アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

姜甑山と呂洞賓の共通点

2013-03-31 06:29:42 | 道教
◎後の祭り

朝鮮の神人姜甑山が、自らを呂洞賓の事跡になぞらえる。出口王仁三郎は、同時代の姜甑山のことを高く評価し、ダンテス・ダイジは、呂洞賓のことはパドマサンバヴァ、釈迦などと並んで高く評価している。

姜甑山は当時信者グループを抱えて活動していたが、信者たちは彼のエッセンスをなかなか理解できなかったようだ。

『152
又、言われるに、私のことは、呂洞賓のことと同じでであると。

洞賓が自分に因縁のある者を求めて長生術を伝えようとし櫛商人に変装して街路で大声で叫んで言うに、この櫛で髪をとけば、白髪が黒くなり、曲がった腰が治り、衰えた気力が強壮になり、老いた顔が若返るが、この櫛の代金は千両であると言うと、聞く人たちすべてが出鱈目を言っていると相手にしないので、洞賓がある老婆に試験すると、果然その言葉どおりになった。

それを見た者が、その時に初めて争って集まったが、洞賓は遂に昇天していたと。』
(回天の聖者/姜甑山先生顕彰会刊P148から引用)

姜甑山のグループは、せいぜい数十人のグループであったと想像されるがそんな少数であっても、彼の真価を知る者はほとんどいなかったようである。

姜甑山も命の悲しみを説く。天地の恨みを解くなどというのはそれである。

命の悲しみのことは、東日本大震災のことで、もっと伝わったかに見えたが、その時ばかりの共感の場合が多く、目に見えるほど身の回りのことが変わったわけではない。
大震災を他人事を見るか、自らの戒めと見るか。
人間は自分自身の力で些細なことでも何かを成し遂げられるわけではない。



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命の悲しみ

2013-03-30 06:44:58 | 現代冥想の到達点
◎本当に本当に悲しめよ!

七つの身体、七つのチャクラ、イダー、ピンガラー、任脈、督脈、そんな神秘生理学のことなどどうでもよい。高級神霊、帰神、他神の憑依した神懸または神憑、霊言、過去世の因縁、カルマ、アストラル・トリップ、そんな霊的なことどもは、どうでもよい。柔軟体操、クンバカ、ヴィパッサナー、陀羅尼、マントラ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、シッディ、体験至上主義、そんなことはどうでもよい。

そこでダンテス・ダイジは、そんなものは全部ままごとであって、「悟りとは命の悲しみのことだ。」と喝破する。

しかし命の悲しみにまともに向き合うことに、通常の常識人、社会人は堪えられるものではない。モバゲーやら、趣味やら、いろいろの自己欺瞞や言い訳でもって、瞬時にそれと直面することを回避しまくっている。

この渇いた時代、乾燥しきった地獄のような時代に社会適応するためにはそういう「命の悲しみ」に向き合うことを瞬殺する技が必要かもしれない。しかしそれに頼っていては、何も本質的なことは起こらない。
社会への適応の名の下に自分の中の真人間を殺しているのだ。

いろいろ読んだ中で、何の行や冥想もわきに置いて、命の悲しみに直面できて悟ったのは、キュブラーロスの出会った黒人の掃除婦である。実際にそういうことが起きた例は無数にあるのだろうが、それに気づいて世に伝えられることは少ない。

あらゆる理屈や、神秘的パワーや、素敵な体験にこだわることなく、『本当に本当に悲しめよ!』ってダンテス・ダイジは言い残した。




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最初の4つの身体と統合失調症

2013-03-29 06:30:37 | クンダリーニ・ヨーガ
◎私たちも軽度の統合失調症

OSHOバグワンは、最初の4つのボディに対応する冥想技法を当てている。曰く、
肉体からスタートするのは、ハタ・ヨーガ
エーテル体からスタートするのは、マントラ・ヨーガ
アストラル体からスタートするのは、バクティ・ヨーガ
メンタル体からスタートするのは、ラージャ・ヨーガ

(※ボディの違いを問題にするのは、クンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐ではない。)

これら4ボディは、OSHOバグワンに言わせると水平的であり、第五身体のコーザル体に至るところが垂直移動となる。つまり最初の4つのボディ内での移動は、水平移動だから横超であり、古代ギリシアの壺絵では、トビウオ(水平にしか飛べない)として揶揄される動きにすぎない。

さらにOSHOバグワンは、第一身体から第四身体では、心は下方を向いており、上方を向かない。この状態で、心身のバランスが保たれている。ところが、第四身体(メンタル体)から先を目指す(第四身体からの跳躍)時、はじめて上方を見る(アジナー・チャクラを見る)。

OSHOバグワンは、初めの4身体を超える前に上方を目指してはいけない。というのは、他のボディは下方に向いているのに一部のボディが上方を向いているということになると、統合失調症を起こしやすいからだとする。

そういう人には中心がない。そこでOSHOバグワンはダメを押す。私たちもそんなものだ。統合失調症と私たちの差は社会に適応しているかいないかの差があるだけだ、と。
(参考:秘教の心理学/和尚/学研P158-164)
       



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SNSやブログの終わり

2013-03-28 05:45:12 | 時代のおわり
◎言論・思想・集会封殺の時代が来る

出口王仁三郎も高く評価する朝鮮の神人、姜甑山(きょうそうざん)の言葉。

『一八八

またこの時代は追々、道路は二人が一緒に歩きにくくなり、部屋には五人が集まって坐りにくくなるであろうが、そうなったら知ることも知らぬふりをして、適当につかみどころのないように対処すべきだと言われた。』
(回天の聖者/姜甑山先生顕彰会刊P160から引用)

これは、出口王仁三郎も指摘(玉串のたとえ)した、これから来る言論・思想・集会封殺の時代に対するアドバイス。

まもなく朝鮮で動乱があるかもしれないが、それを奇貨として、日本もそういう時代に入る可能性がある。

そうなったら、各人がてんでんばらばらに書いたり出したりしているブログやツィッターも危なくてやってられないし、SNS、特にFacebookなんか簡単に人物特定されるから、何が起こっても仕方ないよね。

言論・思想・信教の自由は、今では当たり前だが、今後そうではない局面があることを、複数の覚者が報せているということ。

このブログもそろそろ手仕舞いを考える時期になってきた。


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肉体の回りの青みがかった光

2013-03-27 02:16:18 | チャクラと七つの身体
◎エーテル体

OSHOバグワンによると、エーテル体は、肉体の回りの青みがかった光として見えるという。

エーテル体は、全体として肉体型でもなく、球体でもなく、神経をそのまま取り出したような傘の骨型であるという。
エーテル体は半物質であり、死によって崩壊する。

『この青みがかった形態、この青みがかった光こそが、エーテル体の存在だ。あなたには幾つもの体がある。

この技法はエーテル体に関わっている。エーテル体を通じて、あなたは最高のエクスタシーに入ることができる。体は七つある。どの体も〈神〉の中に入るのに使える。どの体も扉となる。


この技法はエーテル体を使う。エーテル体はもっとも認識しやすい。ほかの体はもっと深くにあるので、認識するのも難しくなる。

エーテル体は肉体のすぐ近くにある。エーテル体は二番目の体だ。肉体を取り巻いている。肉体を貫き、肉体を取り巻いている。ぼんやりした光、青い光が、ゆるやかな衣のように取り巻いている。』
(生の神秘/OSHOバグワン/市民出版社P276から引用)

短文だが、重要なポイントが複数含まれている。

七つのボディのどれでも神の中に入るのに使える。エーテル体であっても。これは意外である。どうやってそれをやるのだろう。気功系のテクニックだろうか。

エーテル体が青い光。青い光といえばオルゴン・エネルギー。

『この電気的な力も、エーテル体を通じて現れる。エーテル体は電気的な体だ。

あなたがエネルギーに充ち溢れているときには、エーテル体の範囲も大きい。でも悲しんだり、落ち込んでいるときには、体のまわりにエーテル体はない。体の中に後退している。

だから悲しんでいる人間、落ち込んでいる人間の近くにいると、自分もまた悲しくなる。悲しみの極にいる人間が部屋に入ると、自分も何らかの異状を感じる。なぜなら、悲しんでいる人間のエーテル体が、たちまちこちらにも影響を及ぼすからだ。その人間は搾取者となる。その人間のエーテル的エネルギーが落ち込んでいるため、他人を栄養とするようになる。』
(上掲書P278から引用)

OSHOバグワンの説明では、このようなエーテル体の電気的性質を踏まえて、何もしないままに自分の回りの青い光を見ているままにいれば、その青い光は増大し広がっていく。

こうしてエーテル体は生体エネルギーの蓄電池となるが、そのエネルギーを幹から枝そして花に向かわせる方法については説明をはぐらかしている。

ここでグルのサポートが必要になる。エーテル体のエネルギー横溢から先には、人前では明かせない秘密があるのだろう。




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縁がない人たち

2013-03-26 06:09:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎上意下達のスタイルは去った

明治36年出口王仁三郎が、拝み屋みたいなことを盛んにやって霊能力で病気直しなどをしきりに実施していた頃のこと。

ある日出口王仁三郎が、西原に行ってこの道を述べ伝えて迷える信徒を救おうとしている時、開祖出口ナオがこれを押し止めた。王仁三郎これを怪しみて、「神は人を救うをもって心とし給うべきなのに、今これを押しとどめなさるのはどうしてでしょうか。われらはこれを傍観するに忍びずとして息まいています。」

出口ナオがおもむろに諭すに
「西原は、超能力でしばしば不思議を示したり、病気を癒したり、家を富ませたりして、今まで幾度となく信仰の手がかりを与えてくれて、私も自らしばしば行って教えさとしたけれど、疑い深くて、正しき道につくものはなかった。

行ってはいけません。行けば行くほど説けば説くほど、彼らは自分のけがれた心にひきくらべて、神の御心を曲解するでしょう。

あわれむべき者だけれど、因縁のない者はこれを助ける手段はありません」と教えてくださった。
(道の光/出口王仁三郎/天声社が出典で、現代語に訳してみました。)

霊能力の有無に限らず、大方の人は想念でビジョンを形成し、願望を現実化するということは多かれ少なかれ自らやっているものだと思う。

霊がかりで典型的なのは高級神霊のサポートということになるが、この逸話では憑依には三種あって云々ということは深入りせず、縁の有無ということを問題にしている。

高級神霊が自分のそばに降臨しても、眠っていて気づかないということもあるし、貴重なアドバイスを耳から聞いていても理解できなくて無駄に終わるということもある。

縁とは、そういう、カルマ的な部分とタイミングの部分、精神の成熟の部分、相性など複合的な要素で成るように思うが、結果からみれば本人がキャッチするかしないかということだけである。釈迦も縁なき衆生は度し難しとした。

出口王仁三郎も霊がかりを大正末年の頃には脱して、第一次大本事件以降は別のやり方になった。

いささかドライに見えるが、現代の伝道・布教というのは、伝統的な上意下達で、上にある布教師が下である平信徒に教えを伝えるというスタイルではもはや通用しなくなっている。
平信徒自らの覚醒を至上命題とするからには、グルですら平信徒のサポート役しかできないからである。

明治の頃とは正しい教えとの因縁の形が変わっている。



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女性の白兵戦参加

2013-03-25 05:28:10 | 時代のおわり
◎戦争は人間を破壊する

現代人は、男性であっても、日常的にモンハンなどの殺戮ゲームに洗脳されているわりに、リアルの戦闘に参加すると高率でPTSD(心的外傷後ストレス障害)(イラクから帰還した兵士の6人に1人がPTSD)になることは、ベトナム戦争以来知られてきた。そのPTSDが社会不適応、ホームレス薬物依存、アルコール依存などの原因になっていることも知られている。

またアメリカの若年層の失業率は高くて、失業対策みたいな位置づけで軍役があると見られてもしかたがないところがある。

そうした中で、アメリカは、イラクなどに、総兵力のおよそ11%にあたる19万人の女性兵士を送り込んできた。その3分の1は子供を持つ母親兵士だ。女性兵士に直接、戦闘を行う任務は許されていないが、イラクではどこからが前線なのかが曖昧で、しばしば銃撃戦に巻き込まれ、子どもに銃を向け、殺害することもある。

そうした戦闘体験の結果、「以前のように子どもを愛することができない」、「子どもを愛おしく思う心さえなくした」という母親が増えているという。

さらにイラクやアフガニスタンに派遣された米女性兵士延べ28万人の33.5%が米軍内でレイプされ、63.8%が性的いやがらせを受けたという。

女性兵士にとっては、自軍内でセクハラ・レイプ、敵との戦闘に遭遇すればPTSDと泣き面に蜂状態である。

こうした中で米国防総省は2013年1月、直接戦闘地域への女性派遣を禁ずる規定の撤廃を発表し、女性兵士も戦場の最前線で戦闘するということになった。

つまりこれで、アメリカの女性兵士のいわば苦界囲い込み体制が完成したというわけだ。

戦争は、いまや男女を問わず人間を破壊する。肉体も精神も。特に精神が問題。人間が第二次世界大戦以前の頑丈なつくりの人間ではないからだ。

このような非人間的な政策を打ってくるアメリカというのは、人を不幸せにし、この世を悪くする方向で政策を考えている人間が中枢にいるのだろうということをつくづく想像させる。


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増長する自分と夢

2013-03-24 07:21:54 | クンダリーニ・ヨーガ
が唯一の現実であることを捨てる

今日も、この世で口すぎをするためとはいえど、小悪を積んだり、善でも悪でもないことを沢山した。

ともすれば、人は自分が他人から常に注目されていて、何か変わったことをすれば、他人から賞賛を受けるのではないかなどと、誤解しているものだ。

人は自分の思い込みの中で増長し、得意の絶頂になりがちだ。

しかし、
誰も自分の犯した悪事のことなどに関心を持たない。誰も自分の行った善行のことなどに興味は持たない。

こうして、自分への注目度が意外に低いことに気がついて人はしばしば落胆を繰り返す。
だが、こういうのは根本的な問題ではない。

我々は、時間のある世界に生きているが、時間のある世界での出来事はおしなべてである。夢の中の出来事にこだわりを持てばそれが苦悩の原因に変わる。

夢から身を起こして、夢と自分が一体化している状態を捨て去らない限り、本当の幸福などない。



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第三の目と現実操作・死の克服

2013-03-23 06:43:48 | クンダリーニ・ヨーガ
◎アジナー・チャクラの秘密

アジナー・シャクラは眉間のチャクラであって、第三の目。
ヴィギャン・バイラブ・タントラ第5。

『眉間に意識を集中せよ。
心を思念の前に置きなさい。
息の本質を頭頂部に至るまで満たし、
光を浴びなさい。』

第三の目は想像力の中心であり、観想の中心。観想の現実化のエンジン。観想とは夢を作り出すことで、深遠な夢は現実化する。

OSHOバグワンの説明では、眉間に意識を集中すると
1.人は観照者、「見る者」となる。
2.呼吸の微妙で繊細な波動を感じることができる。酸素と二酸化炭素ではなく、プラーナ、オルゴンを感知する。

次に半物質であるプラーナ、オルゴンを頭頂まで満たし、光を浴びよ、と。

アジナー・チャクラを中心として生きている人は、想像がすべて現実化する、夢がすべて現実化する。想像・夢がすべて現実化すれば、夢と現実の間に境目はなくなる。
荘周胡蝶の夢の世界である。


ヴィギャン・バイラブ・タントラ第7。

『額の中央に息をとどめ
これが眠り込む時に心に届くと
と死そのものを支配する。』

OSHOバグワンの説明だと、人は眠り込む瞬間に意識を失うが、まさにその直前に頭頂から心に降り注ぐ光を感知する(ヴィギャン・バイラブ・タントラ第5
)。それを感じ続けながら眠りに入ることができれば、夢の中で覚醒することができる。(似たようなことを心理学者ユングもやっていたと記憶する)

夢の中で覚醒するとは「自分は夢を見ている」と自覚すること。夢の中で、自分は夢を見ていると自覚すれば、OSHOバグワンは、自分の思うままに夢が作り出せるようになり、かつまた眠りとは短い死であり、死とは長い眠りであると認識するようになるとする。
この時点で、死の恐怖はなくなる。


夢を支配すれば、死をも支配できる、世界をも支配できる・・・・・などと書くと勘違いする人も多いだろうが、そこに至るまで、相当の純粋性が求められることについては、この経文の字面には何も書かれていない。

不純な心のままこの冥想テクニックをやればどうなるか。この地獄的な時代となる。

邪悪な心を排除しないままの想像力でもって皆が作り上げた現代世界こそが、核兵器が海の底にも地の底にも張り巡らされたこのいつでも全人類自殺OKのクレイジーな地球である。

これは冥想テクニックだが、それだけを求めるのでは人間にとって何もためになることは起こらない。
生と死の間に相違はないこと、この世は幻影であることを知っただけでは、まだ大いなる何かに出会っているとは言えないのではないか。結局そうなった人であっても人によって大逆転は起きるかもしれないし、起きないかもしれない。その点でも冥想指導者は必要だと思う。テクニックだけが独り歩きするのは危険なことである、その人にとっても世界にとっても。



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聖ベネディクトの戒律

2013-03-22 05:31:27 | キリスト者の秘蹟
◎お互いに先を争って敬意を表す

聖ベネディクトの戒律は、中世修道院の基本となった戒律。特徴的なのは、私物の所有禁止、四足動物の肉を食べないこと、沈黙の強制など。

私物の所有禁止では、
1.服装は、チュニカ4枚(夏2枚、冬2枚で、ひざ下までのガウンみたいなの)、ククラ4枚(夏2枚、冬2枚で、フード付マント)、作務時用の前掛け(スカプラリオ)、サンダル、靴。
2.寝具は敷物、薄い毛布、掛布団、枕。
3.その他には、ベルト、小刀、ペン、針、手拭、筆記板。

これらすべてが貸与され、修道院長はこれら以外の私物がないか時々持ち物チェックを行う。この狙いは、物を必要とするニーズに応えるのは、もちろんのこと、物を持てる者へのねたみの防止である。ねたみ発生のチャンスを極小化している。

四足動物の肉を食べないこと。これは殺生戒からきているのだろうが、二足動物(鳥)の食用を認めているのは神道と同じ。霊的な視点ではある。

そして沈黙の強制。これについては理由の説明はないが、何しろ彼らは観想主体の修行をしている。自分や他人の発声により、観想で作り上げたかそけきビジョンはいともたやすくこわれていく。

観想でなくとも、ある崇高な雰囲気の到来が、沈黙を破られたことによって気づかないというようなことはままあるだろう。

これは冥想状態への配慮なのだろう。

また修道士が外出した場合、修道院の外で見聞したことは、それがどのようなことであっても他の者に話してはならない、というのもある。洗脳の防止である。

修道士同士は、どこで出会っても後輩が先輩に祝福を求める。こうして『お互いに先を争って敬意を表す』(ロマ書12-10)。
これこそが、千年王国の習俗である。

こうした禁戒に守られて、数か月で神を見るというのはありそうなことである。またそれが外へ出ても通用するかどうかは、一つまた別のことだろう。十牛図でも見牛で、すぐ陋巷に出てゆくわけではない。最終解脱第八図人牛倶忘 を経て後のことである。



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完全な人間について語ること

2013-03-21 02:40:50 | 究極というものの可能性
◎われわれの文化における霊性の恐るべき欠如

この文明は、テクノロジーに土台を置き、物質主義で社会の基幹が形成されている。ところが精神・心をも同じ原理で構成しようとすることは、悪魔的であり、地獄的であるから、そうした社会の風潮に素直に適応しようとする人間から先に、精神と肉体のバランスを崩していくことになる。

終戦直後、鈴木大拙の著作が欧米に広く受け入れられた頃は日本的霊性がまだ若干は機能していた。21世紀に入り、いまや日本的霊性は機能停止となり、いわば全電源喪失状態にある。

一方、以下のマルコム・ゴドウィンの一節は、西洋の霊性の危機を自ら自覚したものであって、冥想やらヨーガやら東洋哲学の自発的導入によってその危機を超克する動きがいまや本格化して、西洋的霊性はむしろ正道に復帰しつつあると言ってよいのではないか。

『最近のワークショップや精神療法の多くは、自己の個性化に通じるユングの王道を進むにせよ、統合に向かうパールズの道を進むにせよ、人格を統合しようとする。

問題なのは、ストレスの多い現代世界において、健やかで完全な者がどのようなものであるのか、あるいは自己――セルフ――が何者であるのかを、われわれが知らないということだ。

二〇世紀初頭の心理学は病理学に力点を置いていた。したがって病人をあつかう夢の心理学者は大勢いるが、健康な者をあっかう心理学者はきわめて少ないのである。

このかたよりを逆説的に高めているのが、最近の精神療法の多くが完全な人間という全体的な目標を目指している事実である。

しかし療法士たちは精神分析の領域における擬似科学的な背景によって生み出されるディレンマに捕われているようだ。彼らは職業的生存という単純な理由のために、できるかぎり科学的でありつづけようとしており、完全にして全的な人間についての彼らの概念内で、宗教的なものや霊的なものを慎重に避けている
のである。

したがって最も全体的な概念に大きな穴があることになる。そしてその穴は、療法が宗教的な広がりや霊的な広がりをふくめることなく、心理学的な全体性に方向づけられるとき、ますます明白なものになる。

本質的に物質主義を奉じ、テクノロジーに土台を置いているわれわれ自身のライフスタイルよりも、さらに古い文化や「原始的な」文化という証拠を考えれば、生活の土台を形成しているのは、霊性、信仰心、魔術であって、完全な人間について語ることは「聖なる」者について語ることにほかならない事実がわかる。

われわれが目撃しているのは、われわれの文化におけるこの霊性の恐るべき欠如であり、われわれの自己についての観念ほどこれがはっきりとあらわれているものはないのだ。』
(夢の劇場/マルコム・ゴドウィン/青土社P216から引用)

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聖霊の話

2013-03-20 07:02:20 | 古神道の手振り
◎二位一体

キリスト教では、父なる神と子なるイエス・キリストがいて、さらに聖霊があって、三つとも神である。しかし三つの神々ではなく、唯一の神を主張すると同時に他の多くの神々を否定する。この「他の多くの神々」にあたる部分の大方が太母なのだが、これを否定していることで、三位一体と自称しているが実質は二位一体と評価されることがある(ケン・ウィルバーも二位一体と評す)。

そして聖霊といえば、キリスト教の専売特許のようだが、さにあらず。

まず、旧約聖書。
創世記7章では、神は土のちりで人を造り、命の息(聖霊)をその鼻に吹きいれられて、生きた者となった。また聖母マリアは聖霊によって身重になった。

そして新約聖書。
1.ヨハネによる福音書14章『父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』

2.同3章『神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。』


3.同20章『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』

4.マタイによる福音書12章『人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』

こうして並べてみると、聖霊とは神の属性である絶対善を有して活躍している様子。そして人間にとって、聖霊は人間の本質のようでもあり、高級神霊のサポートみたいでもある。

さて出口王仁三郎は水鏡で、『キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。』と言っている。

出口王仁三郎は、聖霊が一位、子たる人間が二位で、二位一体と見ているのだろう。一般的な三位一体モデルというものがあるとすれば、無形無相の神(ニルヴァーナ)が父で、母は現象面のシンボル(アートマン)、そして人間の三位一体ということになるだろう。

こうして見てみると、聖霊は無形無相の反対物としての現象の総体の主要部のことを言っているようであり、無形無相の神の「有の側の働き」のことも言っているようでもあるから、「父と子はあっても母がない」という言い方になるのだろうか。

聖霊とは人間でいえば人間の精神を貫く神的な要素のこと。聖霊を人間が受けるとは見神に相当するのだろう。

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小さき兄弟=アッシジのフランチェスコ

2013-03-19 05:40:00 | キリスト者の秘蹟
◎フランチェスコ1世に寄せて

アッシジのフランチェスコといえば、清貧、スティグマタ、自然と一体になった生活(LOHAS)、汎神的な自然観、托鉢、自尊を捨て去った小さな兄弟などいろいろな特徴がある。

アッシジのフランチェスコ以前には、俗界の乱れがひどいので、僧が静謐な観想空間を得るためにクリュニー、シトーなどの修道院が成立、整備されていった。チベットみたいに山の洞窟で観想生活を送れないのであれば、そういう場所のしつらえは必要なことである。

また同じ托鉢修道会でもドミニコ会は、異端を正すために俗人たちへの説教をメインとした。それも正しい。

しかし、アッシジのフランチェスコの意義は、自分で悟る、自分が神に出会うというところに立ち返ったところにあるのではないか。

アッシジのフランチェスコは、自分の財産を持たず、他人が軽蔑するような仕事や役目を好んですることで、他人から嘲笑されたり服をはぎ取られたり殴られたりしたが、神をののしることはせず、神を礼賛するばかりであったという。

こうして自分をこの上なく卑下するから「ちいさな自分」になる。

求道の過程において世俗の欲望をすべて捨て去るのは並大抵のことではない。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダなども最後まで宮殿住まいの欲望を残していた。「世俗の」という形容詞がつくうちは不徹底で、最後は、カルロス・カスタネダのようにあらゆるものに別れを告げることになる。

いずれにしてもアッシジのフランチェスコに賛同して多くの富裕な男女がすべてを捨てて俗世を離れた。要するにこの世的なもののはかないこと、チベット密教でいう空性・無常感の中に暮らさなければ、これは起こらない。

外部の者からは信者が多いとか少ないということばかり目につくようだが、ポイントは、原始教会のように自分も神に出会う、自分も悟るというところにあったのは間違いない。

そこにローマ法王フランチェスコ1世のサインがあるように思う。自分の悟りは他人にまかせず、自分で取り組むのである。

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コルンバヌスの修道生活

2013-03-18 04:43:22 | キリスト者の秘蹟
節制と睡眠不足

コルンバヌス(615年没)は、アイルランドのバンゴール修道院出身で、フランスに3か所の修道院を建てた他、北イタリアにボッビオ修道院を建てた。

コルンバヌスは、青年時代には若い女性のあこがれの的であり、修道士時代には1日15時間も土地を耕して疲れを見せなかった。フランスでは聖なるヒーラーとしての評判を聞いてアングレイ修道院に数万人の病人が押し寄せたなど、当時のスター修道士だった。

彼の修道士規定では、、修道士の食事は夕方の一日一回であり、野草、野菜。湯がいた小麦粉、少量のパンと、後代のベネディクト会則では、パンは一人一斤以上で肉もあるのに比べるとその半分程度で厳しい。


この量では、既に過度に節食であるように見えるが、命じられた物だけ食べ、労働の義務は果たしなさいなどと厳格に、祈り、労働、読書、節食の生活を規定している。

更に加えて、疲労したらベッドに行ってもよいが、歩きつつ眠るが如くすべきで、完全に眠ってしまってから起こされるようではならない(参考:修道院/今野國雄/岩波新書)と、睡眠不足気味を強制している。これは禅堂での修行と似ている。潜在意識の露出に配慮がある。

既にイエス没後6百年のこの時代であっても、見神の発生条件を踏まえた修行形態が意識されていたのだと思う。


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水時計=冥想の時を測る

2013-03-17 06:23:57 | 冥想の準備
◎古代インドの昔から

冥想でワン・クールを測るのには一般的には、線香でしょう。日本製の一般的なのではなく、いまではインド製やネパール製のまであってお好み次第。

坐る時間は30分から長い人で40分がワン・クールだと思っていたが、インドでは24分であるらしい。

古代インドでは、標準的な時計は水時計であり、写真のようなココナツの殻の底に穴をあけて水に浮べるもの。やがてゆっくりと水が上がってきてココナツの殻は沈む。沈むまでがワン・クール。

これが寺院で使うのになると水に浮かべるお椀という原理は同じだが、お椀は銅製となり、沈む時間はきっかり24分。水盤にお椀が沈むと僧が銅鑼を鳴らして知らせるのだそうだ。古代インドでは1時間が24分で、1日が60時間だった。だからワン・クールが24分。クリシュナは、せわしない国に暮らしていたものだ。

なお水時計は、古代バビロニアやエジプトでも使われていたが、水がたまる方式でなく、水が流れ出切るまでの時間を測るタイプ。

スマホや携帯のアラーム機能で、30分測って坐っている人は少ないかもしれないが、スマホや携帯よりもこうした30分で沈むような水時計を自作して、それでもって坐るほうが、スマホや携帯に頼るよりも、ロハスでしょう。

穴の位置は一番低いところがよさそうですね。




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