アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

曹洞宗と只管打坐

2012-01-31 05:42:05 | 只管打坐
◎賭ける仏教=南直哉

南直哉氏は、曹洞宗の坊さんで、永平寺でも新進気鋭の坊さんとご近所で噂になっていた人。かと思えば、オウム事件で世の中がざわついていたとき、同教団幹部の新実智光に顔がよく似ていて、あらぬ誤解もされたらしい。

彼の著書「賭ける仏教」で、宗門内での身心脱落の扱いの一端は示されているが、同じ曹洞宗のブロガーつらつら日暮らしさんから受けた身心脱落の扱いについての印象が間違いないものであったことを確認させてもらった。

でも、あらためて「只管打坐の宗家としてそれでいいの?」とは思う。

『曹洞宗と比較すれば、臨済のわかりやすさがもっとはっきりする。曹洞宗の場合、「身心脱落」といっても、「何を脱落するんだ」と問いかえされると、こちらが口ごもってしまったりする。「只管打坐」と言っても「寝ているのではなぜいけないのか」と問われると答えられない。

あるいは、私がアメリカやヨーロッパの人と一緒に摂心や安居を行うとき、一番困るのは
「嗣法」の問題だ。「嗣法」とはすなわち「師匠から弟子に法が伝わる」ことなんだが、海外ではちょうど臨済宗の「印可証明」と同じ、つまり曹洞宗における「悟りの証明」と受けとられやすい。

しかも彼らは簡単には納得しない。
「曹洞宗の嗣法はどのタイミングでするのか」
と訊いてくる。さらには、
「どの時点で師匠から弟子に法が伝わったのか?それは身心脱落のことか?
それが身心脱落であることを、どうやって師匠と弟子のふたりで了解するのか?」
と、どんどん理屈で詰めてくる。ところが曹洞宗は、こういうことを論理化して人に喋る訓練を何もしていないから、ことばに詰まることになる。』
(賭ける仏教/南直哉/春秋社P166-167から引用)

だからと言って、臨済宗のほうが優れているかといえば、これはまた別の問題であって、そう単純な図式ではない。

また宗派という宗教組織である以上、他宗派であるクリシュナムルティの境地が身心脱落での境地であったとしても、立場上おいそれとそうだと是認するわけにはいかないだろうし、まして、チベット密教のティローパの「ツィチルチサンギャイ」や、錬金術師フルカネリの短く簡単な「乾いた道」が只管打坐であるとお墨付きを呉れることもないだろう。

そうした混乱の中で、今日も只管打坐する。



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アストラル・トリップ後の肉体

2012-01-30 07:51:08 | 超能力・霊能力
◎肉体の睡眠状態

出口王仁三郎の死のトリップ後の肉体に引き続いては、最近流行しているアストラル・トリップ後の肉体について。

死後の肉体は非常に痛みやすいものだ。それでは、3種ある体外離脱のうちアストラル・トリップ(OBE)後の肉体について、アストラル・トリップを発生させる準備から見てみる。

『食事-ヘビーな食べ物、たとえば肉、香辛料を使ったもの、脂っこいものは避けよ。

信じること-遊体離脱経験は良いものだという信念システムを自分の中に刷り込め。場所の感覚を消し去ろう。

場所-電機製品のない、きちんと整頓された場所を見つけよ。自分は安全だと思える場所であることも重要。

ポジション-仰向けになる人が多い。ヨガの心得がある人は蓮華坐あるいは半蓮華坐がお勧め。まわりで何かが動いてもそれに邪魔されないよう、四方のスペースを十分に取ること。

目的-ゴールを明確に。あなたはどこへ行きたいのか。だめ、地元の高校のロッカールームはいけません。歓迎されるような所にすべき。おもしろいことに、OBE前に、目的地への道筋をおさえておくとうまくいく場合が多い。これは自分の死の体験をデザインすることに関しても重要な示唆を含んでいるのではないか。

リラックスした状態ヘ漂う-身体のある部分一カ所に自分の意識を集中させる。しばらくそれを続けたらその部分を意識から消す。呼吸は深く、規則正しく。体を眠りに「落とし」ながら精神は鋭敏なままに。自分の松果体腺または「第三の目」にエネルギーを集中させること。

言語を司る部分を沈黙させよ-自分の呼吸に耳を澄ませばこれができる(意識の高い状態から言葉のゲームを切り離す練習法はいくつかある。たとえば言葉で言い表す「言葉を聞く」ことなしに読んだり、タイプをしたり、踊ったり。武術や武道もここに加えられるだろう)。

自分にまつわる諸概念をなるべく多く置き去りにせよ-大学の学位、人種的プライド、セックスをめぐる達成、政治的な悩み、最近の自分の人気など。とにかく荷物は少なくする。

たったこれだけのことだ。OBEの準備さえ整えれば、あとはここからそこへ移動するだけ。
もちろんそれが必ずしも実現するとは限らない。だが、もし実現したらこんな具合になるだろう。』
(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社p215-217から引用)

こういう環境ができあがるとアストラル・トリップが始まるわけだが、死のプロセスでは、呼吸停止、心拍停止が起こるのに対し、ここでは、意識は清明ながら肉体の睡眠状態が期待されている。肉体の睡眠では、呼吸停止も心拍停止も関係ない。

この辺が、正統的なクンダリーニ・ヨーギ(death tripper)が、アストラル・トリップをして児戯にも等しいと酷評する所以の一つなのだろう。頭頂から出て死の世界に入るというのは、アストラル・トリッパーの想像だにできない地平の彼方にあるのだ。

それにしても出口王仁三郎は、6度死なないと徹底できなかったのだろうか。また高野山の覚鑁も虚空蔵求聞持法に何度もトライしたというのは、本当に虚空蔵求聞持法だったのだろうか。


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その瞬間のための準備にすぎない冥想

2012-01-29 07:55:26 | クンダリーニ・ヨーガ
◎いつ起こるのかを気にしない

冥想には2種類ある。
そのものズバリの冥想と、準備段階の冥想である。そのものズバリの冥想とは、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガであり、準備段階の冥想とは、それ以外の冥想のことであって、ファッション冥想、気功、ハタ・ヨーガ、念仏、お題目などがそれである。

OSHOバグワンもそれを指摘している。
彼の言い回しでは、準備段階の瞑想とは、「その瞬間のための準備にすぎない」瞑想のことで、そのものズバリの瞑想とは、「本物の瞑想」のことである。

また以下の文章は、「転生がある」「時間がかかる」などと言っているので、クンダリーニ・ヨーガ型の漸進的修行を念頭に置いて語っている。であれば、くれぐれも霊がかりに騙されないように。OSHOバグワンは、本物の聖者らしくクンダリーニ・ヨーガを語りながら、霊がかりに引っかかるようなそぶりは見せない。

そしてクンダリーニ・ヨーガを標榜するからには、近道はないと語らざるを得ない。


『「探求はすべて役に立たない。
探求は、心の副産物だ
無探求の状態であることこそ
変性の大いなる瞬間だ」

≪近道はない≫

瞑想について、憶えておかねばならないことが一つある
それは長い旅であって、近道はないということだ
誰であれ近道があるという人は、あなたを騙している
それは長い旅だ

なぜなら、変化はきわめて深く
また、幾多の生をへて成し遂げられたものだからだ
型にはまった習慣や思考や欲望による幾多の生
そして、その心の構造

それこそ、あなたが瞑想を通して落とさなければならないものだ
実際、それはほとんど不可能だ
が、それは起こる

人が瞑想者となるのは、この世で最も偉大な“責任”だ
それは容易なことではない
それはインスタントではあり得ない
だから、最初からけっしてあまり多くを期待しはじめてはならない
そうすれば、あなたはけっして欲求不満になることはない
物事はゆっくり成長するだろうから、 いつでもあなたはハッピーだ

瞑想は、そこに6週間しか咲かない季節咲きの花ではない
それはとてもとても大きな樹だ
それは根をはるために時を必要とする

瞑想が花咲くとき
それに注目する人は誰ひとりいない
それを認知する人は誰ひとりいない
「はい、これが起こったのです」という人は誰もいない
「はい、それが起こったのです」とあなたが言ったとたんに、それは失われている

そこに本当に瞑想があるとき
静寂が浸みわたる
いかなる音もなく、至福が脈打つ
いかなる境界もなく、ハーモニーがある
だが、それに注目する人は誰もいない


「ここで私たちが行っている瞑想法は
すべて、その瞬間のための準備にすぎない
それらは本物の瞑想ではなく、ただの準備にすぎない
それによってある日
あなたは何ひとつ為すことなく
何ひとつ欲望することなく
ただ坐っていることができる」

(オレンジ・ブック/OSHOバグワン/めるくまーる社P232-233から引用)



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気への感性、霊への感性

2012-01-28 08:06:02 | 超能力・霊能力

◎水とコップ、邪気と神気

大本教で鎮魂帰神に邁進していた若き谷口雅春が、霊能の得方には2種あるとする。

彼は肉体をコップとし、霊を水とする。水(霊)の分量がコップ(肉体)より過剰となれば、水が外に流れ出すから霊能力が発現する。また逆に水(霊)の量が変わらなくてコップ(肉体)の大きさが小さくなれば、水は外に流れ出す場合も霊能力の発現。

これは神懸、憑依等の話なのでアストラル体以上の説明ではあるが、霊の方が充実し過ぎて溢れ出すようになった出口ナオのようなケースが前者であり、肉体が衰弱してコップの容量が小さくなったので霊が外に発現するのが後者。後者は、よく内臓が弱いと霊能力があることがあると言われる巷説を裏付ける。
(参考:雑誌神霊界93号(大正8年9月)の大本霊学座話)

さて整体の野口晴哉の愉気は、気を送るということであり、エーテル体レベルの話と思われるが、若干の気に対する感受性を必要とする。

気を送るには、送り手の気が横溢充満していなければならないが、野口晴哉ですら重病人に愉気した後はげっそりしていたというので、自分の気を患者に送るという気の流れであり、この技を続けるためには自分の気を毎日充実させねばならないことになる。

どのように気を充実させるかということについては、道家では気功、行気導引(呼吸法)、俯仰屈伸(ストレッチ)、草木服食(食餌)などが伝統的テクニックであるが、その中に毎日やる「気の急速充電」みたいな技はまずないのではないか。気の充実というのは、自分の気だけでも本来何年もかかるものなのではないのか。野口晴哉が65歳とわりと若くして逝ったことも、その生業と関係あったのかなかったのか。

更に野口晴哉は、送る気の質についてはほとんど言及がないが、本来気には邪気と神気があるものではないだろうか。気は、それ自体は善でも悪でもない中性と断言しきれるものなのだろうか。

悟ってない人の想念は、おおむね悪であり、まれに善なこともあるという程度なので、こうした概ね悪な人の気と覚者の気では、自ずとその効果に差が出るものではないのか。

野口晴哉は、金を受け取って職業として愉気をやっていたので、こうした側面に言及する機会が多くなかったのかもしれないと思った。スピリチュアルで、金を受け取ることは恐るべし。



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ユダヤ教エッセネ派の観想-2

2012-01-27 06:15:55 | キリスト者の秘蹟
◎神の徳と力の麗しさのみ想う

ユダヤ教エッセネ派もクンダリーニ・ヨーガ系だから、入門の後は観想の方法。

『各住居ごとに、聖室(セムネイオン)ないし隠者の庵(モナステーリオン)と呼ばれる聖所がついており、その中で、彼らは孤独の内に聖なる(セムノス)生活の秘義を完成するのである。

彼らは、住居内には、飲み物も、食べ物も、その他、肉体の維持にどうしても必要な物すら持ち込まず、法(トーラー)、預言者の予言のことば、詩篇、その他、知識と敬虔を増し加え完成させるもののみを持ち込んでいる。

彼らは、神のことを常に心に思い続けており、夢の中にも神の徳と力の麗しさ以外のものは現れないほどである。実際、夢を見て寝言の中で、聖なる哲学の栄えある教説をつぶやく者も多い。

彼らは、一日に二度、日の出と日没の時に、祈るのを常としている。太陽が昇る時には、よい一日を――――彼らの知性(ディアノイア) が天来の光で満たされるような、真の意味におけるよい一日を――――願い求め、太陽が沈む時には、魂が、混乱に満ちた感覚と感覚の対象から完全に解放されて、魂の会議場ないし議事堂に引きこもり、真理を探求できるように、願い求めるのである。

早朝から夕方までの時間を、彼らはもっぱら訓練に費やす。聖書を読みつつ、寓意的な方法により、父祖伝来の哲学を学ぶのである。〔寓意的な方法〕と言うのも、(聖書の中で)語られていることばは、(背後にある)隠れた真の意味の符丁(シュンボラ)であって、真の意味は背後にあるものに目をとめることによって初めて明らかにされる、と考えているのである。

彼らの許には、その派を創設した古えの人々の書き残したものも残っており、それらは、寓意的解釈の具体的な型について、多くの記憶を残している。彼らはそれらを範型のごとくに用いつつ、それらの古人の選んだやり方をまねるのである。

その結果彼らは観想にふけっているばかりでなく、さまざまな韻律や旋律をとおして神に捧げる賛歌や詩篇を作り、それらに、その内容にふさわしい厳かなリズムをつけるのである。

さて六日の間、彼らは一人一人離れ離れになって、前述の隠者の庵の中に籠り、庵の玄関をまたぐことも、遠く(の仲間)を見ることもせず、哲学に没頭する。』
(観想的生活・自由論/アレクサンドリアのフィロン/教文館P12-13から引用))

七日目になると、彼らは庵を出て長老の講話セッションに出かける。

このように隠者の庵にただ独り籠って、日常生活をすべてうっちゃって、断食しつつ、ただ神の徳と力の麗しさのみ想う生活を6日間続ける。

キリスト教の修道院みたいに作務、労働の時間がないので、この点ではより徹底していると言える。いずれにしてもこのような神のことだけを想い祈る生活を何か月か繰り返せば、遠からず神を見るという体験は起きるものだと思う。

われわれにとってのキーワードは、日常生活を捨離できるかどうかと、ネット、テレビ、スマホ、ケータイなどのあらゆる雑音から隔離された孤独な環境を作れるかどうかという2点ではないだろうか。

ユダヤ教エッセネ派もこうした環境を必要としているからには、それに参加しようとする人が、あらゆる世俗の欲望を捨てることを、基本要件としている。それは当然だが、現代人のライフスタイルから遠く隔たった生活様式であるところが、現代人のさとりへの距離が遠いということでもある。

こういう修行からイエスが出てきたのだ。



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グラウコス=向精神性薬物による転移

2012-01-26 06:07:15 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎海神になったが悟ったわけではない

古代ギリシアのグラウコスは、草原の草を食べたら海神に変身した人物。それをオウィディウスは、変身と分類するが、転生とか、意識の転移という表現のほうが的を得ているように思う。

『どこかの神がそれをしたのだろうか。それとも
草の汁のしわざだろうか。それにしても、どんな草に
これほどの力があるのだろう。

私は草を何本か摘むと、
それを噛んでみた。私の知らない液汁が、
喉を通っていく。

と、突然、
心の琴線が震えるのを感じた。私の魂は
別世界に憧れて、消え入りそうになった。

もう待つことはできない。「さようなら」と叫んだ。「さようなら、
この大地はもはやけっして私の故郷ではない」というと、
私は海の中ヘ飛び込んだ(オウィディウス 変身物語)。』
(麻薬の文化史/D.C.A.ヒルマン/青土社P165から引用)

これは、帰って来なかった。
ただ起きた出来事は、中国の故事にある呂洞賓の邯鄲の夢のような、完全な別人生を短時日にして最後まで体験するエピソードの一種であって、元の人格にまだ戻っていないものであると見ることができる。

荘周胡蝶の夢では、蝶が自分か自分が蝶かと惑うが、それは実は問題ではないことを示している。

果たしてグラウコスは、人間に戻ることについて何の未練もないように感じられる。魂が乗り物であるボディを替えるというのは、クンダリーニ・ヨーガの秘儀というよりも死をきっかけに人間には必ず起こる日常茶飯事なのかもしれないと思った。

このシーンでは、きっかけが、たまたま草原の草であったことをあまり重要なものと見るべきではないと思う。きっかけよりも意識の変容の質である。グラウコスは海神となったが、悟ったわけではないのだ。



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死を経験した肉体

2012-01-25 05:43:42 | 古神道の手振り
◎出口王仁三郎の高熊山修業後の体調

出口王仁三郎ファンなら、霊界物語の最初の方に出てくる、出口王仁三郎が高熊山の洞窟で飲まず食わずの修行をするところまでは、大体読んだことがあるに違いない。
これは断食断水を伴った一週間のクンダリーニ・ヨーガ的冥想修行であって、六度あった死のうちの彼の最初の死はこれであったに違いない。

ここではその後の体調に注目する。
(喜三郎=出口王仁三郎)
『高熊山で霊的に覚醒し、山から下りてきた喜三郎は、しかしすぐにひどい病気になり、動くことも話すことも、目を開けることすらできなくなってしまう。家族は基本的に妙霊教の信者ではあったが、喜三郎のために様々な宗教の癒し手に頼った。ある除霊師は喜三郎の頭の回りで騒々しく拍子木を打ち鳴らしたし、ある僧侶は、日蓮系の宗派に共通する「南無妙法蓮華経」という題目を唱えながら、喜三郎の頭や尻や手足を数珠で叩いた。太鼓を叩きながら喜三郎のまわりをぐるぐると回るものもいた。家族は喜三郎に狐か狸が憑いたと考え、その霊を追い出すためにとうがらしや松葉を喜三郎の鼻の下で焚いた。そして、母親の涙が喜三郎の身体に落ちたときから、急速に回復したと王仁三郎は書いている。

高熊山での体験を経た王仁三郎は、世俗の仕事を捨て、霊の神秘を解き明かすことに人生を捧げる決意をする。瞑想を行い、見つけられる限りの霊能力者に教えを請うた。』
(出口王仁三郎帝国の時代のカリスマ/ナンシー・K・ストーカー/原書房P51-52から引用)

死から奇跡的に回復したと言っても、なかなか本復するものではないだろう。よく心停止から○分たつと脳細胞の何割が死滅して云々といわれるように、肉体は壊滅的な打撃を受けるものだから、よくぞこのような状態から回復したものだと思う。
この部分が、腕の確かなグルなしでのクンダリーニ・ヨーガは危険極まりないと言われる部分。しかしながら、真正のグルはこの痛んだ肉体のケアも間違いなくできるものだと思う。チベット密教のポワでも、死後の肉体の回復という課題については全く同じことなのだろうと思う。

出口王仁三郎は肉体を持たないグルにこの時出会っている。
出口王仁三郎は、高熊山で、洋服姿の天教山の皇大神の神使松岡と出会っていた(霊界物語19巻)

天教山(富士山)の皇大神といえば、国祖野立彦神、野立姫神が、火口に身を投げたことで知られるが、この二神の神使が、松岡であろう。
二神がその火口に身を投ずる様は、生道人(なまどうじん)の想像できるようなものではない。「神格偉大にして、神徳無辺なる淤能碁呂島(オノゴロ島)の御本体ともいふべき野立彦神、野立姫神においては、我が身の一端ともいふべき天教山の烈火の中に投じ給ふは、易々たるの業なるべし。」(霊界物語第六巻)



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本守護神を本来の自己として奉斎する

2012-01-24 05:54:08 | 古神道の手振り
◎自分を拝む


真言密教の灌頂の儀式では、曼荼羅の前で花を投げ、落ちた尊格を守護尊とする。これは正守護神ではなくテンポラリーなサポート尊格ですね。

さて大本教では、本来の自己である本守護神を本尊として奉斎する。具体的には本来の自己である本守護神を教主様が鏡や石に鎮魂して降ろし、これを奉斎するものだという。

大本では、個人は祖神の分霊という霊がかり的な説明をするのだが、それはさておき肉体の外側にわざわざ本来の自己を設けて奉斎する狙いは何だろうか。

やはり、クンダリーニ・ヨーガの一種であるから、最後は肉体の外に出るという意図を持った信仰のあり方なのではないか。

出口王仁三郎は、大正時代の雑誌神霊界において、守護神奉斎の理由について何度も掲載しているので、これはよほど重要だったと見える。その説明は、まずは幽斎(ニルヴァーナ、天御中主神=大神を奉斎)があって、そして本守護神を奉斎する二段構え。大神と本守護神を敬祭して、他人を力とせず、惟神の日本魂に立ち返れば、何ごとも成就しないことはないとまでも説明している。

例示として古事記で大国主神がその本守護神の一部(奇魂、幸魂)を少彦名神として外国に派遣していた(イエス・キリストとして活躍)ところ、国家運営がうまくいかなかったが、少彦名神を日本に呼び戻したところ、大国主神の国家運営が順調に運んだことを挙げる。

これは、本守護神の一部が通常離遊していることをいうのだろうが、それがいわゆる神知らぬ者(悟っていない人)の本守護神の有様ということなのだろうと思う。





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本守護神と正守護神

2012-01-23 08:22:12 | 古神道の手振り
◎自己の真心を発揮して活用せしむる

出口王仁三郎の神秘生理学では、守護神には正守護神と副守護神の他に本守護神というのがある。副守護神については、いろいろと調べてみたので再説はしない。

雑誌神霊界の大正8年9月15日版94号の「まさはる」の署名入り記事皇道大本雑話がある。まさはるとは、生長の家の谷口雅春のことだろう。彼の皇道大本雑話によると、

1.本守護神
・我々の天賦の霊
・全身に瀰漫して血液を機関として活動している(エーテル体のことと思われるが、霊界でのボディを有すともいうので、アストラル体の場合も指す。)
・胎児にも霊=本守護神があり、死産・堕胎した胎児の本守護神が霊媒に憑依することもある。 

2.正守護神
  ・我々には正守護神が一体づつ付いている。それは、我々が出産の時に産土神から正守護神が一柱附せられるもので、これを大本では数千人の帰神実験で実地に確認した。
  ・キリスト教では正守護神を守護天使の名にならって呼ぶ。
  ・北欧では正守護神は、背後に影のようにつきそってその人を守護するという。 

正守護神とは、本守護神を輔弼するところの善良な神霊。このブログでいう高級神霊のことで、マンツーマンでつくタイプのを言うのだろう。マンツーマンでない随時サポートの高級神霊もあると思う。

狸、狐、天狗などの動物霊は、後天的に人間がその後堕落して動物的欲望の奴隷となったときに入り来る。これは副守護神。

『自己の真心を発揮して、活用せしむるを帰神と日ふ。帰神は他神の憑依したものでない。他神の憑依したのを神懸又は神憑と云ふのである。』(雑誌神霊界91号 5巻 P.232)

つまり帰神とは本守護神が十全に発揮されているのをいうのであって、大本で自分の本守護神を奉斎させるのは、この帰神を狙いとしているのだと思う。大本教では、幽斎(大神の奉斎)に加え、本守護神を奉斎させる。(自分自身の霊を奉斎させる)

帰神とは十牛図でいう騎牛帰家ぐらいに相当するように思う。

毎日の生活の中で、モバゲー、ネット、テレビ、政府広報などあらゆる情報操作、観念操作によって、副守護神を劣化させるように誘導されている現代の生活で、副守護神を表面化させて浄化する手法は大正10年頃までにその限界は既に見切られた。

今はそれぞれの人が、それぞれの手法で本守護神を確かめつつ進むしかあるまい。

正守護神頼みってどうなんだろう。正守護神を当てにするメジャー宗教は、かつてなかったのだけど。



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変身のいろいろ

2012-01-22 06:56:51 | 究極というものの可能性
◎単なる転生と神人合一

神人合一とは、あるタイプの変身として伝承される。しかし、単に変身譚として出てきた場合、人間の眼からみた場合、一律に変身の一種として分類されるのだが、その実体は、神人合一から単なる転生までいろいろなケースに分かれる。

ギリシア変身物語集メタモルフォーシス(アントニーヌス・リベラーリス/講談社文芸文庫)によれば、古代ギリシアでは人は神々の力によって、その魂が鳥に変身したり、蛙に変身したり、男が女に変身したり、女が男に変身したり、人が石や樹木に変身したりする。

人の魂が鳥に変身するのは、チベットのど青鳥の物語や日本武尊が白鳥に変身した件のようにわりとあって、定番である。人は地球の転生から他の天体への転生として渡るのも鳥として見る。

蛙のような動物に変身するのも、仏教的な世界観では畜生レベルが輪廻転生に組み込まれており、洋の東西を問わない。

男が女に変身したり、女が男に変身したりするのは、個生命の輪廻転生キャリアでは、よくあることなのだろうと思う。

人が石や樹木に変身するのは、これは文字通りではなく、カルロス・カスタネダのシリーズで時々出てくるが、カスタネダは時空の狭間みたいな場所に取り込まれて出れなくなった人たちを目撃するのだが、そうした人たちのことを石や樹木に変身したと表現したものでないかと思う。

そうした何でもありの変身の中で、ギリシア神話では、一部に不死なるものとなり永遠の世界に挙げられ星座となった変身がある(上掲書第36話パンダレオス:レアーがクロノスを恐れてゼウスをクレータ島の洞窟に隠した時、ゼウスに乳を上げた雌山羊が星座となった)。こうしたものだけが、輪廻転生から解脱したものである。

ただこの内容のままでは、神人合一を啓示せしめるエピソードとしてはインパクトがいまひとつである。



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ナルキッソス

2012-01-21 06:40:40 | 丹田禅(冥想法8)
◎鏡の冥想

鏡の冥想というのがある。自分の前に鏡を置いて、自分の姿を見ながら坐るというものだ。
自分では、そこはかとなく恐ろしげで、これを試したことはない。

ニンフのエーコーは、ナルキッソスへの求愛をすげなく断られて、恨みに思っていた。
『テスピアイのドナコンで、たまたま彼は銀のように透きとおった泉を見つけた。家畜にも小鳥にも野獣にもひっかきまわされたことがなく、その上に蔭をつくっている木々の枝さえも水の面をみださない静かな泉であった。

狩に疲れきった彼が、渇をいやそうと草ぶかい水際から身をのりだしたとたんに、ナルキッソスは水鏡にうつる自分の姿をひと目みて、これを恋いこがれるようになった。はじめ彼は自分の眼のまえにいる美しい少年を抱いて口づけしようとした。しかしまもなくそれが自分の姿だとさとると、すっかりそれに魅いられて何時間も何時間もしげしげと泉のなかをのぞきこんで坐っていた。

わがものでありながら、しかもわが手に抱くことのできないもどかしさ! 悲しみが彼の胸をつきさしながら、しかも彼はその苦しみのなかによろこびを感じていた。

たとえなにごとが起ろうとも、すくなくとも水にうつるもうひとりの自分だけはあくまでも自分を裏ぎらないことを知っていたから。

エーコーは、ナルキッソスのさきの無礼をけっしてゆるしたわけではなかったが、彼とともにふかく悲しんだ。ナルキッソスが短刀をおのれの胸につきたてたときには、「ああ!ああ!」という悲嘆のさけび声を同情の心にあふれてくりかえし、また彼が息絶えるときのいまわのことばをくりかえして、「ああ、私の愛にこたえてくれない若者よ、さようなら!」と
いった。

ナルキッソスの血は土をひたして、そこから赤い花冠をつけた白い水仙が生えてでた。』
(ギリシア神話上巻/R.グレーブス/紀伊国屋書店P258から引用)

これは誰でも知っているギリシア神話の一節。

ナルキッソスは、本来の自己を泉の鏡に見立てて冥想していた。ところがなかなか本来の自己と同一化できない。本来の自己はのようにとても蠱惑的で完全無欠なものに見え、そのたとえようもない魅力はよく承知している。

禅の師家なら、「泉中の自分をここに持ってこい」などという公案を課するかもしれない。

ナルキッソスは本来の自分の姿を既に見ている境涯なので、十牛図で言えば、「見牛」より先のポジションである。それが「得牛」や「牧牛」へと進展しないことに絶望して、自殺してしまった。

神・仏を知りながら自殺するのは、仏弟子ヴァッカリの死と同様なスペシャルなケース。

この話は、ただの水仙の由来記でも悲恋物語でもない。



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ユダヤ教エッセネ派の観想-1

2012-01-20 05:33:57 | キリスト者の秘蹟
◎入門

イエス・キリストは、3派あったユダヤ教の宗派のうちエッセネ派の出身である。他の2派は、サドカイ派とパリサイ派。エッセネ派は、富を軽蔑しており、信者の財産は共同のものとされる。快楽を悪徳として退け、禁欲と情念に溺れないことを徳とみなしている・・・・とあるが、今の中東の人々は相当にしたたかな人たちであり、その気質からすると、法律も道徳もなんのそのみたいな人々が多い中での、「禁欲と情念に溺れない」であって、現代人みたいに知性が勝った人種を想定すると誤解が大きいのではないかと思う。

さてエッセネ派の入門の仕方に、その信仰の外形をうかがうことができる。
『彼らの派に入ることを熱望する者は、すぐには入会を許されず、手斧と前述の腰布および白衣を与えられた上で、一年の間外にとどまって〔内部の者たちと〕同じ生活をすることが命じられる。

この期間中、節制を守ったことが証明できると〔内部の者たちの)生活にさらに近づくことができ、きよめのための聖水に与ることを許されるが、なおまだ共同生活へは受け容れられない。

節制(忍耐力)の証をたてた後、さらになお三年間性格を試験され、〔共同生活に〕ふさわしい者であることが明らかになった上で、群に加わることを許されるのである。

しかし、共同の食事に触れる前に、彼は彼ら〔共同体の構成員〕に対して厳粛な誓いをする。まず第一に、神を敬うこと、次いで人々に対して正義を守ること、故意にせよ、命令によるにせよ、人を害さないこと、また、常に不義な者たちを憎み、義人たちを助けて戦うこと、常に万人に対して、特に支配者たちに対して誠実さを失わないこと、

支配者の地位は誰も神の許しなしには保持できないのだから。もしも自分自身が支配する
立場に立った場合には、その権力を乱用せず、衣類やはでな装身具で部下たちよりも目立とうとしないこと、

常に真理を愛し、うそつきを非難すること、手を盗みから、魂をけがれた利得からきよく守ること、同派の者たちには決して隠しごとをせず、他方、彼らの派に属さない者たちには、たとえ暴行を受けて死ぬほどになっても何一つ明らかにしないこと、

これらに加えて、誰にも自分自身が受け取ったのとちがった形で教義を伝えないこと、強盗をはたらくことなく、彼らの派の書物と天使たちの名前を同じように大切に守ること、以上の点を誓う。

このような誓いによって、彼らは入会者の忠誠を確認するのである。』
(観想的生活・自由論/アレクサンドリアのフィロン/教文館P84-85から引用)

イエスは、前半生のかなりの部分が明らかになっていないが、この誓いのひとつである「彼らの派に属さない者たちには、たとえ暴行を受けて死ぬほどになっても何一つ明らかにしないこと」という掟からすれば、イエスがエッセネ派内で充分に修行をしてきて、そのことを明かさないというのはありそうなことである。然るべきグルがいたとすれば、何もインドまでイエスに旅行させることはないと思う。

それと義人というのは、日常使われる用語ではないが、今の日本なら善人の意味に近いように思う。

ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスのグループのような日常を、一般人が見れば奇妙に思いカルトだと思われたりするように、エッセネ派は、クンダリーニ・ヨーガ系であり、一般社会の人が見れば奇妙に思われることが多々あるだろうから、中で起きていること・行われていることを口外しないのは理解できる。

それと悟りのへのプロセスとテクニックを忠実に伝えるための決まりとして、「誰にも自分自身が受け取ったのとちがった形で教義を伝えない」というのがあって、その悟りの正統性を護持してする決め事になっている。一方で、正しいグルならば、どの弟子に対しても同じ方法同じ教え方をするのではなく、弟子ごとに異なるその弟子にふさわしいやり方を選ぶはずであるという側面もあるのだが。

その他は、嘘をつかない、悪を行わない、無用の物欲を行使しないなどごく当たり前なものばかりである。



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ハイパーインフレ誘導

2012-01-19 06:11:27 | 時代のおわり
◎それは本質的な問題ではない

2012年1月18日の日経新聞のコラム大機小機に、増税も歳出削減もしないとなれば、残された道はインフレによる国家債務の実質切捨てという発想が呈示されていた。これは国民窮乏化政策であり、責任ある政治家がとるべき方策ではないとしていた。

ところが、増税は国政選挙に勝つことを考えれば、政治家にとっては自殺行為みたいな政策だからまずできない。また歳出削減の根幹である公務員給与の民間並み引き下げ(ほぼ半減)なんてのは、官僚・公務員の反対でまずできない。

するとインフレによる国家債務の切捨策こそ最も現実味のある政策であると予想される。インフレが起これば、実質大幅増税であり、公務員給与は大幅な削減となる。

野田首相の発言にも市場から日本国債が売り浴びせられ、日本国債の金利が急騰していくシーンを想定している発言まであり(これは消費税増税の必要性の理由の一つ)、インフレというのは、夢物語ではない。

インフレにも年に数パーセントのゆるやかなものから年に100パーセントを超えるハイパーインフレまであるが、財政規律が健全化したといえるほどになるまでのインフレとは、ハイパーインフレしかありえないと思う。プライマリーバランスの均衡を財政規律の健全化と見る場合、という前提だが。

欧州の債務危機の余波で、日本がハイパーインフレになれば、またも日本は自らの手で大規模な改革を為し得ず、外圧でもって大規模な財政改革を為したということになるのではないか。明治維新も敗戦も外圧の結果だった。

太平洋戦争の終戦直後新円切り替えがあって、庶民のため込んだ旧円現金と戦前の国債はほぼ無価値になり、封鎖された預金はインフレと預金引き出し制限により大幅に減価した。

手法のディテールは違うが、ハイパーインフレ収束手法としては、今度も似たような手段が使われるのではないか。

イエスは言う、「明日のことは明日自身が思いわずらう」。禅僧趙州も、しばしば食べるものがないが、絶対の安心に生きている。光明を得た者たちは、自分が餓死しようが、ブランドの服を買えなくなろうが、そんなことは自分の知ったことではないのだ。ハイパーインフレも本質的な問題ではない。




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癒しの本体

2012-01-18 03:04:53 | 究極というものの可能性
◎乳白色の幕

レイキ、軟酥の観、愉気(野口整体)こうしたものによる、ヒーリングの本体あるいは媒体は、どうしても共通なものにしか思えない。色も性質も。

これは密教の永沢哲さんの友人のJ.D.の妹の友人のスーザンという40代の女性がアメリカ原住民のメディスンマンのヒーリングで全快した話。

スーザンは,3年ほど前から手足に麻痺が生じ,多発性硬化症と診断されていた。病状が進行すると10年から10年のうちに次第に全身の機能が失われ、最後は窒息となる。
スーザンは、最初は通常のリハビリを受けていたが、ゲシュタルト療法、自律訓練法などいろいろやってみたが、はかばかしい結果は得られなかった。
『自分にできることはもうないと感じたセラピストは、彼女がチェロキー・インディアンとの混血であることを知って、インディアンのメディシン・マンの治療を受けるように紹介したのでした。

スーザンは、シアトルについてからすでに二回、そのメディシン・マン、ローリング・サンダーの診察を受けていましたが、ローリング・サンダーは、「偉大なる精霊」のしるしを待っているというだけで、ヒーリングの儀式をやるかどうかについては、一言も触れないままだということでした。

ただ、二回目の診察の時にはひどく不思議なことが起こった、とサラは言っていました。一回目の診察の時、その家の二階に滞在しているローリング・サンダーの部屋まで、文字どおり階段をはい上がっていったスーザンは、普通の病院でうけるような詳細な問診を、
うけただけでした。

ところが、二回目、寝台に横になったスーザンの全身を入念にマッサージしていたローリング・サンダーは、彼女が静かに寝息をたてはじめると、助手たちとサラを下の居間におりさせ、自分もベッドの横においたアーム・チェアに腰をおろすと、深いトランスにはいっていったのです。

一階には、二人の助手たちとサラ、それにシアトルでのワークショップの組織者がいましたが、ローリング・サンダーがトランスにはいるとまもなく、猛烈な眠気におそわれ、全員眠りこんでしまったのです。それは、まるで二階にいるローリング・サンダーから、深いトランスの乳白色の幕が降りてきて、家じゅうをすっぽりとおおってしまったみたいだった、とサラは言っていました。

二時間後みんなが目を覚ますと、ローリング・サンダーは二階からゆっくり降りてきて、「彼女はほんとうに、つらい人生を送ってきた」とひとこと言うと、庭のすみからつづく森の方へ、夜の闇の中を消えていきました。その目は赤く充血し、目じりはうっすらとしめっていたのです。』
(野生のブッダ/永沢哲/法蔵館P140-141から引用)

これで、スーザンは快癒し、フロリダで乗馬をするまでになった。
サラは、そのヒーリングの本体を乳白色の幕と見た。チベット密教では癒しの光の身体、白隠は軟酥ヨーグルト。色や形状を云々しても仕方がないが、皆同じ原理・媒体を用いているのではないか。

病に苦しむ人にとっては、回復は重大事。この世のあらゆる成功、賞賛がそれまでの何世にもわたるカルマの総決算であるように、病も総決算。それを避けようとするかどうかは、一律には論じられないが、病気からこのような手段で回復できるというのも人間に与えられた6つのメンタル体チャクラのひとつに配当された『自由』の証拠なのだと思う。



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性的ヨーガと究竟次第

2012-01-17 07:00:36 | 密教
◎不変の楽

チベット密教またはラマ教と言えば、男女神が正対して交合する勝楽尊のイメージのことをまずは思い浮かべるものだ。交合図=サンヴァラ(勝楽尊)とは、チベット密教のトレードマークと言ってよい。

キリスト教が陰惨な十字架をシンボルとして用いるのを奇妙に感ずるように、サンヴァラも一般人が崇拝するには奇妙な感じを受けるものだ。そこで、チベット密教における性的ヨーガの位置づけについてダライ・ラマが説明する。

究竟次第と関係している修行には、内なる熱のヨーガ、風のヨーガ、四つの喜びのヨーガなど、さまざまな種類があります。このうち、風のヨーガには、瓶の呼吸による止息と、金剛の念誦という技術がふくまれています。

生起次第から究竟次第の入口の所まで進んできたら、在家の行者は、パートナーと性的に一体になるヨーガをおこない、道をさらに前進する推進力として使います。しかし、修道の戒律を受けた出家者―――比丘と比丘尼――――の場合、そういう性的接触をおこなうことはできません。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ14世/角川書店P196-197から引用)

このように、セクシャル・ヨーガは、チベット密教で在家の者だけが、究竟次第の始めの段階でのみ認められている。
男性原理と女性原理の統合のシンボルとしてサンヴァラがあるというのは、説明としてはすっきりし過ぎていて、逆に誰がそれだけで納得できるのか怪しいと思う。

ダライラマは、実はサンヴァラは、ニルヴァーナ(究極)に由来するものだと解き明かす。

まず、ダライラマの表現では、究極(勝義)とは、光明との深遠なる結合(双入)である。換言すれば、究極の側たる光明である空性大楽と現象の側である幻身の結合がファイナル・ラウンドである。

空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。

『大楽はどのようにして生まれてくるのでしょうか。
体の中で滴が溶けだすと、中央の脈管の中に独特な感覚が生まれてくる体験をします。それによって、強烈な肉体的な至福感を味わいます。この至福感は、深い精神的満足に満たされたきわめて繊細な体験をもたらすのです。

この体験を得てから、自分の空の理解について瞑想すると、この精神的至福感は、自然に空とむすびつきます。こうして楽と空が結合されることになるのです。

密教の言葉や表現は、文脈によって異なる多様な意味を持つので、その正確な意味を理解することが大切です。一般に楽には三種類あります。
すなわち、①射精によっておこる快楽、②エネルギーの通路である脈管内の生命元素の流動によってもたらされる楽、そして③密教において不変の楽と呼ばれるもの、です。

密教は、空性の理解のために、後の二種類の楽、つまり脈管のなかで元素が流動することから生まれる楽と、不変の楽をつかうのです。空性を悟るために、
楽の体験をもちいることは大切です。

そのため、無上ヨーガの瞑想の本尊の多くは、性的に抱きあっているすがたで描かれているのです。

すでに述べたように、この大楽の体験は、普通のセックスのときに味わう快楽とはまったくちがっています。』

というわけで、究竟次第における最終ステージの空性と楽の結合メカニズムまで理解してはじめてサンヴァラの意味がわかるので、チベットの一般人への宗教的要求水準は極めて高かったということになる。



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