アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

イェイツの地母神

2010-11-30 05:53:14 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎この世が造られる前

W.B.イェイツの連作詩「女-若いときと老いたとき」から
『<2 この世が造られる前>

睫を黒くし
目もとをもっとパッチリとさせ
唇をもっと紅くぬっても
あるいは次々と鏡を見て回って
これで大丈夫かしらとたずねてみても
しょってはいないのです-----

この世が造られる前  
あたしが持っていた顔を探しているのです

まるで男のひとを
恋人のように見ても
その間あたしの血が騒がず
心が動かされなかったならどうなるでしょうか?

どうしてあの男(ひと)は私が残酷だとか
自分が騙されたとかおもうのでしょうか?

あたしはこの世が造られる前にあったものを
あの男(ひと)に愛してもらいたいのに
(1928年2月)』
(【W.B.イェイツ詩集】螺旋階段とその他の詩/W.B.イェイツ/角川文芸出版から引用)

地母神の心はきっと「石ころの心」。でも石ころからあの熱き愛の奔流も流れだす。
ただその流れは、自分が思っていたような流れではないのかもしれない。

W.B.イェイツは、女も老いるということを、自分が老境に達してから、しみじみと実感したのではないかと思う。

女のこの世が造られる前の顔は、男のそれとは違う。





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チベットの護符のレシピ

2010-11-29 06:11:15 | 錬金術
◎凝念オブジェクトと賢者の石

チベット密教の護符の作り方は、まず僧が正しい食事で自らを清め、パワーを込めようとする紙(護符)やスカーフに精神を集中する。この凝念によりエネルギーの波が作り出される。この凝念とは、観想のことでもある。


1.ものはこの波を帯びる。こうして蓄電池と似たものになり、何らかの方法で、そこに貯め込まれたエネルギーを返してよこす。例えば、それに触れた人のエネルギーを増し、勇気を注入するなど。

2.物の伝達されたエネルギーは、一種の生命力を注ぎ込む。製作者の命令一つで、動かぬ物が動きだし、特定の行動をとるようになる。
ンガクパ(魔術師)は、この方法を使って、誰からも疑われずに人を傷つけたり、殺したりできるといわれている。

3.何ら物質的なものを媒介に使わなくとも、凝念から発生したエネルギーは多かれ少なかれ遠くに届き、様々な方法で現れる。
心霊現象を起こすこともあれば、目標物に浸透して、別の場所から送り出されている力を伝達することもある。

4.チベット人の神秘家たちはまた、精神集中に熟達した者は、自分の想像するものを映像化して、人や神々、動物、風景等、どんな幻影も作り出せる、と述べている。』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店から抜粋)

賢者の石のありかたに、これを当てはめると、黄金変成を目的とした凝念オブジェクトは、必ずしも半物質でなくとも、物質でもよいという考え方もできる.

しかしその前提として、賢者の石とは『向こうから来るもの』、つまり如来的、第六身体レベル以上の不壊なる善なる性質を持っているものか、そうではなくて、人が作り出す善でも悪でもないものなのかという問題がある。つまり神からの賜物なのか、人工物なのかという疑問である。

錬金術師たちの賢者の石の扱い方を見ると、基本は神からの賜物の扱いではあるが、その製造プロセスには、一片の邪心も許されないことがわかる。

上記3によれば、わざわざ凝念オブジェクトのような媒介を設定せずともその波動は伝わって行くのだろうが、そうした媒介があった方が容易であるということはあるのではないだろうか。そこに護符や賢者の石の存在意義があるのだろう。

出口王仁三郎の言葉に「神は罰(ばち)を当てないが、人は罰を与える」というのがあるが、それからすると、賢者の石はどちらかといえば人工物であると見る方が穏当のように思う。そう何年ももつものでもないようだし。





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チベット密教の近道

2010-11-28 07:40:17 | 密教
◎ナーローパの修行

近代の錬金術師フルカネリは、黄金変成というか、人間の進化には、本道と近道があることを示唆している。チベット密教でも2つの道があることを認識している。

昔のチベットでは、密教の道を進むためには、過去世から師事し続けてきた真のツァワイ・ラマと呼ばれる霊的マスターに出会わなければならないとする。つまり転生も含めて複数回の人生をかけて師匠に付いて密教修行をする。これが本道。

クンダリーニ・ヨーガなのだから、ゆっくり漸進的に進むのだから、何転生もかかるのは当然といえば当然。

ハタ・ヨーガでは、一生あるいは何生かかけて完璧な体調の完璧な肉体を調整して、そのの後ようやく瞑想修行に入るので、ハタ・ヨーガにも複数生かけるという流れはある。

これに対して近道がある。

さて10世紀の大物密教者のナーローパが、修行中に仕えていた王子にひどく侮辱され、呪術でもってその王子を殺そうと、秘密の場所にこもり、曼陀羅(魔方陣)を仕立て、儀式を始めた。

すると曼陀羅(魔方陣)の隅に精霊が現れ、ナーローパに「あなたは、王子の霊魂を極楽に移せる能力があるのか、肉体に戻す力があるのか」と質問してきた。

ナーローパは、「いや、自分にはここまでの力はない」と答えると、

『すると精霊は急に険しい表情になり、彼の行っている忌まわしき儀式を強く咎めた。
自分が破壊しようとするものを立て直し、あるいはよりよい状態に変える能力を持たないのであれば、破壊する権利は誰も持たない、と精霊は言った。
そのようなことをすれば地獄に行くだけであると。

恐怖に駆られたナーローパは、どうすればこの運命から逃れられるのかと質問する。するとティローパという名の聖人を探し出し、「ツィチルチサンギャイ」の密教を伝授してもらうよう願え、といわれた。これが「近道」の教えである。

行為の結末から人を救い、「一つの生涯で」菩提を得させる道である。その教えの真意を把握し、実現できれば、二度とこの世に再生することはなくなり、従って、地獄の苦しみを経ることもない。』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店P186-187から引用)

たまたまクンダリーニ・ヨーガが満行で、その人生で悟るタイミングであれば、近道とは言えない。
フルカネリの記事では、近道については、只管打坐の道と見たが、クンダリーニ・ヨーギである天台智ギの摩訶止観には、只管打坐とおぼしき坐法もあり、チベット密教での近道も、只管打坐でないということもないのではないか。

ティローパは、寺院で魚を食べ、呪文で骨だけになったその魚に、肉を戻し跳ねさせ再生させるという技を見せたが、これこそ『自分が破壊しようとするものを立て直し、あるいはよりよい状態に変える能力』である。

一つの生涯で菩提を得るとは、今生で悟ること。今生とは今悟ることであって、今生で死ぬ間際に、チベット死者の書マニュアルどおりにタイミングよく悟ることを言っているのではないのではないだろうか。





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パラケルススの第五元素

2010-11-27 07:19:13 | 錬金術
◎活動力の元とプラーナ

『しかしパラケルススは、治療方面に一切の注意をむけた最初の人だった。彼の論議や処方すべての目的は病気を治療することである。賢者の石や金づくりについてはほんのおざなりに述べているのすぎない。

彼の自然概念は、全く精神的なものと言ってよい。おそらく彼の基本観念は、事物のなかには第五元素が存在しているという考えであろう。そしてこの第五元素は、分離されるかあるいはまた少なくとも濃縮されうる活動力で、そこからは、特に有効な医薬が得られるという。

人体とその各器官とは、「アルカエウス」(始原的なもの)によって活発にされ、導かれるとした。この「アルカエウス」は精神的なもので、これと同じ性質をもつ天体から影響を受けていた。

彼がつくろうとしたもののうち、第五元素はもちろん霊薬アルカナその他の医薬は同じく精的で、第五元素が満ちていて、「アルカエウス」に天体の影響をもたらすことに役立った。』
(錬金術師/F.S.テイラー/人文書院から引用)

プラシーボによって、病気が治癒するのは、ある確率で発生する「当たり前」の事象とされているのだが、実はプラシーボによる治癒プロセスには、実はプラシーボにより第五元素を患者自ら作り出すという部分があるのではないか。

また「アルカエウス」(始原的なもの)とは、エーテル体のことであり、だからこそ天体の影響を肉体ともども受ける、そしてエーテル体とは気・プラーナのことでもあるので、それは第五元素の活動力の特性(第五元素は活動力の元)とも合致する。

エーテル体は、半物質なのだが、この記述は、賢者の石がどのレベルで存在しているかについて大いに示唆を与えてくれるように思う。

※引用文中の「精的で」は、スピリチュアルでの意味だろうと思う。





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ゾシモスの夢

2010-11-26 06:16:04 | 錬金術
◎下の七つの階段を昇る

古い錬金術師ゾシモスの幻覚には、肉体と骨をばらばらにされて、ちょん切られ、改めて肉と骨を混ぜ合わせるという作業が何度か出てくる。


第一の課業では、剣で肉と骨をバラバラにし、次に、肉と骨を混ぜ合わせ、火で燃やしたところ、精神が出来上がり、肉体が残った。肉体からの精神の分離である。

第二の課業では、階段を昇り処罰を見て、階段を昇り処罰を見て、これを繰り返すようである。七つの階段を昇り七つの処罰を一度見たが、わけが分からなくなった。(イベントは起こったが理解が追いついていないのだ。)
また第三の階段を昇ろうとしたところ、道に迷った末、人は鉛を投げ出さねばならないと悟る。これは社会性の放棄、肉体、物質の放棄を象徴するのだと思う。

第三の課業では、死者を復活させようとする白装束の神官に出会う。
ゾシモスが、第四の階段を昇ると、手に剣を持った人の後ろから、白く輝く丸い「太陽の最高点」を持った人がやってきた。

剣を持った人がゾシモスに「太陽の最高点」を持っている人の頭を切り落とし、彼の肉と筋肉の一部を犠牲にして、肉を煮てそれから処罰を受けなさいと命じた。

ここでゾシモスは目が覚めて、剣を持った人に「お前は下の七つの階段を昇りおおせた」と評価された。

肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体それぞれに七つのチャクラがあるので、
下の七つの階段とは、肉体、エーテル体などの下位ボディを指すのだろうと思う。

下位ボディの修行でも、「太陽の最高点」なる中心太陽たる大神を意識した瞑想修行が必要であることを比喩しているものだと思う。ただここでは、自分を捨てるイベントはまだ起きていない。
(参考:錬金術師/F.S.テイラー/人文書院)
 





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金丹のタブー

2010-11-25 06:13:20 | 錬金術
◎俗人に誹謗させてはならない

中国の錬金術の古典抱朴子第四金丹に金丹を得るためのタブーの記述がある。

『第一の禁忌として、「道を信じない俗人にこの薬を誹謗させてはならぬ。そうなると薬は決して完成しない」とある。鄭先生の説によれば、そのわけは、この偉大な薬を調合するについては、必ず祭りをせねばならぬ。祭りをすれば、太乙、元君、老君(老子)、玄女(仙女の名)、がすべて監督に来る。

もし薬を作る人が、人里離れた地に隠れないで、民間の愚か者に通りすがりにのぞかれたりすれば、神々は早速、薬を作る人が経典の戒めを守らず、悪人にそしられる羽目になったことを責め立てるであろう。

そうなるともはや神助は得られず、邪気が押し寄せて来る。薬はできないこととなる。

必ず名山に入り、百日間斎戒沐浴し、五辛(ニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミ)や生魚を断ち、俗人と顔を合わせぬようにすること。そうしてこそ大薬を作ることができる。薬を作ってでき上がったら、はじめて精進落としをしてよい。つまり斎戒は製作中も続けるので、作る前だけするものではない。』
(抱朴子/葛洪/平凡社P37から引用)

元君は老子の師匠。

俗人に覗かれると蟇目の法が破れるとしたのは、出口王仁三郎の事蹟にもある。俗人のそしるのを恐れるのは、天体の運行に合わせ、吉日を卜して、アストラル体レベル以上の神助を得ようとしつらえている環境に対して、俗人のそしりのバイブレーションは容易にそれを破壊するからだと見る。虚空蔵求聞持法だって満願の日を吉日に合わせていく。

名山に入り、百日間斎戒沐浴できる環境の中でやれることは瞑想修行である。冥想修行にあっては、これはクンダリーニ・ヨーガ系だが、修行する人間の側の都合だけでは成らない部分がある(神助)ことを思い知らせてくれる教訓である。





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赤色水銀

2010-11-24 06:15:39 | 錬金術
◎水銀の秘められたる力

イギリスのアンドレイド(1887-1971)という原子物理学者は、ニュートンが『水銀の中に満ちているかもしれない形質のせいで、水銀の正体を知る人々は、それを秘密にしておいた方が良いだろうと考えてきたが、これはすなわち、その存在が明らかにされたら、必ずや世界中に計り知れない危機をもたらすに違いない、はるかに高度な物質が、水銀から生み出される恐れのあることを示してもいるのだ』
(錬金術/ロバート・ジャクソン/主婦と生活社から引用)
という謎めいた言葉を引用して述べた。

1980年代に入ると、「赤色水銀」という、冷戦時代にロシアの化学者が作り出したとされている物質が登場。これは、原子炉の中で、水銀とアンチモンを融合させてできた物質らしい。

また、これは通常の火薬で爆発させることができ、プルトニウム、ウランなどを必要としないため安価で製造でき、広範囲に放射能汚染をもたらす爆弾“汚い爆弾”の製造に使用できるらしい。

赤色水銀は、人間の進化の役に立ちはしない。

人間がすべてを捨てることが求められる時代になったからこそ、そのような大量破壊タイプの、過去には秘密のベールに覆われてきた物質が表に出るようになったというシンクロはあるように思う。

愚人は、手元に強力な武器があれば使いたがるものだ。





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神としての愛人を愛する

2010-11-23 06:53:05 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎クリシュナのセクシュアリティ

古代インドで、現人神としてこの世に降臨し、「神としての愛人を愛する」ことを教えたのは、クリシュナである。

愛の神クリシュナは、ヴィシュヌ神の第八番目の化身として、王子として生まれた。

クリシュナは王子として生まれたにも係わらず、牛飼いたちの間で育った。そのせいか、クリシュナはマトゥーラの町の神官を出し抜いて、その妻たちを誘惑し、まわりのすべての結婚した女達と交わった。

既婚の夫人と性愛するのは不義であり、功過格でも、「一婦人の節を失わしめる」とし、マイナスポイントの大きい悪業として分類される。それにもかかわらず、インド的風土ではこれが許される理屈としては、クリシュナは神として現れているので、神との愛の交感は不義ではないというものがある。

つまり神への愛を、クリシュナへの愛によって体感あるいは直観できるので、これを肯定したということだろう。

ところが、これは当時は因習的な文化や生活様式にあってかなりのインパクトを持ち得ていたに相違ないが、今見るとセクシャル左派みたいなパンクな生活態度の人々のグループのひとつにしか見えないように思う。

1960年代にビートルズがあって、サイケデリックがあって、男性皆長髪で、フリーセックスが声高に騒がれた。そして、ベトナム戦争の厭戦があって、エイズの蔓延があって、フリーセックスというライフ・スタイルに対しての見方が変貌していく。

今となっては、エイズや肝炎や性病などの感染を恐れなければ、日本でも一個人の生き方として、フリーセックスはある・・というぐらいの認識になってきたのではないかと思う(セカンド・バージンみたいなのも、それ。)。 

そんなこんなで、クリシュナの乱倫という生き様は、当代においては、そのままでは、神に近づく教訓としては使えないと思った。






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ダチュラ

2010-11-22 06:41:13 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎記憶を奪い恐怖を与える

ダチュラは、白い花をつけるナス科の精神活性植物で、南北アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、インドなどに広く分布する。

ダチュラは、他の向精神性植物と違い、毒性が強く、精神錯乱や見当識喪失が起きることがあるので、ジェームズタウンの事件のように、間違って使用した事故や奇妙なエピソードに事欠かない。だからダチュラ使いは、古今東西を問わず、毒殺者や、犯罪者か黒魔術師であると、相場が決まっている

ダチュラの向精神成分であるスコポラミンは、20世紀のアメリカでは無痛分娩薬として広く使われてきて、分娩記憶を忘れさせる効果があったが、しばしば彼女たちは暴れ、敵意をむき出しにし、発狂する人までいたという。

ダチュラによるトリップは、人の現実感覚を奪い、現実と幻覚の区別ができなくなること、幻覚がなまなましく、おどろおどろしいことに特徴があるとされる。恐怖感を増幅するのである。

そこで記憶を奪い恐怖感を味わわせるのであれば、暗殺団もこれを使う。インドの「ドゥハツレアス」という暗殺団は、狙った相手を発狂させるためにダチュラを使ったという。

しかし良識ある呪術者は、これをあくまで新たな次元の入り口として用いる。ドンファンは、カルロス・カスタネダに、空を飛ぶ体験をするために、油にダチュラの抽出液を混ぜて身体に塗れと教えている。
(出典:太陽と月の結婚/アンドルー・ワイル/日本教文社)

意識が肉体から飛び出すには、あるきっかけが要る。そのきっかけは、ヘミシンクであったり、向精神性薬物だったり、禁欲だったり、マントラの繰り返しの念唱だったり、様々なものがある。それは、成功すれば、自由への脱出口ではあるが、危険は伴うものだ。

向精神性薬物に関しては、社会性を喪失しかねないという危険と裏腹である。食えないということも一種の社会性の喪失だが、社会性の喪失というのは、底知れない恐怖感を感じさせるものである。電車に飛び込む自殺が最近急増しているが、人は借金などで社会性を喪失する危機に直面すれば、ある確率で自殺を選ぶほどに、「社会性の喪失」への恐怖感の圧力は高いものだと思う。

そんな危険を承知しながら、この世の営為の本質を見切った者、この世の歓喜と悲劇を味わい尽くした者、この世のあらゆる実感を知る者だけが、ソーマ・ヨーガの道を歩むのだろうと思う。そうした準備ができていなければ、みいら取りがみいらになるだけである。






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ついに来た-冥想ブームがひたひたと

2010-11-21 07:44:06 | 冥想アヴァンギャルド
◎瞑想マスター達の出番は近い

ついに来た、冥想ブームがひたひたと。

「瞑想」で、ブログ検索をかけると出るわ出るわ。24時間以内のブログ記事で瞑想という言葉で検索にかかっているのが、250本は、ある。

かなりの人が冥想するようになりましたね。つい1年前では考えられないような急速な展開です。

でもって、どんなからみで冥想しているのかと言えば、

1.お風呂、ストレッチ、瞑想

2.アロマランプとかインセンス焚いて瞑想

3.ヒーリングエネルギー&守護霊からの一言メッセージ&沢山の気づき&オーラで瞑想

4.悲しかったことや辛かったことを探して瞑想

5.クリスタルで瞑想

6.バッキバキのサイケ聴きながら瞑想

7.ワンネス、ヘンプ(大麻)で瞑想

8.フラワーエッセンスで、精神的安定して瞑想

9.本当はずっと信じたかったから瞑想

10.ペンデュラムで邪馬台国・卑弥呼と瞑想

11.天外伺朗や桐島洋子で瞑想

12.天使に会いに誘導瞑想

13.ポ-ズや呼吸と、カルマのクレンジング (浄化)で瞑想

14.金属楽器Harmonic Encountersの音色で瞑想

15.催眠誘導で、引き寄せ瞑想

16.太陽礼拝、パワー・ヨガ、チャレンジポーズ、ヒーリング、呼吸法、内面の癒し&デトックス瞑想。

17.オラクルカードを瞑想

18.満月で豊かさを瞑想

19.音楽でイメージを揺さぶり脳をマッサージで、瞑想

20.阿字観で瞑想

やってる!やってる!
いわゆるこれは、「すごいことになっている」ってやつですね。
こんな状況なら,遠からずマスコミもブームを嗅ぎつけるだろう。

しかし、内容は洋の東西を問わず、座法も手法も観想対象も宗派も(宗派が関係ないのもあり)バラバラで、霊がかり系が目立ち、中には「引き寄せ」みたいな最後は身を滅ぼすことになる現世利益志向のものもある。最初は、玉石混淆で何でもあり状態は仕方のないこと。

この潮流がさらに大きなうねりになって行けば、いずれこのように混乱した何でもあり状態を整理する軸が求められ、また悟った冥想マスターが求められるが、必ずそうした人は出てくるし、それも一人ではなく続々と何人も!

世に知られぬ冥想マスター達の出番はまもなくだろう。





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プレアデスの7姉妹

2010-11-20 07:14:09 | チャクラと七つの身体
◎第一身体のシンボルとしてのシーシュポス

ギリシア神話によると、巨人アトラースとニンフのプレーイオネーの間には、プレイアデスの7姉妹(アステロペー、メロペー、エーレクトラー、マイア、ターユゲテー、ケライノー、アルキュオネー)があった。

このうち、マイア、エーレクトラー、ターユゲテーは、ゼウスと交わって子を産んだ。特にマイアは長女であって、ヘルメスの母となった。

ケライノー、アルキュオネーは海神ポセイドーンと交わって子をなした。。

ステロペーは、軍神アレスと交わってオイノマオスを産んだ。

メロペーは、ただの人間であったコリントスのシーシュポスと結婚したので、天上の星座に加えられることはなかった。

シーシュポスは、冥界で、一個の巨大な岩(太陽を暗示する)を山頂までころがし上げ、もう一息で山頂に着こうとするところで、無情にも岩の重さでシーシュポスは押し戻され、岩は斜面をころがり落ちる。彼はその都度これをやり直すのである。これは救いがない

人間である以上は救いがないので、シーシュポスは人間のシンボルである。そして滅びを繰り返すので肉体(第一身体)のシンボルでもある。

7つの星をチャクラに当てるのは、破軍星などの北斗七星に当てるものが知られているが、ギリシャ神話では、プレアデスに当てたようだ。第二身体以上は、星座として天体に揚げ、肉体でないことを暗喩する。






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おもてなしの極意-7

2010-11-19 06:26:17 | 丹田禅(冥想法8)
◎京都炭屋-懐石料理

京都炭屋は、京都の純和風旅館であって、主人が裏千家老分職をなさっていたこともあり、茶に由来する風情を多く持つ。

懐石料理を出すと、外人からは、まずクレームがない。ところが、日本人客の中には、『「さあ、お食事どうぞお召し上がりください、というから来て見たら何も出てないの」

「こちらが言うた時間に用意してなかったんですよ」』
(京都炭屋 おもてなしは茶の心で/堀部公允他/草思社から引用)

などと、懐石なんだから一品ずつ出てくることを知らず、温泉旅館の料理みたいに料理が視野一杯に広がっているものだという先入観で、クレームをつけられることがあるという。

ところが炭屋の方では、一品それぞれについて、温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに口にできるように、調理場と配膳係が連絡を密にして、早く出したり遅く出したり配慮しているのに。

一品の出し方も、素材にしても器にしても、見た目の色合いやバランス、盛りつけ方、器の置く位置、お箸との関係まで気を配る。

懐石料理の一品一品は、「今ここ」にいることに通じる。
先附に直面し、
お造り(お刺身)に直面し、
椀物に直面し、
焼き物に直面し、
炊き合わせ(京野菜の煮物など)に直面し、
蒸し物(蕪蒸しなど)に直面し、
八寸(酒の肴)に直面し、
おしのぎに直面し、
酢の物に直面し、
留椀(味噌汁でご飯とお漬物)に直面し、
デザートに直面する。

冥想に段階はないと、究極の側に立った人は言うが、凡俗にとっては、それに至るには一歩一歩正面から向き合わねば、それぞれの正体を極めることはできない。一度に全部出されたら、出されたテーマがのっぴきならないものであればあるほど、おろおろして終るだけなのではないだろうか。





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あるがままは骨が折れる

2010-11-18 06:15:20 | 只管打坐
◎全てと全ての悲しみがわかる

クリシュナムルティは、「いまここ」の一要素みたいな「あるがまま」を否定する。
先ず、よく目を覚ましていれば、全てと全ての悲しみがわかる。

そこでそれら全てを、その矛盾と増大する悲しみと共に捨て去って、何ものでもないという在り方を、クリシュナムルティはお勧めする。ここの悲しみは慈悲の意味。

そこで「何ものでもない」ものとして存在するためには、隠れている矛盾を白日のもとに晒さしてそれを理解せねばならないとする。この晒すメソッドが只管打坐である。彼は只管打坐を勧めてはいないが、只管打坐で行き着く境地の特徴を彼は精密に描写し続けているようにみえる。


『何かになることはそれほど難しくないけれど、何かになろうとはせずに、現にある通りでいることは、それ自身非常に骨の折れることです。

何かを装ったり、仮面をつけたりすることはいつでもできますが、現にある通りでいることは殊の外複雑なことです。なぜなら、人はいつも変化していて決して同じではなく、一瞬ごとに新しい側面や、新しい深さや、新しい顔を見せるからです。瞬間ごとにそれぞれの変化があるので、人は一度にそれら全てなれません。

ですから人が賢明であるならば、何かでいることを諦めます。

(中略)

そのように人が現にある通りでいることは、途轍もなくなく骨の折れることです。もし人がよく目を覚ましていれば、それら全てと、その全ての悲しみが分かります。

人は自分の仕事や、自分の新年や、自分の空想的な理想や瞑想の中に埋没します。そうしてたとえ内面的にはまだ死んでいなくても、年老いて、死が間近に迫ってきます。それら全てを、その矛盾と増大する悲しみと共に捨て去って、何ものでもないということは、最も自然的で叡智的な行動です。

しかし何ものでもなくなる前に、人は隠れているそれらすべてを白日のもとに晒して、それらを理解する必要があります。』
(クリシュナムルティ・ノート/クリシュナムルティ/たま出版P291-292から引用)





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世界宗教のメイン・シナリオ

2010-11-17 06:14:57 | 時代のおわり
◎神道とユダヤの共通項など

今の時代は、近代西欧文明が席巻していて、言語も英語が世界語となっており、英語を話さずんば人に非ずという具合だ。1万2千年前のアトランティス末期も世界をアトランティス文明が席巻していて、世界宗教たるアトランティス密教が、世界の宗教のイニシアティブを握っていたという説がある。

そこで、アトランティス末期に、次の1万2千間の宗教育成のために、各地に散ったアトランティス密教の残党が、ギリシャ神話、北欧神話、日本神話、アステカ神話などを創作したが、いずれのストーリーも細かい部分こそ異なれ、今の「時代の終り」から次の千年王国への転換というモチーフは必ず持っている。

神話のエッセンス部分は、伝承されるが、言葉は文明と共に変化し、しばしば滅びる。それは、いまの漢字かなまじり日本語以前に神代文字主体の原日本語があったのではないかという推論につながっていく。言語は滅びても、冥想手法は必ずしも世間に知られぬままに伝承され、言語では表現されない教義のエッセンス部分は、時代を超えて残っていく。

そうして今から3千有余年前に、アポロン型文明である今の近代西欧文明をメインにして今の「この世」の終りまで行こうとする方向が固まった。それを決定づけることになった具体的な宗教イベントあるいはローカルな大事件は定かではない。

それゆえ、釈迦も、老子も、イエスもいずれもその時代以後にスーパースターとして登場してきて、その教えは有力な世界宗教として興隆して来たが、いまや組織宗教としての命脈を終えようとしている。(4千年前以前の聖者(たとえばメルキゼデク)の伝説はいまや時代の同定ができないし、実在していたかどうかも怪しいほど、歴史のかなたに霞んでいる)

こうした流れの名残りを神道とユダヤの共通項に見ることができる。

まずは、鳥居。ユダヤでは2柱をヤキンとボアズと呼ぶ。これはユダヤ以外にもトーラナってのがあり、むしろユダヤに限定されず世界的に共通した習俗だと思う。

皇室の16弁の菊花も、エルサレム城壁の門に刻まれている由。これもユダヤ限定ではなく、エジプトの古代王族の乗った車に16弁菊花紋があり、ローマのアラコエリ大教会のイエス像の胸にも16弁菊花紋があるという。

これらはユダヤと神道の共通項というよりは、かつての世界宗教の残滓というべきものなのではないかと思う。ユング派の心理学者ならば、人類の集合的無意識をシンボルとして具現化したものだから世界各地で同じものがあるなどと説明するかもしれないが。






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おもてなしの極意-6

2010-11-16 06:15:51 | 丹田禅(冥想法8)
◎銀座久兵衛 酒の飲み方
   
銀座久兵衛は、寿司の名店。北大路魯山人や、池田勇人首相、佐藤栄作首相など著名人にひいきにされた。

先代久兵衛は、秋田の生まれで尋常小学校を出てすぐに東銀座の寿司屋に丁稚奉公に入った。

一日、新橋の待合に出仕事に行き、安田銀行(今のみずほ銀行)と浅野セメント(今の太平洋セメント)での出仕事となった。

そこで久兵衛も何か芸をやれと所望され、
「寿司を握りに来たんで、芸を見せに来たんじゃねえ!芸が見たければ芸人を呼んでこい!」と啖呵をきって、「だったらなんぼでも飲んでやる」と大鉢の酒を一気に飲み干した。これに感じた浅野セメントの社長が、銀座八丁目に店を出す資金を出してくれたという。

ある時、ご子息が先代久兵衛に、毎晩べろべろになるまでなぜ飲むかと問うたところ、『俺はいつも、今お客様と意気投合できれば死んでも良いくらいの気持ちで飲んでいる』
(銀座久兵衛 こだわりの流儀/今田洋輔/PHPから引用)と答えた 。

というわけで、銀座久兵衛では、店内教育で、「全身全霊を出し切って燃焼しないとお客様の満足は得られない」と教えるという。

酒でべろべろになっても、気合を入れ直して、意識を清明に保てれば、相手と一緒に死ねるほどに気持ちが一つになる。それは名状しがたい歓喜であり、彼はそれが待っていることを知っていたのだろう。

一緒になれれば死んでも良い。それは、いろいろなケースで起こるが、そこから入る悟りはあると思う。

酒で悟るには、たぶん、「気合を入れ直して、意識を清明に戻す」プロセスが必要であって、それはなんらかの坐法での冥想である。べろべろの狭くなった意識状態のままでは、先へは行き難いのではないか。べろべろのままで良しとするならただの大酒飲みに留まると思う。





悟りとは何か
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