アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

スペインから追放されなかったユダヤ人

2013-01-31 06:07:54 | キリスト者の秘蹟
◎形式がポイント

1492年スペインでは、ユダヤ人追放令が出されたが、ナチスのホロコーストみたいに
徹底したものではなく、スペインのユダヤ人は、スペインの居住地に住み続けたらしい。

当時ユダヤ人は社会的権利が保証されず、その大半が貧しい人であった。これと対照的にコンペルソと呼ばれるキリスト教に改宗したユダヤ人(隠れユダヤ教徒)は、大半の者が社会的権利を保証されていないわけでもなく貧しくもない人々だった。

1478年教皇の勅書により、隠れユダヤ教徒の告発を目的として異端審問所が設置されたが、異端審問所開設当初から、これは収入を目的として富裕な改宗ユダヤ人を犠牲にしているとの非難があったことから、富裕な改宗ユダヤ人の財産狙いを狙い打ちにしている制度だったらしい。

また周辺諸国もスペインから大量のユダヤ人が送りこまれることに不快感を示しており、ユダヤ人追放がすんなり運ぶ形勢でもなかった。

かくして異端審問から1492年のユダヤ人追放令は、一部のユダヤ人の移住は起こったものの、決してユダヤ人の相当数を居住地から追い立てる結果にはならなかった。

かたや追放令の下に多くのユダヤ人が強制改宗したことで、追放から逃れた。

当時信仰というのは、社会性の一部であって、今日のように個人の心理、信条の延長線上にあることにより比重があったわけではない。当時にあって個人の心理、信条の延長線が問題になったのは、修道院で修行する修行者だけだったのではないだろうか。




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アヴィラのテレサの自我の死-3

2013-01-30 05:59:08 | キリスト者の秘蹟
◎愛の甘美さの中にある

テレサの肉体は呼吸停止、想念停止に入りつつある。思慮の力で彼女は、ともすれば起きていることの推移を認識することを忘れがちなところをかろうじて、認識し続けている。『あの襲来』とは、そうした孤独や絶望の到来全体を指す

『あの襲来が過ぎ去るまでのあいだは、魂はしかしこうしたことどもを感じ取りません。なぜなら魂はその内部であの襲来を感じ取ることでせいいっぱいだからです。そして私は、魂はひどい責め苦を感じたりはしないだろうと思います。

しかも魂は十分に意識を保っていて、語ったり、眺めたりすることができるのですが、しかし動くことはできません。なぜなら、愛の大きな衝撃が魂を投げおろしてしまったのですから・・・・・・。

魂はそれが主の大きな恩寵であるのを認識いたしますが、しかしこの状態が続くならば、生命はそれ以上もう長くはもちこたえられないでしょう・・・・・。

祈りのもうひとつの有りさまは、魂には現実のこととして起こる負傷にも似ていまして、それはあたかも一本の矢が心臓をしかもそのもっとも固有な部分を貫いたかのようです。

嘆きの声が溢れ出るような大きな苦痛がひき起こされます。けれどこの苦痛はきわめて甘美でもあり、だから魂はその苦痛がなければよいのにと思ったりはいたしません。

この苦痛は感覚の痛みではありませんし、傷もまた肉体の傷であるとは考えられません。それと申しますのも、ただ魂の内部でのみ、傷を受けたという感がいたしますが、肉体の苦しみなるものは現われないからです。けれどもこうした状態は比喩を通してしか伝えられませんので、拙い仕方とはなりましても、私にはこれ以外のやりかたでことを言い表わすすべがありません。なぜならこのような状態は身をもって経験したことのない者には理解するすべのないものだからです。私は、あの痛みがどれほど深いところにまでおよぶかということを指して、こう申しあげるのですが・・・・・。』
(忘我の告白/マルティン・ブーバー/法政大学出版会P203-204から引用)

これは、神の愛の衝撃が魂を合一でない方向に投げおろし、魂という自意識を保持したまま愛を甘美な苦痛として感じ取ったということなんだと思う。

個的魂・自意識は、神の一本の矢に貫かれて愛の甘美さの中にあるが、自我の死寸前でそれを味わうことに止まっているという風に感じた。ただし、個的自我・魂は救済の道筋である『傷』は受けた、と。



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パラケルススの神と人との合一

2013-01-29 02:22:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎聖なる奇跡と新しい肉

パラケルススの神と人との合一についての説明。

『ペテロですら、第一のアダムに由来する肉的な愛にかられるあまり、キリストに対し、エルサレムにのぼってはなりません、十字架につけられて死ぬようなことになってはなりません、と諌めたのである。

しかし、ペテロがこう言ったのは、新生した肉によってではない。そこで、キリストは、ペテロをサタンめと叱りつけて退けたのである〔マタ一六・二二以下〕。

事実、サタンは、新生した肉を支配することはできない。サタンが自分の思うままに引きずり回すことのできる肉は、アダムの肉しがない。だからこそ、キリストは、アダムの肉とのかかわりを一切断とうとするのである。

すべては、新しい肉体の中でのみキリストに仕えることになる。この新しい肉体から力と心情を受けとることになるのであり、この新しい肉体によって神を賛美する。すなわち新しい身体のこころ全体をもって神をほめたたえることになるのである。

死すべきこころが愛せるのは、死すべきものだけだからである。律法がわれわれのうちで成就し、律法の内容にふさわしくわれわれが神を賛美するならば、われわれは神の器、神の聖者となり、また神はわれわれを用いてこの地上でさまざまな奇跡の業を行い、聖徒たちを用いてさまざまなやり方でその姿を示す。つまり、奇跡やしるし、不思議な業によって、自己を現わすのである。

しかし、このようなことが今の世に起こらないのは、古い誕生が新しい肉によらず古い肉のまま自分の意志を行使しているからである。聖なる奇跡が起こらないのは、このためである。

事実、地上的なものによっては、天上的なことは何一つ生起しえない。地上的な働きは地上的器によって、天上的働きは天上的器によってのみ遂行されるからである。それぞれにふさわしい器がなければ目的とする作用もまた生じることはないのである。』
(神と人との合一について/パラケルスス/キリスト教神秘主義著作集16/教文館P58から引用)

神と人との合一にあたって、その器が問題であるとする。器とはプリマ・マテリア第一質料のこと。ここで肉そのものが何かの特殊なテクニックでもって、新生すると見ると間違えるかもしれない。

肉的現実には、絶望と不如意しか結局待ってはいない。そんな誤解をされないように仙人たちは白日昇天し、チベット密教者たちは屍解してみせたのではないか。

ただし準備ができた肉体はある。現代人は準備ができた肉体である。新しい肉の準備はできたから、神と人とが合一するばかりだということになる。パラケルススの時代の肉体はこれほどまでに強烈な自意識とそれに伴う孤独と絶望には耐えられなかったのだろう。



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誠実に生きる

2013-01-28 07:31:54 | 冥想アヴァンギャルド
◎大いなる禁欲

アルジェリアの日本人人質は、アラーは偉大なりとテロリストにつぶやかれて後、殺害された。

これはイスラムのハディースに出ている話。
『洞窟の話。
(1) イブン・ウマルによると、神の使徒は語った。「昔、三人の男が歩いていると突然雨に襲われ、或る洞窟に逃げ込んだところ、入口が塞がれてしまった。困った彼らは、誠意を示すことによってしか助かる道はないので、我々のうちの各々が誠実に行ったことを訴えて神にお願いしようではないか」と話し合った。

そこで先ず第一の男が『神様、わたしは或る人を米一ファラクで雇い、働かせましたが、報酬を置いて行ってしまいましたので、わたしはその米を捲き、得た収穫で牝牛を買いました。

すると、その人が戻って来て報酬を求めましたので、わたしが牛を連れて行く
ようにすすめると、彼は、米一ファラクの約束であった、と応え、さらにわたしが、米を売って得たのだから牛を取るように、と言うと、彼は牛を引いて行きました。

神様、わたしがこれをあなたへの怖れの気持から行ったことをお認めならば、どうかわたし達に出口を開けて下さい』と叫んだ。すると入口の岩が少し開いた。

次に第二の男が『神様、わたしには年老いた両親が居り、毎晩羊の乳を届けていましたが、或る夜、遅く帰ると二人はすでに眠って居りました。わたしの妻や子供達が飢えているときでも、彼らより先に先ず両親に与えたものでした。

そこで、わたしは両親に飲ませずに放っておくに忍びず、さりとて彼らを喚び起すこともできないまま、朝日の昇るまでずっと待ち続けました。神様、わたしがこれをあなたへの怖れの気持から行ったことをお認めならば、どうかわたし達に出口を開けて下さい』と祈った。すると、岩がまた少し開き、空が見えるようになった。

最後に、第三の男が『神様、わたしには誰よりも好きな従姉妹が居り、彼女を得たいと思いましたが、百ディーナール与えなければだめだと申しました。そこでわたしは金を工面して持って行って与え、彼女を自分のものにし、まさに交わろうとしたとき、彼女は「アッラーを怖れ、妄りに封を解かないで下さい」と言いました。そこでわたしは直ちに起き上がり、百ディーナールを置いたまま立ち去りました。神様、わたしがこれをあなたへの怖れの気持ちからしたことをお認めならば、どうかわたし達に出口をお開け下さい』と叫んだ。すると神が道を開けられたので、彼らは外に出ることができた」と。』
(ハディース 中巻 牧野信也訳 中央公論社P219から引用)

誠実に日々徳を重ね、最後はジャンプする。




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拉致と決断=蓮池薫

2013-01-27 06:50:17 | 時代のおわり
◎破仏国家

中国を上回る自由のない国北朝鮮。中国でも本音だけの話をするシーンに出くわすと、思想、信教の自由がないこと、移動の自由がないこと、基本的人権がないこと、法治でないことを改めて思い知らされ、とても寒々とした気分になるものだが、北朝鮮はそれを上回る統制国家。

北朝鮮では、隣組の相互監視がとても機能しており、移動の自由もない。思想、信教の自由は勿論ないし、言論の自由もなく、食材の種類もともしく、食料も十分ではない。おまけに日本に帰国できる可能性はほぼゼロとくれば、日々絶望しながらでも生きる意味を見出さねばならないという、これぞ邪境という世界である。

だから、かれら一家は日本に帰国できたことを僥倖とは感じているが、北朝鮮に残された他の拉致被害者のことに思いをはせて、手放しでは喜べないとする。老境となったよど号のっとり犯(彼らは望んで北朝鮮に入国したのだが)が帰国の希望が強いことにも同情的である。

子供だけを北朝鮮に置いて夫婦だけで帰国する決断は重かっただろう。善を行い悪を行わない、自分のメリットを求めないという基本からいえば、その決断は外形としては問題である。北朝鮮に残る選択もあったが、別の選択をしたのだ。人生は一回きりだから、その選択は一回きり。


冥想に取り組んで、冥想が成るには環境が必要である。邪境では厳しい。思想、信教、言論の自由があること、そして特に食の条件がある程度整っていること、これらのことは日本人は当たり前のことであって、何の恵まれた条件でないと思っているが、それは失われて初めて気が付くもの。

唐代に破仏が行われ、僧たちは還俗を強いられ、求道の志やみがたい者は山に隠れて密かに修行を続けた。破仏・仏教禁止を国是とする中国と北朝鮮。破仏を国是とする国は修行者から見れば邪境である。このことをきちんと認識して対すべきだろう。




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9.11以後の10年の戦争

2013-01-26 07:13:05 | 時代のおわり
◎乙女座のアメリカ

オバマ大統領が2期目の大統領就任演説で、10年の戦争が終わったと説いた。10年の戦争とは、2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件をきっかけにして起こった、多国籍軍のイラク進攻、アフガニスタン掃討などの一連の戦争である。

ニューヨークのワールド・トレードセンターに飛行機が突っ込んで、まもなくビル全体が崩落したのを夜、生中継で見たときには胆をつぶした。あの中に何人いるんだろうって。

同時多発テロが、アルカイダの仕業か、アメリカの自作自演かは知らないが、9.11の乙女座での発生はアメリカを害したことは間違いない。その後アメリカの国力(経済力がバックボーン)は落ち続けた。世界の覇権国が戦争の経済的負担に耐えられずに衰退していくのはローマ帝国以来同じパターン。

この10年、日本を含めた欧米諸国が、うち続く戦争の負担で国力を疲弊させたのに対し、中国は他国からの貪欲な技術導入と投資誘致、そして人民元為替レート操作で瞬く間に世界の工場たる地歩を確立し、いまやアメリカに対し、ハワイ以東は中国に寄越せと、帝国主義的野心を露わにするほどになった。

そして2011年3月11日14時46分の東日本大震災。占星術者は、9月11日と3月11日が太陽の位置がオポジションであることにはすぐにピンとくる。9.11の乙女座は、ワシントンDCの様々な建築物、モニュメントに託されたアメリカのシンボル星座そのものである。9.11以来10年で天球を半周し、ここに9.11以来の戦争がこのタイミングで終結されることがシンボライズされていた。

この10年については、石屋(赤い盾、Marsの平和の名のもとでの支配)による世界の統一の実現という点では、ひどく回り道だったのではないか。換言すれば、地上に覚者がまだ続々と出現する機運ではなかったということ。
悠仁親王殿下は2006年(平成18年)9月6日で乙女座で誕生。これは日本の親米体制がまだしばし続くことを意味すると読むのだろう。

ロールプレイングゲームにメイン・ストーリーとサブ・ストーリーがあるように、世界の流れにもメイン・ストーリーがある。サブ・ストーリーに気を取られてメイン・ストーリーを見失うのはまずいが、サブ・ストーリーにもメインを補完する重要なディテイルが潜んでいるものだ。




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アフリカにおける中国

2013-01-25 02:09:46 | 時代のおわり
第三次世界大戦の兆し

アルジェリア人質事件の大量殺戮は、欧米のリベンジを恐れない者によってのみ遂行可能だった。そう考えないとなかなか理屈が通らない小規模な兵乱だった。宗教とかは関係なし。

この事件は、リビア米国大使殺害事件に続く、中国の欧米覇権に対するアフリカにおける挑戦の始まりと見てよいのだと思う。日本人狙い撃ちだし。

アルジェリアは、中国の胡錦濤主席が2003 年に国家主席に就任してから、最初の外遊で訪問したアフリカ最初の国であり、通信インフラは既に中国企業Huaweiが牛耳っている国である。アルジェリアこそは、中国から見て欧州に突き出た角そのものという位置づけ的重要性を持っているのだろう。

中国は国家安全保障上の必要性から、2000年代から石油の調達を中東一辺倒からアフリカにも注力するようになった。既に中国は世界の石油・石炭などの燃料および鉱業製品の20%を輸入する国であるが、更に将来の国内需要を満たすため、当時からアフリカ諸国にターゲットを定めた。

以後中国は石油と鉄鉱石を始めとした地下資源の恒久的供給ルートを得るために、アフリカに対して、経済規模に比較して不相応な巨額の融資などをしたり、通信インフラに参入したりし続け、その供給体制を揺るぎないものにする努力をこの10年続けてきた。

その成果を象徴する「兆し」が今回の事件であるように思う。いまや中国はアフリカのメインプレーヤーとなったのだ。中国共産党の世界戦略構想が今回の事件の伏線になっているとは言われているが、中国はアフリカを盤面としたオセロゲームの終盤にあって、局面を反転させる一手が近いことを既に視野に入れているのではないか。アフリカが手に入れば、欧州の力は半減する。

中国は3兆ドルの外貨準備に飽かして、数千億円にのぼる借金を返済能力に疑問のあるアフリカの一小国に負わせ、石油を始めとする鉱物利権を次々と手に入れるようなことをしている。最近はこのような行為を国際通貨基金IMFも批判し始めた。

シェールガス革命という環境の変化はあるものの、アフリカにおいては、一貫した中国共産党の方針に沿って国家と同体である中国石油企業が、、さすがの欧米石油メジャーすらも、じりじりと敗退させ始めていること。そしてこの成果に自信を得た中国が、開発途上国における欧米覇権に挑戦する意思を固めているようである。

蛇足だが、中国海軍は、アフリカ沿岸の石油探査目的で規模を増加させ、練度を上げている。ウクライナから購入した空母ワリャーグの性能がどうしたこうしたということで浮かれていると、中国海軍の真の実力を見誤るのではないか。

中国功成って万国枯る構想か・・・・・。

こうした中国の生存をかけた包括的戦略にオバマ大統領は1年半ほど前にようやく気がついたようだ。・・・・金を持たせ過ぎたかな。

さて我々凡俗の幸せとは何だったろうか。他人の国の平和と繁栄はねたまれやすいものだ。




参考:ジェトロ アフリカにおける中国(戦略的な外観)


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アヴィラのテレサの自我の死-2

2013-01-24 02:22:39 | キリスト者の秘蹟
◎自分の死なくしては神に至れず

自意識が孤独と絶望に陥った後、自意識は死を選ぶしかなくなる。

『魂はその創造主のほかになにを求めもいたしませんが、このとき魂はこのことが自分の死なくしては不可能であるのを認識いたします。

けれども魂には自分自身を殺すということは許されませんから、魂は死にたいという願いによって、実際にそこに死の危険が存在する、そのような仕方で一種の死を経験いたします。

魂は自分がいわば天と地のあいだに懸かっているのを眺め、そしてさてどうすべきものやらわかりません。そうこうしているうちに、神はご自分についてひとつの知識を魂に与えられ、魂になにが欠けているかを、魂が感得するようになさいます。

これはしかしいかにも不思議な仕方で起こりますので、言い表わすことのできぬ、またその苦しみの名状しえないものですが、こう申しますのも、この地上には、少なくとも私の味わったすべての苦しみのなかには、これに比べられるものがないからです。

こうした苦しみが半時も続きますと、肉体はいわば諸部分の結合しているその状態を解かれ、四肢はばらばらになり、両の手にはもはやものを書くことのできるほどの力も残らなくなってしまいます。』
(忘我の告白/マルティン・ブーバー/法政大学出版会P202-203から引用)

「肉体はいわば諸部分の結合しているその状態を解かれ云々」とは、呼吸停止想念停止に向かっているのだろう。

神との合一のためには、自分が死ぬしかないということを、このステージに立って知る・・・・・このことこそ、理屈でもってはわからない部分。百千万言を以ってしてもこのステージに到らなければ、納得することはできないだろう。それを説得することなんかできない。

このことを聞いただけで、あるいは想像しただけで確信できる人は幸いである。




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アヴィラのテレサの自我の死-1

2013-01-23 05:50:47 | キリスト者の秘蹟
◎絶望と孤独

アヴィラのテレサは、その体験について多弁であり、語彙を沢山用いてその体験を丁寧に語ってくれている。個的魂が、神に向かうには、まず絶望のようなものの襲来がある。

『祈りがそれに先行することのないままに時として魂を襲う欲望がありますが、それを私は襲来と名づけています。またこの場合そこにはひとつの知らせが突然に現われ、それは、神はここにはおられない、ということを、また、魂の聴き取る言葉、神のところへとおもむく言葉もないということを伝えるものでございます。

この知らせは時としてはたいへんに強力な、一瞬にしてひとに正気を失わせるほど激しいものでありまして、そのおもむきはあたかも人間になにかのつらい知らせ、あるいは大きな驚愕が突然にもたらされる時の感じのようであり、または他のこれと同様なもので、人から深く思慮する力を奪い取るものが伝えられる時の感じのようでもあります。

そして、この思慮の力がなければ人間は自らを慰めることができなくなり、麻痺したようになってしまうのです。またこうした場合には、これはひとつの死というにもあたいする、とそう魂が認識するような事態のうちから、ただ苦しみばかりが生じてくるようになります。

そしてこのため、魂がこのとき受け取るすべてのことが、魂にはただ、より大きな苦しみになるというようなことともなり、その感じはあたかも、魂の全存在が他の何ものの役にも立たず、魂が慰めを得もしなければ、自分の生きていることが神のご意志であるのを思い出しもしないという状況、それのみを主が欲しておられるかのようなのです。

魂にはこのようなときには、すべてのものから遠ざけられて、名状しえない大きな孤独にあるような気がするのですが、それというのも世界がそのいっさいをもって魂を苛み、そして魂には、いかなる被造物も魂に与しないかのように思えるからです。』
(忘我の告白/マルティン・ブーバー/法政大学出版会P201-202から引用)

この段階では、絶対的な孤独と絶望に陥る。しかしこの時何が起きているかを、思慮の力があれば、一縷の慰めを見いだしていくことができる。人によっては、この絶望と孤独に麻痺したようになる人もいて、多分そうした人は前には進まない。思慮の力がなければ、この窮地を打開できないであろうことをテレサはほのめかす。

そしてこうした感じは、カトリックの冥想修行の一段階に特有の事情ではなくて、自我の極点にある現代人の心情そのものでもある。曰く、『すべてのものから遠ざけられて、名状しえない大きな孤独にあるような気がするのですが、それというのも世界がそのいっさいをもって魂を苛み、そして魂には、いかなる被造物も魂に与しないと。』

自意識極まって、絶望と孤独に陥るのである。




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アッシジのエギディウス

2013-01-22 02:49:55 | キリスト者の秘蹟
◎脱魂


アッシジのエギディウスは、1190年頃から1262年の人物。
回心してから六年自の年だったが、彼がファブリアーノの修道院に住んでいたとき、ある夜、主のみ手が彼のうえに臨んだ。

熱情をかたむけて彼が祈っていると、彼は神のきわめて大きな慰めに心を満たされ、彼には、神が、彼に神の秘密を明らかに観させるために、彼の魂を身体の外に連れだそうとしておられるように思われた。

そして彼は自分の身体が、まず足のなかから始まって、つぎつぎに他の部分へと死んでゆくのを感じた、ついには魂がそこから脱け出してしまうまで。

それから、彼にはそう思われたのだが、身体の外に立ちながら、その魂を肉体に結びつけたかたの意志にしたがって、彼の魂は、聖霊がそれをもって魂を飾った絶大な美しさにひかれ、そんな自分自身を眺めて歓びをおぼえた。

なぜならそれは、彼自身が死ぬまえに語ったように、並外れて繊細で明るかったからである。それからきわめて聖なるこの魂は天上のさまざまな秘密を観るために引きあげられていったが、それらの秘密のことを彼はついに明かさなかった。』
(忘我の告白 マルティン・ブーバー 法政大学出版局P89-90から引用)

神人合一のための脱魂では、必ず肉体機能の停止が伴うことを証明する一節。ディテールについては、アッシジのエギディウスはついに明かさなかった。





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吉岡発言

2013-01-21 02:50:08 | 古神道の手振り
◎神は(人に)持ちきりにさせない

吉岡発言とは昭和20年12月、鳥取県吉岡温泉での出口王仁三郎談話で、重大なエポックとなるものである。

『新しい世をひらく

自分は支那事変前から第二次世界大戦の終わるまで、囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を、全部叩き壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は、再建せずして再建されている。ただこれまでのような大きな教会は、どこにもたてない考えだ。

治安維持法違反は無罪となったが、執行猶予となった不敬罪は実につまらぬことで、「御光は昔も今も変わらぬが、大内山にかかる黒雲」という、浜口内閣時代の暴政をうたったものを持ち出し、「これはお前が天皇になるつもりで、信者を煽動した不敬の歌だ」といい出し、「黒雲とは浜口内閣のことだ」といったが、どうしても通らなかった。

自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、その、ため弾圧をうけた。「火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ」のお告げも、実際となって日本は敗けた。

これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。

しかし大和民族は、絶対に亡びるものではない。日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加わり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。

いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として、尊い使命が含まれている、本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。』
(大阪朝日新聞昭和20年12月30日付)

「火の雨が降るぞよ」も、実は型出しに過ぎなかったことは、実は後に明かされている。

「官国幣社の祭神が神様でなく唯の人間だったこと」は、いろいろと差し障りがあるせいか、世間できちんと評価されてはいない。私はクンダリーニ・ヨーギではないので、その辺のパワー・バランスのことはよくわからないが、そういう神社が広く国民の崇敬を受けるようなことがあれば、反作用は、ろくなことにならないだろうことは察しがつく。
そういうのは神道だけのことでもないし。

何が正しくて何が邪かわからない人ばかりの国を、「神は、(人に)持ちきりにさせない」ということなのだろう。




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中国の大気汚染

2013-01-20 07:19:25 | 時代のおわり
◎遠慮なく日本に飛来

中国の大気汚染は、先週の北京市の大気汚染(1月15日の朝日新聞記事)が特にひどく子供が外出を控えるほどになっていたことを報道していて、石炭火力をエネルギーの中心として、環境既成が緩いと、かくも大気汚染が進むということを日本人も知るようになった。

日本での研究で、摩周湖周辺の木が立ち枯れる原因や蔵王の樹氷の樹が立ち枯れる原因が特に冬季の中国からの大気汚染物質の飛来が原因であることは知られるようになった。

しかし九州大学・竹村准教授の大気汚染粒子シミュレーションを見ると、中国からの大気汚染物質飛来の直撃を受けているのは、主として中国地方と九州地方北部である。

九州大学・竹村准教授の動画シミュレーションを動かしてみると特に内陸の四川省、陝西省、湖北省、湖南省のあたりが、大気汚染粒子が非常に多い状態のままずっと推移しており、自業自得(環境規制が緩い)とはいえ心配なことである。

季節柄黄砂も含まれて運ばれるのだがその黄砂には、放射性物質もたっぷり含まれていて、たとえば福岡県の線量は、1月17日から18日にかけて急上昇している。

その原因は1960年代に行われたタクラマカン砂漠での核実験の放射性物質が含まれるためなどと説明されることが多いのだが、米英での放射性物質汚染は、原発周辺だけでなく、核兵器工場周辺でも起きていることを考慮すれば、公開されていない中国沿岸部などの核兵器工場からの汚染ということもあるのではないかと思った。

西日本の黄砂は車が黄色くなるだけではなく、それ以上の環境被害、放射性物質汚染を与えているようだが、日本ではそうしたことは、中国を刺激するのだかなんだかわからないが、ほとんど報道しない。また韓国も狭い国土に20個以上の原発があるのに、放射性汚染物質の漏えい事故は、芸能ニュースの多さに比しほとんど報道されないのも奇怪だ。

福島原発事故以降東日本だけが、汚染地域として色眼鏡で見られるが、中国、韓国から汚染物質がまともに飛来する西日本も安閑としていられる状況でなく、福島の人が大阪に行ったら「胸いっぱい空気が吸えて気持ちよかった」などというような発言は実態をしらないから言えることだと思った。




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神聖なイメージの意味を知らない

2013-01-19 06:03:56 | 究極というものの可能性
◎シンボリズムの破壊

シンボルとは神聖なイメージのことである。剣、鏡、勾玉、卍、法輪、五輪塔、パゴタ、処女懐胎、キリストの神性、三位一体など、いろいろある。

神聖なイメージとされるシンボルに人は日常的に接するが、そのシンボルが本当に神聖なものであるという確信を、大半の人は持っていない。「こういうシンボルは神聖だ」と、宗教界上層部が主張するので、神聖だと信じ込んでいるだけなのだ。

ルネッサンスのヨーロッパにはプロテスタントが興り、カトリックのシンボリズムを破壊し、おかげで、プロテスタントの教会は、カトリックやギリシャ正教の教会に比べ殺風景だ。

シンボルが神聖だとわかっていれば破壊することはない。プロテスタントの時代の人々は、それが何を意味しているか全く知らなかったことに気がついた。あるいは、自分たちが神について何も知らなかったことに気がついた。だからカトリックのシンボルをほとんど廃することができた。

仏教はどうか。インドでも中国でも仏教は滅亡した。チベット密教の中国からの放逐は、中国の歴史的な仏教破壊の最後の一撃と位置づけられる。世界で大乗仏教が正味残っているのは、日本だけ。

日本では、戦後無数の仏教系新興宗教が起こったが、プロテスタントみたいに大々的に伝統的仏教のシンボリズムを廃してやろうという動きが本格化することはなかった。

ということは、日本人は、これだけ生活が豊かになったにもかかわらず、町中至るところに置かれている仏像、地蔵、五輪塔などのシンボリズムについて、それが何を意味しているか全く知らなかったことに気がついたり、自分たちが仏について何も知らなかったことに気がつくというところまで行っていないということである。

出口王仁三郎は京都の寺社空襲のビジョンをほのめかしているが、日本人は自らの手で、そのようなことはできないので、外国の手でシンボリズムを破壊してもらうというようなことはあるのではないか。

そうした不幸な事件が実際に起こらなければ気がつかないということは、天下の仏教国日本人としては情けないことなのだが、最近ではそんなことを考える人も少ないのだろう。

人類の進化とは何人仏を知る者を出すかであり、釈迦が大地震の成因の半ばを菩薩を含む覚者の出現であるとわざわざ指摘したのは、こうした大きな流れのことを指したのではないか。


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シンボルと宗教の歴史

2013-01-18 05:16:32 | 究極というものの可能性
◎宗教とはシンボル体系

行とは無意識の操作である。宗教とはシンボル体系のことである。シンボルとは無意識の操作である。そうしてみるとシンボルも行も無意識を操作するという点では同列であることがわかる。

宗教の教義とは、シンボルの体系であり、信者の集合的無意識は、そのシンボル体系で作られたルートの中を、祭儀や式典、日々の勤行を通じて、ほぼ決まった順序で流れてゆく。

単一のシンボルが直接に心に浮かび上がった時、ともすれば人は次にどこへ行くべきか方向感を失うのであるが、多数のシンボルが体系づけられて配置された密教や古神道やカトリックなど古くてメジャーな宗教の場合は、そういうリスクは少なく、僧職も平信徒も容易に進む方向性を見つけやすいと思う。

シンボルとは、太陽、月、魚、それを捕る漁師であり、父なる神、母なる大地、老いたる子供、十字架、肉としてのホスチア、血としてのワイン、剣としての独鈷、鏡、灌頂、禊、洗礼などなどいくらでもある。

ただし伝統的な教義があったとしても、その教義の意義を使いこなせる充分な高みにあるマスターがいなければ、それらシンボル体系は有効に機能することはない。大航海時代以降の人間の知性の高まりに呼応して、そうしたマスターが多数必要となったはずだが、その後そうしたマスターの数は絶対的に不足し続けた。

結果的にキリスト教では、プロテスタントによりカトリックのシンボル体系の破壊が発生し、古神道は、国家神道により、それまでのシンボル体系を換骨奪胎されてしまった。仏教については、廃仏毀釈の憂き目にあった。日本の仏教は、インド、中国に続いて仏教滅亡ということにならなかったのが不幸中の幸いと評価するべきだろう。

これらは、人類の知性の発達が、それまでの宗教マスターによるシンボルへの盲信では飽き足りなくなって、個々人が独力でシンボルに直接向き合うステージに入ったということなのだろう。これがアクアリアン・エイジの意義。

蛇足だが、こうしたシンボルの体系を社会として認めない社会がある。それは宗教を否定する共産主義社会であり、共産主義社会に生きる人間の心性は、時に恐ろしく迷信深いことがある。あらゆる野生の獣が生きる原始林に放り込まれたような心地さえするのだろう。




悟りとは何か
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柳華陽自伝

2013-01-17 06:12:23 | 道教
◎真正のグルとの出会い

柳華陽(1736~)は、中国煉丹の正統を継ぐ人物。その著書慧命経と金仙証論は、煉丹のエッセンスを具体的に語る書として稀有のものである。

柳華陽は、江西省南昌生まれ。幼少の頃から仏教に興味を持ち、悟道したいと考えていた。
ある時、先輩が「昔、禅の五祖弘忍は、夜中の11時から1時の間に六祖慧能に個人的に道を伝授した。」といわれるのを傍らで聞いて歓喜した。ここで真正の修行者になるには、グルが必要だと初めて知った。

これ以後、真正のグルを求めて湖北省、湖南省一帯を行脚したが、求めるグルに出会うことができなかった。

水の双蓮寺で、得度剃髪し、儒仏道三教のグルを訪ね歩きまわったが、慧命の意味を知っている者はいなかった。これで落胆して空しく日々を過ごしていた一日、一念発起して毎夕二度の五体投地の礼を行って祈願を続けて半年、伍守陽先生に巡り合い、秘伝を伝授してくれて(このイベントは伍守陽没後80年の後頃と見られる)、豁然として大悟することができた。

以後廬山で壺雲老師の出会いにより、この道は凡人の行うべき道でないことを知り、またこの道を継承するよう依頼された。後江左で隠遁生活をしながら道友と修行を続け、蘊奥を究めたので慧命経を著述した。

組織宗教によらず、天下の大ノウハウを、真正のグルにめぐり会うことができたという幸運はあるものの、ほとんど独力で中国煉丹の奥義を公開したというのは、人類にとって大きな進歩であった。




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