アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

白山の平泉寺の焼亡

2010-09-30 06:12:48 | 修験道
◎パワースポットの盛衰

白山は、加賀、越前、美濃にまたがる修験の山として知られ、白山の寺といえば、平泉寺である。

白山は、大徳泰澄によって養老元年(717年)開かれたとされ、平泉寺は平安の中期よりその勢力が強力になっていった。
木曽義仲の兵乱では、1181年、平泉寺は最初は源氏についたが、後に平家方に寝返った。

さらに勢力が強勢となった南北朝の時代では、最初は比叡山・吉野など修験勢力が南朝についた関係で南朝方についたが、後に北朝方に寝返った。こうして16世紀天文の頃、平泉寺は六千坊と言われるほどの最大の伽藍を有するに至った。

しかし越前で一向一揆が盛んになるや、1574年本願寺顕如は、平泉寺破却を門徒に命じ、三日三晩の攻防の結果、平泉寺一山は猛火に包まれ、六千坊は灰塵に帰し、平泉寺は滅亡した。

1583年には、平泉寺再興が始まり、越前藩主などの支援も受け、寺運は再び高まったが、江戸時代は、天海僧正の意向もあり、上野寛永寺系の住持が多かった。

明治の神仏分離によって平泉寺は廃止され、白山神社のみとなり、住職は還俗して平泉氏を称して今日に至る。

古社名刹といえども、2千年タームで見ると、中断された時期があるのは不思議なことである。あの伊勢神宮ですらそうだったのであるから、いわんや白山平泉寺をや。

古社名刹はパワースポットとかいうけれども、そこに集まる人の運気を反映というか、白でも黒でもない人が多数参詣すると、やがてそのパワーは微弱化するみたいな法則があって、ついにはパワースポット上の寺社は一旦は滅亡するというようなことがあるのではないだろうか。


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乱れた心で、道を知ることはできない

2010-09-29 05:55:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎あらゆる知識、先入観を取り去る

釈迦の周辺に何千もの人が集まり、様々な質問をしようとしたが、かれはそれらの質問に答えることより、人々に道を示すことに関心があった。
釈迦の見るところ、人々の持つ多数の問いかけと回答例が、道を示すことに対する大きな障害となっていた。

『かれらのたずさえている知識があまりにもかれらをさまたげており、かれらに道を示すことは不可能、ほとんど完璧に不可能だった。

それゆえに「どうして乱れた心に<道>を知ることができるだろう?」というこの経文が出てくる。

だから仏陀は、かれらにさらに多くの答え、さらに多くの説明、さらに多くの知識を与えるよりも、むしろ、かれらの知識、既成の答え、先験的な観念、先入観を取り去ることをはじめた。

インドはかつて一度も、そのことで仏陀を許すことができなかった。かれが死ぬとただちに、この国の伝統主義的な精神(マインド)は、仏陀が植えたすべての植物を根こぎにし始めた。』
(ダンマパダ/OSHO/メルクマールP223から引用)

常時プチ洗脳情報にさらされて暮らしている我々にとって、知識、既成の答え、先験的な観念、先入観を取り去ることは、簡単ではない。冥想の深まりの中で、一旦は取り去られたような気分になることもあるかもしれないが、翌日の日常生活に戻ったとたんに、あらゆるプチ洗脳情報の嵐の中に投げ出されて、夜にはすっかりもとの黙阿弥となる。

高川慈照師が観世音菩薩を見たとはいっても、余人のほとんど入ることのない、プチ洗脳情報が入り込まない、比叡山の奥のまた奥に特殊な環境をしつらえたからこそできたのであるという点は否めない。

我々のような生きること即「プチ洗脳の海につかること」みたいな精神状態では、とてもではないが、あらゆる知識、先入観を取り去ることなど夢のまた夢。

そんな環境をいまさら嘆いても仕方がないので、日々のプチ冥想でそんなプチ洗脳による精神・意識の歪みを、プチ冥想により禊ぎ祓いて、「迷いのままに悟る」ことの意味を考えつつ生きる。





悟りとは何か
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嘘も千回繰り返せば真理となる

2010-09-28 06:03:17 | 時代のおわり
◎日中戦争を催促

今回の尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件では、嘘も千回繰り返せば真理となるというスローガンが盛んに聞かれる。嘘も千回繰り返せば真理となるとは、中国共産党の発明ではない。これはナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相の発案になるものである。

今のところ、日本としては、根拠のない言いがかりをつけられた被害者気取りだが、これは欧米が日中に対して戦争を催促しているものである。欧米外を戦場とする戦争は欧米を一挙に好景気にさせる効果が高いからである。

特にアメリカは日本のマスコミを顎使して、日本人に対し更にイベントや新情報を追加していくことによって「中国憎し」論調を高め、「中国を懲らしめねばならぬ」という方向に国論を持っていこうとしている。

国民の判断が感情論に傾くように、NHKも民放も大新聞も一斉に、冷静を装いながら、その方向に世論を掻き立てようとうしている。この動きは、露骨なだけに、既に気がついた人も多いだろう。

こういう大マスコミによる操作は、最近では麻生降ろし、民主党代表選挙でのアンチ小沢宣伝などで既に何度も見られたことである。これは情報操作であり露骨な洗脳であるが、どうして日本の大マスコミは、こうなってしまったのだろうか。大マスコミでは「侍」は絶滅したのだろう。

そのうち世論調査で、中国との開戦に賛成90%反対1%なんて出るのではないか。皆も世論調査結果を信用しなくなっているけれど。

中国のマスコミは、日本のマスコミよりまだ骨がある。「外国人に対する恨みを忘れず、恩に感謝しない」(中央宣伝部を討伐せよ/焦国標/草思社による)という原則を守っているからである。これでは品はないが、国益は守れる。これは裏返せば、中国人が自ら認める欠点のひとつである植民地根性のことであるが、日本人は、目先の感情論に振り回されず、議論されるその国益というものが、日本の国益なのか、アメリカの国益なのか良く考える必要があるだろう。





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霊がかりなアセンション

2010-09-27 05:53:54 | 超能力・霊能力
◎『2012年アセンション最後の真実』(学研)

『2012年アセンション最後の真実』(学研)は浅川嘉富さんの霊がかり的世界観が非常によくわかる著作だった。

リサ・ロイヤルのこと、ベガ転生や琴座転生、プレアデスからの転生やシリウスからの転生やUFO、体外離脱(アストラル・トリップ)、カルマ改善(積善)のことなど、最近の霊がかりに生きる人たちはこんな世界観で暮らしているのだということがよくわかった。

宇宙の彼方の星から転生してきた崇高な使命を地球で果たすというのはロマンチックだが、それを知ったからといって、みじめで情けない自分には何も変わるところがない。・・・・・だからみんなで一斉にアセンションすることを待望する・・・ですか?

でもって、全体に神示、啓示偏重で、『悟り』という視点がないのはどういうことなのだろうか。霊がかりとは、神降ろし系の別称でもあるのだろう。

この本の中に沖縄の霊能力者比嘉良丸氏のことが出ている。彼は、9.11同時多発テロのビジョンを2000年までに3度見せられている。またそのような事故や自然災害を防ぐために、沖縄本島やその周辺の島々や、本土の各地を巡って、『神開き』や『神結び』と呼ばれる神事を行っている。

比嘉良丸氏は、
『いま幽界に残っている神々のところに高位の神が降りてきては、
「お主たちはいつになったら気づくのだ!いつまでもそのようなことをしていると、人間よりも先に抹消をさせられるぞ!」と一喝しているヴィジョンを見せられることがあるようです。』
(『2012年アセンション最後の真実』(学研)/浅川嘉富から引用)

抹消とは魂の抹消のことで、輪廻転生しないことです。エジプト神話にも出てきた怪獣アメイトにシンボライズされるように、魂が無くなってしまうことです。

各地の神話は、今の時代に読むことを目的として創作されたところがあるのだろうから、悪事を積み重ねても、一旦地獄に落ちたとしても、いつかは浮上のチャンスありという輪廻転生の『常識』の通用しない時代に入ってきたということを意識せざるを得ない。

魂を食う話は、カルロス・カスタネダのシリーズにも出てくるが、「人間は、死後にも魂が残らないこともある」というのは、ぞっとしない。そこには、本当に無私に生きることができるかどうかを試される何かがあることを感じる。

本当の無私は悟りの先にしかない。





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プチ洗脳社会の歩き方

2010-09-26 07:45:04 | マインド・コントロール
◎人間の洗脳情報に対する受け止め方

アメリカ人には通用しても、日本人には通用しないもの、あるいはアメリカでは流行しても日本では流行しないものがある。その違いの原因は、民族性、歴史、社会などいろいろとあるのだろうが、文盲率や教育レベルに起因する民度の違いが大きいと思う。

民度の違いと言えば、日本の民度と中国の民度の差も相当に大きい。

そこで、もともとはコロンビア大学のミラー教授が設立した「宣伝分析研究所」が発表したプロパガンダ「7つの方策」


1.ネーム・コーリング(悪いイメージのレッテル張り)
2.華麗な言葉による普遍化(「自由」「正義」「愛」「平和」といった普遍的な価値との結びつけ)
3.転移(権威ある存在を味方につけ、自らを正当化)
4.証言利用(有名人の発言を利用)
5.平凡化(立場を似せて、親近感を得る)
6.カードスタッキング(都合がいいことの強調と、都合が悪いことの隠蔽)
7.バンドワゴン(ある事柄を、世の趨勢であるかのように宣伝)』
(洗脳選挙/三浦博/光文社から引用)

こういうのを利用しようとするのは、まず政治家(選挙)、企業(販売)、そして宗教家なのである。

そしてまた、商品や歌手や俳優の売り込みなどで、こうした技法は、日常的にスーパーの店内放送や、テレビ・コマーシャル、ネットなどで、いくらでも流されているから、我々は慣れっこになっていて、改めて「それが洗脳だよ」と言われても、「だからナニ?」という程度の特段の反応は示すことはない。

堅苦しく言えば、プチ洗脳な情報の氾濫の中で、自分がいつでもプチ洗脳されていることを知りながら我々は暮らしているというところだろうか。ところがそれは宗教の自由、信教の自由、思想の自由を保障されていて、誰でもスポーツ新聞が読める程度の教育を施されているから、そう思うのである

これが文盲率50%のアメリカや、宗教の自由、信教の自由、思想の自由のない共産党一党独裁の中国で洗脳を行う場合には、人間の洗脳情報に対する受け止め方は全く違ってくる。つまり洗脳しようとする側からの情報は、神や絶対支配者からの御告げや反抗を許さぬ実質的な命令みたいなものとして、(無意識だけでなく意識の上でも)受け取られるのではないか。お上やマスメディアの権威は、日本人が想像するよりも遥かに絶対的なものとして、受け取られているのではないか。同時にそれは無意識の反発と畏怖が伴っている。

そんな点からも、今の日本人は、プチ洗脳に対して冷静にコントロールできる点で、世界に冠たる知的人種なのだと思う。そうした自由のあるうちに冥想を。





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日中友好の虚構

2010-09-25 07:38:01 | 時代のおわり
◎一挙に下り坂の時代へ

尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、国を挙げた中国の脅しに、簡単に日本は屈した。
これを国辱と見ないで、概ね妥当な対応だったと評価する政党が2つあるが、その愛国心は怪しいものだ。

当初この事件は大したことはない、つまらない事件だという人が多かったが、この事件は最後の時代の動乱の扉に手をかけて大きく揺すぶったような気がしてならない。深刻な意味で、歴史の峠を一挙に降り坂に踏み込んだように思う。

中国は、我が15億の国民だけが豊かな生活を享受することを本気で考えているみたいで、その暴走が日本や東南アジアを初めとした世界の秩序を混乱させることに躊躇がないことがはっきりした。

中国の求める国家モデルは弱肉強食の強者となることであり、それは世界的にも異質なものである、というのは宮崎市定などの中国歴史学者が示唆しているところで、ヨーロッパ人がそれを見て、最後のスターリン国家と呼ぶのももっともなことである。

明朝や清朝の専制国家から一党独裁に政治形態は変わったかもしれないが、その国家モデルは、4千年来何も変わってはいない。

今回のことで、中国ではこれまでは大丈夫だと思われていたいろんなことが、不安に変わった。つまり、中国では、日本人や日本企業が何をされても、大使館は中国に抗議もできないことが露顕した。

現地駐在の日本人が、もとより徹底した反日教育が為されている中国人社会の中で、身体財産の安全がとにかくも確保されているのは『日中友好』のスローガンがあったからである。ところが今回の一件で、それが実態がないことがバレバレになったからには、ひたすら日本人であることを気取られないように暮らさねばならないようになるかもしれない。

人は、転校生ですらいじめたがるものであるから、いわんや外国人である日本人をや。

2010年7月施行された中国の国家総動員法により、日本企業の在中国資産の没収というのは悪夢のシナリオではあるが、現実の可能性として対応策検討の俎上に上がって来るのだろう。

そんな動乱の時代でも、坐らなければ、まともには生きられまい。





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トート

2010-09-24 05:57:04 | 時代のおわり
◎地獄行きの人には輪廻転生がない

エジプト神話で伝えられるトートの伝承は以下のようなものである。

『オシリスについで崇められる神にトート(Thot)がある。トートは知恵の神で、下界の法廷では、オシリスの傍らに立って、人間の心の目方を計る秤を眺めながら、手に神と筆をもって控えている。

この理由からトートは神の書記と呼ばれている。この神の像は鶴の首をもった人間の姿に書かれている。

そしてその頭の周囲に新月の形をした後光がついているのて、時を定める神とされていたことを示すものである。』
(エジプトの神話伝説/名著普及会から引用)

またトートは王の助言者であり、鶴の姿で世界中を矢のように飛び回る。

この記述では、トートは閻魔大王であり、時を定める神であるから世界のトータル・コントロールを行っている神でもある。

エジプトのセトナ王子の見たところでは、死者がアメンチーというあの世の法廷に引き出されて、その法廷には大勢の神々が列席しているのだが、その死者の善悪を大きな秤で図って、その結果をアヌビスが報告する都度、トートがそれを紙に記録する。
功過格おそるべし)

善の方が悪より多かった人は、その魂は天国に登り、悪の方が善より多かった人はアメンチーの王に仕える怪獣アメイト(amait)の前に投げられて、見る間に肉体も魂も一口に食われて、もう再び生き返ることはできない、とされる。

また善悪が同じ位だった人は、護符を与えられてセケルオシリスに仕える人々の中に加えられる。

これによると、地獄行きの人は輪廻転生がない。

仏教的輪廻転生では、地獄にも仏があって救ってくれる者もいるという伝えられ方をしているが、地獄行きの人は輪廻転生せず終るというのは、現代の60億を越える地球人口の時代では、現実的なのかもしれないと思った。






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松原哲明「私の禅的生き方」

2010-09-23 07:49:28 | 丹田禅(冥想法8)
◎ノン・アイディア

松原哲明氏は、臨済宗の松原泰道氏の息子さんで、世間的に見たらとても恵まれた人生である。山本玄峰みたいなぼろぼろな生い立ちとは偉い違いである。早稲田大学に入って、ブリヂストンに入社し、雲水になってからは、三島の龍沢寺に入り、菜食しかできない蒲柳の質ながら、結婚して子供までもうけ、シルクロード踏破は99回を数え、著書も多数。父君の威光が随所に効いていたのは本人も自覚している。

悟ったかどうかについては、70歳すぎてから、「臨済のいうところがおぼろげにわかりだした」というところ。ズバリではないようである。

そんな松原さんも、さる禅僧がインド行きの壮行会で飛行機が落ちたら後をよろしくと言うのを聞いて、禅僧や浄土系真宗系の僧が死を恐怖するのは、悟っていないためだとする。

以下の文で、有生とは悟っていない人を指す。
臨済はいう

仏の境地は無生だ。何も心に刻まない。
眼に色を刻まない、無色である。
声を刻まない、無声である。
鼻に香を刻まない、無香である。
言葉を刻まない、無舌だ。

「私、悟りました」は本当か

ここを般若心経は、無色声香味触法といった。無味ではなく無舌としたのは、これから語を刻まない無舌の世界、無語を説明しようとしているからである。
仏は無語の人である。語を心に刻んでいる有生とは違う。

無語をモットーにしている人が、私は仏でございますというか。仏は悟った人である。その人が私、悟りましたなんていうか。そんなこと言うから悟っていないことがばれる。何も心に刻まない人は無語で出てくるだろう。』
(松原哲明/私の禅的生き方/大和書房から引用)

無語、無舌とは、例の「奥深い心」のことなのだろうと思う。無語、無舌では木で鼻をくくったような応対だが、時間を止めるってのも同じだろう。

ダンテス・ダイジは、奥深い心から愛が流れだすと語ったが、修行中の禅僧の前でそんなことを語るのは修行の邪魔になろうというもの。

テレビやラジオ放送で、無語は放送事故。この言葉の奔流の時代に、無語という言葉はいかにも古色蒼然たる言い回しである。無語と言っても、真意は無想念なのだろうから、ノン・アイディアや、ノン・ノーションが、キャッチ・コピーとして適当だろう。





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プチ冥想の評価

2010-09-22 05:40:18 | 究極というものの可能性
◎冥想には決まった形はない・・けれど

プチ冥想がダメというわけでもない。このことは、過去のいろいろな検討の中で示してきた。

法然だって親鸞だって、最初は自分の念仏に充分な確信をもっているわけではなかった。六字の名号南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経のお題目も、数分しかできなければプチ冥想。死のプロセスの探求者であったキュブラー・ロスの出会った黒人のおばさんは、「坐る」という冥想であったかどうかはわからないけれど、一つ突き抜けた何かを持って死を前にした人に対してある覚悟を与えるという技を持っている。

OSHOバグワンなどは、プチ冥想を紹介した数においては、その右に出るものはないだろう。王陽明の事上磨錬は、平たく言えば一生懸命真剣に仕事をしましょうということだが、冥想に匹敵するものとして評価していた。世間の9割方の人は一生懸命真剣に仕事をやっているのだと自分では思っているのだと思うけれど、その真剣度合は、個人的無意識に多種多様の複雑さと深さの異なるレベルがあるがあるように、実はかなりの差があるのではないかと思う。だから「一生懸命真剣に仕事をすることが冥想だ」と言う場合は、落とし穴も大きいと思う。

プチ冥想がダメというわけでもない。だが、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガのいずれかを併用しているから良しとするわけにもいかないのではないか。正しいメソッドを用いることは形として近道なのだと思う。でも、只管打坐やクンダリーニ・ヨーガを修業したからといって、誰もが悟れるわけではない。

そこには、言葉で言えば、真剣さみたいなものがエッセンスとして絶対に必要となってくるのではないか。真剣さが核であって、形・座法は決定的ではないのしもしれない。
だから本当にぎりぎりのところを求める人に対しては、「冥想には決まった形はない」などということが言われるのではないだろうか。

オーラソーマで瞑想、ハタ・ヨーガで瞑想、アシュタンガ・ヨーガで瞑想、ホット・ヨーガで瞑想、前世記憶呼び起こしで瞑想など、皆やると思う。だがそれは、ちょこっと安心、ちょこっと心の安定、ちょこっとやさしさ、いささかの愛だけを求めるに留まってはいけないのではないか。

最後は我が身を捨てる自分のメリットを捨てる、そうしたものに結びついていく形での真剣さ、そこにつながっていかないと、プチ冥想はプチ冥想に留まる、禅家流の言い方ならば、「プチ冥想に落ちる」みたいなことになりかねないと思う。





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悟ってみなければわからない

2010-09-21 05:45:34 | 究極というものの可能性
◎悟っていない者にはわからない

「誰もが悟りにチャレンジしなければならない。」・・・この命題の根拠と思われるものは、悟った者だけが本当の愛・大慈悲、ほんとうの安心、本当の歓喜、本当の智慧,本当の力、本当の力、本当の自由を知るということである。

これを証明するためには、悟ってみなければ、それが本当かどうかわかりはしないという二律背反がある。悟っていない者に対して、論理的に「悟った者だけが、本当の愛・大慈悲、本当の安心、本当の歓喜、本当の智慧,本当の力、本当の力、本当の自由を知る」ことを説明することはできない。

悪魔払いとか、邪悪なバイブレーションを浄化するとか、をして汚れを払うなどと言うが、浄化、禊をする前は、自分は本当の意味で清浄だったのか。また悟っていないから、何が清浄無垢かもわからない以上、浄化、禊を行ったからと言って、浄化・禊の後も清浄だと主張はできはしない。


世界の8000メートル峰14座を酸素ボンベを使わずに登ったラインホルト・メスナーは、頂上に登った後ももとの黙阿弥だと語る。それは、文字通りのピーク・イクスペリエンス(絶頂体験)だったが、悟りではなかった。でもそれは彼が登ったから言える。

『ぼくが8000メートル峰で体験したもろもろの感情というものは、実に多種多様なものである。上に登るということがいつも同じようなものだったら、たった一回だけ登ればよかったことになる。頂上では一層神に近かったとか、頂上で幸福だったとか主張する多くのアルピニストたちの荘重すぎる感情は、ぼくをいらいらさせるものである。

ぼくが頂上で味わったものは、完全な静けさであり、また完全な絶望感だった。とくにぼくの心を激しくゆすったものは、この無のなかに完全に融け込んでしまうという思いだった。
だがたいていの場合、間に合ううちにまた降りなければならないという心配もあった。この心配の念がぼくを不安にし、ぼくに打ち克った。この危険に身をさらしている場所にそういつまでも頑張っていられないというときには、不安と希望は表裏一体をなすものなのである。』
(生きた、還った(8000メートル峰14座完登)/ラインホルト・メスナー/東京新聞出版局のダウラギリの章から引用)





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フロントラインとしての悟り

2010-09-20 07:42:13 | 究極というものの可能性
◎5分間冥想からアセンションへ

さて悟りとは、登山でいえば8000メートル峰の死の地帯を越えて、山頂に登りきるものである。

しかし、数多くの登山の中にあっても、8000メートル峰への登山は、トップ・クライマーのみが為し得る業であり、町のハイカーが気楽な気持ちで取り組めるようなものではない。まずは、資金を出してくれるスポンサー集め、機材や道具集め、そして現地のシェルパやポーターなどの荷役、ガイド集めなど、気の遠くなるような準備を経て、やっと登山に至る。

ラインホルト・メスナーも、山頂を目前にして何回も下山したことがあるが、そんな面倒極まりない準備をもう一回やらされる愚痴はこぼさないが、そうしたものについてのプレッシャーは相当なものだったに違いない。

つまり8000メートル峰への登山というものは、登山界全体におけるフロントライン、最前線、アヴンギャルドなのである。メスナーも言うように、誰もが8000メートル峰への登山ができるわけではなく、死に対するリスペクトがない者のように、その資格がない者がいる。

翻って、冥想体系の中にあっては、オーラソーマでやってる冥想や、柔道や剣道の稽古でちょっことやる黙想や、肉体クンダリーニや肉体チャクラだけを扱うクンダリーニ・ヨーガなんかは、ファッション冥想というべきものであって、登山でいえばハイキングみたいなものに該当すると思う。自分のすべてを賭けているわけではないからである。

エリヤがその弟子エリシャを初めて連れにきた時は、エリシャが牛で畑を耕しているところをいきなり拉致しようとしたので、エリシャに「私はあなたに何かしましたか」なんて言わせているが、エリヤは「すべてを捨てて俺について来い」と言わんばかりの姿勢だった。

このように自分の過去、社会性、家族などすべてのものを捨てて、修行に入るのが悟りへの第一歩である。悟りという山に登るのに必要な装備とは、すべてを捨てることと、食えることである。

そして悟りは、容易ではない、簡単ではない。すべてを捨てて入門、修行したものが全員悟れるわけではない。それは8000メートル峰登山に成功する者が少ないのと同じ。

それではアセンションでは、大勢の者が同時に悟ることを想定しているように見えるが、それはどういうことなのだろうか。その大勢が同じフロントラインに立って、生死を賭けて勝負するというシチュエイションは、平々凡々の日常生活にはない。常識では想像しにくい。つまり、アセンションとは、8000メートル峰に何千人も一斉に登ろうとするようなものであって、とても現実離れした光景に見えるのである。

女優の大竹しのぶが毛呂山の母校を訪問する番組で、5分間だけ自分の心を見つめるという習慣を持っているってのは、チェックしました。これもプチ冥想。しかし現代人は、ファション冥想、お遊び瞑想といわれても、5分間冥想から始めるしかないのだ。






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エリヤの神との出会い方

2010-09-19 07:00:05 | キリスト者の秘蹟
◎ホレブ山で顔を外套に隠す

列王紀上にある預言者エリヤは、40日40夜の強行軍の末に、神の山ホレブ山に導かれ、そこでまさに神に出会おうとする時、その顔を外套で隠した。

洞穴の中で、彼は神の静かな細い声を聞いた。そしてこの後洞窟の出口で神の語りかけを聞いた。

聞き方としては、シャーマン風に大神を我が身に降ろして、神の声を聞いたのだろうか。そうであれば、その神の語った内容は、降ろされた当人は大体において記憶することはできないのであるから、エリヤが神の声を記憶しているからには、もうひとり神の依代である人物がこの場に必要となる。

ホレブ山上にはそうした人はいないから、エリヤは神降ろしタイプの出会い方で、神に出会ったものではないと考えられる。

只管打坐かクンダリーニ上昇かどちらかといえば、エリヤはパンや油をザレパテの極貧の寡婦のために超能力によって、無限に出してやったことや、バアル神の450人の超能力者と超能力で生贄の牛を天の火で焼くという超能力コンテストで対決した事蹟からすれば、クンダリーニ上昇によって神に出会ったと見るべきだろう。

クンダリーニ上昇ならば、最後は中心太陽突入だが、エリヤは顔を外套に隠したので、神と合体しなかった。むしろ、それを遠慮したことを、外套に顔を隠したと表現したのだろう。

そうすると洞窟の入り口で神の声を聞いたとは、歩いて洞窟の入り口に出たことを言うのではあるまい。個性の極点はコーザル体であるので、コーザル体のままで、神と出会った。つまり神に出会ったが、結局自分を捨てることのできないままに終ったことを暗喩しているようにも読める。

以下旧約聖書列王紀上19 
『その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。

彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。

主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。

彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。

主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。
またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。

ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。

さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。』





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羅盤と魔よけ

2010-09-18 07:51:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎赤穂城大石寺の指南針

今日注目したのは、赤穂城築城に用いられた羅盤(指南針)。最近の風水ブームで、関心のある人なら、書店や文房具屋で結構立派な羅盤を見つけることができる。

通常の羅盤は二十八宿、64卦など何重にも文字が刻まれているが、赤穂のそれは比較的シンプルである。特徴となっているのは、外周に呪符、魔よけで用いられる星印セーマンや九字井桁マーク・ドーマン、卍マーク、円(一円相)など、16のマークが配置されているところである。

赤穂城の羅盤は、浅野家重臣の甲州流兵法の大家近藤正純のデザインと伝えられる。星印や九字井桁のセーマンは、日本では陰陽道でよく用いられるが、古今東西で魔よけとして用いられているものである。たとえばイスラエルのカペナウムのシナゴーグには五芒星、六芒星の魔よけが彫られ、杭州十三重の塔の最上層の天上には魔よけの五芒星が組み込まれている。

赤穂城の羅盤では、鬼門(東北)に井マークを当て、裏鬼門に正方形マークを当てる。
ちなみに北に一円相を当てるのは定番であり、聖者は北面するであるから当然のこと。

16種の呪符マークは中国、日本で見ないということはないので、故意に羅盤上の各要素との関連づけが隠されてきたふしがある。おそらくは、そこにエソテリックなパワーのメカニズムが隠されているためだろうと思う。

その関連付けは、おそらくは失われた占星術の重要なノウハウの一部であって、チベットのラサにある古刹セラ寺の逆時計回りの渦巻きを見て、それをデォルメするとハーケン・クロイツになるというインスピーレションを受け、そしてそれがどういう用途になるかまで直感できれば、赤穂城の指南針の16種の呪符の並び方と方位配当の妥当性を検証できるのだと思う。





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マロリーは二度死ぬ

2010-09-17 06:08:40 | 現代冥想の到達点
◎新たな登山ルート

ジョージ・マロリーは、戦前のイギリスの登山家。1924年6月、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと、エヴェレストに三度目のチャレンジを行ったが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった

1999年5月1日、アメリカ人コンラッド・アンカーがマロリーの遺体を、北東稜下の約8230メートルの凹地の傾斜30度のバンドの上で発見した。

マロリーが、ニュージーランド人のヒラリー以前にエベレストに登頂できたかどうかはその後大きな議論となっているが、メスナーは、この遺体発見により、1924年の装備では、第2ステップから頂上を狙うことは無理だったことを根拠として、マロリーーは登頂できなかったと断定している。

これがマロリーの二度目の死である。

今では所定の金さえ準備できれば、ベースキャンプに入り、シェルパを雇い、登山中はガイドの指示に従い、登山ルートは捨てられた酸素ボンベを追っていけば誤ることはない。

高所キャンプではコックの作る食事やドリンクで体力を養って、最高点近くではチタン製の酸素ボンベの世話になれば、戦前には未踏の聖域であったエベレストの頂上にも登れるそうだ。それは困難な登山かもしれないが、もはや不可能な登山ではない。

その結果エベレストは、未知なるフロンティアであることを失った。もはやエベレスト登山は、その本質的な魅力を失ったのである。

今や本当の冒険は、自我が死ぬ先、メディテーションという登山ルートにしか見つかるまい。


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死への敬虔さ

2010-09-16 05:41:05 | 究極というものの可能性
◎死を越えていない者バージョン

登山家ラインホルト・メスナーが、金をもらって遺族の依頼を受けて、カラコルム山脈の8000メートル峰のひとつガッシャーブルム2峰に再び登り、既に前の登山で発見していたオーストリア人2名の死体を埋葬して、そのことをしゃべったことに対して『屍体を乗り越えてまで登りたいのか』と世間から批判された。

『ぼくは、死者もまた生きている者と同様にこれらの山のものである、という考えに立っているのだ。ぼくたちが、いつもただ自分たちの成功についてだけ口を開き、死者について口を閉じるなら、この世の最高峰での遊びが、どんなに危険なものであるかを、若い未熟なアルピニストは信じてくれないだろう。

もしかすると、ぼくたちでさえ、あの上の世界のもつ現実性に対する感覚を失ってしまうかもしれないのである。

ここ数年来、ぼくは、ほとんどの8000メートル峰で”死者と出会った”のであり、この死者には陰鬱な話がつきまとっていた。

金を提供するからといわれても、これらの写真を公開するようなことはしなかった。

だが写真は必要である。この写真を見て登っていくのをやめさせることができるかもしれない。この種の山登りは、危険なものであることを知りながら、それでも登っていく者が愚か者であるというのではない。

だが死を無視し、自分もまた高い山で命を落とすかもしれないということを、わかろうとしない者は愚か者といわざるを得ないのである。』
(生きた還った/ラインホルト・メスナー/東京新聞出版局から引用)

冥想の窮極においても、自我の死が求められ、それにはしばしば肉体死というものが伴う。メスナーの言い回しを借りるならば、
「この種の冥想は、危険なものであることを知りながら、それでも坐っていく者が愚か者であるというのではない。

だが死を無視し、自分もまた高い境地で命を落とすかもしれないということを、わかろうとしない者は愚か者といわざるを得ないのである。」となる。

冥想の窮極とは悟りのことである。誰もが安全に悟れるわけではない。まずその道に取り組もうとする入門段階で、あらゆる社会性、つまり財産、家族、名声、社会的地位を捨てて修行に入ることが求められる。

更に一歩進めて、悟りという8000メートル峰を目前にすれば、そこには『死の地帯』が待ち構えている。自分を捨てるという言い方はカッコイイが、そこでは自分が死ぬことを求められる。8000メートル峰の高みに登ったところで、タロットの「吊るされた男」よろしく、まっさかさまに崖から飛び下りることを求められるのである。

そこにしか現代人にとってのフロンティアはない。異次元の風光ってやつだ。

チャレンジするのは良いが、後から死の地帯にやってきた優秀な修行者に、自分の死体を弔ってもらう可能性が高いということ。

メスナーは、成就したクンダリーニ・ヨーギのように死の世界全般をクリアして、生の世界の何たるかを知るというところまでは行っていないが、生の極限のボーダーに立って、死を見つめるということを、8000メートル峰14座無酸素登頂の中で繰り返してきた。

だから、その言葉には、充分に死に対する敬虔さが満ちあふれている。まだ悟らぬ者にはこうした敬虔さは少なくとも具備すべきものだと思う。






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