アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

宮崎奕保禅師の悟り

2010-08-31 05:57:44 | 只管打坐
◎ものは一つだと体が覚える

宮崎奕保(えきほ)禅師は永平寺の住職もなさった方で、先年108歳で亡くなられた。江戸期以前は当たり前だったが、昨今の僧としては珍しく生涯不犯。若い時分の結核のために片肺を失ったまま長寿の人生を過ごした。

NHKの方の素人丸出しのインタビューに答えて言うには、
『---禅師様が、悟りの境地にあると初めて気づいたのは、いつのことでしたか。

質問を聞いた宮崎禅師は、しばらく思案した後にこう言った。

「それは蓄積や。何かの機会に、ものは一つだと体が覚える。『般若心経』にもそう書かれておるけれど、言葉で分かっても、体では分からん。(悟りというものは)体が自然に体得するんや」』
(坐禅をすれば善き人となる/石川昌孝/講談社から引用)

禅問答なら、間髪を入れずに答えるが、ここは素人向けに時間をとって言葉を選んだ。

宮崎奕保禅師は非常に坐禅をした。宗派を問わずたくさん坐れる人は本物が多い。開悟した機縁を語っても何の益にもならないと見たか、ここは蓄積と語った。

坐って何かが蓄積することを言う。蓄積するとそれを体得することに近づくのだろう。それで、坐れ、只管打坐しなはれと言っている。

この本には宮崎禅師が印可されて印可状を回覧された話は出てきたが、何故印可されたかは何も書かれていなかった。

坐れば何かが蓄積して悟りに近づくとは、功利的なもの、自分にメリットがあることしかしない人向けの、いわば情けない説明である。冥想すれば何かが起こるなんて期待して坐ってはいけないが、そう説明して、水を向けなければならないほどに、自分を含め腐った人が多いということを、肝に銘じたい。





悟りとは何か
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タロット・カードの順序

2010-08-30 04:27:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎生の世界と死の世界

タロット・カードの大アルカナ22枚の順序は、最も普及しているウエイト版で、こんな風になっている。

0 愚者(道化師)
1 魔術師
2 女教皇(女司祭長)
3 女帝
4 皇帝
5 教皇(法王、司祭長)
6 恋人達(恋愛、恋人)
7 戦車(征服者)
8) 力(剛毅)
9 隠者
10 運命の輪(運命、運命の車)
11 正義(裁判の女神)
12 吊された男
13 死神
14 節制
15 悪魔
16 塔(神の家)
17 星
18 月
19 太陽
20 審判(永劫)
21 世界(宇宙)

まず何で22なのかということについては、ヘブライの生命の樹の球が10個で、これが10チャクラに照応し、さらに生命の樹の球を結ぶパス(径/道/直線)が12本あり、この合計が22であることと、ヘブライ語アルファベット22文字に対応するとされる。

ヘブライ語アルファベット22文字との対応は、もともと黄金の夜明け団で秘密とされていた情報であって、これをアレイスター・クロウリーが暴露したもの。

ヘブライ語のことは詳しくないので専門家に任せるとして、とれが10球でどれが12パスなのかということがまず問題となる。

まず0愚者と21世界。これは明かに愚者がニルヴァーナであり、世界は有の側であるから、アートマンである。

アートマンの側には生の世界と死の世界がある。
そこで全体の並びを見渡してみると、12吊るされた男の次に13死神があって、13から死の世界に入る。つまり13以降は死の世界、つまり肉体の世界ではないのだろうと考えられる。

13死神から21世界までが9枚でこれに0愚者を加えて10枚が生命の樹の10球に照応すると見る。ただし10チャクラは惑星に照応させるのが伝統的なのだが、死神、節制、塔など、概念の属性が揃っていない呼称となっているところに、土俗的シャーマニズムの影を見る。

12のパスの方は、生の側。
1魔術師から始まるが、これは個性、個人の総合的表象と見る。個性、個我の極北では12吊るされた男により世界が逆転する。従って2女教皇から11正義までは、十牛図みたいに個我、自我が極大まで発展する過程を描くもので示すのが正当なのだろうと思うが、5教皇、6恋人達、7戦車、8力、9隠者などと進むのではその狙いは完全にはぐらかされて深い歴史の闇に紛れてわからなくなっていると評すしかないと思う。

以上が私のタロット・カードの並びについてのファースト・インプレションである。






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比叡山で仏を見る-2

2010-08-29 07:31:58 | 密教
◎好相行とは

高川慈照師の好相行の続き。

好相行を行うために、浄土院の拝殿脇に広さ十二畳で白幕を四方に張って、正面に釈迦文殊弥勒の三尊掛け軸を懸けた。戸は締め切られ、明かりは蝋燭2本と経本を読むための手燭のみ。幕の内は行者だけしか入れない。
                     
ここで午前零時より、五体投地で、一日に三千仏への礼拝を繰り返す。一仏に一五体投地であるから、あの尺取り虫スタイルを一日に三千繰り返すのであるが、相当な重労働であり、五体投地を三千回するには、相当な筋力と気力が必要となる。10分間繰り返すのですら結構な運動であり、三千回など若くなくてはとてもできるものではない。

高川師は、元気な時に一分間に三、四仏の礼拝ができたそうで、これでいくと三千回クリアするには15時間弱かかる。そして三千の礼拝が終了すると、縄床に坐っての仮眠だけが許され、本格的に眠ることはできない。

最初は、ふらふらしながら寝込んでしまったり、錯乱状態で白幕内をうろうろしたりして、経本の文字を縦でなく横に読むようなこともあった。

こうして声も出ず、気合も入らず、集中力も失せてきた10日目くらいから、背後からフワーっと姿の見えない大男が攻撃してきた。これは10~15日くらい出てきたが、独鈷杵を投げることで退散させた。

次は姿の見えない犬が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時は、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

犬がいなくなってからは、姿の見えない猫が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時も、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

こうして一ヶ月が過ぎた。

二ヶ月目からは、身体が軽くなり、集中力も戻り、声も出るようになった。出て来るビジョンも轟音を轟かす瀧が眼前に現れたり、漆黒の天空から様々な原色の花びらが降ってきたり、良いビジョンになってきた。

二ヶ月目の終るには、身体の贅肉はとれ、声が透き通るようになった。このころ、良いビジョン(きれいな魔)も出てこなくなった。

そしてある日眠気がなくなり、頭もすかっとして雑念もわいて来ず、集中力があり、仏をクリアにイメージできるようになった。この調子なら仏(好相)を見てやろうではないかと毎日毎日期待に胸を膨らませて行にいそしんだが、毎日その期待は裏切られ続けた。

こうして三ヶ月目も終りに近づいた時、高川師は、仏は見ようと思って見れるものではないと、仏に出会うことをあきらめ、一年でも行を続ける覚悟をした。

そうしたある朝、仏を見ることができたのである。
(出典:行とは何か/藤田庄市/新潮選書)

人は若くなくとも死ぬが、これは、若くないとできない行である。マントラ・ヨーガも似たところがあるのではないか。

肉体を運動と発声で2カ月かけて調整していって、その過程の中で想念も整理されていって、クリアなビジョンが出るようになって、仏を見たいという雑念さえ捨てたところで初めて向こう側からの観世音菩薩が出現した。
このビジョンは、プラトンでいえばイデア界所属の時間のない世界のもの、本物なのだと思う。

これは、比叡山流の好相行がどのように本物のビジョンに到達するかが明快に察せられる事例であった。


それにしてもこうした修行環境は恵まれたものであり、万人が日常生活の中でできる修行ではないと思う。あの生活がシンプルなチベットにおいてすら、観想法修行者は何ヶ月も人里離れた山の洞窟に食料を持ち込んで修行しないと、こうまでビジョンが研ぎ澄まされはしない。いわんやこの情報操作天国・洗脳ラッシュの近代国家日本においてをや。

この後、高川師は先代侍真の堀沢師に出た時のことをこまごまと聞かれ、堀沢師が好相と認めたので好相行は打切りとなった。

高川師のビジョンには観世音菩薩が大勢登場したが、合掌した観世音菩薩一体の場合などいろいろな出方があるらしいとは、偽ビジョンを語る者を排除するには必要なことと思う。何を見たかではなく、本物のビジョンだったかどうかがクリティカルなのである。





悟りとは何か
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比叡山で仏を見る-1

2010-08-28 07:13:34 | 密教
◎高川慈照師の好相行

よく仏の32相好と言うが、32相あることは、本物の仏に出会わなければチェックできないのである。

比叡山には、侍真制度というのがある。最澄の廟が浄土院であるが、ここを守る僧が侍真である。侍真には12年の籠山が義務づけられており、この間浄土院から出ることはない。
侍真になるには、仏を見なければならない。仏を見るまで礼拝を繰り返す修行を好相行という(好相必見)。

高川慈照師は好相行をクリアして、ほんまもんの仏を見た。そこで元禄時代に侍真制度ができてから114人目の侍真となった。これら侍真のうち2割強が籠山中に亡くなっている。仏に出会ったから、とりあえず良しとしたのだろうか。


好相行3カ月目のある朝、堂内は真っ暗である。

『床に投地した額に直感がひらめいた。

「仏さんが出ている」

頭を上げる。
白幕の向こうに、金色に輝き宝冠をつけた観世音菩薩がズラーッと三列に並んでいた。三十三間堂の観音群をイメージすればよいのであろうか。丸顔のやさしい表情の美しい観音様であった。皆、同じ顔つきをしている。白幕に浮き出るようで、距離感があった。目を左方に移す。そちらも観世音菩薩が並んでいた。次いで右方こちらも同様であった。

「魂が引き抜かれたようであった」

じーっと見ているのみであった。心が騒ぐこともなく、感激する余地もない。「出てる!」ただ引きつけられ、魅せられていた。実際は数十秒であったろうが、高川師の実感では二~三分の間であるという。

「なーむ」
再び礼拝をし、頭を起こすと仏の姿は消えていた。礼拝は続行した。』
(行とは何か/藤田庄市/新潮選書から引用)

見ただけなら、菩薩である。まだ先がある。これはいわゆる向こうから来たビジョンなのだと思うが、仏と観世音菩薩は違うのではないか。観世音菩薩は高級神霊の一つのように思う。

それと、例えばの話ではあるが、時々観世音菩薩が来ていたのに気がつかなかったが、この時は気がついたというようなことはあるのではないか、と思う。

  
それでは、仏に出会える好相行とはどんなものだろうか。





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アメリカの対中国政策の転換

2010-08-27 06:09:07 | 時代のおわり
◎貴族の支配する中国

まだ軍事評論家以外はそのことを言わないが、アメリカの対中国政策が封じ込めの方に大きく転換した可能性がある。アジアにおいて中国のプレゼンスが大きくなりすぎたからである。

中華民国は第二次世界大戦の戦勝国であったが、国共内戦により、1948年中共が大陸を握った以降は、アメリカは中国封じ込め政策を継続。1972年のニクソン大統領の電撃・訪中により、封じ込め政策は解除された。

当時は中国も文化大革命真っ盛りであり、国内的にも百家斉放というわけにはいかなかったが、文化大革命が四人組追放により終結、小平が実権を握った頃から、対外開放を本格的に押し進めることになった。

特に1990年代以降は、プラザ合意をきっかけにして日本の工場の中国移転が盛んに行われ、その結果今や中国は日本を凌駕し、世界第二位の経済大国となり、軍事的にもアジアにおいては、アメリカに次いで大きな威圧感を有する国となった。

アメリカはアメリカで1990年代以降は、ジャパン・バッシングをアジアにおける戦略の中核に据えてやってきたが、今や、経済しか見るべきものがなかった日本は、その経済はすっかり痛み、一億総中流から、いつのまにか一億総下流(役人を除く)の三流国に成り下がった。

今や東シナ海にも南シナ海にも日本の周辺海域にも、中国の潜水艦や軍事艦艇が我が物顔に航行する時代となり、もはやこれらの海はアメリカの庭とは到底言えない状況となった。

過去三十年以上アメリカといえば、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字が代名詞であったが、そうした本質的な貧乏国家アメリカのステイタスを世界一に維持していたのが、世界の警察官としての軍事力だった。それがいまやアジアにおいて致命的に見えるほど中国に押されている。このペースで後10年経てばアメリカの軍事的な失地回復はほぼ無理なのではないか。

そうしたことが素人目にも見える状況となったからこそ、巻き返しを図ろうとしているのではないか。

中国は歴史的に外国(夷狄)から圧力を受けると、弱体化し、分裂しやすい国家であった。現体制は、かつては労働者農民のプロレタリアート独裁として政権を握ったはずの共産党幹部の師弟太子党が、いわば国家の貴族層として君臨する独裁体制に変質した。

おまけに言論、思想、宗教の自由のない国であり、役人の腐敗は留まるところを知らないとくれば、軍事力、経済力こそ旺盛ではあるが、外国の付け入る隙は大いにあるだろうというところである。

これは大きな政策転換であるがゆえに、おいおいと明かになってくるのではないか。






悟りとは何か
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死はシックかルックか

2010-08-26 06:06:28 | 時代のおわり
◎クンダリーニ・ルックへ

クンダリーニ・ヨーガは、死の世界をカバーすることで、生の世界をもカバーするもの。生とは、もともと死の世界の一部だから。クンダリーニ・ヨーガがそんなに使えるものならば、死とはさぞやシックなものに違いない。

シックとは、自然な生来のエレガンスを表現する言葉であり、生き方や行動や着こなし方を通じてある種のやすらぎをもたらすものであり、簡素な中に自然さと贅沢さを兼ね備えるといったものである。そしてまたシックとは、ある地域や共同体全体に共通に見られるものではなく、個人的な属性である。

これに対してルックとは、アイビールック、埴輪ルックのようにそのユニークさは個人に属するものであく、そのファッションを身につける人々全体に共通に冠せられる言葉であって、ある脚光を浴びるファッションを身につけるグループ全体に対する言葉だった。

クンダリーニ・ヨーガは、数しれぬ困難に打ち勝たねばならず、かつまた人間の限界を悠々と越えていくと意味で英雄的であり、その達成者の人数の規模からして、ルックと呼べるほどに大きなグループではない。

しかしクンダリーニ・ヨーガは、充分にシックではある。

今般山田風太郎の「人間臨終図巻」を見て、冥想修行者ではない者の死を、これでもかこれでもか、というほどに見せられたが、ほとんどが病死であって、手や足がきかなくなったり、内臓疾患で循環器をやられたりして、肉体機能を徐々に喪失して、ついには死に至る話が多い。

人間がだんだん不自由になって死に至る姿は、それ自体シックでもルックでもなく、いささか胸ふさがる思いがするのは、葬式やお通夜に出たときの雰囲気と同じである。ただ肉体が衰えて死ぬだけでは何も起こらないのである。

死の世界、無意識の世界の広大な広がりのごく一部が生の世界であるというのは理屈としてはわかるが、霊能力者でもない人間にとって死の世界を扱うということが、とりあえずキワモノとして扱われるのは已むを得ないことではある。更に一歩進んで、柳華陽のごとく、三界をオーバードライブするのが間違いなくシックなものだと、広く認知されることが、それに至るメソッドとしてのクンダリーニ・ヨーガがルックとして社会にその位置を見出す条件になるのだと思う。

その意味でもカルロス・カスタネダのシリーズなどが現実のものではないという評価もあるのは残念なことだと思う。クンダリーニ・ヨーガは、その活躍する世界の多様性と不安定性からそういう表現しかとれないものだと思うからである。(彼らはそのメカニズムは極めて精密なものだと口を揃えるのであるが・・・・)

     




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スウェデンボリの低呼吸

2010-08-25 06:04:32 | 究極というものの可能性
◎知的完成の黄金時代

スウェデンボリは、大部の霊界探訪記で知られる。しかし悟り云々ということよりは、霊界の高級神霊の存在の紹介に軸足があったようである。
冥想が深まれば低呼吸になり、呼吸がだんだん落ちていくとトランスに入るそれをスウェデンボリも承知していた。

『スウェデンボリは、少年時代から呼吸の制禦を学んでいた。長時間呼吸を止めれば、一種のトランスに入ることができる。また呼吸を脈拍と同調させれば、トランスを深めることができる。

「時に私は肉体の感覚に無感覚の状態となり、つまりほとんど死に行く人の状態となり、それでも内なる生命は損なわれることなく、思考力もあれば、生命維持に最低限必要な呼吸は続いていた」。

この訓練を辛抱強く続けると素晴らしいことが起こる・・・・・・
「精神の領域の周囲で、喜ばしい光、確かな輝きが踊っている。そしてある種の神秘的な放射が・・・・・脳の中の神殿から放射されている・・・・・魂はより深奥の聖餐に与り、その瞬間知的完成の黄金時代に回帰する。精神の・・・・愛の炎は比べるものとてない。これに比べれば、全ては単なる肉体的な喜びに過ぎないのだから」。』
(秘密結社版 世界の歴史/ジョナサン・ブラック/早川書房P486-487から引用)

「呼吸を脈拍と同調させる」とは、心拍数も呼吸数も、呼吸が落ちていけばだんだん少なくなっていくことを指しているのだろうか。

登山家メスナーによれば、酸素の少ない土地での呼吸を続けると、想念・思考は低下し、情念・感情だけが生き生きと残るとしているので、スウェデンボリが低呼吸時において思考力が残ると行っているのは、思考力がゼロになるわけではないといった程度のことではないだろうか。潜在意識における外部からの情報や刺激に対する素直な受容性は知られているが、それは潜在意識における想念・思考力の不活発と無縁ではないように思う。

ここで注目すべきなのは、「脳の中の神殿から放射されているある種の神秘的放射」という言葉である。覚者ならば、脳なんて表現はせず、チャクラの位置について頭頂あるいは眉間という絞った表現をとるものである。これは、スウェデンボリが、自ら神人合一を目指さない「霊能力者」に留まるという限界を持つためだろうか。





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広田弘毅の最期

2010-08-24 06:01:52 | 冥想アヴァンギャルド
◎無私と戦争遂行方針

小林よしのりのマンガで、A級戦犯広田弘毅が絞首刑の前に「天皇陛下マンザイ!」とやったと書かれてあって、本当かどうか疑ったが、真相は次のようなものであったらしい。

広田弘毅は、日中事変勃発当時の外相。

広田が巣鴨プリズンに拘置され、昭和21年5月、珍しく広田夫人が広田に面会に行った。その四日後に広田夫人が遺書も残さず自殺したが、面会時のやりとりは不明であった。それを知らされた広田は、深くうなづいただけで、一言も言わなかったという。

『当時の首相近衛文麿が生存していたなら広田は少なくとも死刑をまぬがれたにちがいない。彼は近衛が自殺したために身代わりとしてその罪を負わされたものと思われる。

一二月二十三日絞首刑執行のときに、その直前に執行された東条、松井、土肥原、武藤らの「天皇陛下万歳」の声が聞こえてきた。広田は花山教誨師をふりむいて、「いま、マンザイをやりましたね」といった。

そして彼と同時に処刑される板垣と木村が万歳を唱えたときも、彼だけは黙っていた。

十二月二十三日の午前零時二十分、彼は絞首台の穴から消えた。』
(人間臨終図巻2/山田風太郎/徳間書店から引用)

マンザイの相方は誰だったのだろうか。皆で大東亜戦争というマンザイをしたという人間ドラマを冷徹に見据えた感想だったのだろうか。

公のため天皇のために命を捨てることを、国全体が是とした時代。そこを背景に、いかにも日本人的な、自分を捨ててこそ、初めて自分が生きることを充分に承知しつつ、国に殉ずる。それはそれで美しい生き方である。

自分を捨てることを是とする。これは絶対というものに通じるあり方である。しかし国家の戦争遂行方針のもとにそれを強制したのはまずかった。

強制されることなく、自発的に、精神の成熟の結果として、自分を捨てる生き方ができるか。これが現代人の課題だと思う。

だから出口王仁三郎は、出征兵士に対し、出征するのはやむなしとながらも殺人はして来ないようにと助言していた。無私は、強制によっては本物となり難く、必ず揺り戻すもの。自発的な無私にならないとダメということ。





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ウェルナー・フォン・ブラウンの死

2010-08-23 05:29:41 | 究極というものの可能性
◎ノバ(新星)発見

ウェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)は、ナチスのロケットV2の開発者にして、アメリカの月旅行を実現したアポロ計画の指導者。

彼の病気はガンで、大腸ガンから肝臓ガンに転移していた。

『死が迫って来るにつれて彼はうわごとをもらすようになった。それは宇宙のかなたを翔んでいる夢であった。目覚めているとき、彼は娘のアイリスに言った。

「宇宙への飛行は生命の起源を探るためだ。宇宙は生命の故郷だ。生命の起源を知れば、ガンの治療も可能となる。」

一九七七年六月十六日、彼は「私はいま銀河系を脱出しようとしている。10万光年・・・・・十億光年・・・・」とつぶやき、
「ノバ(新星)」といって、息をひきとった。』
(人間臨終図巻2/山田風太郎/徳間書店から引用)

最後のうわごとは、何の気なしに読めば、うわごとに過ぎない。

アストラル体で出たか、メンタル体で出たかを別にして、肉体レベルの宇宙を出る時は、誰でも10万光年を飛翔(上昇?)し、そして10億光年を飛翔(上昇?)していくに違いない。

そして最後の新星こそ、肉体レベルの宇宙脱出時に見るものだろうか。それは、空海の呑んだ明星と同じだったのかどうか。





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ナル・ポイント(空)

2010-08-22 07:11:06 | 超能力・霊能力
◎坂本政道氏の「ピラミッド体験」

坂本政道氏の「ピラミッド体験」で、彼がフォーカス42に着いてから、ヘルパーに「あなたは、ナル・ポイント(仏教でいう空)にいる。空で言われていることをすべてをあなたはここで体感できる」と教えてもらっている場面がある。

空って霊界のある特定の場のことを指すものなのだろうか。そうではあるまい。また空とは、個人の体験として通過できるものなのだろうか。個人の体験ではなく、ある逆転がないと空の正体を知ることができないのではないか。

更にナル・ポイントと「大いなるすべてとは薄皮一枚離れている」などという微妙な言い回しもある。その薄皮を開けるのが真言であるなどという、これまた、内容はそれっぽい高級神霊のアドバイスもある。
「大いなるすべて」が、神、宇宙意識、ニルヴァーナなどに該当するものなのだろう。

坂本政道氏は、ヘミシンクによるアストラル・トリップでこうしたフォーカス1から始まる霊的宇宙を進んでいくのだが、どこまで行っても霊的宇宙から出られないのではないか。翻ってどこまで行けるかを見極めるのもそれなりに意味があることなのかもしれない。

アストラル・トリップを得意とした出口王仁三郎は、そのトリップで見たことをあまり明かにしなかった。その理由は、しばしばマスコミ報道で伝えられている事件の情報とトリップで見た真相が異なるものだから、いちいちそれを説明するのはうっとうしかったかもしれないし、本当に言葉で説明することができない部分があったからかもしれない。


また更には霊界=アストラルの世界には独特の優勝劣敗の法則があるようなので、霊能力者以外の人間がそれにかかわることを良しとしないという方針があったからかもしれない。

ヘミシンクとか、ナントカ研究所といえば、科学っぽいが、ヘミシンクによるアストラル・トリップは、結局霊能力のことである。従って万人に広く広めるべき手法とは言えないのではないか。

霊能力に依存したメソッドを広めようとして結局やめたことには、先例がいくつかある。たとえば出口王仁三郎が帰神を途中でやめたのは知られている。
こうしたことを考え合わせると、ヘミシンクのような霊能の技術は霊能力者だけに限るべきで、霊能力のない一般人に向け広めようとするのには弊害があるのではないだろうか。また霊能力者でない人間がこうした技術にかかわるのは危険だと思う。生兵法は大怪我のもと






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オリーブの栄光

2010-08-21 06:55:26 | キリスト者の秘蹟
◎誰もペトロ2世を名乗れない

オリーブの栄光とは、聖マラキの予言で、最後から2番目の教皇とされる人物のことである。

聖マラキは、12世紀に活躍した北アイルランドの司教で、歴代教皇を幻視して、最後の教皇のことまで予言している。

現代も活動するカトリック教会最古の修道会であるベネディクト会に伝わる言い伝えに、「世の終りの前にはベネディクト会から教皇が立つ」というのがある。ベネディクト会はまたの名をオリーブ会と呼ぶところから、これはマラキ予言の最後から2番目の教皇がオリーブの栄光と呼ばれることと符号する。

現教皇であるベネディクト16世がベネディクト会出身かどうかは調べきれなかったが、ベネディクトを名乗る教皇が必ずしもベネディクト会出身ではないことはわかった。

予言というのはそのものズバリではなく、霊統がベネディクト会出身であることを見て、「オリーブ」の名をあてることもあるのだろうから、物理的にベネディクト会出身でなくともハズレと断定はできない。

前教皇没後に枢機卿たちの選挙で次の教皇を決めるが、これをコンクラーヴェという。コンクラーヴェで選出された教皇は、その法名を決めるが、「ペトロ」だけは選んではならないしきたりになっている。

というのは、「ペトロ」は、漁師出身の初代教皇聖ペトロであり、歴代教皇は、漁師の指輪をつけ、漁師の靴をはき、この世の舟を操る。聖ペトロを憚(はばか)るためである。

つまり今のしきたりでは、新教皇は絶対にペトロは名乗れないはずなのだが、聖マラキ予言では、最後の教皇の名はペトロ2世。

つまり、カトリック教会が存続を危ぶまれるほどに追い込まれて、その教会組織全体の最期が見えるような段階にならないと、新教皇がペトロ2世を名乗るようなシチュエーションにはならないだろうから、教会に対する迫害の終りにペトロ2世が出るという意味はよくよく考えてみなければならないと思う。




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でっちあげ

2010-08-20 05:44:41 | 究極というものの可能性
◎真理のかけら

『人々は、小さな真理を、真理の一部分を見つけると、全体を発見するのではなく、残りの部分のすきまを想像で埋める。真理の一部分を手にしているので、彼らは主張したり、首尾よく一つの体系を作ることができる。しかし残りの部分はでっちあげに過ぎない。』
(神秘家の道/OSHO/市民出版社P774から引用)

この文章はもともとタントラのあり方についての批判の一部であるが、悟っていない人の信仰って常にそんなものだ。それどころか悟っていない人が主宰する自己改造セミナーとか、悟っていない人が指導する宗教の教義・教学だけ学ぶ宗教なども同じようなものだ。

悟ってなければ、何を主張しても、何を言っても、どんな合理的な説明をしても、全体を捉えていないがゆえに結局は、全体として「でっちあげ」のそしりを免れない。

その上、「あなたは、真正の悟りが何かを見分ける目をもっていないので、何が真理かわからない」などと、ずばりと切り込まれて手も足も出なくなる。

全身全霊を挙げて謙虚に生真面目に素直に信仰に取り組んでいる姿は見る者を感動させる、一心の美みたいなのものがある。しかしまだ悟っていなければ、「でっちあげ」が信仰のまねごとをしていると酷評されても反論ができない。

それでも、子猫や蛙が興味のあるものにジャンプを繰り返すが如く、愚直にリトライを繰り返すのだ。およそ物事の始めには不思議なパワーがあるものだから、それをゆめうたがわなければ、何かがある・・・・と「でっちあげ」まみれの愚者でも頑張るしかない。





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光明を得れば肉体と脳はかき乱される

2010-08-19 05:54:25 | 冥想アヴァンギャルド
◎真理は語れない

OSHOが語る悟った者の生存確率の低い話。これは、悟りを求める人にとっては、クリティカルな問題である。そしてこの問題は、将来起こると考えられている同時大量集団アセンションの結果起こるだろうことに大きなサジェスチョンを与える。

すなわち、いろんな預言者がビジョンで見ているとおり、アセンションで悟り、その試練をパスする人は思ったよりかなり少ないだろうってことである。

『こういうことが一度も言及されないのはそのためだろう。光明を得ること自体が肉体と脳をかき乱すとは、どんな聖典にも書かれていない。だが私は、すべてをまさにあるがままに言いたい。というのは、私の理解では、興味がない人たちが興味を持つようにはならないし、また興味を持っている人たちは、どんな真理によっても邪魔されるはずはないからだ。そして実際、その人たち、そのことを前もって知っておいた方がいいだろう。

光明を得ることは,確かに精神身体的健康を大いにかき乱す。なぜなら、それは肉体がそのために準備され、用意のできているものではないからだ。光明を吸収できるようなものを、自然は何ひとつ肉体の中に組み込んではいない。突然、山が自分の上に落ちてくる---人は押し潰されずにはいない。

なぜ十人のうちの九人が沈黙にとどまるのか?これまで言われてきたことはせいぜい、「真理は語れないからだ」ということだった。それは真実だが、言及されていないもっと重要なことがある。十人のうち九人の頭脳が働かなくなる。その人たちは、もはや話すために大脳のメカニズムを使うことができない。そこでむしろ、黙っていた方がいいと感じる。

彼らは自分の大脳のメカニズムが、もはや機能する状態にないことを完全に理解する。』
(神秘家の道/OSHO/市民出版社P488-489から引用)

この文章に続いて、脳が破壊されるのは、大脳の細胞が光の途方もない衝撃で脳内細胞、脳内神経をかき乱すからだという説明を行っているが、呼吸停止による脳の酸欠も影響があるのではないだろうか。

昨今大手を振って、アセンションだとか、フォトンベルトで皆光明を得ると宣伝する手合いがいる。しかし光明を得る、悟りを得るとは、かくも「この世的な価値観」からは問題があるのである。

それでも、光明の絶対性に疑いを持たない冥想家にとっては、そんなことなど、何のその。しばしば彼らが、それによって脳が破壊されることすらも何とも思っていないことを見聞きして、驚かされるものだ。たとえ脳が破壊されても本当の自分が傷ついたり滅びたりするものではないことを、彼らは知っているからである。

悟りの社会性、真理・光明を得た人の社会復帰、そうした問題は、社会全体から見れば、ごく一部の宗教オタク、冥想オタクの課題に過ぎないように見えるが、逆に窮極を視野に据えた冥想によってこそ文明全体の展望が開けるという点からは、本来、無視できない、社会全体にとって重要な問題として、浮上してくるはずのものだと思う。





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ブラック・アウト

2010-08-18 05:45:05 | 現代冥想の到達点
◎カムバック・タイム

フリー・ダイビングでのブラック・アウトとは、気絶のこと。これは冥想で呼吸がほとんどないようになった状態と全く無関係とも思えないので、チェックしておきたい。

『不測の事態というのは、息こらえをし過ぎて酸欠状態になり、カラダのコントロールが出来ずに筋肉がガタガタと痙攣する「サンバ」(ブラジルのサンバ踊りと似た状態になることから、こう言われる)や、それがもっと進んで気絶してしまう「ブラックアウト(BO)」といった事態のことを言う。

BO状態になった場合に、数十秒以内にカムバック(意識回復)出来ればまず問題はないが、一分以上カムバックしない場合は蘇生率98%、二分で90%、三分で75%、四分で50%、五分で25%、十分で2%と言われている。つまり四分以内にカムバックできなければ植物人間になるなど深刻な後遺症が残る可能性が大きく、五分以内にカムバックできなければかなり高い確率で死亡するということである。

そういうわけでダイビングはひとりでやるわけにはいかないのである。』
(潜る人/佐藤嘉尚/文藝春秋から引用)

ダイビングではこのパートナーをバディと呼ぶ。冥想修業でグルが常に修業の進行を見守るようなものであるが、クンダリーニ・ヨーガのように呼吸停止がそのステージのある段階で見込まれる場合は、水中と空気中という舞台の違いはあるが、必ずパートナーが必要であることは、このブラック・アウトの事例でもわかる。

またグルがついているから、必ず無事に帰って来れるというものでもないのだろうと思う。それもダイビングと同じ。

そしてまた呼吸停止タイムが、肉体を持つ人間に与えられた体外離脱タイムの上限であるということがあるかもしれないという示唆をも与えてくれる。それは、このダイビングの例で言えば、呼吸停止4分を越えれば生還確率5割を切るのだろうと思う。

同じ体外離脱でもヘミシンクとかでやるのは呼吸停止を伴わないようなので、アストラル・トリップ。一方ホンチャンの体外離脱であるメンタル体で出るというのこそ、呼吸停止が伴うので、そこでこの生還確率を気にしなければならないことになる。ただし、メンタル体で出るほどの精神的成熟度の人はあまり生還するしないを問題にしないようであるから、結果的に生還確率1割以下だろうというのはありそうなことである。

この意味からも熟達したクンダリーニ・ヨーギがアストラル・トリップのことを子供だましと酷評する理由が推察できるように思う。フリー・ダイバーが一回の閉息潜水に命をかけているように、メンタル体で出ようとするクンダリーニ・ヨーギも命を懸けてチャレンジしているのだ。




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潜水での死の恐怖

2010-08-17 06:00:40 | 現代冥想の到達点
◎ロバート・クロフトの73メートルダイブ

1969年にジャック・マイヨールが語る、かつてのフリー・ダイビングのチャンピオン、ロバート・クロフトの潜りのことを日本人ダイバー大崎映晋が聞く。

『ジャックはうまそうにビールを飲みながらこんなことを言った。

自分は66年に六十メートル潜って初めて世界記録を作った。それはすぐにエンゾに破られ、さらにロバートに破られた。昨年自分は70メートルで二度目のチャンピオンになったが、7か月後にはロバートが七十三メートル潜って再び破られた。それが現在の世界記録だ。実はその時の潜りを自分はアクアラングをつけてつぶさに見ていた、というのである。

「フロリダのフォート・ローダーデールでした。私が70メートルの新記録を作ったのと同じ場所です。真夏とは言っても、七十数メートルの深さの水は結構冷たい。

私はアクアラングをつけてじっと待っていました。やがてロバートが降りて来ました。強烈な水圧によって彼の身体中の皮膚が垂れ下がり、お腹はペッタンコにつぶれ、まるでガイコツに不格好な皮膚と肉が辛うじてぶら下がっているような感じでした。

ロバートは大きな潜水用のコンタクトレンズをつけており、目は大きく見開いたままですから、深海の化け物そのものでした。自分もあんなふうに見えるんだろうなあと思うと、いい気持ちではありませんでした。

彼は目標の七十三メートルに達し、錘を放しました。潮の流れがとてもきつい日で、錘を放したと同時にガイドラインから手が離れてしまいました。そのまま流されれば、死ぬのは確実です。私がガイドラインから離れて助けようとすれば、私も危ないですし、数メートル下にいましたから、どちらにしても助けることは不可能でした。だから私は見ているしかありませんでした。

彼は必死になって潮に逆らって泳ぎ、辛うじてガイドラインに掴まることができました。滑稽なぐらいの必死さでした。そして七十三メートルの標識板を持って上昇して行きました。」

ロバート・クロフトは世界新記録を作ったが、これを最後に引退した。

もともと閉息潜水は死の恐怖との戦いだった。当時の医学界では水深50メートルで肺胞が潰れ血へどを吐いて死ぬというのが定説になっていた。実際に空き缶に錘をつけて静めると、50メートルで形がなくなるほど潰れてしまう。50メートルでは6気圧の水圧がかかり、肋骨が折れる前に肺胞がはじけて潰れてしまうと考えられていた。

だから世界記録が50メートルを越えてからは、誰がどこまで死の恐怖に耐えられるかというチキン・レースのような戦いになっていた。ロバートはあのとき恐怖の限界を越えて、死そのものを一瞬体験してしまったのではないか、とジャックは思った。見ているジャックでさえ身の毛もよだつような恐ろしさを感じたのだから、本人が二度とこういう経験はしたくないと思っただろうことは想像に難くない。
だから彼は、世界チャンピオンのまま閉息潜水界から引退したのだ。

ブルー・オリンピック

ロバート・クロフトの深海での間一髪の恐ろしいシーンを見て、ジャック・マイヨールも以前にも増して潜ることへの恐怖心にとりつかれてしまった。それを乗り越えるために、世界で最も完成されている日本の死生観を学びたいのだ、とジャックは言った。

「禅」や「葉隠」や「武士道」などを学ぶことによって「死の恐怖の壁」を乗り越え、そして日本の海で世界新記録樹立に挑戦したいというのである。』
(潜る人/佐藤嘉尚/文藝春秋から引用)

死には肉体死と自我の死がある。ここでは、肉体死に瀕したことで自我の死にも直面したために自分を失う恐怖を見てしまったようだ。その恐怖はロバートの側により深刻だった。

50メートル以上のフリー・ダイビングは、登山家メスナーのいうところの死の地帯。つまりそのままでは死ぬことがかなり確実な死のピンチに直面する場所である。

登山では、足元の雪が崩れて滑落すれば助からないし、落石に当たれば助からないなど、潜水に比べればより、突発的イベントによる死の確率は高い。その分登山家の方が死の覚悟ができていて、運命に従順であるような印象を受ける。

フリー・ダイビングでは、突発的ファクターは比較的少ないが、深度何メートルまでは安全で何メートルなら死ぬというのが明確に見えていないという「見えざる恐怖」がある。

この「見えざる恐怖」は、我々が無意識の中にもつ「明日死ぬかも知れない」という恐怖と本質的には何ら変わることはないものだ。これが閉息潜水では尖鋭に意識の表面に浮上してくるわけである。

そしてその場所に立たないと見えて来ないものがある。それが「恐怖の恵み」というやつで、その土壇場で狼狽して冷静な「見る目」を失えば、起こるには起こったが、本人は何が起こったかわからなかったということになるのだろうと思う。






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