アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

2012年の終わり

2012-12-31 07:41:50 | 時代のおわり
◎既成宗教と精神操作

2012年は、いろいろなものに整理をつけた年だった。
人間の肉体進化は、その極点に達し、その進化を止め、残るは意識の垂直ジャンプだけとなった。

2005年にこのブログを始めた頃は精神世界を扱うブログそのものが少なかったが、その頃から霊がかり系と金儲け系の精神世界ブログがほとんどではあった。この頃では企業のリストラでの失業者増加やら若者の就業状況が芳しくないせいか、金儲け系の精神世界ブログがダーッと増えた。翻って、本来の求道系のブログが少ないことは、日本全体の精神状況が好転していないことを示している。

それと今年は、整体の野口晴哉の著作を見てみたけれど、結構な霊能力者であったが、人間の軛(くびき)を脱するという点では食い足りなかった。

またイスラム系のものとユダヤ系のものに手を付けてみた。スーフィ(イスラムの一派)では、ハッラージという飛び抜けた実力の持ち主がいたことを知った。

石屋系の源流を探ると、もともと欧州を舞台に中世以前から活躍していたというわけではなかったことに突き当たる。欧州の石屋は13世紀頃までは細々と生き延びていたのだ。まずローマ帝国衰退後から13世紀頃までは、イスラム圏が世界の最先進文明地域であって、錬金術も含めたクンダリーニ・ヨーガの伝統は、その時代はイスラムによって命脈を保っていたのではないかと思われる。

そして1492年は三重の意味で偉大な年だった。まずコロンブスのアメリカ発見。スペインのグラナダ陥落によるキリスト教による国土回復が成ったレコンキスタ。そしてスペインからのユダヤ教徒の追放である。ユダヤ人の多くはオランダ方面に行ったが、そこから欧州全域に徐々に散った。

1492年はユダヤ教徒の追放という名目だったが、結果的には、○○を野に放ったような大事件だったように思う。錬金術も含めそれまでイスラム圏で培われた秘教的(クンダリーニ・ヨーガ的)なノウハウを彼らが携えて欧州全域に散った。それがドイツやチェコヤ英国などの魔術の源流になっていったように思う。

渓流のせせらぎが細々とでも流れ続けていれば、数百年を経てある時代に偉大なマスターが登場してくることがある。サンジェルマン伯爵なんかはその一人。そうして今や近代西欧文明は世界を席巻することになったが、残念ながら覚醒の大衆化という点では、原始時代にも等しい状況で推移している。

20世紀初めにクリシュナムルティが単身でアメリカを含む近代西欧を中心に活動し、インド・アメリカでラジニーシ・バグワンが教団コミュニティでもってこれにチャレンジしたが、そのニューウェイブは未だ開花したとは言えない。

キリスト教も、20世紀になって社会主義国で教会の破壊や宗教禁止にあったが、いまだに相応の影響力を持ち続けているのは、尊敬に値する。なんだかんだ言っても、キリスト教は近代西欧文明のバック・ボーンである。昨今はキリスト教カルトみたいなのまで雨後のたけのこのように出てきてるし、内憂外患みたいだが、西洋人向けにはまだがんばってほしいと思う。

仏教は13世紀にインドで仏教が滅亡して以降、ジリ貧の一途。隣国中国が共産主義政権となって実質宗教禁止となってからは、日本は仏教の最後の孤塁を守っている。しかしその日本ですら、無信仰、無神論でない人はシカトされがちなとんでもない世の中に成り果てた。

僧職といえば、富裕層、高額所得者の代名詞でもあるが、禅、密教、念仏、お題目の各宗派が資金的に余裕のあるうちに求道方面をもっとちゃんとするべきなのだろうが、どうしたことなのだろう。オウム事件の教訓とされた、既成宗教からの求道者へのガイダンス・宣伝不足は、掛け声倒れになったのだろう。

今や若者を中心に寸暇を惜しんでスマホやケータイでメールやゲームをする時代になった。スマホやケータイ経由で、ゲームやニュースを与え続けることで思考に切れ目を与えないという、相当に巧妙な精神操作(マインド・コントロール)が日本全体で行われている。これが2012年の世相。

これは冥想という人間本来の精神状態にもどるチャンスすら与えまいという非常に危険なトラップである。

この一年ご来訪ありがとうございました。『ザ・プライベート・ファイナリストの道』でもって、自分なりに現代人の盲点をついて行こうとするチャレンジを始めました。微力でもできることはやっていこうと思っています。

また記事数が2700以上になり、解題が必要なのと、記事群の再分類で、もっとわかりやすくする工夫もしたいと思っています。



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教えるということ 知るということ

2012-12-30 06:42:21 | 究極というものの可能性
◎教えは大いに人を誤らせる

至道無難禅師の「見性した後に、これと教え込むと大方大悪人になるものだ」というのを念頭に置きながら、室町時代の蓮如が、真宗教団内のたくさん存在していた誤った教義の修正に心血を注いだことを読んだ。

神仏を見る、神仏に出会うという体験をした者でも、誤った見識に陥りやすい。キリスト教が堕天使を立てるのは、これと同じことを戒めているのだろう。

いわんや神仏を見る、神仏に出会うという体験のない者が、覚醒とか大悟とか神人合一を語る文章を読んだり話を聞いても、どこが勘どころかわからないままに自分に都合よいイカレタ解釈をしがちなものである。

知識を得る、あるいはその体験がなくとも知的イメージでその体験を想像させるというのが、教える、教え込む、洗脳するということの狙いであるはず。しかしそれには限界がある。なりきらないのだと思う。

教えるということと自ら学ぶということは全く異なるものなのだと思う。十全、パーフェクトになるためには、自ら学ばなければならないし、自らその体験とはいえない体験を経なければならないと思う。

世の中には神霊の霊言みたいなものも一杯出回っている。そういうのを見るのも「教える」ということの一種であり、自ら学ぶというのはちょっと違う。守護神高級神霊は、人を蛇口のそばに連れていくことはできるが、水は人が自分で飲まなければならない。

即心記で至道無難も言っている。
『教えは大いに人を誤らせるものだ。それを習うとなお誤りを犯すものだ。
ただストレートに見て、ストレートに聞け。
ありのままにものを見れば、見る自分はない。
ありのままにものを聞けば、見る自分はない。

見ず聞かず思わず知らぬ思いでを
どうして大切にしないのだろうか
(見すきかすおもはすしらぬ思ひてを
なにとてをのかほかになすらむ)』

この「思いで」というのは、体験とはいえない体験を指すのだろうか。


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黄金の時代

2012-12-29 06:45:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎サトゥルヌス(土星)の時代

ギリシア神話の最初のほうに、人の世は黄金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代を太古に経たことが載っている。このおかげで、この4区分は有名になった。小学生の頃、人と人が相争う鉄の時代は、太古のことだと信じていたが、今の時代こそ鉄の時代だった。

鉄の時代には、有害な鉄と鉄よりも有害な金が地中から掘り出されるとあるが、鉄よりも有害な金とは、ウランやプルトニウムのことなのだろう。

さて黄金の時代
『黄金の時代が最初に生じたが、そこでは、懲罰者もいず法律もなしに、おのずから信実と正義が守られていた。刑罰も恐怖もなかったし、銅板による公告にも、威嚇的な言辞は読みとれなかった。

哀願する罪人たちの群が、裁判官の顔に恐怖をおぼえることもなく、罰し手などはいなくても、生活は無事であった。

生い育った山中で松の木が切り倒され、船につくられて、海へ下ろされ、異国へ旅することもまだなかった。ひとびとは、故郷の海辺をしか知らなかったのだ。きり立った堀が、都市を囲むこともまだなく、銅でつくられたまっすぐな喇叭も、角のように曲がった号笛もなく、兜も、もなかった。

兵士は不要であり、いずこの民ヘ安全無事に、おだやかで気楽な日々を送っていた。大地そのものも、ひとに仕える義務はなく、鍬(くわ)で汚されたり、鋤(すき)の刃で傷つけられたりすることなしに、おのずから、必要なすべてを与えていた。

ひとびとは、ひとりでにできる食べ物に満足して、やまももや、野山のいちごや、やまぐみや、刺々(とげとげ)の灌木にまつわりつくきいちごや、さらには、生いひろがった樫の木から落ちたどんぐりを集めていたのだ。

常春の季節がつづくのだった。そよと吹く西風が、なまあたたかいその息吹で、種もなしに自生した花々を愛撫していた。やがて大地は耕されもしないのに、穀物をさえもたらすのであった。田畑は掘り返されないでも、豊かな穂先で白く光っていた。乳の河が流れるとおもえば、甘露(ネクタル)の流れが走り、青々としたひいらぎからは、黄金色の蜜がしたたっていた。』
(変身物語(上)/オウィディウス/岩波文庫P15-16から引用)

これは、為政者が何も政治らしきことをしなくとも、世界が丸く収まる鼓腹撃壌の時代のこと。外国にも出ないので、老子の小国寡民の小国家ビジョンでもある。松の世とはこうした時代。文明の利器がほとんど失われないと、こういう時代にはならないけど。

そしてこの時代はサトゥルヌス(土星)の時代であって、サトゥルヌスが奈落の底へ送られると引き続いてユピテル(木星の)支配である銀の時代になるとあるので、黄金の時代は、土星の時代であることがわかる。

通俗占星術ではサトゥルヌス(土星)は凶星に分類されるが、みろく神政、千年王国とは、土星の時代なのだ。アクアリアン・エイジのアクアリアス=みずがめ座の主星は、天王星だが、天王星発見以前は土星だった。


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マルチン・ルターの結婚

2012-12-28 06:08:23 | キリスト者の秘蹟
◎司祭こぞって結婚

カトリックの神父は結婚しないが、プロテスタントの牧師は結婚する。マルチン・ルターの結婚は牧師の結婚の走りである。

親鸞の結婚は観音様の化身を娶ったという象徴性を帯びていたり、理論的裏付けを必要としていたりしたのと比べれば、マルチン・ルターの結婚は、よほど周辺の集団的な結婚への流れがあった。

ルターは教会改革についての提案をいくつかしていたが、その中には司祭の生活、礼拝などの改革も含まれていた。改革運動については、カールシュタットやツヴィリンクなどの聖職者の同士がいた。

ルターは既に、結婚は神が制定した者であり、司祭が結婚することは神の意にかなうことだと主張していた。そうした中で、司祭たちが結婚を始め、同士で司祭兼修道士カールシュタットが結婚をしたことは、ルターを驚かせた。ルター自身も「誰も私には妻をくれないだろう」などと冗談を言っていた。

こうした中で、1525年6月ルターもカタリナ・フォン・ボラと結婚した。ルターはこの頃修道女の脱走を手伝っては彼女たちに良人か職業を探してやっていたのだが、カタリナ・フォン・ボラもそうした脱走修道女の一人であった。

この結婚に対して、ルターの友人が、「全世界と悪魔はあざわらうだろう。またルターがなしてきた仕事は崩壊するだろう」と予言するほどに、周辺から非難と嘲笑が浴びせられた。

しかしこの結婚は、農民戦争で農民側に立ち一敗地にまみれて意気阻喪しているルターにやる気と活力を与えることになった。ルターは結局6人もの子だくさんになった。

修行者の結婚は、純粋に修行の進展という側面から考えれば問題があるところであるが、キリスト教は、聖職者の覚醒のためのキリスト教から一般市民の覚醒のためのキリスト教に変質していくためにこういうことも必要だったのだろうと思う。


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パエトンへの太陽神の忠告

2012-12-27 06:16:53 | クンダリーニ・ヨーガ
◎中道を行くべし

ギリシャ神話のパエトンと天の車で、太陽神がパエトンに与えた天の車を運転するにあたっての忠告。クンダリーニ・ヨーギは、中心太陽突入前の段階でのクンダリーニ・コントロールのこつを暗喩したものだと心得て読むだろう。

『せめて、できれば、父のこの忠告だけは聞きいれてもらいたい。よいかな、拍車を用いることは控え目に、手綱のほうを強く使うのだ。馬たちは、勝手に駆けて行く。その気になっている彼らをおさえるのが、ひと仕事だ。

それに、五つの天帯を一直線に通るようなことは、してはならない。大きく弧をえがいて、斜めに走る道がついていて、これは、三つの天帯の範囲外には出ないで、南の極も、北風の荒れる『大熊』のあたりをもよけている。この道を進むのだ!

いつもの車輪の跡が、はっきりと見えるはずだ。それから天と地が等しい暑さを分かつようにしなければならない。それには、進路を下げすぎたり、天頂を通ったりはしないことだ。

高くのぼりすぎれば、天界の宮殿を焼くことになるだろう。低すぎれば、大地を焼く。中間を行くのが、もっとも安全だ。右にそれすぎて、とぐろを巻いた『蛇』にぶつかってもいけないし、左に寄りすぎて、低い『祭壇』に行きあたってもまずい。

そうしないためには、両者の真ん中を進むことだ。あとは運命女神に任せることにしよう。この神が加護を垂れておまえ自身より以上に、おまえのうえを案じてくれることを望むばかりだ。』
(変身物語(上)/オウィディウス/岩波文庫P57-58から引用)

全体として、クンダリーニを勢いにまかせて一気呵成に上昇させるようなことをやってはいけない。また、右(下)に寄り過ぎて、とぐろを巻いた蛇ムラダーラ・チャクラに戻るようなのもまずいし、左(上)に寄って祭壇なるマニピュラ・チャクラ?に行き当たってもまずい。そして、修行者は中道を進むべし、運命の女神の加護を垂れることを祈るべし、と。

結局パエトンは、自分自身の力量を超えた天の車の操縦に失敗し、雷に撃たれて死を迎えるのだが、この話ではギリシャの「哲学」と称されるクンダリーニ・ヨーガの伝統の基本線を伝えているように思う。


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覚醒して世界が変わる-23

2012-12-26 05:47:38 | エクスタシス 夢の夢なる
◎荘周胡蝶の夢

世界が変わると言う点からは、荘周胡蝶の夢をはずすわけにはいかない。現代人は自分の自意識が揺るぎないものであると信じ込んでいるが、実はそのしっかりした自意識すらも自分には信じられない時節があるというのが、この逸話のポイントの一つである。

あなたが蝶になったのか。蝶があなたになったのか。

荘子斉物論篇 荘周胡蝶の夢
【訓読】
昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。

俄にして覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。
此れを之れ物化と謂ふ。

【大意】
先日、荘周は夢の中で蝶になった。
ひらひらとして胡蝶そのもので、
とてものびのびした気分だった。
でも自分が荘周であることはわからなくなっていた。

にわかに目覚めると、なんと自分は荘周ではないか。
荘周の夢の中で蝶になったのか、蝶の夢の中で荘周になったのかがわからない。
しかし、荘周と胡蝶とには、区別があるはずである。
こういうのを、「物化」(一つの物が他の物に変化する)というのである。


錬金術書かなんかで、「上のものは下になり、下のものは上になり」とか、「大なるものは、やがて小となり、小なるものはやがて大となる」などと言う。これが物化の正体なのだろうと思う。そういう超長期、超時代的な命の姿の変遷を熟達した冥想修行者は見る。悟りに最も遠いどうしようもない奴の遠い来世を見るときっちり悟っていて神の実在・智慧・歓喜そのままを生きていたり、古代の有名覚者が、現代では新宿の売春婦に身を落とし迷いの泥沼ままに生きていたりってことでもある。

そういうつぶやきを覚者の片言に見つけることがある。
これはいくつかある荘周胡蝶の夢の一つの見方。

そして、霊能力者フィリス・アトウォーターは八つの分身で生き、きちんと悟りきらなかったバーナデット・ロバーツは、かもめと私の区別がなくなった。しかし彼女は、かもめと自分の間に区別がなく、かもめも自分も一者の現れであることを見ていた。一者が「物化」したのである。

この見方では、かもめが荘周か、荘周がかもめか、なんて見方は出て来ないように思われるかもしれないが、一者が荘周としてあらわれ、一者がかもめとしてあらわれていることから、「それでは、かもめが荘周か、荘周がかもめか」という疑問がここで初めて出て来るのだろうと思う。

荘周胡蝶の夢は、荘周胡蝶の現実と言い換えた方がよさそうだ。これはあまりにも現実感覚とはずれた話なので、「夢で・・・・」ということにしてオブラートに包んだ表現を故意にしているように思う。


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古代ギリシアとクンダリーニ・ヨーガ

2012-12-25 06:04:41 | クンダリーニ・ヨーガ
◎上昇と翼

ギリシア神話にイカロスが太陽に近づき過ぎて翼が取れて地上に墜落した話とパエトーンと天の車の話は、クンダリーニ・ヨーガの秘儀である中心太陽接近・突入の危険性を警告する訓話であると言われている。

クンダリーニ・ヨーガの秘儀を民間に伝承するほど古代ギリシアでは、クンダリーニ・ヨーガが発達していたのか。そういう目で見ると、ソクラテスもプラトンもプロティノスもクンダリーニ・ヨーガの修行者が語りそうな世界観を語っていることに気が付く。

イスラム学の井筒俊彦も、世間ではプラトンが哲学でプロティノスが神秘主義と言われているが、実はプラトンの方がより神秘主義で、プロティノスの方がより哲学っぽいなどと言っている(二人とも神秘主義の実践にたけていたことを言っている)。

クライブ・ハートの飛翔論(青土社)P112では、翼の図像と人間の上昇モチーフの関係を調べていく中で、プラトンこそは古代ギリシアの人々の中で、霊魂の昇天について異様に関心を持つ人物であったことに気がついている。

古代ギリシアでは、死者は三途の川ではなく、レテの川(忘却の川。レテの川の水を飲むと記憶をすべて失う。)を渡る。しかしその川を渡るのに翼は必要ない。

よって、プラトンが翼に言及しているのは、中有の最後で裁きの場から天国に昇るために必要だと言っているわけではなく、別のことを言っていることになる。

プラトンは言う『そもそも、翼というものが本来もっている機能は、重きものを、はるかな高み、神々の種族の棲まうかたへと、翔け上らせ、連れていくことにあり』
(クライブ・ハートの飛翔論(青土社)P112から引用)

こういうニーズこそは、クンダリーニ・ヨーギにしかないもののはずだが、どうだろうか。


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覚醒して世界が変わる-22

2012-12-24 07:17:07 | エクスタシス 夢の夢なる
◎この世的なものへの絶望から現実感の変容

死に直面するとは、この世的なものすべてに絶望することである。その絶望に的確な解決策はない。解決策があれば、絶望などしない。絶望で悩み苦しむ。

絶望を手頃な気晴らしやスポーツやミュージックや仕事や勉学や異性とのラブ・アフェアなどで紛らせながら生きるならば、その先のステップはない。

絶望になりきることができれば、なんと不可思議なことに先のステップがあるという。先のステップがあるなんてことは誰も保証しないし、むしろ絶望の果てに生ける屍(しかばね)になったり、自殺したりすることの方が多いのだろうと思う。

絶望になりきることで、その先のステップに行く確率はどうなのだろうか。確率なんて他人のことであって、自分が絶望を超克できるかどうかとは何のかかわりもない。自分にとっては、絶望に苦しみ続けるか、乗り越えることができるか、二つに一つしかない。

この世的なものすべてに見切りをつける。それは、道教の求道者呂洞賓のケースでは、邯鄲の郊外で、高粱の粥が炊きあがるまでの短時間に見た夢だった。その夢で、呂洞賓は、科挙に高ランクで合格して、政府の高位高官に登り、富貴も恵まれた家族も得ながら、最後は失脚して政権を追われた。

伝承では、これをきっかけに道教修行に入るとだけ書いてあるのだが、呂洞賓はこの夢を見るまでに十分にこの世的なものに絶望していた。この邯鄲の夢はダメを押しただけなのだ。夢を見たからこの世的なもの、富貴、栄耀栄華、長寿、健康、名誉、家族との団らん、そうしたものすべての虚無性を見抜いたということではあるまい。おそらく夢の前に既に抜きがたい絶望はあったのだ。

釈迦はどうだ。釈迦は前生で、猿の王者や鹿の王者だったことを含め王者の経験が多く、それほどこの世的には恵まれた過去世を過ごしてきた。それまでのカルマでも十分に物質的社会的にも恵まれた人生を送ってきた。それでもこの人生でもわざわざインド北部の王家の子宮を選択し、王子としての転生を採ることで、またも物質的繁栄やら多くの女性と関係する権利やらを持てる境遇で誕生してきた。

釈迦は結局その人生でも、そうした厚遇も家族も身分もすべて捨て去って熱帯ジャングルでの冥想修行に進んだ。このポイントでこの世的なものへの完全な絶望から逃れられなくなった。みんな最後は老いて死ぬのだ。その底流は死の恐怖だ。

冥想修行を一生懸命やればやるほど、あるいは、この世で真摯に生きていけばいくほど、絶望に追い込まれる。
絶望になりきれば何かが起こるなどということに何の保証もない。それでも生と死を超えた何かにチャレンジするしかないのだ。

キュブラーロスは、死の入り口に直面することを、いわば文明的な史観から大きく攻めた。死の恐怖とは、この世的なものがいつかは必ず滅びるという強迫的な感覚から来る。頼れるものがないのだ、すがりつけるしっかりしたものが何一つないのだ。ここで絶望が来る。

実はそれは感覚や観念ではなく、すべて滅びる、すべてには実体がないというのは現実そのもの(空)なのだが、運よく絶望を透過しようとする場合にだけそれを知る。

すべてには実体がないというのは、想像でも哲学でも般若心経の一節でもイデオロギーでも教条でもなく、のっぴきならない現実である世界。それは我々常識人の感覚ではない。それは、現実感の大きな変容である。まだ世界は転換していない。チベット密教でもこういうのが空性の悟りなのだろうが、本当の悟り=世界の転換はその先に置く。

しかしその方向にしか真の救いはない。


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覚醒して世界が変わる-21

2012-12-23 06:26:57 | エクスタシス 夢の夢なる
◎キュブラーロスの切り口

万人にとって世界が変わる瞬間と言えば、死である。誰にもやってくるとはいえ、否応なく世界が変わってしまうことに、直面することには、恐怖を伴うものである。

何を中心に置いて暮らしているかはもちろん人によって違うが、日々営々と築き上げた財産、常に他人にどう思われるかを気にして作り上げた名声・信用、地位が上昇したことで勝ちえた権力、広汎でたよりになる多くの友人たち、平和で問題のない家庭、信頼の揺るぐことのない恋人関係あるいは夫婦関係、こうしたものがその一例。

死を目前にすると、こうしたものすべてを置いて別の世界に身一つで入っていかなければならないことに気づき愕然とするものだ。

エリザベス・キュブラー・ロスは、この死との出会いから受容までのステップについて5段階を立てた。
1. 否認と隔離・・・そんなことは信じられない
2. 怒り   ・・・なぜ私だけがそんなことに会わねばならないのだ。
3. 取引   ・・・神様もう財産(その他自分にとって大切なもの)はいりませんから命だけを与えてください。
4. 抑うつ  ・・・1から3までの努力が無駄だとわかった。他人からの癒しや、やさしいいたわりの効かない絶対的な悲しみに陥る
5. 受容   ・・・納得して受け入れる

悟りは、自我の死からの復活だから、まじめな修行者には、キュブラーロスの5段階みたいなことは起こる。5の受容まで行けば、密教でいう空性の悟り、プチ悟りみたいなものだろうと思う。キュブラーロスの5段階は、別世界そのものではなくて、別世界に入る精神的な準備。

それまでの自分をすべて捨てるということは、地位も名声も財産も家族関係もすべてを捨てるということであって、あの釈迦ですらそうしなければ修行は成功しなかった。捨てること自体は白でも黒でもないが、捨てないと次の世界に入れないのだ。


誰もが死を恐怖して、それから逃れようとするために権力を求めたり、財を求めたり、名声を求めたり、挙句は戦争を起こしたりする。その動機の最深部に流れているのは死への恐怖である。
そのことを科学的に論証するのは容易なことではない。しかし覚者たちは古来そのことを見抜いてきた。

さて、ここに「21世紀の人類社会」という名の人物がいたとする。彼が、別世界である「千年王国」に入るには、それまで築きあげてきたすべてを捨て去らねばならないということはあるだろう。

キュブラーロスの事績は、確かにチベット密教の死のプロセス体系から言えば、死の入り口を舐めただけである。しかし死の入り口こそ、別世界の入り口なのである。そしてその入り口のあることを、見て見ぬふりをし続けてきたのが、現代文明なのである。

世界の転換と言えば、いかにも大ごとだが、その入り口は誰にでも口を開けて待っている。そのことに直面すれば、何かが起きる。万人が死というものに直面せず逃げ回っているからこんな世界ができちまった。

従って、この絶望的な現代文明に対する的確な処方箋を書いた一人がキュブラーロスだったと今は思う。


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覚醒して世界が変わる-20

2012-12-22 06:37:48 | エクスタシス 夢の夢なる
◎老子-4
○老子第10章 載営魄

古代中国で、悟っているかどうかが問題となるのは、君主と貴族だけである。よって老子は為政者向け啓蒙のスタイルをとる。この一節は、あきらかにタオ(ニルヴァーナ)を一瞥したか、道(タオ)人合一した人間を前提にした書きぶりであるから、覚者のこの世での適応、生きざまの問題を説いているように読める。

『○老子第10章 載営魄

私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。

この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。

民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。

道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』

○○することができるかという問いかけのスタイルで、あらゆるフリーハンドを持ちながら、それを敢えて行使することなく、道(タオ)から離れないで生きて行けるかと問う、強い書きぶりの連続で、インパクトがある。君主は世俗権力の王者だが、覚者は聖性・精神世界の王者である。そこでフリーハンドの方向は二重の意味を有する。

それは、なぜフリーハンドなのか。覚者にあっては、この世のことすべてについて自分の欲念を実現できる能力があって、かつまた自分が行ったとしても、そのことを恃まず、誇らず、恩に着せることもなく、能動的なコントロールすらもしない。これぞ究極の謙虚である。これを玄徳と称する。

無為を守るとは、これほどに、微妙なバランスの上に立っているが、それを天が許すところがある。それを呼び込むものが覚者の玄徳というもの。悟後の修行を聖胎長養というが、為政者にあっては、悟後といえども世俗のいろいろなことを避けるわけにはいかないから、当時の君主に対しては、こういうアドバイスが必要だったのだろうと思う。


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覚醒して世界が変わる-19

2012-12-21 05:37:49 | エクスタシス 夢の夢なる
◎老子-3
○老子第7章 天地長久

老子においても、生きる世界が変われば行動が変わる。行動の変わり具合は、やはり悪を行わず、善を行うのである。

『◎老子第7章 天地長久

天地は長久である。何故に天地がこのように長久であり得るかというと、それは天地がその存在にあたって、自分の為に生きようとしないからである。だからよく永遠に生きていることができるのである。

だからこの天地の道を体した聖人もまた、すべてのことにおいて、先ず自分のことは後にして他人を先立たせる。(だから却って他人から先だたされる。)またその身を外にして、即ち自分のことは考えないで、他人のために尽くす(だからその身を保つことができるのである)。
結局聖人というものには私心がない。それで結局その本来の自分、自己の本来を完全に生かすことができるのである。』

自分の利を思わず、他人に尽くし、他人のことをいつも先にするようであれば、私利私欲(邪心)はない。これでは、悪行を犯す暇(いとま)はない。

天地のように、自分のために生きようとしない、自分のメリットを求めない・・・・それは現代においては、非常識な生き方ではあるが、それこそが、タオ(道)を生きるという生きざまそのものなのである。

そういう生きざまはしばしば社会的不適応という影が差すのであり、タオに出会う、タオと一体となるなどで世界が大転換した後、この世で生きるリハーサルをしばし必要とする。そのことを禅では聖胎長養と称する。

老子でもこのリハーサルの困難さを説く段がある。(続く)




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覚醒して世界が変わる-18

2012-12-20 05:56:51 | エクスタシス 夢の夢なる
◎老子-2
○老子第25章 有物混成

谷神は、世界樹の根であり、厳密に言えば現象を離れた見解ではなかった。老子第25章 有物混成では、老子は、タオそのものを直接説明しようとする。

『ここに一つのものがあり、それは形態的にはっきりと認識できぬようになっているものであるが、しかもそれは天地よりも先からあるものである。

それは、声のないものであり、象のないものであり、独立して、時間的に始めもなく終わりもなく存在しているものであり、あまねくこの世界のすみずみまでゆきわたり、その至らざるところがない。そして万物の母となっている。

私はその名を知らない。他人はこれを道と言っている。強いてこれを名付けるならば大と言いたい。(大は動きのないものなので)その大は逝くものといわねばならない。

逝くものは永遠の彼方に行くのであるから遠と曰ねばならない。しかし行きっぱなしでなく返るものなので、返と曰わねばならない。

この世に四つに大なるものがあり、道と天と地と王であり、世界四大の一つとして王がいる(王を道の体現者と見る)。人すなわち王の法は地、地の法は天、天の法は道、道の法は自ずから然り。』

道は始めもなく、終わりもなく時間のない世界のことだから、通常人の日常感覚と遠く隔たった世界のことを語っている。道は、音もなく形もなく、あらゆる場所に存在しているから太母でもある。

更にタオはもともと言葉では表現できないが、大・遠・返を充てる。そして、この世に道が天として現れ、地として現れ、王として現れるのである。

つまりタオを体現した王として人間が存在する。これぞ道を生きる人間の日常性である。道を体現するとは、すなわち覚醒・大悟することである。

改めて老子の本質は、この部分にあると確信する。老子はあらゆる人間的営為とは別のところに基本を置いているのだ。処世術だの政治技法だのがメインではなく、それらは枝葉末節である。



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覚醒して世界が変わる-17

2012-12-19 05:26:43 | エクスタシス 夢の夢なる
◎老子-1
○老子第六章 谷神不死

老子は、全編が同じ視点から書かれているわけではなく、超古代の作らしく、オーディンの訓言みたいに世俗的な王の施政訓の部分もかなりある。

しかしながら世界が変わるということにポイントを置けば、その中のエソテリックな香りのするものに焦点が当たることになる。

老子第六章 谷神不死
『谷神(無の別名)は死することがない。この玄妙不可思議な母性の万物を生み出す所は、天地の根という。その根によってすべてのものを生み続けているが、それでいて終わる時がなく、且つ疲れる時がない。』

谷神は、天地の根であり、世界樹の根に位置する。根は頭頂サハスラーラ・チャクラの位置である。それだけでもわかる人にはわかるが、終わりもなく、疲れることもないとして、時間のない世界、永遠の世界にそれがあることを示す。この説明によって、谷神は、霊などというものとは別次元にあることがわかる。
ここには、人間という視点はない、谷神は、死の側にあるものであり、死の側には生と死を含んでいるもの。生は死の一部であるので、谷神は死することはない。

これぞ老子の日常的世界観の依って出るところであり、我々の日常的世界観とは全く異なっている。人間の頭頂は上にあるが、天地の頭頂は下にある。つまり彼の世界の上下は逆転している。


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芭蕉の師仏頂和尚のこと

2012-12-18 06:13:08 | 丹田禅(冥想法8)
◎仏頂の純粋な道心をしのぶ

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。そういうところは大学受験にはまず出ないだろうが。

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が仏頂和尚が、庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に
「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡をを訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。


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インサイド オーディンの箴言

2012-12-17 02:37:52 | 冥想アヴァンギャルド
◎人生訓に仮託して

北欧の古い伝承にオーディンの箴言というのがある。大半は、人生訓として読ませることで、背後に潜む秘教的な意味をぼかしているように思える。人生訓になぞらえることで、箴言が数千年の永きにわたり伝承されることを図ったのではないか。秘教的内容のままでは、別天地のことだから、分別ある人によって、簡単に忘れ去られる。

○たとえ仲がよくても、酒席では争う人が多いもの。人々のいさかいは永遠につづき、客は客とすぐにけんかを始める。
(中世文学集(筑摩世界文学大系10 エッダのオーディンの訓言)P20から引用)

※インサイド:悟っていない人ばかりなる世の中は、ほろ酔い加減の人ばかりみたいなもの。あなたと私は、その世界では永遠に一緒になることはなく、いさかいは永遠に続く。

○偽りの友のあいだでは、5日間、火よりもあつく友情がもえさかる。6日目になると火は消えて友情はすっかりと冷えてしまう。
(上掲書P21から引用)

※インサイド:友情はあなたと私が別々である世界で成立するもの。あなたと私が別々である世界は、コーザル体=第五身体まで、それが5日間。6日目は第六身体=アートマンであり、あなたと私の区別はないから、友情などない。

○夜になったら昼をたたえよ。焼かれてしまったら女を、試してから剣を、嫁に行ってから娘を、渡り終えてから氷を、飲んでしまってから酒、をたたえよ。
 (上掲書P21から引用)
 
※インサイド:死の世界を知らないと生の世界の真価はわかるものではない。そのたとえとして、それぞれのものの両方の側面を知ってからたたえよと、卑近な例を挙げる。


文字通りに読むのが、文献考証の基本なのだろうが、そういう目で読まないとオーディンの意図はわからないのでは。老子などもそういうところがあるのではないか。高き者、オーディンともあろう者が、世俗の人生訓をわざわざ残すはずもなし。彼らは、時間のない世界からアドバイスするのが定石である。


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