アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

三十七道品

2011-05-31 06:13:51 | クンダリーニ・ヨーガ
◎坐ってなんぼ

シャカは、臨終の旅において、ヴェーサーリーの近くに住するすべての修行僧たちを集めて、37メソッド(三十七道品)の実践を勧めた。
37メソッドとは、
四念処:4つの観想法(身体は不浄、諸法無我など)
四正勤:4つの努力(善を行い、悪をしない)
四神足:三昧・定のための4つの超能力

五根:(信根:心が決まること
精進根:勤め働くこと
念根:正しい考えを持つこと
定根:心が落ち着くこと
慧根:智慧)
五力:五根がそれぞれパワーアップしたもの
七覚支:七つのさとりへのこつ(身心を軽やかに、安らかにしていくことなど)
八正道:正しい思い、言葉、生活、努力など

と合計で37となる。

冥想修行の常として、これらのステップが、必ず四念処から始まるものでもないだろう。
全体としてみると、八正道は、少なくとも仏を一瞥したことのある人の生活姿勢であって、菩薩の生きる姿であるように見える。よって七覚支までが、未悟の人のステップであるように思える。

というのは、悟っていない人が八正道を24時間意識的に気張って、真似して生きていくのはとても不自然で大変なことに思えるからである。

三十七道品は悟りまでにステップを設けた修行法だから、禅ではなく、クンダリーニ・ヨーガ型の修行法である。

坐ってなんぼ。





悟りとは何か
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アトランティスと核

2011-05-30 03:12:40 | 時代のおわり
◎人間の手に余るエネルギーの再来

エドガー・ケイシーのリーディングでは、アトランティスでは、神の掟の子らとベリアルの子らの抗争が続いた。以下の文では、アトランティスでも原子力の平和利用が行われていたことがうかがえる。

『アトランティスで知識の誤用を招く最初の反乱が起きた時代、建設的に用いられたはずの力が、破壊活動に使われた時代に、その実体は他の国々に増大していた動物を殺そうと破壊兵器を引き出したベリアルの子らに加担した。
(1378-1,1937年6月)』
(アトランティス/エドガー・エバンズ・ケーシー/中央アート出版社P97から引用)

『ポセイディアの地が強大な力を持っていた頃、多くの国々を破壊していた動物たちを制圧する会議が、多くの国々の民のために開かれた時代に、その実体は空中と水中を同時航行できる船を操作することができ、圧縮空気と蒸気、また放射性金属によって動くエレベーターの製作者でもあり、特に金属に対する太陽の放射活動を結晶面でコントロールする技術に通じていた。(2157-1, 1940年3月)』
(アトランティス/エドガー・エバンズ・ケーシー/中央アート出版社P98-99から引用)

別のリーディングでは、このエネルギーの誤用が激しい火山活動を招来し、アトランティス大陸が5つに分裂する原因となったとされる。

人間の手に余るエネルギーを何か口実をつけて利用し続けると、やがて時至れば世界の滅亡につながりかねないわけである。

原発を持っている国は、少なからず核武装の暗黙の必要性を感じている国なのだろうが、イタリア、オーストラリアなど、持たずに済ませている有力国もあることを先例と考えるべきだろう。

聖書のヨハネ黙示録では、放射性物質の汚染が世界的に広がることを見ているが、それが核戦争や原発事故によって起きるのどうかはわからないが、原発が、大地震や津波や軍事攻撃により事故となった場合は、広島型原爆よりも大きい地区が被災エリアとなることが福島第一原発でわかった。

原子力利用をどの程度縮減できるかどうかが、この文明の精華がどの程度次の文明に継承されていくかのバロメータになるのではないか。そのための時間は余り残されてはいないようだが。






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肉体死が悟りのきっかけにならない人たち

2011-05-29 08:11:57 | 密教
◎死にゆく人への技術

大量死の時代になった。

ソギャル・リンポチェは、ダライラマのインド脱出と同時期にチベットを脱出した人物の一人だが、彼が1970年代に初めて西洋に足を踏み入れた時に、西洋社会に死にゆく人に対する精神的な介護システムが社会から欠落していることに深い憂えを感じた。

一方西洋の側からもキュブラー・ロスなどが出て、果敢にも、死にゆく人に対するケアの体制整備にチャレンジしようとしたが、その動きは決して広汎な運動にならないまま、今大量死の時代を迎えることになった。

ソギャル・リンポチェは西洋では何の精神的支えもなく、ただ独り絶望と嘆きのうちに死んでいく人が多いとするが、その事情は日本でもあまり変わらない。日本は最も近代西欧文明を受け入れた国であって、核家族化と内面的な無宗教化が進行し、孤独死が珍しいことではなくなった。
これは死んだ後の葬儀のことだが、最近では密葬や家族葬というメニューで、枕経を読んでもらわないのまであるという。死者へのアフターケアまでなくしてしまうところまで来た。

しかし、天変地異で死のうが、生き残ろうが、放射線障害になろうが、結局どんな人もいつかは亡くなる。その意味で死にゆく人にとっての技術は、万人に対して価値がある。
ポアの行は、チベット密教の中の、死にゆく人の技術である。

ポアについても、昔は当然のごとく中心太陽合一を標榜するものだけが本物だろうと思い込んでいたが、今読み返してみると、誰もがその死に際して悟りを開けるわけではないので、悟れない人のための、フルコースではないメニューもポアと総称される技術の中に含まれると考えられていることに気が付いた。

親鸞が念仏から辺地往生というスキームを案出したのも、むしろ肉体死が悟りのきっかけになりえない人の方が多いことからそれを発想したのではないかと、思いついた。

ダライラマの言葉。
『死の瞬間においては、長らく馴染んできた心がまえが表面に出て、生まれかわりを左右するのが常であります。

これと同じ理由で「我」に対して強い執着が起こるでしょう。なぜならわたしたちは「我」が存在しなくなることに怖れを感じるからです。この執着が、生と生の間の中有(バルド)の状態へとつなぐ繋ぎめの役割を果たし、肉体への愛着はバルド存在の身体をつくりだす因となります。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P377-378から引用)

なるほど、死の直後に地獄へ直行する人や、天国に直行する人や、クンダリーニ上昇プロセスにはバルドは出てこない。

津波で亡くなった多くの人々には、耳元で、意識の転移をささやいてくれる導師などはいなかったのだ。
だから我々は、今から自分で日々坐るしかない。







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一本の指に世界樹を見る

2011-05-28 07:21:20 | 丹田禅(冥想法8)
◎最初の指と後の指

『倶胝和尚が質問を受けると、いつもただ指一本を立てた。

ある時、外来の客が一人の少年僧に対して「ここの和尚はどんな法を説くのだ」と尋ねてきた。
すると少年僧は間髪を入れずに指を一本立てた。

これを聞きつけた倶胝和尚は、くだんの少年僧を呼びつけて、その指を刃で切り落としてしまった。
少年僧は、突然のことで、痛みと驚きで号泣してその部屋から走り去ろうとした。

倶胝和尚は、「ちょっと待て」と少年僧を呼び止め、少年僧が首を向けた瞬間、指を1本にゅっと出してみせた。

少年僧は、忽然として大悟した。』
これは無門関第三則にある話。

この指は只の指ではなくて、世界樹である。その一本の中に生の世界も死の世界も三千世界もあらゆる宇宙も含まれている。

児童虐待ではなく、ちょんぎられた指にそうした世界の秘密を見られるならば、夕べに死すとも可なりと云ったところ。

この童子は指一本だが、達磨の弟子の慧可は腕一本で、などと数えることに意味はない。これは手荒な作法だというコメントもあるだろうが、これを手荒というならば、先ごろの津波は人為ではなく神威だけれども、津波も手荒と言わざるをえないだろう。

童子でありながら大悟できる精神の熟成度がCool。





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何も見なかった、何も語らなかった

2011-05-27 05:59:59 | 究極というものの可能性
◎それを感じ取れるか

聖書の使徒行伝でサウロが、イエスの弟子たちを捕縛に行こうとしていた。そこで、サウロは何も見えなかった。
『ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。

すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。』


一方禅僧薬山は何も語れなかった。

薬山は、長い間説法をしなかった。
『ある日院主は、薬山に上堂して説法をしてもらいたいと願い出た。

説法を聞こうと大勢集まったところに、まもなく薬山がやってきた。

薬山は、しばらくじっとしていると、何も言わないまま演壇を降りて、自室の方丈に帰って戸を閉めてしまった。

院主が薬山を追いかけて「和尚、わざわざ上堂を許していただいたのに、何もしないで、お戻りになるとは、どんなものでしょうか。」

薬山「院主よ、経には、経マスターがいて、論には論マスターがいて、律には律マスターがいるものだ。(何も語らないからと言って)どうして私のことを不審に思うことができようか。」』

そのバイブレーションを感じてみなさいということか。
その感動は、AVメディアでは伝えにくいし、証明もしづらい。それでも感じ取れるかどうかが、分かれ目。






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孔子の見ていた悟り

2011-05-26 06:12:12 | 究極というものの可能性
◎雷風恒

孔子の見ている悟りは、恒でシンボライズされる。

恒は、亨(とお)る。咎(とがめ)なし貞(ただ)しきに利(よ)ろし。往(ゆ)くところあるに利(よ)ろし。
※恒は、永遠不壊だから亨る。悪事を犯さないので、善事ばかり行う。

彖(たん)に曰く、恒は久なり、剛上って柔下る。雷風(らいふう)相い与(くみ)し、巽(したが)いて動き、剛柔みな応ずるは恒なり。恒は亨る、咎なし、貞しきに利ろしとは、その道に久しければなり。
※剛なるクンダリーニが上がって、神の精妙が下って、それぞれが相応ずる。禅では卒啄同機ともいう。その道とは、タオであり、永遠の道。

天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。往くところあるに利(よ)ろしとは、終われば始めあるなり。
※悟ったら(悟らなくても)、現実の、食べるために働くなどということも起こる。終われば始まる。

日月は天を得て能(よ)く久しく照らし、四時は変化して能(よ)く久しく成し、聖人はその道に久しくして天下化成す。その恒とするところを観て天地万物の情見るべし。
※一旦悟ったら、そこを基軸として、行動を展開し、正しいものの見方をする。

象に曰く、雷風は恒なり。君子もって立ちて方を易(か)えず
※一旦悟ったら、諸悪莫作、衆善奉行という行動方法は変えない。


初六、恒を浚(ふか)くす。貞(ただ)しけれども凶なり。利(よ)ろしきところなし。
象に曰く、恒を浚(ふか)くするの凶なるは、始めに求むること深ければなり。
※精神世界も物質世界も両方成功できると思い込んでいたのだろうか。これが、恒を深くするということか。

九二、悔亡ぶ。
象に曰く、九二の悔亡ぶるは、能(よ)く中に久しければなり。
※究極=永遠を久しく味わえば、悔いはなくなる。

九三、その徳を恒にせず。あるいはこれが羞(はじ)を承(う)く。貞(ただ)しけれども吝(やぶさか)なり。
象に曰く、その徳を恒(つね)にせざれば、容(い)れらるるところなきなり。
※究極を一瞥した程度では、戻る場合があり、これを恥を受けるというのだろうか。正しいけれども今ひとつ。

九四、田(かり)して禽(えもの)なし。
象に曰く、久(ひさ)しきもその位(くらい)にあらず、いずくんぞ禽(えもの)を得んや。
※狩に行くのだから、ポイント・オブ・ノーリターンでは逆転・後退があることを云うのだろうか。獲物などあるはずもない。

六五、その徳を恒にして貞(ただ)し。婦人は吉なれど、夫子は凶なり。
象に曰く、婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す、婦に従えば凶なるなり。
※女性は一人の魂の伴侶に従って女性的自我が充足することが一つの悟りみたいなものなので、女性ならここでよし(吉)とするが、男性は、ダメ。男性はあくまでニルヴァーナという体験ではない体験を求められる。

上六、恒を振う。凶なり。
象に曰く、恒を振(ふる)って上に在り、大いに功なきなり。
※その悟りという神秘体験ではない体験も、それにしがみつけば、いつかその役得も失われる。悟り体験も賞味期限があるのだろう。





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孔子のスピリチュアル商売批判

2011-05-25 05:40:48 | 究極というものの可能性
◎恒なくんば、巫医を作すべからず

孔子も悟っていない人スピリチュアル商売を批判する。

(先生とは孔子のこと。子路篇)
『先生が言われた、「南方の人の言葉に、『その人が悟ってないと(恒なければ)、チャネリングもスピリチュアル・ヒーリングもやってはいけない』とあるが、結構だね、」
『その徳が究極に至ってなければ、いつも恥をかくことになる。』[という言葉があるが]先生は言われた、「(悟ってなければ)占わないだけのこと。」

(訓読)
子曰わく、南人言えること有り。曰わく、人にして恒なくんば、以て巫医を作(な)すべからずと。善いかな。其の徳を恒にせざれば、或るいはこれに羞(はじ)を承(すす)めん。子の曰わく、占わざるのみ。』

孔子は、もともと葬儀屋兼スピリチュアル商売を稼業としていたようである。弟子の子路は当然に孔子のことを悟った人だと思っていたが、論語を読む限りでは、孔子は悟っていなかったように思う。その悟ってない言行を材料にして、荘子に盛んに皮肉られた。孔子は晩年に至るまでは、悟ってなかったと思う。

この文は、平生、スピリチュアル商売を一家を挙げて展開しているマスター孔子が、自分が悟っていないことを棚に上げて、他のスピリチュアル商売がたきのことを批判しているという微妙なニュアンスを伝えているように読める。

悟っていない人は、実に思い切ったことが書けるし、言えるし、派手な行動ができるものだ。本当にそれを知る者は言葉でなんか言えはしない。それについては恭敬、謙譲な態度があるものである。

次に悟りのことである「恒」を易経で見たい。





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観-どこで観ているか

2011-05-24 06:18:24 | 現代冥想の到達点
◎易経の風地観

観想法は、世の中で宗派を問わず採用されている冥想法。観想法の観の字は、古くは、易経の風地観に出てくる。風地は、地の上を風が吹きわたって観である。しかし風地観は、特定のビジョンをイメージしようという冥想でなく、感じ取る・聞き守るタイプの冥想が想定されているようだ。

観は、盥(てあら)いて薦めず。孚(まこと)ありてぎょう若(ぎょうじゃく)たり。
彖に曰く、大観上(かみ)に在り、順にして巽(そん)、中正にしてもって天下に観(しめ)すなり。観は、盥いて薦めず、孚(まこと)ありてぎょう若たりとは、下観(み)て化するなり。天の道を観るに、四時たがわず。聖人道をもって教を設けて、天下服す。
象に曰く、風の地上を行くは、観なり。先王もって方を省(かえり)み民を観て教を設く。

君主が神祭で、手を洗って供物を進めない。これは誠があるからこそ、平伏しおろおろと恐れるさま。
神からの見方(大観)が上にある。順(地)にして巽(風)とは、風地のことで、中正にあって、天下を見ることができる。
君主のこのような恭敬畏怖の様をみて、下々はこれによって教化される。天の神道に誤りはなく、聖人は宗教を創設して、天下はこれに服するものである。
風の地上を行くは、観なり。先王もって四方をチェックし、民を観て宗教を創設する。

初六、童観す。小人は咎なし。君子は吝なり。
初六の童観すとは、小人の道なり。
※小人は小人なりの見識で観る。

六二、窺(うかが)い観る。女の貞に利(よ)ろし。
窺(うかが)い観る、女の貞とは、また醜ずべきなり。
※女性も女性的な自我の充足という世界観の中で観る。これが、貞(ただ)しい女ならばよいということ。

六三、我が生を観て進退す。
我が生を観て進退すとは、未だ道を失わざるなり。
※冥想により、わが生を観て(未だ神道(究極)に至らないので)進んだり退いたりするが、本道を見失ってはいない。

六四、国の光を観る。もって王に賓(ひん)たるに利(よ)ろし。
国の光を観るとは、賓を尚ぶなり。
※国全体を観れるならば、王の賓客としてアドバイスができる。まだ王ではないので賓客にとどまる。

九五、我が生を観る。君子なれば咎なし。
我が生を観るとは、民を観るなり。
※ここで、自分の生と民草の生が合致する。自分と他人の境がないので、一つの悟りである。君子という、神を少なくとも一瞥はしている者なので、咎めはない。

上九、その生を観る。君子なれば咎なし。
その生を観るとは、志未だ平かならざるなり。
※我でもなく民でもなく、「その生」を観る。生を観て、を観ないので、志は達していない。地上を見ただけでは足りないのだ。

そして、見る自分が残るから上九の第六爻に至っても志は遂げられていない。





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古いことは一切用いない

2011-05-23 03:44:39 | 時代のおわり
◎土地の因縁

出口王仁三郎の云うには、
『因縁の土地

 あの地には昔からこういう歴史があるから因縁の土地であるとか云うて、昔の歴史因縁ばかり調べて歩く人があつて、王仁の手許にもよくそうした書類が届く事があるが、大本の神業にはそんな因縁なんか全く不必要である。

お筆先にあろうがな。古い事は一切用いないと、何もが新しくなるのだ、因縁も新しく造り出すのである。

此度の働き次第で立派な神館でも出来たら其の土地が即ち神様の因縁の土地になるので、古い土地の因縁なんか何にもならぬのである。』
(玉鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)


那須の殺生石は、日本を滅ぼそうとした妖狐が退治された後も毒気を放って人畜に害を与えたという。これは、福島第一原発の冷温安定化後も放射性物質を放出し続けたようなことが、伝説となったものとも考えられる。

福島第一原発の事故は、福島の土地の因縁を全く新しいものに変えてしまった。福島の会津の方は、明治維新で惨たんたることになったが、いままた中通、浜通が、原発事故でやられてしまった。

これからの冥想の深まり具合で、新しくなった土地に、次々と神人が現れるようなことになれば、過去の土地の因縁歴史を云々する必要はない、ということならば、この出口王仁三郎の説はよくわかる。

『古い事は一切用いない』とは重い。古いものを一切棄てさせられることだから。





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原発事故てんでんこ

2011-05-22 07:26:43 | 時代のおわり
◎弱者から滅ぼす

津波てんでんことは、津波の時は家族を探さずに、一刻を争って、とにかくてんでんばらばらに逃げなさいということ。原発事故では、放射性物質は目には見えないけれども、てんでんばらばらに逃げなさいという言伝えはなかった。津波では逃げるが、すぐには被害が出ない原発事故だから、逃げなくても良いのだろうか。

このたび日本の首相が、中国首相と韓国大統領を呼んで、因果を含めて放射性物質のまぶされた安全?な福島野菜を食べさせて、福島野菜安全宣言に変えたのは、後世に語り継がれる世紀の珍妙な政治パフォーマンスとなること請け合いである。日本の民度、日本人の人品はここまで落ちぶれたかと語られるに違いない。

チェルノブイリの北隣がベラルーシ共和国で、その中でもゴメリ州が最高汚染州で、次がブレスト州であった。菅谷昭さんのチェルノブイリ診療記(晶文社)によれば、
チェルノブイリ事故発生後10年間の小児甲状腺ガン424名の出身地は、ゴメリ州225名とブレスト州97名と、この二州で圧倒的多数を占める。

なおかつこのうち4名以外はすべて事故発生前に生まれた子どもである。

さらにベラルーシ国立甲状腺ガンセンターの調査データでは、
『通常、世界的には、子どもの甲状腺ガンの頻度は、小児100万人あたり年間ひとりの割合であると報告されている。ベラルーシ共和国でも事故前はほぼ同じような値を示していた。

それが事故を境に漸次上昇してきたのである。
1990年では100万人の小児に対して12人、92年28人、94年35人、95年40人、96年38人と、明らかな増加が判明した。

これらの年度別ガン発生頻度を高汚染州であるゴメリ州だけに限定してみると、90年36人、91年113人、95年134人、96年120人と91年以降は世界平均の100倍以上に達している。またブレスト州でも96年は73人であった。

これらは極めて異常な事態と言わざるを得ない。一方非常に軽度の汚染州であるビチェブスク州では93年以降ガンの発生は認められていない

これらの系統的な分析結果を見るかぎり、ベラルーシ共和国が元来、とくに小児甲状腺ガンの多発地帯であるとは到底考えられず、汚染地域でのガンの急増は、事故の放射能汚染によって誘発された可能性を強く示唆している』
(チェルノブイリ診療記/菅谷昭/晶文社p75-76から引用)

軽度汚染地域については、チェルノブイリは早々に放射性物質の放出がほとんど止まったのに対し、福島第一原発は2か月過ぎてもまだ出続けているので、チェルノブイリと同様に見ることはできない。

いずれにせよ、ベラルーシでも地産地消を続けた結果こうなった前例があるのに、故意に地産地消を進めるのは、一人の人間としてどうなのだろうか。地産地消には、理由も事情もあるのだろうが、それは一人の人間の生き方としてどうなのだろうか。
自分を捨てるのが善の基本などという発想も直観も、そこにはない。てんでんこに逃げることを許さない考え方である。それでは、弱者から早く滅びる、子ども、若い婦人、老人から早く滅びる。


梅雨時に利根川水系の水道水が危ないという説があるが、過去2か月で何10京ベクレルという放射性物質が関東上空に降り注ぎ、それが山間や田園地帯の地表に付着しているが、それが梅雨時の雨の繰り返しで、利根川水系などに大量に流入、濃縮される可能性を云っているのだと最近思い当った。

除染しない限り放射性物質は降下した場所に残る。
五月雨を集めて早し最上川 ならぬ、五月雨で集めて濃くなる放射能である。





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神についてたずねる人々

2011-05-21 05:21:24 | 究極というものの可能性
◎死こそがビジョンを変容させる

OSHOの言葉。彼は、真の問題は神ではない。あなたは神の何を知っているというのだと肉迫してくる。
『愚かな人びとは神についてたずねるが、知性的な人は死を問う。そして神についてたずねつづける人びとは、決して神を見いだすことはない。

だが死のことを問う人は、必ず神を見出す。なぜなら、あなたを、あなたのビジョンを変容させるのは死だからだ。真の疑問、真正な疑問、生のもっとも重要な疑問を提起することで、あなたの意識は研ぎ澄まされる。

あなたのしかけた挑戦は、あまりにも重大であり、、いつまでも眠りにとどまっているわけにはいかない。あなたは目覚めねばならない。

死という現実に直面できるほどに敏感に目を見張らなければならない』
(ダンマパダ/OSHO/メルクマールP260から引用)

地震と津波と原発事故で、多くの人にとって、圧倒的で急速な死か、放射能による不可避で緩慢な死が自分の運命の一つであることを、個々人がれぞれの人格のキャパシティの大きさに応じて、直観することになった。

死が本当に身近に迫らなければわからない人と、大震災の映像を見たことでわかる人とそれに気づくタイミングはバラバラだが、釈迦の昔から、で打たれてからわかるよりは、鞭の影を見ただけで覚る方が機根は上である。

大量死があまり進まないうちに冥想を。





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エックハルトの離脱

2011-05-20 04:48:10 | 時代のおわり
◎離脱して神と一体になる

マイスター・エックハルトはキリスト教ではあまり採られない『離脱』という表現を用いる。

離脱とはあらゆる被造物から解放されることであり、神と合一することがその視野に入っている。

『わたしがわたし自身を強いて神へと至らせることよりも、わたしが神を強いてわたしに来たらせることの方が何層倍もすばらしいことである。

その理由は、わたしの側から神へと合一するよりは、神の側からの方がより強くわたしと結びつき、よりいっそうよくわたしと合一することができるからである。』
(エックハルト説教集/エックハルト/岩波文庫P236から引用)

離脱が神を強いてわたしに来たらせることについて、エックハルトは、離脱した心には一性と純粋性が備わっているが、神の本性にかなった固有の場もまた一性と純粋性だから、このようなことが起こると説明する。

ここでも、如来、来るが如し---な感触が語られている。

この神との合一ということはクンダリーニ・ヨーガ的なものなのか、只管打坐的なもののどちらを云うのだろうか。
引用した文章は、「離脱について」という小文だが、本人がどのように離脱したかは書かれていない。

彼はまた、離脱は、愛よりも謙虚よりもまさるとまで主張し、イエスが大衆に求めたのも離脱だとする。





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現代文明の行く末

2011-05-19 06:04:18 | 時代のおわり
◎次代に生き残る資格

東日本大震災は、千年の一度だから、世上には、もうこの規模の地震災害は起こらないものだと一般には思われている。

ヨハネの黙示録8章8節
『第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。
そして、海の三分の一は血となり、海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。』

これは、火山などの地殻変動が発生し、大津波も起こり、魚類も多く死に、船も沢山破壊される様子であるから、形態としては今回の大津波みたいな天変地異が世界的に発生し、その被害は世界の三分の一に及ぶことを見ている。
要するに、東日本大震災規模の津波、土地の沈降が世界のあちこちで頻発することを見ている。

出口王仁三郎もこの火力文明は滅びると見ている。原子力を主とする電気エネルギー体系を基盤とした動力系、列車、飛行機、自動車、船舶、バイク、冷暖房、エレベーター、家電、テレビ、ネット、ケータイ、あらゆる映像エンターテインメント、iPODそうしたものは、ほとんど次の時代にはなくなってしまうとする。

これは出口王仁三郎流の言い方ならば、電線が地中に埋まる時代にならないとダメとか、月日と土の恩を知れとか農本主義ということになるが、この言い方ではまず大多数は何のことか想像もつかなかっただろう。


要するに今さら文明がどのように滅びるかを問題にして、現行の文明をいかにして次代に残していくかをメインに考えるよりは、自分自身が次代に生き残る資格を持てるかどうかをメインに考えるのがオーソドックスだろうと思う。

その資格とは、額の神マークでもある。

ヨハネの黙示録9章は、地の底からアバドン王またはアポルオン王の指令を受けた強力ないなごが来襲し、
『彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。

彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。
その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。』

さそりは毒であり、この文では即効性のない毒であるから、放射線障害のシンボルである可能性もある。






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ガラップ・ドルジェの3つの遺言

2011-05-18 05:59:01 | 密教
◎空性は初歩

ガラップ・ドルジェはチベット密教のゾクチェンの祖師。彼は高弟のマンジュシリーミトラに3つの遺言を残した。

1.直接に自己の本性に導き入れる
ナムカイ・ノルプの説明では、
自己の本性とは、菩提心のことであり、もともと浄化されているすでに完成された心の境地のこと。ガラップ・ドルジェは、弟子たちに静寂(止)の修行をさせた。静寂な境地に入れば、空性の境地を見出すことができる。静寂な境地では空性以外、何もない。 
空性は初歩であり、そこから光明体験など他の体験が展開する。

2.疑いがなくなる
ナムカイ・ノルプの説明では、
単に知的に理解し学ぶだけでなく、体験を通じて疑いが取り払われること。

ここでは、ある神秘体験が期待されており、その体験がなければ疑いがなくなることなどないことを云っているのではないかと思う。

3.この本来の境地にとどまり続ける
疑いがなくなるという不退転の、体験とは言えない体験をしたならば、その境地にとどまり続ける練習が必要になる。
禅ならば聖胎長養ですね。

(参考:叡智の鏡/ナムカイ・ノルプ/大法輪閣)

ある神秘体験とは、中心太陽合一なのだろうが、ガラップ・ドルジェがそこまで踏み込んだかどうかは、今となっては定かではない。

 




悟りとは何か
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被曝ぶらぶら病

2011-05-17 04:19:16 | 時代のおわり
◎ソ連ですら子どもを集団疎開させた

被曝ぶらぶら病というのがあるという。これは、元広島の陸軍病院のお医者さんだった肥田舜太郎氏の見てきた原爆での被曝患者さんにそういう人がいた由。
だるくてだるくて30分も立っていられない、起きていられない。だから仕事もできないし、集中力もなくなる・・・・というような病気。

チェルノブイリでも似たようなことを云っている。チェルノブイリ事故後3年目の、ある被曝した女性の日記から。この女性の地区の人は全員この病気にかかっているという。

『私は母親で、四人の息子と四人の孫がいる。二三年学校に勤め、学校では一年生から十年生まで、だれもが私を知っている。私は教師ではないけれども、しかし、母として女として私は子どもたちを見守っている。私が目にしているのは何か。

最近子供たちは見違えるほど変わってしまった。何ごとにも無関心になってしまい、何にも驚かず、何も喜ばない。あくびをし、居眠りをし、疲れやすく、いらいらしている。

食欲がなく、顔色が変わってしまった。青白かったり、黄色かったり、灰色だ。子供たちの目はどろんとしており、いたずらをしでかすこともない。
子どもたちは式のとき、15-20分すると失神する。

みなが-----大人も子どもも------目の痛み、口の渇き、のどのひりひりやいがらっぽさ、めまい、手とくに足の関節の鈍痛を訴えている。これは何なのか-------放射線恐怖症なのか。

それなのにあなたたちと同類の人たちは、3年半私たちがストロンチウムを取り込み、生野菜からセシウムを取り込んできたことを認めたがらない。私たちと子どもたちは三年半、放射能が照射するこの土地で暮らし、焼きこがす空気を吸い、放射能を出す自分の土地でとれた物を食べてきた。
なにしろわれわれはきれいな水さえ奪われているのだから。

私はナロヂチ中学校で化学研究室助手をやっている。授業で私は硫酸銅の溶液を作らなければならない。私が硫酸銅を試験管に入れ、水道水を入れると、子どもたちの前に現れるのは青い溶液ではなく、緑の溶液だ。薬局に蒸留水をもらいに行くことになる。

私たちの体内は、水、土、空気から毒素を吸収している。そしてさらに------嘘と官僚主義からストレス性の心理的負担も吸収している。』
(チェルノブイリ極秘/アラ・ヤロシンスカヤ/平凡社p344-345から引用)

水、土、空気から毒素を吸収しているのは、東北、関東全域の住民である。汚染のひどい福島がこのまま3年経たら、このようにならないと誰が保証できようか。

チェルノブイリから60キロほど離れた大都市キエフの子どもたち全員は、1986年4月26日の爆発から20日ほど経った5月中旬にサマー・キャンプに疎開し、そこで8月まで過ごした。あのソ連政府ですら、キエフの子どもたちを疎開させてくれた分、現日本国政府より人間的な対策を採ったのだ。

どうして日本はこんな国に成り下がったのだろう。政治は三流だが、全体としては一流国だったはずだが。





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