アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

中間的なものがなぜダメなのか

2010-02-28 08:27:14 | 究極というものの可能性
◎根本的な解決にはならない

霊がかり・神がかり系スピリチュアルは、それ自体では、否定されるべきではない。というのは、悟りは、マスター(グル・師匠)とメソッドとモチベーションによって起こるといえるが、その無数のメソッドの中に霊がかり・神がかり系スピリチュアルも入っているからである。

メソッドの外形には、様々なものがある。イメージ・トレーニング(観想法)気功、導引ハタ・ヨーガカーマ・ヨーガ(性愛冥想)ソーマ・ヨーガ占星術マントラ禅只管打坐クンダリーニ・ヨーガ丹田禅事上磨錬など。霊がかり・神がかり系スピリチュアルは、クンダリーニ・ヨーガの一部とも言える。

これらのメソッドの大方は、心の意識レベルを低下させる方法であったり、自分・自我(我欲)をどんどんなくして行こうとする方法だったり、あるいは聖なるものや高級神霊や大神を観想するという逆方向(意識を、あるもので一杯にしてしまう)の方法もある。

いつかはたどりつける。あらゆる専心行によってそれにたどりつけるとはいえ、どの方法を採ったとしても、悟りに至るプログラムを最後までパーフェトにこなすのは難しい。

近代西欧文明の特徴は、光の部分だけを強調するアポロン・タイプ。そして近代西欧文明の位置づけは、臍のマニピュラ・チャクラと胸のアナハタ・チャクラの中間である。つまり、この文明社会にきっちり適応すればするほど、臍と胸の中間にある胃袋に負担がかかる仕掛けになっている。

さて、霊がかり・神がかり系スピリチュアルに限らず、メソッドというものは、目標に到達する手段であるので、それ自体中間的なもの。

ここで特に中間的なものからの脱却の必要性を主張しなければならないのは、この文明そのものが、マニピュラとアナハタという2つのチャクラの中間点からアナハタへと上昇する宿命を持っているためである。

霊がかり・神がかり系スピリチュアルは、主にマニピュラ・チャクラをベースとしたもの。アストラル・トリップてでは、霊線は臍からつながる。霊がかり・神がかり系スピリチュアルは中間的だとはいえ、どちらかと言えばマニピュラ寄りと言える。

そして中間的なものとは、輪廻転生のことである。輪廻転生にある限り、人間には救済はない。真に救済を求めるならば、輪廻転生から解脱していくしかないが、それが悟りである。

中間的なものがなぜダメなのか。それはせんじ詰めると、本当の救済、根本的な解決にはならないからである。その場しのぎにすぎないということである。






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スピリチュアルのルール

2010-02-27 07:11:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎謙譲・誠実・清貧

三国志では、占領軍が守るべき基本ルールとして、盗むな、殺すな、犯すなという三条がよく出てくる。

スピリチュアルにも三条ルールがあるとすれば、悟っていない者は人を指導するな、窮極(ニルヴァーナ、神、仏、タオ、大日如来など)を目指さない法を説くな、スピリチュアルで金儲けをするなということになるだろうか。

1.悟っていない者は人を指導するな
 松島の瑞巌寺の中興開山である雲居希膺もそれを厳しくとがめたが、人は何のために生きるかの問題、人の生き死にの問題について、その真相・本質を了解していない人が、他人を指導するのは、盲人が盲人の手を引いて駅のホームを歩き回るようなもので危険この上ない。

神化即身成仏を目指していたはずが、二人とも地獄に向かっているとも限らない。


2.窮極を目指さない法を説くな
 まず最初に、悟っていない人が説く法は、それが神仏などの窮極を狙っていたとしてもその法で窮極にたどり着ける保証がないということがある。悟っていない人は、窮極を意図した法を説いても、窮極を意識しない法を説いても、どちちらにしてもダメ。そのなかでは、窮極を意識した法を説いた方がちっとはましだろう、くらいのものだと思う。これが霊がかり・神がかり系スピリチュアルの大方に当てはまるのではないか。

一方悟った人であるOSHOは、様々なジョークや作り話で、ある気づきや心理的な混乱を引き起こさせて冥想へのモチベーションを高めようとする。それも彼は神を知っているからこそ、ダイナミック冥想から黙照枯坐まで披露して、神へ誘うことができる。これは悟った人が、あらゆるテクニックを駆使して窮極を目指させる例である。

これに対して、悟った人が邪法を説く場合がある。人を殺せと指示する場合などである。臨済宗の開祖の臨済は、親孝行どころか「父母に逢ったら父母を殺せ」と命令する。これは、悟った人(正人)が邪法を説いてもノー・プロブレムな例である。


3.スピリチュアルで金儲けをするな
 スピリチュアルで金儲けをすればするほど悪いカルマを積むはずだけど、本人はどう思っているんだろうね。

これは、イエスが神殿で大暴れをして、両替商人や(犠牲として献上するための)羊商人をなどを叩き出した昔から批判されていること。

また悟った有名な禅僧まで言い負かすホウ居士ほどの実力であれば、人生相談、悩み事相談はおろか、除霊までできるので、ネットで宣伝して全国展開の商売でたんまり儲けられる実力があったがそうはしなかった。またホウ居士は金持ちの生まれで、財産もしこたま持っていたが、車に積んで捨ててしまって、ザルを売って妻と娘一人を養う生活を選んだ。

ホウ居士は変わった奴だ、バカな奴だと思うかもしれないが、悟った人は「スピリチュアルで金儲けをするな」というルールは厳守していくもの。「スピリチュアルで金儲けをするな」とは、清貧の底流である。




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釈迦の今、ここ

2010-02-26 06:01:43 | 冥想アヴァンギャルド
◎遠い霊がかり・神がかり系スピリチュアル

釈迦のことば。尊師は釈迦のこと。
『傍らに立って、かの神は次の詩句を以て尊師に呼びかけた。
「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食をとるだけであるが、その顔色はどうしてあのように晴朗なのであろうか。」

[尊師いわく、---]
「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。
それだから、顔色が明朗なのである。

ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである。----刈られた緑の葦のように」』
(ブッダ 神々との対話/岩波文庫p20から引用)

ただ現在のことだけで暮らしている---とは、『今、ここ』のことである。

今、ここ』とひたすら思い込んでみても今ここにはならない。
肉体やカルマの浄化をしても、『今、ここ』にはならない。

先祖の悪因縁の解消をしても、『今、ここ』にはならない。
ハイアー・セルフからいろいろ情報をもらっても、『今、ここ』にはならない。
除霊してもらっても、『今、ここ』にはならない。

神示を読んで不安な未来におののいてみても、『今、ここ』にはならない。
光の存在に出会っても、『今、ここ』にはならない。
催眠術で潜在意識につながっても、『今、ここ』にはならない。

『今、ここ』は、霊がかり・神がかり系スピリチュアルからは遠い。

『今、ここ』は、人間の体験ではないからである。日常性の延長にはない。世界の中心が『今、ここ』になる体験とは、「体験とは呼べない体験」だからである。




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霊がかり・神がかり系スピリチュアルの弊害

2010-02-25 06:16:35 | 超能力・霊能力
◎時間の無駄かも

スピリチュアルといえば、そのイメージは大別して2つに分かれる。霊がかり・神がかり系と純粋な求道系である。

霊がかり・神がかり系とは、文字通りチャネリングをして、あなたの前世はかの有名人であって、その時のさる事件が今のネガティブな状態の原因になっている、あるいは、○代前に亡くなった親戚の一人があなたに霊障しているから、それを浄化しなければならない云々などという代物のことである。

純粋求道系とは、只管打坐やクンダリーニ・ヨーガの手法で大神、ニルヴァーナ、タオ、密教なら大日如来、ヤキ・インディアンならイーグルなどをめざして行こうとするものである。

昨日の出口王仁三郎の記事にもあったが、21世紀初頭のスピリチュアルの大きな問題の一つは、霊がかり・神がかり系への世間一般の関心の高さを完全には払拭できていないという点である。

霊がかり・神がかり系への世間一般の関心の高さというのは、ホラ-・オカルト映画や漫画の隆盛に反映されているが、その関心は漫才・お笑いに対する関心と同レベルであって、その関心が純粋な求道に転向していく例はほとんどないと言ってよいのではないか。

スピリチュアル系ブログ・ランキングでも精神世界系ブログ・ランキングでも半数以上が霊がかり・神がかり系である。

霊がかり・神がかり系スピリチュアルは、もともと毒にも薬にもならない位置づけのものなのだろうと思っていたが、こと現代に至っては、むしろ純粋な求道に向かうべき人のモチベーションを消耗する「邪魔」、つまり弊害の方が強いのではないかと思うようになってきた。

マスコミはマスコミで、相変わらず「あなたの知らない超常現象」だのUFOだの低俗な関心事を採り上げるだけで、一歩踏み込んでそのオカルトが純粋な求道に展開していく道筋につながるようなことは一切やらない。

UFOも含めオカルト現象は、エーテル体世界やアストラル世界で起きていることを感知した時に認知されるのだろうから、だれもが認識するわけではない。またそれは霊能力者以外にとっては「日常」ではない。

霊がかり・神がかり系スピリチュアルは、結局段階的に向上していくクンダリーニ・ヨーガ系修行の一ステップと捉えることができる。ところが、その頂上への道はあまりにも迂遠であるし、かつまた中心太陽との合体という肝心の頂上をめざす方針そのものがなかったり、怪しかったりすれば、求道の体を成してしないということになるだろう。

有力クンダリーニ・ヨーギである出口王仁三郎輪廻転生のことは盛んに語るし、霊界の構造のこと、181の位階があることなど細かく説明してくれている。また朝鮮の神人姜甑山は、非常に人間の怨みを丁重に扱う。

霊界の下の方より上の方が良いだろうし、人は人に仇なすものだから人の恨みは買わないほうがよいし、その感情的なしこりを解くのはクンダリーニ・ヨーギの役目の一つだろう。ところがそれはやはり中間段階の技であり、メイン技ではないのだろうと思う。

メイン技を知るのは、解脱したグルだけ。クンダリーニ・ヨーギは解脱したグルに指導されるべきであり、解脱してない人がスピリチュアル指導をするのはいかがなものか。それも霊がかり・神がかり系でやるのは、クライアント・弟子の混乱を助長するだけに見える。

霊がかり・神がかり系にも死の世界を超越するというテーマについて理解を促進する情報があるが、自我の死と肉体死と峻別して語るなど、いろいろなことを整理して出していかないと、「正解に近い知的イメージ」を結ぶことすらむずかしいと思う。




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チャネリングの限界

2010-02-24 06:05:27 | 超能力・霊能力
◎ろくな神霊が出てこない

「天皇の秘教/藤巻一保/学研」では、出口王仁三郎が、最後には、鎮魂帰神という名のチャネリングを捨てた経緯が分析されている。

最初は、出口王仁三郎自らもチャネリングをやってみたが、憑る神がよくなかった。大神やそれに次ぐ高位の神霊とチャネルできなかったということだろう。また彼は、出口ナオのお筆先にも(鎮魂帰神を)止せというのがしきりに出ているのを自覚している。

信者獲得の上でチャネリングほど人寄せ効果の高いものはないから、最初はガンガン帰神(かみがかり=チャネリング)をやって客を集められるが、やがてろくな神霊がかからなくなり、評判を落とすことになる。

それを見越した出口王仁三郎は、結局チャネリング(鎮魂帰神)をやめた。彼は神伝の秘法でもなく、神意でもないと鎮魂帰神を否定している。

彼によれば、大神がかかるのは、アメノウズメノミコトや神功皇后などの尊貴な方や特に純粋な人のみであり、一般人には実効が期待できないとする。

神に出会うことには、いくつかのバリエーションがあり、大神の憑依である鎮魂帰神も間違いなくそれを実現するメソッドの一つであるが、大衆向け組織宗教の主要な冥想手法としては不適切だったと見切ったのだと思う。

藤巻一保は、生長の家の谷口雅春や世界救世教の岡田茂吉や世界真光文明教団の岡田光玉らは、鎮魂帰神法のバリエーションである統一法や神懸りや浄霊法を行うが、そのルーツは大本教の鎮魂帰神法にあるとする。

こうした霊がかり、神がかりの迷蒙から抜けださないと、最先端の神には出会えまい・・・・という本物のスピリチュアルなピュアー・テイストのわかる人が増えないとどうにも展開しない。




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江戸時代の天皇陵

2010-02-23 06:09:27 | 時代のおわり
◎農地としての陵

今では、天皇は国家の象徴だから尊敬するのがあたりまえ。しかし明治維新以前は怪しいところがあったらしい。

徳川幕府は1862年から4年をかけて各地の天皇陵の修復を行ったが、その当時の天皇陵の状態はひどいものであった。

1.陵が暴かれて、石棺が露出していたり、ほんの小さな塚程度しか残っていなかったりするものがある。

2.陵の上に麦や他の作物を植えて、肥料として糞尿をかけたりしていたものもある。

3.盛り土は崩され、堀も埋められた陵もかなりあった。
(以上の出典は「天皇の秘教/藤巻一保/学研」による)

藤巻一保は、これをして、江戸時代以前の民衆も領主も地域共同体も天皇に対する崇敬の念はさほどでもなかったと考えているが、さもありなむ。天皇家への意識は、徳川将軍家や公家に対するそれと領主以下のそれでは隔絶したものがあったのだろう。

こんな天皇陵の荒れ具合であれば、宮内庁が陵の発掘を認めないのは、その天皇陵の尊厳犯すべからざるためというより、過去の盗掘のために大したものは残っていないことが明かになってがっかりさせるのを避けたいという配慮もあるのかもしれないと思った。

まあ中国でもほとんどかつての大王の墓は農地になっているから、そんなものなのかもしれないけれど。




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プーナの「ジャーマンベーカリー」爆弾テロ

2010-02-22 04:23:32 | 時代のおわり
◎グルとの出会い

OSHOといえば、
2010年2月13日インドのプーナのパン屋兼カフェ「ジャーマンベーカリー」が爆弾テロの標的となり、9人が死亡、約60人が負傷。

通常第三世界の爆弾テロは、現地の一流ホテルが狙われることが多いが、ここはお世辞にも一流ではなく、テーブルも椅子もインド風にとても粗末なところらしい。ただここはOSHOアシュラムに集まる弟子たちが立ち寄る場所として有名だった由。

『ジャーマンベーカリー』でブログ検索をかけてみると、かなりのブログがヒットし、かつこの場所に思い出があり、ショックを受けたという内容のコメントを載せているものが多い。このように、想像以上にOSHOの弟子は勿論、ここを訪れた日本人が多いことに驚かされる。

OSHOは、アメリカでを盛られ、アメリカからの退去も迫られ、反アメリカの姿勢であったとはいえ、1990年に亡くなって既に20年が経過した。その後特にこの教団が隆盛になったとの話も聞かない。

既成宗教への反対を唱えるが、それは新興教団ならどこでもやっていること。鎌倉時代の日蓮だってそうだったので、それ自体は特に珍しい主張でもない。

そうした中で、ここがピンポイントで狙われたことの意味は考えさせられるものがある。なぜバグワン(OSHO)なのか。

まだ勢力はとるに足らないものではあるが、次の時代の本流・源流はOSHO的なものから流れ出すことと見ている勢力の仕業なのだろう。too big too failになる前の芽の段階で摘んでおけということだろうか。マクモニーグルの未来預言ともリンクしていく。

そして、なぜ2月13日なのか、これも一つのポイント。

殊更にOSHOに限定しなくとも、世界じゅうのかなりの宗教団体で、歴史上多くの覚者を輩出してきたし、今も出しているだろう。(邪教もある)。カトリックだって、曹洞宗だって、真言宗だって、真宗だって、日蓮宗だって、ラマ教だって、神道だって、道教だって、頑張っている。

平たく見れば、メソッドとモチベーションとグルとの出会いで人は悟れるが、それをもう死んでしまったOSHOに限定しなくともいいだろうと思う。ただメソッドとグルの数はそれほど多くはないのだろうとは思う。




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OSHOの禅指導

2010-02-21 07:26:57 | 丹田禅(冥想法8)
◎自己の存在の中心

OSHOの集団瞑想時の誘導。

まず太鼓が鳴る。
『さあ、静かに。

目を閉じて。

そして、自分の身体が凍りついたと感じなさい。

さあ、今この瞬間、意識のすべてをもって、内側を見つめるのだ。まるで今この瞬間が人生最後のときだという切迫感を持って。
必ずあなたは、自己の存在の中心へと到達する。

一人また一人と自己の存在の中心へと到達していくにつれ、ブッダ・オーディトリアムはブッダたちの集まりとなる。自己の存在の中心において、あなたはブッダだ---今、ここで!

ただ観照者であること、それがいつまでも残る唯一の質だ。身体が消え去り、マインドが消え去って、唯一残るものが観照だ。

観照こそあなたの永遠なる存在だ。
その永遠なる存在を、私はブッダと呼ぶ。

それをどこまでもはっきりさせよう。』
(ノー・マインド/OSHO/壮神社P208-209から引用)

この講話は禅問答を中心とする講話なので、目指すところは禅の悟りだから、身心脱落がゴールである。身心脱落へのメソッドは、只管打坐のただ坐るってことである。

ところが、この講話では観想法でもって誘導している。ただ坐るのではなく、ある固定イメージを継続的に保持しながら坐らせるのだ。これは密教・クンダリーニ・ヨーガ・キリスト教で多用される方法であって、只管打坐ではない。

この場は、集団冥想で、初心者の参加者が多いから、導入として観想法を用いたのだろうか。


それと、自己というものが、最後まで今思っているような自己が連続していって、最後は身体もマインドも消え去って、見るものだけが残るという言い方だが、そこでは『来るが如し(如来)』や『何もかもなし』という説明はとらない。

禅の祖師たちは、窮極について特定の先入観を持たせないように誘導していくものだが、OSHOは禅の悟りを標榜しながら、そうした伝統とは異なるやり方で勧めている。それってよかったのだろうか。




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ボケとツッコミ(禅漫才)

2010-02-20 07:26:53 | 丹田禅(冥想法8)
◎いささかの愛

漫才にはボケとツッコミがある。立場は固定であって、ボケはいつでもボケで、ツッコミはいつでもツッコミ。禅問答ではボケとツッコミは、主と客として、しばしば入れ替わる。しかし禅問答でも実質的な実のない問答がある。そういうのを禅漫才という。

文中の居士はホウ居士。
『ある日、則川が方丈の内に坐っていると、居士が会いに来て、言った。「方丈に端座することを心得ているだけで、僧が参見に来たのもお気づきでない。」

その時則川は片足を垂らした。居士はさっと出て行くと、二、三歩して引き返した。

則川は今度はその足を引っ込めた。
居士「いかにも自由自在なお振舞い!」

則川「わしは主人じゃぞ」
居士「和尚は主人があることを心得ているだけで、客があることはご存知ない。」

則川は侍者に「茶をいれてこい」と命じた。

すると居士は踊りながら出ていった。』
(ホウ居士語録/入矢義高/筑摩書房から引用)

この問答では、則川の悟境を験されているわけだが、則川は「わしは主人じゃぞ」で馬脚を顕し、これが敗着となった。それ以前は互角の形勢であり、ホウ居士もそれを認めていたのに。

禅問答は理解できない、むずかしい、と人はいうが、今やわれわれはビジネスシーンで日夜それをやっている。仕事をしていると、応対に窮するけれどもそれでも何かしたり言ったりすることを求められることが時々あるものだ。その一言が禅問答みたいなもの。

かつて、それぞれ別々の会社の50代の企画本部長経験者と営業本部長経験者がお互いに少々きついことを言い合ってお互いにそれをうまく言いかわすというゲームみたいなことを、二人して嬉々としてやっているところを、何度か目にしたことがある。

彼等には禅の知識などないが、禅問答のコツはよく知っていると見えた。その他愛ない問答のテーマは、禅問答のように生死や人生全体ではないけれど、いささかの相手に対する「愛」はある・・・・と今なら思う。だからその応対はピタリとはまる。そのやりとりは手練の漫才コンビに引けをとらないが、話の内容はビジネスである。

このように禅問答はそのコツを知れば、その場はしのげる。だからアンチョコも出てくる。
しかし人生の問題はそうはいかない。生きること、どうやって生きるかが、禅問答より重い問題としてのしかかる時代になってきている。
考えてダメなら、少々坐ってみようかという方向もまだ見えない。時代はいささかの「愛」は歓迎しているが、「いささか」では結局ダメになる。




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相手と生死を共にする

2010-02-19 05:42:17 | 丹田禅(冥想法8)
◎愛で勝つ

禅では、よくぴったりくるとか言う。一体それにどんな意味や重要性があるものかといぶかっていたが、相手と生死を共にしていれば、どんな禅問答を仕掛けられようが、棒が来ようが、喝が来ようが、活殺自在に、間髪を入れずに、ずれない、そらさない応対ができるということ。それで初めてぴったり来るのである。

喜んでというか、躊躇なく、相手と一緒に、あなたは死ねますかっていうのが、それ。

西郷隆盛が僧月照と心中したと聞いて、西郷隆盛は男色家だったので男と入水したのかと勝手な想像をめぐらしていたが、相手と生死をともにしていてこそ、そんな技に出れると気がついた。

禅と言っても、十方大地平沈の身心脱落にばかり気を取られると、たちまち馬脚を顕してしまう。身心脱落とは、只管打坐のポスチャーを固めたところでのある特殊な心理現象と思い込んでいると、大きくルートをそれることになるようだ。

禅者で時々相手のために死ぬことを厭わない話が出てくることがあるが、その姿勢こそが菩薩行であり、マザー・テレサの道であるとつくづくと思う。マザー・テレサも、いわばいつでも相手のために死んでくれていた。

禅問答で相手をうまく打ち負かす理屈ばかりに注目してはいけないわけである。
禅問答には優劣、勝ち負けがあるが、愛それも全身全霊を賭けた愛、自分のことなど構わない愛がなければ勝てないとは、なかなか気がつかなかった。




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ホウ居士の死

2010-02-18 06:02:24 | 丹田禅(冥想法8)
◎生と死を出入自在

同じ居士でも、維摩居士は文庫本になっているし、聖徳太子も珍重したので有名だが、ホウ居士のことは知るものが少ない。宋代にあっては、中国ではホウ居士といえば禅者の代名詞とされ、朱子の禅への批判はこの人を主に対象にしていたという。

ホウ居士は、笊(ざる)を売って、妻と娘の霊照(りんしょう)とで暮らしていた。

『居士は臨終に際して、霊照に言いつけた、「太陽の高さを見ていてくれ、午(ひる)になったら知らせるのだ」

すると霊照が急報した、「もう日は中天に来ています、それに日蝕です。」
居士が戸口から出て眺めている間に、霊照は父の座に上がって、合掌したまま坐亡した。

居士は笑って、「娘なかなかのすばしっこさだな」と言った。
そこで七日延ばすことにした。

州の刺史の于頔(由へんに頁)が見舞いにきた。居士は語った、「どうか有るもの一切を空と観ぜられよ。無きもの一切をゆめゆめ有とはすまいぞ。
ではご機嫌ようお暮らしなされ。すべては影や響きのようなものものじゃ。」と言い終えると、公の膝を枕にしたまま身逝(みまか)った。

遺言によって火葬のうえ[その灰は]江上に捨てられた。僧俗ともに哀悼し、「禅門のホウ居士は、ビナヤの維摩居士の再来だ」と語り合った。詩偈三百餘首が世に伝えられている。』
(龐居士語録/入矢義高/筑摩書房から引用)

見てのとおり、霊照の死は、父の死を悲しんで殉死したなどというものではない。二人とも禅者としても相当の手練であるが、相当なクンダリーニ・ヨーギでもあった。タイミングを日蝕に合わせて坐亡するなどは、彼女に「父と生死を共にする」覚悟が平素からあって、なおかつチャンスかあれば白日昇天できる実力がなければこのようにはできまい。

それを笑って見送り、わざわざ州知事のひざ枕で死んで見せるオヤジのホウ居士の実力も尋常ではない。

最近の禅門では、ホウ居士語録があまり用いられないというが、こうしたクンダリーニ・ヨーガ色の強いのが、修行の邪魔になるためだろうか。

禅でも、相手と共に生死をともにする覚悟が必要とされるはずなので、そんな言い訳をしても仕方ないように思うけれど。

結局現代人には、クンダリーニ・ヨーガ的な、あらゆる超常現象の説明みたいなものも、冥想の効果と広がりを理解してもらうためには、ある意味必要なのだろうとも思った。




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星を見て自分を見る

2010-02-17 06:09:59 | 占星術  (冥想法6)
◎北方から来るもの

『大空を見つめていると想像力をかき立てられる。星はこのときわれわれの思いに応えるのである。最初の観察者が星と星との間に引いた線、これが人間に幾何学を思いつかせたのに違いない。われわれの魂が乱れているか静かであるかに応じて星は脅威の血の色に染まりもすれば、希望の光で照り輝きもする。

かくの如く大空は人間の魂の鏡であり、自分では天体を読んでいるつもりでも、われわれが読んでいるのはわれわれ自身なのである。

ガファレルは、大空の「書物」から読み取れる予兆を諸国家の運命に適用してこう言っている、古代人が凶兆の徴しをすべて大空の北方部分に描いたのは根拠のないことではなく、このようにいつの時代でも、災禍は北方からやって来て、南方を侵攻し地球上に広まると考えられてきた。』
(エリファス・レヴィ/高等魔術の教理と祭儀(祭儀篇)/人文書院から引用)

地上の王者は南面し、聖者は北面する。天空の北方からやってきて災禍を引き起こすのは地上の王に当たる者の仕業。災禍も繁栄も世俗寄りの事象である。

通常の見方はホロスコープ12宮の天頂MCを北に置いて見るが、冥想を深めるのに好適なタイミングは、ホロスコープ12宮を上下逆にして見たのではないだろうか。そしてその見方が占星術の本来の使われ方であったのではないかと思う。心理学者ユングも人間の外面と全く逆のことが内面では起きているとしているので、ホロスコープでも同様のことと見れる。

北からの侵攻は、聖書のゴグや大本神諭の露国を連想させるのも、また集合的無意識的な現実でもある。




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霊能力者の姿

2010-02-16 05:53:56 | 超能力・霊能力
◎冥想への理解度

『霊媒

霊媒などになる人を、身魂が磨けて居るから霊覚がある、などと思うて居る人がだいぶんあるやうであるが、決してさうでは無い、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。

霊の方では使ひやすいから使ふので、かうした人間には大した仕事は出来無い、確(しっ)かりして居て、しかも霊覚があると云ふやうな偉人は、滅多に出るものではない。

大抵意志薄弱で、一生涯憑霊に支配されて、真の自我と云ふものの確立がない、情ない状態で終つて仕舞ふのである。霊媒になるやうな人は、一寸人がよいやうで、さうしてどこかにぬけた所がある。しまひには悪い事を仕出かし勝である。命も短いものである。 』 (月鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)

スピリチュアル系ブログの上位には霊能力者の手になる者が多い。悟りは、真の自我の確立から自我の極大化へと発展していく先にあるから、霊能力、霊覚があるというのは、かえってそれの邪魔になりがちである。

人間一般の死の真相、つまり、死の瞬間から中有、別の子宮からの再誕まで見れるような実力があるなら別格であるが、単に霊覚があるだけの人は、上の文のような程度なのだろうと思う。

霊能力があっても、冥想・メディテーションの狙いや価値を全く理解しない手合いまでおり、釈迦もイエスも空海も達磨もあらゆる覚者が、冥想により覚醒したことを無視してかかっているような具合である。

そうした妙な見解による混乱が整理されていかないと、現代人にとって本当に必要な冥想というものが日常生活に入っていくことはないのだろうと思う。

霊言なんてのも多く出版されているが、それもそうした類だろうと、まずは眉に唾をつけて見ていく必要があると思う。




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物欲と清貧

2010-02-15 04:13:27 | 丹田禅(冥想法8)
◎良寛とヨブ

良寛の漢詩。(禅板は、坐禅の時に身を寄せ手を置く板。)
『盗難

禅板と坐布団とを持っていかれてしもうた
泥棒が草庵を襲うのを誰がよう止められよう
夜もすがらひっそりした窓べに
ぽつねんと坐っていると
まばらな雨が苦竹の林にわびしい音を立てる』
(日本の禅語録20 良寛/入矢義高/講談社から引用)

ここまで徹底してやっつけるのは聖書のヨブ記にもある。ヨブの神のようにその清貧を試しているのだろうか。ヨブ記では、最後は財産も増え、子孫にも恵まれ、ヨブも天寿を全うしたとあり、最後まで清貧したわけではない。

龐居士は、もと衡陽の太守の息子だったが、父より受けた金銀財宝を車に積んで湖底に投げ捨ててから妻子とともに笊を売る清貧生活に入ったという。これならばマザー・テレサばりの清貧な生活といえよう。

清貧は基本だが、人生を楽しむ部分がないと人はやっていけないのではないか。ディナーに招かれて御馳走のテーブルを蹴り倒しているばかりでは、やりすぎのそしりがあるのではないか。この世俗と清貧の均衡点は、万人に共通の物差しはないのではないか。





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悟り悟りと言うけれど

2010-02-14 07:08:09 | 丹田禅(冥想法8)
◎仰山と第二頭

京兆米胡和尚が、僧を遣わして唐代の禅マスターの仰山に質問させた。
「今時の人は、やっぱり悟りを得る手段が必要でしょうか(今時人、還仮悟否)」

仰山が答えるに、
「悟りはないわけではないが、それでは第二頭に堕するほかはない。(悟則不無、争奈落第二頭何)」

その僧が帰ってきて米胡和尚に報告すると、米胡和尚はOK、OKとうなずいた。

肝心なところが第一頭とすると、第二頭は、それを少々はずしているポジション。


更に、嶺南節度使の韋宙に、仰山が円相を贈った。仰山は、円相の左側に「思いて之(これ)を知るは第二頭に落ちる」、円相の右側に「思わずして之を知るは、第三首に落ちる」と書き添えた。

要するに、思ってこれを知るのもダメだし、思わないでこれを知るのもダメ。思う思わないの自分が落ちないとダメだとする。

このように「悟り」、「悟らねばならぬ」というけれど、それはハズレだという。しかしその議論は、悟った者が悟りをハズレだと語るのは正しいが、悟っていない者が悟りをハズレだというのは間違いだと思う。悟っていない者は、自分が語る「悟り」が正しいかどうかもわからないからである。

だから祖堂集や正法眼蔵(大悟)にそう書いているからといって、「悟ろうとするのは間違いだ」と主張するのはどんなものだろうか。

悟りは、人間の側の体験ではない。生きている世界が変わる、異なる。悟りは言葉で表現することなどできない。だから維摩居士みたいに黙ってしまうのが正解というのは理解できるが、それでは何もとっかかりなく、木で鼻をくくったようなもの。禅へのインビテーションには、CS(顧客満足)のホスピタリティが欠けている。禅の身内では、棒で殴るのも喝で怒鳴るのも老婆親切などと言っているが、初心者・門外漢へのソフトなアプローチやデリカシーはない。それで、今時いいのだろうか。

「悪人も神仏の顕現、痴呆者も神仏の顕現」と断言するのは、彼等の中に神性を見ぬくことのできる覚者のみであって、その一隻眼を有しないものが、何でも神仏の顕現と語ることには何の意味もないと思う。同じ悟りや神仏という言葉を使っても、覚者とそうでない者では、意味するところは全く異なると思う。

だから「私は悟ってませんが・・・」というような枕詞は、この分野の議論では要るように思う。「我思う」の我が全然違っているから。




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