アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

人類三分になるという

2012-02-29 06:14:34 | 時代のおわり
◎旧文明の破壊

世の大峠の生存確率が2~3%というのは出口王仁三郎の発言であるが、他の幻視者、予言者も似たようなことを示唆していることがある。

例えば、ノアの洪水並みの大洪水があるとか、文明全体が滅亡し、新たな文明が登場するなどと語る場合である。世界的大洪水では、ごく少数しか生き残らないのは旧約聖書にあるとおりである。

新たな文明が登場するのは古い文明が維持できなくなることであり、古い文明を維持するに足る壮丁、人口を下回ることである。沖縄戦では沖縄は人口の1/3を失った。米国の援助がなければ急速に復興することはなかった。居住インフラ、生産設備が破壊されると、外国などからの援助がないとスラム街だけが残る。焼け跡・闇市である。

つまり新たな文明が登場すると語る幻視者・予言者は、旧文明が破壊され、それが復興できないほどその周辺の旧文明地域・国家も衰退か破壊されるか、ないしは人口が大幅に減少していくか、あるいはその両方を見ているのだろうと思う。

こうしたものを生存確率に引き直したのが、「人類三分になる」という大本の出口ナオだったわけである。

あまり悲惨で言われんわい」、「もとのススキが原に返るぞよ」、とはその辺の具合を言っているのだと思う。

そして、それは突然に起こる。飢病戦は小三災に分類され、大三災は、風水火である。メインは風水火。


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また3月がやってくる

2012-02-28 06:00:47 | 時代のおわり
◎黄昏の感じ

また3月がやってくる。私は予知能力も霊能力もないので、この世の終わりをありありとビジョンで見るなんてことはできない。でも覚醒した人がちょっと将来を覗くことがあって、そのあまりの悲惨さに驚くなんてことはあるらしい。

しかし、そんな特殊能力がなくてもこの世の立替について、過去予言者によって語られた断片をつなぎ合わせれば、どうなるかということは大体想像がつくのではないか。

曰く、日本の立替は、始まったら半年で終了。
曰く、立替の始まりは、3、4月または8、9月。
曰く、生存確率は、2%切るかもしれない。
曰く、立替立直しの後は、現代文明の利器はほとんど残らない。(そうでないと新文明なんてのはないってのは理屈に合う)
曰く、火の雨が降る。
曰く、東洋は火で滅び、西洋は水で滅ぶ
曰く、こうした天変地異の前にさる勢力が世界を統一する。
曰く、立替立直しは日本が先行する。


意外にも立替シリーズのプロローグは大地震と大津波で始まったが、1年たってもそれぞれの生き方を改めること、悟りに向かって冥想しようなどという動きが主流にはなっていない。

逆にまた大地震大津波がくるかもしれないので、非常食、非常用品、避難場所、避難経路など非常時のサバイバル対策に余念がない。その生き方を変えていないので、またディザスターは起きるから、その対症療法をということが主流である。

天変地異の発生は、地球物理の確率の問題ではなく、その時の民心の動向による。地獄的な想念の人が大半であれば、いつかその地獄がこの世に現出するのを天変地異と言う。そうした心の病原を断たなければ、日本は、改心、悔悟しきるまで、何度もそうした天変地異に襲われるだろう。

病原を断つとは、日々悟りに向かって坐ることである。

人はこうしたものをネガティブ予言というけれど、ネガティブな将来が来るような現在の生き方をしているのは誰か他の人なのだろうか。ネガティブ予言は下層霊界=地獄をビジョンで見た人が、ネガティブ予言だという説もあるにしろ。

しかし、功利、自分のメリット、金、生活レベルを落とさないことばかり重要と考えて毎日生活していけば、自分の身を捨てて他人に尽くすなんて発想は出てくるはずもなく、こうして不毛な地獄的想念の人間ばかりになったのが今の日本なのではないか。

東北関東大地震の被災者のことを単に運の悪い人と見て、自分も運が悪ければそんな天災に遭遇するかもしれないというところで、洞察が止まっているのではないだろうか。

そして大量死。

OSHOバグワンの「神秘の次元(P223)」によれば、死の影は死に先立つ6か月前から兆すという。この6か月が死に先行する黄昏である。人は、この6か月間、一日中黄昏の感じが消えずにいる。通常ならば1日のうちで睡眠前の1時間しか発生しない黄昏の感じが最後の6か月は日中の常態となるという。

大量死の6か月前には、そうした気分が世の中全体に満ちるだろう。「時間がない」って感じの人も。その雰囲気を感じた時、予知能力のない私は、ホンチャンの立替立直しが近いことを知る。


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微細構造定数137の謎

2012-02-27 07:59:32 | 冥想アヴァンギャルド
◎宇宙遊戯を貫く法則

心理学者C.G.ユングの友人の物理学者パウリが、物質一般の構造に最も大きな影響を与えている数字(微細構造定数)はなぜ137なのかに疑問を持ち続け、パウリが死んだ部屋もチューリヒの赤十字病院の137号室だった。微細構造定数とは、原子のスペクトル線の微細構造線の間隔は1/137で表されるとされる定数。

パウリは、ユダヤ教学者のゲルショム・ショーレムと親交があった。ショーレムによると137がカバラに関係があるという。カバラを表す古代ヘブライ語は、それぞれ、5、30、2、100の数字を意味する4文字で、これを合計すると137になるという。

ゲマトリアで世界の現象万般を説明できれば、これぞ科学と呼べるが、これだけでは単なる数遊びに過ぎない。137は素数であり、割り切れない。あらゆる占星術は現実世界のプロファイリングなのだが、そこで見かけるのは、シンメトリーではなく、非対称な原理により世界が運行されている現実である。八門遁甲などをみても、八門それぞれの意義は非対称である。

シンメトリーがある一定の独特の法則で崩されて現実が展開するのだが、その法則の一つが137なのだろう。

聖書の数学という数遊びみたいなものがあるが、その数遊びですら、厳粛な世界の展開のモザイクの1ピースであると見れば、森厳な世界の運行原理を確認したり予測するシンクロなシンボルであることに間違いはない。タロットだってそんなものだ。

宇宙は遊戯かもしれないが、宇宙の法則に遊びはない。因果は昧(くら)まず


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ゾーハルでの万物のスタート地点

2012-02-26 07:45:23 | クンダリーニ・ヨーガ
◎一条の黒ずんだ焔

古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。モーセス・デ・レオンは13世紀スペインのカバリスト(ユダヤ教の学者)で、ゾーハルの著者に擬せられる。文中の王とは神たり。

『ゾーハルの数多くの箇所では、モーセス・デ・レオンのへブライ語の著作と同様に、無カら存在への発現が原点の象徴によって描かれている。「隠れた原因」から流出する発端を数学上の点―――その運動によって更に線と面が生ずるもの―――になぞらえることは、すでにゲロナ学派のカバリストが試みているが、モーセス・デ・レオンのばあいにはこれに加えて、円の中心としての点の象徴が登場する。

無の中から輝き出る原点は、神々の誕生や宇宙創造の諸々の出来事が集中している神秘的中心なのである。それ自体は無次元的に、無と存在のあいだにあるこの点はこうして「存在の根源」、ハトハラース・ハ=イェシュース、つまり聖書の最初の言葉が語っているあの「初め」を描出するのに用いられている。天地創造の物語を解釈するゾーハルの冒頭の文章がすでに、この原点の輝き出るさまをなかなか見事に書き出している。

その輝きはもちろんここでは無の領域からでなく神のエーテル状のアウラから出ている。次に掲げる数行は、ゾーハルの神秘的な象徴世界を示す例として、ここにふさわしいものであろう。

「はじめに、王のみこころがはたらき始めたとき、王は身辺に輝く天上のアウラのなかへ符牒を埋められた。

一条の黒ずんだ焔が、隠れた深奥の無限なるもの、エン・ソーフの秘密のなかからもやもやと湧き出る雲霧のごとく立ち昇り、かのアウラの輸に囲繞された。

それはまだ白くもなく黒くもなく、赤くもなく青くもなく、およそいかなる色もおびていなかった。しかるにこの焔が容積と広がりを具え始めると、それは燦然と輝く色を現した。

つまり、焔の深奥にひとつの泉が、エン・ソーフの神秘的な秘密に包み隠されて湧出し、そこから色が下方のいっさいのものに注がれたのであった。この泉は溢れ出たが、それを囲繞するエーテル状のアウラを完全に突き破ることはなかった。

この泉はその溢れ出る勢いのためにあの隠れた最高の点が輝き出すまでは、まったく認識できなかった。およそこの点を越え出ては何ひとつ認識しえず、それゆえこの点はレーシース、始まり、つまり万物の創造の最初の言葉と呼ばれるのである。』
(ユダヤ神秘主義/ゲルショム/ショーレム/法政大学出版局P287-288から引用)

無の中から輝き出る原点とは、古神道の言霊では「ス」にあたるのだろう。また神の身辺に輝く天上のアウラを、パラケルススは万物の故郷たるマトリックスと呼んだ。

このレーシース=万物の最初の言葉のポジションは決して霊がかりな感覚(アストラル)では不可知なものだと思う。またこれは、フィリス・アトウォーターの見たのとは見え方が違う。違うものを見ていたのか、あるいは同じもの(万物のスタート地点)を見ていたが、違ったもののように見えたか、あるいはそのどちらでもないのかについては、ここでは明確にすることはできない。アストラル体では見えないのではないか。

神はもとより言葉にならないが、ここが言葉になる最初の地点ということだろうと思う。


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便利になるのは怖い

2012-02-25 06:44:07 | 時代のおわり
◎来るべき監視社会(東ドイツのシュタージ)

便利の名のもとに日本では膨大な個人情報が積みあがっている。Suicaで、icocaで、nanakoカードで、ネット通販で、クレジット・カードで、そして住民基本台帳ネットで、更には今後の国民総背番号制度で。

こうしたものは、とりあえずきちんと個人情報管理がされていれば問題がないことになっている。ところが、2004年2月のYahooBBの約450万件の個人情報漏えい事件以降、大型中型の情報漏えい事件は毎度発生し続け、収束することはない。ことに住基ネットのセキュリティについてはかねてから議論のあるところで、まとめて漏えいしていれば、覆水盆に還らずで、1億2千万国民の生活そのものを直接脅かす事案になっていくに相違ない。そして今2012年3月1日からのGoogleの個人情報強化が、個人情報を丸裸にするものとして、世界中の各方面で反発を呼んでいる。便利は、危ない

旧社会主義諸国、ロシア、中国、東ドイツ、ルーマニアなどは、一様に国民の個人情報を監視する体制を持っていた。冷戦終結して、そうした監視機関によって収集された情報は開示されることなく闇に葬られたが、東ドイツだけは、その情報にアクセスできるようになった関係で、シュタージ(東ドイツ秘密警察)の個人監視について多数の著作が出されている。

その一つである『監視国家/アナ・ファンダー/白水社』によれば、東ドイツ1千7百万人の国にシュタージ職員は9万7千人、密告者とパートの情報提供者を含めると国民6.5人に一人がシュタージに協力していたとされる。要するに職場、学校、教会、役所はもとより、家族、親族にまで、監視の目が行き届いていたのだ。

こうした監視社会では、特にあらゆる人の親類関係に最も監視の目が注がれ、恋人とのラブレター1件1件まで内容を検閲されていた。出国の自由はない、報道・表現の自由がない中で、個人の私生活まで監視されている人は、こんな心理になる。

『わたしはここで一体何をしているのだろう?みんながわたしを見ている。わたしは歩いてプールを離れ、飛び込み用のプールには誰もいないことを発見した。ルールには従おう。泳いではいけない時間帯には泳がない。飛び込み用のプールの方に入っていって、コーナーに腰を下ろした。ここなら誰も見ていないし、ルールを破ることにもならない。

一体何をしているんだ、わたしは?』
(監視国家/アナ・ファンダー/白水社P197から引用)

福島第一原発の対応で政府は国民の信頼を失い始めた。こうした政府は次第に思想動向の監視を強化しようと動くものだ。様々な個人情報システムを組み合わせて。また諸外国も、こうした反目につけこもうとするものだ。
アメリカもGoogleを通じて監視強化に動こうとしている。
便利は、怖い。

おもしろうて やがて悲しき 鵜舟哉(芭蕉


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親鸞のいう浄土

2012-02-24 06:13:56 | マントラ禅(冥想法7)
◎勝本華蓮氏の読み方

「尼さんはつらいよ」の勝本華蓮氏の親鸞のいう浄土の見方。浄土とは、輪廻の一様態であり、解脱・成仏ではないが、生きている人が真実信心を得れば、これを成仏としたという読み方である。

この世で成仏というのは、死後の浄土への往生が重要というポイントを飛び越えており、かなり大胆な考え方だと思う。ところが、親鸞が晩年に自然法爾という立場に行きつくには、そういう考え方をとらなければならなかったのだろうが、外部から親鸞の考え方の変遷を想像すると、とてもわかりにくいことである。

親鸞は要するに、この世で阿弥陀仏なる窮極に一致することを「正定聚不退の位」と見て、その場合は死んで往生するまでもないと見たのだろうか。だとすれば、結構モダンである。

『浄土はどこにある

親鸞の念仏は師の法然とは異なる。法然はいわゆる浄土三部経のうち『観無量寿経』を重視し、これをもとに『無量寿経』に説く第十八願を念仏往生の本願としたのに対し、親鸞は『無量寿経』において、念仏は第十七願の諸仏称名の願であって、第十八願は至心信楽の願で、信心による往生を説くものと解釈した。親鸞は、教えも念仏も信心も悟りもすべて仏の側(他力)からの回向であると解した。

親鸞によれば、真実は人間にはなくただ仏にのみあり、人は「虚仮不実の自己」を懺悔するのみで、真実の信心を仏から与えられるとき、往生が決定すると考えた。そして、この状態をも「往生」とよんだ。さらに晩年になると、その往生決定した位(正定聚不退の位)を如来と等しいとも説いている。すなわち、愚かでなんの修行もできない凡夫が、仏から信心を振り向けて与えてもらったその瞬間に往生し、かつ如来と等しい位になるのである。つまり、この世で往生し、すぐ成仏するわけである。

ではいったい親鸞のいう浄土はどこにあるのか。親鸞は、如来から真実信心をいただいた人の往生する浄土を真実報土、それ以外の人が往生するところを化土として、阿弥陀仏による絶対他力をとくが、最終的には、その阿弥陀仏は色も形もないと説くに至っている。ということは、死後にどこか別世界の浄土に往生するのではなく、この世で往生するわけである。親鸞の考えでは、この世のすべてはそのままで真理にかなっているから、なにもあくせくせずとも、すべてを仏に任せきればいいということになる。これが自然法爾である。

この境地に達すれば、幸せな人生だと思うが、なかなかそうはいかない。そういうと、阿弥陀から絶対他力の信心をもらっていないからだといわれそうであるが、じつは一時、私はその絶対他力の信心をいただいたと信じていたのである。しかしそのあとで天台宗で得度し、あれこれ修行した。何もしない「ありのまま」ほど難しいことはないかもしれない。それはさておき、法然の浄土教の門流には、親鸞以外に宗祖とされる人物がいる。それが時宗の祖の一遍である。』
(座標軸としての仏教学/勝本華蓮/佼成出版社P235-236から引用)


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コミューン-一定数の覚者

2012-02-23 06:10:08 | 究極というものの可能性
◎ニルヴァーナの臨在に人は集まる

これは、OSHOバグワンが、コミューンを舞台にした伝道を始めた頃の世界の行く末展望。覚者らしく、金がどう、生活レベルがどうなどということは言わない。ただ、彼がいるだけで世界中から人を呼び寄せ、コミューンが巨大化するという呪術みたいな語りでもある。

『ブッタは創造するのではなく触発する
「彼は触発する」と言うことさえ適確ではない
彼の臨在のもとで、物事が起こる
彼の臨在のもとで、物事が触発される、さまざまなプロセスが始まる
まさに彼の臨在がひとつの炎、ひとつの火花だ
そして物事が動き出し、それが次から次へとつながってひとつの偉大な連鎖ができる

そうやって私たちはこれまで進んできた
私は、何もしないでただ自分の部屋に坐っているだけだ
そうすると、世界中から探求者たちが流れこみはじめた
私は一通の手紙すら書かない・・・・・ただの臨在だ
一人が来て、もう一人が来て、やがて連鎖ができる

いまや、ブッダフィールドが必要とされるときがきた
母体(マトリックス)が必要とされるときがきた

なぜなら、あなたは知らないが、何千人以上もの人たちが道の途上にいるからだ
彼らはすでに動きはじめた
彼らはすでにここへ来ることを考えている

そして人々の数が多ければ多いほど、ますます大きなブッダフィールドがそこにできる
そしてますますそれは強力なものになる
私たちは、かつてこの世に創造されたなかで
最大、最強のブッダフィールドのひとつを創造することができる可能性がある
なぜなら、いまだかつてこのような探求はなかったからだ
いまだかつて、人間がこのような危機の状態にあることはなかったからだ

私たちは、人類に起ころうとしている新しい何かの瀬戸際にいる
人類は死んで消えるか、あるいは跳躍、飛躍して、新しい存在が形成されるか――――

私たちは、何年か前に猿が樹から降りて
人類が始まり、新しい存在が誕生したのとまさに同じ時点にいる
再びその瞬間が迫っている
それは非常に危険な瞬間だ
なぜなら、あらゆる可能性があるからだ・・・・・


その猿は地上で生き延びられなかったかもしれないということはありえた
その猿は地上で死んでいたかもしれない
しかし少数の猿たちは危険を冒した
彼らはほかの猿たちからばかだと思われたにちがいない
ん?ほかの猿たちはずっと樹の上で暮らしてきて、まったく幸せだった

彼らは思ったにちがいない
「この連中は頭がおかしくなっている、狂っている
第一、なぜ地上で生きていこうとするのか?
なぜ自分、でむだな骨折りをつくり出すのか?
われわれの父親もその父親も、そしてその父親もみんな樹の上で暮らしてきたのだ」

再び同じ状況が起ころうとしている
人間は長いあいだ、昔ながらの暮らし方をしてきた
今世紀末までに、重大な量子的飛躍が可能だ
人間は、第三次世界大戦で死滅するか
それとも、人間は飛躍をとげて新しい人間になるか、そのいずれかだ

それが起こる前に大きなブッダフィールドが必要だ
私たちが未来を創り出すことのできるフィールドが』
(ダイヤモンド・スートラ/OSHOバグワン/めるくまーる社p562-565から引用)

この時点では、コミューンが失敗することを彼は予期はしていない。

これから20年OSHOバグワンは既に古典となった。その教訓の一つは、悟りに至るメソッドの基本は、一つの流派を押し極めていくのが基本だということで、あまりファッション冥想などの脇道にそれたりしてはいけないということだろう。

まずは、めいめいがめいめいのスタイルで坐り、悟りという体験とは言えない体験を目指す。それでも、悟った人がある一定数に達しないと、生活レベルを落とす動きも政治を正す動きも新時代モデルにはならないどろう。この一定数というのをOSHOバグワンはコミューンで達成しようとしたわけだ。


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日本のソフトランディングと金

2012-02-22 06:03:06 | 時代のおわり
◎OSHOバグワン来日せず

日本は良くなり過ぎたという自覚なく、滅亡を待って居るのかもしれないとは、禅僧嶋野栄道氏の見方であった。

OSHOバグワンは、その日本の物質的豊かさと日本人の精神の卑しさを毛嫌いして、ついに日本に来日することはなかった。このねたみ、そねみに満ち満ちた日本に。
日本の物質的豊かさは、ねたみ、そねみを増長させることはあっても、人間の本源的豊かさに向かわせることはなかったというべきだろう。東北関東大震災は、残された我々にとっては、まさにウォーニング・ランプ。

気が付けば、公務員の平均所得は民間人の倍になり、貧窮にあえぐ民間人が消費税や社会保険料引き上げに黙って耐えて、豊かな公務員の生活を支えている。これぞ役人栄えて国家滅びんとするの図である。

かつてさる覚者が、日本人は自分の給料・所得を半分にできるかどうかが、日本がソフト・ランディングできるかどうかの試金石となると言ったが、本当に試金石になろうとしている。民間人の所得は年々減少しているが、役人の所得は減っておらず、このままでは民間の3倍になる日も近いだろう。日本の将来は、まずは役人がその豊かな生活を捨てられるかどうかにかかっているということなのだろうと思う。

このまま進めば、出口王仁三郎のいう「日本人は2%しか残らない」という未来が待っているのだろう。しかし、自分の懐を痛めずに生き延びようという手合いばかりでは、最悪のシナリオは近いかもしれない。(ノストラダムスが1999年と予見していたカタストロフィーは13年目の延長に入っているし・・・・)

悟りを求める修行の場で、飽食してたっぷり寝て快適な住環境で娯楽も適当にあってというような場所はない。
日本というもともと豊かな国土を、何人の悟った人間を出せるかという実験的修行場であると考えれば、コンビニやスーパーで毎日大量の食品を捨て、ほとんどの人が毎年別のモードの衣服を買い替え、24時間快適な温度な住まいに住む生活までは必要ないのではないか。

日本を冥想修行の実験場と見れば、神は日本人は今の半分の収入で充分、生活水準も今の半分で充分とみているのではないか。

OSHOバグワンをはじめ、アセンションを説く人々は、もらう金が多かろうが少なかろうが問題にはしない。覚者であれば決してそんなことは問題にはしないものだ。だからこんな視点での未来予測はほとんど出て来ない。「金でつぶれる世の中」とは日月神示でもいうらしいが、それは何も石屋の仕組みの国際金融マフィアだけのせいではない。冥想修行に必要である以上の生活と収入を求めて飽かない巷のほとんどの日本人のせいでもあるのだ。

財産の半分を置いてけ、さもないと・・・・・と迫られていることに気が付いていない日本人たち。


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危機感の薄い日本人に求められるもの

2012-02-21 06:18:32 | 丹田禅(冥想法8)
◎どこかでどん底まで落ちるしかないのかも

嶋野栄道氏の続き。これは阪神・淡路大震災後に日本人の無覚醒を憂えた文。

『危機感の薄い日本人に求められるもの

こんなに文明が発達し、こんなに物質的に恵まれた時期がかつて世界の歴史の中であっただろうかと思うほど、現在の日本は成熟しています。

日本に帰ってきて新幹線に乗るといつも驚かされます。十五分ごと、時間どおりに発着して、しかも実に丁寧なアナウンスがあります。あまりにも丁寧すぎて、もうやめてくれと言いたくなるほどです。とにかく、きれいで、速くて、素晴らしい。私が知る限り、物質的にこれだけの文明を有する国はありません。アメリカにもヨーロッパにもない。日本だけです。

その半面、日本人はアメリカの悪い面ばかりを真似しているように見えます。自国にある素晴らしい文化的伝統を躊躇することなく捨ててしまっているように感じられてなりません。「捨てるべきもの」を間違っているのです。

先に情緒の話をしました。言葉にはできないけれど、感情が伝わってくるというのは、日本人に独特のものでした。しかし最近の人たちは、日本人でありながら、情緒というものがわからなくなっているようです。それは日本人が自国の文化の集大成である古典を読まなくなったこととも関係しているかもしれません。

私は長く日本を離れていた分、余計に日本を愛しています。それは愛国心というより祖国愛です。それだけに、この素晴らしい国がいつまで続くのだろうかと心配します。同時に、
一禅僧の目から見て、日本人の心が枯れてしまっているのが気がかりです。日本人にはそういう危機感があまりに少なすぎるように思うのです。もし日本人が今のまま目覚めないとすれば、どこかでどん底まで落ちるしかないのかもしれません。

一九九五年に阪神・淡路大震災があった時、たくさんの方がお亡くなりになりました。その時に被災者の方たちは、地震のすごさを体感されました。頭で理解したのではなく、目で見ただけでもなく、まさに身をもって感じたのです。地震に遭遇した方にお話をうかがうと、今でも大きな音を聞くと、思わず身構えてしまうそうです。

天災は避けようとして避けられるものではありませんが、一度ああいう極限状態を体験すると、それ以前とそれ以後とでは人間が変わってしまいます。それまでは何でも買い集めていた人が、一遍上人のように「捨てて捨てて」という気持ちになったという話も聞きました。

本当は、日本人自らが気づいて自分たちのあり方をあらためるのが一番なのですが、もしそれが不可能ならば、いつ何らかの力によって厳しい状況に遭遇することになるやもしれないということを肝に銘じておくべきでありましょう。そうなる前に、なんとか日本人が目覚めることを願います。』
(愛語の力/嶋野栄道/到知出版社P232-235から引用)

自分も今の日本が恵まれていることには、相当に見方が甘かったことは自戒したい。心ある日本人のみるところ、「日本は、いままでが良すぎた。それを当然・普通と思っている。」という声をしばしば聞くようになった。

そこに来て東北関東大震災があって、日本人はどんぞこまで一回落ちないとという嶋野さんの懸念が現実化しつつある。

中国人の悪いところは目につきやすいが、アメリカ人の悪いところは宣伝・マスコミ対策のせいかわかりにくくなっている。その延長線上に、つまりアメリカのカルチャー、音楽(ヒップポップ、ラップ、ロック)、映画、核家族なライフ・スタイル、ファースト・フードの受け入れは盛んである一方、日本の情緒的な映画、演歌、大家族なライフ・スタイルはどんどん捨て去られていく。

一言で言えば、アメリカン・カルチャーは愛の薄いドライなカルチャーで、日本の文化は、愛あふれる情緒的なウェット・カルチャー。日本がそれを捨てすぎれば、源流は枯れる。それでも日本がどんぞこまでいくのであれば、その落ち目の運命は、政治家や官僚だけのせいではなく、われわれ自身のせいであることに間違いない。


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仏法東漸してニューヨークに到る

2012-02-20 01:00:44 | 丹田禅(冥想法8)
◎愛語の力(嶋野栄道/到知出版社)

嶋野栄道氏も三島の龍澤寺出身。中川宋淵老師の膝下で修行を積み、昭和39年ニューヨークに渡り、文字通りの無一物からニューヨーク禅堂を開いた。文字通り異郷の菩薩である。

嶋野氏は渡米時にはまだ修行中の身であったが、山本玄峰に頭をさわってもらったり、中川宋淵に自分の遺骨を米国に埋めることを頼まれたり、相当な役回りのできる高徳の人物であることがうかがえる。実は、一宗の命運を託されるその様子は、古神道の笹目秀和氏と似たようなところがある。

歴史学者のアーノルド・トインビーが、数百年後に評価される20世紀最大のイベントは、人類月に立つでも2つの世界大戦でもなく、仏法東漸であるといったそうだが、禅が米国で芽吹くというのは、禅も亡国日本とともに滅び、やがて米国で花を開くということか。それを予期した上で中川宋淵は自分の遺骨を米国に埋めることを嶋野氏に託したのか。だとすれば、これには一種のご神業の風光がある。

仏法が東漸するとは、日本からアメリカに到ることであり、更に21世紀最大のイベントは、フロリダの先に再浮上するネオ・アトランティスに仏法が東漸することに違いない。(古神道はモンゴルへ。)

愛語の力(嶋野栄道/到知出版社)は、とても読みやすい本だが、書いている中身は凄味がある。

このブログは、おかげ様で今日で7年になりました。
ご来訪ありがとうございました。
始めた頃は見えなかったことが、少しは見えてきたような気が致します。


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この世の滅亡-ペテロの黙示録

2012-02-19 07:13:42 | キリスト者の秘蹟
◎いちじくの枝が柔らかくなる

聖書外典のペテロの黙示録に、ユダヤ民族のこの世の終わりに際して果たす役割が示されている。

私は、こんな風に読む。
文中のイスラエルの家とは地球全体のことであり、ユダヤ民族のことでもある。偽キリストはある個人であるスーパースターの到来であると見れば間違える。アクアリアン・エイジなのだから偽キリストも集団として、友人・隣人の集団として現れる。

偽キリスト・グループは、ずっと政治的・経済的・文化的に主導権を握り続けるが、最後に近くなって正体がバレ始めて人々に嫌われ始めると、一転Facebookなんかを悪用して思想・政治弾圧を開始して、多数の殉教者が出る。

いちじくの木を引っこ抜くとは、現人類を全滅させましょうということで、庭師は「それはやめて、もう少し現人類にチャンスを与えてください」と言っている。

いちじくの枝が柔らかくなるのは恐ろしいことだが、実が成るには避けられないことなのだろう。

『二

「きみたちはいちじくの木からたとえを学ぶがよい。芽が出て、枝が柔らかくなるとすぐこの世の滅亡となる。」

わたしペテロは彼に答えて言った。―――「いちじくの木のことを説明してください。どうしたらわたしたちにわかるのでしょうか。いちじくの木はたえず芽を吹き、毎年きまってその持ち主に実をもたらします。いちじくの木のたとえとはなんでしょうか。わたしたちには解しかねます」。

主はわたしに答えて言われた―――「いちじくの木はイスラエルの家のことであるということがきみにはわからないのか。それは、ある人が自分の庭にいちじくの木を植えたが実がならなかったようなものである。彼は実がなるのを永年待っていたが、収穫がないので、庭師に言った―――『このいちじくをひっこ抜いてくれ。土地を遊ばせておくこともあるまい』。

庭師は神に言った―――『僕どもが雑草を除き、その下の土くれを掘りおこし、水をやってみましょう。それで実を結ばなかったら、そのときにはその根を庭からひっこ抜き、別なものをそのかわりに植えまししょう』。
いちじくの木がイスラエルの家のことであるのがわからないのか。まことにきみたちに言うが、終わり(の日)に枝がやわらかくなったときには、偽キリストが現われて、わたしこそはこの世に到来したキリストである(と言って)期待を呼びさますであろう。

彼らは彼の行為が悪いのを見ると、転向してそのあとを追い、最初のキリストを十字架にかけて大いなる罪を犯したわれわれの父祖たちが賛美したおかたを否定するであろう。

しかしこの偽ものはキリストではない。人々から嫌われると彼は剣をもって殺し、多数の殉教者が出るであろう。そのとき、いちじくの枝、すなわちイスラエルの家はやわらかくなり、彼の手にかかって殉教する者が現われ多数の者が殉教者となって死ぬであろう。

エノクとエリヤが、この者はこの世へやって来て奇蹟や不思議を行なって(人々を)惑わすことになっている誘惑者であることを彼らに教えるために遣わされたのである。
彼の手にかかって死んだ者たちが殉教者となって、その命をもって神に悦ばれる者となったすぐれた、義(ただ)しい殉教者たちの仲間入りをするのはこのためである」。』
(聖書外典偽典別巻補遺2P216-217から引用)


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中川球童-3

2012-02-18 06:11:35 | 丹田禅(冥想法8)
◎最近離婚した人々

この中川球童の体験とはいえない体験を書いたローレンス・シャインバーグが、禅の修行に向かうアメリカ人の誘因を見ている。

『初夏のすばらしい天気の日で、道路も空いている。ものの数分でパークウェイに乗り、コネチカットを目指している。バスに乗っているのは三〇人で、修道院でさらに一五人加わることになっている。

今回はこれまで僕が体験してきた禅のグループよりやや年上の保守層に属する人々だ。大学の教師、心理療法士、芸術家、作家―全員が白人で、たいていの人がこのように今週一杯休みが取れる種類の職業に就いている。禅などスピリチュアルな修行の制約は、少なくともバカンスをあきらめなければ七日間仕事を休める人はほとんどいないことだ。

そしてそのバカンスを壁をにらんで過ごしたい人はもっと少ない。家族の存在もまた制約要素なので、弟子の大半は独身、死別あるいは離婚者で、夫婦者はたいてい子どもがいないか、子どもがすでに独立した人々だ。修行をしたくなる二大誘因は孤独と精神的絶望だから、禅その他のスピリチュアルセンターに来る人々のなかで大きな割合を占めるのは、最近離婚した人々である。』
(矛盾だらけの禅/ローレンス・シャインバーグ/清流出版P280から引用)

誘因は孤独絶望。その生きる環境は、独身、死別あるいは離婚者か、子供に手がかからない人々。特に最近離婚した人々が多いそうだ。離婚率3割の時代なので、同僚や友人に最近離婚した人々がいなかったわけではないが、誰にでも話せる内容でもないので、じっくり話を聞くチャンスもなかったが、実際最近離婚した人の心理状況は相当に「不条理」に直面しているのだろうか。

そういえば、最愛の女房に留守中に浮気されたところに出くわして出家するというプロットもあった。

さてこうした世間的に「いろいろ」ある中で、中川球童のやりくちはこうだ。
ある男が突然球童に電話相談してきた。
『「あなたは老師ですか?」
「そうです」
「お話したいんです。自殺したいと思っているんです」
「それはいい!」老師は言った。「すぐにしなさい。迷わずに」』
(矛盾だらけの禅/ローレンス・シャインバーグ/清流出版P49-50から引用)

中川球童は、イスラエルのアラブ人居住区(ガザ地区のことか)で13年布教したり、三島の龍澤寺の住職までされたという。


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中川球童-2

2012-02-17 05:58:03 | 丹田禅(冥想法8)
◎大悟一番

球童は、海軍の後は駒澤大学に入った。ここを6年かかって卒業し、曹洞宗の永平寺で3年間過ごし(宗派のクロスオーバー)、大阪近郊の小さな寺で住み込み僧侶となった。ところが、この寺には娘がいて、1年半いたが、この娘との結婚に興味を示さない球童に業を煮やした住職に追い出された。

今度は三島の龍澤寺(臨済宗)に入った。当時の住職は中川宋淵。
『彼の孤独は、少し年上で似た境遇の鈴木宗忠と藤森弘禅という二人の僧によって慰められた。やがて三人とも老師になる。だが、当時、宗忠と弘禅はそれぞれ五年と四年すでに龍澤寺にいたので、球童は後輩になり、二人にからかわれることがよくあった。二人とも宋淵と同様に、この小柄でケロケロよく笑う、禅にとくに引かれてもいない男が、なぜ迷うことなく僧堂の厳しい暮らしに耐えていこうとするのか理解しかねた。

禅の探求は燃えるような志があればたやすいと言われる。だが、雪の降る一月、窓が開け放たれて暖房のない禅堂で歯がガチガチいい、手足は冷たさに感覚がなくなるとき、どんな論理を用いて、球童は肉体的苦痛を超越するのか?

球童の仕事の一つは、宋淵の師で前の住職山本玄峰の介護をすることだった。九十五歳で、関節炎と動脈硬化症を患っている玄峰は、宋淵よりもさらに敬愛されていた。玄峰は立つのも歩くのも、ときには食べるのにも助けが必要だったが、自室で一人で、あるいは禅堂で坐禅を続けていた。実際球童が介護するようになってからすぐ、玄峰は一週間にわたる一人での摂心を開始した。

一日十二時間坐り、食事も坐蒲の上でとり、結跏趺坐のまま寝る。坐蒲に坐るとき、玄峰の顔が苦痛にゆがんだのを球童は決して忘れなかった。骨と皮のように細い関節炎の両脚をそれぞれ反対側の太腿に載せるとき、「息子は親父の言うことを聞くものだぞ!」と反抗的な子どもを叱るようにどなった。球童は禅について何も知らなかったかもしれないが、玄峰が望むものを自分も望んでいることはわかった。
さらに玄蜂と同じくらい強く望みたいと思った。

しかしこのような望みが達成されるまでに三年の時が流れた。とくに新たな事実がわかったわけではなく、精神的転換点を示すようなできごとも見つからず、何年もの報われない修行ですべての希望も期待も萎えていっていた。

ある晩、坐蒲に坐っていた球童は、ただ自分が誰であるかに気づいたのだ。この変化によって、彼の人生のすべてが変わった。彼を知っている人はみな、その変化に気づいた。

三十年後、球童はこのことをある晩、グリニッチビレッジの日本食レストランで酒を飲みながら、僕に話してくれた。
「何年もの間私、木の枝見ていた。今根っこが見えるようになった。根っこは変わらない」

老師になってから、球童は他の人々に木の根を見せるために全力を注いできた。無知と固定観念のせいで見えなくなっていたのだと彼はよく僕たちに言った。観念、イメージ、思考、感覚はすべて木の枝だ。枝は変わるがは変わらない。根は枝が張る前から存在していたし、枝がなくなっても存在する。』
(矛盾だらけの禅/ローレンス・シャインバーグ/清流出版P210-211から引用)

この転換は、表面的には劇的ではなかったが、間違いなく起こったのだろう。この転換をわかりやすく論理的に説明してくれと言われても、説明なんかできないから、皆苦労している。

「寒い禅堂の修行をド根性で我慢できたらいつのまにか開けた?」そんな平板なことではあるまい。志、願望その深さ、練れ方を総合したものが精神の成熟度、魂の成熟度というのだろうが、それこそ一朝一夕では出来上がらないから、一日一日の過ごし方が問題であるというのはよくわかる。


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中川球童-1

2012-02-16 06:09:07 | 丹田禅(冥想法8)
◎バラモンお坊さんの中の白眉

勝本華蓮氏は、お寺生まれの僧侶をバラモンと呼んだがバラモンの中にちゃんとした人はいる。それが臨済禅の中川球童老師。彼の略歴らしきものが、『矛盾だらけの禅/ローレンス・シャインバーグ/清流出版に出ている。』

ローレンス・シャインバーグは、ニューヨークで活躍するユダヤ人(敬虔なユダヤ教徒の子供)で、今存命なら60代だろうか。中川球童老師は、三島龍澤寺から当時臨済宗で20名くらいしかいない老師の一人からニューヨークに派遣され、シャインバーグの師となったらしい。シャインバーグは、冥想に充てている時間はかなり長くそれなりに坐れているが、小悟もまだみたいな感じである。

さて中川球童老師は、1926年兵庫県市島の法楽寺に生まれ、父も叔父も祖父も僧侶だったが、彼が12歳の時に父が亡くなった。臨済宗本部は、なんと代わりの僧侶を送り込んできた。2年後に母も亡くなり、球童と姉は祖父母のもとに送られた。この辺で球童は充分に不条理を味わう。

球童は、高校を出ると18歳で海軍に入った。広島に原爆が落とされた時に、40キロ離れたところで露営しており、一緒に寝ていた戦友に起こされてキノコ雲を見たが、寝ぼけ眼でちらっとながめたあとまた寝てしまった。

既に数奇な前半生だが、やがて彼は、かの山本玄峰の侍者になる。
(続)


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寺を出て出家する

2012-02-15 06:05:40 | 冥想アヴァンギャルド
◎お寺生まれの僧侶はバラモン階級

昔は、在家の者が寺に出家したが、今は寺を出て出家する。

『ある会合で、在家から入った若い僧侶がみんなの前でこう明言した。「僕は、お寺に生まれたもんが正直言って、うらやましいよ。僕らは、修行が終わっても、継ぐお寺がないし、お寺でサラリーマンするしかないんだから」と。そんな気持ちはきっとお寺生まれのエリートお坊さんたちにはビンとこないであろう。

例えば、叡山で、千日回峰行とか、一二年籠山行とか烈しい修行をするのは、ほとんど在家出身である。在家から発心して入ったからそれだけ道心堅固なのだという見方もできるが、それだけではないと私はみている。結局、在家から入った者はそのぐらいのことをやらないと、自分のポジションを得られない。何かで抜きん出なくては自分の存在価値を示せない。活躍の場がないのである。

そんな事情をよく知らないある女性が、お寺生まれの若い僧侶に、「あなたも将来、回峰行とかするの」と聞いたらしい。すると「僕らお寺に生まれたから、あんなことする必要ない」と答えたそうだ。やっぱり、である。もう世襲化の進んだお寺生まれの僧侶はバラモンさまなのである。

こんなバラモンお坊さんたちのなかにも、社会でやっていける人、別に仕事をもっているお坊さん〈たいてい、父親が健在なうちは若い僧侶は他に仕事をもっているが〉は、お寺を継ぎたくないと思っている人もけっこう多い。しかしお寺を捨てることはしない。いや家族のしがらみがあるからできない。お寺から出家したいお坊さんはいっぱいいるのであるが。

家長制度が崩壊し、檀家制度がないにも関わらず、なんとなく「家の宗派」というものは存在しているが、これからはおそらく個人の信仰になっていくであろう。経済不況で倒産する企業が続出するなか、お寺だけ安泰というわけにはいくまい。お寺の世界にもM&A(合併と買収)が進めば面内いのだが。

お寺を継ぎたくない人は出て行く、在家から入った意欲のある人がやる、という風にならないものだろうか。たぶんみんなにとってそのほうが幸せであろう。』
(座標軸としての仏教学/勝本華蓮/佼成出版社P286-287から引用)

出家とは、本来、家は捨てる、仕事は捨てる、財産は捨てる、家族のしがらみは捨てる、世俗の欲望は捨てる、異性への関心も捨てる、過去の思い出も捨てる、あらゆるものを捨てて初めて成るものだ。カルロス・カスタネダがすべてを捨てさせられたように。

捨てた先に僧苑・サンガがあるはずだったが、いまやそこは特権階級の僧侶様たちが跋扈している場所であって、すべてを捨て去った人たちばかりが修行に邁進するからりと晴れ渡ったすがすがしい修行場ではないらしい。生活・稼ぎの場であって、修行場ではないわけだ。

この状態を以って、明治初めの僧の妻帯許可、廃仏毀釈政策は、充分に仏教を内から破壊するという成果を上げたと言えるだろう。(プロテスタントも妻帯するらしいから、プロテスタントの状況はどうなんだろうか)

仏教寺院が修行場として適当でないとすれば、真剣に取り組もうとする人であればあるほど個人で修行せざるをえないという見方はそのとおりだと思う。

今日もそんなことは気にせず坐る。


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