アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

いま一つの情熱

2012-06-30 06:16:22 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎経験全体の強烈さ、幅広い感覚

アヤワスカのことをヤーヘともいう。アヤワスカの摂取ではしばしば嘔吐と排泄が繰り返される。
『ヤーヘを飲むのは実にひどい。あの震え、嘔吐、吐き気、便意、緊張。それでも、あれはすばらしいものだ。
おぞましいが、やめられない。

アーヴィング・ゴールドマンは一九三九年にコロンビアの森に住むバウペス族(Vaupes)と暮らした経験から次のように述べている・・・・
「クベオ族(Cubeo)は(ヤーヘを)幻覚を楽しむために摂取するのではない。経験全体の強烈さ、幅広い感覚のためにとるのである。楽しみのためだと言う人には一人も会わなかった」。・・・

排泄時に幻覚が起こる。吐瀉物の流れがヘビになり、ときには奔走するヘビの群れになり、口から出たり入ったりすることがあるとよく聞かされた。
流れる鼻汁、排便、嘔吐、笑い、涙のなかに魔術を中心とした宗教的神話が生きた体験として存在する。

服従すべき国教としての支配的なキリスト教の、畏怖すべき権威とはきわめて対照的だ。この・・・・・ヤーヘの世界では、・・・・・糞と聖なるものを分離することは不可能である。』
(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P193-194から引用)

このアヤワスカで言えば、坐法・ポスチャーにはこだわっていない。覚醒は坐法と意識状態であるという説明はいかにも教条的であって、すぐに多くの人々の共感を得るには至らない。
何かが欠けているからである。

切羽詰って坐れるか。坐るのは坐法と意識だが、その「切羽詰って」こそが問題なのだと思う。
今までの仏教やキリスト教などの世界宗教では、「切羽詰る」ということにさほど関心を払ってきたとは言えない。禅は例外的に切羽詰ることに早くから気が付いて、それなりの詰める手法を用意していた。もちろん宗派に限らず真正の覚者ならばそんなことには気が付いている。

「切羽詰まる」には「万事休す」には何が足らないか?いま一つの生きる情熱である。

ドラッグや、テレビ・ゲームやセックスや映画による感覚刺激や、恋愛成就や出世などの願望実現はステキだが、感覚刺激だ。
あらゆる感覚刺激を捨て去る、あらゆる感情を慰めるものに別れを告げなければ、最終解脱の何たるかについて想像することもできまい。やることが残っていると難しいのだ。

感覚刺激の虚無を見据えるには、生きることに対する真摯な情熱が一定量以上なければならない。それがなければ、輪廻の無限のリンクから脱出しようと本気で思うことはない。
そんな風に思える数少ない人々にとっての神の恩寵がアセンションである。

生きる情熱が一定量以上あるというのは、精神の熟成度のバロメータとも言いかえることができるのだが、カルマによるあるいは、生得的なファクターがかなり強いのではないかと思う。努力でなんとかできる部分もあるが、できない部分があるように思う。

何とか悟ったとしても、悟りの深浅高低ってのはある。


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アート・ペッパーの儀式

2012-06-29 06:17:55 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎ヘロインかジャズか

ジャズ・サックスのアート・ペッパーは、麻薬で10年間刑務所暮らしをした。

『ニーナ・シモンはかつて「ジャズはただの音楽ではないわ。生き方、考え方なのよ」といい、ウィリアムズ・バローズは「ヘロインは快感をえるためのものではなく、人生そのものなんだ」といっている。

ミュージシャンは仕事をつづけている間に、音楽かヘロインかの選択を迫られることがある。彼らはいつも音楽を選ぶとはかぎらなかった。

ヘロイン常習者のヘロイン体験への個人的思い入れは非常に強いものがある。実際にヘロインを打たなくても、打つ手順を踏むだけで気分がシャンとするということがあるのだ。

ドラッグが手に入らないとき、常習者は湯を注射したり、打つ手順を一通りやってみるということは、いまではよく知られている。元常習者は常習者だったころの場所を通りすぎるだけでちょっとした禁断症状を起こしたという話も聞いたことがある。

アート・ペッパーはヘロイン常習者の儀式に中毒になっていた。このことを告白する彼の話は悲惨だと思えるかもしれないが、彼にとっては、居心地のいいヘロイン常習者の世界は、安全で単純で秩序がある世界だった。』
(ドラッグ in ジャズ/ハリー・シャピロ/第三書館P203-205から引用)

アート・ペッパーにとっては、ヘロインの酩酊と、常習者のライフ・スタイルまでがお気に入りのものだった。ただ、それには健康の不安と官憲の取り締まりへの不安が付きまとう。

通常の日常生活を捨てることを強いるほどのこのような感覚刺激は忌避すべきものである。しかし裸の人間の無力さ、情けなさという真実の実態に直面させられた場合、このようなバイパス(飲酒もその一種)に逸れる心情は理解できる。

神仏に向かう道は、そうした心情から今一歩の量の情熱が必要だと思う。


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間違ったマントラ

2012-06-28 05:59:38 | マントラ禅(冥想法7)
◎マントラと効果

ある生真面目なダルヴィーシュ(スーフィ修行僧)が、思索しながら川のほとりを散歩していると、突然の大声で思索が中断された。

なんとその大声の主は、「ヤーフ」というべきマントラを「ウヤーフ」と大声で唱えていたからである。生真面目なダルヴィーシュは、舟を借りて川の中州の葦の小屋に向かい件のダルヴィーシュにマントラの間違いを教えてあげたところ、彼は快く正しいマントラに修正することを約束した。

中洲のダルヴィーシュは、このマントラを正しく唱えれば水の上も歩くことができると言われており、いつかそうなるように努力していると語った。

生真面目なダルヴィーシュが舟で中洲を離れていくと、また「ウヤーフ」という大声が繰り返し聞こえてきて、マントラが訂正されなかったことを知った。

生真面目なダルヴィーシュは人の誤りを訂正することは簡単ではないと、ガックリきていたところ、意外な光景を目にした。

中洲のダルヴィーシュが水の上を歩いてこちらにやってきていたのだ。
(参考:スーフィの物語/イドリス・シャー/平河出版社の31水の上を歩いた男)

今は、マントラの中身つまりその音韻の精妙なるバイブレーションの相違について問題になる時代ではない。そのことが当時からスーフィでも認識されていたわけである。マントラ・ヨーガにおける卓見である。

だからマントラが、南無妙法蓮華経でも、南無阿弥陀仏でも、AKBでも気にしなくてよいということ。
昔は教義とマントラが密接に結びつく必要があったが、今はこの物語のようにもっとストレートに効果を求める時代。


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ヒトラーの見た未来

2012-06-27 06:13:54 | 時代のおわり
◎ほとんどの人が神を知っている社会

ヒトラーはこの世の宗教は、キリスト教とフリーメーソンとナチスの三者が角逐していると見ていた。そうした前提のもとに、至福千年のビジョンを語る。

『「我々は人間の不平等を排除しようとは思わない。むしろその反対に、不平等を拡大させ、互いに犯すことのできない壁によって守られるような原理にまで高めるのだ。

未来の社会的秩序とはいかなるものであろうか。それについて同志諸君、私は君たちに告げよう。まず支配者階級が存在する。彼らの下に一般の党員たちが序列的に並ぶ。その下には無名の追随者、召し使い、労働者などの巨大な群れが連なる。さらにその下に存在するのが、国外の被征服民族すべて、すなわち近代の奴隷なのだ。これらすべての者たちの上に、まだ私が述べることのできない新しい高貴な貴族制による統治が生まれることだろう。だが、これらすべての計画について一般の闘士たちは何も知らされることはないだろう。』
(黒魔術師ヒトラー/ジェラルド・サスター/徳間書店P240から引用)

この発言の出所は側近の一人のラウシュニング

冒頭の人々の分断と不平等の拡大は、核家族化の進展、貧困層の拡大による貧富の格差の拡大によって、まさに実現しており、不況化の景気刺激策のない中での今般の消費税増税によりそれは更に追い打ちをかけられている。

支配階級を頂上とするピラミッド制という社会構造は決して目新しいものではないので、このヒトラーの未来ビジョンを見ても何ら新味を感じることはなく、魅力的でもないだろう。

出口王仁三郎は未来社会は神を頂点とする181階層と見ているが、それについて詳細な説明をしなかったのは、実はそのビジョンはヒトラーのビジョンと同様なものだったからではないか。つまり、今の神知らぬ者が大半の人間に対して、「すべての人間が平等だが平等でない」新時代が到来するなんて、魅力的どころか、忌避すべきであると感じるだけだからである。
だから、ヒトラーにとっても、その将来の貴族制的統治については語ることを許されない性質のものであった。

ほとんどの人が神を知っている社会、利己なき社会は、外面的には現代と同様に、飲み食い娶りなどしているだろうから、現代人にそのまま説明しても、まず正しく理解されることはないだろうからである。違いはその内面にあるぐらいにしか説明できない。その貴族たちは神人たちだろう。


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ジョン・レノンとLSD

2012-06-26 06:15:06 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎それはとおり過ぎるものだ

ビートルズは、全員がLSDの洗礼を受けたのだが、ジョン・レノンはほとんどLSDなくしては音楽なしというような状態であり、ビートルズのLSDリーダーというような状態だった。四人の中で最後にLSDに手を染めたポール・マッカートニーは、LSDによって開眼した、世界の指導者もLSDをやれば戦争をやめ貧困と飢餓を追放する動きになるなんてことまで、雑誌ライフで言っている。

LSDに対するメンバー4人の共通の理解が出来上がった頃に完成したアルバムがサージェント・ペパーで、就中Lucy In The Sky With Diamondsはトリップ・ミュージックの代表作というべき幻想的なイメージに溢れている。

1967年9月イギリスの田園地帯にいたジョン・レノンは、四六時中LSDトリップの世界にいて、LSDに触発されたイメージが浮かぶと音楽に写し取るという作業を繰り返した時期があったが、結局創作に伴う苦悩から逃れることはできなかった。

メンバーの一人ジョージ・ハリスンは、「LSDは決して回答ではなかった。」とし、ポール・マッカートニーも「それはとおり過ぎるものだ」として、LSDを卒業した。
(以上参考:アシッド・ドリームズ/マーティン・A・リーとブルース・シュレイン/第三書館)

言うまでもないが、LSDをやったからと言って悪人が善人になるわけではないし、自分の得になることばっかり考えている自分が急に他人に無償で奉仕するようになるわけでもない。LSDで歪んだ自我が別の見方で現実を見ていただけで、薬効が切れれば、もとのみじめなこの世界に戻るだけである。自分勝手でわがままな自分が、LSDで聖者になるわけでも、自由自在にステキな楽曲をクリエイトできるようになるわけでもない。

カルマ、マーヤ、ニルヴァーナ、チャクラ・・・そんなテクニカル・タームを並べて、その体験を論理構成しようとしても、その努力は徒労である。LSDは悟りではないのだ。

解脱ということで言えば、準備ができていない者がやっても何も起きない。トリップ以前以後を比べても、その人は結局何も変わらないっていことなのだろう。
カルロス・カスタネダのシリーズの大半は、その準備の記録ってことになるだろうか。


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芸術家とアシッド・ハイ

2012-06-25 06:10:20 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎想像力が生みだされてくる本質的母体

これはアメリカのジャンキー作家ウイリアム・バロウズのアシッド使用後の感想。彼はホモ・セクシュアルであり、妻を射殺したり、タンジールに移住したり、ホモだちとの情痴沙汰で指を切り落としたりと、ハチャメチャな人生を送った。だからどうってことはないが。

『アシッド・ハイのあいだに制作された芸術作品のなかには、いくつか興味をそそる、非常にオリジナルなものもあったが、LSDの創造的影響力はトリップ中または直後に制作された作品だけでは測定不可能だった。もっと重要なのは、ドラッグの効力がうすれたずっとあとになっても、ヴィジョンが拡大し、じぶんには膨大な潜荘力がひめられているのだという自覚が残ったことである。

ジェニジャーの被験者たちがしばしば言及したのは、ドラッグでひき起こされた状態と、「想像力が生みだされてくる本質的母体と彼らが感じたもの」とのあいだにみなぎる親近感だった。

作家ウィリアム・バロウズは、ひとりで幻覚剤を試してみたが、やはりこの点では同じ意見だった。「メスカリンをやった状態ではじめて絵を見たけど、以後ドラッグを使わなくてもその絵を見るとトリップ中に感じた高揚をまた感じることができるのがわかった。

音楽に接したとき、強力な意識拡大薬をやったときにめざめる洞察力には共通したものがあって、しばしば経験の領域を永続的に拡大してくれるところがある。メスカリンをやると、未知の精神領域へ連れていってくれる。そして化学薬品の案内がなくても、以後同じ領域へはいれるようになるんだ」』
(アシッド・ドリームズ/マーティン・A・リーとブルース・シュレイン/第三書館P67-68から引用)

※ジェニジャー:オスカー・ジェニジャー博士。DMTの臨床実験を初めてアメリカで行った。

このポイントは、薬物を服用しなくても、ミューズというか、想像力が生みだされてくる本質的母体にアクセスできるようになること。それは、心理学的には意識の拡大、世界観の拡大だが、それは霊能力が開けたのと同列であって、人間の悟り・覚醒という観点からは、実は何も起こっていない。というか、意識や感覚が拡大したとしても、悟っていないことに変わりはなく、もとの木阿弥である。

意識や感覚が拡大するという可能性を実体験するのは、結構なことだ。しかしそれだけでは何も起きてはいない。アシッドは水先案内人であって、そのものではないのだ。

近道には気をつけろってことですね。


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親鸞の愚禿鈔

2012-06-24 07:12:03 | 究極というものの可能性
◎横超=選択本願・真実報土・即得往生

親鸞の愚禿鈔の冒頭
『賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。』
愚禿は、親鸞のこと。賢者すなわち悟った人の信仰のありようを聞けば、自分のそれとの違いがはっきりして、自分の愚なることが明らかになる。親鸞がこれを書いた頃は悟ってないと広言しているわけだ。

大乗の中に頓教(すぐ悟る)と漸教(だんだん悟る)の二教あるが、念仏は頓教に分類される。
頓教には、二つの悟りに至る道があり、一つは竪超であり、即身成仏や即身是仏を目指すもの。いまひとつは横超であり、弥陀の本願を信じて死後たちどころに真実報土に往生すること。

弥陀の本願を信じて念仏を唱えれば、死後たちどころに浄土への往生が実現すると主張しているのだが、念仏を一生懸命となえても、必ずしも死を待って浄土に往生するわけでなく、人によっては、即身是仏というようなことも起きる。たとえば妙好人浅原才一などは、どうも既に仏に出会うという体験は通過してしまっている。

先入観なく見れば、念仏で到る悉地=マントラ・シッディはマントラ・シッディに留まるものではないというのが、不思議ではあるが、そのことは現代科学の解明手法では手に負えない。自分で察するしかないところがある。


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アメリカの幻覚剤開発の進展

2012-06-23 07:04:13 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎ユーザーは百年一日の如し

巷では脱法ドラッグによる事件の報道が多くなってきた。覚醒剤や脱法ドラッグ事案は昔から多かったのだろうが、最近なんだか報道が多くなったということ。刑務所の収監者の半分は覚醒剤だと言われて久しい。報道されないだけで、違法ドラッグ・ユーザーは多数いるのだろう。

『いっぽうCIAは、精神操作幻覚剤の開発ではつねに先鞭をつけてきただけに、より高性能の精神操作薬品の開発を目的とした秘密研究をつづけている。

きわめて特殊なかたちで感覚機能に影響をあたえる超強力精神操作薬が、新たに開発されている。例えば聴覚だけに影響をあたえる薬剤。これを服用すると、すべての音が調性を破壊されるが、ほかの機能はまったく影響を受けない。

また科学者たちは娯楽用ドラッグの開発もすすめているが、そのなかには催淫剤、法悦感をうみだすが後遺症のない「マーティニ杯錠」などがある。
また「デザイナー・ヘロイン」や「デザイナー・コカイン」などの娯楽用ドラッグはすでに巷にながれ、強烈な効き目を発揮している。

アシッドの娯楽的使用は、一九五〇年代のLSDパイオニアだった諜報関係者や医師たちが最初に思いえがいたこのドラッグの未来図とは、ずいぶんかけはなれている。
LSDを「快楽的エンジニアリング」ということばで表現したのは、ティモシー・リアリーだった。彼はアシッドを「遊びの聖餐」、ホモ・ルーデンスのドラッグとして称揚した。』
(アシッド・ドリームズ/マーティン・A・リーとブルース・シュレイン/第三書館P337から引用)

向精神性薬物は、カルロス・カスタネダマリア・サビナのように使いようによっては、無限光明への登攀ルートにもなりえる。ところが、幻覚剤大国アメリカに見るように、幻覚剤は、ビールや清涼飲料水並みのスカットする効果のために用いられるものの一つに成り下がった。

先ごろのホイットニー・ヒューストンの急死では、死因がコカインとアルコールの併用であることが仄めかされる報道が行われていた。アメリカ人は日常的に「アブナイ」物を飲んでいるわけだ。

エレウシスの密儀では、グルの指導の下に麦角(LSDのもともとの由来)飲料を全員が飲んで光明を見ようとする儀式が行われた。その場ではそのドリンクはソーマ=聖なる飲料アムリタだった。今やアメリカでは、ドラッグはそういう用いられ方はしない。

『心地よく快調になったが、悟っていない』では、ソーマの神は泣いていることだろう。覚醒・悟りという視点からは、ソーマは手がかりではあるが、万人にとっての近道ではない。

常用者の面貌には、しばしば早老が見られるらしい。


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韓国産のカキやムール貝、ホタテなどの貝類の汚染

2012-06-22 06:07:36 | 時代のおわり
◎毒を食らわず

2012年6月14日米食品医薬品局(FDA)は、韓国産のカキやムール貝、ホタテなどの貝類が感染性胃腸炎などの原因となるノロウイルスに汚染されている恐れがあるとして、スーパーなどの店頭で販売しないよう勧告したそうだ。対象は、販売禁止の対象は生ものだけでなく缶詰や冷凍、加工食品を含む。

これって、産経にはいち早く出ていたにせよ、日本の新聞、テレビはほとんど報じていないのはまずいのでは。

たまには、酒のおつまみで冬の始めになると牡蠣(缶詰も)も食べ、ホタテなどは一年中食卓に上るが、近年全国で原因不明の集団食中毒が発生する原因のひとつはこれだったかもしれませんね。韓国キムチも最近は沢山入ってきているので、キムチといえどもこうした貝類が入っていないとも限らず油断はできません。

SARSなどの感染症の防疫体制は、ちゃんとやっているが、こうした食品がらみはなんだか原因も含めうやむやに終わることが多いですね。
そういえば、先年の韓国の口蹄疫大流行って、宮崎の口蹄疫と関係あったのかなかったのか。

こんなことを言う人も最近少ないが、野菜も肉も魚もなるべく国産のを選ぶに如かずかなあ。(国産の野菜も福島に近いほど値段が安いらしいですね)
こうした「」を食らって肉体を故意に痛めないというのも、一つの求道のありかたではある。悟りには肉体のパワーも間違いなく必要だし。


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スーフィのエクスタシー

2012-06-21 05:47:50 | 冥想アヴァンギャルド
◎私は実在=神である

ペルシャのスーフィーの覚者フサイン・アル・ハッラージュ(858-922)がその覚醒に付随するエクスタシーを表現する。

『彼は言った、「神はそのしもべが認識の段階に到達すると、ひとつの霊感を彼に贈られるが、
すると彼の歓びは鈍くなり、神を享受するということの他はもはやなにひとつ彼の好みに合わなくなってしまうのだ。』
(忘我の告白/マルティン・ブーバー/法政大学出版局P46から引用)

最近似非覚者がやたらに多い。そうした人物に限って、理屈をこねまわした説明をしたり、現世的なメリットばかり強調したがるものだ。

しかし本物が偽物と違うところは、この実感があるかどうかが大きいように思う。
覚者を自称する人物がいたら、訊いてみたらどうだろう。
そのエクスタシーのなつかしさ、いとしさの程度を。

フサイン・アル・ハッラージュは、「私は実在=神である」という意味の発言をしたという理由でバグダードで処刑された。


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所有することは失うことである

2012-06-20 06:05:55 | 只管打坐
◎勝者は常に恐怖の中にある

久々のクリシュナムルティ
所有するということは、この世での目的追及の始まりであるが、それには何がしかの暴力性がついてまわる。その暴力性は、ついには成功あるいは目的達成を勝ち取るが、それは滅びの始まりであり、死の始まりである。
この世のものごとに確かなものなどない、永遠のものなどない。そこに空性の認識が起こる。

こういう感じはチベット密教の専売特許でなく、いわんやクリシュナムルティのオリジナル・ブランドでもなく、現代人なら日夜うすうす感じていることのはずなのだが。

こうしたものこそ、生きること自体が公案となった時代のわれわれの現実感である。

『何とわれわれは、ココやしの実を、女性を、そして天国を持ちたがることか!
われわれは独占することを欲する、そして事物は、所有によってより大きな価値を獲得するように見える。

「それは自分のものだ」とわれわれが言うとき、その絵はよりいっそう美しく、より立派になるように見える。それは、より多くの優美さ、より多くの深さと豊かさを得るように見える。

所有には、奇妙な暴力性がある。「それは私のものだ」と人が言うやいなや、それは構われるべきもの、守られるベきものになり、そしてまさにこの行為の中に、暴力を生み出すところの抵抗がある。

暴力は、常に成功を追及している。暴力は自己達成なのだ。成功することは、常に失敗することだ。到達は死であり、そして旅することは永遠である。

この世界で到達、獲得し、勝ち誇ることは、生を失うことである。なんと熱心にわれわれは目的を追求することか!
しかし目的は果てしがなく、そしてそれゆえその追及の葛藤も果てしがない。葛藤は不断の克服であり、そして克服されるものは、何度も何度も征服されねばならない。

勝者は常に恐怖の中にある。そして所有は彼の暗黒である。敗者とは勝利を切望し、それがために獲得物を失ってしまった者のことであり、それゆえ彼は勝者と変わらない。

杯を空にするととは、不死なる生を持つことである。』
(生と覚醒のコメンタリー2/クリシュナムルティ/春秋社P150-151から引用)


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ジャービル・イブン・ハイヤーン

2012-06-19 06:16:19 | 錬金術
◎アラビアの錬金術

ジャービル・イブン・ハイヤーンは、アラビアの錬金術師で、西欧の錬金術の源流の一人。

『わたしたちは、ごく初期の段階から、つまり錬金術の父として知られているジャービル・イブン・ハイヤーン(Jabir ibn el-hayyan)から始める必要がある。ジャービルは、八世紀以来、西欧とアラビアの双方の錬金術師たちからこの「術」の護持者として認められている。

爾来わたしたちに知られている錬金術には、塩、硫黄、水銀という三元素の教説が含まれることになる。哲学的黄金を生み出すためには、これらの元素が適切に結合されねばならない。

多くの錬金術師――いやほとんど全ての錬金術師と言ってもよいだろう――は、これらの物質は、わたしたちが知っている塩、硫黄、水銀と同じものではないと力説する。更に、ゲーベル――ジャービルは西欧ではゲーベルと呼ばれていた――は、「古代には知られていなかったように思われる」硫黄と水銀の教説を導入した、とホルムヤード教授は記している。

八世紀以降実践されてきた錬金術には、ジャービル・イブン・ハイヤーンの刻印が押されている。彼は一体何者なのか、また硫黄や水銀という言葉で彼は何を言おうとしたのか?アラビア語の書物同様ラテン語の書物を繙といてもジャービルは、スーフィーという異名をもっていた。


ジャービルは、その作品のなかでジャーファル・サーディク(Jafar Sadiq)(700-765)を自分の師と認め、最大の敬語を使って彼のことを語っている・ジャーファル・サーディクは、スーフィズムの伝承のほとんど全ての「伝達の連鎖」にその名前が出てくる偉大なスーフィーであり、またルーミーやガザーリーのような権威からはスーフィズム自体が、錬金術と呼ばれている。ガザーリーは、その最も重要な作品のひとつを『幸福の錬金術』とさえ題している。イブン・ アラビーはその「偉大な名たち」は金銀と呼ばれていると言う。』
(スーフィ/イドリス・シャー/国書刊行会P241から引用)

塩、硫黄、水銀を原材料とする中国錬金術と同根と思われる欧州錬金術は、ジャービル・イブン・ハイヤーンという中東の人物を介在させて存立した。

双方とも更にその起源はエジプトやアトランティスなのだろうが、その錬金術は、アトランティス以後も何度か浮かんでは沈みの興廃を繰り返して、いま再び勃興しようとしているところではないか。

ジャービル・イブン・ハイヤーンのような人物は、歴史のつなぎ目の直前のポイントに出現して、その直後の時代の文明・文化の方向性を最基層から変えてしまう。誰にもわからないような方法で。でもって錬金術とは、クンダリーニ・ヨーガの冥想法なのだと思う。

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スーフィー修行僧の手帳の断片

2012-06-18 03:26:26 | 究極というものの可能性
◎人間を研究する学問

ペルシャのダルヴィーシュ(スーフィー修行僧)の手帳にこんなことが書かれていたという。

『人間を研究する学問には三つの領域がある。
まず第一に、通常の知識を得るための学問がある。
第二に、一般にエクスタシーと呼ばれる心の状態にかんする学問がある。
第三に、真の実在にかんする学問があり、これこそが最も重要で、他の二つの学問を超越している。

心の内面に対する正しい理解がなければ、真の実在(神のこと)について知ることはできない。
知識やエクスタシーは、それぞれの領域における真の実在の反映であり、第三の学問が伴わなければ、他の二つの学問はほとんど用をなさない。』
(スーフィーの物語/イドリース・シャー/平河出版社P310から引用)

第三の真の実在について学問できるのかどうかは大いに疑問だが、冥想のことを言っているのだろうか。善財童子の菩薩という最終ステージ直前のレベルでも55段の修行があるから、そのことだろうか。

禅でも密教でもエクスタシーについて殊更には言わない。しかし、キリスト教やスーフィーではエクスタシーを言う。現代人の精神構造は近代西欧文明型だから、エクスタシーについて意図的に注意を引くことが妥当なのだと思う。

心の内面に対する正しい理解とは、心の動きというものが心理現象にとどまらず現実の動きそのものに関与していることについての理解も、そのひとつだろう。

通常の知識を得る学問にも広がりと奥深さがあるように、ここでいうエクスタシーにも広がりと奥深さがあり、それはライヒが俯瞰したようなものだと思う。


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スウェデンボルグの四つの見え方

2012-06-17 07:23:50 | 超能力・霊能力
◎ビジョンと体外離脱

霊能力者スェデンボルグが自らの四つの視覚について言及している。

第一の視覚とは、彼が眠りの視覚と呼ぶもので、トランスに入った状態で、見るビジョン。それは日中の視覚と同様に生き生きしている。

第二の視覚とは、目を閉じて見るビジョン。想像上の光景がありありと浮かぶこと。それは目を開いている時と同様に生き生きしていて、しかももっと美しく快適。

第三の視覚とは、彼が霊的視覚現象と呼ぶもので、目を開いた状態で見えるもので、霊とか天国とかが表象的に示されるもので、表象のビジョンというべきもので、どこか漠然としたものでもあり、人間の通常の想像とは異なる

第四の視覚とは、人間が肉体と切り離されて霊になること。この状態では覚醒していて、視覚、聴覚、触覚がある。
これはメンタル体なのかアストラル体なのかという問題があるが、霊界のことしか語らないのなら、アストラル体なのだろう。
(以上参照:巨人スェデンボルグ伝/サイン・トクスヴィグ/徳間書店P317-319)

透視能力者マクモニーグルの見え方は、第一の視覚にあたるだろうか。


スウェデンボルグは第四の視覚つまり体外離脱で大いなる喜びをもってそれを体験したのはわずか3、4回だったとしている。それ以外の大半の体外離脱は、決して愉快なものではなかっただろう。

スェデンボルグの体外離脱ですら、「体外離脱に何かいいことがある」と期待させるものではなかった。体外離脱には3種あるが、中心太陽にいたる本物の体外離脱はそう簡単なものではないようだ。


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阿比留文字と阿比留草文字

2012-06-16 07:38:24 | 古神道の手振り
◎阿比留草文字こそ正統

江戸時代の古神道研究者の平田篤胤(1776-1843)は、今のハングルみたいな文字の文書を何通か手に入れ、この奥書によれば、この文字は日文(ひふみ)四十七文字であって、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)(中臣氏の祖神)から対馬の占いを職掌とする阿比留家に伝承されたものであることから、阿比留文字と呼ばれた。

さてハングルは、1446年朝鮮李朝の世宗の時代に公布した文字であり、平田篤胤の時代よりも更に古い。ゆえに常識的にはハングルは対馬経由で入ってきて、これを一部アレンジしたのが阿比留文字になったと判断される。それほどハングルと阿比留文字は似ている。

なお李氏朝鮮時代にはハングルは公文書に使用されることはなかったが、日本統治時代にハングル教育を推進したので、戦後はなんだかハングルが南北朝鮮で公用にされているそうだ。

平田篤胤は、更に阿比留家に伝承されている別の文字が、阿比留文字を崩したような形であることからこれを阿比留草文字(アヒルクサ文字)と称した。
さてアヒルクサモジは、日本古代の有力寺社のほぼ三割の神璽、守符で発見されている。そのことからしても、阿比留草文字は、仮名以前つまり空海以前には遡ろうということで、ハングルの成立よりはるか以前のこと。

また神璽、守符に採用されていることから当然にこの文字は神聖文字である。平田篤胤の言うようにハングルが楷書であってその崩し字である草書が阿比留草文字であるとすれば、そうした格の劣った文字を神璽、守符に採用するはずはない。よって、阿比留草文字こそが正格の文字であると認められていたと考える。

だから阿比留草文字と阿比留文字の正偏にあまりこだわる必要はなく、両者はとりあえず別物と考えることで良いのではないかと思う。

やはり主題は、古神道の源流がアヒルクサ文字を採用していたということと、その由来にからむ聖者列伝が残っていないかどうかではないかと思う。


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