待って居る。そんな状態では、その秘密は決して明かされることはない。その秘密は核兵器の知識に等しいものだからだ。

危険であるからこそ、真正なグルに出会うことが修行成就に必須であるわけだ。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-19
◎チャクラもボディの秘密も明かされない
○黒魔術への危険性
【ザ・ジャンプ・アウト 041】

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生還と肉体と精神

2013-09-24 02:10:41 | ザ・ジャンプ・アウト
◎生還と肉体と精神

それが人間の側に立っていないことこそ、生成滅亡の原理たりえる。だからこそ窮極からの帰還率、生存確率は1割以下となる。真正の求道者たちは、明らかに人間的幸福とは別のところを目指しているが、それが人間本来のあるべき生きざまと直結しているという、とんでもないパラドクスがここにはある。宗教の本質とはこの部分である。

窮極からの生還確率は1割以下だし、そこは必ずしも人間にとって都合の良いものではないとすれば、なぜそこに進まざるを得ないのか。それはあらゆる人間的苦悩の解決はそこにしかないからである。

OSHOバグワンはそれについて、語っているが、これは、悟りを求める人にとっては、クリティカルな問題である。またこの問題は、将来起こると考えられている同時大量集団アセンションの結果起こるだろうことに大きなサジェスチョンを与える。

すなわち、いろんな預言者がビジョンで見ているとおり、アセンションで悟り、その試練をパスする人は思ったよりかなり少ないだろうってことである。

『こういうことが一度も言及されないのはそのためだろう。光明を得ること自体が肉体と脳をかき乱すとは、どんな聖典にも書かれていない。だが私は、すべてをまさにあるがままに言いたい。というのは、私の理解では、興味がない人たちが興味を持つようにはならないし、また興味を持っている人たちは、どんな真理によっても邪魔されるはずはないからだ。そして実際、その人たち、そのことを前もって知っておいた方がいいだろう。

光明を得ることは,確かに精神身体的健康を大いにかき乱す。なぜなら、それは肉体がそのために準備され、用意のできているものではないからだ。光明を吸収できるようなものを、自然は何ひとつ肉体の中に組み込んではいない。突然、山が自分の上に落ちてくる---人は押し潰されずにはいない。

なぜ十人のうちの九人が沈黙にとどまるのか?これまで言われてきたことはせいぜい、「真理は語れないからだ」ということだった。それは真実だが、言及されていないもっと重要なことがある。十人のうち九人の頭脳が働かなくなる。その人たちは、もはや話すために大脳のメカニズムを使うことができない。そこでむしろ、黙っていた方がいいと感じる。

彼らは自分の大脳のメカニズムが、もはや機能する状態にないことを完全に理解する。』
(神秘家の道/OSHO/市民出版社P488-489から引用)

この文章に続いて、脳が破壊されるのは、大脳の細胞が光の途方もない衝撃で脳内細胞、脳内神経をかき乱すからだという説明を行っているが、呼吸停止による脳の酸欠も影響があるのではないだろうか。

昨今大手を振って、アセンションだとか、フォトンベルトで皆光明を得ると宣伝する手合いがいる。しかし光明を得る、悟りを得るとは、かくも「この世的な価値観」からは問題があるのである。

それでも、光明の絶対性に疑いを持たない冥想家にとっては、そんなことなど、何のその。しばしば彼らが、それによって脳が破壊されることすらも何とも思っていないことを見聞きして、驚かされるものだ。たとえ脳が破壊されても本当の自分が傷ついたり滅びたりするものではないことを、彼らは知っているからである。

悟りの社会性、真理・光明を得た人の社会復帰、そうした問題は、社会全体から見れば、ごく一部の宗教オタク、冥想オタクの課題に過ぎないように見えるが、逆に窮極を視野に据えた冥想によってこそ文明全体の展望が開けるという点からは、本来無視できない、社会全体にとって重要な問題として、浮上してくるはずのものだと思う。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-18
◎生還と肉体と精神
【ザ・ジャンプ・アウト 040】



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天地不仁

2013-09-23 06:40:43 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-17
◎天地不仁

老子は、神仏の心、天地の心である石ころの心を、天地不仁と表現している。

人間的視点から見れば、天地は命を与えてくれるし、衣食住も与えてくれるとても「仁」なものに一見思われる。しかし人の命を奪うのも天であり、人を虚無の絶望に陥れるのも天である。したがって、天地が個々の者に対して仁でないという視点は、人間的な好悪や苦楽の感情を越えたところにあって初めて言える。

いつの時代にも戦争は繰り返され、生別死別等の苦しみは止むことはないことを指して、人間的な視点に降りてきて、仁ではないと言って見せている。

老子は、祭礼のすぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬に対しては、天地も聖人も仁ではないとする。彼は、鞴(ふいご)のたとえを用いて、みたいなものの中にある空気を動かすことを以って、背中のイダー、ピンガラー、スシュムナーの脈管を暗に示している。未発の中というニルヴァーナに至るプロセスとしてクンダリーニが意識されているのだ。

多言ではしばしば窮するので、中を守るに如かずとは、頭でやらないでメディテーションしましょうということ。

老子は、ここで「中」という言葉を、ダンテス・ダイジの言うところのすべてが一つながりのものという意味で使っている。中=無為=道(タオ)である。

『老子第5章 天地不仁
(大意)

天地は個々のものに対して仁ではない。その万物に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々のあの態度と同じである。
聖人の人民(百姓)に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々の態度と同じである。

天地の間は、例えばちょうどあのふいごや笛のようなもので、そのままでは中には何もないが、鞴(ふいご)は押せば空気が出るし、笛は吹けば音色が出る。そして音色が尽きることがないし、動けばますます出てくる。

大道は、理詰めで計算してこれをつかもうとしても、行き詰まってしまう。中すなわち己を虚しくして無為と一体になるに如くはなし。

(書下し)
天地は不仁、 万物を以って芻狗となす。
聖人は不仁、 百姓を以って芻狗となす。
天地の間は、 それタク籥の如きか。
虚にして屈せず、動きていよいよ出ず。
多言はしばしば窮す。中を守るに如かず。』

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-17
◎天地不仁
【ザ・ジャンプ・アウト 039】


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石ころの心

2013-09-22 06:35:13 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-16
◎石ころの心
○人間の側に立っていないこと

クンダリーニ・ヨーガの全貌とは、本来、世界の発生、展開、衰退、滅亡の全容のことであって、世界とはこの人間世界にとどまらず、物質宇宙、エーテル体宇宙、アストラル宇宙などあらゆる宇宙を包含した議論でなければならない。

ところが、この「クンダリーニ・ヨーガの全貌」シリーズでは、人間または人類から見たクンダリーニ・ヨーガの展開ということに留まっている。それは、おそらくクンダリーニ・ヨーガに関心を持つ人が真っ先に訊きたい部分であろうからである。

ダンテス・ダイジの語る過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっているもの、その心を彼は石ころの心であると表現した。

『「奥深い心」

すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない

人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない

人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している

それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない

また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

そこには既に人間はいないし、ややもすれば人間の側の都合なんか考えてはくれない。

このことをクンダリーニ・ヨーギではないが、老子も言及している。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-16
◎石ころの心
○人間の側に立っていないこと
【ザ・ジャンプ・アウト 038】

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他人を傷つけられない

2013-09-21 06:29:33 | ザ・ジャンプ・アウト
クンダリーニ・ヨーガの全貌-15
◎生還者の再び生きる姿-5
○他人を傷つけられない

ダンテス・ダイジは、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっていることを、空、空性、阿頼耶識(あらやしき)、アカシック・レコード、「愛」であると喝破した。これは個性を超えたところであり、有の世界であるからアートマンでもあるとも思われる。

この見解からすると、空、空性とは、「空の思想」とか「空の哲学」ではなく、現実そのものである。

また当たる予言の源泉であるアカシック・レコードとは、個人の霊体の一種であるメンタル体で感じる未来や過去のバイブレーションを表現したものではなく、いまここしかない絶対の現実から思い出としての過去や予測としての未来を語っているに過ぎないこと。そのようなロジックからは未来予言は必ずずれるという性質となる。

更に彼は、常に「空」あるいは「愛」にあることで、他人の過去も未来も苦もなくわかる。

そして、通俗世間にあって、無情非情な生活環境に生きる我らにとって最も重要なポイントがある。「愛」しかない彼にとって、他人を傷つけるなどということは絶対にできないということ。そして自分が傷つけられることは気にしない。それゆえ、その生きる姿は、諸悪莫作、衆善奉行(悪い事をしない、善いことをする)、あるいは五倫五常でしかありえないということ。

中心太陽から生還した者たちの行動は、無条件の安心にあって、大いなるすべてのものに対するいとおしさ「愛」を持ちながら、力に満ちあふれている。

我々の眼は、彼らに対して、とかく超能力だけに関心が向きがちであって、クンダリーニ・ヨーガはともすれば、自己中心の超能力使いみたいな色目で見られがちだ。だが、真正の修行者の面目は、あくまで「諸悪莫作、衆善奉行」にある。

如何にも唐突に聞こえるかも知れないが、この文明、この今日をどう生きるか、人間にとって本当にあたり前な生き方とは、こうした生き方を自ら実現することにある。ここにクンダリーニ・ヨーギの社会性の真面目がある。

クンダリーニ・ヨーガは社会生活を捨て去って修行に打ち込まざるを得ない。スマホを持って通勤・通学しながら、毎日そこそこの修行ではなんともならない。チベット密教なら極寒の標高4千メートルの山の洞窟に、食料と水だけ持って、何か月も一人で観想法に打ち込むようなことをする。それでもこのように修行が成就すれば、十全の社会性を達成するものだ。

クンダリーニ・ヨーガの全貌-15
◎生還者の再び生きる姿-5
○他人を傷つけられない
【ザ・ジャンプ・アウト 037】

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リアル・ワールド

2013-09-20 02:04:32 | ザ・ジャンプ・アウト
クンダリーニ・ヨーガの全貌-14
◎生還者の再び生きる姿-4
○リアル・ワールド

ある日、ダンテス・ダイジが、過去世をどう思い出すかという話題に言及した。ダンテス・ダイジは名にし負う、クンダリーニ・ヨーガの窮極からの生還者の一人である。

彼は、世の中には記憶の良い人というものがいて、そんな記憶のよい人がだんだんその記憶を3歳、2歳、1歳、0歳と遡ることで、前世を思い出すことができる。その記憶は遠い過去のものほどすぐは思い出せなくて、思い出すのに時間がかかるものだ。記憶とは、感情の世界のもので、最も深い記憶を思い出す場合は、とてつもない懐かしさという情動が伴う。情動をたぐって、前世記憶を思い起こすのには、時間がかかるものだ。そして、最も深い記憶とは、愛との出会いである。

深い感情の世界に入るのはトランスによっても入ることができる。しかし感情の世界経由で入るやり方は、本物ではないとほのめかす。

そこで、ダンテス・ダイジは、過去世を思い出す場合、あるいは、この世で何年前の記憶を思い出す場合、自分の過去世記憶をたどるように思い出すのではなく、誰の過去世を問われても、即座に思い出すことができると言う。

それは、この世界というものは、現在・過去・未来が一体となったもので、あらゆる人物、あらゆる生物、あらゆるものが一つながりにつながっているからである。そこでは個人個人が分断されてなどいない。過去世を思い出す時には、その現在・過去・未来が一体となったものをベースに、そこから思い出すから、即座に思い出すことができる。

過去・現在・未来が一体となったものをベースにすると、過去を思い出すのは勿論、未来のことも思い出すこともできる。なぜなら、過去・現在・未来はすべてつながっており、一体となっているからだ。

過去・現在・未来が一体であるということは、どういうことか。人間は、自分と他人が別々の存在だと思い込んでいるが、すべてつながったものだ。

ダンテス・ダイジは、すべてつながったこの時間と空間と物質が混然一体となったすべてをしばしば「愛」と呼ぶ。すべてがつながった世界に、離別・分離に苦しむ孤独な人間などはいない。すべてが問題なく、本当の安心に生きている。それが真相であり、リアル・ワールドなのだと。

さらに過去・現在・未来も仔細に見れば、今現在しかない、なぜならば過去は記憶の中にしか存在しないからであり、未来は現在にもとづいた想像の中にしかない。


ダンテス・ダイジの説明は大体このようなところ。

この過去・現在・未来はすべてつながっていることを「いまここ」と呼ぶのだと思う。「いまここ」こそがリアル・ワールドである世界に生きている人にとっては、過去世を思い出したり、未来を予言することなど朝飯前なのだろう。最近「いまここ」を安売りする人もいるようだが、彼らはこの真のリアル・ワールドに生きているのだろうか。

さて、古代エジプトのアニの霊の記憶の話ぶりをみると、すぐには過去世を思い出せないというのは、納得できる。

またマンツーマン転生理論というのは、本質的な観点からは何の意味もないことを示している。一個人Aが死んでも未来永劫一個人Aのままで転生し続けるというのは、世界全体が一つながりにつながっており、現在しかないというリアルな現実からすれば、戯言であるからだ。

つまり誰が幸福で誰が不幸であるということこそ大きな誤解であり、幻影であり、自分のことを世界で最もみじめだと思い込んでいる人ですら何の問題もないことを、過去現在未来も一体につながりあらゆる生物がつながったリアル・ワールドそのものが証明しているということなのだと思う。

そして、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっているとは、仏教でいう空、空性のことを言っている。

ここで改めて思う。クンダリーニ・ヨーガを窮めて生還した者は、過去・現在・未来が一体であり、時間空間物質が混然一体となっていることが唯一の現実である世界を生きている。そして、我々の世界認識はとんでもない誤りであることを、彼らは控えめに小さな声で語っているものだということを。

そしてリアル・ワールドに生きて初めて「善いことをする、悪いことをしない」という生き方しかないことがわかる。「善いことをする、悪いことをしない」というのは、戒めやスローガンではなく、すべてがいとおしい世界にあっては、悪いことなどできないのである。

クンダリーニ・ヨーガの全貌-14
◎生還者の再び生きる姿-4
○リアル・ワールド
【ザ・ジャンプ・アウト 036】

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五倫五常

2013-09-19 02:01:09 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-13
◎生還者の再び生きる姿-3
○五倫五常

出口王仁三郎は、五倫五常を戒律みたいに遵守することを真理の三階級の中ぐらいとして位置づけ、最高のレベルとはしない。神人和合を最高のものとする。
ここは、五倫五常の方向性は正しいが、それを金科玉条とすることの弊害をことさらに説いていると見るべきだろうと思う。それが固定的な目標になった瞬間に真価は失われる。真理はイデオロギーやスローガンや頑固な思い込みの先にはない。
しかし、俗人に説くならば、あえて五倫五常の方向性は正しいと言わねばならないのである。
出口王仁三郎の本領は、あくまで古神道という死の世界をクリアする道なのである

『抑もこの理性は神愛と神真の和合より来る所の円満なる情動によつて獲得し、この情動よりして真理に透徹するものである。

さて真理には三つの階級がある。しかして人間はこの三階級の真理にをらなければ、到底神人合一の境に入る事は不可能である。法律、政治の大本を過たずよく現界に処し、最善を尽し得るを称して、低級の真理に居るものと言ひ、また君臣夫婦父子兄弟朋友並に社会に対し、五倫五常の完全なる実を挙げ得る時は、これを中ほどの真理に居る者といふのである。

しかしながら如何に法律を解し政治を説き、或は五倫五常を詳細に説示し了得すると雖も、これを実践躬行し得ざる者は所謂偽善者にして、無智の賤人にも劣るものと霊界において定めらるるのである。

また愛の善と信の真に居り、大神の直接内流を受け、神と和合し、外的観念を去り、万事内的に住し得るものを称して最高の真理に居る者と云ふのである。

故に現代において聖人君子と称へられ或は智者識者と称せられ、高位高官と崇めらるる人物と雖も、最高の真理に居らざる者は、霊界においては実に賤しく醜く、且中有界または地獄界に群居せざるを得ざる者である。霊界に行つて現界に時めく智者学者または有力者といはるる者の精霊に出会し、その情況を見れば、何れも魯鈍痴呆の相を現はし、身体の動作全く不正にして四肢戦き慄ひ、少しの風にも吹き散りさうになつてゐるものである。

これ凡てが理性的ならざるが故である。現代の人間が理性的とか理智的とか、物知り顔に云つてゐるその言説やまたは博士学士等の著書を見るも、一として理性的なるものはない。何れも自然界を基礎とせる不完全なる先賢先哲と言はれたる学者の所説や教義を基礎とし、古今東西の書籍をあさり、これを記憶に存し、その記憶を基として種々の自然的知識を発育せしめたるものである。

故にただ記憶のみにして、決して理性的知識ではない。現代の総ての学者は主神大神の直接または間接の内流を受入るる事能はず、何れも地獄界より来る自愛及び世間愛に基く詐りの知識によつて薫陶されたるものなれば、彼等は霊体分離の関門を経て精霊界に至る時は、生前に於る虚偽的知識や学問の記憶は全部剥奪され、残るはただ恐怖と悲哀と暗黒とのみである。

凡て自愛より出づる学識智能は何れも暗黒面に向つてゐるが故に、神のまします天界の光明に日に夜に遠ざかりゐたれば、精霊界に入りし時は霊的及び神的生涯の準備一もなく、否却つて魯鈍無智の人間に劣ること数等である。魯鈍無智なる者は、常に朧気ながらも霊界を信じかつ恐るるが故に、驕慢の心なく、心中常に従順の徳に居りしが故に、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受くるものである。』
(霊界物語 第五〇巻 真善美愛 丑の巻 第一章第一篇から引用)

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-13
◎生還者の再び生きる姿-3
○五倫五常
【ザ・ジャンプ・アウト 035】

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死後の世界が分ると

2013-09-18 02:59:58 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-12
◎生還者の再び生きる姿-2
○死後の世界が分ると

そのことを古神道の出口王仁三郎も強調する。ピースフルを前面に出した宗教は盛んに五倫五常を語るが、人間の悟りとしては、出口王仁三郎の云う3段階の中レベルを志向しているにすぎないとする。そして五倫五常とは、覚者つまり神を生きる者の生きざまのことなのであるとする。

※五倫五常
人として常に踏み守るべき道徳のこと。儒教の教え。▽「五倫」は基本的な人間関係を規律する五つの徳目。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つ。


『有難き現界

私は五六度死んだ事があるが、生きかへつてから後も二週間位はひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構な事である。

三十才の生命を神様より与へられて居る人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うて居るのである。しかのみならず霊界へ行けば総てが定まつて仕舞ふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。

人生の目的は地上に天国をひらく為であるから、魂を汚がさんやうにすることが一番大切な事である。刀身がゆがむと元のさやに納まらないごとく、魂が汚がれゆがむと元の天国にはをさまらぬ。

人間に取つて一番大切な事は何といつても生きて居る中に死後の存在を確めておく事である。死後の世界が分ると五倫五常が自然に行へる。倫常を破ると云ふ事は自分の損になる事がハツキリ分るからである。人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。

私は人生問題になやんで或時は爆弾を抱いて死んでやろうかとさへ思つた事がある。神様の御恵みによつて何も彼も知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入る事が出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、幾度か死を考へた事ほどそれが痛切であつたのである。』
(月鏡/出口王仁三郎/ 天声社版P.88から引用)

この文で「死後の世界がわかる」とは、クンダリーニ・ヨーガで最終ステージまでを窮めることを言う。それを窮めて初めて五倫五常が自然に行へる、つまり、善を行い悪を為さないのである。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-12
◎生還者の再び生きる姿-2
○死後の世界が分ると
【ザ・ジャンプ・アウト 034】


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善を行い悪を行わず

2013-09-17 02:50:16 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-11
◎生還者の再び生きる姿-1
○善を行い悪を行わず

既成宗教は神仏を悟っていない者に対して、善を行い悪を行ってはいけないと説く。しかしこれは宗教として、本来人に求めるべきファースト・チョイスではない。

本来はまず人は真理を悟るべきである。真理を悟れば、結果として、その人の生きる姿は、善を行い悪を行わず、なのである。

クンダリーニ・ヨーガの窮極で、神人合一、中心太陽への突入、モクシャにあった生還者はどう生きるか。それが「善いことをして、悪いことはしない」なのである。

善いことをして、悪いことはしないとは、仏教の七仏通誡偈に出ている。それはこの四句の一つ。七仏通誡偈は全仏教徒のスタンダードであり。過去七仏も共通して受持したという言われる釈迦の戒めの偈とされる。

諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

これでは、未悟の者にとっては、「善を行い悪を為さない」が戒律としてだけ聞こえてしまってそれ以上の想像は働くまい。そういう誤解を踏まえると、語ることは簡単だが実践することはなお難しい、などという言い方が出て来ることになる。悪事を犯すことを前提にしているから、そういう言い方になってしまうのだと思う。悟りはなおざりになりがちである。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-11
◎生還者の再び生きる姿-1
○善を行い悪を行わず
【ザ・ジャンプ・アウト 033】

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生還

2013-09-16 07:35:53 | ザ・ジャンプ・アウト
◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-10
◎生還

人間と神仏とのコンタクトには3種あって、第一は一目だけでも見る、いわゆる見牛。第二は、クンダリーニ・ヨーガの窮極であって、中心太陽への突入と合体。今ひとつは、真神・真仏が吾に懸ること、つまり憑依のファイナル・バージョンである。

さて、クンダリーニ・ヨーガの窮極の直前にあって、ダンテス・ダイジはこれを「あらゆる多次元の現象宇宙は私自身の身体である」と語り、そのものがそのものになった時、これを「モクシャ【実在・意識・至福】」と表現した(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版P101~103)。

このシーンの後、彼は元の肉体への帰還について、まず肉体サハスラーラ・チャクラに帰還し、そこから中心太陽のエネルギーを受ける云々とさらっと書いている。

あっさり書いているが、その帰還にさいして何が起こったかを冷静に書いているものは他にはなく、空前絶後と言って良いのではないか。起こることは起こる。しかし起こったとしても、それが何であるかをきちんと認識できていることは雲泥の相違がある。

またインドでは、帰還のことは念頭になく、目標は合一に絞られる。ところが、中国と日本では、帰還が念頭にある。それはクンダリーニ・ヨーガではなく、只管打坐系ではあるが、十牛図にしっかり帰還が描かれている。

人が神・仏の本体であるニルヴァーナあるいは中心太陽へ突入(モクシャ)すれば、人間としては欠けることはないので、それで充分である。これが再び輪廻転生してくることはないという表現にもなる。ところが必ずしもモクシャに至らなくて、一瞥・見牛体験であっても、人によっては、もはや充分であって、そこから再生する者ですら一割以下だろうとOSHOも見ている。

まして神人合一からリターンできる者はもっと桁違いに少ないだろう。

いわば鳥としてボディを次々に変えていく個生命にとって、全体あるいは、モクシャとの合一を最終ステージと見るか、再びの個生命への帰還を最終ステージと見るかは、文化的伝統の相違としか言えないように思う。

この世への関心の厚薄の差と言うべきか。

余談ながら、俗説に臨死体験者の生還をもって、何か素晴らしいことみたいに言うケースもあるが、いわゆる真理の一瞥程度のことが起きるケースでも、臨死体験全体の20分の一かその程度のものだろうと思われる。いわんや真正の神人和合の体験は遥かに少ないものと思われる。

◎クンダリーニ・ヨーガの全貌-10
◎生還
【ザ・ジャンプ・アウト 032】


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