アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

村田珠光の印可のあかし

2011-02-28 05:54:44 | 丹田禅(冥想法8)
◎圜悟禅師の墨跡

茶道の山上宗二記に、『円悟禅師の墨蹟 堺、いせや道和所持。右一軸は、昔、珠光、一休和尚より申し請けられ、墨蹟の懸け始めなり。』とあり、村田珠光の印可(悟りの証明)の証拠として一休より村田珠光に与えられたという。

円悟禅師とは、臨済宗の圜悟克勤禅師(1063~1135)のことで、碧巌録の編者。

室町時代の茶道では、唐絵を茶席に掛けるのが多かったが、村田珠光が茶室に圜悟の墨跡を掛けて茶会を催したのが墨跡を茶席に掛ける始まりとなって、以後武野紹鴎も古筆を掛けたなどとされる。

村田珠光の文書は、彼の高弟であった古市播磨宛の手紙である『心の文』くらいしか残っていないので大方は伝承である。

それにしても自分宛の印可状を焼いた一休が印可を出すのは良いとして、その一休に印可されたほどの男、村田珠光が、いわばこれみよがしに我が印可状たる圜悟禅師の墨蹟を茶室に掛けて茶をいただくというようなことができるものだろうか。そもそも客に見せるようなものなのだろうか。

師一休からの大恩の証ではあるだろうが、そういう印可の証は秘するのがゆかしい作法であり、かたや自分では墨跡一枚に何の価値もないことをもよく承知している。そんな村田珠光の心中を推し量れば、その仕方はおよそ侘び、寂び、凍み、枯れなどからは遠いように思える。

なお圜悟禅師の墨跡は、村田珠光のそれではないが、東京国立博物館にある由。





悟りとは何か

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太沖-2

2011-02-27 07:30:17 | 道教
◎必ず戻って来るポイント

淮南子の詮言訓。
ここでいう君子は、菩薩くらいの人。つまり悟った人だが、十牛図第三図程度のイメージか。

『君子は善行を行っても、幸福が必ず来るようにできるものではない。また悪行を行わなくとも、不幸が来ないようにしむけることもできない。

幸福がやって来ても求めてそうなったのではないから、それを自慢してはならず、不幸(禍)がやってきても、その原因を作ったわけではないから、その行動を後悔しない。

内面の修行が完成しても、不意の災禍がふりかかるのは、みな天がそうするのであって、人間のしわざではない。

故に心中が常に平静であって、その徳を損なわなければ、犬が吠えても驚かず、自分の本性(情)を信じる。

故に道を知る者は惑わうことなく、(自分の)天命を知る者は憂うことがない。

万乗の君主は亡くなればその遺骸を広野に葬るが、その魂魄は明堂の中に祀る。このように精神は、肉体・物質(形)より尊い。故に精神が優位となれば肉体・物質はそれに従い、肉体・物質が優位となれば精神は窮迫する。

肉体・物質など外的なものについて聡明に立ち回っても、必ず最後は精神に戻ってくる。

これを太沖という。』

その確信は犬が吠えても驚かないという程度のものかと思われるかもしれないが、ここでは積善と禍福を引き合いに出して、自分は善行しか行わず悪事をしないが、そんな自分に何がふりかかろうがそんなことは自分が知ったことではないというのが基本的な態度であることを説明している。

これは高度に私欲を捨て去った生き方であって、なかなかできることではない。犬に吠えられてもビックリしない所に話の力点があるわけではない。

換言すれば、たとえばある不幸な出来事があったとして、前世がこうなったから、それが原因で現世ではこうなっているなどという説明に関心を持つことは、百害あるのみ。そういう興味の持ち方はやめなさいと言っているのである。

そういう興味の持ち方を霊がかり的と呼び、このブログではお勧めしていない。

そしてあらゆる人間的営為は、最後には精神的なものに立ち戻る。その根源を太沖という。太沖とは、精神の側の最も深遠なるセントラル・ポイントということになるだろう。






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太沖-1

2011-02-26 06:25:02 | 道教
◎ニルヴァーナを霊能力者が見立てる

荘子の応帝王篇から。
『鄭の国に季咸というシャーマンがいた。このシャーマンは極めて有能であって、人の 死生存亡、禍福、長命短命をことごとく予言し、的中せしめた。

ある日列子が、このシャーマンに会って、とても興奮して師匠の壺子にそのことを語った。すると壺子は、お前は修行中の身でまだ真実を得ていないが、面白そうだからシャーマンをここに連れてきなさいと命じた。

翌日3人が顔を合わせたところ、季咸は、列子に、「湿った灰が見えます。あなたの先生の壺子は、10日以内に死ぬでしょう。」と予言した。

列子は、この悲劇的内容を涙で襟を濡らしながら壺子に告げると、壺子は、「なあに、わたしは、徳が塞がれる機(杜徳機)つまり地文という生命は内に含むが動くでも止まるでもないふうを見せただけだ。もう一度連れてきてみなさい」と。

翌日また3人で会った。今度は季咸は列子に、「生命の芽生えが見えます。あなたの先生は、すっかり元気になるでしょう。」と語った。
これを聞いた壺子は、「なあに、わたしはあいつに天地を見せてやっただけだ。生命の機(善者機)が踵から出ている様子をな。また連れてきてみなさい。」と解説した。

翌日また3人で会った。三度目は季咸は列子に、「あなたの先生は斎戒しないので占えません。斎戒してからまた占いましょう」と言うので、列子は壺子に斎戒を頼んだ。
すると壺子は、「わたしは、さっきは太沖莫勝を見せてやったのだ。」

更に三人はもう一度会うが、季咸はその回では、壺子から何も感じることができずに逃げ出した。

この事件を機に列子は三年間家を出ず、修行に真剣に打ち込むことになった。その間、妻の代りに飯をたき、豚に人間と同じ食物を与えるというあらゆる先入観から離れた生活を行ったという。


さて太沖とは大いなる空虚のこと。そして莫勝とは、勝(まさ)るものなし、だから太沖莫勝とは至上の空虚のことであって、相応するものとしては、ニルヴァーナがそれに当たるように思う。

太沖については、この件の霊能力者が見極められなかったというだけでは、説明が不足しているように思う。(続く)





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パーフォーマー利休

2011-02-25 06:11:46 | 丹田禅(冥想法8)
◎花入れに水だけ入れて飾る

永禄10年、利休は、東大寺大仏炎上といった乱を避けて堺にあった蜂屋紹左、大和屋正通、松屋久政の三名を自室に招待し、紫銅無紋の「ノハシ」花入れに水ばかり入れて飾った。

師匠北向道陳の勧めで、利休は武野紹鴎に入門しようとし、庭の掃除を命ぜられた。利休は庭をきれいに掃き清めた後、わざわざ葉を落としてみせた。この様を見て武野紹鴎は入門を許した。

堺に火事があって、利休宅が類焼した。武野紹鴎がこれを見舞ってみると、焼けた地面の灰をかき払い、破れ瓦など取り集め飛び石にしつらえて、早茶の湯の心がけがあったという。

これらパフォーマンスは禅機というようなもので、禅特有の一対一の一瞬の油断も許さない機鋒が見て取れる。要するに師匠武野紹鴎や招待客と弟子千利休の間で真剣な禅問答を交わしているようなものである。

こうしたパフォーマンスは、即興芸術としては一流のものだと思う。しかしながら武野紹鴎も千利休も悟ってなかったみたいので、芸術作品としては一流だが、求道者としては完成を見なかったというコメントになろう。

茶の湯という芸道者トップが、名物への目利きに執着して見せるなどは、真相を知らない者に物欲を掻き立てるだけであって、涅槃を求める者にとっては邪魔であるはず。当時は領地などの恩賞のかわりに名物を出していたという事情もあり、邪道ながら食うためにはやむを得なかったかもしれない。






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茶の湯色色

2011-02-24 06:17:54 | 時代のおわり
◎侘びと契り

安楽庵策伝は、利休と同時代の人で、その著書醒睡笑に「茶の湯」の段がある。

その中に利休が生前、わびの本意として常に吟じていた歌として、これを挙げる。

花をのみまつらん人に山さとの
雪まの草の春をみせばや

現代風にこれを読めば、雪間の草の春とは、次の至福千年。花を待つとは、現代文明の更なる繁栄を待つ姿勢。

侘びという見方であれば、侘びこそ精神性の花であり雪間の草の春、この歌の冒頭の花とは物質的面での繁栄を指す。侘びというからには、みかけのネガティブさを敢えて避けない。

醒睡笑にはこの文に引き続き夢庵の作として、気にかかる友人とは忘れることのないように

契りありやしらぬ深山のふしくぬ木友となりぬる閨のうつみ火
などとある。

茶室で、深山の節クヌギみたいな関係で友人となってしまった閨の埋み火
男色を暗示する。

これは笑い話だが、出口王仁三郎は、戦国時代の茶室こそ今の高級料亭みたいな政治・軍事の密談の場であったと喝破する。平和な時代の人は密室で何をするかといえば、まずは色色のことしか思い浮かばないものなのだろう。





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冷え、凍み、寂び、侘び

2011-02-23 06:04:23 | 丹田禅(冥想法8)
◎恋、秘すれば花

日本の芸道は、その一片の恋心なくしては始まらなかった。その恋心を秘すれば花に変ずる。

室町時代のポップ・カルチャーである能・連歌・茶の湯のでは、定家の言う「情」(恋心)を秘する道具立てとして、「冷え」「凍(し)み」「寂(さ)び」「侘び」を盛んに用いた。

情(恋心)を引き立たせる背景として、あるいは補色として「冷え」「凍み」「寂(さ)び」「侘び」を盛んに用いたのである。

冷え、凍み、寂び、侘びと言えば、この情緒を端的に示しているようなのは、中国の禅僧趙州十二時の歌である。

趙州十二時の歌の生活は、世間的にはワーキング・プアやノン・ワーキングプアとしか言いようがないが、そこに花たる正念・リアリティを見なければならないのである。枯木寒巌に倚る、三冬暖気なしの風情にあって、陽光を感じとらねばならないのである。

またこの辺の消息は、ダンテス・ダイジの石ころの心から暖かいものが流れだす風情からも感得することができる。冷え、凍み、寂び、侘びが石ころの心の風景なのである。

これを世阿弥は花鏡の中で「さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所あり」と解説する。世阿弥が、石ころの心に出会ったのか、あるいは一体となったかはわからないが、世阿弥は、それを直観したのである。

こうした室町芸能の源流が夢窓国師から出ていることに、夢窓国師の見かけ以上の偉大さに改めて感じ入る。





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茶人武野紹鴎のリアリティ

2011-02-22 06:04:09 | 丹田禅(冥想法8)
◎一片の恋心

茶人で誰が徹底していたかと言えば、利休に非ず、武野紹鴎に非ず、村田珠光である。よって、茶の湯は、この三者で三様。村田珠光では求道であったが、武野紹鴎、千利休と進むにつれてファッション禅みたいになってしまったところがある。冥想もファッション冥想になると落ちる。ファッショナブルでアトラクティブであるかもしれないが、そこに冥想の高みはないからである。

さて一日、「定家の詠歌大概之序」の講義を聞いて、武野紹鴎は、定家の歌である
見渡せば 花も紅葉も なかりけり
浦のとまやの 秋の夕暮
(新古今和歌集)
の中に、草庵の侘び茶の理想を見いだしたとされる。

この歌では、「花も紅葉も」がリアリティであり、「浦のとまやの 秋の夕暮」がドリームである。


これに対し、同じ定家の歌

いつわりのなき世なりけり神無月誰がまことよりしぐれそめけん
(いつわりのない世であったことよ、神無月になると必ず時雨が降るが、いったいだれの誠が天に通じたのあろうか)(続拾遺)

いつわりのない世を見るのは第六身体以上であるから、定家もなかなかの境地である。無明と明、ドリームとリアリティ、迷いと悟りの違いがわかる男の一首である。

ところが、詠歌大概之序には、「情(こころ)は新しきを先とし、詞(ことば)は旧(ふる)きを用いるべし」とある。ことばはともかく、歌で何を表現するかといえば情なのである。

昭和の古神道家出口王仁三郎は、生涯に何万首も作ったが、彼は和歌の秘訣を恋心にあるとした。定家のいう情とは、この一片の恋心であろう。恋心なくしては、日に何百首も産むことはできず、相手の懐に飛び込んだ歌も生まれまい。

求道者にとっては、恋心、恋着、愛着は切って棄てるべき修行の邪魔だが、恋心なくしては、現実生活は潤いも味気もないものとなる。この一片の恋心こそ日本文化の粋なのではないだろうか。





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パタンジャリのアーカーシャ

2011-02-21 06:07:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎アーカーシャの原義

パタンジャリのヨーガ格言集から
『アーカーシャと肉体との関係にサムヤマをつくり、綿や毛などのように軽くなって、それらを瞑想しつつ、ヨーギは天空を行く。

このアーカーシャは、この肉体の材料である。肉体になっているのは、ある形態をとったアーカーシャにほかならない。もしヨーギが彼の肉体のこのアーカーシャなる材料の上にサムヤマをつくるなら、それはアーカーシャの軽さを得、彼は空中を通ってどこにでも行くことができる。他の場合も同様である。』
(ラージャヨーガ/ヴィヴェーカナンダ/日本ヴェーダーンタ協会p210-211から引用)

後半の解説は、ヴィヴェーカナンダの説明。彼によるとアーカーシャはエーテルだとしているが、三種ある体外離脱のうちエーテル・トリップやアストラル・トリップのことがアーカ-シャであるとは思えない。なぜならば、エーテル・トリップやアストラル・トリップはニルヴァーナ、神、仏とは関係ないからである。

空中を通ってどこへでも行くというが、アストラル・トリップではどこへでも行けるわけでもあるまい。アストラル宇宙を抜けられまい。

ヴィヴェーカナンダの説明では、サムヤマとは、『こころが対象は外にあるという印象をすてて、それの内なる印象と一つになるとき、そして長い修行により、それが心によって保持され、また心が一瞬のうちにその状態に入れるとき、それがサムヤマである』(ラージャヨーガ/ヴィヴェーカナンダ/日本ヴェーダーンタ協会p201から引用)

サムヤマというある特殊な意識状態にあって行けるところとはどこか。それが重要なポイントだと思う。





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テレビでの人間の表情

2011-02-20 08:25:36 | 時代のおわり
◎虚妄を見せる

何年か前に秋葉原の路上で、テレビで時々見かける長身の美人女性リポーターが現地レポートみたいなことをしていたのを見かけた。注目させられたのはその表情。
とびきりの笑顔なのである。

日常生活の中で、こんな満面の上機嫌な表情をすることは滅多にない。でもその女性リポーターは、平然とその表情を崩さずにロケを続けているのである。

ここで、テレビに出ているタレントやアイドルは、皆この表情であることに気がついた。テレビで見せている笑顔は外向きの営業用の上質な笑顔なのである。その顔は平素のものではないのだ、と。

山上宗二は、利休の高弟だが、利休より先にみまかった。秀吉の勘気をこうむり、耳や鼻を削がれて殺された。「長闇堂記」(奈良春日大社の禰宜で茶人 久保利世の随筆)には、山上宗二のことを評して「いかにもつらくせ悪く、口悪きものにて、人のにくみもの」であったというからには、人から憎らしく思われるような表情であって、毒舌だったのだろう。このような、見ただけで表情が憎らしく思われるような人は、悪役キャラの人は別にして、テレビに出るようなタレント、アイドルとしては、まず使わないものだとわかった。

表情と言えば、出口王仁三郎高熊山の洞窟に最初に籠もった頃は20代でもあったし、あまりいやみの感じられない颯爽としたクンダリーニ・ヨーギ然とした表情である。

これが晩年になると、何度も投獄されたり、軍や政財界の権謀術数で辛酸をなめてきたせいか、口元にその不如意をかこつような表情がいつも漂っている。当然ながらその表情に見る者に対しての媚びなどはない。

テレビ、特に民放だが、いつでもとびきりの笑顔を見せて元気づけるという意図はわかるが、そんな空騒ぎも底が割れているのではないだろうか。NHKはそこまで視聴者に媚びは売らないが、テレビ番組の虚妄が彼らの表情からも推察されたワン・シーンだった。
笑顔洗脳ですね。





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やりたくないことをさせる技術

2011-02-19 06:11:42 | 時代のおわり
◎洗脳ジャングルな日常

かつてのオウム真理教事件の時は、人は、あるいは仏教者は、洗脳や特殊な教義やグルの指令でもって殺人を犯すことができるかどうか、ということを疑問に思ったものだ。

一般人にとって殺人は罪悪感を伴うものであるが、軍隊の側からすれば、罪悪感がある限り戦闘において兵隊に効果的に銃の引き金を引かせることができないので、その罪悪感を紛らせて発砲率(第二次世界大戦の米兵の発砲率は15~20%)が向上するようになんとかしようとするものである。

戦争とは殺人のことだが、人はそれを認めたくないものだ。人は殺人の直後は高揚するが、やがて自責の念に囚われ、更に時間がたつと殺人そのものを合理化し受容していく。その自責の部分を緩和しようという心理操作である。米軍はこの手法でベトナム戦争での発砲率を90%以上に高めたと言われる。

それは一種の洗脳技法なのだが、脱感作、条件づけ、否認防衛機能などの組み合わせにより、殺人への心理的抵抗感をなくしていくのである。

脱感作とは、考えられないことを考えする(させる)こと。つまりランニングしながら「殺せ、殺せ」と連呼させる訓練。これでもって、なんだか自分は殺人を納得した気分に段々なっていく。

条件づけとは、考えられないことをする(させる)こと。これは特定の行動をするとある種の報酬が与えられるという練習。兵士は完全武装してタコつぼに入り、なだらかに起伏した土地に時々人型のまとがパッと出ては、サッと引っ込むのだが、その的への射撃訓練を行う。腕が上がれば報酬が与えられ、はずしまくると再教育や同僚の圧力やコースを卒業できないなどの懲罰がある。これにをよって、ヒトはいつか殺人を積極的に行うようになる。

否認防衛機能とは、考えられないことを否認する(させる)こと。人はイヤなことをさせられる時は、無意識に自分は実はそれをやっていないのだとか「否認」して、トラウマにならないように自己を「防衛」すること。
兵士は何度も人型の標的射撃訓練を繰り返すことにより、内心「これは標的射撃であり、殺人ではない」と次第に思い込むことができるようになる。これが否認防衛機能である。更に殺された相手は、殺されるに値するクズだなどと軽蔑させることで、それに磨きをかけると自責の念は軽くて済む。

そのように極めて巧妙な洗脳だって副作用もある。ベトナム米兵でPTSDに苦しむ者は50万人とも150万人とも言われる。また洗脳自体も何年も効果を持つわけではない。
(以上参考:戦争における「人殺し」の心理学/デーブ・グロスマン/ちくま学芸文庫)

これらは、人がその本性に照らして(性善説ですけど)、本来やりたくないことをやらせる技術である。この技術は、あいにく商品販売にも、政治宣伝にも、ネット広告にも、テレビにも広汎に応用されているので、じっと日常生活をしているだけで、人は妙な洗脳をされまくっているのである。やりたくないことをやらせるのは、全体主義国家や、秘密警察の発達した国家ばかりではない。こうした洗脳ジャングルな日常を、われわれは正気を保つというサバイバル戦を行っているともいえる。

悟りへのプロセスということで見れば、向こうから来るものではなく「人為的」な目標・狙い・意図を持ったものを目指す行動は、涅槃、神、仏に向けてはことごとく失敗するので、まずは人為的な意図を振り捨てることから始めるのが冥想というものだろう。洗脳されることは極力避けた方が望ましい。でも何事も本気で取り組まないと本当のことは何も起きないという法則もまたある。 





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身体と心を整えて悟る

2011-02-18 05:56:04 | 只管打坐
◎道元の学道用心集から

道元の学道用心集から
『思うに、骨を折り髄を砕くような肉体的にも過酷な修行も、難行であろうが、心を調えることのほうがとりわけ難しい。日中一食の食事や欲望を離れる戒律を厳しく守ることもまた難しいことであろうが、一々の所作や日常の一挙手一投足を調えることのほうがさらに難しい。

もし身を粉にするような厳しい修行を貴ぶべきであるならば、これを忍んだ者は昔から多くいるけれども、仏法を会得した者は少ない。
日中一食の修行を行う者を貴ぶべきであるならば、古からそのような者は大勢いるが、道を悟った者は少ない。これはつまり心を調えることが非常に難しいからである。

聡明であるかどうかを第一とせず、思慮分別の心を第一とせず、念想観を第一とせず、これらすべてを用いないで、そして身体と心を整えて、それによって仏道に入るのである。』
(永平初祖学道用心集-道元禅師全集第14巻/春秋社P62から引用)

※日中一食の修行:一日一食しかとらない戒行

この文では、苦行や観想法も含めいろいろな修行法があるが、そのような行よりも心を整えることが難しいために、悟った人は少ないとする。更に身心を整えて(身体と心を整えて)仏道に入るとする。

それでは身体と心を整えるためには、どんな行法、坐法が良いのかという疑問が浮かぶのだが、それには答えないまま、「身体と心を整えて」悟るのだと強弁しているように見える。

そこで道元の坐法と言えば只管打坐。「身体と心を整える」には只管打坐によるしかないと、論理的ではない言い回しで語っているように見える。

毎日只管打坐ばかりやっている修行僧に向かって語るのだから、こんな言い方になるのだろうか。





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絶対的一者が合理的説明を拒否すること

2011-02-17 06:13:00 | 究極というものの可能性
◎心を利用して心を超越する

『脳はいかにして神を見るか/アンドリュー・ニューバーグ他/PHP研究所』によれば、

1.絶対的一者は、道、涅槃、神秘的合一、梵我一如などと様々な呼ばれ方をしているが、これは純粋な気づきであり、明晰な無の意識である。
神秘家たちは、これを理性によって理解することはできず、合理的に描写できないとしたが、そうしたチャレンジを行ってきた。

2.そこに至るまで、人はまず自己の具象化を行い、最後に主観的な自己の気づきを捨てる。
自己の具象化とは、赤ん坊の行動が脳内に自己とそれ以外の線引きを積み重ねることから自己が現実感や真実味を積み重ねていくこと。これによって、思考、感情、意図、行動、記憶などが自分のものとして認識される。
この著者は、この自己は心とは別物と見ているのだが、新たな感覚情報がなくなると、心が自己だという認識の制限が取り払われるのではないかと見ている。

3.しかし
『われわれの神経学的モデルは、純粋な意識を体験する機構については、かなり巧妙に説明できるが、絶対的一者の状態の本質については何も証明することができない。それはまた絶対的な存在が、単なる脳の状態にすぎないのか、あるいは神秘家たちが言うような根源的なリアリティーであるかも説明することができない。それでも、神秘家たちが妄想に囚われているわけでも、精神病でもないことは確かであるようだ。彼らは自分たちの体験のリアルさについてまったく疑問を持っていない。』
(脳はいかにして神を見るか/アンドリュー・ニューバーグ他/PHP研究所p221-222から引用)

これは絶対的一者を、心理現象あるいは、脳内の神経反応として見るかぎり、この結論を出ることはない。

茂木健一郎が、あとがきで、「宗教的体験も脳の神経活動で起こる」と上記引用文の内容と異なることを書いているが、茂木健一郎よりこの本の著者たちの方が、悟りという体験ではない体験について真摯で素直に取り組んでいることがこれでもわかる。

悟りは、あるいは絶対的一者は、心を利用して心を超越するというプロセスをたどる。つまりその途中のプロセスでは、脳の神経活動も心理現象も起こるが、最後は現実そのもので起こるから、その究極のイベントのクライマックスでは、脳の神経活動の地平も心理現象の地平も飛び出してしまう。

だから合理的な説明も理解もできないし、神秘家たちの確信にゆるぎはないのだと思う。





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Facebookとプロファイリング・ビジネス

2011-02-16 06:22:27 | 時代のおわり
◎無防備に売られかねないプライバシー

人間のプライバシーには、2種類あり、公的な部分と私的な部分である。公的な部分とは本名(実名)、国籍、経歴、職業、住所などで、私的な部分は、結婚歴、家族の情報、既往症、宗教、信条、趣味などである。

Facebookは、このうち公的なプライバシーを公開することを要求してくる。Facebookでは、最近実名でない登録の複数の有名人がアカウントを削除されたことで話題になった。

日本では個人情報保護法の規制が厳しく、個人情報を取得する場合は、その取得のやり方や用途、保存方法までが、厳しく規制されている。Facebook内部では、それがある程度オープンにされるから、友人が誰の知り合いであるか検索ができる。それって個人情報保護法をクリアできているのだろうか疑問なところがある。

アメリカでは、日本とは比較にならないほど個人情報保護規制が緩いので、プライバシーを売買、収集、蓄積、転売する業者が多数存在する。自分の個人情報が自分の知らないうちに売られまくるのである。Facebookもプライバシーを売買、収集、蓄積、公開、利用するのだろうから、そうした業者の一つとして見れないことはない。

アメリカでは、個人情報販売業者が扱う個人情報は、運転免許、出生、死亡、結婚、離婚、カード、従業員、前科、会員制クラブ・メンバーなどであって、個人情報が蓄積されているとおぼしき所からほぼ無制限に情報を収集し提供できる仕組みになっているらしい。その売買価格も1件何万円ではなく、1件1セント以下のものからある。

そのあたりは、『プロファイリング・ビジネス~米国「諜報産業」の最強戦略』という本に詳しいのだが、その結果、アメリカではピザ配達員の4人に一人に前科があるらしいとか、誤ったテロリスト情報が出回ってテロリストに誤認された人が飛行機に乗れなくなるなどの実害を受けているにも係わらずその情報を修正する手段がないなど、極めて混乱した状態になっている。

こうしたプライバシー乱売は、9.11事件以降ひどくなった由。治安・セキュリティ確保、テロリストあぶりだしのためにこうした状況が始まったのだろうが、こんなアメリカには隠れる場所はどこにもない。

Facebookは、チュニジア、エジプトの政変で名を挙げたが、その依って立つ個人情報規制の土壌が全く異なることには十分な注意がいる。Facebookは、個人情報の黒船である。これでは、Facebookが将来の政府による言論統制の道具に容易になり得ることを懸念する人は少なくないだろう。





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見よ、速やかに、そして迅速にそれは来る

2011-02-15 05:58:26 | 時代のおわり
◎処刑者が来る

これは、イザヤ書にある、イスラエルがまず地震に襲われ、次いで遠方の国民がイスラエルを襲う段。

その圧倒的な勢力が駆逐する様は、一方的なだけに霊界物語の野火の壮観を思わせるものがある。野火の壮観の段でもそうだが、聖なる一者は、きっとその一戦の結果を見て、「濛々と立ちたつ煙見てあれば、国土の禍消ゆる楽しさ」などと、超「上から目線」にて快哉を叫ぶに違いないが、その見方には人間への愛着の薄い、石ころの心が見え隠れする。

イスラエルは、かつて神の選民だった。強大なるものはやがて弱小となり、上のものはやがて下となり、下のものはやがて上となる。神の選民もやがて・・・・。


『それゆえ、主はその民にむかって怒りを発し、
み手を伸べて彼らを撃たれた。
山は震い動き、
彼らのしかばねは、ちまたの中で、
あくたのようになった。
それにもかかわらず、み怒りはやまず、
なお、み手を伸ばされる。

主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き、
地の果から彼らを呼ばれる。
見よ、彼らは走って、すみやかに来る。

その中には疲れる者も、つまずく者もなく、
まどろむ者も、眠る者もない。
その腰の帯はとけず、
そのくつのひもは切れていない。

その矢は鋭く、その弓はことごとく張り、
その馬のひずめは火打石のように、
その車の輪はつむじ風のように思われる。

そのほえることは、ししのように、
若いししのようにほえ、
うなって獲物を捕え、
かすめ去っても救う者がない。

その日、その鳴りどよめくことは、
海の鳴りどよめくようだ。
もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、
光は雲によって暗くなる。』
(口語訳聖書イザヤ書5-25~30)





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アカシャ宇宙の叡智

2011-02-14 04:13:39 | 超能力・霊能力
◎ゲリー・ボーネル

霊能力者は、悪と対決することを主たる仕事としているケースが多いが、「アカシャ宇宙の叡智」は、これまた壮烈なバトル・ストーリーだった。

ゲリー・ボーネルは、七つの身体、七つのチャクラの認識をちゃんと持っている。悟っていないことも自覚している(「アカシャ宇宙の叡智」P449)。ただしそのアストラル・トリップは、相当な手練である。

ただしアストラル・トリップはいわば水平移動であり、垂直移動ではないから、熟達したクンダリーニ・ヨーギからはあまり評価されない。

アカシック・レコードというものを世界中の人が知るきっかけになったのは、エドガー・ケーシーを嚆矢とするが、彼は更にそれを強力に宣伝した人物といえる。

同じ悪玉との霊界バトル・ストーリーとしては、出口王仁三郎の霊界物語が有名だが、アカシャ宇宙の叡智ほどに個々の戦いのディテール描写がされてはいない。

同じクンダリーニ・ヨーギであっても、出口王仁三郎は、教団組織も持って、日本という国家の行く末そのものに、大衆を持って働きかけようとした政治性の高い人物であったのに対し、ゲリー・ボーネルは、確かにそれなりに戦ったが、グループ転生してはいるものの、基本は一匹狼での戦いであったという違いがある。

出口王仁三郎は、アストラル・トリップも時折はしていたが、それも多数ある能力の一つとしての位置づけだった。

知らぬが花という言葉があるが、アカシック・レコードで、ボーネルが見た過去の歴史は、大量虐殺の場面が少なくなく、学校の歴史教育からは想像も付かない惨劇に継ぐ惨劇である由。気軽に前世記憶を覗こうなどとはゆめゆめ考えない方が幸せなのだろうと思う。

興味本位でアストラル・トリップにトライしたり、過去世に関心を持つよりは、まずは「今ここ」に如かずである。





悟りとは何か
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