アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

知性が神を知解する

2013-07-31 05:53:44 | 現代冥想の到達点
◎知性のみが、一者を観る

錬金術の元祖ヘルメースが子タトに、知性が神を知解するメカニズムを諭す。

『さて生れざる一者は、表象されざるもの、不明なるものであるが、万物を表象せしめることにより、万物を介し、万物において現れ、

とりわけご自身のよしとするものに現れるものであることは明らかである。

そこで汝、わが子タトよ、まず主に、父に、唯一なる者に、「一者」ではなく「一者」の源である者に祈りなさい。――――憐みを得てこれほどの神を知解することができるために、そして神の光線の一条でもおまえの思いに輝くように。

実際知性のみが、みずから不明なるが故に、不明なものを観るからである。

タトよ、もしお前にその能力があれば、それは叡知の眼に現れるであろう。主は妬みなきが故に、全世界を通じて現れるのである。

お前は、知性を見、みずからの手でこれを捉え、神の像を見うるのか。

お前の内にあるものですら(知性)でさえ、お前にとって不明であるとすればどうして〈神自身〉がお前の肉眼を介して現れるであろうか。』
(ヘルメス文書/荒井献/P138-140から引用)

まず祈ろう。

観ている自分というのは、最後の場面でも問題になる。しかしここでは、「知性のみが、みずから不明なるが故に、不明なものを観るからである。」とし、知性が彼自身の悟境とある意味で関係なく一者を知的イメージとして捉えることができる可能性を示す。

さて生れざる一者は、表象されざるもの、不明なるものであるが故に、言葉では表現することはできない。

それでも生まれざる一者について表現をしようとチャレンジする意図があれば、それは知性によって為され得る。なんとなれば、知性そのものも不明なものであるからだと。

大いなるかな知性の機能。

こういう議論が青銅器とかせいぜい鉄器しかなかった時代に正々堂々となされていたことに、驚きを禁じ得ない。ほとんど現代並みの高度な物質文明を送らなければ、平然とこういう議論は出て来ないのではないか。

本山博も言うように、人は物を沢山持つことで自我を膨張させ、自我を極大化するサポートとすることができる。物を沢山持つ生活とは文明生活である。

ヘルメースの子タトもそのような文明生活を営み、こうした議論の出るような自我の苦悩に直面していたのだろうと思う。


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死をも恐れぬ会津武士

2013-07-30 05:58:12 | 丹田禅(冥想法8)
◎生死を離れねば何事も役に立たず

NHK大河ドラマ八重の桜で会津武士は死をも恐れず戦った。前回の放送で家老萱野権兵衛役の柳沢慎吾が白装束で割腹直前に、部屋を出ていくときに、室の戸を開け、きちんと90度曲がり廊下の中央を歩いて行ったのには、一瞬のことながら武士の所作の美しさをみせてもらった。武士は大道の中央を歩き、角では直角に曲がるもの。

会津武士の美しさは、平生より死をも恐れぬことにある。その地域社会全体に死を恐れない、あるいは死と取り組むという気風があれば、その社会はやがて生をも死をも超えた覚者を定期的に産んでいくことになる。

それは、会津だけではなく、武家社会を通じて全国にあった風俗であったものだ。

極楽も地獄も先ずは
有明の月の
心にかかる雲もなし
(上杉謙信/謙信家記)

武士(もののふ)の学ぶ教へは 押しなべて
そのきはめには 死の一つなり
(塚原 卜伝)

毎朝毎夕、改めて死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生涯落度なく、家業を仕果たすべきなり
葉隠

生死を離るべき事、武士たるものは、生死を離れねば何事も役に立たず、万能一心と云ふも、有心のやうに聞ゆれども、実は生死を離れたることなり。その上にて、如何様の手柄もさるるものなり。芸能などは道に引入るる縁迄なり
(葉隠)

生死を離れるとは、生死の区別を超えるということであって、生の側から窮めるということ。武士の冥想は禅と決まっている。

禅では、チャクラがどうとか、七つのボディがどうとか、グラウンディングがどうとか、観想で神仏をビジョンで見るとか、アセンションとか、南無阿弥陀仏とか、南無妙法蓮華経とか、願望実現などということは一切言わない。

若年のうちに死の問題にけりをつけられれば、見事な一生となるだろう。それが葉隠の「如何様の手柄もさるるものなり」。生と死に区別がないと言うは易くそれを徹底するのは簡単ではないが、武士の時代にはそういうベクトルが生きていたし、第二次世界大戦の頃までには確かにあったように思う。


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立川武蔵のシャクティ・パット

2013-07-29 05:57:32 | 密教
◎不用意にチャクラを開かぬようよくよく用心すること

密教学者の立川武蔵氏は、1994年12月のある日、ある女性にチャクラを開けてもらった(マンダラ瞑想法/立川武蔵/角川選書P157-163に記事あり)。その女性が言うには、チャクラが開けば次の世に輪廻することはないのだそうだ。

彼は素直にそれを受け入れて、輪廻したくないとも思わなかったが、彼女に開いてもらった。それは印堂と頭頂であって、アジナー・チャクラとサハスラーラ・チャクラである。

そうしたら、以後立川武蔵氏の印堂が非常に敏感になって、それまで手で感じていた-感じていたと思っていた-のを、そのスポットで感じるようになった。更に何か物体が眉間(印堂)の近くにくると痛みに似た感触を覚えて眼を開けていることが難しくなってシャックリのような声を出すようになった。

シャクティ・パットとは、一般には、チャクラを開けるだけのことである。分析的に見るならば、開いたというチャクラは、エーテル体のそれか、アストラル体のそのれか、メンタル体のそれかということがある。

この行為がいわゆる霊道を開けたということなるかも知れないが、それに伴うリスクは高い。

チベット密教の学識経験者であるクショグ・ワンチェンが、霊的なものへのコンタクトを適切な指導なくして行うことの危険を指摘しているが、知らぬが仏の部分はある。霊的なものを語るのはクンダリーニ・ヨーガであって、只管打坐では、一切そういうものを相手にしない。

立川武蔵氏は、1996年までには、密教法具などには、手に取ると平衡感覚を失い言葉が離せなくなるなどの「念」のある不吉なものもあるということを感得したと言っているが、その程度だったのだろう。

人には受け入れる準備ができたイベントしか起こらないということがあると思う。しかしシャクティ・パットでチャクラを開けるみたいな、ともすれば生命に危険が及ぶことを気軽にやってはいけないと思った。


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最後の審判

2013-07-28 06:47:47 | クンダリーニ・ヨーガ
◎かつて死んだ者も生きている者も

最後の審判(公審判)というのは、人間が死後中有において、閻魔大王の前で個人的に生涯の善悪の軽重を確定させられて、天国や地獄に行くイベントではなく、この世の生きている人のみならず死んでしまった人すべてが再度呼び出されて、みんなまとめて裁きを受けるもので、キリスト教にある。

『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』
(ヨハネによる福音書5章25~29節。)

『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。』
(ヨハネの黙示録20章11~15節)

これはイエス存命中には起こらなかったが、起こるのは今の時代だろう。我々と全然関係なさそうな過去の死者が呼び出されるというのが注目ポイントである。

最後の審判はキリスト教だけでなく、似たようなのがゾロアスター教にある。

ゾロアスター教では、歴史は3区分であり、第一期創造、第二期混合(善悪が混じり合っている意)、第三期分離(善悪が分離する意)。

第三期の始めに善と悪は分離し、悪は永遠に撲滅される。このイベントがフラシェギルドと呼ばれ、最後の審判に該当し、この時歴史は終結する(北欧神話でも歴史の終わりは似たようなものだ)。

チベット密教では、中有(メーノーグ)の中で個人の審判が為されるが、中有とは善と悪が混じっている状態。善と悪が混じっている状態は、ゾロアスター教では、最後の審判フラシェギルドまで続き、この時天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げる(大地は死者の骨を引き渡す)。

そこで復活したものも、生きている者も、まとめて善と悪とが立て分けられる。邪悪な者は第二の死を迎えて地上から消滅するであろう。その後人間は不死者となって地上の神の王国を満喫する。
(参考:ゾロアスター教 3500年の歴史/メアリー・ボイス/筑摩書房P37-42)

これらは、アトランティス滅亡時に、次の1万2千年を見据えて準備した神話の一つであろう。

またこの最後の審判説はマンツーマン輪廻を否定している話でもある。


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あらゆる生物・無生物の生と死の記憶

2013-07-27 06:29:32 | 究極というものの可能性
◎縁起、シンクロニシティ

仏教で縁起というと、いかにもとっつきにくいが、それは今はやりのシンクロのことである。

そうすれば、悟りに到達できるかという条件を考えると最後に問題になるのは、如来、来るが如しというが、いつ来るのか、来てくれるのかということと、精神的成熟の問題である。

世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているが、これを心理学者ユングはシンクロニシティと呼び、釈迦は縁起と見た。シンクロニシティでは、世界のわずかなパーツしか見ていないのに対し、縁起では世界全体の事象の連関を見ているという違いがあるだけである。

悟りに至るのも縁起という側面はあるのだろう。どうすれば、その瞬間が到達するのだろうかと言えば、準備ができた時である。何をもって準備ができたときとするのか。それはおそらく人間としてあらゆる実感を体験した時である。

万人が、無生物から生物まで、あらゆる実感を体験するにはどのくらい時間がかかるのだろうか。
例えば釈迦前生譚ジャータカで、釈迦が前世で経験した生物は、隊商、財官、バラモン、農夫、鹿、牛、鼠、猿、うさぎ、象、とかげ、ライオン、おうむ、樹神、海神などであるが、こうしたものすべての生の実感を得るには何万年もかかるのではないか。

釈迦前生譚ジャータカは、基本的にマンツーマン輪廻が基本で流れるが、万人が悟る時代とは、文字通り万人があらゆる無生物から生物までの実感を得るには、マンツーマン輪廻ベースでは、万年の単位では全然足らないかもしれない。億年レベルでもどうか。

アクアリアン・エイジみずがめ座の時代とは、万人が悟る時代のことであるけれど、そのためには万人があらゆる実感を経ることが条件ということになっていく。よって、あらゆる実感を経るとは、物理的時間で言えば、人間の時間感覚を超える。天女が一辺40里の岩を百年に一度、天女が舞い降りて羽衣で撫で、 岩がすり切れてなくなってしまうまで を一劫とするが、そういう時間感覚のこと。したがって、この21世紀初頭までに、万人、いや70億人があらゆる実感を経るための生を繰り返し終えると言うのは、事実上不可能なのだと思う。

そうしてみるとあらゆる実感を経るとは、文字通りあらゆる生物無生物の生を生きるということでなく、「あらゆる生物・無生物の生と死の記憶」を味わうというというようなことを言っているのではないかと思う。味わい方には勿論深浅高低があるだろう。

それを促進していくのが冥想なのだと思う。


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脱出か今ここか

2013-07-26 05:22:36 | 時代のおわり
◎ユダヤ人の脱出(エクソダス)

ある日ラビ・トケイヤーがユダヤ学者箱崎総一にこんなことを言った。

『考えてもみてくれたまえ。ローマ時代からユダヤ民族はその故郷を追放されて生き続けてきた。そして数千年ものあいだ民族としての主体性を失わずに存在し続けてきたのだ。この長い期間を通して、ユダヤ民族はあらゆる土地で迫害を受けてきた。

たとえばヨーロッパのある都市のゲットーでユダヤ民族の集団虐殺事件が発生したとする。恐らくその大部分は殺されてしまうが、そのなかの最も優秀で状況判断の正しい何人かのユダヤ人は脱出に成功することになるだろう。

事実歴史はそのことを証明してくれている。数千年もの期間を通じて絶えず虐殺・迫害という淘汰を受け続けてきた場合、その民族がいかに優秀な分子だけを後世に残す結果になるか想像もつかないだろう。

ラビ・トケイヤーの言葉には冷酷な歴史的真実がどっしりとした重みで含まれている。ラビはさらに言葉を続けて言った。
“だからユダヤ人たちの心理には常に脱出という行為に対する偏執的な傾向が認められる”』
(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜/箱崎総一P48-49から引用)

まず全員を助けようという発想がないのは怖い。そこは仏教なんかとは違う。現代人が普通に直面する心的特徴は『今ここに、居られない』というものであって、そういう人たちに脱出をもちかければ簡単に乗ってきそうな気がする。その意味でこの世での脱出というのには、罠があるように思う。

現代人のテーマは、“今ここ”に直面することであって、脱出ではないからだ。

しかし中国下層民よりも更に厳しい歴史を経てきたユダヤ人にとって“脱出”というのは問答無用のテーマなのだろう。だからといってこの世界からの脱出なんてことを考えているのであれば、これまた怖いことだと思う。

蛇足だがクリティアスによれば、世界的大洪水では、人間のさかしらな思惑とは裏腹に無学で凡庸な人間ばかり生き残ったとされている評価もある。


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全生涯のパノラマ的回顧と輪廻

2013-07-25 02:50:54 | 冥想アヴァンギャルド
◎死後の審判以後の謎

マンツーマン輪廻が真相ではないという説を挙げたが、いかにもマンツーマン輪廻でないと理解しがたい仔細もある。それが、全生涯のパノラマ的回顧である。
チベット死者の書は、死に行く人向けの書であるせいか、いかにもマンツーマン輪廻っぽく書いてある。

以下のチベット密教の高僧ソギャル・リンポチェの説明では、全生涯のパノラマ的回顧は、死後の中有における審判の場でも起きるし、生前にも臨死体験や、スカイダイビングなどの危機に際しても起きる。

ただし微妙な表現かも知れないが、複数生涯のパノラマ的回顧のことは聞かないので、全生涯のパノラマ的回顧は、その乗り物たる単独ボディの記憶であって、マンツーマン輪廻転生の証拠ではないように思われる。

死後の審判では、生前の善業、悪業の結果により行く先が振り分けられるが、その先がどのようになってこの世に再誕されるのかは詳細な説明が、なぜか行われてはいない。それこそが、マンツーマン輪廻かどうかというキーポイントであるのだが。

乗り物たるボディというが、今般の肉体がそのまま輪廻の主体となるわけではないので、個性のあるコーザル体、メンタル体、アストラル体のいずれかがマンツーマン輪廻転生の主体と考えられる。

それらの微細ボディでの輪廻というのはとても理解しやすいが、真相は微細ボディにおいては、一対一輪廻であるとは限らず、一が多になったり、多が一になったりするし、人の来世は必ずしも人間であるわけでもないのだろう。

その辺のヒントは、OSHOの説などの他に古代ギリシアの変身物語系に落とされている可能性があるように思った。

『審判

バルドの記述のあるものは、「審判の場」を描写している。世界の数多くの文化のなかに見受けられる死後の裁きにも似た「全生涯のパノラマ的回顧」の一種である。

あなたの良心の象徴である白い善神があなたの弁護人となり、生前にあなたがなした善行の数々を数えあげる。逆にあなたのやましい心の象徴である黒い鬼が、あなたの罪の告発者となる。善行、悪行は白と黒の小石で数える。

審判を司る閻魔王は、カルマを映しだす鏡に諮って審判を下す(第二十章参照。またチベットの民族歌劇ラモにもこうした場面が見られる)。

この審判の場は、臨死体験の「全生涯のパノラマ的回顧」と興味深い相似があるように思える。究極的には、審判はすべからく自分の心のなかで行なわれるものなのだ。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身である。

レイモンド・ムーディは『続・かいまみた死後の世界』(評論社)において以下のように述べている。「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受けいれてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行なわれるということだ」

臨死体験をしたある女性はケネス・リングにこう告げている。「あなたの人生を見せつけられるのです。――――そして裁くのはあなた自身なのです・・・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」(『霊界探訪』三笠書房)

この審判の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻みこんだ潜在力や習癖の力から逃れるすべはないことを示している。これはわたしたちが今世だけでなく来世や来々世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味する。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P470-471から引用)


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宮廷の諍い女:内的テンションの高さ

2013-07-24 06:06:57 | 時代のおわり
◎禅問答の土壌が生きている

宮廷の諍い女の小エピソードのそれぞれが、理不尽の連続である。嫉妬されるのも理不尽だし、追い落としの陰謀を仕掛けられるのも理不尽。しかし後宮ではその理不尽が日常的に繰り返される。

BSフジの華流ドラマでは、前作の「孫子≪兵法≫大伝」も理不尽に次ぐ理不尽な小イベントのてんこ盛りであり、中国人はこの理不尽の連続に感情を激しく移入するのだなと思った。中国人がすぐ激高して大声になるのも、理不尽の日常的発生による、内的緊張感の高さがあるためなのだろう。

内的緊張感の高さは、禅問答の土壌でもあり、宮廷の諍い女の主人公甄嬛(しん・けい)が、皇后に協力するかどうかを問われ、香炉に水をかけて火を消して協力すると答えるシーンがあったが、それは禅問答そのものだった。
仏教云々ということでなく、他のものに仮託して他人の真意を問うやり方が根付いていることに、これが中国なのだと感じ入った。禅問答の土壌が後宮のような知識層には残っているのだろう。

また禅問答の字面そのものも理不尽と言えば理不尽である。

理不尽があまりに連続するというのは、生きていくことが大変であるということである。そういう日常では、なかなか冥想は育たない。冥想が旦那衆の道楽と言われる所以である。

日本では、江戸時代白隠が隻手の公案でもって多数の見性者を打ち出したが、日本では白隠独特の経歴と個性によってこれが成し遂げられたという側面が強いのかもしれない。

日本の日常は、現代中国のように思想信教の自由もなく、国政選挙もなく、役人を中心に汚職腐敗が満ち満ちている世界ではない。

そんな中国では理不尽そのものに直面させる手段として禅問答が唐代から盛んになって、多くの覚者を輩出させることになった。よって禅問答というのは、日本の日常は、中国にいるほど内的緊張を強いられるものではないがゆえに、日本での禅問答は中国におけるほど有効ではないのかもしれないと思った。


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夢を売る男

2013-07-23 02:10:08 | 時代のおわり
◎小説がつまらない時代

を売る男/百田尚樹/太田出版を読みました。

特に2000年以降出版不況が顕著になり、小説家というハイ・ステータスは、日本の伝統的集団幻想に過ぎないものになってしまったというのを思い知らされた。
出版関係統計を見るとリーマンショック以降出版不況はさらに厳しいものになっている。

出版社側の生き延びる手段の一つとして自費出版が盛んになってきた背景がよくわかる。かつて花形の稼ぎ手だった売れっ子小説家というのは、ほとんど絶滅危惧種になった。

印税で年間10百万円稼ぐには、印税率10%で単価千円の本を10万部売らなければならないが、この本を読むと、最近は10万部売るというのはかなり大変なことのようである。小説の印税で年間150万円稼ぐのも結構大変みたいなことが書いてある。最も売れそうな小説にしてからが惨憺たるありさまで、いわんやその他の実用書なんかは話にならないのだろう。

最近の若者はめっきり本を読まなくなったが、出版不況がここまで深刻になった理由は、小説を読む読者層の減少ということになるのだが、それより大きい理由は、核家族化により私生活の分断、孤立化が進行したことと、可処分所得の減少があいまって起きているように思う。

更に読者個人の意識の更なる孤立化の進展という側面もある。
私小説とは、作者のプライバシーの切り売りである。
要するに小説家という一部の特殊な人間のプライバシーについて真剣に関心を持てないほど、読者個人の自意識が多様化し孤立化した結果、その論理的帰結として「小説を読んでも面白くない」ということが段々と皆わかってきたのではないか。

宗教も他人の悟りでは通用しなくて、「自分の悟り」だけが問題になる時代となってきたのだから、当然といえば当然の流れである。
※他人の悟り:組織宗教の教祖などの「他人」の悟りのこと。


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デーメーテールと天照大御神

2013-07-22 06:49:45 | 究極というものの可能性
◎地母神との再会

古代ギリシアの地母神デーメーテール讃歌に天照大御神の岩戸開きみたいな話がある。

『「デメテルへの讃歌」によると、ある日ペルセポネが野原で花を摘んでいるとき、突然大地が割け、冥界の神ハデスが彼女を力ずくで地下に連れ去った。デメテルは愛する娘が突然いなくなったため、半狂乱になって娘を捜し求めた。

一切の飲食を拒み、松明を手に九日間、世界中をさまよい歩き、やっと一〇日目になってデメテルは、ハデスがゼウスの承認を得たうえで、ペルセポネを黄泉の国まで拉致したのだということを太陽神ヘリオスから聞いた。


娘の父親のゼウスがこの誘拐に加担していたことを知ると、女神はますます悲しみを深め、激しい憤怒にかられた。

そしてとうとう、神々の住むオリュンポスを去り、老婆に身をやつして、アテナイに近いエレウシスにやって来た。そこで偶然出会ったその地の王女たちの館に迎え入れられたが、悲しみに沈む女神は何も食べず、何も飲まずに沈黙し続けた。』
(ギリシア神話/西村賀子/中央公論新社P82-83から引用)

ここで、土地の牧人の妻バウボーがその悲しみを癒し、オープンマインドさせる。

『「オルフェウス讃歌」の伝える異伝によれば、その淫靡な役割をしたのはイアムベーではなく、バウボーなる女性であった。すなわちそれによると、エレウシースにやってきたデーメーテールは、その地の貧しい
牧人デュサウレースとその妻バウボーに迎え入れられたが、デーメーテールがもてなしの酒や食事に手をつけなかったため、バウボーがそれを怒り自分の性器を露出したので、デーメーテールも苦笑し、「キュケオーン」を飲むことを承諾したという』
(ホメーロスの諸神讃歌/沓掛良彦訳註/平凡社P52-53から引用)

勿論古事記では天宇受売命(アメノウズメノミコト)が、天の岩戸の前で、桶を逆さにしたお立ち台の上に立ち、ステップを踏んで神懸(かみがかり)して、おっぱいをかき出し、裳の紐を女陰の前に押し垂らしたら、八百万諸神がどっと笑った。

現代社会に欠けているのはこのパーツであるから、これはよく意識する必要があるが、こういうのは、ともすれば低レベル意識の狂乱に沈潜しがちなところがあるのは留意する必要がある。

古事記で地母神との再会がビッグ・イベントとして評価されているのは、日本人の生真面目な意識がこうしたものと上手な形で向き合うことが、必要なタイミングがあることを示す。地母神とは、アポロン的近代西欧文明が隠そうとし続けてきた部分。地母神と何時向き合うの。「今でしょ」。


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マス布教とテーラーメイド冥想指導

2013-07-21 06:46:42 | 究極というものの可能性
◎真摯な冥想者の数に応じてマスターが出る

修行と行法の結果は必ずしも一致しない。たとえば、只管打坐をやり続けていた人が、必ずしも身心脱落するわけでもなく、別のタイプの見仏に進む場合がある。またさる妙好人のようにマントラ・ヨーガを繰り返し実習していた人がマントラ・シッディに終わらず宇宙意識にまで飛び出していく人もいる。

さらにキュブラーロスの出会った黒人掃除婦のように冥想修行らしい冥想修行はなくとも、きちんと見神した人もいる。

さて現代の特徴はマスコミによる一律な情報の洪水的伝播である。そのやり口は、冥想に関しても、新興宗教の布教手段としても顕著だが、主に本や雑誌などの印刷物とネットでもって冥想と思想をコントロールしている。

しかし、もとより与えた情報や冥想手法が一律であっても、個々人によって出て来る結果は千差万別である。

さる教団に加入して冥想修行しても、大半は見仏見神しないし、運よく小悟みたいなのをしたとしても、それが見牛なのか、一瞥なのか、どのメンタル体チャクラの開顕であるかは、人によって異なるという、行法・冥想手法と結果のミスマッチというのは起き続ける。

つまり冥想のサプライヤーは、大量一律・ワンパターンだが、その結果はてんでんばらばらであるということ。宗教業界では、宗派を問わず、そうした長年の効果の薄かった布教実績が積み重ねられてきているだけということになる。宗教商売が回転していけば教団としては存続していくという面はあるが、それは個々の人間の救済とは何の関係もない。

仏典では、釈迦が対機説法だと言われるが、そのように、特にクリア・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガでは、相手によって全く異なる指導、つまりテーラーメイド指導をしないと、相手のためにならないのではないか。

つまり現代のように個々人の価値観や生き方が全く異なる世界では、個々人にとってテーラーメイドな冥想指導しか有効とは思えないのだ。

翻って、今の新興宗教のような冥想手法や思想の一律大量の流し込みは、大半の人にとって有害無益なのだと思う。マス布教は百害あって0.0001利くらいか。

個々人にとってテーラーメイドな冥想指導に必要なもの、それは、多数の冥想教師、マスター、グルである。冥想教師、冥想マスターへのデマンドは極めて高いが、サプライサイドは全く応えられておらず、ここに大きな需給ギャップが生じている。

されば、どのように多数の冥想教師、マスター、グルを育成していくか。地味ですが、ある意味コンビニのおじさん、おばさん、お兄ちゃん、おねえちゃんが日々冥想をするようになることでしょう。

本気で冥想に取り組む人がその位多数出てくれば(デマンドサイドの本格的拡大は、未(いま)だし)、マスターも自ずと大量発生していくもの。そんな感じでないと百万人単位で覚者なんか誕生しないわな。

そうなったら宗派とか教団の区別とか言っていない(超宗派的)で、自分に最もマッチしている手法を選ぶのが最優先されることになる。それがテーラーメイド。


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ジョルダーノ・ブルーノの「哲学で見る」

2013-07-20 06:50:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎哲学でも行ける

ルネサンスの異端者ジョルダーノ・ブルーノは、1592年ヴェネチア官憲により逮捕され、ヴェネチアの異端審問所に引き渡された。やがてローマへ移送され、ローマのサンタンジェロ城の息抜きの小さな天窓が一つあるだけの石牢に8年間幽閉された。

1600年ジョルダーノ・ブルーノは、カンポ・ディ・フィオーリ(花の広場)に裸のまま縛られて引き出され、生きながら焚殺された。

処刑執行にあたり、執行官から十字架を差し出されると十字架から目をそむけ、「裁かれている自分より裁いているあなた方の方が真理の前に怯えているのではないか」と言い捨て、舌枷をはめられてしまったという。

かれの著書『無限、宇宙および諸世界について』をみると哲学でもって世界の構成を論じている。今の時代ならあまり説得力のあるものとは思えないが、1603年に禁書目録に加えられて後も、ヨーロッパでは2~3百年も密かに読み継がれていったそうなので、それなりに正鵠を射たところがあったのだと思う。

彼の持説の、宇宙は無限であること、そして万物はその中で合成解体を繰り返し、輪廻もありうる(マンツーマン輪廻説ではない!)というのは、宇宙意識(一者)との合一体験の結果それを体験とはいえない体験として語ればクンダリーニ・ヨーギなのだが、哲学として説明したというのは、いかにもルネサンス風である。

つまり強固な近代的自我が一般的でなかった時代の人々に一者を説明するには、当時はまず哲学的思弁だったのであろうということ。

彼の著書「燈火を掲げる者」の序文には次の一節がある。
『時は、すべてを奪い、すべてを与える。万物は変化する。
ただ一つのみ、変わらぬもの、永遠なるものがある。永遠に一にして同一なるものとして止まるものがある。この哲学によって、私の心は大きくなり、知性はすばらしいものとなる。』
(無限、宇宙および諸世界について/ジョルダーノ・ブルーノ/岩波文庫P299から引用)

永遠=神との合一体験もなく、一瞥・見神もないが、確信だけはある状態でこれを書いたのだろうが、死の直前には、もう一歩進んでいたかもしれない。


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三つの明知

2013-07-19 06:07:37 | クンダリーニ・ヨーガ
◎死の世界から窮める

ある時釈迦は、拝火教徒バーラドヴァージャに出会った。

『〔尊師いわく、――――〕
「多くの呪文をやたらにつぶやいても、人は生まれによってバラモンになるのではない。
内心は汚物に汚れ、欺瞞に覆われている。
〔1〕前世の生涯を知り、また
〔2〕天上と地獄とを見、
〔3〕生存を滅ぼし尽くすに至って、
直観智を確立した聖者、――――

この三つの明知があることによって、〈三つの明知を具えたバラモン〉となるのである。明知と実践とを具えている人こそわが乳粥を受けて食べるがよい。」』
(ブッダ 悪魔との対話 中村元訳/岩波文庫P141-142から引用)

※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。

これで改心した拝火教徒バーラドヴァージャは、出家し、持戒し、清浄行を完成して語るには、
『「生存は消滅した。清らかな行いを実践し終えた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。
』(上掲書P143から引用)

三つの明知とは、クンダリーニ・ヨーガ的である。前世の生涯を知るのは、アカシック・レコードを見に行くこと。アカシック・レコードは死の世界である。

天国と地獄を見るのも死の世界を見るということ、出口王仁三郎なら高熊山修業

生存を滅ぼし尽くすとは、死の世界を窮めることによって、生の世界も死の世界もクリアする。つまり個から全体が展開する世界を生きる、あるいは全体が個として展開する世界に生きるということか。全体のほとんどは死の世界であり、その一部が生の世界。

最後の『もはやさらにこのような状態におもむくことはない』は、インド特有の、大悟した後はこの世の営みに戻らないという、十牛図なら第八図までで終わりという考え方だろうか。


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「宮廷の諍い女」で中国を思う

2013-07-18 05:57:35 | 時代のおわり
◎美しき中国バブル

「宮廷の諍い女」を見る楽しみは、まずその華麗なファッションである。皇后と沢山の側室たちは、いつも満州風の髪飾りで満艦飾であり、その衣服は豪華な絹であり、その中に春夏秋冬の四季のバリエーションがある。冬には毛皮も登場する。

纏足していなかったりするが(当然だが)、靴も布靴で宝石や香をあしらったりして、流石の伝統工芸を見せてくれる。

アクセサリーは金銀もさることながら、玉や翡翠のいいのが珍重されており、いかにも中国風の趣向で面白い。

舞台は北京紫禁城。撮影は紫禁城のコピーがある横店で行われたのだろうが、多くの宦官が赤い陣笠みたいなのをかぶって、へこへこ仕えるのも、いかにも宮廷風らしくて結構である。

大正時代までは、日本人は中国に礼節を学びに行ったりしたものだが、この「宮廷の諍い女」では、父母に孝、長上を敬う、主君に忠節などの礼節が生きていた中国を知ることができる。共産中国になってからは、そうした風俗としての美風を完全に破壊してしまったのだから。

それとチベット密教信仰。宮廷内にラマ教寺院があるみたいで、宮中の仏教行事シーンも出て来る。側室などが菩薩に家族の安泰を願掛けしたりしている。共産中国ではあれだけ、チベット密教を抑圧し、文化大革命で北京の雍和宮が破壊されなかったのは周恩来の命令があったからだなどという厳しい状況を考えると、よくチベット密教崇拝シーンを入れたものだと思う。

共産主義思想からいえば、皇帝一族というのは、階級敵のトップであり、人民が打倒すべき最大のものだったはずだが、中国ドラマもこのアンチ共産主義みたいなドラマ(反革命思想???)がトップドラマになるほどに思想の締め付けが緩んだということだろう。
これを以って、中国の共産主義支配は自壊が近い徴候とみる。

おまけに、この「宮廷の諍い女」は、台湾では神ドラマと賞賛されている。

残念ながら平日の17時台という最も人がテレビを見ない時間帯に放映されているので、いつも録画して見ざるを得ません。

さて中国は、過去10年まぎれもなくバブルであった。バブルの時代は後から見ると文化的にちゃんとした書物が、その旺盛な時代の経済力でもって、多く排出されるものだと日本の先例を見ても思う。

私は日本の人文関係の本を読むことが多いが、肝心な書物は大概1990年代前半までに出されていることが多く、2000年代に入ってからは、大学の数は1.5倍に増えたのかもしれないが、人文科学系で、これぞと感心する本は比率としては少ないように思う。勿論背景には出版不況もあり、町の本屋がどんどんなくなっていったこともあり、個人所得の実質減により本を買わなくなってきたこともある。

閑話休題、「宮廷の諍い女」という素晴らしいドラマは、とにもかくにも中国バブルが生んだ美しい作品の一つとして記憶されるだろう。


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リッチまたはプア

2013-07-17 06:11:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎足ることを知りたる人

出口王仁三郎の短歌で、リッチまたはプアを扱うもの。

足ることを知りたる人は 天地(あめつち)の神の仁慈(めぐみ)をさとりたるなり

いかほどに知慧や宝をもつとても 神を知らぬは貧しき人なり

貧しくも心正しくすむ人は 神の恵みに富めるものなり

人の富 何うらやまむ 人はただ誠ひとつを宝と思えば

とこしえに朽ちぬたからは すめ神の道に尽くせし誠なりけり

目をぬすみ宝を盗み日をぬすむ人こそ神の罪人と知れ

よきことをなせば霊魂(みたま)のふゆるなり 悪事は魂(みたま)の力をうしのう


まず足ることを知っている人は神の心をさとっている人である。こればっかりは、他人がこうだと教え込んでも本人が納得しないとそうなるものではない。

財産や智慧や情報や権力がいくらあっても、神を知らないのは貧しい人である。ところが神を知らなければ、自分が貧しい人であることを自覚することはない。ここはジレンマ。

物質的にプアでも心正しい人こそがリッチな人である。心正しい人は、誠を持っているから、リッチな人をうらやむことはない。

誠というのは、正直な心とか素直な心ではなく、絶対的な危機を通過して、「いまここ」にあって、神を見るとか、神に出会うとか神と合一したなどの体験あるいは、体験とは言えない体験を経た者の実感や生き方のことである。

それがあって、はじめて心正しいといえる。
そうした体験なしに足ることを知っている人は、実にさとい人だと思う。

人の自我は所有物が増えることで成長し、やがてその欲望が自我の極大化に向かわせ、自我は絶望に直面する。人生航路上で実際にそういう典型的な物質リッチになって物質プアになる人もいるのだろうが、ほとんどの人は、実際にそうなることはなく、そうした世の盛衰を察するだけで、そのルートあることを確信するものだ。

釈迦が、馬でもを見せただけで走る馬が良いと言ったのは、このことである。足ることを知るとはそういうものだと思う。


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