アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

人間の社会性とストレス

2012-07-31 06:05:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎人は何のために生まれてきたのか

社会心理学の教科書によく載っているホルムズとレイのストレス指標というのがある。
これは、健康や病気に影響を及ぼすような、心理的、生物学的、社会的出来事を列挙したリストであり、ストレス指標上位は以下である。

1.配偶者の死: ストレス指標100
2.離婚:    ストレス 指標73
3.夫婦別居:  ストレス指標 65     
4.刑務所への収容: ストレス指標 63
5.近親者の死亡: ストレス指標63
6.本人の大きなけがや病気: ストレス指標 53
7.結婚: ストレス指標50
8.失業: ストレス指標47
9.夫婦の和解: ストレス指標 45
10.退職・引退: ストレス指標 45
11.家族の健康の変化: ストレス指標44
12.妊娠: ストレス指標40
13.性生活の困難: ストレス指標39
14.新しい家族メンバー: ストレス指標39
云々。

こうして見ると、夫婦生き別れ、死に別れが人生上のショッキングなイベントとして上位3位を占めている。離婚率3割の時代だから、結婚歴のある人の少なくとも3割には離婚イベントが起きている。

これを見ても人間の社会性の基本は結婚相手であり、配偶者が天の半分であるという表現は文字通りであることを感じさせる。最近では、そんなことは言わないのかもしれないが、不倫をしないことは社会的に幸福に生きる根本なのである。

ところで最近は同世代の三分の一が生涯独身だそうだからそうしたことは起こらない。かつてはあたりまえだった人生上の結婚・夫婦生別・死別、妊娠などの重要ファクターが三分の一の人々に、一生起こらないということは、ある意味で典型的な社会的人間として老いてカルマを果たして死ぬという人生モデルが、日本社会では崩壊したことを意味する。

結婚して子供を作って老いて死ぬという人生モデルが実現できない人が相当数となった今、人は何のために生きるのか。
人は何のために生まれてきたのか。
自分は何なのか。
これが本当に深刻な問題となっているはずなのだが。

今日も冥想を


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

マクモニーグルの見た邪馬台国と卑弥呼

2012-07-30 03:26:52 | 超能力・霊能力
◎天(海)の民、卑弥呼、平家・清盛まで

アメリカの透視家マクモニーグルによれば、卑弥呼は、3世紀頃、奈良県桜井市付近に夏の宮殿を有し、山口県下関市付近に冬の宮殿を有していたという。墓は下関の安徳天皇西市御陵墓付近。冬の宮殿こそが、彼女の根拠地で、夏の宮殿は、畿内連合国の中心であって、彼女は出張みたいな形で居た。

卑弥呼は稀代のシャーマンであって、畿内を中心とする部族連合のリーダーだったという。
卑弥呼はもともとは奈良県南部の山間部の部族出身。マクモニーグルは身長157cm、体重55キロの南方系の特徴ある卑弥呼の顔のまでイラストに残している。

卑弥呼の出身部族は、九州と本州南部、朝鮮半島南部まで領有する海洋民族だったという。
卑弥呼から8、9世紀遡ればその祖先は沖縄に発するらしい。沖縄近海には巨大な石造宮殿の跡が沈んでいる。
(参考:邪馬台国発見/権藤正勝/学研)

八切止夫の言う「天(あま)の王朝」とは、「海(あま)の王朝」のことだが、アメノミナカヌシノカミ、アマテラスオオミカミなど、一連の天(アマ)の神はこの海洋民族のことである可能性はあり、またこの海洋民族の来朝が、天孫降臨神話に振り替わっていた可能性までもある。

壇ノ浦で入水した安徳天皇の陵墓がなぜか卑弥呼の墓と重なることを思えば、平家とは、卑弥呼の系流の天(海)の民であった可能性もあると思う。天皇陵墓の位置は適当に決めるはずもなく、平家と卑弥呼の関係をまったく否定することはできないのではないか。

奈良県桜井市鳥見山は、天香久山、明日香、談山神社に近く、飛鳥時代の政治の中心に近いところ。卑弥呼以降も数世紀畿内の王朝が継続すれば、王都の位置もおいそれとは変わらなかったのだろう。

いずれにしても真相は、何か神代文字の歴史文書が古墳から出ないことには明らかになるまい。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

身一つとなりて

2012-07-29 06:48:33 | 時代のおわり
◎文明大崩壊前夜

俳人黛まどかの著作「引き算の美学/毎日新聞社」の巻末に載っている句。
『身一つとなりて薫風ありしかな

「思いも寄らない、大津波に遭い、家と半生で積み上げた形あるものを悉く流失した。
呆然自失の日々から覚めた時かけがえの無い家族がいて、今年も生まれたばかりの薫風が吹いていた」
佐藤勲(岩手県野田村)』
(引き算の美学/黛まどか/毎日新聞社P243から引用)

津波ですべてを失うことは、大きな災厄であって、聖書ヨブ記のヨブのごとく、その生きる意志を試されているようなところがある。聖書では、ヨブの家族は最終的には繁栄し、富も復活した。そうした終わり方ならハッピー・エンドだが、現実の大方はそうはなるまい。

文明の大崩壊が目前に迫った今、まだすべてを失っていない現代人が将来すべてを失ってから薫風を感ずるのはお粗末といえるのではないか。
身一つになる前に、生まれる前からあった薫風を知らねばならぬ。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

ゾシモスの聖水

2012-07-28 07:02:53 | 錬金術
◎聖水はなにごとも経験しない

心理学者ユングが関心を寄せるパノポリス人のゾシモスの文章の断片。
『聖水(1'eau .divine) について。 ここに, とりわけ人を魅する,聖なる偉大な神秘がある。それがすべてである。

二つの自然と一つの源。
というのは,それらのうちの一つが他方を導き,支配するからである。これは液体の銀(水銀)であり,常に動いている両性のものである。なにごとも経験しない聖水である。

その性質は,理解しがたい。それは,金属でも,水でも,物体(金属性)でもなし。
人は,これを征服することはできない。

これは,すべての中のすべてともいいうる。
これは,生命とその息吹きをもっている。

この秘密を理解するものは,金と銀を所有することになる・・・・力は隠されている。それは色情根エロテイル(Erotyle) の中にある〉』
(錬金術の起源/ベルトゥロ/内田老鶴圃P167から引用)

聖水とは水銀であり、クンダリーニのエネルギー・コードであり、変化する世界と永遠不壊の世界の二つの自然とその源を貫く世界の神秘。金が銀を導く。
・・・・と読まないと、まともに理解は進むまい。これこそはすべての中のすべて。

この秘密を理解するならば、永遠たる金と、転変化々する現象たる銀、それら双方を手に入れることができる。

そのパワーの源は色情根(ムラダーラ・チャクラ)にあり、という点で、古今東西の賢者の見解はことごとく一致している。

何ごとも経験しない聖水であるからこそ、体験とはいえない体験と表現するしかない。

こんな文章が古典化学の本の片隅に掲載されているけれど、誰か気が付いた人がいたのだろうか。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

天照大御神のジェンダーの変容

2012-07-27 05:36:36 | 古神道の手振り
◎もともとは、神霊界の完成者

最初の頃の斎王は、未婚の皇女から選ばれ天照大御神に仕えるのだが、斎王を中核とする宮司組織斎宮寮は天皇の後宮に酷似していることから、斎王は天照大御神の后であると想定されていたことが伺える。よって、斎王制度が始まった頃、天照大御神は男神であり、古事記でも天照大御神は男神と描かれていることと照応する。
(岩波 天皇・皇室辞典による)

これが日本書紀では、素戔嗚の姉が天照大御神ということになっており、天照大御神は女性とされた。しかしながら、正統神典はあくまで古事記なのだから、本来天照大御神は男神の扱いが正統なのだろう。

古神道家出口王仁三郎の見方では、天御之中主神であるニルヴァーナは、その働きによって名前を変えていくのだが、その一つが天照大御神であり、天照大御神の役どころは、理想世界である神霊界を完成したという役割である。

そうした世界では、ジェンダーはそもそも意識されていないはずなのだが、天照大御神の役割が日本を知行する最高神というように世俗に落ちてくれば、祭祀の都合でジェンダーをどちらかに寄せたりする必要が出てきたのだろうと思う。つまりは崇拝する側の人の都合で、ジェンダーは変えられて行ったのだろうと思う。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

ドルネウスの再生

2012-07-26 03:18:59 | 錬金術
◎再び分離することのない霊、魂、肉体

古代の錬金術師ドルネウスの断片から
『正しく理解されねばならないが故に、今、分離から始めよう。弁えておられるように、人はある期間にのみ生き、その後、おのずと、霊、魂、肉体へと分解する。肉体は、死に際し、分解し、腐敗する。

そうして、肉体の自然の火、肉体の温もりはやみ、肉体の根本湿気の流れはやむ。そのとき、霊と魂は肉体を去り、肉体は大地に埋められる。そこで腐敗過程をへて、基本要素へと風化し、要素それぞれは四大へと帰還する。

すなわち大地は肉体の大地的部分を呑み込み、水は液状部分を呑みこむ、というように。しかしながら、霊と魂はその源泉へと戻るが、永遠にその肉体から分離されたままであるべきではないがゆえに、後には神の巧妙な計画により、以後は分離されることなきように、よりよき構成で肉体と再結合される。

結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となるという事実にある。』
(ユング・思想と錬金術/M-L・フォン・ランツ/人文書院P166-167から引用)

霊と魂の違いが判然としないが、『霊と魂はその源泉へと戻る』とあり、その後人間として再誕することが述べられているので、輪廻にとどまっていることから、一見ここは解脱ではない。

チベット死者の書とドルネウスの違いは、チベット死者の書では死のプロセスにおいて、常に解脱のチャンスがあるので、よりベターな選択肢を選ぼうとする意志があるのに対し、ドルネウスはそこまでのしつこさがなかったところ。

しかし、ドルネウスが死後、肉体、霊、魂の3者が再度分離することなく再結合するというのは、いわゆるクンダリーニ上昇からの中心太陽への突入を経た後の肉体への帰還のことを指している可能性がある。『再度分離しない』というキーワードを重いと見れば、そういう読み方もできる。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

古の真人とは

2012-07-25 06:03:13 | 道教
◎嗜欲深き者は、その天機は浅い

荘子は、OSHOバグワンの前世の一つと言われる。彼が自称するチベット僧だけがOSHOバグワンの前世ではあるまい。

『古の真人は、寝ても夢みず、覚めても憂いなし。
その食するものは美食ではないが、その息はとても深く、真人の息はをもってする。
衆人の息はのどをもってする。

屈服する者は、その言はものを吐き出すかのようであり、こだわりが強く強欲な者(嗜欲深き者)はその天機は浅い。』
(荘子 大宗師篇)

『寝ても夢みず、覚めても憂いなし。』とは、古代インドのウパニシャッドの頃から言われている境地であり、現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーもこれを意識しているところである。

『真人の息は踵をもってする。』これは、クンダリーニ・ヨーガの息の回し方で、踵まで回すのがあるのだろう。ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、モクシャ(解脱)までは、ムラダーラ・チャクラから頭頂までを用いるのだが、モクシャからの帰還後は、踵を過ぎ、足裏チャクラまで、エネルギーのシャワーが到達する図示がある。

『嗜欲深き者は、その天機は浅い。』とは、真剣な求道者は必ずすべてを捨て去るものであるから、嗜欲深き者は、財産、名声、家族、趣味、この世での思い出、友人など捨てられるものではないから、真摯に冥想道に向かうことは少ないことを言う。
こだわりをかかえたままでは、先に進めないのである。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

オレたちには護符も必要だ

2012-07-24 06:12:19 | 冥想アヴァンギャルド
◎不信仰者も覚者も護符を持つ

言葉は、時代によって大きく変わってしまうが、護符を持つ習慣は、時代を越えて変わらない。ブランド品は現代の護符の一つである。

『護符もまた神秘的な力の一つである。この力の前ではどれほど恐しい武器も、どれほど強力な哲学的武器も威力を失ってしまう。

キリスト教は護符弾劾を叫んだがむだだった。キリスト教自身同じ力に屈して、自分が非難する護符に対抗して、みずからの護符を持ち出した。十字架、ロザリオ、奇蹟のメダル、聖ベネディクトのメダルなどは神の印璽をしるされているからといって、あらゆる護符を特徴づけているお守りとして用いられないというものではない。

いうならば、護符から自由な人間は存在しないのである。この上なく合理主義者で、どんな偏見からも、どんな迷信からも自由だと思っている学者でも、喜んで自分は上着の秘密の内ポケットにマスコットをしまっていると明かすことだろう。それは、当人が何の信頼も置いていない一枚の貨幣やささやかな品物であるかもしれないが、習慣から決して手離そうとはしない。それをばかにする者がだれよりもまず自分自身であったとしても、である。


神々は死んだ。だが、護符は残った。あらゆる形の不信心に対して生き残り、まさにそのことによって、己の生命力が永遠であることを明らかにした。自動車や飛行機の速度しか信じないような人間が、呑み込まれたら自分というものなどどこかへ行ってしまう暗黒の淵に歩み寄るように死へと向っている人間が、その車に人形をぶらさげている。ちょうど、 イスラエルやアッシリアの族長らが、そのテントの革に家神像を吊していたように。

時代は移り変ったように見えて、その実少しも変つてはいないのだ。護符は恵み深き妖術であり、たとえ知的教養がばかげたことだといったとしても、人はそれぞれにこの妖術に身をゆだねる。人間はこうして己の弱さを見せ、護符はその力を示す。その隠秘的力は人間がそれから自由になれなかった事実に現れている。

護符は歴史上すべての時代に、そしてすべての民族の間に見出される。これほど普遍的な隠秘的形式はない。エジプトで、カルデア、ペルシャ、ギリシャ、ローマで発掘が行なわれるとき、最初に発見される物が護符である。
エジプトのパピルスには《ヘルメスの指環》とスカラベを調製するための儀式の詳細を描いているものがある。古代の著述家たちは護符についてたくさんの描写を残してくれたが、省略をしてみても、それらを列挙することはとてもできない。』
(妖術師・秘術師・錬金術師の博物館/グリヨ・ド・ジブリ/法政大学出版局P413-414から引用)

天皇・皇族にも念持仏があるように、法力ゆたかな神通力者でも、身に着けている護符はあるものだ。見たところ、護符は人間のパワー・ポイントを変化させる。
人は肉体と脳だけで生きているつもりであっても、超自然的な力のもとに生かされている気分を完璧に拭い去ることなどできない。

そこには淡い求道心につながるものがある。この無神論のはびこる時代に、にわかにブラジルや中国産のパワーストーン屋が増えたのも理由のないことではない。不信仰のわれわれだからこそ、自分のお気に入りのアイコン(イコン)、護符は必要なのだ。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

黙示録で描かれた火の雨

2012-07-23 02:19:22 | 時代のおわり
◎大量の星が地に降り注ぐ

聖書の黙示録には火の雨と思しき部分がある。

『小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。

天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とにむかって言った、
「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。』
(口語訳新約聖書(1954年版)から引用)

挿絵はデューラーの版画(wikipediaから借用)。火を伴う石(星)が大量に地に降り注ぐ。
黙示録では降り始めてからでも逃げおおせることができるような雰囲気を描写しているが、これは後段で、ユダヤ人たちが144千人生き残ることを前提にしているのだから、このように書くのだろう。

しかしながら、これに対して、朝鮮の神人も古神道の聖者も、この時は、子供を助け出す時間的余裕もないとこれを警告している。

真相や如何に。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

日本の正体

2012-07-22 07:13:57 | 時代のおわり
◎あなたが日本の国津神ならば

『日本の正体/別冊黒い噂』は、定説ではない話のオンパレードではあるが、石屋の謀略史という点からは示唆に富む本である。

曰く、日本がどうしてこんなざまになってしまったかは、そもそも明治維新に発端がある。孝明天皇崩御の問題と明治天皇そして伊藤博文の役どころの問題。南朝、北朝の正閏の議論と泉涌寺(ここには皇族の念持仏があるという。)。政府にいる諸外国の代理人たちの活動、バチカン、イエズス会、皇室周辺のクェーカー教徒たち。天皇の地位と権力を独占する影の権力者たち。大英帝国とフランスで幕府と薩長双方に金を貸し付けて身動きが取れないようにして、維新をやらせたので、維新後はいいようにやられた・・・・・などなど。

天皇・皇室がなくなれば、日本人にとっては大ショック。しかし皇室典範改訂による女系天皇論などもうごめいて、長期的なタームで見て、天皇・皇室がなくなるのは織り込み済みと見ている勢力もいるのではないか。
それは例のローマ法皇に関するマラキ予言も軌を一にする。

キリスト教とユダヤ教は別物に見えるが、古来の日本人の宗教観から見れば、アポロン的という意味でつまり明るい面を好み闇を忌避するという点では似たようなものである。それが社会に広汎に広まれば、お互いに分断しようという力学が強く働きがちになるため、社会の各層で(家族間、宗族間、地域間など)で争いがより頻発するようになる。また精神的なものに価値があるという通念が、あるいは神と個人にはもともと境がないという先入観みたいなものが、失われていく。
そうした可能性を見て江戸幕府はキリスト教を入れて来なかったのだと思う(天海の読みですね)。

そういう緩衝剤が明治維新になって取り払われた。土着宗教の破壊は、大英帝国やキリスト教にとってはお手のものであって、土着権力のトップをキリスト教の信者にしてしまうとか、借金させて籠絡する、武力で脅す、複数ある土着宗教を相互に反目させる(廃仏毀釈)など、複合的な手段を同時に用いてやられてきた。

こうしたことを誰がしかけているかは自明なのだと思うが、日本を一体どうしようとしているのかをよく見極めねばならない。

出口王仁三郎は日本の立替のあらかたは戦争で済むという。日本のことはそれで終わるが、他の国をどうしようと思っているのかまで良く見極めねば本質はわからない。この「日本の正体」という本は、そこまで届いてはいない。

我々の宗教は、ほとんど破壊されている。実際日本人のほとんどは、初もうでやお盆やクリスマスはやるが、無神論者が大半である。
あなたが日本の国津神ならば、こんな日本を救う気になりますか。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント (2)

みろくの世は質素になる

2012-07-21 08:21:08 | 時代のおわり
◎無用の情報、音楽、動画から離れる

出口王仁三郎が、千年王国みろくの世)を語る。
『京都(市)の信者がやられた時に六軒長屋のうち一人助かったが、必要なものだけは残った。贅沢な物は壊れてしまった。

みろくの世は質素になる。執着とは必要なもの以外を欲しがることである。
 (昭和二十年七月十二日)』
(新月の光下巻/木庭守編/八幡書店P291から引用)
 
街を歩くと両耳をイアホン、ヘッドホンでふさいだ老若が多く、電車に乗っても同様である。
でも、イアホン、ヘッドホンを外すと、テレビ、ネット、スマートホンから、買い物、娯楽、ゲーム、金儲け、異性との出会いなどありとあらゆる欲しくもない物やその場限りの願望をあおる情報が入ってくる。

耳をふさごうが、耳を開こうが洗脳状態に変わりはないのだ。

千年王国では、このようなあおられた欲望がカットされるのはわかるが、我々はそれまでの間、洗脳され放題となったままでいるわけにはいかない。

まずは、あふれかえる無駄な欲望を刺激する洗脳情報や時間と情動を浪費する音楽・動画から離れる時間を作ろう。

そして坐ろう。それがみろくの世の第一歩。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

実在、智慧、歓喜と日常

2012-07-20 06:15:21 | 究極というものの可能性
◎神の側、人間の側

インドでは、絶対なるものを「実在、智慧、歓喜」と表現する。古代ギリシアのプラトンならば、真善美。老子ならば、道であり、永遠(久)。これらは、神の側。

このようなものが人間の日常の延長線上にあるものだという先入観を持っていたのだが、そのわりにしっくりしないところがあった。
最近になって、どうもそうしたものは、悟りという体験とは言えない体験が人間の側にはないように、「実在、智慧、歓喜」な体験も、真善美な体験も、タオな体験もあるはずなどないのだと、思い当ってきた。

見者、覚者はいざしらず、絶対的な境地を通過したことのない人間にとって、実在、智慧、歓喜も、真善美も、タオも全く縁のない異次元のテクニカル・タームでしかないのだ。

これに対しては、多分反論があって、我々は、窮極の世界を表現した絵画、彫刻、書などに日常的に触れているので、全く縁がないとまでは言いきれないのではないか、と。

人が、悟った人に出会っても、悟りの何たるかを知らない人が、その人が悟っているかどうかを判別することなどできない。ゆえに、そのような人は、エル・グレコの聖母被昇天の図を見て聖母マリアがアセンションしている図だとはわかるが、アセンションで真実何が起こるかを理解しているわけではない。
それを知る人は、実際に自我の死を経て復活した人だけである。

やや厳しめの解釈であるが、芸術が窮極の周辺をなぞっているだけと酷評される所以はこの辺にある。
しかし、雪舟のように画家自身が大悟を遂げている場合は、事情は異なり、作品は既に人間の側にはない作品である。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

レイモン・ルルの錬金術-1

2012-07-19 06:20:59 | 錬金術
◎愛人のガンを治癒せんとす

レイモン・ルルあるいはライムンドゥス・ルルスは、最期にはイスラム向け宣教師として伝道し、イスラムに石もて打たれ絶命するのだが、若き日に、ある不倫をきっかけに回心することになった。

『レイモン・ルルの悲劇

ヨーロッパの商人たちが、現実に着々と金銀をヨーロッパ以外の世界から獲得している間も、錬金術師たちは依然として金属変成のための努力をつづけていた。驚異の博士ベーコンは、近代科学への道を踏んだ最初の人といわれるが、一方では伝統的な錬金術の探究に努力を傾けて、悲劇的な生涯を終えたものも少なくない。なかでも名高いのはレイモン・ルルであり、彼の影響は十四、十五世紀にまでひろく深く及んでいった。

ルルは一二三五年に地中海のマヨルカ島で生れた。その家は名門で、彼もはじめはまじめな暮らしを送り、二十二歳の時にはすでに二男一女の父となっていた。が、やがてアラゴン王ジェームズ一世の皇子の教師となって宮廷生活をはじめた。

宮廷に入ると彼の性格も生活も一変した。当時のヨーロッパの諸宮廷は、ベーコンが歎じたように淫蕩の巣であった。ルルもたちまちその渦に巻きこまれて、彼は放縦な生活を送りつづける。まじめであった者がいったん悦楽の坂を走りはじめると、もうとめどがない。
ついに彼は妻を捨て、子も捨てて乱れた生活にとらえられてしぅ。そして最後には皇子の教師たる地位をも失ってしまった。

しかし逆境になってもルルを愛し、ルルもまたはげしい愛情をそそいだ女性があった。彼女の名はわからないが、すでに夫ある身であった。しかも彼女はその胸に癌を病んでいたといわれる。

ルルはやがて女に結婚をせまるようになった。そしてある日、彼女はルルの言葉を聞いたとき、ついに涙ながらに胸を開いて大きな癌腫のあることを示した。そして余命は幾何もないこと、ルルとは結婚できないこと、ルルが自分を思いきってふたたび正道に戻ることを願ったのである。

このいたましい言葉を聞いてルルははげしく感動した。彼はただちにそれまでのじだらくな生活をやめ、いっさいをふりすてて、このような恐ろしい病気の治療の方法を発見しようと、医学に没頭しはじめた。』
(錬金術/吉田光邦/中公新書P143-145から引用)

最愛の恋人との出会いのクライマックスで、癌が愛人の肉体を蝕むというのは、ケン・ウィルバーのケースと似ている。ケン・ウィルバーは不倫ではなかったが、その悲劇性に大した相違はない。

またルルの世俗的な意味での恵まれた生活は、ルル自身にとって何の意味もなかったが、こうした残酷な事件が彼を本来の人生航路に導いていったのは、我々現代人全体の運命をも暗示するもの(アセンションへの道)と捉えることもできる。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

イエスの伴侶としてのマグダラのマリア

2012-07-18 06:13:17 | キリスト者の秘蹟
◎ローマ教会による抹殺

マリア福音書によれば、マグダラのマリアは、12人の弟子と比べてはるかに洞察力が優れ、聡明であった。このように女性が男性の弟子より出来がいいことは、特にペテロを憤慨させた。

ピリポ福音書によれば、マグダラのマリアはイエスの伴侶であって、他のどの弟子よりも愛した。イエスはしばしば口づけをした。これを見た他の弟子は「なぜあなたは私たちすべてより彼女を愛するのですか」と問うのだった。

イエスは超能力をバンバン使っているので、クンダリーニ・ヨーギに分類されるのだが、同じクンダリーニ・ヨーガのチベット密教では、しばしば女性のパートナーが存在することに思い当れば、イエスに女性パートナーがいても不思議とはいえない。

ペテロの男性修行者としての嫉妬は、その後のカトリックが男性優位の宗教を創り上げた遠因の一つでなった可能性もある。ただし逆さ磔を選んだペテロにそんな個人的感情は最後はどうでもよいことであったはずでもある。

キリスト教は、真善美を基調とする社会を維持しながら、より悟りやすい男性を修行者の主流とす体制を堅持して、その教会の外の社会の個人の自意識が王侯貴族と同等になるまで成長させる中心的メカニズムたりえた。

だからキリスト教がマグダラのマリアを、本格的布教のなかでイエスから遠ざけたことは故なしとはしない。イエスはマリアとベタベタだったなどということは、アポロン的ローマ教会にとっては不都合だったのだ。

宗教・冥想が旦那衆の窮極の道楽と言われるのは、個人の自意識が極大化するためには、衣食住の生活に不安がないことが、宗教・冥想に取り組む最低条件であるためである。

さて万人が衣食住に不安のない時代はほとんど現出した。人は冥想に真摯に取り組むかどうかだけが問われる時節がやってきた。

マグダラのマリアも伴侶として重要だが、正史から抹殺され、ユダは十字架上の死を企画・実演した裏プロデュサーとして、これもその真の役どころは歴史の闇(首を吊ってカラスについばまれたり・・・・)に隠されている。イエスを十字架に掛けるという筋書きの実現について、ピラトやサンヘドリンの判断の揺れがないように仕組んで裏で動いた人間=ユダがいても不思議はないのではないかと思う。

だとしたらユダは何のためにそういうことができたのだろうか。そこで、私はイスラムの殉教者ハッラージなどを思い浮べるのである。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント

原田雪渓の「呼吸を見る」

2012-07-17 04:27:32 | 只管打坐
◎呼吸を意識して身心脱落

呼吸を見つめるというのが、ヴィパッサナーのメイン・メソッドであるということにあまりこだわらず、ここは禅の原田雪渓老師が、呼吸を語る。

『呼吸を見る

私たちはいま、自分の呼吸を意識しておりません、吐く息、吸う息、吐く息、吸う息を意識して生活をして、あるいは坐っておられる人はいらっしゃらないと思います。

そこで、禅を修行する――――修行するということは、やむを得ずですね、本当は呼吸を意識するなんていう不自由なことをしなくてもよろしいのですけれども、修行をするということで、呼吸を意識していただきます。すなわち、吐く息、吸う息、吐く息、吸う息をよく見る、そういう状態になっていただきたいと思います。油断なく、ひと呼吸、ひと呼吸を親切に、そして丁寧に、真心をこめて、吐く・吸う・吐く・吸うの動作を繰り返していただきたいと思います。

そういう「呼吸を見る」、つまり意識を集中することによって、だんだんと呼吸三昧、意識三昧に入ることができると思います。

しかし、三昧ということを、まだ自分で意識している間は、意識している自分だけが三昧の外にいるということになります。本当の三昧になれば、三昧に入っている状態を自分で意識、あるいは認識することは、不可能なはずです。

呼吸を意識する、あるいは三昧に入っている、三昧に入ろうとする時分の意識というものは、当然わかる。そのわかっていることが悪いのではありません。わかっているその意識を、意識によって擦りつぶすような状態になっていただきたいわけです。

三昧に入る、あるいは意識によって意識を擦りつぶすというとことは、多少の時間が必要かもわかりませんけれども、根気よく自分の呼吸を意識することによって、必ず三昧に入ることが可能になると思います。

一所懸命に自分の呼吸を見ていくうちに、三昧に入っていくということは、自分の呼吸を意識していることも忘れてくるということです。忘れてくるということは、元の、呼吸を意識していない状態に戻ってくるということです。

初めての方は、非常に面倒な、複雑なことのように受け取られるかもしれませんけれども、一度ものを知って、そして知ったその意識によって擦りつぶしていく、また一回転して元に戻る。そういうことが、禅の修行ということであります。

客観的に見れば、その人が呼吸を意識しているかしていないかなどということはわかりません。しかし、同じ状態で、同じ生活をしておりながら、一人の人は呼吸を意識することによって道を歩み、必ず「脱落」という境地が得られる。一方何もしないでただ坐っている人は、そういう脱落ということがありません。そこに天と地の相違ができてまいります。

(THE禅 ダルマは世界を駆ける/原田雪渓/柏樹社P66-68から引用)

ここは、呼吸そのものより、呼吸を間断なく意識できるかそけき感受性をまず言っている。特に臨済禅では定力を言うので、定力優先で修行すれば、感受性は押しつぶされる。只管打坐は、何かを意識していれば只管打坐にはならない。ここは、醒めた感性の持続を言っていると見るのだろう。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント