アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

人の誠、神の誠

2013-02-28 06:05:45 | 古神道の手振り
◎真神、窮極はとっつきにくい

出口王仁三郎は、人の誠で世の中が救われるはずはないと断言した。
人の誠とは、スピリチュアル修行の形態でいえば、窮極の悟りを問題にしないタイプのものであって、例えばリラックスとか、グラウンディングとか、気持ちいいとか、落ち着くとか、不安がないとか、解放された気分とか、あらゆる感覚的なgood feelngを求めるものである。

最近横文字のファッショナブルなネーミングでもって、そういうのが盛んである。ヨーガ・オーラソーマ、リラックス・スポット、呼吸法から、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガまで外形は何でもある。

しかし、求めるところが、感覚的なものである限り、それでは、結局もとの木阿弥、最終戦争を回避できる道筋ではないのではないか。そうしたものには、自分を棄てる方向性、自分のメリットを求めない方向性がもともと備わっていないのではないか。

誠の力は世を救う」というのがあるが、世を救う誠の力とは、人のさかしらではない。誠とは「まったきこと」あるいは「まったきことば」であって、真神あるいは真言のこと。窮極、道(タオ)、絶対無、大日如来、god、天御中主神、ニルヴァーナなど呼び名こそ異なるが、みな真神のことである。

真神、窮極というのは、いかにも現代人にはとっつきにくい。つかみが悪い。しかしそこをなんとかしていかないと。


サンタクロースが実在しない如く、現人神が実在しないことを悟った日本民族のくせに、その次の目標は見失ったままのようで、その混乱は、ますます深い。

(蛇足:現人神とは戦前の天皇陛下のことだけでなく、イエスの再臨なんてのも似ている。また悟った他人が出現しても、結局自分の悟りとは無関係。)





悟りとは何か
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怨みもなく、悩みもなく、貪りもなく生きる

2013-02-27 06:11:16 | 究極というものの可能性
◎釈迦のダンマパダ・法句経

釈迦のダンマパダ・法句経より。中村元訳のダンマパダは散文だが、三枝 充悳訳は韻文に仕立ててある。

『197
怨み懐けるなかにありて怨むことなく
いと楽しくわれら生きむ
怨み懐けるひとびとのなかに
怨むことなくわれら住まわむ

198
悩み懐けるなかにありて悩むことなく
いと楽しくわれら生きむ
悩み懐けるひとびとのなかに
悩むことなく われら住まわむ

199
貪り懐けるなかにありて貪ることなく
いと楽しくわれら生きむ
貪り懐けるひとびとのなかに
貪ることなくわれら住まわむ

200
一物すら所有するなく
いと楽しくわれら生きむ
光り輝く神々〔光音天〕のごと
喜びを食むものたらむ

201
勝利より怨憎生ず
敗残のもの苦しみて 臥す(さらば)
勝敗をば 抛(なげうち)ち捨てて
寂静なるは安楽に住す

202
貪欲にひとしき火 あるなし
憎悪にひとしき不運 あるなし
(五)蘊〔五つの集まり〕より成るものにならぶ苦なし
寂静に勝る楽 あるなし』
(ダンマパダ・法句教 三枝 充悳/訳・解説 青土社P143-144から引用)

我ら悟っていないほとんどの者が、怨みもなく、悩みもなく、貪りもなく生きるのは、一片の純粋な道心があってもなかなか難しいことである。

それでも闇夜をLEDライト一本で歩んでいくように進んでいくしかない。

そのためには、自分がなにものをも所有していない、自分では自分の髪の毛一本白くも黒くもできないという実感に立たねばならないのだが。


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現代人のマージナルな日々

2013-02-26 05:49:04 | 冥想アヴァンギャルド
◎つかの間の幸福

昨日はとても調子が良い日だったり、今日は、やっぱり惨めな日だったり。

私には、何が本当の幸せかちゃんと気にするような瞬間は長続きしない。

宝くじが当たれば、大金が入るので仕事をやめようと思う。そんなことはほとんどの人が思っている。でも大金が入ったところでそれが本当の幸せなのか。

21世紀に生きるような人は、大金と幸せは別のものだとちゃんと知っている。大金や出世、名声、そういうのが幸せだと思えるタイムラインはある。

しかしそれらは長続きしない。束の間のことだ。かつてのアイドル歌手の歌は紅白で下手になっていて聞くに堪えなかったり、久々に出てきたかつての美人女優はしわくちゃ婆さんになっていたり・・・・。

おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな

そこで、本当の幸せとはなにか。・・・それはわれらの想像しているようなものではなさそうだ。

本当の幸せはあるのか。・・・どうも、いろいろな話を考え合わせるとありそうだ。

本当の幸せを実現する手段はあるのか。・・・本当の幸せを知っている人がいるからには、あるみたいだ。だが、その方法は暗喩とパラドックスに満ちて、単純なノウハウではないし、簡単なものではなさそうだ。しかし、宗匠たちは、決まってそれを如何にも容易なことのように語る。

本当の幸せは可能なのか。・・・可能か不可能かということで言えば可能だ、と答えがかえってくるだろう。

どんな素晴らしい生も死で終わるが、自分のあらゆるものが死で終わらせられることに納得できる人は稀である。どんな幸福な人生も終わりがある。

そういうはかない幸福では満足できないことを知っているから、今生のチャレンジにやってきたのではないか。

死でも終わらない幸福を本気で求める覚悟ができているかどうか。内心にただようそういう気分をきちんと意識の表面に浮かび上がらせて、冥想を続けていけるか。

この辺が現代人のマージナルな立ち位置だと思う。

そこで坐る。




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時間による想念の意識化

2013-02-25 07:01:21 | 究極というものの可能性
◎腕時計、スマホの時刻表示

人間は時代が改まるにつれ、時間について意識的になった。2000年位前は、1日は12時だった。当時腕時計を持っていたら、その目盛は12しかなかった。だから禅僧趙州の十二時の詩とは、一日のことだ。

時間をあまり意識しないというということは、無意識にであるにせよ、全体と人間は相当につながっていたということである。

人間が時間を意識する道具として腕時計がある。江戸時代は大名時計のような大型のものがせいぜいで、懐中時計や腕時計になったのは、兵隊が軍用で装着した20世紀になってからが本格的と言えるだろう。

当然そうした腕時計には秒針がついており、人は秒針を見ながら想念の動きが時間とともに流れていることを知る。それは転々として変わりゆく想念の一つ一つのシーンが意識化されるということが、日常的に繰り返されるということ。

これは人間意識の極大化をサポートする事象でもあり、自意識の肥大化の証左でもある。

人間は文明化により、時間を短縮してきた。炊飯は、ついこの間まで薪を集めて、水を汲んできて、米を研いで、火にかけて、その間ずっと火の加減を見ていなければならなくて、それだけで半日仕事と言ってもいいくらいだったのではないか。これがせいぜい40分とかで終わるようになった。

そして東海道五十三次。53泊かかった道程を、今はのぞみで2時間半で通過することができるようになった。
そのように人間は過去数千年間できなかった時間の短縮を可能にして現実のものとして見せた。

こうして人間は食うためについやしてきた時間をどんどん短縮し、自分の自由になる時間をどんどん増やしてきた。その一方で、人間は自分の時間意識の発達に伴って、自意識・自分の想念の意識化をより稠密にやるようになってきた。

さらに人間か過去数万年できなかったことを日常的に成し遂げている自信から、自分にはこれ以上の遥かにビッグなことができる可能性があるのに成し遂げていないという、いまひとつ感を感じている。

また過去何生もかけてできなかったことが、この生で実現できるかもしれないという潜在的な自信をも持つに至っているのだ。

その自信がやがて自分を絶望に追い落とす。

禅僧南直哉さんのブログに警策も怒声もない道場で修行した思い出を書いてあった。
そこはとても小さな道場だったが、修行したい人が修行したい期間集まっていて、修行に必要なルールは守られ、イヤになった者はいつのまにかいなくなったそうだ。

暴力とか罵声とかそんなことがマスコミで大きく取り上げられるが、肥大した自意識をコントロールできない者同士で、議論してもいい知恵は出るまい。まずは、そうした極めてノーマルな仲間同士があつまって、普通に修行の場を作って行こうとすればそうした姿に自然になっていくはずなのだが。

ただしそうした場は、現代においては概ね金が不足気味になるものだ。




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シトー会修道院

2013-02-24 08:16:17 | キリスト者の秘蹟
◎世俗権力の支援と興廃

函館観光のおみやげといえば、トラピスト・クッキー。トラピスチヌスといえば、シトー会。

ヨーロッパの修道院でシトー会といえば有力修道院の代名詞。11世紀フランス東部のディジョンに設立されたシトー会修道院は、12世紀には有力諸侯の庇護、寄進を受けて欧州全域に拡大し、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、オーストリアなど欧州全域に広がった。

12世紀はシトー会のピークであり、十字軍にも積極的にかかわった。

14世紀、ペストの蔓延により、シトー会は大きな打撃を受け、更に16世紀ルターの宗教改革により、有力諸侯の庇護を失った地域では、裕福と見られ軍事力がないと見られたシトー会修道院は、そうした諸侯や周辺住民によって略奪を繰り返された。

要するに時の権力者の支持がなければ、有力修道院といえども存立は脅かされるものであり、そうなると破仏時の僧と同様に、修道僧は還俗するか逃げ出すかしかなくなってしまうものだろう。

19世紀になってシトー派修道会は急速な復興を遂げたが、こうしたネガティブな歴史は修道院運営に大きく影を落としているものだと思う。

ハッケボルンのメヒテルトは、シトー会女子修道院出身。シトー会でも女子修道院長に、王族の子女を就任させることで、世俗権力の支援を受けていたが、所領地の中での自給自足のための農業労働は、男性修道士に比べ女性は非力なため、男性修道士の助けを借りたり、世俗人の助けを借りたりする必要があったようで、女子修道院財政は男子のそれにくらべて債務がかさみがちであったようだ。

男子修道院の禁域には、女子は入れず、女子修道院の禁域には、男子は入れず。江戸時代の禅僧白隠門下では女性の覚者が次々と出たが、男性覚者の膝下で女性が親しく、冥想修行できないというのは、どうなんだろう。

こういう状況を考えると、欧州では、男女のことや弱者たる女性から財産を奪うことについて、日本からみると、油断できない無法者みたいな人物が横行していたのだろう。そしてそれはいまも変わらない習俗・気風として残っているのだろう。

それでも禁域を残す伝統のまま、女子修道院も21世紀に至るまで、1千年を超え存続してきたわけだ。大いなるかなイエスの遺徳。

※日本の主なシトー会修道院:男子-函館、大分のトラピスト大修道院、女子-函館




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出口王仁三郎の北野天満宮参拝

2013-02-23 06:17:45 | 古神道の手振り
◎善事を為すは難し

ある時、出口王仁三郎が京都の北野天満宮に参拝した。神社の入り口付近にヒノキの絵馬が多数あり、それには何某寄付金○○円也と書かれてある。

これを見て、出口王仁三郎は、「惜しいお金やなあ」とつぶやいた。
「浄財を上げるのに惜しいはずはないでしょう」とお供の者が言うと、

出口王仁三郎は、
「こう書いて人が賞賛してくれたものは、神様に何にもなっていないがなあ。
こう書かずに御用ができておれば、神様の方に届いているが、こうしたら何にもなっていないから、惜しいお金だ」と諭した。

善いことは人前で見せてやっては、善いことにはならない。善いことをしているという意識があってもならないし、善いことを他人が賞賛した瞬間に善いことをした報い・リアクションは終わってしまう。

イエス・キリストの右手のしたことを左手には知らせるなという事情もこれに同じ。

善い報いを得ようとして観想法をやるということもあるが、それで実現した願望は、そもそも善行に数えることはできまい。

ことほど左様に、無私なる行動、善事を為すというのは、デリケートなものである。大衆向けスローガンで一日一善なんてあるが、現代人の粗い感覚では、相当な繊細さがなければ善が成立しないことは想像もつかないことが多いのではないだろうか。

その願望の善悪を問わず、意識化すればものは実現するとか、スーパー楽観的かつ強欲なメソッドが流行っているが、そんなやり方でその夢が実現したらそのリアクションは厳しいというのは、この話からも分かる。




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無門関 禅箴

2013-02-22 05:57:45 | 丹田禅(冥想法8)
◎あらゆる先入観と固定観念を捨てる

無門関は48則あって、最後まで読み切るのは結構大変だが、末尾に禅箴がついている。
これはパラドックスに次ぐパラドックスであって、要するにあらゆる先入観と固定観念を捨てなさいと言っている。

なぜ捨てねばならないか、それは、悟っていない自分は何が正しいことであり、何が誤ったことであるかわからないからであり、何が善で何が悪か判らないからであり、また誰が本当に悟った人であるかを見分ける目ももたないからである。

冥想中に妄想が起きるたびにそれはもともと空だとやってもだめだし、ただただ坐っているだけでもだめだし、仏法を守る立場に固執してもだめだし、と、何をしてもダメな世界に追い込んで、何とかしようとする。

冥想の仕方が、観想法ではないし、ポスチャー・坐相を気にするでもないし、教義を問題にするのでもないし、願望実現でもないし、落ち着くでもないし、気分が晴れるでもないし、雑念を払うでもないし、いまここにいるという思いでもないし、聖でも俗でもないし、およそ我ら凡俗の想像するようなものではないことだけはわかる。

でもそれが正統なやりかたなのだという勘は持っていたい。

『禅箴

杓子定規に規則を守っているばかりでは、縄もないのにみずからを縛っているようなものである。欲するところに従って好きなことをやるのは、異端の徒であり、悪魔の群である。

心を統一し平安に置こうとのみするものは、沈黙主義のあやまった禅である。
おのれのほしいままにして客観世界を 忘れるものは、暗い暗黒の穴に陥るものである。
すべてについて明々であろうとし、寸分も自己を欺くこと許さない者は、鎖をつけ自分で首かせをかついでいるようなものである。

いつも善や悪をあれこれ思うものは、天国地獄〈相対〉の世界に陥ちている。仏とか法の立場を固執するものは、この世の果てを周る二鉄囲山の中におしこめられているものである。

妄念が起きるたびにすぐにそれがもともと空だと自覚する瞑想法を主張するものは、幽霊とたわむれている男である。

冗然として只管(ひたすら)、禅定をのみ習うものは、ばけものの生き方である。
禅の道を進もうとすれば理法を見失うであろうし、もちろん退歩したのでは禅の宗旨に背く。
しかし進みもしなければ退きもしないというのは、呼吸だけしている死人である。

さあ、どのように禅の道を実践したらよいのか言ってみるがよい。努力して今世にこの問題を解決してしまわねばならない。

永久に三界輪廻のむくいを受けるようなことになってはならない。』
(禅家語録2/世界古典文学全集/筑摩書房の無門関P409-410から引用)




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宗教にとっての暗黒大陸=中国

2013-02-21 06:05:15 | 冥想アヴァンギャルド
◎暗黒大陸中国の真実

暗黒大陸中国の真実/ラルフ・タウンゼント/芙蓉書房出版は、1933年にアメリカで出版された本の翻訳。

この中に戦前の中国でのキリスト教布教活動の実情が描かれている。要するに景教(ネストリウス派)やユダヤ教も一時中国に入ったが、中国では根付くことはなく砂にまいた水のようにあっという間に消えてしまうということ。

中国人にとっては、キリスト教会とは、酒(ワイン)と食べ物をただでもらえる場所であって、かの生存競争厳しい黄土の大地では、これにまさる都合のいい場所はない。よってキリストの肉であるパンと血であるワインを頂けるなら、中国人はどんどん入信してしまうのであって、宗教の教義を伝えただけでは、ほとんど何のありがたさもないので、本国の本山が衰退してパンとワインをふんだんに供給できなくなると、その宗派は自然に衰退してしまうという法則がある。

著者によると、その法則にのっとって衰退したのは、ユダヤ教ネストリウス派、ギリシャ正教、ローマ・カトリックなどがあり、結局すべて消滅した。

人はパンのみに生きるものではないが、パンがないと人は飢え死にすることの方が無条件に優先して考えられてしまうのが過去4千年の中国社会なのだ。

中国共産党政権は、文化大革命以前から宗教圧殺政策をとってきており、そのシンボルはチベット密教への圧迫である。実は、そうした官憲の宗教圧殺政策がなくても、もともと中国は、宗教にまともに取り組める風土ではないということを承知しておくべきなのだと思った。

だから現代中国人の大方にとっては、「悟り」は真のテーマには成り得ないだろうということである。




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この8年のスピリチュアル

2013-02-20 06:06:04 | 時代のおわり
◎スピリチュアル・ブログの4種別

8年前スピリチュアルを主題にしたブログは極めて少なかった。所謂拝み屋さんが看板がわりに出しているブログを時折見かける程度で、まともな求道系ブログはまれに見かける程度でほとんどなかったと言ってよい。

最近は、精神世界ランキングをみてもわかるが、妙なスピリチュアル系、精神世界系ブログが多い。

こうしたブログは大別して4分類され、金儲け系、不安あおり系、自己満足系、求道系と別れる。

金儲け系は、数か月ブログを続けたところで、おもむろに著作が出版され、なんだブログが広告塔だったのかと気づくものが典型で、今でも多いのだと思う。スピリチュアルを金儲けのネタにした時点で求道者としてはアウト。

また霊能力ブログで名前を売って、後に海外国外を飛び回る拝み屋になった事例もよく知っており、何をかいわんやである。

最近多いのは不安あおり系。東日本大震災以降、そうした気分に乗りやすいところを突いて、霊言、予言の体裁でもって将来の不安をあおるものが典型。gooブログのランキングでも不安あおり系霊能力者ブログが(出来がいまいちにもかかわらず)結構上位にあるのは、その方面に世間の心理的ニーズが高いことを示している。

不安をあおって著作を買わせるのも常套手段。

自己満足系は、宗教的素養のあるなしは別にして、一個人の所感を述べるもので、大体こういうのは更新がまばらである。本物に近ければ、少ない更新の片言切句でも訴えかけるものがあるのだが、更新が多いものでも無駄にダラダラしているものが多い。

求道系はかつてに比べると大分増えた。光るものを感じる。けれど大体真剣な求道者であればあるほどブログは長くは続かない。食べるために働いて、求道して、ブログを続けるのは意外に大変ですからね。

デビ夫人のブログを見たら、さる外交官や官僚一流民間企業の役員中心の勉強会で、出席者の肩書きが、コンサルタント、 N P O、心理カウンセラー、整体師、風水師、占い師等が一人いなかったので、今日の出席者のレベルが高いというくだりがあった。要するにリストラされたりしたような人がそうしたスピリチュアルな肩書きで飯を食っている場合が結構あるということですね。これは精神世界ブログの現状とシンクロしています。

これだけ本筋でない精神世界、スピリチュアル・ブログが多いと、先入観を持っていない人は本筋でない情報に誤魔化される。それも縁と言ってしまえば、それまでのことではある。

世界の行く末にもメイン・シナリオがあるように、この多様化した考え方が許される現代においてもスピリチュアル、精神世界にもメインな捉え方がある。微力ながらそれを呈示すべくブログを続けてきたつもりである。

題材が広汎にわたり、初見の人にはわかりにくいように思うので、これからは、まとめ・整理に比重を置いて行こうと思います。




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生を喜ぶのは惑いか

2013-02-19 05:51:32 | クンダリーニ・ヨーガ
◎死が生より優位

荘子の斉物論篇から。

春秋戦国時代、秦の穆公と晋の献公が協力して麗戎国を討ち、手に入れた玉環2個は秦の穆公が取り、美女一人は晋の献公が取った。その美女を麗姫という。

『そもそも生を喜ぶのは惑いではないのだろうか。逆に死を忌み嫌うことは、若い頃に故郷を飛び出して、そのまま帰りを忘れているのと同じなのではないだろうか。

麗姫というのは、艾(がい)という国境の町を守っていた者の娘。晋国がこの娘を初めて手に入れた時、麗姫は泣きまくって涙が襟を濡らした。ところが彼女が晋王の宮殿に入り、王様と同じベッドに寝て、グルメ・メニューを堪能するに及んで、最初に泣いたことを後悔した。

このように私は、死んでいく者は、最初に生を求めたことを後悔するものではないかと思う。』

麗姫のたとえにこだわると真相をはぐらかされる。ここには、死の世界の中に生が包含されるという世界観がまずある。更にチベット死者の書ばりに、死者が再誕の子宮を選んでこの世に生まれてくるシーンがあることを念頭に置いたコメントが付いている。死が生より優位であるという発想は、死の世界をクリアしたクンダリーニ・ヨーギの世界観である。

本日で、ブログ開始してから丸八年となりました。いつもありがとうございます。




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全世界の大修祓法

2013-02-18 02:25:18 | 古神道の手振り
◎第二次の大立替

霊界物語39巻の附録 大祓祝詞解の速佐須良比売(はやさすらひめ)の説明の段に全世界の大修祓法について述べている部分がある。

祓戸四柱の神とは、伊邪那岐命が、御禊祓給う時に誕生された四柱の神々であり、瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売のこと。我ら凡俗の6フィートの肉体と精神を自ら禊祓うこと(冥想)により、祓戸四柱の神の御働きが顕現するのであって、いわば他人である伊邪那岐命に丸投げすることではない。

『△【速佐須良比売】

【佐須良】は摩擦(サスル)也、揉むこと也、空にありては雷、地にありては地震、皆これ佐須良比売の活動である。

要するに全世界の大修祓法は、大雨で流し、洪水海嘯等で掃ひ、大風で吹き飛ばし、最後に地震雷で揺つて揺つて揺り滅すのである。それが即ち神諭の世界の大洗濯、大掃除、第二次の大立替である。

『天の大神様がいよいよ諸国の神に、命令を降しなされたら、艮金神国常立尊が総大将となりて雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、八百万の眷族を使ふと一旦は激しい』とあるのは、祓戸四柱の神々の活動を指すのである。


詳しく言へば雨、荒、風、地震の神々がそれぞれ瀬織津比売、秋津比売、気吹戸主、佐須良比売の神々の働きをされるので、岩の神が統治の位置に立つのである。学問の末に囚はれた現代人士は、是等の自然力を科学の領分内に入れて解釈しようと試みて居るがそれは駄目だ。

実は皆一定の規律と方針の下に行はるる所の神力の大発動である。その事は、今年よりは来年、来年よりは来々年といふ具合に、段々世界の人士が承服する事に成るであらう。』
(霊界物語39巻の附録 大祓祝詞解)

出口王仁三郎は、祓戸四柱の神の御働きを全世界経綸上の見地から説明したが、祓戸四柱の神は立替の時だけに機能するのではなく、小は人間の呼吸、咀嚼、沐浴、マッサージみたいな日常においても機能していると、出口王仁三郎は説明している。このことから祓戸四柱の神とは、三元八力の八力みたいな概念区分のイメージであるともとれる説明をしている。ただし、祓戸四柱の神を全世界経綸上の見地からの解釈だけにとらわれると足元をすくわれそうである。




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いろは歌から

2013-02-17 07:21:23 | 古神道の手振り
◎つみといふ罪はあらじ

出口王仁三郎のいろは歌より。古神道にもクンダリーニ・ヨーガの粋が散りばめられている。ばらばらの内容だが、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないというところはきっとある。
短歌の冒頭にひらがな一文字の置いてあるのが、原いろは歌。

『き 狂者のそのなり初めをたづぬれば心小さく持つがゆゑなり
(コメント:最近狂人が事故や犯罪を犯すことが多くなった。)

け 今日もまた真幸くあれと大前に心きよめていのる人の世

や 八塩路の塩の八百路を乗り越えて教祖は沓島開きたまへり
(コメント:沓島は国祖国常立大神が三千年にわたり退隠されていた場所だが、出口ナオがこれを開いた。国祖国常立大神は、三神系の一でメジャーな善玉である)

つ つみといふ罪はあらじと祓戸の神の寿詞を称へまつれよ
(コメント:祝詞を唱えたから罪という罪がなくなるということではなく、罪という罪はもとよりなかったという禅の六祖慧能の何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かんみたいな言い方。)

よ よきことを為せば霊魂のふゆるなり悪事は魂の力をうしなふ

た 痰唾を吐きかけられて笑ひつつわれは真道を進み来にけり
(コメント:スーフィの聖者ハッラージ風だが、これが覚者の現実感覚)

れ 霊魂の餌はまことの力なり食物のみに人は活くべき

は はや川の瀬織津姫のみいさをに萬の曲をながしきよむる
(コメント:出口王仁三郎の大祓祝詞解に瀬織津姫についてはわりと詳しく説明している。

まずは大祓祝詞の該当部分。
「高山の末短山の末より、作久那太理に落、多岐つ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持出なむ、如此持出往ば、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速秋津比売といふ神、持可々呑てむ。

如此可々呑ては、気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の国底の国に気吹放ちてむ。如此気吹放ちては、根の国底の国に坐す速佐須良比売といふ神、持佐須良比失ひてむ。

如此失ひては、現身の身にも心にも罪と云ふ罪は不在と、祓給へ、清め給へと申す事を所聞食と恐み恐みも白す。」

瀬織津姫は、修祓の神である。修祓では水をもって洗い流して海に至り、大海原に持ちだす。大宇宙の根源からつながっている無数の人間のクンダリーニのエネルギーコードを見ると、それは多岐つ速川の瀬に坐す瀬織津比売。無数に枝分かれした川で、早い流れを絶えることなく蠢いているように見える、というようなところか。これを見た人も見れる人もそうはいないと思う。

次に速秋津比売が、塩の八百インターチェンジに位置して呑み込む。速秋津比売とは、七チャクラの総称か。

更に気吹戸に居る気吹戸主の神が、死の世界に向けて気吹を放出してしまう。気吹を放出すると死の世界に親和するというのは、文字通り何かを放出するというビジョンに相当するもの(頭頂から出る)ものを指すのだろうか。気吹戸とはサハスラーラ・チャクラと見る。

死の世界に居る速佐須良比売という神、は持佐須良比失うとあるが、何を失うのだろう。自己が絶対であるという幻影を失うのだろう。

クンダリーニ・ヨーギは、チベット密教でもそうだが、この世は幻影であるという観想をやらされる。であればその観想の現実化に直面して、それを「失う」と感じるかどうかという問題はある。)


に 憎しとは思ふな吾に仇なすはわれをきたふる神の御心

ほ 賞められて心ゆるすな曲津霊の神は後から舌を出すなり

へ 隔てなき神の御稜威に生ひながらへだてありとぞ思ふおろかさ』




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ノアの言霊

2013-02-16 06:01:19 | 古神道の手振り
◎ノアとナオとの方舟

ちょうど小惑星2012 DA14が地球をぎりぎりかすめている時間帯です。昨日のロシアに落ちた隕石は、ウラルに落下したというところがミソなのだと思った。

出口王仁三郎のノアの言霊の説明。
「す」は宇宙の原点であり、それを中心に「の」「あ」「な」「お」の言霊は四隅に配置されている。
のあの言霊は修祓であり、なおの言霊はこれを穏やかに清め治める働き。

かつて神話では、これでもって泥水を地上に溢れさせ、その水は渦巻めぐり天を汚すようなことになった。このいろは歌では、それは神話時代のことであり、今度二度目がある。

そんな泥海な人々は、この言霊を省みるだけの精妙な感受性を持ち、本当の自分を覚ることで、他の世人をも神の大道(おおじ)に導くことができるというもの。

流麗な五七調の文である。


『のあの言霊なと反り、なおの言霊のと反る、のあとなおとの方舟の、真中に住みきるすの御霊、すめら御国のすがた也。

のの言霊を調ぶれば、地に泥水充ち溢れ、渦巻廻る御霊(みたま)なり。
あの言霊を調ぶれば、天津御空に昇り行き、成り合まさぬ御霊なり。
のあの御霊は泥水の、世界を浸し山を越え、賤しき身魂の雲の辺に、上りて天を汚すなり。

さは去り乍(なが)ら世の人よ、昔の事と思ふなよ、のあの御霊の災は、今眼の当り現れにけり。

なの言霊を調ぶれば、火水(かみ)の結びの御魂にて、天津御空に二柱、鎮まり坐す姿也。おの言霊を調ぶれば、汚れし地を清めつゝ、六合(くに)を治むる御霊なり。
地より生れし埴安の、神の御霊も「お」声なり。

五大州の中心に、皇(すめ)ら御国の天皇(すめらぎ)の四方の国々統べ給ふ。

此の言霊を省みて、皇ら御国の天職(かんわざ)を、覚りてなおの方舟の、さとしの舟に乗り移り、瑞の御魂に神習ひ、泥に漂ふ世の人を、なお霊(ひ)に見なおし詔(の)りなおす神の大道(おおじ)に導きて、世人(よひと)救ひてヒマラヤの、山より高く名を上げて、二度目の神代の種と成り、万代までも世の人の、救ひの神と鳴り渡る、言霊の道(みち)尊とけれ。

※のあとなおとのはこ舟

―――――――
|ナタサカア|
|ニチシキイ|
|ヌツスクウ|
|ネテセケエ|
|ノトソコオ|
―――――――


』(大正6年12月雑誌神霊界より)




悟りとは何か

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俵万智3.11短歌集「あれから」

2013-02-15 05:58:24 | 時代のおわり
◎言向け和す

歌人俵万智さん。藤島高校から推薦で早稲田に入ってアナウンス研究会か。当時から自己顕示欲バリバリだったんですね。

彼女は、3.11の大地震には東京で遭遇し、両親と七歳の息子は仙台にあった。5日後に息子を連れて石垣島に避難して、その避難生活が当初の見込みとは相違し長くなる。

簡単に避難を敢行できる職業で、子供が小さかったことなどで、避難できたことが他の人からねたみやっかみを呼んだ。

避難できたことは、その時は良かった。でも私がそういう立場なら言う。情けない自分には何も変わりはなかったと。

最近『今ここ』と声高に言う人がいるが、『今ここ』に本当に居れば、避難することはあるまい。NHKの『あの日わたしは 証言記録 東日本大震災』で、福島第一原発至近の避難地域に指定された無人の街に止まってずっと、飼い主のいなくなった多くのペットにえさをやり続けた男性が報道されていた。彼こそ『今ここ』である。


その歌集から
「沖縄のヒーロー
琉神マブヤーは
敵を倒さず
「許す」といえり」

これは、古神道でいう言向け和すですね。全世界軍備解除後は、これで行かないと。




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茶髪・パーマ

2013-02-14 06:06:51 | 究極というものの可能性
◎内から壊す

茶髪・パーマは、老若男女を問わず誰でもやる時代になったので、誰も不思議に思わない。

出口王仁三郎は、出口家の家族の一人が最初にパーマをかけてきた時、「大本の子がそんなことをする。内から壊す」と非常に立腹された。

さらに孫の一人がパーマをかけて来たときは、身体を叩きまわして「内からこわす」とまたも立腹された。

この観点は2点あるように思う。パーマで使用する薬液と加熱過程の肉体に及ぼす影響。もう一つは髪のスピリチュアルな位置づけである。

最初の方は、きちんと実験をしたという話は聞かないので、ちゃんとした議論にはなるまい。

後の方については、出口王仁三郎は水鏡で、髪は神界との架橋ときちんと位置づけている。
『髪は神界との架橋である。恰もそれは電線みたやうなものであつて、頭髪の多い人程神界との交通が盛に行はれるのである。そして髪の多い人程、天の使命が重大なのである。天の使命が重大なる程又苦労が多いものである。だから苦労の多いのは使命の重大なる證左であつて、感謝すべき事である。

老人になると天の使命が些くなるから、従つて頭も禿げ、髪も少くなつて仕舞ふのである。私は幾歳になつても此通り、髪が少しも減らぬ。苦労も多い。使命も重大だ。

頭髪は少くとも一寸位はのばして置くがよい、それより短いのはよくない、女に長命者の多いのは髪の長いお蔭である。

頭髪を度々洗ふと命が短くなる、年に一度位が適当である。多くとも四回を越えてはならぬ。』

玉鏡には
『髪に魂があり、髪に心がある。頭髪は美の源泉であり女の生命である。女の美は頭髪にある。洗ひだての綺麗な髪を、さつと垂らしてゐるのは一番人の心をひく。女の髪は、毛そのものが美しいのであるから、成るべく簡単に結んでおくが一番よいので、いろんな形を拵へるとそれだけ美が減ずるものである。昔から女の髪の毛で大象をも繋ぎ留める力があると云ふのはこの理である。

よい髪を持ちながら、わざわざ縮らすのはよくない。髪は神への架橋であるから、多くて長いのが結構である。相撲取でも髪が長くなければ九分九厘と云ふ所で負を取る。美術家などが髪を長くする事は誠に理由のある事で、これでなければよい想は浮かんで来ない。

インスピレーシヨンと云ふのは神からの内流である。頭髪だけは毛といはずしてカミと云ふが神の毛の意味である。』

このように茶髪・パーマとは、神界との架橋を損ずるということである。

釈迦は髪を伸ばし、仏僧は髪を丸める。他方神道系など、クンダリーニ・ヨーガ系は髪を伸ばしたのが通常のスタイルである。クンダリーニ・ヨーガ系にあっては、髪は重要なファクターになるのに対し、只管打坐系にあっては髪ですらも棄てるというのが修行者の基本スタイルであるということだろうか。

毎日髪を洗うと短命になるのか、かといって髪を洗わないわけにもいかないし。今の時代長生きと幸福は連動するわけでもないし。





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