アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

女性には生まれながらにして薬がある

2012-03-31 07:03:35 | 道教
◎女性の内丹

『女性には生まれながらにして薬がある』とは道教でいうことだが、臨済禅で、女性は生まれつき胆(はら、丹田)ができているというのと同義なのだろう。つまりスワジスターナ・チャクラができているということ。

道教では、薬は丹(エリクシール)とも、真珠(玄珠)とも表現される。

これに対して男性は、丹田を練って作り上げなければならない。道教でも男性は能動的に薬を生成しなければならないとする。

臨済禅では、丹田を作って、公案などで既成の世界観を粉砕し大悟を狙うが、道教では、薬でもって最終的には「筏は岸に到って日光に融ける」と、アートマンの中心太陽突入を狙う。

フランス人のカトリーヌ・デスプの見方では、道教修行の最初は、男性では気を回して薬を形成することだが、女性では最初から薬があるので、薬を維持し、豊かにすることが求められる。女性にもともと薬はあるといえども、そのままでは使いものにならないので、精製、調整が要る。

それと男女とも丹田は丹田だが、カトリーヌ・デスプは、気の出発点は、男性は下腹部だが、女性にあっては両乳房の間だとする。OSHOも男女の違いについて、そのような説明をすることがあったように記憶している。

更にカトリーヌ・デスプは、女性は内は陰で外は陽だから、易で説明すると、離火なる女性から陰を抽出する。離火全体は陽だが、離火は陽陰陽であり、陽中に陰ありとされ、この陰を抽出(採薬)するということ。

このような陽から陰が兆す逆行の瞬間が、採薬のチャンスであり、男性にあってはそのチャンスの時間帯は活子時であり、女性にあっては月経の二日半前だと彼女は推測する。

今でも韓国の文盲率は25%だそうだが、うち女性の文盲率はもっと高いのだろう。そうした女性が日本に働きに来て、飲食店にいたりするのだろう。昔の中国でも字が読めるのは100人中1、2人だったろうし、更にこの世の欲望のメカニズムを見切って道教の修行を行おうとするのは更に少なかっただろう。そうした人々の薬の話。


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苦しみから逃れたいと思う心

2012-03-30 06:10:28 | 密教
◎出離の心

ダライラマの悟りへの道の概説
『菩提心を起こすためには


空の理解は、「解脱」を得るためにも、「一切智の境地」を得るためにも必要な主な因となっており、煩悩障と所知障を滅するために、実際にその対策となって働くものです。

しかし、単に空に瞑想するだけでは、解脱を得るための因とはなっても、一切智の境地に至るための因とはなりません。密教の修行をするのであれば、それは大乗の教えであり、一切智の境地を成就するための教えなのですから、一切智の境地を得るための因を作らなければならず、それには「菩提心」が絶対不可欠な要素となっているのです。

つまり、「菩提心」に伴われた空の理解をもつことができたなら、それは一切智の境地を得るための因となりますが、空の見解が単に「出離の心」のみに伴われている場合には、解脱を得るための因にはなっても、一切智の境地を得るための因とはなりません。

ですから、密教の修行をする者にとっては、空の見解を育むことが絶対不可欠な要素となるだけでなく、その空の見解が一切智の境地を得るための因となるためには、菩提心に伴われていなければならないのです。

つまり、菩提心がなければ、密教の修行とはなりません。そして、出離の心がなければ、菩提心を起こすことは非常に困難です。なぜならば、菩提心とは、利他行(一切衆生を救済するための実践)への強い熱望を因として、その手段として自分が悟りを得ることを強く願う心のことだからです。

そこで、利他行への強い熱望をもつためには、他者に対する大いなる慈悲の心が必要となり、大いなる慈悲の心を起こすためには苦しみを認識することが必要となります。

さらに、苦しみを認識できなければ、出離の心を起こすこともできません。苦しみについてよく理解したうえで、苦しみから逃れたいと願う心のことを出離の心と言うからです。』
(思いやり/ダライラマ14世/サンマーク出版P63-64から引用)

人並みの生活ができない苦しみ、あるいはそうした生活ができない人々がいることを震災で痛感した人は多いだろう。これで「他に対する慈悲の心」。そして苦しみから逃れたいという出離の心が起こる。

この出離の心でもって、自分が悟りを得たいという菩提心を有することになる。しかしこれだけではダメとダライラマは指摘し、空についての理解が必要であるとする。

人間だもの、苦しみから逃れたいのは当たり前。でもそれだけでは、動物と変わりない。この世に起こるあらゆるからくりを見抜いて、自由に生きたいと思っているのではないか。
見抜くための一切智。


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聖女フランチェスカ・ロマーナ

2012-03-29 06:17:37 | キリスト者の秘蹟
◎天使の脇腹から甘美な液を飲む

聖女フランチェスカ・ロマーナ(1984-1440)は、女子献身修道会を創立した聖女。
『フランチェスカ・ロマーナは、「燃えんばかりの愛ゆえに、聖体のパンを口に入れることを大層熱望していたが、そのためにその拝領に同じほど大なる恐れをももっていた」
(彼女は「神々しき御聖体」に渇望と畏怖とを同時に抱いていた。聖体は時には「天から降る大きな雪片の姿で」、「時には燃え上がる火の玉」となって、聖女の前に現れたのだった)。ブランチェスカは頻繁に法悦体験をもったが、その一つで純潔なる天使を見、その天使の口から次のような言葉が漏れるのを聞いた。

“Qui sitit, veniat ad me: ego sitienti dabo de fonte aquae vitae gratis.”
渇く者は私の許に来なさい、生命の水の泉から無償で飲ませてあげよう。すると、天使の胸から澄みきった泉が湧き出ているのに気づいた。
聖女はすぐさま駆け寄り、その甘美な液を味わう喜びを与えられた。
この泉は開いた脇腹から溢れていたが、その中に天使の心臓が太陽より眩しく輝くのを聖女は見た。心臓はきらめきを放ちながら、しばしばこう繰り返していた、「渇く者は私の許へ来て飲みなさい」と。』
(生命の汁/P.カンポレージ/太陽出版P99-100から引用)

こういうのは、高級神霊の加護ということはいうまでもない。が、ラーマクリシュナみたいな感じで、神に酔っている。こういうのも結構だと思うが、今の時代ではどうなのだろう。とてもプライベートで素敵な体験だが、体験とは言えない体験ではないとでも言うべきだろうか。


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住吉神社の一夜官女

2012-03-28 06:05:49 | 古神道の手振り
◎自分御供
毎年2月20日、大阪の住吉神社には、人柱、人身御供の儀式である一夜官女の神事があるという。本流の仏教には人身御供の祭儀はないので、神道にはそういうことをした流れもあったのだろう。一夜官女とは一夜だけ神に仕える役のこと。

住吉神社の鎌田義昭宮司の話。
『大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社の御祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后。
「この神社がある野里は、昔、毎年のように風水害と悪疫が流行り、村人は困窮しておりました。そこで、村の古老たちが占いをすると、“毎年定めた日に、白矢を射ちこまれた家の娘を唐櫃に入れて、神饌と一緒に神社に放置しなさい”と出たのです。それから六年、毎年お告げ通りに娘を唐櫃に入れて、神社に放置してきました。

七年目の準備をしている時に、通りがかりの武士が、“神は人を救うもので犠牲にするものではない“といって、娘に代わって自ら唐櫃の中に入りました。翌朝、村人が行ってみると、唐櫃の周りは血だらけで、武士の姿はありません。血の跡を辿っていくと、隣村に大きな狒狒(ひひ)が深手を負って死んでいた。

この武士こそ岩見重太郎であったといわれています。この岩見重太郎とは、戦国時代宮津の天橋立で親の仇討をするまで、武者修行しながら各地を歩き、山賊や狒狒を退治した豪傑として、講談本や歌舞伎になった人物だと言われています。』
(神饌/南里空海/世界文化社/P126-127から引用)

新しい時代を迎えるには、「今の状況だと第三次世界大戦が起きなければならない」とか、「天変地異が起きなければならない」と、神人が語る場合に、そこで多くの亡くなって行く人々は、新時代に生き残る人々から見れば人身御供。

人身供犠といえば、中米のチャックモールなどが思い浮かぶのだが、そうした狭義の人身供犠に対する嫌悪について云々する暇はあるまい。
自分を捨てる、利己、自分のメリットを捨てるという「自分」御供ができない人は、「持って行かれる」時代になったことを肝に銘ずるところまで、我々は追い込まれたのだろう。

ところでこの神社の祭神はクンダリーニですね。


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金星、月、木星が一直線に

2012-03-27 06:01:16 | 時代のおわり
◎吉兆の意味

昨夜19時から20時頃、金星、月、木星が西天にほぼ垂直に一直線に並んだ。私も、ちょうどそれに向かって進んでいたので、大いにこの奇観を堪能した。

金星も吉星、木星も吉星、その間に動きの速い月が挟まる図であって、読売新聞では、スカイツリーと並んだ写真を配信していた。

金星がおうし座の22度、木星がおうし座の12度、月がおうし座の18度とそれぞれがきっちり合の位置ではないので、机上のパソコン・ホロスコープだけ見ている人には絶対にわからない(重視はしない)極めて稀な天体の配置であった。

要するに机上のホロスコープだけながめていては、この3吉星が縦に一直線に並ぶなどということは見逃してしまうってこと。占星家は、実際の星を眺めなければならないという戒めは、このことでもわかる。

これは3吉星の連動と強化であって、これは大いなる吉兆である。しかしそれは、われわれが考えているような、金がもうかる、自分勝手な願望が成就する、恋が叶うというような、我々に都合の良い吉兆ではあるまい。

天の心は石ころの心でもって、震災を引き起こしたばかり。文明の評価何人悟った者を出せるか。その意味において吉兆と考えた方が良さそうだ。

世俗の意味では、起きた場所は財を司るおうし座、欧州中銀の金融緩和策は賛否あるが、世界金融恐慌が数年のレベルで延期されたと見るのか。延期された隙に冥想を。快適な生活環境は冥想のためにあり・・・です。


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うしかひ草-卯月

2012-03-26 05:55:10 | 只管打坐
◎足あとを見る

足あとを見る

をちこちのたつきなきみ山のおくたづねいるほど、みちしるべする人もなく、宇月ばかりの空、しげれる草、夏こだち、いとどみちたヘ、わきてゆくゑもしら雲の、みねにこだかきすぎのこのまより、山ほととぎすの、一声おちくるけしきばかりにて、いづちともなく、ゆきがたしらずなりにたり。

えならぬかほりさそひきて、宇の花のいとしろう見ゆる河べにさまよひぬるほど、いとうこうじにける。

いしにしりかけ、こしかたゆくすゑなど、おもひつづくれば、いとど心のあはただしく、なにをよすがにたづねみむと、われながらものぐるおし、さはいへど、こころばかりは、はうらさじ、

ものおとかヘり見るに、すくろのすすき、葛のわか葉、あほみわたりたる中に、うしのふみたるあとあり、いそぎはしりて見るもあやなからずや。

あとはあれど なほゆくすゑのしらまほし
やまほとときす みちしるべせよ

見るからに なほいさまししまこも草
をふるさわべのうしのあしあと』

あちこちに係累、知り合いがないので、山奥に尋ね入ることになった。時は4月の新緑の頃とて、峰に白雲湧きたち、杉の木の間より山ほととぎすの鳴く声も漏れ聞こえ、言うも言われぬ香に誘われて卯の花の非常に白く生えている川辺にさまよい出たが、疲れ果てた。

石に腰かけて来し方行く末を想い続けていると、何をたよりに牛を尋ねればよいのかと懊悩は深い。物音にふと気が付いてみると、すすき、葛が青くなりかけたところに、牛の足跡があった。急ぎ走り寄ったが、牛のものに間違いなし。

牛の跡はあるが、なお行方を知りたい。山ホトトギスよ道しるべしてくれ。

足にまかせて捜し回れば、気配は感じ取れるもの。


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平家物語の人々の今様の霊験

2012-03-25 07:11:06 | 究極というものの可能性
◎梁塵秘抄口伝集巻十

平家物語の人々にとってポップ・ミュージックは、今様であった。「遊びをせんとや 生まれけむ・・・」ってやつである。

後白河院の梁塵秘抄口伝集巻十に、今様から神を感ずるプロセスが書かれている。神を感ずると言っても、シャーマニズムの憑依ではなく、霊験あらたかであることを「示現」とする。

口伝集では、
監物清経(けんもつきよつね)が病気になってもう最期という状態だったのに、目井なる者が薬師如来の加護を今様に歌いこんで、快癒させたこと、
左衛門督通季(さえもんのかみみちすえ)が瘧(おこり)の病をこじらせた時に、「どんなことがあっても非難するなよ」と二度今様を歌ったところ、大汗が出て回復させたこと、
目の見えない者が神社に今様を歌って百日参籠したところ、目が見えるようになったことなどを挙げる。

このプロセスは、観想法によるものだろうが、今様で意識レベルを下げて行ったのだろう。
1.神社仏閣に参詣する。
2.神前・仏前にて今様を謡う。
3.今様の中にトランスに入り、ある特殊な意識状態に入る。
4.ある特殊な意識状態の中で願望の実現することをありありと、疑いもなく思う。

これは目新しいものではなく、西洋でもイエズス会の、イグナチウス・ロヨラ霊操などでも語られるもの。マントラ・シッディとは別のものであるように思った。


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暗闇の塔からの脱出

2012-03-24 06:43:25 | 錬金術
◎化学の結婚-第一日目

クリスチャン・ローゼンクロイツは、化学の結婚第一日目に夢に入るや否や、頑丈な作りの牢獄と思しき塔の一室に大勢の人と共に放り込まれた。そこは真っ暗闇であったが、天蓋が開けられわずかな光が差し込むと、外にいる地母神らしい老婦人が、「七回ロープを降ろしてあげて、中の人を助けなさい」というような指示を手下に出した。

ロープが降ろされると、中の人々は押し合いへし合い、ロープにつかまろうと他の人を押しのけて争う。首尾よくロープにつかまった人も、ロープの引き上げる速度が速かったり、ロープが大きく振られたり、握力が尽きたりして落下してしまい、ロープの下部にしがみついていた人々まで巻き添えにしてしまう。

ロープは7分に1回降ろされてきたが、クリスチャン・ローゼンクロイツは、ドジなことに壁際の石の上に登っていたので、真ん中に降ろされるロープには全然手も届かなかった。
こうしてロープは5回まで降ろされたが、引き上げられた者はごく少数という結果に終わった。

さて6回目。クリスチャン・ローゼンクロイツと人々は、この窮状に対して神に御慈悲を乞うた。するとロープが鼻先までやってきたので、それを捉えて、クリスチャン・ローゼンクロイツは、塔の外に脱出することができた。

なぜだか彼は引き上げられる際に、尖った石で頭部を怪我をした。

最終回の7回目のロープ降下では、彼も引き上げを手伝わされ、結果的に7回目は最も多くの人を救出することができた。

そこでくだんの老婦人は、超高齢の息子に一言訓話をするように言うと、息子は「貧者もなく富者もない、人皆が平等で、我らすべてが主人となる時代の到来」を予告した。

塔に残された人々はそのままに、塔は再び天蓋で蓋われた。


その日には、天から鉤付のロープが降るわけではないが、準備をさをさ怠りないことが必要である。

尖った石で頭部を怪我をしたのは、それまでの既成世界観を打破することと、肉体オンリーから霊的な生き方への進展を暗示する。あるいは、頭頂の封印を切る2~3人のお迎え。


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道は淵として万物の宗に似たり

2012-03-23 06:03:47 | 老子
◎老子 第4章道冲

『道はちょうど中の冲になっている器のようなもので、見たところ何もあるようには見えないが、しかもその無形のところが、用を為しているのである。
そして道はこれを用いても盈(み)ちるということがない。それはちょうどあの淵のようなものであり、万物の本源に似ている。
道は静かに、存在しているようにも似ている。誰の子であるかもわからない。天地の主宰者たる上帝よりなお先からあるようである。』

これは、道の印象。道をして、その属性に永遠を感得している。
また満たないが、何か入っている淵のようなものとして万物の宗(根源)に似ていると表現している。万物の根源といえば、古事記では葦牙(あしかび)、ユダヤ教なら一条の黒い焔だが、老子は淵と比喩する。

老子は後世になって仙道の祖師の一人に祭り上げられたりするがそれは本意ではあるまい。仙道の熟達者であれば、古事記やユダヤ教みたいな、見たとおりを表現するにちがいないが、ここは、只管打坐の熟達者として、語りえぬ道の属性を、比喩として淵と表現したのだと思う。
盈ちることがなければ、ある時は盈ちるように動き、ある時は減るように動き、易の最終卦の火水未済の未済を誘発し、永遠の戯れの動因となる。



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女教皇ヨハンナ

2012-03-22 06:10:11 | キリスト者の秘蹟
◎キリスト教の女性恐怖

始めてタロットの大アルカナで女司祭というのを見つけた時は違和感があったものだ。

事実はタロットより奇なり。9世紀の司書アタナシウスによれば、854年ロタリー14世、ヨハンナ、女性はローマ教皇レオの跡を継ぎ、2年と5か月と4日間君臨したとされる。

ローマ教会のことなので、もちろん女教皇など実在しないという立場もある。

しかし、様々な記録によれば、男装の教皇であった彼女は召使の子を妊娠し、在位の最後の日にラテラノ宮殿(ローマ教皇の居住地)と聖クレメント教会との道の間で産気づき、その場で出産した。これを見た人々は、即座に偽教皇として、市中引き回しの上、石もてこれを打って絶命せしめたという。

これを教訓に、以後の教皇候補者は、便器みたいな椅子に裸で腰かけさせられて、局部の男性であることを、枢機卿たちによってチェックされたという。

キリスト教では5世紀以降聖母マリア信仰が確立されるまで、聖母崇拝はきわもの的扱いだった。中世では、女性はイブ以来の罪の存在とされ、女性が魂を持っていることを認めないほど冷遇されていた。こうした男性宗教キリスト教において、公然と女性教皇が出ることは不可能であった。

彼女はローマ教皇であるから、歴代ダライラマのように当然に見神体験はあった人物であって学識、操行とも優れた人物だったのだろう。

近代西欧文明は、アポロン型で、闇を忌避する。闇・死は女性に象徴されるので、女性教皇などもってのほかという文脈になるのは理解できる。その延長線上に魔女狩りが起こって行き、はるかに時代が下るが、ウーマンリブなんかは、こうした地母神忌避ヒステリーの反動ともいえないこともないと思う。




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文盲と無文字社会

2012-03-21 06:10:54 | 時代のおわり
◎日本と外国の決定的違い

無文字社会ってのは、石器時代以前かとばかり思っていたが、文字の読めない文盲の人にとっては、無文字社会を生きているのと同じなのだということに気が付いた。

日本人なら、新聞は読めなくてもまずマンガは読めるので、字が読めないってことはまずない。日本の文盲率は世界的に見て極端に低い。日本への、無宗教化、3S(スポーツ、セックス、スクリーン)、核家族化、ゆとり教育などの愚民化政策は、若者の学力低下で「日本人の劣化」という効果を上げたが、文盲率の顕著な低下というところまで行かなかったのは不幸中の幸いかもしれない。

アメリカは、なぜだか自国民に真っ先に愚民化政策を行っているので、3Sは猛烈であり、文盲化率は5割とも言われている。おそらくはこうした文盲の人たちが、リーマンショックの遠因となったサブプライム住宅ローンの借り手のかなりの部分であっただろうし、かつまた個人債務過多の人たちなのだろうと思う。

またそうした人たちがポップやラップやジャズのファンの大勢となっており、アメリカン・カルチャーは、こうした文盲の人が半分を支えているのだとしたら、アメリカン・カルチャーは、いわば文盲文化、あるいは疑似無文字精神世界に生きる人々の文化かもしれないと気が付いてギョっとした。

あの韓国の文盲率も25%だそうだから、韓流の文化的洗練度は推して知るべし。

最近の日本人は古文が苦手などというのはぜいたくな悩みかもしれないと思った。

宗教改革のルターが出る頃までは、自国語訳聖書はなかったので、欧州では聖書が読めるのは、ラテン語が読める人だけであったから、キリスト教は国教であったにせよ、聖書を読める人の比率は極端に少なかった。いわば宗教的文盲比率が極端に高かった。

そんな民衆をどうやって教化したかといえば、司祭の説教や、ステンドグラス、壁画、そして持ち運びに便利な小型カードに宗教上のシーンを描いたのが用いられていたのではないかと言われている(タロットの起源)。

文盲対策は、愚民化の方向とこうした正統宗教による教化の両方向がある。


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パラケルススのペスト伝染論

2012-03-20 07:20:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎想像力と天体のフィードバック

パラケルススは、16世紀欧州の医者。
彼の著作「ペスト並びにその諸症状の書」によれば、ペストには、2種ある。一つは神の思し召しによるペストと、もう一つは人間が自分に向けて作るペストである。

中世の占星術のごくありきたりの考え方として、神の黒い鞭である火星や土星など(マレフィック)の天体の怒りがペストとなって地上を侵すというものがあった。パラケルススは、この考え方に加え、人間の「想像力」がペストを作るという考え方を呈示する。

もとより天の心は石ころの心であって、必ずしも人間にとって都合の良さそうな方向に物事を進めるとは限らないのだが・・・・。

『はじまりはわれらがうちにある。嫉妬、憎悪、虚偽、不実、並びにわれらと悪徳のうちなるすべての偽りの奸計がこれである。これらのものはわれらのうちに日夜ひそんでいる想像力にほかならぬ。

この想像力が上なる天空に昇って、二つの星の間を、一方から他方へと渉るのだ。』
(パラケルススの世界/種村季弘/青土社P276から引用)

このような人間の悪しき想念が天空にあって、天空を汚染し、その汚染が新たな作用の原因となって地上に降ってくる。こうして、人間の邪悪な想像力は、地上に還ってペストなどの疫病の原因となる。

これをパラケルススは、『共通の嫉妬は共通のペストを生み、共通の強欲は共通の疫病を生む。』(上掲書P276から引用)

天体をアストラル宇宙あるいは、霊界と見れば、人間の想像力がアストラル宇宙に作用し、悪しきバイブレーションを創出し、それがやがてこの世の悪疫として現実化するというメカニズムである。

悟っていない者は、日々肉体を持っているかぎり必ず悪想念が兆し、悪事を犯すもの。よって毎日払う。これは毎日風呂に入るようなものではある。

今の時代は、リーマンショックで皆が知るようになったが、強欲な者が経済のリーダーシップを採っている時代。政治も、権力欲にまみれた人々が競ってヘゲモニーを握らんとしている時代。下々では、自分の財産だけは目減りさせまいと資産逃避を図ったり、他人の金や財産やブランド品を羨む、嫉妬、ねたみを当たり前とする人ばかり。

中世ヨーロッパでは、ペストが猖獗を極めたが、いまはこのような現代人がその想像力でもって福島発の低レベル放射線障害を現実化したという見方も成り立つ。

パラケルススの考え方からすれば、これ以上の放射線障害を避けるためには、放射性物質を飲まない、食べない、吸わない、触れないだけでは不十分で、各人が自らの「うそつき」「ねたみ」「不誠実」「憎しみ」をなくさねばならないだろう。それがなくならない限り、悪しき想像力は、天体(アストラル)からフィードバックし、我らにその悪しきリターンを現実化することを繰り返す。

残された時間は多くはあるまい。


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うしかひ草-弥生

2012-03-19 06:06:22 | 只管打坐
◎牛を尋ねるの段

『牛を尋ねる

すみなれしあやしの竹のあみ戸をいでて、ときしもやよひばかり、いとめなれぬ山ざとなど、こなたかなたまどひありきぬれど、

みしれる人もなく、あしにまかせてゆくに、やや春ふかくかすみわたり、花もやうやうさかりをへて、えむなる空見すぐしがたきを、けふみずばなど、おもひつづけてゆくに、

わか葉の木かげにふじやまぶきの、さとかほりて、きよらにさきみだれたる、こころよからぬかは。

つばなまじりのすみれ、をひわたりたるさま、みちのベおぼつかなくも、うしのゆくゑ、とめたどる。

めもくれ、こころもくれぬ、いざやかばかりゆきがたなからむとは。

おこえ谷こえあされども、つやづやものも見へず、いかばかりこころのうちくるしかりけむ。

おぼつかな なにをしるべに はるのやま
のがひのうしの あとをとむらむ

こころうし たづぬるかひもなきものを
さくらがりとや ひとのみるらむ』

住み慣れた茅屋を出でて、いまや野飼いとなった牛の跡を春3月に追うことになった。見知った人のない野山は、若葉のかげに藤、山吹が咲き、地面にはスミレが咲き乱れ、空の色も艶である。

尾根を越え、谷を越えて捜せども、明白な牛の跡もなく、心は浮かないが、人はこんな自分を桜狩りと見るかもしれない。

石原慎太郎が、NHKの3.11の回顧番組で『相変わらず日本は我欲が支配している。目の前で転んだ人を助けようとはしない、そんな人間ばっかりになってしまったよ、日本は。震災でそれは糊塗されたかに見えるけど、本質は変わっていない。我欲の反省なく、このまま行くと、日本は真っ逆さまに沈む。日本は、滅亡まで行かんだろうけど、震災は、決定的な衰弱の始まりだと思う。』というようなニュアンスの発言をしていた。

今の自分、今のライフスタイル、今のファッション、発想、ブランド、IT文化、そんなものがすべて我欲から来ており、その結末が想像するだに恐ろしいものであると、センスのある人は感じ始めたのだなあと思った。

牛の跡も見つかっていないようだけど。牛を尋ねるのだ。


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霊がかりを排す

2012-03-18 07:23:34 | 超能力・霊能力
◎善と悪、光と闇

このブログでは極力霊がかりを排して考えようとしている。

霊がかりとは何か。まずはヘルメス文書のヘルメスと弟子アスクレピオスの対話。
『「魂の徳とは認識(グノーシス)である。なぜなら認識した者は善であり、敬虔であり、神的でさえあるのだから」。

「父よ、それはどのような人でしょうか」。

「多くを語らず、多くを聞かぬ人がそれである。子よ、二つのことを語ったり、聞いたりすることに時間を費やす者は空を打つようなものだ。
神にして父なる者・善は語ることも聞くこともできないのだ。」』
(ヘルメス文書/荒井献+柴田有訳/朝日出版社p230-232から引用)

これに対して、19世紀フランスのオカルティスト、エリファス・レビの説明。
『大奥義、すなわち、筆舌に尽くしがたい秘奥は、善と悪の絶対知である。

蛇は言った。「この木の果実を食せば、おまえたちは神のごとくなろう。」
これに対し、神の叡知は答える。「もしそれを食せば、おまえたちは死ぬであろう。」
かくして善と悪は同じ木に実り、同じ根から生え出ているのである。

人格化された善、それが神である。
人格化された悪、それが悪魔である。
神の秘密あるいは知恵を知ることは神となることである。
悪魔の秘密あるいは知恵を知ることは悪魔となることである。』
(大いなる神秘の鍵/エリファス・レヴィ/人文書院P295から引用)

これでは善悪が等価であり、対立あるいは並置されている。この見方は、ヘルメス文書の善絶対の立場とは全く異なるものである。こういうエリファス・レヴィみたいな考え方を霊がかりと見る。

エリファス・レヴィみたいな考え方に立つものにはこんなのもある。
『世界は光と闇という二つの力の戦いです。

宇宙に恒常的なものは一つもありません。あるのは運動だけです。われわれは光に向かっているか闇に向かっているかのどちらかなのです。行動を通して、その方向を選択しています。』
(神のようになる/マイケル・バーグ/星雲社P63から引用)

マイケル・バーグはユダヤ教の人。彼は、このように光と闇並置の世界観である。エリファス・レヴィは善と悪の二元で表現したのに対し、ここでは光と闇という表現をとるが、どちらも同じこと。

神そのものになることと、神を見ている自分が残ることとは全く別のこと。見神と神人合一とは全く異なるもの。見神経験のある人は、仏教なら菩薩と呼ばれるが、見神・見仏体験のある人でも邪道に落ちることがあるようである(チベット密教のドルジェタクみたいに)。

平たく言えば、見神経験があって未だ神人合一という体験とはいえない体験がない者が、善と悪の並置、光と闇の戦いという世界観に陥るのではないかという印象がある。その先にはノー・リターン・ポイントというのが存在しているのだろう。

霊能力者、あるいはシャーマンは最後まで見ている自分を手放さないものだと言われるが、そのことを指しており、彼らはノー・リターン・ポイントの手前側から抜け出せていないということなのだろうと思う。

ノー・リターン・ポイントの手前側にいて、善と悪の対立、光と闇の戦いをことさらに強調するような人が「霊がかり」ということになるのだと思う。



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悟りとは何か
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魂の徳とは認識(グノーシス)である

2012-03-17 06:21:54 | 究極というものの可能性
◎万人の課題

ヘルメス文書にある言葉「魂の徳とは認識(グノーシス)である」とは神を認識することが魂の徳であるということ。神を認識することが善であり、認識しないことが悪であるという立場である。
それと人間は死すべきものであり、不死性は人間の属性ではないというのが、強調されている。その不死は肉の不死でないことは言うまでもない。

ヘルメス文書のヘルメス選集Xの神化の説明では、
1.すべての魂は万有の一つの魂から出ている。
2.爬虫類の魂は水棲動物へと変化する。
3.水棲動物の魂は陸棲動物へと変化する。
4.陸棲動物の魂は鳥へと変化する。
5.鳥の魂は人間へと変化する。
6.人間の魂は不死性を得てダイモーン(ほとんど神)や、神々の合唱隊に変化する。
7.神々の合唱隊には、遊行する者たち(惑星にシンボライズされる者)と遊行しない者たち(恒星にシンボライズされる者)の2種がある。

以上の6、7が神化に相当する部分であって、魂にとっての究極的栄光であり、神を認識した者は、善であり敬虔であり、神的である。

ヘルメス文書では、逆に神に無知であることが、魂の悪であるとし、こうした者は爬虫類へと向かう道を逆行するとする。また神を認識することを「オリュンポスへの登行」ともたたえている。

現代人のテーマは神を悟れるかどうかだが、ヘルメス文書の昔から、それは充分に意識されていたのだ。当時は、それは聖者と高弟の議論でしかなかったが、今や万人の課題になったところが違う。


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