アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

臨死体験とパノラマ現象

2011-01-31 06:15:32 | クンダリーニ・ヨーガ
◎肉体離脱直前のステップ

吉本隆明の『死の位相学』の巻末に、雑誌潮に読者から投稿された臨死体験が20例ほど上がっている。

臨死体験は、必ずこの世に戻ってきた例であり、天国行きあり、中有行きあり、地獄行きありとそれぞれ行く先のバリエーションはあるが、涅槃、ニルヴァーナに行き着いた例はないようである。

臨死体験とは、肉体死状態からの生還なので、そこだけ捉えれば、クンダリーニ・ヨーガにおける中心太陽突入体験と同じ。しかし、過去も未来も、地球も星座も飛び越えて、中心太陽にアプローチしたエピソードはこの中にはなかった。

それだけに、中心太陽突入体験というのは、レアな体験だが、臨死体験の中で起きたことを精密に描写できる感受性を十分に持ち得るのは、熟達したクンダリーニ・ヨーギだけなのだろうと、改めて思った。

ただ多くの臨死体験例にパノラマ現象が随伴していることは注目点である。
曰く、ものごころついてから、そこまでの記憶している出来事をフラッシュバックみたいに思い出した。

曰く、それまでの○年の人生がパァ-っとでてきて、いろんなことがよみがえってきた。

曰く、自分の半生を走馬灯のように思い出し、それまでの人生を映画館の客席にいるようにして見た。その中には自分が全く忘れていたことも沢山あった。

曰く、三歳頃から今までの記憶が全部よみがえってきて、ほんとに細かく、いままで全然思い出したことのないようなものまで明確に見た。


共通点としては、前世を思い出したなどという例はないこと。これは仮説だが、肉体から離脱する際に、肉体である脳に展開している、今生のすべての出来事のフィルムが巻き取られるステップがあって、それがパノラマ現象なのではないか。なぜそう考えるかというとパノラマ現象の後に、体外離脱して一歩その先に進むような記述(落ちていく、暗い世界に浮くなど)が大体あるからである。

またパノラマ現象の後、明るい生の部分と死の暗い部分を見るケースがある。臨死体験といっても肉体が完全に機能停止してから帰ってきたケースと、部分停止から帰って来たケースが当然あろう(チベット死者の書では、死の進行のプロセスが詳述されている)から、このケースは、生の部分を見ているということは、まだ生の部分を残しているのだろうから、部分停止から帰って来たのではないかと思う。



悟りとは何か
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ゲリー・ボーネルのエーテル体論

2011-01-30 09:42:40 | チャクラと七つの身体
◎記憶の継承とボディ

ゲリー・ボーネルのエーテル体論は、伝統的な見解と違っている。

ゲリー・ボーネルは、宇宙人の話や、前世の記憶などの霊がかり系を得意としているが、彼の見ているアカシック・レコードは、どんな霊界なのか。よく言われるのだが、未来予知は、霊界に展開する未来ビジョンを見て、それでもって予言するのだが、その霊界はどんな霊界なのかがポイントとなる。

つまり彼の見た霊界(アカシック・レコード)は、地獄に近かったのか、天国に近かったのか。更にいえば、それは近い将来この世に現実化する霊界を見たのか、現実化しない霊界を見たのかということが重要なのである。

さてゲリー・ボーネルのエーテル体論は、肉体にもエーテル体があり、魂にもエーテル体があるという説明が基本。おまけに魂のエーテル体は、何度も転生を経ても崩壊しないようである。それってエーテル体ではないのではないか。

またゲリー・ボーネルは、魂という言葉をよく使うが、その魂って何だろう。輪廻の主体なのだろうが、今の切羽詰まった時代に、『より良い転生の実現』みたいな功利的発想は、神に近づくという方向性とは逆であることを忘れるわけにはいかない。

つまり、ゲリー・ボーネルの言説では、『より良い転生の実現』と『神に近づく』は、実は相容れないものであることが、忘れられているようなところがあるように思う。


『人間を見ると肉体に接して外側にエーテル体があって、その周りに一種の放射状の光、後光のようなエネルギーがあります。そのエーテル体には記憶が記録されています。記憶というのは肉体の中に存在するのではなく、エーテル体に存在します。

脳には出入り口があって、対応するエーテル体の記憶とつながっています。でも脳は単なる出入り口にすぎず、体の細胞も同様の出入り口になれます。だから、体のあるポイントを押さえると、突然記憶が、しかも今生に関係ない記憶がエーテル体の中から出てくることがあるのです。

魂にも、エーテル体があります。魂は本当に大きくて、すべてのタイムライン(転生)を螺旋状に訪れていますから、大きなエーテル体の中にすべての記憶をとどめています。

肉体にもエーテル体があり、魂にもエーテル体があります。その両方のエーテル体のまじり合う場所、結合する場所が、パーソナリティ/エゴ、人格/自我の活動する場所です。このダイナミクスが記憶を加工します。魂のエーテル体と肉体のエーテル体の転生のハーモニクスが、五感に入ってくるインフォメーションをどのように取り入れるかに影響を与えるのです。

肉体のエーテル体、つまり身体感覚意識のエーテル体は、継続し続けるものです。その中には7世代分の記憶が保持されていますが、一番影響を与えているのは直前の転生です。

魂のエーテルと肉体のエーテル体が結合してひとつの転生を生きます。結合して生まれたプラスとマイナスの傾向性をもち、ある転生ではかなりポジティブな出来事と記憶していても、次の転生では同じ記憶がネガティブなものになってしまいます。なぜなら魂は毎回違う肉体と結合しているため、それぞれの転生が、そのときどきのハーモニクスの領域を持っているからです。』
(超入門アカシック・レコード/ゲリー・ボーネル/徳間書店p218-219から引用)

死後、エーテル体が崩壊すれば、その肉体のエーテル体(そういう区分があるとすればの話だが、)の記憶(過去7生の)は消滅するのだろうか。





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七つの生気の放出

2011-01-29 06:46:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎エーテル体崩壊がリミット?

ネパールのカトマンズの釈迦族の臨終儀礼から。病人のケースで呼吸数は一分間に35以上になると危篤である。

『患者が未成年であれば、呼吸数は75まで増えることもある。そのうち増加し続けていた呼吸数がいきなる18から20くらいに減少し、呼吸の仕方も良くなる。やがてしゃっくりが出始め、脈拍数が減ってくる。

再び呼吸数が減り、止まってしまうと、脈も拍動をやめ、プラーナ気という体内の生気が身体から抜け出してゆく。ガート・ヴァイディヤによれば、人間の体内には七つの生気があるという。

1.プラーナ気
2.アパーナ気
3.ウダーナ気
4.ナーガ気
5.クリカラ気
6.デーヴァダッタ気
7.ダナンジャヤ気

プラーナ気は心臓、アパーナ気は陰部、ウダーナ気は口の周辺、クリカラ気は顎の周辺、デーヴァダッタ気は関節、ナーガ気は鼻と眼、最後のダナンジャヤ気は全身の血管に宿る。

これらすべての生気が身体から抜け出ていくのに、だいたい5ガディ(二時間)かかる。死んだあとでも身体にぬくもりが残っていることがあるのは、そのためだ。最後に出ていくのは、ダナンジャヤ気で、この生気が消え去ってしまうと、全身が冷たくなってくる。

身体からの生気の放出は「ハンサ(アストラル体)」の放出としても知られる〔訳注 アストラル体は霊的身体のひとつで、意識や幽体がこれにあたるという〕。』
(シャカ族/アジャヤ・クラーンティ・シャーキャ/徳間書店P230-231から引用)

最後は、エーテル体が崩壊し、アストラル体が離脱するのだろうが、エーテル体についての言及がない。プラーナはエーテル体レベルのことのはずなのだが。すべての生気(プラーナ)が抜けるのに二時間というのは、エーテル体崩壊時間に近いのではないか。

生気の種類も7種か10種かということでなく、もともと沢山あるがそのうちの7種について言及しているということだろう。

素直に読めば、肉体死状態からのクンダリーニ上昇というのは、エーテル体が崩壊しない時間帯内で達成するものなのだろう。



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恐怖が開くスペシャル・パワー

2011-01-28 06:20:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎五感が最高にとぎすまされる

人間はじわじわと恐怖というストレスを与えられると、ノルアドレナリンの分泌が増加し、集中が高まり、目が冴え、やる気がわいてくる。
禅でいえば、棒でなぐるげんこつを食らわす、喝と大声でどなる、警策で思い切り叩くなどがストレスの手段となる。
ただし、ストレスもある限度を超えてしまうと、やる気が高める効果はなくなる。その辺のことは、『迷える者の禅修行-ネルケ無方』などにも描かれている。
『飢え』などもそんなところがある。

そして恐怖によって、危険に対する反応の早さも増加し、身体を動かす早さも増加する。

恐怖による集中力の増加は、五感の働きを高める。ディーン・ボッター氏が大峡谷上での命綱なしでの綱渡りのそれについて述べている。
『生死が賭かってるとき、しくじったら死ぬようなことをやってるときって、五感が最高にとぎすまされるのがいいんですよ。鮮明に見えるし、思考も早くなる。音だって違うレベルで聞こえます。足の裏がロープに接する感じもくっきりときわだつ。バランス感覚も鋭敏になります。瞑想じゃしょっちゅうこうはならない』
(奇跡の生還を科学する/ジェフ・ワイズ&ニキ・リンコ/青土社P45から引用)


また恐怖は、記憶力も増幅させる。というよりも強烈な恐怖体験は年月を経ても忘れない。どうも激しい感情を伴った記憶は、細部まで記憶できるということらしい。

そして筋力の急速な増加。これは日本でも火事場の馬鹿力ということわざでも知られている効果である。

禅では、急速な生死の不条理の自覚と肉体的な継続的にストレスを与えることで、人を追い込んでいく。ただ、禅は五感の鋭敏さを求めているわけではない。結果的にそれは随伴することがあるのだと思う。

クンダリーニ・ヨーガのように『聞き守る』などで、鋭敏さがベースになっている冥想はまた別。

冥想修行では、継続的な恐怖というのを用い、あわよくば絶望に追い込ことも期待される。それは大峡谷上の綱渡りにも似ている。心理からスタートして、心理を超えた現実そのものに肉薄させるのだ。


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舞台恐怖

2011-01-27 06:14:15 | 冥想アヴァンギャルド
◎自意識が自分をコントロールできない

俳優は、あるいは演技者が舞台の上で頭が真っ白になり、演技が止まり、せりふが出なくなる。これを舞台恐怖という。舞台恐怖は役者でなくともある。学校の全校集会かなんかで名前を呼ばれて前に出て、全員の注目を一身に浴びる時も起きる。

風と共に去りぬで有名なローレンス・オリヴィエも、57歳でこれに遭遇して、突然の引退まで意識した。舞台恐怖は一回起きるといつ再発するかわからないというこわさがある。

音楽家たち、クラッシックのオーケストラやオペラの演奏家やポップス歌手にとっても、いつ発生するかわからない舞台恐怖は深刻である。これによって、歌手カーリー・サイモンは8年舞台に立てなかったし、ピアノの巨匠ホロビッツは15年立てなかったし、歌手バーブラ・ストラサンドは27年立てなかった。

舞台恐怖で注目すべきは、生理的覚醒。頭が真っ白になるという表現では、大雑把すぎて何のことかわからないが、その感覚は高いところからの自由落下で、ここがどこかもわからない、あるいは、いきなりほらあなのような静けさに吸い込まれてせりふが出なくなる、身体が動かなくなる、というような症状。震え、冷汗の伴う恐怖症状。

自意識が、演奏や演技などの身体的行動という「無意識」を100%抑圧するとこの恐怖が起こる。この恐怖も社交恐怖の一種の「非全般性社交障害」で、イップスと同類である。
(参考:奇跡の生還を科学する/ジェフ・ワイズ&ニキ・リンコ/青土社)

私は舞台恐怖をどう治癒させるかにあまり興味はない。その舞台恐怖が、バネになる側面、前向きのギア・チェンジするきっかけになっていく側面のほうに関心がある。

冥想の深まりのなかで、人は未知の恐怖というものに放り出される。自意識が自分をコントロールできない状態に追い込まれるのである。その時起こる恐怖から発する覚醒作用が、悟りへの遠心力として機能する可能性があるのではないかとにらんでいる。
 


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イップス

2011-01-26 06:23:37 | 冥想アヴァンギャルド
◎社交不安

イップスは、熟練のプロ・ゴルファーに起きる症状で、狙ったパットがことごとく入らなくなることを言う。ところが、イップスはゴルフの世界だけでなく、アーチェリーにもあり、ターゲット・パニックと称される。野球でもパイレーツの名投手スティーブ・プラスが、1972年のシーズン中に急にボールを投げられなくなったことにちなみ、スティーブ・プラス病と呼ばれる。

イップスは、初心者には起こらず、高度に訓練を積んだ者にしか出ない。イップスは一度発生するといつ再発するかつわからない。

実はイップスは、他人に見られている時しか発生しないので、赤面恐怖や吃音と同類の「非全般性社交障害」に属する。つまり社交恐怖の一種。

プレーの最中に急に意識が自分の内面に集中した途端に、自分の手元の動作に注意が向いて、練習で繰り返したものと逆の「やりたくない動作」をしてしまう。


つまり自意識過剰発作みたいなもの。プレーの前に「ものを考える」時間があるほど起きやすい。

これは、スポーツ以外に、ブレーキのかわりにアクセルを踏んでしまって店に突っ込む事件の原因とも考えられている。

一旦悟りすましても、また世間に出てそれが通用するかどうかは別。修道院で神をみても巷でもまれたら、いささかの見神体験は吹っ飛ぶというようなことはあるのかもしれない。

公衆の目、社会への恐怖感には、端倪すべからざるものがある。



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ダライ・ラマの愛猫死す

2011-01-25 05:54:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎悟った人の素の姿

ダライ・ラマは、インド亡命後、1匹づつ3回、都合3匹の猫を飼っていた。その最初の猫の話。

『最初の猫は1960年代の終り頃、わが家の一員になった。黒と白と斑(ぶち)の雌猫でツェリンといい、長所がたくさんあり、なかでも友好的なところが際だっていた。

わたしは家族に加わるものに対して、僧侶や尼僧になろうとする者以外、決まりについてはうるさくなかった。

ところがツェリンには、仏教徒たるわたしがどうしても我慢できない”欠点”が一つあった。鼠を見ると必ず追いかけたがるのである。そのたびに厳しく躾けるのだがまったく効果はなかった。

あるときのこと、家の中で鼠をとらえ今にも殺しそうなところを見つけ激しく叱責した。

すると驚いたツェリンは、カーテンをよじのぼり、どういうわけかバランスを崩し、もんどりうって床に転落し、重傷を負った。そして手厚い介護の甲斐もなく数日後に死んでしまったのである。』
(ダライ・ラマ自伝/ダライ・ラマ/文芸春秋社P229から引用)

猫を鼠をとるものだが、その本能的行動を叱責されたので、ツェリンは人生(猫生)の不条理に苦しみ、その葛藤で転落したのか。

あるいは、猫は人の指図を受けたりしないものだが、転輪聖王たるダライ・ラマの正義の叱責の威力によって、破戒猫はあわれその寿命を縮めてしまったのか。

この話は、猫の天寿を全うさせたかどうかについて、疑問の残るところ。また、ダライ・ラマともあろうものが、そういうミスを犯したのかどうか。破戒をなりわいとする猫にまで戒行を強制しようとしたのは、正しかったのかどうか。あるいは悟った人でも結果的に悔いの残るようなことをするものなのだということ。

などなど、いくつかのツッコミどころがあるが、身近にそういう人と接する機会があれば、「人間としての悟った人」の生きる姿が、必ずしも想像したようなものではないだろうという程度にとどめたい。

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ダライ・ラマのクリスチャン評

2011-01-24 08:04:28 | 密教
◎特別な瞑想姿勢をとらない

ダライ・ラマは、トラピスト派の修道士トーマス・マートンと親交があった。トマス・マートンは、「アメリカの良心」とまで言われた社会派の修道士で、「祈り働く」生活の中で、人種差別反対と核戦争の愚かさを訴えた人。

ダライ・ラマは、トーマス・マートンから、修道院では瞑想をする時特別な姿勢を全然とらないと聞いて驚いた。このことから、チベット密教の方が、呼吸も含め瞑想技法の点ではノウハウが優れていると感じていた。

一方、チベット密教はインドにあっても人口比4~5%のチベット密教僧を保有して、僧の人数の比率は高く、また慈悲を盛んに説く。ところが、クリスチャンは個人的な献身性が高く、組織的に慈善団体を組成して慈善活動を行っており、個人の献身性と慈悲の実践という点では、クリスチャンの方が優れていると感じた。
(参考:ダライ・ラマ自伝/文芸春秋)

ダライ・ラマは、このような観点からキリスト教とチベット密教の相学ぶべき点を見ていた。キリスト教のように、冥想姿勢やら、呼吸法を言わない場合、観想法中心で想念や感情のコントロールでもって修行を進めるのだろうが、チベット密教とキリスト教には観想法という共通冥想法があるのだから、大いに相互にノウハウ交流をすれば結構なことだと思った。


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スタン・ゲッツのサックス練習

2011-01-23 07:32:56 | 時代のおわり
◎バス・ルームでまねぶなり

スタン・ゲッツ。
往年のジャズ・マスターの一人で、テナー・サックス奏者。アルバム『ジャズ・サンバ』で、60年代のジャズ界におけるボサノバの第一人者としてスタ-ダムにのし上がる。

彼は子供の頃、ニューヨークのブロンクスのアパートに住んでいた。
家族に最も迷惑がかからないサックスの練習場所は、勿論バス・ルーム。
バス・ルームには鏡がついているので、指の動きの確認にはもってこいだ。でもタイル張りなので、ガンガン反響が響いて音響的には最悪で、特に低音域はひどい。

夏は、窓を開け放して練習していたが、近所の窓から、「おまえのところの坊主を静かにさせろ」と声がかかると、彼の母親は、スタン・ゲッツに、もっと大きい音でやりなさいと言い返したという。

今でもトイレが練習場所になっているサックス奏者は少なくない。

サキソフォーンは、ナチス・ドイツでは退廃芸術として禁止され、ソ連ではサックス・奏者はシベリアの収容所送りとなり、あのサキソフォーンに対して好意的なアメリカでも1950年代までは映画での情欲を誘うサックス音楽の部分は検閲でカットされたという。


一方、南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経のラウドな発声が、しばしば近所からの苦情のネタになるのは、サックスの練習と同じ。その上、声を出さなくても、孤独な空間が他にないとか、「この人変じゃない」とか妙な噂になるのを恐れて、黙って冥想することすらトイレでやらざるをえない人も決して少なくはないのではないか。

冥想ブームの勃興期とはいえ、寂しい限りである。

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アートマンで生きる

2011-01-22 06:23:28 | 究極というものの可能性
◎太陽も月も沈み火も消え果てた時の光

ウパニシャッドにある、ヤージナヴァルキァが、ジャナカ王の質問に答える部分。

『「(前略)
ところで、ヤージナヴァルキァ師、太陽も月も沈み、火も消え果て、語声も絶えた時には、この神人は何を光としますか?」

「自我(アートマン)がその光になります。自我(アートマン)という光によってこの神人は坐ったり、出歩いたり、業をしたり、帰って来たりします。」--4.3.〔1~6〕』
(屋久島のウパニシャッド/山尾三省/筑摩書房P186から引用)

これは深い。このジャナカ王の質問は典型的な禅問答の仕掛けであるが、ヤージナヴァルキァ師は、机を蹴り倒したりせずに、ストレートに回答してくれている。

悟った後でも、なぜ金を稼いだり、洗濯したり、家事をしたりしなければならないのか。結局人間は、アートマンという、いわばこの世での欲望の原因を宿して生きているからであるということ。アートマンは欲望の塊りなどではないが、肉体とプラーナと想念を突き動かして生きている本体は、せんじ詰めればアートマンである。

悟り、なにもかもなし、ブラフマン。その対極がアートマンである。
悟りを求めて苦闘するのだが、アートマンなしでは人間たり得ない。アートマンだけでも人間たりえない。

そしてアートマンとブラフマンはペアという風でもない。その関係は、極めて微妙な位置づけであることを示唆する書き方で、文献には現れてくる。
アートマンはとしてシンボライズされる。


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インサイド・日本の禅寺-2

2011-01-21 05:59:08 | 只管打坐
◎仏教は日本において無力なり

ネルケ無方氏は、日本の禅寺の堂頭(修行者のチーフ)が必ずしも悟っていないことを自明として、そのことにはあまりこだわっていない。(安泰寺の以前の住職は澤木興道であり、只管打坐の坐り方テキストの写真モデルにもなってる大物であって、安泰寺は由緒ある寺の一つ。)

ネルケ無方氏は、禅寺の中で、ある要領の悪い禅僧に対して集団いじめが行われていることに堪えきれず、山を降りた。

ネルケ無方氏は、1995年、但馬の安泰寺の坐禅中に阪神大震災に遭遇し、上半身が大きく揺れてただ事ではないとは知っていた。まもなく犠牲者が数千人にも上ることを知り、修行を中断して災害救助ボランティアに行くべきか煩悶した。

またオウム真理教地下鉄サリン事件を起こしたのを知り、当代仏教が彼らを救えなかったことで、「仏教」の無力さに思いを深くした。

ネルケ無方氏は、日本社会、日本人というものがあまりにも無宗教的で、その延長である禅寺・禅僧の腐敗について、自分がその内部にいるせいもあるのだろうが、厳しい修行環境の一つと割り切って受け入れようとする姿勢があった。しかし、それでも機縁熟してその場を去ったことが何度かあった。
(以上参考:迷える者の禅修行-ネルケ無方/新潮新書)


ネルケ無方氏は、禅の修行者として、とても真摯であり、実直であり、自分の修行姿勢に対して謙虚であろうという方向性を常に維持している。それゆえ、まだ十牛図の最初の方かもしれないが、間違いなく遠からず、悟りに行き着くだろうと思う。こうした人が、ちまたでも大勢坐るようになっていけば、世の中もちと変わってくるだろう。

いずれにせよ、日本人ではいろいろのしがらみで書けないことを書いてくれたことで、今後実家がお寺でない人が禅を志す場合の参考書となることは間違いないという印象を深くした。

彼は幼少より自殺願望があったというが、自分も、そこまで無常を感じていれば似た人生を歩んでいたかもしれないとも思った。

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インサイド・日本の禅寺

2011-01-20 06:06:34 | 只管打坐
◎迷える者の禅修行-ネルケ無方

しつこい書き方ではないが、現代ジャパンの禅僧、禅寺の腐敗・堕落が、これでもか、これでもかと、多方面にわたって書かれてある。日本の禅寺は、真面目な修行者が悟りを求めて修行するピュアな場たり得ていないのではないかと、仄聞してはいたが、ここまでのものであるとは想像していなかった。

曹洞宗の安泰寺で10年以上、京都の臨済宗の寺でも修行を積み、両派の修行の実情を外国人らしく率直に書いている。

まず求道のために寺で修行をする者が極めて少ないこと。修行者の大半は、お寺の子弟であって、僧侶資格取得のために3年間我慢するみたいな。悟りを求めて修行したいとネルケ氏が修行場を求めたら、そんな寺は極めて稀だったことから始まる。

そしてお寺には悩み、苦しみを超えた聖僧が沢山いるとばかり思い込んでいたら、まずいなかったこと。僧の暮らしぶり、生活ぶりも禁欲と謙譲、無私にあふれた生活どころか、抜け道が多く、実態としては、その反対であることに気づかされる。

彼は葬式仏教というあり方にも批判を持っている。釈迦は、自分の葬儀はバラモンに任せて、弟子たちは修行に打ち込めと指示した例を引き合いに、日本の坊さんは聖職ではなく、寺の管理人兼葬式法要を行うサービス業に成り下がったとまで指摘する。

そして彼が日本の若者に仏教のことを聞いても、「知らない、興味がない」という人ばかり。彼は、日本のことを仏教に無関心な国、無宗教化の国、宗教アレルギーの強い国とまで見ている。これがクリシュナムルティが来日しなかった理由でもあるのだろう。



日本。生活形態は完成された社会主義国に近く、そこに暮らす国民は、表層意識には宗教性のかけらもなく、街頭で宗教のことを話すことがはばかられるほど、宗教がタブーになっている国。

しかし生活の隅々に、挙措動作の中に宗教が秘かに組み込まれていることを、潜在意識で、内心で知っている国。それが日本。

現代日本の課題は宗教意識を表層意識に上げないと、前に進むことはない。そのためには日々の冥想を。

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死を心に思い浮かべる修練

2011-01-19 06:10:27 | 究極というものの可能性
◎死の世界の水位は高い

現代人にとって、死を心に浮かべる訓練は必要なのだろうか。

ジャータカ(釈迦前生経)354話で、夫婦と二人の子供の家族があって、うち長男を毒蛇に噛まれて失っても、家族は一人として、涙を流さなかった。これをして、この家族は、死を心に思い浮かべる修練を十分に積んだ成果であると、帝釈天が高く評価し、財宝を与えるという話である。

墓場で死体と寝たり、髑髏を見たり、死を身近に感じるような修行法は、仏教(不浄観)のみならず、キリスト教でもあった。釈迦教団では、これをやり過ぎて修行者の中に自殺者が続出したというようなこともあったらしい。

伝統的な修行体系の中では生と死を同じものと見るようになるやり方は、自分が一旦は死ぬしかない。自我の死である。そのやり方は宗派によって異なり、只管打坐なら、生の世界を極めて死の世界のカバーするという方向、クンダリーニ・ヨーガなら死の世界をクリアして、生が死の世界の一部と見る方向。

さてその著書哲学の木などで、心理学者ユングが指摘するには、無意識の世界、つまり死の世界を表現する言語は、時代によって変化してきたとする。

いわく西洋では古くは、錬金術師たちが、錬金術のテクニカル・タームで死の世界のことを語ってきたが、現代人は、そうしたテクニカル・タ-ムに依らず、直接体験を表現してきているのではないかとする。

このあたりは、出口王仁三郎が、未来の卜占を行うのに現代人は天津金木などの道具は不要、肉体でできるとしたことに、平仄が合っている。

また現代人は数分坐っただけで悟れるとする覚者もいることともシンクロする。

つまり現代人にとって死の世界、心理学で言えば無意識の世界の水面は、既にどっぷりと足元を浸すどころか、胸元まで来ており、溺れる寸前位に水位が上がって来ているのではないか。これをして、弥勒の世は既に始まっているなどとオカルティストが表現しているように思う。

その胸元まで来た死の世界の海に対して、ほとんどの人は無意識だが、これを意識化していくメソッドがあらゆる冥想なのである。

よって現代人にとって、死を思い浮かべる修練の必要性は薄いと思う。

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ケン・ウィルバーの世界の終り

2011-01-18 06:12:36 | 冥想アヴァンギャルド
◎世界の終りのワン・テイスト

悟ってる人ケン・ウィルバー世界の終りのとらえ方。
『12月3日水曜日
<霊>は、変性意識状態(ASC Altered state of consciousness)や非日常的状態(NOSC nonordinary state)ではない。それに代わるものは何もない。<霊>しかなく、その中で世界は転がっている。

<一つの状態>しかなく、その中で異なる状態が生起している。<一つの味(ワン・テイスト)>しかなく、そこから異なる味が流れだしている。

しかし<ワン・テイスト>自体は、やって来たり去ったりしない。それは運動や停止、騒動や静寂、動作や休息を超えている。

世界の終りに注意を払うとき、あなたは<ワン・テイスト>だけを見いだすだろう。宇宙の果てに心を彷徨わせるとき、あなたは<ワン・テイスト>だけを見いだすだろう。自覚が無限に拡張するとき、あなたは<ワン・テイスト>だけを見いだすだろう。』
(<ワン・テイスト>ケンウィルバーの日記(下)/ケン・ウィルバー/星雲社P227から引用)

言うなれば、ケン・ウィルバーは数少ない存命の著名人の一人。大勢の「わからずや」相手に、議論したり著述したり説明したり、よくやっていると思う。そうした厚意を無駄にせず日々坐りたいものである。

マジに世界が終るということに直面しない限り。ワン・テイストは見いだせないのだ。世界の終りは他人事でなく、自分にとって世界が終りを迎えないと、何も起きてこないのだろう。

世界の終りの直前に、死者も生き返って最後の審判を迎えるというモチーフは、どこに挿入されるのだろうか。そしてその死者は他人なのか自分なのか世界全体なのか。

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88歳の佐保田鶴治

2011-01-17 03:44:11 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎健康第一

佐保田鶴治は、ハタ・ヨーガの第一人者であったが、先年騒がれた某教団の研究テキストの主たる部分は、佐保田鶴治の紹介したシヴァ・サンヒターであったのではないかと思う。佐保田鶴治がシヴァ・サンヒターをもたらした意義は大きかったように思う。

佐保田鶴治は、以下に自分の解脱観を紹介しているが、これを見ると、彼はクンダリーニ・ヨーギではなく、ハタ・ヨーギであったことがよくわかる。健康第一で、人間としての現実感が揺らいでいないようにみえるのだ。

『落ち着いた、静かな、そしてあったかい、そういうものが人間の中でどんどん成長してゆき、その反対のものが押さえられてきて、自分のエゴというものがそれほど力を持たなくなると、やがてその果ては、無限の世界、自由な世界となってゆくんです。
これが解脱だなあ、とおもうんです。
だから私は解脱には行っていませんけれど、解脱の方向に行ってるということは感じているんです。』
(八十八歳を生きる/佐保田鶴治/人文書院P104-105から引用)

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