アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

神主主義な聞得大君

2011-07-31 08:12:58 | 冥想アヴァンギャルド
◎憑依の依代と現人神の二役

聞得大君といえば、NHKの連続ドラマ テンペストで、24Hourシリーズ並みの息もつかせぬ展開で好演している高岡早紀。この役柄が悪辣すぎて、聞得大君とは、こんな極悪だったのかと思わせるが、実はとても神主主義(テオクラシー)な存在だった。

聞得大君は、もともとは琉球王の女兄弟で未婚の者を任じたもので、格式は琉球王に次ぐ石高を有する大大名であった。

聞得大君の下には三人の女官アムシラレが置かれ、それぞれのアムシラレは沖縄群島を区分して担当地域を有し、領内の宗教祭祀の実権を掌握していた。
更にアムシラレの下に各地区のノロ(女神官。民間の巫女さんはユタであり、ノロとは別。)が従属していた。

沖縄の人にとっては、ノロは各地区にいる現人神。聞得大君ももちろん現人神だが、ノロ組織のトップということで、現人神中の現人神である。
そして聞得大君は日神が憑依して琉球王を守護するという「生きる守護神」ステイタスにある。つまり、憑依の依代と現人神と、聞得大君は二役兼ねていたのである。

ところが、審神者なしの憑依ということで、かかった神霊の真贋の判定はできないままに制度をやっていたのだろう。女性オンリーではこうした制度の維持は難しかったのではなかろうか。チベットでも王は専属予言者の男性シャーマンを抱えていたが、チベットでは王自身が審神者の力量があった。

さて尚真王の前代の尚宣威王が、聞得大君加那志(ちひうふぅじみがなし)の忌憚に触れたために、在位6か月で退位せしめられた例があり、これはキリスト教におけるカノッサの屈辱に匹敵するものである。神権が王権にまさっていた神主主義の時期である。

ノロを現人神と見る伝統は後代にまで残り、明治維新の頃であっても、沖縄の人は番所役人の命令よりも、ノロの言葉に従ったという。また島の人の中には今でもノロを現人神と信じて、ノロを拝み、ノロのいる方を遥拝する人がいるという。けれど最近ではノロそのものが少ないという。





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高岡蒼甫 本人ブログ

2011-07-30 07:22:58 | 時代のおわり
◎亡国の予感

彼の名は、篤姫・宮崎あおいの旦那ということで記憶していました。でもパッチギもバトル・ロワイヤルも見たことはないし、顔と名前が一致しなかったけど、高岡蒼甫 本人ブログを拝見しました。

両親が離婚して定時制高校なので、結構不幸な生い立ちなのだろうと思いました。映画の主役を何度も張れて、ここ10年は文字通り売れっ子スターなのだったと思います。

本人ブログでは、まずパッチギ撮影後の自殺未遂。そして自分の発言内容と異なる内容の「自分の反日発言」や「結婚式」がマスコミで広く報道されたことがたび重なり、マスコミ不信、マスコミ嫌いになって行ったことが書かれている。

そして、パニック障害。これはひどい舞台恐怖ということで表れた。

マスコミ嫌いとパニック障害も、心理的には社会に対する恐怖から出てくるという意味では同根である。社会の方が自分に好意的でないと知れば、公衆の面前に立ったり、マスコミの批判にさらされるたびに、恐怖に襲われるものだ。その結果、彼は対策として精神安定剤を服用していた。

こうしてなんと精神のバランスをとって生きていた時に、3.11の東北関東大震災で、震災鬱気味のショックを与えられて、今般の『役者をやめて個人として、自分の意見を自分で発信して、日本を立て直したい』という動きになった・・・・と見た。


本人ブログから以下『』内引用、
『勇気をもってこの国を立て直す事。
希望の光を見つけてもらう事。
表の人間は嘘を教える事じゃない。
自分から発信できるならしようと思った。
この国の一大事な時にどさくさ紛れに、欺いて偏りをみせてる今の体制がすごく気持ちが悪いと思った。』
(人権救済法案、人権侵害の国際通報制度、自治基本条例、住民投票条例が問題と考えているようですね)


亡国の危機に直面した民族は、必死にその文化を残して行こうとする形で動いていくもの。先例としては、ディアスポラのユダヤ、チベット。韓国も朝鮮動乱で、ほぼ全土が焦土になった体験を有しているからこそ、韓流を他国に流行させようとしているのだろうと思う。

終戦直後の日本映画にも、一部アメリカ礼賛の気風が見える映画が何本かあって、驚いたことがあったが、いつのまにかそうした如何にも戦敗国風の映画は姿を消した。しかしながら、日本の映画もテレビもマスコミも、一皮むけば戦勝国、特にアメリカの意向に従順に運営せざるを得ないところがあって、日本での米よりの報道や文化・宣伝には心理的な抵抗はあまりないようになっている。しかしながら昨今の韓流については、同列には感じられないのではないか。

高岡さんは韓流の依って出てくるところの彼の国の国家戦略をどこかで見聞きしたんだろうと思う。

韓流の怪しい動きも問題ではあるが、むしろ日本がその亡国を予感して、日本文化を外国において保存していく動きに追い込まれていくような動きを始めることの方が日本人としてはクリティカル・イシューである。韓流を以て他山の石となす、である。






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龍の化身

2011-07-29 06:31:35 | 超能力・霊能力
◎ボディ・コントロール

盤珪禅師が、伊予大洲にあった時の話。

『大洲の大平村の子供が水に溺れるという事件がありました。しばらくして、その体は浮かび、村人達の必死の手当てで、子供は不思議にも生きかえりました。
しかし、子供は視力を失っていました。
ところが、それ以来、その子供は、ずばぬけて賢くなり、品格や性質も格段に優れるようになりました。
琴を奏でれば、琴声絶妙、歌を歌えば、歌声清亮。ついにその芸を見込まれて、殿様の宴席に出るようになり、藩士の子女たちにも、諸芸を教えるようになりました。

盤珪さんが、藩主加藤侯の招きに応じて城中で説法する時には、その子供も、必ず聴衆の陰で熱心に聴法していました。感銘に涙を流し、あるいは、疑問がある場合は質問をしました。
盤珪さんも、その質問に対して丁寧に答えられました。しかし、いくら説法を聴聞しても、その子供の疑念は消えませんでした。

そんな子供を見て、盤珪さんは、
「お前はまだ畜生道を離れられないでいる」と、教えられました。
後にある人が、その理由を尋ねると、
「あの子供は龍の化身だ。水に溺れた子供の体を借りてこの世に出、仏法を聴聞しているのだ」と、答えられました。』
(盤珪禅師逸話選/禅文化研究所P112-113から引用)

チベットでは死体を意のままに動かす術あり(「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」. テオドール・イリオン著)。クリシュナムルティは、自分の肉体にマイトレーヤの魂を乗り移らされそうになった。これらは人間の技だが、死体を動かす猫までいるからには、この逸話もあながち嘘とも言い切れない。
なにしろ盤珪禅師の話なのだから。





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馬祖を必要とする時代

2011-07-28 07:38:54 | 丹田禅(冥想法8)
◎日面仏、月面仏

唐代の禅僧馬祖には、入室参禅する弟子が多く、139人もいた。その一人一人が宗主となって、その教えは限りなく広まった。

貞元4年正月、馬祖は江西省永修県の石門山に登って林の中を散策し、とある洞穴が平らであるのを見て、侍者に言うには、

「私の肉体は、来月この地に、まさに帰ってくることになる。」
言い終わって帰宅すると、やがて病に伏した。

院主がやってきて尋ねた。「和尚、このごろ具合はどうですか」

馬祖「日面仏、月面仏」

2月1日、馬祖は、沐浴し結跏趺坐して入滅した。


仏説仏名経巻七に、勝声仏の寿命は百億歳、月面仏の寿命は一日一夜、日面仏の寿命は千八百歳とある。

院主さん、そんな時候のあいさつをしている暇があるなら、人間の寿命は長いものあり、短いのもあるから、一刻を惜しんで坐ったらどうですかというのが、「日面仏、月面仏」の真意か。

江戸時代の禅僧白隠が、師匠の正受から、弟子はちゃんとしたのを二人出せばよいと言われたのに比べると、まともな弟子を100人以上出した馬祖はすごい。

禅は伝統的に、覚者一人につき一人か半人の自分より優れた弟子を育成すれば良しとしてきたが、そのスローモーぶりでは時代に追いつかない時代になってきた。

それこそ百人、千人の馬祖が必要な時代になった。馬祖と他の祖師の弟子育成の違いはどこにあるのだろうか。

またどうして覚者一人につき一人か半人の悟った弟子でよしとしたのだろうか。





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映画「ヒマラヤ 運命の山」

2011-07-27 08:03:54 | 時代のおわり
◎ナンガ・パルバートから異次元へ

昨日の日経新聞に登山家ラインホルト・メスナーが、8月6日から日本で公開される映画「ヒマラヤ 運命の山」の紹介の一文を載せていた。

ラインホルト・メスナーは、人類で最初にすべての8千メートル峰14坐を完踏した猛者である。栄光に包まれた彼にきざす影の最たるものは、パキスタン領8千メートル峰のひとつナンガ・パルパード(8125m)で、弟ギュンターと頂上を極めたのち後に、ギュンターだけが下降途中に行方不明(死亡)になったことである。

ラインホルト・メスナー自身も生還したものの、足の指7本を凍傷で失った。

山々の王=ナンガ・パルバートは、5千メートルに及ぶ岩壁が屹立しており、このすっと立つ岩壁の標高差も世界一であり、神の造化を畏怖するに値する。インダス河畔からその山容を望見しただけで、その威容に心を揺さぶられるとされるイカシた山である。

メスナーは、20代で、1970年のナンガ・パルバートの悲劇の登頂をきっかけにして、プロ登山家に転向した。しかし、50歳を過ぎてプロから趣味の登山家になった。

この新聞記事にはそのいきさつは書いていないが、何冊か読んだメスナーの著作からは、個人の装備と登山設備、食事、医療事情の向上により、今やエベレスト登山も70代で気軽にできるようになり、8000メートル峰登山ですら、昔日のロマンとアドベンチャーはなくなったこともその理由の一つではないかと思う。

単に年をとって筋力や代謝が落ちたからプロをやめるということではないのだと思う。既に登山に命を燃やし尽くそうとするほどそそられなくなったのだろうと思う。つまらなくなってしまったのだと思う。

こうして人類は、未踏峰登山という冒険を失い、宇宙空間を別とすればいまだ足を踏み入れていない処女地、フロンティアは、冥想の世界にしかなくなった。

クンダリーニ・ヨーギ達、ヤキ・インディアンの戦士達の踏む世界こそが、いまだ誰も見知らぬ異次元の風光をたたえているのだ。これこそがこの時代に最後に残されたアドベンチャーであるとして、チャレンジを始める人も続々と出てくるのだろう。





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女性の卵母細胞と被曝

2011-07-26 07:09:36 | 時代のおわり
◎一生に一度っきり

妊婦とこれから妊娠する女性が、放射線被曝を特に避けるべき理由の一つは、放射線が胎児の盛んな細胞分裂に対して悪影響を与えることである。妊娠8~15週では100ミリシーベルト以上、妊娠16~25週では200ミリシーベルト以上の被曝で重度精神障害、奇形、胚死亡などの影響があるとされていること。また微量の被曝でも出生後にガンが発生する確率が増加するとされる。

もう一つの理由は、女性の卵母細胞は、一度でも被曝して損傷すると、代わりがないので、不妊や流産などの危険を抱えることである。

実は女性は、胎児の時点から既に卵母細胞を持っていて、成長していく過程の中で新たな卵母細胞を生成することができない。出生後に卵母細胞は減数分裂して卵子を生成するが、卵母細胞そのものは変わらない。

つまり卵母細胞(30万個ともいわれる)は、女の子は、胎児だろうが赤ちゃんだろうが少女だろうが、妙齢の婦人だろうが、最初の与えられたものを一生使い減らしていくことになっている。

この虎の子が被曝してしまうと、替えが効かないので胎児に影響が出る可能性が高まる。
換言すればその女性が胎児だろうが、中年のおばさんだろうが、卵母細胞は被曝の影響を受けるということ。

だから妊婦と妊娠可能な女性は、男性以上に放射性物質に注意が必要。
(以上参考:世界一わかりやすい放射能の本当の話完全対策編/宝島社)

それにしても、女性は、妊娠初期に与えられた「宝」なる卵母細胞を一生守り続けていくのですね。チベット死者の書では、再誕生時には、魂が再生する子宮をセレクトするシーンがあるが、女性として再誕することを選択した場合、その時点でその卵母細胞を一生ホールドする決心をするのでしょうから、重い決断だと思います。そしてその一生の中で被曝するタイミングもある程度は承知の上で。


なお男性の精母細胞は、出生後に再生成されるので、条件は女性よりも恵まれている。





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長谷部誠 毎日30分の冥想習慣

2011-07-25 04:22:05 | 冥想アヴァンギャルド
◎心を整える時間だけは譲れない

サッカー日本代表キャプテン(元浦和レッズ)の長谷部誠選手の著書「心を整える」が100万部をうかがうベストセラーになっている。ベストセラーになっている理由は、有名スポーツ選手だからという理由だけではなく、如何にこのクレイジーな世界で、自分の時間も少ない中で、謹厳実直な生活態度と試合での戦う気迫と姿勢を維持していくかについて、56種のコツを挙げているからだと思う。

また、この著書を読み進むにつれ、長谷部選手の生き方全体のさわやかさに触れることができるのも売れる理由であると思う。それだけでも、いい本だなと思う。

この著書の冒頭に長谷部選手がどんな時にも毎日30分間の冥想時間を確保していることが述べられている。これが正気を毎日まともなレベルで確保するために最も必要なことであることは、私も毎日感じていることであり、このブログでも何回か触れてきたことである。

『意識して心を鎮(しず)める時間を作る。

南アフリカ・ワールドカップ期間中、日本代表が拠点にしていたジョージのホテルには選手のリフレッシュのために、いろいろな小道具が用意されていた。卓球、ダーツ、テレビゲーム・・・・・・。またホテルはゴルフ場の施設内にあったので、もちろんゴルフもできる。このようなサッカーから離れた遊びが、選手たちの気分転換に一役買っていた。けれども僕は何もやらなかった。

それには理由があった。

一日の最後に必ず30分間、心を鎮める時間を作りたかったのだ。

大会期間中はチームとして行動するので、練習やミーティングのためにプライベートの時間が限られている日が多かった。みんなとわいわい騒ぐのは楽しいけど、時間があまりない日に遊びに参加してしまうと、「心を鎮める30分」を作れない。だから僕は、チームとしての行動が終わると、すぐに自室に戻るようにしていた。年下のチームメイトからは「ハセさん、付き合い悪いっすよ」と冗談交じりに言われたけれど、この時間だけは譲れなかった。

部屋に戻る。電気をつけたままにして、ベッドに横になる。音楽もテレビも消す。そして目を開けたまま、天井を見つめるようにして、息を整えながら全身の力を抜いていく。

壁の模様を見て、ひたすらボーッとしていてもいいし、頭に浮かんできたことについて思考を巡らせてもいい。大事なのはザワザワとした心をメンテナンスしてあげるのだ。

ベッドに横になると寝てしまうのでは?と思う方いるかもしれないけれど、僕は「寝よう」と自分で思わない限り眠ることはまずない。大人になってから電気やテレビをつけたまま寝てしまったことはないし、昼寝のときには必ずカーテンを閉めて真っ暗にするほどだ。』
(心を整える/長谷部誠/幻冬舎P12-13から引用)

曹洞宗の宮崎奕保禅師は、3分間でも坐りなさいと言ったが、やはり30分くらいはやらないとね。長谷部選手は横臥で冥想だけど、坐った方がいいとは聞く。

それでも、「有名人が冥想を基幹とした精神生活を送っているというテーマで出した本がベストセラーになった」というのは、とてもエキサイティングでエポックメイキングなことだ。





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柳生宗矩が托鉢僧に打ち込めず

2011-07-24 06:18:33 | 丹田禅(冥想法8)
◎流儀は極意に関係なし

将軍家剣術師範柳生宗矩と名も知らぬ托鉢僧との立会。

『托鉢僧との胆だめし問答

ある時、柳生道場の門前に一人の托鉢僧が来て、稽古の様子を
見ていたが、やがて、
「さて、さて、これでご師範などとは笑止千万じやわい」
と、けなしているのを、門番が聞きつけて宗矩に報告した。

宗矩はこれを聞くと、
「その僧をお連れしなさい」と座敷に通し、対面した。
「貴殿は出家のようだが、剣術の心得がおありのようですな。
何流でござるか」

「貴殿は将軍家のご師範ということじゃが、剣術は下手でござるな。流儀などというものは極意に関係ござらん。剣をつかうに流儀も何もありはしないだろう」

宗矩も、さる者と合点して、それならば一太刀手合わせを、と道場へ連れ立った。

宗矩は木刀を持って立ち、
「貴僧は何を持たれるか」とたずねると、
僧は、「いや、拙者は出家の身ゆえ、何も必要はござらん。さあ、打ちたまえ」
と道場の真中に立つ。

宗矩は、この坊主不埒なことをいう、と思って、声をかけて打ち込もうとしたが、いかようにも打ち込むことができない。
さすがの宗矩もついに木刀を下に置き、
「いや、恐れ入った。まことに貴僧は、なかなかの知識でござる。ぜひともその心法の修行についてご伝授下され」
というと、この僧も、
「いや、お見事、剣術においては貴殿に続く者はごさらん」
と称美したのである。』
(禅門逸話選(中)/禅文化研究所P185-186から引用)

これは無刀の僧が柳生宗矩を圧倒した一段。
悟っているからといって、その人が必ずしも有名人であるなどということは全然ないし、また有名な既成教団や新興宗教教団の大物・幹部や有名宗教学者であっても必ずしも悟っているとは限らない。

それはさておき、悟る悟らぬというが、名もない者が悟らないと始まらない時代となった。





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なでしこJAPAN栄光の秘密

2011-07-23 07:17:03 | 時代のおわり
◎思いの純粋さが奇跡を呼ぶ

東北関東大震災は人に日常意識の裂け目を見せつけたが、なでしこJAPANの予想外の栄光は、ポジティブな意味で人の最深層の願望は実現するという現実を見せつけた。これは毎日毎時、欧米流、韓流によって日本文化破壊に向けた洗脳を繰り返されている疲弊した日本人に、いにしえの大和魂を、なつかしく思い起こさせる機縁となった。

スピードとフィジカルで大きな差がある日本がどうして勝てたのか?

バルサばりの相手の逆をとってはショート・パスの連続での攻撃と、複数で囲い込んでボールを奪取するディフェンス、決勝のアメリカ戦での宮間選手のゴール前への詰めからの同点ゴール、そしてセットプレーからの澤選手のミラクル・ヒールキック、目に見えるプレーばかりが注目されるが、そのプレーのよってきたる根源は、あきらめない心、低所得からのハングリーさだけだと見れば見誤る。

アメリカのゴールキーパーSolo選手のコメント「I truly believe that something bigger was pulling for this team.何か大きなものがなでしこJAPANを引っ張っていた」。

なでしこの選手生活の環境は恵まれているとはいえない。プレイヤーとしてだけの生活では、食べられなかったり食べていくので精一杯なのだ。
正確無比のファンタジスタ宮間選手のコメント「自分たちはプレーで結果を出すしかない。」
大会得点王にしてMVPの澤選手のコメント「今後、女の子がサッカーをやれる環境がもっと整い、また、サッカーをやりたいと思う女の子たちが増えてくれればいいなと思います。」
これがなでしこの置かれたシュチュエイションとモチベイション。


そして夢に前兆を知る。
澤選手のコメント、「決勝戦の前日には金色のテープが舞い降りてくる夢を見た。」

更に澤選手の完璧な観想法によるビジョンの現実化。
澤選手のコメント「今日の決勝戦は優勝するシーンしか想像できなかった。日本が青のユニホーム、青のパンツ、青のソックスで戦って、表彰台の上でトロフィーを掲げるシーンまで鮮明に想像できていたし、ユニホームの色も含め、本当にそうなりましたね。」

悟っている、悟っていないは確かに問題だが、ワールドカップ獲得のために、モチベーションも正当で揺るぎないものであって、かつここまで正確な手順を踏まれては、神もなでしこの願いを認めるしかなかったのではないか。

こうして、何か大きなものがなでしこJAPANを引き寄せた。召命とは、神がその人を召すこと、神に指名され引き寄せられることだが、第三者から見れば、何か大きなものが人を引き寄せたと見える。

それにしても澤選手は、一途、あきらめない、努力だけではなく、「それ=不可能と見えることを実現する術」を知っている老熟の太古の神の顕現みたいな感じを受ける。
なぜだか試合中の澤選手を見ると、わが菩提寺にある脱衣婆(三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆)にそっくりだと思ってしまうのだ。





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11世紀のテオクラシー(神主主義)

2011-07-22 05:56:12 | キリスト者の秘蹟
◎カノッサの屈辱からサレルノの死まで

テオクラシー(神主主義)を実現した典型の人物としてローマ教皇グレゴリウス7世がいる。

彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門して、北イタリアのカノッサ城まで赴かせ、1077年1月25日から3日間その地で教皇に対し、直接破門の解除を求めさせた。これがカノッサの屈辱である。

これを伏線にして、4年後の1081年には神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、北イタリアに侵入し、ローマ教皇グレゴリウス7世をローマから追い出し、1085年グレゴリウス7世は、サレルノで客死することになる。

この教皇権絶頂の時代が、ささやかではあるが、テオクラシーが現前した時代と考えられる。

『それは、教皇の至上の権威のもっとも熱烈な弁護者の一人であったラウテンバッハのマネゴルトが、1085年頃、ザルツプルクのゲプハルト宛て書簡の中で明快に説いている考えである。そこに見出されるのは、グレコリウス七世と彼の弟子たちによれば、王はその権力を神から受けるが、神の行為が直接成就されるわけではないということである。

一方で人民は彼らからみて世俗の長として頂くのが望まし人物を指名する(そしてこのことは王位の世襲を排除するものではない)。他方、王権の行使は、それが含む諸義務の履行、それも教皇庁が監督する履行と結びついている。

このため、人民が君主を選ぶ時、教会は神の規範に従って統治されることを望む臣下と、この法を守ることを約束する人物との間で、このように結ばれた契約を法的に認定しなければならない。

教会はまたこの契約の裁定者でもなければならない。協会は選ばれたものに統治する権利を与えることによって、すなわち彼がそれを行う充分な徳を持つと同時に結ばれた契約に値すると認めることによって、この職務を果たすのである。

最期にすべての権力は神から由来し、選ばれたものは宗教的儀式なしに職につくことはできない。そしてこの儀式の間に、選ばれたものは、約束のかたちで、契約の内容を明確にすることを求められるであろう。』
(テオクラシー(中世の教会と権力)/M・パコー/創文社P105から引用)

中世にあっては、王も臣下も悟っていないことが自明であるが、これからのテオクラシー(神主主義)では、王も臣下も悟っている、つまり神を(体験とは言えない体験を通じて)知っていることが最低条件となる。

宗峰妙超が、花園天皇と出会ったときに、「王法不思議、仏法と対坐す」とやったが、王権が、仏法と対等になることは本来ありえないことで、仏法が主で、王権(王法)が従である。それで、不思議なことだと皮肉った。

次の時代に神主主義が実現するためには、その地ならしとして、一人一人が冥想により神に出会うことは最低条件である。新たなテオクラシーは、中世ヨーローッパのそれとは全く異なったものとなる。





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良寛のすり鉢ひとつ

2011-07-21 05:16:44 | 丹田禅(冥想法8)
◎文明生活を捨てる

『すり鉢一つの生活

諸国行脚の旅に出て二十年、良寛はようやくふるさと越後へ帰って、国上山のふもとに草庵を結んだ。五合庵と名付けたその庵には、たった一個のすり鉢のほか、道具らしいものは何もない。

良寛はそのすり鉢で味噌をすり、粥をたき、そのまま食器がわりにして粥をすする。また顔や手足を洗うのにも、そのすり鉢一つで用を足していた。

毎日、村から村へ托鉢してまわり、布施の米が五合になれば、庵へ帰ってくる。

ある人が、あまりの貧寒に慰めの言葉をかけると、

住みなれて ここも廬山の 夜の雨

と一句をよんで、それに答えた。』
(禅門逸話選上/禅文化研究所P173から引用)
※廬山の夜雨は、白楽天の詩で、「廬山の雨夜 草庵の中 終身膠漆心応に在るべし云々」で、友人三人は役人として栄達したが、白楽天は自由な無生三昧を生きているという感慨。

IpodもIphoneも携帯も持たない生活に耐えられますか。
そういうライフ・スタイルに戻ることが求められている時節が近いということ。

マザー・テレサも居室も似たようなものだった。
ルイ・ヴィトンのバッグも、ブルガリのアクセサリーも、シャネルの香水も持たず、IT機器も持たない、シンプルな人間の本質だけを問うライフ・スタイル。

本質が問われれば、虚飾はどんどん削ぎ落していかなければならない。それは日々の冥想により、徐々にあるいは急速に起こっていく。
そういうライフ・スタイルが前面に押し出される時代が、ようやく今求められている。主たるは人であり、IT機器やブランドは従のはずだったが・・・・・。






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一休が蛇を打ち殺す

2011-07-20 05:28:26 | 丹田禅(冥想法8)
◎不昧因果

1410年、一休の師匠である清叟が、西宮(后または太后)の招請により、戒律の法話をする時に、17歳の一休を連れて行った。

途中壬生の近くに神泉苑があった。ここは、かつて弘法大師が天子の命により雨乞いを祈願した所で、今の10倍くらいはあったとされ、都の聖池として有名である。
ところが、このあたりには、蛇が多かった。

清叟は、いつも蛇に遭ったときには袈裟を蛇に掛け、戒法を唱えておとなしくさせていた。ある日、一休はひそかに袖に隠し持っていた石で、なんと出てきた蛇を打ち殺した。

既に元服していたとはいえ、少年僧一休は、わざわざ出家の五大戒律である不殺生戒を破ったのだが、これを見た清叟は怒ることなく、かえって意表を衝いた間髪を入れぬ行動であるとして誉めた。(禅では、こういう間髪を入れないのを、南泉和尚の斬猫みたいに認めることがある)

一休は女犯のこともあり、もともと血の気の多いタイプの人物であったとみえる。この事件は大悟以前であり、殺生は殺生としてその報いは受けるもの。不昧因果である。

よって清叟が、まだ悟っていない一休の殺生を肯定したのは、納得できないところがある。一休が皇室関係者であるという遠慮があったのだろうか。





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大涅槃とは何のこと

2011-07-19 02:23:07 | 丹田禅(冥想法8)
◎逝くものはかくの如きか

麻谷宝徹禅師が、ある日、馬祖のお供をしていて問うた。
「大涅槃とは何のことですか」
馬祖、「急だ」
宝徹、「いったい何が急ですか」
馬祖、「水を見てみなさい」

水が急であるとは、ドン・ファンのいうところの「世界を止める」とは対極にある見方。
水は止まらず、孔子も川の流れを見て、「逝くものはかくの如きか」などと慨嘆する。無常なのである。





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宗峰妙超の大悟

2011-07-18 09:44:42 | 丹田禅(冥想法8)
◎他時異日、別生涯

宗峰妙超(大燈国師)は、鎌倉の高峰顕日から京都の韜光庵の大応国師の門に行くことをアドバイスされ、京都に向かった。

大応国師は、既に病に伏しており、門人に対してすら参禅を許していなかったが、妙超に対してだけは、参禅を認め、膝下に入ってから妙超の透過した公案はおよそ200則に達した。

大応国師が、1305年勅により万寿寺に移動するにあたり、妙超は、「雲門関」の公案を授かって、これを透過すれば、他時異日、別生涯があるだろうと、サジェストを受けた。別天地、別世界。

1307年、26歳の妙超は、執権北条貞時の要請で大応国師が鎌倉の建長寺に向かうのに随行し、途中一時正観寺に逗留した。

そんなある夕方、机の上になにげなく重い鍵がガチャと置かれた途端に、遂に「関」字の公案を透過、満身の汗をかいて、大応国師の方丈に走って、「幾乎(ほとんど)路(みち)を同じうす」と見解を呈示した。
(関を入ってみたら、ほとんど同じ路だったぁ???)

すると大応国師は、「実は昨夜、雲門大師が夢に現れて、わたしの部屋に入ってきたのを見た。お前は実に雲門の再来である。」とその大悟を認めた。

妙超は、これを聞いて耳をおおって退出し、翌日二偈を提出して、「近々故郷に帰ろうと思いますが、お別れにあたって一言頂けないでしょうか。」とお願いすると、大応国師は、偈の余白に「あまえはもうわかっている。私よりお前の境地の方が上である。だから、お前の代で禅は大いに興隆するだろう。ただし、もう20年長養し、人々にその悟りを知らせなさい。」と書きつけた。
その後、同年12月大応国師は示寂。

妙超は、さっそく京都に戻り、20年間の聖胎長養(悟後の修行)に入った。昼は五条の橋の下で乞食と共に過ごし、夜は6,7人の同輩とともに雲居庵で坐禅三昧という生活を続けたが、これを7年で打ち切り、紫野に引っ越した。

悟ってなくてもカルト教団の教祖は務まるが、大悟しただけでは、徹底しないことを禅のお歴々は知っている。十牛図第三図でも世間的には充分「悟り」である。それをどこまで深められたかは、大燈国師遺戒を見るくらいしかない。






悟りとは何か
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タントラの現実

2011-07-17 06:39:14 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎谷体験

和尚バグワンのタントリック・セックスの見方。それは週刊プレイボーイや女性セブンのセックス観とは全く異なったものとなっている。

『タントラはセックスを教えているわけではない。ただたんに、セックスは至福の源泉となりうると言っているまでだ。そしていったんその至福を知ったら、その先へと進むことができる。なぜならあなたはもう真実に基礎を据えているからだ。

セックスとは永遠にとどまるべきところではなく、跳躍点として使うものだ。これこそタントラの意味するところだ。セックスは跳躍点として使える。いったんセックスのエクスタシーを知ったら、神秘家の語っている、より大きなエクスタシー、宇宙的オーガズムが理解できるようになる。』
(愛の円環/和尚/市民出版社p55-56から引用)

『タントラ的セックスとは、根本的に、まったく正反対であり、違っている。それは放出ではない。エネルギーを外に放つことではない。それは射精なしで、エネルギーの放出なしで、性行為の中にとどまることだ。溶けあったまま性行為の中にとどまる・・・・・・性行為の後半部ではなく、前半部にとどまる。これによって性行為の質は変わる。質がすっかり別のものとなる。

(中略)

そして第二点。興奮とは始まりでしかない。ひとたび男が挿入したら、ふたりはくつろぐことができる。動きはまったくいらない。ふたりは愛深い抱擁の中でくつろいでいればいい。ただ男なり女なりが、勃起の減退を感じたら、そのときにだけ、多少の動きなり興奮が必要になる。でもそれからまたくつろぐ。この深い抱擁は、射精なしで何時間も続けられる。それからふたりは共に深い眠りの中へと入ればいい。

これこそが谷オーガズムだ。ふたりはくつろいでいる――――ふたつのくつろいだ存在として出会う。

(中略)

しかしタントラとはあくまで谷オーガズムだ。頂上体験ではなくて、谷体験だ!』
(同上書p63-67から引用)


タントラは、男性の側の修行法のはずだが、和尚バグワンは女性が誤解するだろうなんてことにはお構いなしだ。(巻末に女性が体験談を載せているが、妙な感じである。)

冥想修行者はセックスをもジャンプ台に使うのだが、修行者は男性に限られる。相手の女性について条件はあるが、女性にとってそれがどうかなんてことは、本筋ではないせいか、饒舌な和尚バグワンですらほとんど言及はない。ただ「ゆらぎ」は男女双方に起こるとする。

最初はくつろぎ、谷に入り、やがてゆらぎ、円環となる。これが和尚バグワンの見方。谷体験とは独特の表現なのだが、タントラ技法って本当にこれを極とするのかどうか疑問が残る。ジャンプしていないからである。

谷神が死んでいないところをまだ見ていないからである。





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