アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

覚醒して世界が変わる-3

2012-11-30 06:05:28 | エクスタシス 夢の夢なる
○白隠-3

どう世界が変わったか。それだけが問題だ。何を見たか、何を聞いたか、どんな超能力が発現したかなどは、大した問題ではない。

白隠の著作の一つ藪柑子をみると、どう変わるかがある。
1.菩薩の威儀さえ了知すれば、生死はすなわち涅槃であると自覚できる。

これは、菩薩(最低でも見性した人)の行住坐臥(行動パターン)を理解すればとは、悪事をしない、善事を行うということである(諸悪莫作 衆善奉行)。そのように生きて、生死は涅槃であると自覚できる。

つまり悟ったら「悪事をしない、善事を行う」という行動パターンに変わり、生だけがこの世である世界認識から、生も死も涅槃の展開であるという世界認識に変わると言っている。

これは他人がどうあろうと、自分だけは善を行い、悪を行わないということである。ここには、ギブ・アンド・テイクとか、自分のメリットだけは取っていくとか、自分のもうけだけは確保するなどという現代ではごく当たり前とされる発想はない。


 
2.隻手の声をわかっても、そのわかった程度には深い浅いがあるものだから、隻手の公案がわかって以後も長い間修行した者を訪ねて、それを定着させねばならない。というのは、菩薩の行動パターンをわかっていない者は、悪道に落ちたり、(隻手の公案の)悟りを忘れたりすることがあるからである。

隻手の公案を透過すれば、十牛図の第三図レベルだが、それだけでは、もとに戻ることがあることを白隠は指摘している。

それと、悟った人(菩薩の行動パターンを理解した人)の行動の姿が、諸悪莫作 衆善奉行であって、例えば月間行動目標を「諸悪莫作 衆善奉行」と掲げて、それに沿って行動しているのではないということである。

この部分が、悟っていない者にとっての悟り理解の核心の一つだと思う。既に世界は変わり、善だけに生きるのだ。


蛇足だが、白隠は、浄土・天国に生まれ変わろうと願うことは悟りとは関係ないと繰り返し力説する。彼も霊がかりを戒めている。


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覚醒して世界が変わる-2

2012-11-29 06:14:28 | エクスタシス 夢の夢なる
○白隠-2

白隠の続き。

正受にしたたかに殴りつけられ、白隠は、雨後の泥土の上で死んだようになり、動けもしなかったが、正受はこれを見て大声で笑った。

7.南泉遷化の公案(南泉和尚は、死んで、どこへ行ったのだろうか)をやっていたある日、城下を托鉢していると、「あっちへ行け」と叫ぶきちがいばばあに箒で何度もしたたかに打たれた。
このまさに打たれんとする瞬間に南泉遷化の公案を透過した。以後正受に穴倉禅坊主と呼ばれることがなくなった。

この後に大いに悟ったのが6回あったが、悔しいことにそれを言葉で表現できた場合とできなかった場合があった。

8.その後、泉州信田の僧堂で夜坐している時に、雪の降るのを聞いて悟った。

9.美濃の東の霊松院で経行(きんひん)中、悟った。

10. 42歳、『法華経』の「譬喩品」を読んでいたとき、コオロギの鳴く声を聞いて、大悟し、あまりの喜びに号泣した。




白隠は自ら大悟18回、小悟数知れずと言う。回数が問題なのではないが、現代人にとって十牛図の第三図に到達するのが最低ラインと考えられるので、白隠は、それをクリアしたのだろうか。

南泉和尚は死んでどこへ行く。肉体が死ぬ時、自我は死なないのか。自我が死ぬかどうかどうやって確かめるのか、それには、自我が死ぬしかない。それを見たのを以って第三図見牛とするのだろうから、ここは第三図はクリアしたと見るのだろう。

白隠は隻手の公案を案出したり、公案を体系づけたり、門下育成での手腕は大いにあった人物である。では本当に徹底していたのだろうか。白隠は晩年夜船閑話という書を著し、観想法によるヒーリングを大いに推奨している。このように晩年になっても健康を主たる問題の一つとして考えなければならなかったあたりに不徹底を突かれる隙があるように思う。十牛図第八図の円相に向かうにはすべてを捨てることが必要である。健康や超能力(白隠は超能力の言及が多い)ですらも。

ここでは、現代人の合格ラインは、第三図と思われるので、第八図まで行く行かないは問題にすべきではないだろう。

その時、自分が死ぬということを見切れば、「自性本有の有様」(アートマン)をたちどころに見るという体験が起こる(著書の藪柑子による)と、白隠は力説実証したのである。

白隠では大悟、小悟の大歓喜において、都度世界は大きく変化した。しかし誰でもこのように繰り返し起こるものでもないだろう。人によっては一発勝負もあるだろう。

十牛図第三図は、別天地に首だけを突っ込んだ感じなのだろうが、それでも現代人にとっては、OKの水準なのだと思う。



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覚醒して世界が変わる-1

2012-11-28 06:11:59 | エクスタシス 夢の夢なる
○白隠-1

覚醒して世界が変わるとはどのようなものだろうか。
悟りには、一瞥、神人合一、帰神の3種あるが、禅では、一瞥のことを見性とよび、神人合一のことを身心脱落と呼ぶ。

臨済宗中興の偉人として江戸時代に白隠という禅僧がいた。彼が身心脱落したかどうかはひとまず措いて、その覚醒の連続を見る。ただし禅では悟りに段階なぞないというのが基本である。

1.15歳で出家したが、16歳で法華経だけが功徳があるという説を読んで大いにやる気をなくした。

2.19歳で、巌頭和尚が盗賊に殺害された時にその叫び声が三里の外まで届いたというエピソードに接し、巌頭和尚のような優れた僧でもこんな目に遭うとは、修行に何の意味があるのかと三日間食べずに悩んだ。

3.22歳、若州の常高寺の虚堂会に参加し、ちょっと悟った。

4.その冬、伊予松山で、仏祖三経を読んで、大いに悟った。この頃寝ても覚めてもムー、ムー、ムー、と無字の公案をやった。

5.24歳、越後高田の英巌寺で、昼夜眠らず修行して、大疑団が現れた。性徹和尚による『人天眼目』の提唱を聞いて数日したら、ある夜ゴーンと鐘の音を聞いたとたんに世界が逆転した。
「巌頭はまめ息災(元気であること)であった」と叫んで大笑いして、この2、3百年わしのように悟った奴はいないと、大いに盛り上がった見解を持った。

6.この見解を持って信州飯山の正受老人のところを訪ねた。
正受老人は「趙州の無字を何と見るか」と問う。
白隠「趙州の無字にどこに手脚をつけるところがありましょうか」と言葉を返した。
正受老人は、彼の鼻をひねり上げて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。

以後、反省もしなかったので、白隠のことを穴倉禅坊主というばかりで相手にしなかったが、ある夕方、正受が「妄想分別」と来たので、「妄想分別」と返したところ、白隠をつかんで2、30回殴りつけて、堂の下へ突き落した。
(続)





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ザ・プライベート・ファイナリスト

2012-11-27 06:04:19 | エクスタシス 夢の夢なる
◎人間の側に確かなものなどない

現代人は、一人一人が、ザ・プライベート・ファイナリストとして生きている。ザ・プライベート・ファイナリストとは、覚醒を求めて生きる。なぜならば、この地獄的なる人々の多い社会で、本当に生きるという実感を得て、快適に生きるためには、人間であることの限界と哀しみに真正面から向き合って、絶望の淵に落とされて、一度は独り死ぬしかないからである。

独り死んだ先に救済はないかもしれないし、再生もないかもしれないが、孤独に死ぬことに追い込まれるのだ。人は生まれた時も独りで生まれ、死ぬ時も独りで死ぬ。
死を語るのは霊能力者だが、世に半端な霊能力者は多くても、彼らのほとんどは、死の世界のすべてを見切っていやしない。見たこともない死の世界を、話や作り物の映像だけで誰が信じようか。

只管打坐は、まず生の世界を窮め、それによって死の世界をも包括して知る。
クンダリーニ・ヨーガは、まず死の世界を窮め、次に生の世界が死の世界の一部であることを確かめる。その立場に立たない限り、「この世が夢である」という現実を知ることはない。

現代人は安心、安全な保障を求めるものだ。しかしこの世の物事、出来事に安心、安全なものなどない。神の御心のままに移ろい衰え変わって崩れていく。若き日に絶世の美女だった人が何十年後の同窓会で皺くちゃになっているのを見るのは間違いない。元気溌剌精力絶倫だった男が、何十年後に、筋力も衰え老いさらばえて、冠婚葬祭で再会することも確かである。

120年後に誰が生き残っていようか。巨万の財産を得た人があの世に旅立って、そこで贅沢三昧したら真のサクセス・ストーリーかもしれないが、そんな荒唐無稽な話などない。

難波のことは夢のまた夢、本当に確かなものを求める自分の心情に気が付いた人が、「ザ・プライベート・ファイナリスト」である。少なくとも前進のモチベーションを持つ人のことである。まずはそれがないと始まらない。

確かなものは、我々の世界にはない。永遠なるもの、破壊されることのないものは、人間の側になどない。

人間である以上人間の側にないものを確かめるすべなどない。

しかし聖者、覚者はそれがあるようなないような微妙なニュアンスを示唆する。
それが「悟り」である。
そして「悟り」に向かうメソッドとして、メディテーション・冥想という言葉に包括される「生き方」がある。冥想とはまず坐法かもしれないが、むしろ生き方、生きる姿勢であるようにも思う。

冥想あるいは、ある独特な「生き方」による心理コントロール、意識コントロールは、ファイナルステージで、単なる心理現象を越え、人間を別の世界に突入せしめる。これが「悟り」である。

人間にとって確かなものはそれしかない。それにチャレンジすることしか残されていないから、ファイナリストなのだ。

現代人は、悟りについての基礎的理解がない。そこで「悟りとは何か」を書いた。
悟りへのモチベーションはデリケートなものである。
悟りへのメソッドはまず冥想だが、冥想しない大半の人を意識して、「なぜ冥想しないのか」を書いてある。冥想すること自体、時代的にどんどん困難になりつつある。というのはあらゆる洗脳で、意識の時間的持続をそらせようという勢力があるからである。

それでもザ・プライベート・ファイナリストは坐るしかない。




そして、冥想手法として以下のカテゴリーを置いた。手法の分類はダンテス・ダイジによるもの。

冥想の準備
イメージ・トレーニング(冥想法1)
気功、導引(冥想法2)
ハタ・ヨーガ(冥想法3)
カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
占星術  (冥想法6)
マントラ禅(冥想法7)
只管打坐
クンダリーニ・ヨーガ
丹田禅(冥想法8)



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エリザベス・キュブラーロスの位置づけ

2012-11-26 02:07:17 | 究極というものの可能性
◎死後の人間存続と幽体離脱

エリザベス・キューブラー・ロス(1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、死の世界にとっかかった精神科医。故人となった。

彼女の意義は、あの世での人間の連続性と、死後の体外離脱を臨床でもって証明しようとしたところ。証明の手法は臨死体験者から聴取した聞き書きによった。



チベットのリンポチェと呼ばれる高僧ならば、臨死体験者のみならず、片道切符の死者の行く先まで、きちんとフォローして報告ができたのだろうが、霊眼でフォローしたとしても学会で証明する材料にはならない。

彼女の活動は、ターミナルナルケア、ホスピスなどの先駆けになったという。この、死を忌避する文明、死を無意識にタブーとする文明生活において、彼女こそ大きな突破口を開けたのだ。

誰かが突破口を開けなければ、その分野があることは社会通念になりはしない。

死の忌避とは死への恐怖への裏返しである。生は死から出て来る、生は死の一部というのは、ちょっとした神秘家なら結構そういう趣旨のことを言っているのものだ。死を恐怖しないライフ・スタイルに向けて彼女は一人のパイオニアだった。

それと死後の魂あるいは霊の存続。これは臨死から生還した人が語るのだから、あの世へ片道で行ったきりの人が行く世界とはちと違うかもしれないが、頭の固い現代人を信用させるには、生者の口で証言させざるを得なかっただろう。

また臨死から生還した人たちの証言なので、まずあの世でのノーリターン=砕霊の話は出て来ないだろう。臨死体験者も千差万別で、あまり材料になりそうもない体験談がほとんどの中で、根気強く話を集めたものだと思う。

20世紀初めには心霊主義の時代が世界的にあって、心霊面からあの世の存在や、死後の魂の存続について世界的に関心が高まった時期があった。

キュブラーロスは、心霊面ではなく、実地にその証明にチャレンジした。

なんだ死後の世界の入り口だけじゃないかと思うかも知れないが、死後輪廻転生があって、死んだことによって悪業が落ちるものではないと知れば、利にさとい極めて功利的な日本人なら、小さな悪業はなるべく犯さないという方向に自分の行動を直ちに変えていくのではないかと思った。




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ザ・プライベート・ファイナリストの道の序文

2012-11-25 07:10:08 | エクスタシス 夢の夢なる
◎世界が変わる


1.悟りは心理現象ではないこと
ユング派の心理学者が個性の統合を悟りに見立てて、自我と自己の統合を終着点として考えているが、その終着点は心理現象ではない。生きている世界そのものが、チェンジしてしまうからだ。Yes,you can.

自我と自己の統合により、人は別の世界に放り込まれる。

その異次元の風光を、禅者は日日是好日などと洒落たのだ。

「悟りは気分がいい、今ここ、そのままで、何も問題がない」などという心理的気分的情緒的スローガンを誤解するのも、悟りを心理現象だと思い込むのと似たようなものだ。

2.悟りは知識、思想、イデオロギー、信条ではないこと。
自分が一者(神仏)とつながっていて、一者の一部であって、いろいろつらいことや思うに任せないことがあっても、一者のこの世の現れであってカルマが消えてゆく姿だから、自分が生きようが死のうが何も心配はない・・・・・などという理屈を信じ込んでいる人は、ことのほか多いものだ。

あるいは、この世が○○主義政権になれば皆幸せになれるという理屈を信じ込んでいる人は、意外に多いものだ。

あるいは、この世の人が○○教信者になれば皆幸せになれるという理屈を信じ込んでいる人は、存外に多いものだ。

あるいは、この世の人が○○思想を実践すれば皆幸せになれるという理屈を信じ込んでいる人は、さりげなく多いものだ。

こういうような知識、思想、イデオロギー、信条を信じ込んでいる人は戦後日本で多数出てきたのだろうが、ピーク・エクスペリエンス(体験とは言えない体験)を通過していない以上は、ぎりぎりのところでは通用しない。

禅の十二牛図である「うしかひ草」の序文にも、道は、語でもなく、沈黙でもなく、有でもなく、無でもなく、作為でもなく、心でもなく、可でもなく、不可でもなく、与えるべき法・真理はなく、受けるべき一句もないとある。

3.世界が変わるとは回りが変わることでなく、自分が変わることである。
誰もが自分が変わることなどないと思い込んでいる。古代ギリシャ哲学では魂は不滅なんて言うからその誤解に余計な確信を与えちゃったりする。

自分が変わるには、あるエクスタシー(体験とは言えない体験)を通過しなければならない。これこそが問題中の問題であって、人類進化の鍵なのだが、その必要性をこちらの世界にいる人間に理屈で説明することはできない。
自分が変わる必要性が、自分のメリットを得るというモチベーション以外に切実なものがあろうとは想像もつかないからである。

エクスタシーとは、神・仏・一者・ニルヴァーナとのファイナル・コンタクトのことである。

4.悟ってしまえば世界がひっくり返るので、ここに書いていることは嘘かもしれないこと。

悟った人間はいわばあちらの世界にあって語るし、悟ってない人間はこちらの世界にあって語る。その真意は真逆だが、出てくる言葉はしばしば同じである。
「何も問題ない」
「修行する姿と悟りは同じ」
「すべては意志、願望によって実現する」
「この世はリーラ、戯れである」 
 
  だから真実は言葉面にはないとも言える。


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精神世界GPSマップ

2012-11-24 07:06:12 | エクスタシス 夢の夢なる
◎ファイナル・コンタクトへ

1.コンタクトの形態
神・仏・一者・ニルヴァーナとのファイナル・コンタクトの方法は3種。
コンタクトと言っても神と自分が別であるかぎりそれはファイナルたりえない。自分が残っていればノー・ゴール判定である。

(1)神人合一:クンダリーニ・ヨーガによる。
クンダリーニ・ヨーガといっても、クンダリーニ上昇の他、大周天による方法がある。いずれも中心太陽突入を最終ステージに置いているように思われる。
主要な導師は、チベット密教のパドマサンバヴァ、道教の呂洞賓、釈迦。
The long and winding road

(2)身心脱落:只管打坐による。
身心脱落は道元の専売特許でなく、クリシュナムルティ、老子などもある。
またムーなどのマントラ禅に必死に打ち込んだ結果、天啓のように只管打坐が起こるということも否定できない。
Straight way 

(3)帰神:大神の憑依のこと。
出口王仁三郎の定義では、人間の精霊が直接大元神(主の神または大神)に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態である。
帰神志向が全盛だった時代もあるが、今はこれではないだろう。大正時代に出口王仁三郎が大衆向けに憑依から帰神という修行に盛んにチャレンジさせたが結果は思わしくなかった。
Passive

神人合一、身心脱落、帰神は、並列なものではない。冥想に深浅高低があるように、それぞれに特徴がある。




2.コンタクト・メソッド
(1)クンダリーニ・ヨーガ
(2)只管打坐
(3)マントラ
(4)観想法

これらが主要なもので、さらに
(5)ソーマ・ヨーガ(薬物)
(6)カーマ・ヨーガ(セックス)
(6)ヴィパッサナー(呼吸を見つめる)
(7)事上磨錬(仕事を精密に)
(8)ジュニャーナ・ヨーガ(哲学)
(9)カルマ・ヨーガ(積善陰徳)
などがある。この他にも合気道で行った人(植芝盛平)もいて、無数のメソッドがある。

メソッドは、単一メソッドで最後まで行く人もいるのだろう(もちろん師匠はある局面では単一メソッドを勧めるものだ)が、大概は複数のメソッド併用の場合が多いのではないか。それとメソッドとその成果は、修行者個人のカルマに密接にからんでおり、連動しない場合がある。

たとえばヴィパッサナーと言っても呼吸を見つめるのばかりやっているわけではなく、それぞれのメソッドを中心手法とした冥想カリキュラムが組まれていることがある。

3.コンタクトのインフラ
(1)グル・師匠
 出会わなければ始まらない。師匠は悟っていること。
(2)衣食住
 衣食住に追われれば、冥想修行はできない。衣食住整って初めて冥想に打ち込める。ここは温暖でジャングルに天然の果実が実って食に困らないインドではない。
  


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ソクラテスの死生観-2

2012-11-23 06:32:55 | クンダリーニ・ヨーガ
◎12片の皮を縫い合わせたボール



パイドンの続き。

まず、魂は不死にして不滅でハデス=死の世界においても存在を続ける。基本線はこうだが、ハデスでは地獄に落ちて輪廻転生サイクルに戻ってこない者がいるのも認めているので、事実上砕霊のようなものがあるのも認めているようにも読める。

パイドンは、ソクラテスの死の直前の説教なのだが、人間の魂は死の世界にあっても永劫不滅なのだから、積善陰徳が肝心ということで、その場の聴衆に合わせた話を開陳しているように思う。いわゆる高弟向けの秘儀ではない。

ソクラテスは、その話の延長として、我々の世界の上方にある世界としての真の大地=地球ロゴスを描写する。霊界上層の大地ということなのだと思うが、真の大地を上方から見れば12片の皮を縫い合わせたボールのようだという。サッカーボールは切頂20面体だが、正12面体なら正五角形12枚である。ここで五行、五大が発想され、物質の原理として登場するのだろう。

この大地に特徴的なのは、その美しさである。あらゆるものがこの世のものならぬ美しさで、大地全体が鮮明で純粋な色彩を持ち、目を見張るばかりな紺碧、黄金色、雪よりも白い白亜など、様々な色であり、その上にある花々、果実も華やかな色彩を持つ。そして石ころは皆宝石である。紅玉、緑玉、碧玉などの宝石でない石はなく、金銀なども地をおおっている。

そして大地の上には穴もあり、穴のひとつには地獄タルタロスもある。

法華経の見宝塔品にも、釈迦が、清浄な世界を見せてくれたら、そこは地面が瑠璃で、木が宝石で、黄金の縄で道を区切っていたなどと、ゴージャス霊界の描写があるが、それと同様である。

なぜこんな贅沢セレブの国訪問みたいな話を聞かされなければならないのか、それは単なる夢物語ではないのか、と大悟する前の日蓮みたいな感想を持たれる人もいるのではないか。

この話の基本は上層部霊界の話であって、ソクラテスは、霊魂は不滅だから因縁を浄化するために善行を行い悪事を行わないようにすべきだという、カルマ・ヨーガ推進のネタの一つとして使っている。

ソクラテスもこのゴージャス世界の住人の寿命は長いが永遠ではないとしているので、明らかにこれは霊界のことであって、第六身体の不壊の世界のことではない。

つまり、ソクラテスの美麗霊界の描写は、覚醒や大悟そのものが万人の問題となっている現代に比べれば、のんびりした時代だった聴衆向けの説法だったように思えるのである。


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ソクラテスの死生観-1

2012-11-22 05:55:55 | クンダリーニ・ヨーガ
◎パイドン




ソクラテスが毒杯をあおって身体が次第に冷えていく状況を自ら実況中継したシーンのあるのが、パイドン。

パイドンにある彼の臨終観は、このようなものだ。
まず、悪人が死ねば、悪人が積んできた悪徳もご破算になると思っているが、魂は不死にして不滅であるがゆえに積んできた悪徳の報いから死後も逃れることはできない、と戒める。

人が死ぬとダイモーン(神霊)がその人を待っている。そのダイモーンは彼が存命中に彼を見守ってきたダイモーンだ。
このダイモーンが彼を案内して中有に連れて行く。
中有で裁きの庭に立つ。

裁かれた後、ダイモーンと一緒にハデス=死者の国に旅立つ。
死者の国でしかるべき期間過ごした後、ふたたび別のダイモーンに連れられてこの世に転生してくる。
こうした輪廻転生を何度も繰り返す。

このような死生観は、チベット密教をはじめとする仏教のそれと同じで、おなじみのものである。

パイドンでは、死後の世界では、至る所で分かれ道が多数あるので道に迷いやすいから、ダイモーンが道案内をしなければならないと、うがった説明をしているので、ソクラテスは自分でそれを見たことがあるのだろうと思う。

只管打坐で行く人は死後の世界がどうこうという話はあまり問題にしないものであるから、ソクラテスはクンダリーニ・ヨーギであったことがうかがえる。
ソクラテスは、こういう死生サイクルを見たのだろう。

更にソクラテスは、法華経ばりの「まことの大地」を見た感動の経験をも語っているのだ。(続く)


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プロティノスの死の練習-2

2012-11-21 05:59:32 | クンダリーニ・ヨーガ
◎死の技術を扱う密教

プロティノスの自殺という文の続き。

『では、もし自分が理性を失い始めていることに気付くなら、どうであろうか。

おそらく賢者のばあいには、そのような事態にはならないであろう。だが、たとえそのような事態になっても、彼は自らの肉体を死滅させること(すなわち自殺すること〉を、〈已むを得ざること〉のひとつと、つまり無条件に選択されるべきことではないけれども、状況によっては選択されるべきこと〉のひとつとみなすであろう。

まことに、魂を肉体から脱出させるために薬を用いるのは、魂にとって有益なことではないといえよう。

それに、もし各人に与えられた時間が運命によって定められているのであれば、われわれの言うように、已むを得ざることでない限り、その定められた時のくる前に魂を連れだすのは、よいことではない。

また、もし各人が肉体から出る時の状態に応じて、あの世界での順位を持つとすれば、なお向上の可能性のある限り、魂を述れ出してはならないのである。』
(プロティノス全集第一巻P352から引用)

文中の『已むを得ざることでない限り、その定められた時のくる前に魂を連れだすのは、よいことではない。』とは、意図的な能動的な死が何種類かあって、そのうちの一つのありかたとして、魂が十分に成熟したならば、魂を肉体から連れ出すのは良いことであると読める。

更に『もし各人が肉体から出る時の状態に応じて、あの世界での順位を持つ』というのは、チベット密教での常識である、死に際してサハスラーラ・チャクラから出るのを良しとし、他の例えばマニピュラ・チャクラから出るのをまずいこととするような知識が前提にあるように見える。

この文は、単に故意に毒薬をあおって自殺するようなことはやめましょうと言っているわけではあるまい。そうであれば、意図的な死として定められた時以前に死ぬのはよくないとか、肉体から出る時の状態がどうだとかに関心を持つはずはないからである。

いずれにしても、「哲学」というものが死の技術であるというは、世間に対して甚だ外聞が悪いので、冥想修行法もその見解も哲学者内部の者だけに知ることを許されたというのは、典型的な密教の有り様である。クンダリーニ・ヨーガは死の技術を扱うものであるから密教なのだ。

現代においても、死の技術は、社会的に私権的に問題がある。だが人間を超えるという方向性というのはいつの時代もそのベクトルを持つものではないだろうか。


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プロティノスの死の練習-1

2012-11-20 05:53:11 | クンダリーニ・ヨーガ
◎「哲学」とは死のテクニックだったのか

ソクラテスは、哲学のことを「死の練習」とみなしながら、一方で自殺することは神に許されざることとして禁じている。つまり哲学とは自殺以外の死の練習だった。自殺以外の死の練習とはクンダリーニ・ヨーガしかないだろう。

そこでソクラテスの系流のプロティノスの自殺についての考え方

『君は君の魂が肉体から出ていかないように、自分で自分の魂を肉体から外に、連れだすようなことをしてはならない。そのようにして出ていくばあいには、君の魂はなんとか出ていくことができるようにと、なにか(よくないもの)を携えて出ていくであろうし、そのばあいの「出ていくこと」は、「〈或る場所から〉他の場所へ歩を移すこと」と、なんら変わりはないであろう。

そのようなことをしなくても、魂は「肉体が自分から完全に離れ去る」のを待っているのであって、その時がくれば、場所を変える必要はなく、完全に肉体の外に出ることになるのである。

では、肉体は魂から、どのようにして離れ去るのであろうか。

肉体の調和が――肉体はこの調和を保つことによって、魂を持っていたのであるが――もはや存在せず、そのために、肉体はもはや魂を自分に縛りつけておくことができなくなって、魂のいかなる部分も肉体に拘束されない状態になった時に、肉体は魂を離れるのである。

では、もし人が工夫をこらして、肉体が死滅するようにしたとしたら、どうであろうか。
そのばあいには、彼は無理に死を強いたのであって、自分自身は肉体から離れたけれども、肉体の方は魂を見捨てたわけではないのである。

つまり、肉体を〈無理に〉死滅させるばあいには、魂は情念からは自由になれず、不愉快さや苦しみや怒りがつきまとうのである。
人は、決してそのようなことをしてはならない。』
(プロティノス全集第一巻P351-352から引用)

古代ギリシア文明の「哲学」とは死のテクニックであるクンダリーニ・ヨーガだった可能性がほの見える。

熟した果実が自然に樹から落ちるように、成熟した精神が肉体を離れるのは、クリシュナムルティの最初の体外離脱体験などにその具合を知ることができる。


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ノ貫が利休を評す

2012-11-19 02:35:55 | 丹田禅(冥想法8)
◎世界を無物と観じて、軽くわたる

山科の茶人ノ貫(ヘちかん)は、利休のことを世人にへつらいが多いことを常に憤り、貴人にかわいがられることを嘆いていた。

「利休は、若い時は志の厚い人物であったが、今は志が薄くなってしまって、昔とは人物が変わってしまった。人間というものは20年ごとに志の変わるものなのだろうか。

私も40になってから自分を棄てる志気とはなった。利休は人生の盛んなところは知っているが、惜しいかな衰えるところを知らない者だ。
世の中の移り変わりを飛鳥川の淵瀬にたとえたものだが、人の替わることはそれよりも速い。

こんなわけだから、心ある者は身を実社会の堅いところに置かず、世界を無物と観じて、軽くわたるものだ。

誰もがそのようにしなさいということではないが、情欲には限りあるもの。知れば身を全うし、知らざれば禍(わざわい)を招くもの。

方丈記の鴨長明は、カタツムリのように家を洛中に曳いて歩き、私は蟹のように他人の掘った穴に住んでいる。しばしの生涯を名利のために苦しむべきかと、残念に思う。」と語った。

この文で言う「心ある者」とは大悟した者のことであって、だからこそ「誰もがそのようにしなさいということではない」と条件を設定している。若い頃から求道に精進してきた者が中年過ぎて世俗の名利に額に青筋を立てて頑張るものではない、と利休をいなしている。

桃山の時代は数少ない者だけが、「世界を無物と観じて、軽くわたる」で良かったが、今の日本では、万人がそういう公案でもって生きているはずなのだが。


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路地のあるべき様

2012-11-18 06:16:55 | 丹田禅(冥想法8)
◎クライマックスに到る道

路地はクライマックスに到る道。

武野紹鷗は、千利休に路地の作り方を問われて、
心とめて見ればこそあれ秋の野の生にまじる花のいろいろ
と、歌にて答えた。

茶道の初期は、路地に野の花のいくつかが混じっても作為のないことだから、と気にはしなかった。

これが時代が下がると、千利休は、富田左近に路地の作り方を問われて、慈円の次の歌をもって答えている。

樫の葉のもみじぬからにちりつもる 奥山寺の道のさびしさ
(樫の葉が紅葉しないままに散りつもった、深山の寺に続く道の寂しさよ)

つまり余計なものをそぎ落とすことが、路地とクライマックスとのコントラストを際立たせるのだという作為が見てとれる。

私が見るところ千利休は大悟徹底はしていない。これに対し、当時臨済宗大徳寺90世の大林宗套が堺南宗寺の住持であり、武野紹鷗は、これを嗣法したとされるので、最低でも見性はしていた。

要するにわけのわかった武野紹鷗は、路地の風景はそのままでよいとしたのに対し、千利休は、まじめで融通のきかない修行者らしく、余計なものを切り捨てることをよしとしたのだろうと思う。

十牛図でいえば、武野紹鷗第十図入鄽垂手に居て、千利休は第一図尋牛に居るというようなものなのだろうと思う。
見性している人たちは、完成された世界観の中に生きているので、路地という世界を構成するひとつのパーツの有り様についてもぶれることはない。


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シンクロニシティ

2012-11-17 07:25:54 | 冥想アヴァンギャルド
◎時には質の違いがある

通俗で言われるシンクロニシティとは、二つの出来事の偶然の同時発生。

まあそれはそうなのだが、もともと心理学者ユングが言い出したシンクロニシティとは、個別の出来事は一者から流れ出るから、一者と個別の出来事に分断がないことを言っていた。だから二つの一見関係ないことも平気で同時に起こる。

しかし、一者からある出来事が流れ出るのは、いつでも起こるわけではない、一者の側が「時を選んで」起こすのである。
これをもって「時には質があるという」

またユングの言うシンクロニシティには、一者との出会いという意味もあった。シンクロニシティとは、ユングにとって神の一瞥、見神だったのだ。

中国の禅者ホウ居士は、時を選んで坐脱し、日本中世の虚空蔵求聞持法修行者は、満行に時を選んだ。

あなたが流れ出た時は、この世への誕生の時。それはこれからやがて大樹となり終には枯れることを待つ種子の時。これをしてユングは「瞬間が長く残る影響の痕跡を記す」と表現した。これが占星術の起源であり、周易の卜占の起源である。

ユングと占星術については、このように占星術の側から見れば理解しづらいだろうと思った。

時の神はクロノスであり、土星。中国五行説では、土は中央に位置する。木火金水は東西南北の空間に充て、土を時間の流れとして3Dに構築する軸であったとしたら、五行説も一顧の価値はある。
(参考:ユングと占星術/マギー・ハイド/青土社の天空を引き伸ばすの章)


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アンモニオス

2012-11-16 05:40:27 | キリスト者の秘蹟
◎プロティノスとオリゲネスの共通の師

三世紀の覚者で、新プラトン主義に分類されるプロティノス。彼は28歳でアンモニオスという人物に弟子入りし、ここで11年もの間冥想修行した。絶対服従の弟子入りであっただろう。当時の言い回しでは、哲学の研究を行った。プロティノスの言説を見れば、彼が大悟したことがわかる。プラトン流の第六身体=イデア界重視で。それも只管打坐によってではなく、クンダリーニ・ヨーガによって。

アンモニオスの資料は乏しいが、彼は霊感を受けて、初めて哲学の真の姿に気づき、プラトン学派とアリストテレス学派の対立を解き、同一の精神にまとめ上げ、特に彼の高弟プロティノスとオリゲネスにその教えを伝えたとされる。

オリゲネスは、キリスト教のギリシア教父として知られる人物で、心理学者ユングにも盛んに言及される重要人物。彼の考え方は、それまでユダヤ教色の濃かったキリスト教にヘレニズム的ヒューマニズムの息吹を吹き込み、キリスト教ヘレニズムまでに高めたとされる。

4世紀のネメシオスによれば、アンモニオスは魂を非物体的なものとし魂が肉体とどのように結びつくかという問題を解決したとされる。これはクンダリーニ・ヨーガ的見解であることを示す。只管打坐では魂も肉体も問題にしないからである。

アンモニオスには、プロティノスとオリゲネスに加えエレンニオスという高弟がいて、この三人の間で、講義中に明らかにされたアンモニオスの教説を他人に伝えないことにするという約束が交わされたのだが、一説にはアンモニオスの教説には秘教的性格のものが含まれていたからだという。

もともとプロティノスの論文も選ばれた人たちだけが見ることができたのであって、クンダリーニ・ヨーガすなわち密教的(秘教的)見解の扱いは古今東西そんなものだと思う。

3世紀のアレクサンドリアで、有力キリスト者オリゲネスと新プラトン主義哲学者プロティノスは同じ賢者のもとで机を並べて冥想修行していたのだ。これは教義や教団規律に縛られる今のキリスト教からは想像することもできないだろうが、当時は真理、真実に対して宗派の垣根などないに等しく、学ぶ者も、より真摯で率直な姿勢で居られたのだと思う。


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