アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

道之大本

2010-04-30 06:08:26 | 古神道の手振り
◎信仰に対する基本姿勢

本田親徳の道之大原を意識して、出口王仁三郎は道之大本を裏の神諭として著す。ただし内容的には奇異なものはなく、信仰に対する基本姿勢を述べるに留まり、一般信者向けのものとなっている。

○神のために尽くしたることは、必ず他の人にわからぬよう祈るべし。人のために尽くしたることは必ず人にわからぬよう祈るべし。(一章22)

これは善行を行う時の基本動作である。

○信心してから却って家の都合が悪くなったなどと悔やむ者は、神の国の罪科(とが)人なり。(一章9)

おかげ信心や現世利益を見返りとした信仰はすべきではない。

○信仰の浅きもの、近欲なるものは、神の奇(く)し働きをもとむるものなり。(二章18)

超能力・奇跡の待望を戒める。古神道は、クンダリーニ・ヨーガではあるが、これが原則。

○世の中に人のものは草の片葉をもあらじ。何れも神の造り給ひしものにして、人は神のつくられしものを借りて生けるなり。
人は裸で生まれ来たりて、また裸で去るものなり。神は人に力ある身魂を与え給ひ、またこれを奪ひ給ふ。故に生くるも神の御心なり。死するも神の御心なり。
わが頭に生ひし髪の毛一筋をも、人の力もて或いは白くし、或いは黒くすること能はざるを思へ。(十九章13)

これは、イエス・キリストと言っていることが全く同じです。


○神の御前に平伏(ひれふ)して一心に祈る時こそ、わが心も神に化されて神の心となるなり。その時こそ、世間(よのなか)の所在(あらゆる)痛苦と艱難(なやみ)とは、大神の御手に預かり給ふ時なれ。(二十章3)

大神に出会う姿をまねび続ければ、いつか出会うこともあるでしょう。


この他に信仰の道と、家族や世間との折り合いがあわなくとも、信仰を深めるべきであるという言葉が随所にあるが、今も昔もこればっかりは必ず起こること。


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三神系-3

2010-04-29 07:01:07 | 古神道の手振り
◎太陰

霊界宇宙における太陽と地球は、現代科学の常識とは全く異なるところにある。同様に太陰こと月も全く異なる様相で存在する。これによって、太陽、太陰、地の定義が揃い、その前提のもとに、下の三ペアが成立する。

太陽現界主宰神として天照大神
太陽霊界主宰神として伊邪那岐尊
太陰現界主宰神として月夜見尊(素盞鳴尊の別称でもある)
太陰霊界主宰神として伊邪那美尊
地上現界主宰神として素盞鳴尊
大地の霊魂の金勝要神(きんかつかねのかみ)

『太陰は特に大空大地の中心すなはち中空に、太陽と同じ容積を有して一定不変の軌道を運行し、天地の水気を調節し、太陽をして酷熱ならしめず、大地をして極寒極暑ならしめざるやう保護の任に当りゐるものなり。

 しかして、太陰の形は円球をなし、半面は水にして透明体なり。しかして、それ自体の光輝を有し、他の半面は全く火球となりゐるなり。今、図を以て示せば次の如し。
 太陰は大空大地の中心を西より東に運行するにともなひ、地汐をして或ひは水を地球に送らしめ、あるひは退かしむるがゆゑに、満潮干潮の現象自然に起るものなり。

 神諭に、
『月の大神様はこの世の御先祖様である』
と示しあるは、月が大空と大地の呼吸作用たる火水を調節するの謂なり。火球は呼気作用を司り、地汐は吸気作用を司る。
『富士と鳴門の仕組が致してある』
といふ神示は、火球の出口は富士山にして、地汐は鳴門を入口として水を地底に注吸しゐることを指示せるものなり。火球および地汐よりは、なほ人体に幾多の血管神経の交錯せるごとく、四方八方に相交錯したる脈絡をもつて、地球の表面に通じゐるものなり。』
(神示の宇宙/出口王仁三郎から引用)

これを30年以上前に初めて読んだ時は、月は表が水で裏が火とは、明治の文章とはいえ、月面に人が降り立つ時代に何を言っているのだろうと思っただけだが、今見ると、西洋錬金術な世界のことである。西洋錬金術に満月から二羽の鳥が生まれるモチーフがあるが、それが水火だろうか。

『火球および地汐よりは、なほ人体に幾多の血管神経の交錯せるごとく、四方八方に相交錯したる脈絡をもつて、地球の表面に通じゐるものなり。』とは、地の龍脈のことを言っているのだと思う。勿論月の世界からも現実が影響を受け、現実のいろいろな出来事が展開していく。

素盞鳴尊好きな霊能力者は多いが、この霊妙なる太陰ワールドの様相を承知して素盞鳴尊を語っている人は極めて少ないことだろう。


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三神系-2

2010-04-28 05:40:27 | 古神道の手振り
◎霊界から見た宇宙   

出口王仁三郎の世界構造では、太陽現界と太陽霊界があり、太陰現界と太陰霊界があり、地上現界と地上霊界がある。これが横軸。

一方縦軸は、現界と霊界で、霊界には神界(高天原、極楽浄土、天国)、中界(天の八衢、六道の辻、精霊界、バルド、中有)、幽界(根の国底の国、地獄)の三区分がある。縦軸は、よくあるもので紛れはない。
 
よってここでは横軸の解明が優先される。
まず太陽は太陽であり、太陰は月、地上は地球のこと。

太陽の一霊四魂を厳の身魂と総称し、かつ霊主体従の身魂ともいう。故に大空は霊を主とし、体を従とす。大空の太陽、太陰および列星は、皆幽体を以て形成られる。だから太陽、列星の中に鉱物あっても、大地のように堅くなく、重からず、その重量に非常に差がある。
つまり出口王仁三郎は、太陽、月、星は、エーテル体レベルのものであると見ている。

『大空の中心には太陽が結晶し、その大きさは大空の約百五十万分の一にあたり、地球も亦大地の約百五十万分の一の容積を有せり。しかして太陽の背後には太陽とほとんど同形の水球ありて球竿状をなしをれり。その水球より水気を適宜に湧出し、元来暗黒なる太陽体を助けて火を発せしめ、現に見るごとき光輝を放射せしめゐるなり。ゆゑに太陽の光は火のごとく赤くならず、白色を帯ぶるはこの水球の水気に原因するがゆゑなり。
 太陽はかくのごとくして、小宇宙の大空の中心に安定し、呼吸作用を起しつつあるなり。
 また、地球(いはゆる地球は神示によれば円球ならずしてむしろ地平なれども、今説明の便利のため従来の如く仮りに地球と称しておく)は、四分の三まで水をもつて覆はれあり、水は白色なり。この大地はその中心に地球とほとんど同容積の火球ありて、地球に熱を与へ、かつ光輝を発射し、呼吸作用を営みゐるなり。しかして、太陽は呼吸作用により吸収放射の活用をなし、自働的傾斜運動を起しゐるなり。されど太陽の位置は大空の中心にありて、少しも固定的位置を変ずることは無し。』
(神示の宇宙/出口王仁三郎から引用)

この文をみると、太陽は実は暗黒であるとか、その後ろに水球があるとか、大地は水平であるとか、現代天文学を無視した説が述べられているので、これは物質レベルの説明をしているのではないことがわかる。黒い太陽は西洋錬金術の頻出アイテムだが、古神道でも同じ宇宙を確認しているということになるのだろう。

また太陽も呼吸をするというからには、エーテル・気の呼吸なのだろうと思われる。

この宇宙観をして荒唐無稽と評するのは簡単だが、錬金術にみるいわゆる奇怪な世界観を解く鍵が隠されているようなので、理解できないからといって捨て去るわけにもいかない。かといって、書いてあるとおり盲信しても何も起こらない。

これはクンダリーニ・ヨーガで中心太陽を極めて後に、認識が展開する宇宙観というべきものだろうと思う。


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三神系-1

2010-04-27 06:16:48 | 古神道の手振り
◎野立彦命(のだてひこのみこと)

古事記を読んでも、天照大神が中心であることはわかるが、素盞鳴尊の立場は本当のところどうなのかなど、わかりにくいことが多い。

出口王仁三郎の自動書記による霊界物語では、三神系と呼ぶ三柱の神々がこの世の流れの中心であるとする。

最初の三柱は、天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神であるが、この世を造るにあたって天之御三体之大神として、太陽現界主宰神として天照大神、太陽霊界主宰神として伊邪那岐尊、太陰霊界主宰神として伊邪那美尊を置き、本来の三神系とは、このことを言うのだと思う。

加えて大地の霊魂の金勝要神(きんかつかねのかみ)があり、地上現界主宰神として素盞鳴尊があり、太陰現界主宰神として月夜見尊があるが、これは、素盞鳴尊の別称でもあるとする。

要するに世界観として、太陽現界と太陽霊界があり、太陰現界と太陰霊界がある。そして金勝要神は別格で、素盞鳴尊とペアと見れば、地上にも現界と霊界があると見れる。ここでは、あの世を太陽太陰で四区分している。これは想像だが、この区分では、いずれかがバルド・中有に該当するのではないかと思う。


さて更に時代が降ると霊主体従(善玉)、体主霊従(悪玉:われよし)、力主体霊(悪玉:強い者勝ち)の三種の神系に別れて、世の中を紛糾させ、最後には行き詰まって、大洪水をひき起こして文明そのものを押し流したり、黄泉比良坂(よもつひらさか)の戦いで天下滅亡の世界戦を起こしていく。

つまり三神系とは、後代では善玉神グループと、二種の悪玉神グループの総称のこと。この世のあらゆる悲喜劇を創出する原動力となっているのである。


大本教では、金勝要神は艮の金神(うしとらのこんじん)であり、出口王仁三郎の次に艮の金神が地上に再臨することが伝承されている。その事情をして、出口王仁三郎が自分のことを偽物であると謙遜するのだろう。

三神系図では、艮の金神は、名を変え野立彦命となる。野立彦命は果たしてこの世に生を受けたのだろうか。
それがノストラダムスの見た日の国の純粋なきらめきということになるのではないか。


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出口王仁三郎の預言の深み

2010-04-26 04:32:16 | 時代のおわり
◎預言と現実とのズレの蓄積

出口王仁三郎の預言には、何種類かあって、大本神歌や、瑞能神歌や続瑞能神歌などがある。大本神歌や、瑞能神歌は大正時代の作であり、第二次世界大戦以前のものなので、既にはずれたか、実現した預言であるという説を唱える人がいる。続瑞能神歌は昭和22年の作なので,これがこれからの預言であるとする説を唱える人もある。

ところが、例えば下の瑞能神歌の一節は、どうみても第二次世界大戦以前のことではないが、それでも予想に違う方向で終戦になったとみるのだろうか。大正時代のビジョンとは言っても、そうは簡単にこの預言のように神政成就するシナリオがあったとは思えない。

『れ   ん合の国の軍(いくさ)は強くとも、心は割れて四ツ五ツ、いつか勝負の果も無く、力は既にイングリス、艮(とどめ)に以太利(イタリ)て雨(アメ)りかの、フランス跡(あと)に地固めの、望みもつきてカイゼルの、甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も盡き果てゝ、互に臍(ほぞ)を噛みながら、猶ほ凝りづまに向きを替ヘ、良き支那物を奪はんと、命限りに寄せ来る、其時こそは面白き、茲に仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴(く)え放ららかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅し、世界一つに統(す)べ守り、祭政一致(かみよながら)の神政(みまつり)を、天地と共に楽まむ。』

続瑞能神歌は、昔からそういう文書があることは知っていたが、伏せ字が明かになってネットにアップされたのは、極く最近のことで、アップされたONIKENさんのご苦労に感謝したい。以下はその一部である第六節。それにしても、五~七節だけ公開され、どうして第一~四節が公開されていないのでしょうか。

『近江の幽山にたちこめし 魂の邪霊の重なりて
今は九尾の本姿 世界の隅にまたがりて
組んづほぐれつのたうつる 姿は憐れ曲津状
我と我が身を迦身合ひて その行様のすさまじさ
やがて現と世に知らし 時ぞ今にと迫り来る

シベリア狐は死にたれど 魂の邪霊は様々に
妖霊呼んで東天は 北から攻め入る非道さよ
オーツク海や千島舟 樺太島とゆさぶりて
雪割草の間より 暗雲低く仇鳥の
舞ひ降り上る恐ろしさ

北海道から三陸へ なだれの如く押し寄する
ここをセンドと聯合の 獣の庭や神の国
花のお江戸は原爆や 水爆の音草もなく
一望千里大利根の 月の光ぞ憐れぞかし

残るは三千五百万 赤き自在天主の旗のもと
どっと攻め入る雨利加の アラスカ浴びる人も無く
非義非道の場所せまく 自棄と破壊に轟きて
哀れくずるや星条旗

血潮に赤き統一も 一年余年の殺りくも
ここに終わりて神の子は 再び原始に返るぞかし
東天光も今はなく 物質界の曲津神
狂人の如くふるまいて 世は様々の相尅ぞ
世の大本も散り失せて 月の輪台の影あわれ』

これだけでは、王仁三郎預言でなく偽書説もあることはわかるが、例の『新月の光』に符号するところが少なくなく、単純に無視してかかれない預言であるように思う。

預言した時点から霊界・現界の様子は変化するので、そのものズバリとは当たらないだろうが、メイン・ストーリーは、そう変わることはないのだろうと思う。


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台湾はサハスラーラ・チャクラ

2010-04-25 07:25:34 | 時代のおわり
◎ドラゴン・ボディな日本列島

出口王仁三郎の見立てでは、日本列島はドラゴンのボディであり、頭は九州であり、尾は北海道であり、台湾は宝冠であるとする。台湾はサハスラーラ・チャクラの位置なのだ。
出口王仁三郎は都合4回訪台している。

台湾別院内の草山歌碑にある王仁三郎の歌

蓬莢のしまの要よ草山は 山川すがしく 生きの極(はて)なし
(※草山は地名)

太平洋あら浪(なみ)わけて 常夏のしまをさやけみ 吾(わが)来つるかも


基隆別院歌碑にある王仁三郎の歌

足引の山川さやけし海原は 太平の浪(なみ)とはに世を歌ふ

蓬莢のしまの風光忘れかね 吾は三度を渡り来にけり


およそ熱帯には、天国の相がある。天国の生活環境に近いことを、熱帯の台湾に見たのだ。草木が勢いよく繁茂し、人間のみならず動植物もこの世を謳歌している様子がある。

この歌を見ると、徐福が求めた蓬莢とは台湾であることを示している。

台湾は、かつては日本の植民地であり、戦前に出口王仁三郎が霊的ビジョンで、台湾も日本も一体であると公言しても何も違和感がなかったが、今の台湾は、非常な親日国でありながら、共産中国に大量のミサイルを向けられる難しい立場にある。台湾に今後政治的、軍事的に大きな変動があれば、それにより直接日本にも影響があるだろうというのは、地政学上の見解だけでなく、日本人の精神についても言えるように思う。

沖縄の米軍基地の問題は、日本だけの問題でなく、朝鮮半島や台湾の問題でもある。中国に共産主義革命が起きたとき、大陸から台湾に逃避したのは、故宮の宝物や国民党だけでなく、道教、儒教のエッセンスも逃避したのだろう。更にそれが行き場を求める動きとなるのか。

歴史的な大事件が起きる時は、必ず前兆があるもの。前兆は、正しい人には正しく出、正しからざる人には正しく出ない。感受性の問題ともいえよう。


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記憶と想起

2010-04-24 07:44:34 | 冥想アヴァンギャルド
◎ある真実へのアクセス法

プラトンのパイドロスに出てくるソクラテスの語る話。内容はエジプトの古い神テウトとエジプト王である神タムスの対話である。テウトは文字を発明し、算術と計算、幾何学と天文学、将棋と双六を発明した神。

『話が文字のことに及んだとき、テウトはこう言った
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人達の知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは記憶と知恵の秘訣なのですから。」----

しかし、タムスは答えて言った。「だくいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判断する力を持った人とは、別の者なのだ。

いまもあなたは、文字の産みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能とは正反対のことを言われた。

なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂のなかには、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。

それはほかでもない、かれらが、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。

事実あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。

また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって真実の知恵ではない。すなわちかれらはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう」』
(記憶術/フランセス・A・イエイツ/水声社P63-64から引用)

まず記憶と想起は違う。想起を容易にするため、文字をある事柄の符号とする。その事柄を意識の中に他の事柄と関連を持って配置し、感覚的な印象をも与えれば、文字を見ることをきっかけに、たちまち想起することができる。これが想起のコツ。

ここで言う記憶力の訓練とは、真理へのアプローチ。つまり観想法のことだと思う。観想法では、最初は、さまざまな具象抽象をありありと現実のものとするイメージ・トレーニングを繰り返し、最後には向こうからやってくる本物のイメージを待つ。

その本物のイメージを思い出すことを記憶と呼んでいるのだろう。それがもとからあったことに気づくから記憶と呼ばれる。

無意識に転がっている残存印象を文字や像を手がかりに想起することとはなるほど全く異なったものである。

忘れっぽい性質とは、自分のメリット、自分の儲けばかり求める、真理など忘れ果てた性質を言う。

阿字観をするように、文字に冥想する人は少ない。文字が実際に持っている性質とは、言霊といわれる精妙なるバイブレーションのことだろうが、現代ではそれが問題になるほどのデリカシーあふれるシチュエーションは少ない。

このようにわれわれ現代人は、とてもうぬぼれが発達したつき合いづらい人々になった。こうした人々をアンチ・キリストとイエスは見たに違いないと思う。


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出口王仁三郎と本田親徳との出会い

2010-04-23 06:08:10 | 古神道の手振り
◎古神道本流

出口王仁三郎と本田親徳との出会いは、あまりにも古神道のビッグ2の出会いのなので、史実ではなく、作り話だろうとする説を読んだことがある。

ところが、
『○本田親徳翁との初対面

王仁が本田親徳翁に会ったのは梨木峠である(明治二十一年十八歳の折)。本田親徳は伏見のお婆さんにいなりがかかっているのを見て研究したのである。十七歳の娘の子とは本田先生の子である。(昭和十八年)

(参照)「神霊界」大正七年六月一日号「霊学研究に就いて」
「神諭」大正七年十二月二十六日(女子が十八歳になりた春、丹波国大枝坂の梨の木峠で神界からの経綸で霊学中興の偉人・本田九郎親徳に途中に対面いたさせたのも、皆神の経綸の引合わせで有りたぞよ)』
(新月の光(下)/木庭次守編/八幡書店から引用)

文中の女子は出口王仁三郎のこと。出口王仁三郎がその邂逅を認めているのだから間違いなし。

この切羽詰まった時代に、もはや霊言などを相手にする余裕はないが、当時霊学という切り口で、死の世界をも包摂するテクニックを中興した偉人たちの遺産がなければ、古神道の現代における展望もない。出口王仁三郎は無我に行き着いてピークを見たというのが一里塚なのだと思う。



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国号を日本に変更

2010-04-22 06:10:20 | 古神道の手振り
◎外国主導の変革

「伊勢神宮の成立/田村圓澄/吉川弘文館」によると、 

もともと日本は国号を倭と称していた。これが703年の最初の遣唐使の粟田真人が、日本国の使いであると唐の役人に回答した(旧唐書)のが、国号日本の初登場であるとされる。隋書までは、日本という言葉はなく、倭国であり、倭人である。

持統天皇(690-697年)の肝入りで、天照大神を祭神とする伊勢神宮が発足したのは、698年。持統天皇までは、天皇が変わると、その都度都が変わる歴代遷宮が行われていた。歴代遷宮をとりやめたのも持統天皇。 

また宮中祭祀の祭神は、もともと神産日神(カミムスビノカミ)、高御産日神(タカミムスビノカミ)であったものを、持統天皇の代から、天照大神に変えてしまった。

こうしてみると、これ以前の100年ほどは百済主導で神代文字が壊滅させられ、663年の白村江の敗戦によって、おそらくは唐・新羅主導で、日本の国号も主神も変更させられ、日本にとって7~8世紀は災厄の世紀だったといえよう。

それでもって新興だった伊勢神宮は、今や日本の信仰のシンボルの一つとしてゆるぎない地歩を勝ち得ている。

日本は65年前GHQによって大変革をしてもらったが、出口王仁三郎の見る通り、「古来日本人には大変革する才覚はなく、常に大変革は外国の手による」という見方は、現在の出生率の異常な低水準と高齢化社会の進展、国家財政の実質破綻、政党の統治能力の低下(軍事音痴)、という窮状をみれば、むべなるかなの印象がある。


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数秘術大全

2010-04-21 06:10:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎いにしえのテクノロジー

数秘術大全(アンダーウッド・ダッドリー/青土社)は、ようやく本格的な数秘術の概説書が出たのかと期待して読んだが、別の意味で期待を裏切られた。この本は通俗的数秘術の断罪の書であった。

まず古い数秘術といえば、ゲマトリアなのだが、ヘブライ語やギリシア語や英語のアルファベットを数字に置き換える手法があり、ゲマトリアの解釈を適用する人物がヘブライ語と関係ないのにヘブライ語のゲマトリアを適用したりすることにまず疑問を呈する。要するにアルファベットと数字の置換法則がいろいろありすぎることから、ゲマトリア自体の権威を認めがたいとする考え方を採る。

聖書数秘術の一例として、ロシア人パニンの聖書言葉のゲマトリア(ギリシア語)は7の倍数ばかりであるという説を挙げるが、著者はそれは何の意味があるのかという当然の疑問をぶつけている。

著者は、現在の通俗的数秘術の元祖として、ニュージャージー州アトランタのL.ダウ.バリエット夫人を挙げる。最近の通俗数秘術は、ほとんどが彼女の流れを汲む。彼女の著書には『バイブレーションの力で成功を勝ちとる方法』なんてのがあり、現世利益優先であることがわかる。

彼女のやり口はゲマトリアもどきで、文字を数字に変換し数字に特徴ある意味を割りつける。変換の対象は名前だったり生年月日だったり。そしてより有利になる数字を、現実の行動において選んでゆけば、成功疑いなしというようなもの。彼女は数字の割り付けを音楽や肉体の臓器・器官にまで広げ、体系づけ権威づけようとした。一見面白そうだが、個々の意味を割りつける根拠がはっきりしていないのである。

ピラミッドの寸法の話にも言及があり、一例としてピラミッドの高さが地球の円周の27万文の1であるという説には、そのことに何の意味があるのか、また端数を無視しているという指摘をしている。いわば話を面白くするネタにすぎないと見ているわけだ。

通俗的数秘術は、批判されるべきだが、それが娯楽であるという側面はある。しかし本物の数秘術は、やや違う切り口で存在しているのだろうと思う。クンダリーニ・ヨーガの一つの展開として、占星術風水などと同列のテクノロジーとして存在していたのだろうが、今はそれが失われかつ通用しなくなりつつある時期に入っているように思う。いにしえのテクノロジーなのだ。


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伊勢神宮に拝殿がないこと

2010-04-20 06:03:24 | 古神道の手振り
◎天皇のプライベートな冥想スペース

伊勢神宮には、拝殿がない。板垣、玉垣の先は正殿のみである。これは内宮(皇大神宮)だけでなく、外宮(豊受大神宮)も同じである。俗人が神社で御祓いを受けるのは、通常拝殿においてであるから、これは異常な建築様式である。

内宮は、五重になっており、外側の垣の内側が第五重。第一重が正殿のあるところであるが、神官、斎内親王が祭礼において集まるのは、第三重まで。斎内親王だけは、玉串を神前に奉献するために、第二重に進むが、奉献の後は直ちに第三重に戻る。天皇から派遣された幣帛使、太神宮司、禰宜であっても第三重までにしか入れない。

というわけで、正殿のある第一重に入れるのは誰?

伊勢神宮には、もう一つは異例なものがあって、(最近は違うが)私幣禁断の制である。これは、勿論庶民は勝手に幣帛を伊勢神宮に奉献してはならず、重い罪とされる。諸侯や天皇の臣下も勿論禁止である。皇太子、皇后・皇太后・太皇太后だけが、事前に天皇の許しがあれば、幣帛を奉献できるというものである。
(以上参考:伊勢神宮の成立/田村圓澄/吉川弘文館)

つまりかつては、我々庶民が伊勢神宮の天照大神を勝手に拝むのは罪とされていたのである。天照大神は、宮中奥深くの知られざる秘仏ならぬ秘神という位置づけだった。

以上から、伊勢神宮の第一重に入れるのは、天津日嗣の天皇御一人であろうし、余人が祭神たる天照大神を参拝するのも禁止であるとなれば、正殿は、天皇個人のパワー・スポット兼メディテーション・スペースということになろうか。

拝殿がなくいきなり正殿の建築といえば、ピラミッドなどもそうなのだろうが、古代の大衆の自我が未発達な時代に、直接見神・見性を経て神とアプローチすべき人は天皇御一人で足りるという発想が根底にあって、このような伽藍配置となっているように思った。

古神道は、クンダリーニ・ヨーガなので、クンダリーニ・ヨーガである以上その知識・情報・ノウハウをみだりに出すのは、余計な欲心を刺激するだけであるから、それへのアプローチをタブーとしたというのはありそうなことである。



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一万以上の都市

2010-04-19 05:29:07 | 時代のおわり
◎出口王仁三郎のビジョン

次なるは出口王仁三郎のビジョン。

『○一万以上の都市

一万以上の都市は全部焼ける
(昭和20年5月29日)』
(新月の光(下)/木庭次守編/八幡書店から引用)

『○火の雨

(終戦三ヶ月前に)(問)火の雨が降りましたね。
(答)あれは人間の造ったものだ。今にほんまの火の雨が降る。戦争は負ける。
(問)負けることはありますまい。
(答)馬鹿、お前たちにわかるかい。
(佐藤尊勇氏拝聴)』
(新月の光(下)/木庭次守編/八幡書店から引用)

先の大戦の空襲でも一万以上の都市が全部焼けたわけではないので、これからのことを言っている。

物質文明、火力文明がほとんど残らないのであれば、日本だけの災厄ではなく、世界的な事象として起きるのだろうか。




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神主主義の社会構造

2010-04-18 07:39:07 | 究極というものの可能性
◎181段階説

我先にと、自分のものを差し上げたり、自分を犠牲にして差し上げようとする社会(至福千年)では、皆平等であろうから、社会全体として収拾がつかないのではないかとまず思いつく。しかし出口王仁三郎が指摘するようにその社会では、181の階層が厳然として上下の区別を行い権威付けをする。
そして頂点である181番目は大神のことである。これが神主主義社会の構造だと思う。

181段階説を採るのは、大本教の他、神慈秀明会、世界救世教などだが、出口王仁三郎の影響が大きいのだろうと思う。

大国主の子供の数は、古事記では180柱(日本書紀では181柱だが、大神をトップとするならば、181柱はおかしいので、日本書紀は故意に曲げたものか。)。この淵源を探ってみたら、天界の181段階だったということだろう。

また次の時代の社会構造は天界の移写でもあるから、181段階モデルになるというのは自然な流れ。

以下は、出口王仁三郎の天界の説明(出典は霊界物語の霊の礎)。
ここにある宣伝使のイメージは、冥想教師のことであって、これだけあらゆる邪悪が横行する時代では、見神・見性が冥想教師の最低条件というのは不自然ではないだろう。勿論大正・昭和初期の大本教の宣伝使は、それを任命の条件としていたわけではない。

愛や善、真善美などというけれど、悟った人からそうでない人を見れば、悟っていない人は何が愛で何が善かわかっていないのであるから、他人に道や真理を説くのであれば、少なくとも何が愛で何が善か分かることがその資格となる。よって見性・見神が必要なのだと思う。

『一、天界にも又士農工商の区別あり。されど現界人の如く私利私慾に溺れず、只その天職を歓喜して天国の為に各自の能力を発揮して公共的に尽すのみである。天国に於ける士は決して軍人にあらず、誠の道即ち善と愛と信とを天人に対して教ふる宣伝使のことである。地上に於て立派なる宣伝使となり其本分を尽し得たる善徳者は、天国に住みても依然として宣伝使の職にあるものである。

人間は何処までも意志や感情や又は所主の事業を死後の世界迄継承するものである。又天国霊国にも、貧富高下の区別がある。天国にて富めるものは地上の世界に於てその富を善用し、神を信じ神を愛するために金銀財宝を活用したるものは天国に於ては最も勝れたる富者であり、公共のため世人を救ふために財を善用したるものは中位の富者となつて居る。

又現界に於てその富を悪用し、私心私慾の為に費し又は蓄積して飽くことを知らなかつた者は、其の富忽ち変じて臭穢となり、窮乏となり、暗雲となりて霊界の極貧者と成り下り、大抵は地獄に堕するものである。

又死後の世界に於て歓喜の生涯を営まむと思ふ者は、現世に於て神を理解し、神を愛し神を信じ、歓喜の生涯を生前より営みてゐなければ成らぬのである。

死後天国に上り地獄の苦を免がれむとして、現世的事業を捨てて山林に隠遁して世事を避け、霊的生活を続けむとしたる者の天国に在るものは、矢張生前と同様に孤独不遇の生涯を送るものである。

故に人は天国に安全なる生活を営まんと望まば、生前に於て各自の業を励み、最善の努力を尽さねば死後の安逸な生活は到底為し得ることは出来ないのである。士は士としての業務を正しく竭し、農工商共に正しき最善を尽して、神を理解し知悉し之を愛し之を信じ善徳を積みておかねばならぬ。

又宣伝使は宣伝使としての本分を尽せばそれで良いのである。世間心を起して、農工商に従事する如きは宣伝使の聖職を冒涜し、一も取らず、二も取らず、死後中有界に彷徨する如き失態を招くものである。故に神の宣伝使たるものは何処までも神の道を舎身的に宣伝し、天下の万民を愛と信とに導き、天国、霊国の状態を知悉せしめ、理解せしめ、世人に歓喜の光明を与ふることに努力せなくては成らぬのである。

天界に坐ます主の神は仁愛の天使を世に降し、地上の民を教化せしむべく月の光を地上に投じ給うた。宣伝使たるものは、この月光を力として自己の霊魂と心性を研き、神を理解し知悉し、愛と信とを感受し、是を万民に伝ふべきものである。

主一無適の信仰は、宣伝使たるものの第一要素であることを忘れてはならぬ。天界地上の区別なく神の道に仕ふる身魂ほど歓喜を味はふ幸福者は無いのである。
 アヽ惟神霊幸倍坐世。』




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悟りと職業訓練

2010-04-17 06:56:27 | 究極というものの可能性
◎冥想教師のニーズ

残念ながら今の時代は悟った人が極端に少ない時代なので、幼少期に見性を経た人が知育・体育中心の学校教育を経て、就職して職業訓練を経て一人前の社会人となるというルートを進む人はほとんどいない。

つまり思春期以降に悟るのが多い。悟った人の気質や世界観が現代社会への適応を難しくしている側面もあるし、思春期以降二十代までに自分というものと苦闘を続けるためか、首尾よく悟った人は、定業につくということが少ないように思う。

平たくいえば、学校を卒業する時に、冥想修行をとるか職業生活をとるかという岐路に立つと、(卒業後に)悟った人は冥想修行を選ぶせいなのだろうと思う。

従ってかれらは、社会的には冥想修行者として生きることになり、世間的には場合によっては「拝み屋」などと呼ばれたりするのである。

どんな職業でも、パン職人だって大工だってホワイトカラーだって、その職業で必要とされる知識、ノウハウ、その業種のしきたり、最低限の職業的経験などを積んで一人前となるには、10年くらいかかるものではないかと思う。これが職業人として一人前となる職業訓練期間。

冥想修行者として社会生活をスタートしてしまうと、こうした職業訓練がどうしても不足しがちになる。結果としてそれが、覚者が社会的不適応者として、中年、老年を生きる原因となっていく。

これは、悟った人本人にとっても不幸なことだし、社会にとっても不幸なことだと思う。

悟った人は自分のメリット、利益というものを度外視して生きるが、それは自分のメリットをその会社や組織のルールに沿って求めることが自明とされている生き方とは全く逆方向である。要するに社会人として社会に適応して生きるためには、覚者はその悟りの精華である(一般人から見れば特殊な)生き方を否定しないと、社会に適応できないということ。

例えば、他人の足を引っ張ってでも業績を挙げなさいなどというのは、弱肉強食・修羅を生きろということで、覚者の生き方テキストには載っていない。また自分が会社のために挙げた業績を(周囲にねたまれない程度に)公表しなさいなどという決まりは、覚者的にはあってはならないことである。またこういう決まりは往々にして自分のヘマは徹底して隠したり他人のせいにするという悪行をひき起こす原因でもある。

悟った人は正直であり、フランクであり、我が身の安穏を考えないし、自分のメリットを考えない。

職業訓練が一般に十年近くかかるとすれば、あるべき社会のあり方としては、幼少期から学校で最初はクンダリーニ・ヨーガを教え、次いで思春期以降は只管打坐を教えて、学校を卒業するまでには、最低限見性・見神を終えて、窮極の体験を経ない学生は少なくともそれを目指す菩薩として卒業以後を生きる。

こういう教育プロセスであれば、卒業して後10年の職業訓練をも事上磨錬のような冥想修行として積んで行けるのではないだろうか。

こういう人たちが続々と出る社会であって初めて覚者の社会的不適応が発生しない。

更に、そのような学校が成立するためには、まず冥想を教える先達として教師が必要となる。冥想教師の資格は最低でも見神・見性だろう。その冥想教師資格保有者が、現代で何人出せるかが、次の時代の人口を決めていくというようなロジックはあるのではないか。





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日常と冥想

2010-04-16 05:50:41 | 究極というものの可能性
◎冥想の未来図と現在

聖書や北欧神話で預言される来るべき千年王国では、叫びのない世界であるから、すべての人が神を知る王国である。それは、少なくとも全員が神を見たことのある時代だろうから、学校教育の中で冥想という科目があるだろう。

クンダリーニ・ヨーガをやっていては、学校生活も含め日常生活はできないだろうから、クンダリーニ・ヨーガは遅くとも思春期までの履修科目として適当と考えられる。せいぜい低学年・中学年まで。そして思春期までにに見神・見性が起こる。

思春期となってからは、現実との折り合いを考えなければならないから、只管打坐しかないだろう。しかしクンダリーニ・ヨーガの素養がそこそこあるのであれば、クンダリーニ・ヨーガの特徴である精妙さ、デリカシー、クリエイティブ、科学性というようなものは、只管打坐の修行の中で生きてくる場面があるだろう。

こうして18歳になるまでには、かなりの人が身心脱落を経過していく。

そして神・仏・タオ・ニルヴャーナを知る人ばかりの世界では、そのことによる報いを期待せずに、われこそとばかりに競って自分のメリットを捨て、自分のことを犠牲にして相手に対することがマナーとなる。それが至福千年の社会。

しかしながら、学校でクンダリーニ・ヨーガを訓練すれば、かなりの確率で中心太陽への突入を起こすわけでもなく、同様に只管打坐を実修すると、これまた身心脱落しか起こらないかといえば、そうでもない。

またどちらの修行を採用しても、必ずしも悟れるわけではないという不確実性がある。これを二重の不確実性と呼ぶが、それはその人の個性によるものであるから如何ともしがたい。

いずれにしても、常時、社会全体で相当数の覚者を抱え続けるのが社会の純粋さのバロメーターとして機能する。そして、悟ってない人もそれに向かう日常の冥想習慣を有する社会が次の社会なのだろうと思う。

このような構図からすれば、現代において冥想は、お寺や教会やヨーガ・スタジオなどを除けば、人に迷惑にならないことを専一にひっそり自分の部屋で打ち込む、日陰の花みたいなステイタスで、現代社会は冥想から遠い異常な世界ではある。

何より学校教育では冥想なんて科目はないし、生まれつき冥想習慣のある極くまれな人以外は、大人になってから、書店や図書館でそうしたものを知ったり、珍しく冥想修行に打ち込んでいる人に出会ったりして始めるのが通例だろう。そういう意味では、覚者の極めて出にくい冥想環境にあるのが現代社会である。更に冥想と聞けばオームの悪影響で色眼鏡で見られてしまいがちな傾向まである。

そんなわけで、残業も含めて一日8時間以上働く生活であれば、風呂と食事と睡眠と家事以外に自由な時間は、せいぜい1~3時間。この時間からテレビやメールやパソコンに向かう時間を差し引いた残りが冥想に充てられる時間となる。それは数分かもしれないが、毎日続ければ、冥想のリズムみたいなものが感じられてくるのではないか。

本来は朝と寝る前に冥想すべきであるが、最近はほとんど夜坐ることはない。坐るのは朝だけだし、ブログも朝だし、冥想のために30分なんてとても時間を捻出できない。時間がないという言い訳は冥想修行者としては甘えたっぷりだが、これも現実。

社会人であれば、大方のこのように冥想に充てられる時間は厳しいだろうと思うが、数分の柔軟体操を毎朝するように、数分なりとも冥想する習慣を継続することしかできないのだろう。けれども、その数分から新時代が始まるのではないか。




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