アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

古神道の天の柱

2013-08-31 05:50:53 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-14
◎古神道の天の柱

さし絵は、キリスト教のヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子。いまや天上に昇らんとする多くの篤信者をこれでもかこれでもかといわんばかりに引きずり下ろす一群の黒い者がいる。

これと似た雰囲気の天の梯子、いや天の柱が出口王仁三郎の霊界物語にある。
これは、地球の中心火球(中心太陽、宇宙意識、ニルヴァーナ、神、仏、道のこと)の吹き上がる金気の威徳をパワーとして国の御柱がある。その天辺が二つに分かれて、左が男神の渡る橋、右が女神の渡る橋となっている。

この橋は黄金の丸木橋であるとされるが、そのものずばりで、葦の茎の如き黄金のクンダリーニの表象である。日本では古来、人のことを神柱と美称するが、この黄金柱こそ国の柱であり、神柱であった。

よって、霊界物語のこの段は、出口王仁三郎版の「クンダリーニ上昇の秘儀」たるパートであるが、やはり世界樹の全体像がクンダリーニの世界展開であるという基本イメージに沿っている。

さて霊界物語第五巻の24章天の浮橋の段。
『眼を開けば今度は最高点の黄金橋の上に引き揚げられてゐたのである。まづ安心とあたりを見れば、国姫神は莞爾として四五の従神とともに吾前に現れ、

『この橋は黄金の大橋といひ、また天の浮橋ともいひ、地球の中心火球より金気昇騰して顕国の玉となり、この玉の威徳によりて国の御柱は中空に高く延長し、その頂上は左右に分れ、左は男神の渡るべき橋にして、右は女神の渡る橋なり、この黄金橋は滑にして、少しの油断あらば滑りて再び地に顛落し、滅亡を招くの危険あり。

汝は抜身の中に立つごとく心を戒め、一足たりとも油断なく、眼を配り、耳を澄ませ、息を詰め、あらゆる心を配りてこの橋を東方に向つて渡れ。また此橋は東南西北に空中を旋回す、その旋回の度ごとに橋体震動し、橋上の神人は動もすれば跳飛ばさるる恐れあり、また時には暴風吹ききたつて橋上の神人を吹き落すことあり。

欄干もなく、足溜りもなく、橋とはいへど黄金の丸木橋、渡るに難し、渡らねば神の柱となることを得ず、実に難きは神柱たるものの勤めなり』
と言葉嚴かに云ひ渡された。
王仁は唯々諾々として其教訓を拝し、東方に向つて覚束なき足下にて、一歩々々跣足のまま歩を進めた。』

いつの間にかこの橋を渡りきった出口王仁三郎の身は、天教山(富士山)の山頂に、神々とともに停立していたのだが、天教山は頭頂(泥丸)サハスラーラ・チャクラのシンボルである。

男女に分かれた橋が統合されるのは、エドワード・メートランドの見たキリストの二重性、男女の統合と同義である。

ヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子と、この古神道の黄金橋では、バックグラウンドの描写こそ違うものの、シチュエイションは似たようなものである。アセンションの梯子または黄金橋にとりついたものの、不心得のある者は次々に滑落していく。

さて我々はふつつかなれど、神の柱となれるのだろうか。

◎世界樹-14
◎古神道の天の柱
【ザ・ジャンプ・アウト 020】


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ミトラ教の梯子

2013-08-30 05:13:32 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-13
◎ミトラ教の梯子

キリスト教以前にもエスカレーター、梯子のイメージが存在する。

ミトラ教では、霊魂はまず天上界に住み、その後肉体に閉じ込められることになって地上に降下する際に、霊魂は星辰界を通過するが、その時七つの惑星から、それぞれの情念と性質をうけとるものとされた。これが梯子であり、階梯である。

『その天界は、それぞれ一つの惑星に該当した七つの帯に区分された。八つの連続した門から成る一種の梯子があり、その最初の門は、七つの異なった金属で造られ、神殿の中では恒星のある最高区域に達するために辿る道程を象徴していた。(中略)

霊魂はこうした様々な圏域を越えていくにつれて、それが地上に下りてくる時に受け取った情念と能力をあたかも着物を脱ぐように脱ぎ棄てた。

すなわち月では生命力と養分の活力を、水星では強欲な傾向を、金星では性欲を、太陽では知的な能力を、火星では好戦的な血気を、木星では野心的な願望を、土星では怠け心を棄て去ったのである。

霊魂は裸になり、あらゆる悪徳や感情を取り除かれてから第八の天に入り、そこでは崇高な実在となって、神々が住む永遠の光の中で終わることのない至福を享受した。』
(ミトラの密儀/フランツ・キュモン/平凡社p105-106から引用)

ミトラ教では、七つの階梯の先で宇宙を飛び出したところに永遠の光があることが明示されている。これは、クンダリーニ上昇プロセスを象徴する。

このようにキリスト教もミトラ教も、梯子を通過して窮極に至るというビジョンを基本としていることから、クンダリーニ・ヨーガ型の霊魂の進化体系をビジョンとして持っていることがわかる。

興味を惹かれたのは、ミトラの役割である。ミトラは、死後の霊魂の審判役であり、天上界への上昇における信者たちの案内役である。天上からの道案内をしたのは猿田彦やヘルメスだったので、その役割はミトラと同じである。

猿田彦の庚申塔が現代になっても、日本の辻々にしっかり残って密かに信仰を受けているのは、猿田彦こそが、人間の進化のキーパーソン(キーゴッド?)であり、かつどこにでもいて、どこからでも悟りに至り得るというメッセージを携えているのだと思い当たった。

◎世界樹-13
◎ミトラ教の梯子
【ザ・ジャンプ・アウト 019】



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キリスト教の梯子

2013-08-29 02:33:06 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-12
◎キリスト教の梯子

キリスト教の世界では、梯子を昇って天上に至るビジョンがしばしば語られる。梯子は世界樹のデフォルメの一つである。まず天上へのビジョンを見てみよう。

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

2.「アイオーン/CGユング/人文書院」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のカルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

この2つの例をみると、龍ないし、蛇はムラダーラ・チャクラに鎮座するクンダリーニであって、梯子はその上昇ルートであるエネルギー・コードであることが容易に見て取れよう。

3.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」
地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ているのだ。

4.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』
(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院から引用)

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

『その力は非常に強くて、私は突き倒されそうになった。・・・・・この光をこれ以上探求することは、無用であると感じはしたものの、私はもう一度たしかめてみることにした。

それはほとんど私を盲目にせんばかりだった輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。

・・・大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現れてきた。・・・・・それは御子[キリスト]の二重性であった。

・・・・隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが、個別化されたのである。

主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力[作用]であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母とともに父であることを示していたのである。』
(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院から引用)

メートランドは、梯子の先にイエス・キリストを見た。キリスト教でいう空中携挙、つまり最近話題のアセンションの梯子の先には御子イエスがお待ちになっているわけである。

◎世界樹-12
◎キリスト教の梯子
【ザ・ジャンプ・アウト 018】


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中国の天への階段

2013-08-28 05:53:31 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-11
◎中国の天への階段

エスカレーターといえば、アセンションを幻視した人たちの天の梯子が有名だが、ここは、まず中国の天への階段。

中国の天への階段=天梯は、2種あり、ひとつは世界樹である建木、もうひとつは崑崙山である。建木は既に紹介したので、崑崙山

崑崙山に宮居があり、崑崙山は黄帝の地上の帝都である。崑崙山の山頂は天に達し、山麓は弱水の深淵があり、外縁は火山に囲まれ常に噴火が発生している。
このように崑崙山には登るどころか、近づくのも難しい。

古籍には、天梯を自由に昇降できるのは、神人、仙人、巫女の三種に限るとされる。

また天梯とされる山には、他に華山、青水の東の肇山があり、仙人柏高はこの山から昇天し、また西方の荒野に登葆山があり、巫師たちがそこから上下往来したという。

さて、黄帝が天帝になる前に、兄弟である炎帝(人身牛首)と阪泉の野で戦い、炎帝を破り南方に追いやった。炎帝の末裔の蚩尤(しゆう)は、炎帝の仇討ちの戦いを黄帝に挑んだ。これが涿鹿(たくろく)の戦いである。黄帝は、蚩尤をとりこにして殺し、天帝となった。

この一件を教訓として、黄帝の曾孫の顓頊(せんぎょく)は、上帝になると、天地を結ぶ天梯を塞いで行き来が出来ないようにした。

こしてみると、天梯を登ることはアセンションであって、それは古代からあったもので、決してブランニューな新顔のイベントではない。

顓頊が天梯を塞いだのは、超能力バトルの時代の終焉であり、アトランティスの最期のことか。

炎帝の人身牛首はミノタウロスだが、馬身人首のケンタウロスの逆バージョン。そういうバイオな操作を盛んにやっていた時代があるのだろう。旧事本紀みたいに。

そして昭和十年の第二次大本事件前夜、出口王仁三郎は、ご神体を道者笹目秀和に託し、中国崑崙山への返還を依頼した。笹目秀和は鶴仙に乗り、見事それを成し遂げた。崑崙山の地政学的重要性は、古代中国人に理解されていただけでなく、現代日本人にもきちんと理解されていたわけだ。

世界樹というシンボルは、グローバルというよりもトランス・コスモスであるが、その表現様式を世界に採るか宇宙に採るかというだけの差であるように思う。

また崑崙山を天への階段というが、天とはすなわちニルヴァーナ・神・仏・禅でいうところの無・道教の道を指すと見るのが自然であろう。

◎世界樹-11
◎中国の天への階段
【ザ・ジャンプ・アウト 017】


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すべての次元にガイドがいる

2013-08-27 05:58:57 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-10
◎すべての次元にガイドがいる

霊界探訪記を見ると、霊界のどこにいても霊界太陽が見えるとあるものだ。人は霊界において神たる霊界太陽に常にリンクしている。この世においては逆に極めて稀な人しか神仏を目撃、あるいはコンタクトできない。しかしこの点は、この世でもあの世でも神仏にコンタクトできるという可能性を保証していると見るべきだろうと思う。

世界樹は、この七つのボディ、七つの宇宙を包含したシンボルだが、七つの次元のどこからでも神仏・ニルヴァーナに接することができる親切なガイドさんがいる。そのガイドが、古代ギリシアではヘルメスと現れ、古事記では猿田彦命として現れる。

ピュタゴラスの冥界めぐりのエピソードにヘルメスが登場する。

『魂を一つにつなぎとめている紐帯は、血管や動脈や腱である。しかし魂の力が強くて、自分だけで静かに落ち着いているときには、魂(内部)の比(均衡)と活動がこれを一つにつなぎとめているのである。

しかし、(肉体との結合が解けて、)魂が地上へ放り出されると、魂は空中を肉体と同様にさ迷うことになる。そしてそのときには、ヘルメス(神)が魂たちの監視者になるのである。それゆえに、(地下の世界まで死者たちの魂に)「付き添うヘルメス」とか、「門の前に立つヘルメス」とか、「地下の世界のヘルメス」というような言い方がなされているわけである。

このヘルメスが、肉体から(分離した)魂たちを、陸からも海からも(定められた場所へと)送り届けるからである。

そして清浄な魂たちは、最も高い場所へ連れて行かれるが、不浄な魂たちは、清浄な魂たちにも、あるいはお互いにも近づくことが許されないで、エリュニス(復讐鬼)たちによって破ることのできない束縛のなかにつながれるのである。』
(ギリシア哲学者列伝(下)/ディオゲネス・ラエルティオス/岩波文庫P34-35から引用)

このようにヘルメスは至るところに登場する。地獄でも、中有の入り口でも、死んだばかりの取り込み中のところにも、ヘルメスが同伴している。

これは、人が七つの次元にあり、人が肉体レベル、エーテル体レベルなどのどの次元にいたとしてもヘルメスを目撃できることを言うのであって、それを「ヘルメスが魂に付き添う」かのように見えるせいではあるまいか。

よく真正なグルを真摯に求めればかならず出会えるというが、それもこの伝なのだろうと思う。

また日本の神話なら別れ道に立つ猿田彦命である。皇孫二々岐命が豊葦原瑞穂中国の主として降臨あらせられた時に、猿田彦命は、天の八衢(やちまた)に出迎え奉り、日向の奇振るの峯に天孫を導きたまい、また伊勢の大神の先導に立ちたまいし忠勇無比の神様である。

天の八衢とは、中有のこと。中有から先は、どんな人でも自分で進まねばならないが、猿田彦命はそこでガイドを務め、正しい道を指し示してくれる。これぞヘルメスと同様のさまよえる魂を善悪立て分けて、相応の場所に送り届けるという役割である。

これを世界全体で俯瞰すると、無数の人が猿田彦命にエスコートされて、世界樹の幹や枝を上昇し或いは下降している様となる。

こうして「世界樹はエスカレーターとも見える」という見方があることがわかる。

◎世界樹-10
◎すべての次元にガイドがいる
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アオウエイの五声

2013-08-26 02:34:23 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-9
◎アオウエイの五声

そこで出口王仁三郎の短歌。

言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは

出口王仁三郎の玉鏡から
『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊(ことたま)が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻しているから、非常な大音響を何時も発している。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずにいるのである。
 音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』
(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P170-171)

五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。
『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之(これ)が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』
(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P172-173)

正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。

ある信者が出口王仁三郎に「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」と答えた。(新月の光(下巻)/木庭次守編P263に出ている)中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。

こうして世界樹は、五大それぞれに鳴り鳴りて鳴りやまざる言霊によって日夜変動している。この動的な姿も世界樹の持つ一つの表情である。


霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。

『言霊の生ける活用白雲の
  空に迷へる学者あはれ
 もろもろの学びあれども言霊の
  真言の学び悟れるはなし

 世の中に学びは数多ありながら
  学王学の言霊知らずも
 言霊の学びは総ての基なり
  其他の学びは末なりにけり

 根本を悟らず末の学びのみ
  栄ゆる此世は禍なるかな
 世の中の一切万事は言霊の
  光によりて解決するなり

 言霊の真言の道を知らずして
  此神国の治まるべきやは』
(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)

人間は言霊によって原子力を手にしたが、原子力を過つことなくコントロールできるのは、正しき言霊を発することのできる正しき人だけなのである。

◎世界樹-9
◎アオウエイの五声
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空海の声字実相義

2013-08-25 07:15:40 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-8
◎空海の声字実相義

ユダヤ教のセフィロトの10球は、結局五大が基本であった。五大は有の世界のことであり、無を包含していないので、7チャクラあるいは、7ボディが無を包含しているのに比べると、世界樹にある十全性を欠くように思う。

まずは、空海の声字実相義。

五大にみな響あり (五大皆有響)
十界に言語を具す (十界具言語)
六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)
法身はこれ実相なり (法身是実相)

五大とは、地水火風空のことで、それぞれにバイブレーションがある。
十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界であり、死の世界も含めたあらゆるボディの世界。それぞれの世界にリズムとメロディがある。

六塵とは、色・声・香・味・触・法のことで、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの感覚刺激の対象や、思考の対象のこと。それぞれにシンボルとしての文字がある。
こうした現象の現れも実相である窮極の真理である。

このように空海も、現象が五大から展開すると見ている。それが十界というそれぞれの宇宙という場で、感覚や思考の対象となる現象を形成、変動させているのだと。仏界にも響きがあるのだろうかという疑問はあるが、五大では全体とし有の世界を説明しているので、セフィロトと同次元のことを語っている。

さて出口王仁三郎は、空海は、宇宙の根源はア字から出てきたという阿字本義を唱えたが、実はス字本義が正しいと主張した。

◎世界樹-8
◎空海の声字実相義
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ユダヤの生命の木

2013-08-24 07:00:38 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-7
◎ユダヤの生命の木

中国の建木では、10個の太陽なので迷わず10チャクラのことと見た。古神道でも十種神宝(とくさのかむだから)という概念があり、説明を見ると10チャクラのことだろうと想像される。

さてユダヤの生命の木では、10球を用いる。10球だが、その説明を見ると10チャクラではないことがわかる。

というのは、セフィロト・生命の木は、2~6世紀に編纂された「創造の書」において初登場するのだが、「創造の書」では、セフィロトについてこんな風に書かれている。

『律(ミシュナ)1.2
  そこには無形の十のセフィロトおよび基礎となる二十二の文字がある。そのうち三つは母なる文字であり、七つは重複し、十二の文字は単音である。

律(ミシュナ)1.3
そこには無形の十のセフィロト〈それは十本の指の数である〉があり、五つと五つが向かいあっている。そして、中心には、舌(発声器官)のような、裸体(機関〉のような統合の契約が設置されている。』
(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜/箱崎総一/青土社P92-93から引用)

これを見ると、一つ一つの球がセフィロトであって、10とは、5の陰陽であるから、10球セフィロトとは、六〇干支の十干に相当するものであることがわかる。ただし、十干は、木火土金水の五行を根本思想とするのに対し、西洋では基本の五大(地水火風空)が根本思想のはず。ところが、セフィロト解釈においては、5+5の基本についてはほとんど顧みられていない。

むしろ、10球のうち下から七つが7チャクラ照応という説(カバラーの世界/パール・エプスタイン/青土社p92-93)や、最上位の3球を一つと数え、最下位の2球を一つと数え残り5球を五つと数え合計7チャクラとする説(神秘のカバラー/ダイアン・フォーチュン/国書刊行会P88)などの、いかにもとってつけたような説が主流のようである。

ユダヤ教において、5+5の基本概念が劣勢であるということは、「失われた古代テクノロジー」の一つなのではないかとおもう。7チャクラ照応は、前掲ミシュナにあるとおり、本来22文字のほうに置いたのだろう。

このように宇宙樹としてのセフィロトは、宇宙全体の表現としては、7チャクラあるいは10チャクラで表現するのではなく、五大の延長としての10球を採用したと見るべきだろうと思う。

こうして五大は、言霊の基本たる五声に展開していく。

◎世界樹-7
◎ユダヤの生命の木
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閻浮樹

2013-08-23 05:18:01 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-6
◎閻浮樹

仏教の世界観では、世界は四州からできているが、インドの所在する南の州を閻浮提と呼び、その中央に巨大な世界樹がある。これを閻浮(Jambu)樹という。

室町時代の禅僧一休の別号は、めくらのロバである。しかし、臨済の後継者三聖は臨済の後継者に値しなかったが、自分こそそれに値すると意気高い。一休には、それほど厳しく修行してきたという自負がある。

生真面目とは言えない破格の詩集狂運集において、彼は閻浮樹という世界樹について詩を残している。


閻浮樹(えんぶじゅ)

閻浮樹 乾坤に逼塞し
葉々枝々 我が脚跟
太極 梅花 紙窓の外
暗香 疎影 月黄昏

『閻浮樹 乾坤逼塞
葉々枝々 我脚跟
太極 梅花 紙窓外
暗香 疎影 月黄昏』

(大意)
時間のない世界で、天地の中央にある閻浮樹は、天地を塞(ふさ)ぎ、
たわわな葉も繁れる枝も、私の足の下にある。
陰陽の分かれる以前の万物の根源(太極)のシンボルである梅花は、障子の外にある
どこからともなく漂う香りと障子に映る梅花のまばらな影をたそがれの月が映じている。

閻浮樹は、世界樹であり、北欧神話のイグドラシルである。世界樹は、根の側が頭頂サハスラーラ・チャクラに当たる。だから閻浮樹の根には黄金が埋まっているともいわれる。


世界樹を足元に置いている一休の立ち位置は現象世界の外側に立つ。つまり個性の極点であるコーザル体を超えた位置にある。これはつまり、合気道植芝盛平の言う天の浮橋に居るということなのだろうと思う。

太極である梅花が、障子(紙窓)の外にあるというのも同義。
その障子に、現象世界の転変が、シネマのように月の光を受けて映写されるのだ。

これはとても秘教的な詩だが、一休自身が、生死も超え、現象の相対性をも超えた外側を生きていることを自分で説明している印象的でロマンチックな詩に仕上がっている。

◎世界樹-6
◎閻浮樹
【ザ・ジャンプ・アウト 012】



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建木=中国の世界樹

2013-08-22 05:47:26 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-5
◎建木=中国の世界樹

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。

淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』
(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指す。

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。世界樹の根は死の世界の側であり、樹冠側が生の世界。死の世界は生の世界より広い。

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラにあたり、別格であることを示す。

沐浴は不思議である。錬金術書哲学者の薔薇園では、結合の前に沐浴し、道教の慧命経では、転法輪には、沐浴2回のルールがある。この沐浴とは位置を移動せず、単に位置が定まっているということか。

◎世界樹-5
◎建木=中国の世界樹
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錬金術の世界樹

2013-08-21 05:29:50 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-4
◎錬金術の世界樹

世界樹は、哲学の樹(アルボル・フィロソフィカ)とも呼ばれる。錬金術文書では、転倒した樹(アルボル・インウェルサ)とされ、上から下に成長し、樹冠が下に、根が上にある。この転倒した世界樹は、古代秘教的世界観から来るもので、神である根から世界が発出しているという見方に、人間からの見え方を加えたものである。

『ある錬金術の文書では、「鉱物の根は空に、枝は大地の下にあり、これを引き抜くと、恐ろしい音がして、大いなる恐怖が続く」と記されている。『世界の栄光』では、哲学者たちの言葉として「その鉱物の根は空にあり、梢は大地の下にあり」と述べられている。
(中略)

転倒した世界樹の数多くの例の中で最も有名なものは、『ウパニシャッド(奥義書)』にあるものだろう。樹の宗教的意味がアルボル・フィロソフィカのそれと似ている。

この宇宙は永遠に存在する樹であり、その根は高く、枝は下に広がる。
樹の純粋な根がであり、その中に三界(欲界と色界と無色界)が存在し、これを超越する者はいない。』
(ヨハンネス・ファブリキウス/錬金術の世界/青土社p229から引用)

悟っていない人間には、世界樹は根が下に枝が上に広がって見える。世界樹の根を目撃した瞬間に、世界樹の見え方はひっくり返る。世界樹の根は神であり、仏であり、タオであり、ニルヴァーナである。

この逆転した世界観こそ覚者の証拠である。悟った人が周辺に理解されないのはここに最大のキーポイントがある。

また霊が見えようが、ハイアーセルフと話ができようが、世界が逆さまに見えない人は本物ではない。タロット・カードの木から吊るされた男こそ、覚者の姿である。

更に、逆転のニュアンスはないが、古代秘教に世界樹のビジョンがある。それは、旧約聖書の創世記の生命の木である。生命の木はエデンの園の中央にある。エデンの園の東に、天使ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、生命の木の道を守らせられた。これは、人が生命の木に至る道を保証し、その道を保護していることになるだろう。聖書のこの部分で、人には永遠に生きる道がある可能性をも示唆している。天使ケルビムは猿田彦みたいなところか。さまよえる魂を善悪立て分けて、行くべき相応の道を指し示す。

◎世界樹-4
◎錬金術の世界樹
【ザ・ジャンプ・アウト 010】


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世界の転換

2013-08-20 05:39:03 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-3
◎世界の転換

タロットカード「吊るされた男」では世界が逆さまに見えるだけである。要するに視点が変わっただけで、それだけのことである。

しかし、世界樹のシンボルで示唆するのは、世界観の転換という視点だけの変化ではない。世界そのものが転換するのである。樹冠と根の位置が逆転するとはそういうことである。

一般に、新しい世界に入ればそれが世界の転換だと人は思う。

臨死体験でよくあるケースで、真っ暗なトンネルを抜けたら、エーテル体世界に入り、天上に張りついてベッドに眠る自分の肉体を見下ろしていた。最初の体外離脱はショックなものだ。肉体宇宙からエーテル体宇宙に変わったが、見ている自分は変わっていない。よってこれは視点の転換にすぎない。

エーテル体宇宙も超えて、スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナーや出口王仁三郎や沖縄のユタ恐山のイタコのように様々な霊的生物に出会うアストラル宇宙に入った。居る世界は変わったが、見る自分に変わりなく、視点の転換ということでは同列である。

こうして、第四身体たるメンタル体宇宙も超え、第五身体たるコーザル体宇宙も超えるが、それぞれの宇宙の超越そのものも、残念ながらやはり視点の変更にすぎない。

霊界に入ったことが人間として大きな進歩だみたいにいう人がいるが、その驚異の実感には嘘はないのだろうが、それだけでは何も産まない。というのは世界は逆転しておらず、自分は自分のままで、みじめでちっぽけな自分は何も変わっていないからである。

つまりコーザル体宇宙までの、「居る世界の変更」では真の「逆転」は起こっていないのだ。
タロットカードの木に吊るされた男のように世界は逆転して見えはしないのだ。

さて十牛図第七図は、忘牛存人。神、仏という全体性は取り込んだものの、いわばそれまでのあらゆる宇宙の延長であることに変わりはない。つまり逆転が起こったという風情ではない。だから慈遠禅師や廓庵禅師のコメントも、のんびりとした風情を漂わせている。理屈からすれば、世界と一つになったこの段階で、大きな感動をありがとうと叫ぶべきところだが、そんなムードではない。

十牛図第七図はアートマンだが、第八図になって「なにもかもなし」、言葉では表現できないとなる。それもリアリティ。ここに二つ目のリアリティが現実となってやってきて、本質的な意味で世界が転換する。ここで初めて、本質的な意味で、視点が変わるのではなく、世界そのものが変わる。

このようにいわゆる「世界の転換」にはいろいろなバリエーションがあるが、真の転換は、アストラル・トリップでも、霊覚を磨くことでも勿論ない。それは、十牛図第七図相当のヘルメス文書の「諸力に自らを引き渡し、諸力となって神の内になる。」(ヘルメス文書/朝日出版社から引用)という表現から一歩先にある。
自分が神を見るという視点は失われ、神が神として見るのである。

◎世界樹-3
◎世界の転換
【ザ・ジャンプ・アウト 009】



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ウパニシャッドの輪廻転生

2013-08-19 02:28:07 | 冥想アヴァンギャルド
◎説明をはぐらかす

古代インドのカタ・ウパシャッドでは、子供のナチケータスは、父親によってその身を死神ヤマに布施として与えられようとしていた。

ナチケータスは、自分たちを死神の家の前で3日も待たせた償い(三つの恩典)として、死後のメカニズムについて説明してくれるように、死神ヤマに求めた。

『「死んでいった人について、次のような疑問があります。―――『彼は(死後の世界に)存在している』という人々もあり、他方『彼は(どこにも)存在しない』という人々もあるのです。このことについてわたしはあなたに教えられて知りたい。(三つの)恩典のうちの第三の恩典はこれです」(20)

「この点については、古来神々でさえ疑問をもっていた。それは理解しやすいことではないから。この事柄は微妙である。ナチケータスよ、他の恩典を選ぶように。私を悩まさないでほしい。それ(を教えること)を私に免れさせてほしい」(31)』
(世界の名著 バラモン経典原始経典/中央公論社P134から引用)

このやりとりの後、死神マヤは結局説明させられるのだが、その内容は我ら俗人が期待するような内容ではなく、本来の自己たるアートマンを奉斎することで、かの恒常なるものに至ることを勧めている。


さて、死後の成り行きについて、我々が期待するようなことを説明することは、百害あって一利ないことを彼らは知っているから彼らはまともには説明してこないのではないかと思った。

というのはオーディンの箴言にこんなのがあったからである。
『誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。誰も自分の運命を前もって知りはしない。知らない者は心配がなく、平穏な心でいられる。』
(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P31から引用)

つまり、ほとんどの人は、現在只今において、自分の末路について受け入れる勇気も覚悟もないのが現実だろうからである。キュブラーロスの指摘するように、自分の死を受け入れるのには準備と段階が必要なものだ。

蛇足だが、カタ・ウパニシャッドのこの説明の中でアートマンは心臓内の洞窟に親指大で存在していると死神マヤは説明しているが、「魂の科学/たま出版」でスワミ・ヨーゲシヴァラナンダも同じようなことを言っている。

そうなのかも知れないが、これは七つの身体論について霊がかりな解釈を惹起しそうな説明ではある。



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わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転

2013-08-18 07:10:22 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-2
◎わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転

イグドラシルには、世界が倒立しているニュアンスはない。そこで万神の主宰者オーディンが登場してくる。

オーディンの箴言から、
『箴言138.
わしは、風の吹きさらす樹に、九夜の間、槍に傷つき、オーディン、つまり、わし自身に我が身を犠牲に捧げて、たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。』
(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P38から引用)

九は数の窮極であり、「九夜」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。時間を超えた世界であるから、もはや個性を超えた世界を指す。

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

「わし自身に我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない絶対者(神、仏、ニルヴァーナ、中心太陽)のレベルに至っていること。絶対者においてレベルなどはないが、ここはわが身を捨てるのだ。
このあたりは、古神道の出口王仁三郎が、本来の自己である本守護神を奉斎させたのと同じ。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者のこと。天である絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

このようにこの箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(神、中心太陽、オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、エネルギー・コード(クンダリーニ)にぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

つまりこの箴言の視点は人間の視点からではないが、この風景はいつもおなじみのタロットカードの「吊るされた男」で見かける風景であった。

◎世界樹-2
◎わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転
【ザ・ジャンプ・アウト 008】



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イグドラシル

2013-08-17 07:30:03 | ザ・ジャンプ・アウト
◎世界樹-1
◎イグドラシル

北欧神話エッダの宇宙樹イグドラシルは巨大なトネリコで、あらゆる樹木の間で最大最良のもので、世界の軸であり支柱である。

その枝は、全世界をことごとく蓋い、天に達している。三本の根は神々の世界アースガルズと、氷の巨人の世界ヨトゥンヘイムと、死者の世界ニヴルヘイムの3つの世界に伸びている。

各世界の根元には泉があり、死者の世界ニヴルヘイムの泉は、フェルゲルミルと呼ばれる。この泉は、大地を潤すすべての大河の源泉であり、大地を人間の住める場所にしている。地母神は死の世界に発する。

さらにフェルゲルミルの泉には有翼の巨大な蛇ニーズホッグが棲み、根をかじっている。有翼の巨大な蛇ニーズホッグは、言うまでもなく、クンダリーニである。

巨人と言えば唐突だが、滅亡したアトランティス人を指して巨人と呼んでいるのではないかと考えている。オーディンは巨人の泉ミーミルの水を飲んで智慧を得た。

時代が下って8世紀、サクソン人は、この地方の宇宙樹信仰のシンボルであった大木の幹でできた宇宙の柱イルミンスルを崇拝していたが、772年神聖ローマ帝国カール大帝がこれを破壊することでサクソン人との開戦となった。
(イルミンスル所在地:ヴェストファーレン州、オーバーマルスベルク)

これにより、ドイツも、世界の死の部分、闇の部分を覆い隠すアポロン的西欧文明優勢の世界に組み込まれていくことになった。

◎世界樹-1
◎イグドラシル
【ザ・ジャンプ・アウト 007】



カール大帝の金の胸像(アーヘン大聖堂宝物館)wikipediaより


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