アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

2009年の終わり

2009-12-31 06:47:52 | 時代のおわり
◎自分自身で見極める

この1年、つたないこのブログにご来訪ありがとうございました。

このブログを始めた2005年の頃はスピリチュアル系のブログは数えるほどであって、ましてスピリチュアルを商売にする人ではない本当の求道者系ブログは少なかった。ようやく最近になってそうした真剣なブログも増えてきているように思う。

そうした隆盛は、かつてのテレビ番組オーラの泉人気や、妙な霊能力者ブログの雨後の竹の子みたいな乱立に支えられているところもあるが、跛行的ながらも、現代人が自分の精神性がまともかどうかに、如何に自信を失っているかの反映である。

時代は、いつのまにかうつ病の生涯有病率8人に1人であるというほどに、文明精神自体が正気を失っていることを最近になって自覚するところまでたどりついた。そうしたものの対症療法として、ヒーリングやパワーストーンやカウンセリングや栄養ドリンク、カルト宗教の類まで、ありとあらゆる手近な手段を採るのが日常風景となっている。

しかしながら、最後のそして唯一の根本的解決手段は冥想であるという世間的評価を得るには至っていないというのが現状である。

悟りによって世界を逆転させないと、人は本当の愛や、本当の善や、本当の安らぎに出会うことはない。

そこで今年は年初から5月にかけて、【夢と真実】というカテゴリーで、悟りというものについてのまとめを行った。
ざっとこんな構成だが、最初から8区分でやろうと思ったわけではない。
1.日常感覚から悟りへ
2.悟りとは何か
3.悟りの必要性
4.悟りの効果
5.悟りへの手段
6.悟りへの階梯
7.悟りの実現可能性
8.21世紀に生きる
これをまとめても、現代人にはまだ納得のいかないだろうというポイントがいくつかある。

その一つは、世界を逆転させないと本当のもの真実のものは出て来ないことはわかったが、自分は本当にそこまで精神的に煮詰まっているのだろうか、または精神的に社会的に世界情勢的にそこまで追い詰められているのだろうかという自覚の問題。

また悟りというものがまともな人間として生きる最低ラインだということはわかったが、悟り以降の現代社会との折り合いが難しい中で、悟った人が多い場合の社会ビジョンが呈示し得ていないという問題。単に悟った人が増えたなら予定調和な社会ができるということで、今の人が納得するのだろうかということ。

また悟りそのものの外的特徴にまつわる真贋の見分け方が極めて難しいという点。悟った人や悟りという体験とはいえない神秘体験みたいなものの特徴を列挙することはできる。しかし、そうした外的な特徴をすべて備えた体験だが、本当は真の悟りでないということはままある。

結局各人が自分の体験の真贋を、自分で見分ける目を持てるかどうかにかかってくる。人に指導してもらうのではなく、人に教えてもらうのではなく、最後は自分で一歩踏み出すのだが、その一歩が間違いないかどうかは自分で見極めるしかないということ。

だから悟りの特徴やら成因やメソッドについて語ることはできるが、語った真実っぽいその内容ですらある人にとっては嘘だし、また別の人にとっては真実となり得る、というデリケートな部分が存在する。真理は言葉にできない以上、言葉にした瞬間嘘になるというのはその代表的な例である。

来年は月蝕で始まるが、こうした現代人に突きつけられた窮極のジレンマの真相に更に迫り、それを平易に説明することができればうれしい。そして、自分を含め大勢を占める未悟の人々は、マスコミを中心とするあらゆる洗脳情報の荒海をかいくぐり、日々厳しくなる生活の状況を切り抜けて、本当の生き方に出会うことができるのだろうか。


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錬金術師ドルネウスの言葉

2009-12-30 06:19:32 | 錬金術
◎心理と真理

錬金術師ドルネウスの言葉。

『汝に必要なすべてが、汝が徒に外部に求めるすべてが存在する。
暗闇のなか微かではあるが、人の光と生命が我らの内で輝いている。

それは、我らに由来するものではないが。』
(ユング思想と錬金術/ML.フォン.フランツ/人文書院から引用)

人は、金も名誉も健康も、地位も権力も、恋人との甘い時間も、和やかな家庭も、円満な人間関係も、長寿も願望実現も、こうしたものを外部に求めがちなものだ。

しかし、こうしたあらゆるものは、その身に備わっている。それでもって、そうした贅沢なしつらえは、自分の中から出てきたものではない。

ユングも指摘しているが、中世の錬金術者は、ある冥想法の実践を前提にしていた。人間の神化そのものは、この世の様々な個別の願望実現を問題にはしていないが、クンダリーニ・ヨーガの道、錬金術の道から入った場合、そうしたものを相手にする修行法のせいか、この世的なものをある意味自由にするフリーハンドを手にするらしい。

そのことを知っているから、錬金術師の書物は、訳のわからない暗号機密文書みたいな仕上がりになるのだろう。心理カウンセラーのために錬金術師が書物を残したわけではないだろう。






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寒山と枯淡

2009-12-29 06:09:56 | 丹田禅(冥想法8)
◎幽居の地を卜択し

寒山の詩。

幽居の地を卜択し 天台更に言うこと莫し
猨(さる)啼(な)いて谿霧冷ややかに 岳色は草門に連なる
葉を折って松室を覆い 池を開いて澗泉を引く
已(すで)に万事を休するに甘んじ 蕨を採って残年を渡る

唐代のことか、寒山は、浙江省天台山の近くに住んでいた。
幽邃の地を選んで住んだが、天台山は良い場所である。猿も鳴き、谷を渡る霧も冷やかで山の風景は草庵の門にまで連なる。木の葉を折って周りには松の多い我が室を覆って、渓流を引き入れて池を造る。

万事を休したとは、自分勝手なあらゆる思いがすべて終ってしまったということ。そうした覚醒を持ちながら、余生を蕨を食べて粛々と過ごすのだということ。

生活レベルの貧しいことに安んじて、欲のない生活を送るのだが、その枯淡なところは陋巷に暮らした趙州と異なることはない。霊もあの世もハイアーセルフもグラウンディングも悪徳除霊師もなく、ただ今を生きるのである。




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マリー=アンナ・リンドメイアの脱魂

2009-12-28 06:05:55 | キリスト者の秘蹟
◎肉体がダメになるリスク

竹下節子氏は、カトリックを中心に聖者の奇跡についていろいろと紹介してくれている。が、マリアが出現したのを目撃した、イエスと会話した、肉体にスティグマタがついた、空を飛んだとか、死後においても分離された心臓が腐らなかったとか、目に見える方面の関心の方が高いように見える。いささか世俗的な方面に関心が高いのだろうと思う。

『ドイツのカルメル会修道女マリー=アンナ・リンドメイアは、1705年のミュンヘンで起こった脱魂について詳細に述べた。彼女は魂と精神が完全に肉体を離れることを経験によって確認したという。肉体は魂が戻ってきた後でもダメージを受けていて三日間ぐらいは冷たく、麻痺状態が続いたという。

彼女はアヴィラの聖女テレサに祈って、エクスタシーが起こるときに意識を失わないでいられるように神に頼んだ。その結果、まず非常な虚脱感がやってきて、次に寒気に襲われることが自覚できた。それは足元から始まって次第に全身にひろがり、同時に力が抜けて無感覚になる。冷気に閉じ込められる。

それから魂と精神が一気に神の導くところへ出ていくのだという。』
(聖者の宇宙/竹下節子/青土社p203-204から引用)

私は、神秘体験なら十把一からげではなく、こういう真に迫ったエピソードの方に興味がある。

この脱魂に至る過程では、歴然と肉体死のプロセスが語られており、ソクラテスの死のプロセスやチベット死者の書のそれに似た描写となっている。

脱魂、体外離脱では、このように肉体の麻痺があるようだが、体外離脱を盛んに勧めている坂本政道氏などは、体外離脱後に肉体が麻痺して、身体障害者になるリスク回避の手段をとっているのだろうか。

脱魂、体外離脱には3種あるといえども、そのリスクは肉体に戻れないリスクだけでなく、肉体がダメになるリスクもある。脱魂、体外離脱を勧奨するのならば、当然そうしたリスクの説明と事故回避の設備・体制が問われるだろう。




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ゲラルドゥス・ドルネウスの四段階説

2009-12-27 07:59:27 | 錬金術
◎ユング理論の精華

結合とは、悟りのことであり、結婚のことである。心理学者C.G.ユングは、16世紀の錬金術師ゲラルドゥス・ドルネウスの四段階説を有力説と見ていた。

要するに覚醒の3段階説である。文中の「精神的統一」とは、個人なる自我のことではなく、それよりも広い意味で、世界全体を含むミクロコスモス、まだ自分を残した世界全体くらいのところ。

「精神的統一」は錬金術では、生ける銀、水銀、銀、月、水などと表象されるのだと思う。ただ、同じ言葉(例えば水銀)が同じ文章の中で使われていたとしても、全く異なる意味で平気で使われるのは、柳華陽の中国錬金術文書と同様なので、この文章は論理的ではないなどと泣き言を言ってはいけない。

求められているのは、文章の文献考証的解釈ではなくて、読み手が、錬金術文書を書いた人間と同じレベルで同じシチュエーションに立つことであって、それでもって初めて文意がとれる訳である。

まず、デフォルトな初期状態がある。これは肉体と魂が合体して、分離していない状態である。これが第一段階。悟りも結婚もない状態である。

そして身体から分離した魂が、「精神的統一」において、霊と結合する「精神的結合」これが最初の覚醒。ここで肉体的なものと時間的なものとを放棄して、一なる宇宙へと目を向ける。

次に天(賢者の石に相当)の製造による「精神的統一」それ自体と身体の結合。これが二番目の覚醒。

これは自己の内に入り、自己の内にとどまる。その自己はほとんど現象宇宙全体くらいのものであって、肉体自己という程度ではあるまい。したがってここでいう結合する肉体とは、現象全体に近い。
霊界では中心太陽は赤いそうだが、賢者の石も赤い。天(賢者の石に相当)の製造とは、中心太陽を常時視界に入れるということか。

最後に全体性を達成した錬金術師と一なる宇宙との最終的結合。神が神を神している。これが三番目の覚醒。

これらのメカニズムについては、錬金術師それぞれが、その文章の晦渋さとは裏腹に、明快な口調で、極めて精密なものであること疑いなしとしているので、そういうものだろうと思う。





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世界樹の見え方

2009-12-26 08:13:16 | 錬金術
◎それはひっくり返っている

世界樹は哲学の樹(アルボル・フィロソフィカ)とも呼ばれ、北欧神話ではイグドラシルとも呼ばれる。錬金術文書では、転倒した樹(アルボル・インウェルサ)とされ、上から下に成長し、樹冠が下に、根が上にある。この転倒した世界樹は、古代秘教的世界観から来るもので、神である根から世界が発出しているという見方に、人間からの見え方を加えたものである。

『ある錬金術の文書では、「鉱物の根は空に、枝は大地の下にあり、これを引き抜くと、恐ろしい音がして、大いなる恐怖が続く」と記されている。『世界の栄光』では、哲学者たちの言葉として「その鉱物の根は空にあり、梢は大地の下にあり」と述べられている。
(中略)

転倒した世界樹の数多くの例の中で最も有名なものは、『ウパニシャッド(奥義書)』にあるものだろう。樹の宗教的意味がアルボル・フィロソフィカのそれと似ている。

この宇宙は永遠に存在する樹であり、その根は高く、枝は下に広がる。
樹の純粋な根がであり、その中に三界(欲界と色界と無色界)が存在し、これを超越する者はいない。』
(ヨハンネス・ファブリキウス/錬金術の世界/青土社p229から引用)

悟っていない人間には、世界樹は根が下に枝が上に広がって見える。世界樹の根を目撃した瞬間に、世界樹の見え方はひっくり返る。世界樹の根は神であり、仏であり、タオであり、ニルヴァーナである。

この逆転した世界観こそ覚者の証拠である。悟った人が周辺に理解されないのはここに最大のキーポイントがあるのではないか。

また霊が見えようが、ハイアーセルフと話ができようが、世界が逆さまに見えない人は本物ではあるまい。タロット・カードの木から吊るされた男こそ、覚者の姿である。吊るされて世の中がひっくり返ることほど恐ろしいものはない。実はそちらの方が真相だったと。それ以外にアセンションはあるまい。





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四段の結合と四元素

2009-12-25 06:10:19 | 錬金術
◎五輪塔の錬金術

男女の別を超える、あなたと私の違いを超えて一体になる、差別・区別をなくする。こうしたものは、悟りの一つの現れとして肯定的に評価されるべきものだ。

謎の心理学者ヨハネス・ファブリキウスの「錬金術の世界」ではそれについて一つのヒントが呈示されている。差別、区別を撤廃するということは結合ということであるが、この本の章立てを見ると、結合には4種あるという大胆な発想が呈示されている。

最初の結合は「地上での再誕」である。第二の結合は「の再誕」である。第三の結合は「太陽の再誕」である。第四は「宇宙の石の再生」である。

これでイメージされるのは五輪塔である。下から地、水、火、風、空である。最後の空は四元素ではないので別格。すると地、水、火、風の並びとなり、「地上での再誕」は地、「月の再誕」は、月のシンボルは水で紛れはない。「太陽の再誕」は、火でありこれまた当然である。そして、「宇宙の石の再生」は風=あらゆる自由自在さのシンボル、これでファブリキウスの章立てと合致する。

それぞれの再誕の前には必ず死があり、 言い換えれば結合という名の悟りの前には必ず絶望があり、精神的外傷(トラウマ)を食らうということ。

つまり悟りには、それぞれ性質の異なる4段階、4種類があるだろうと示唆されているように思う。ニルヴァーナ、タオ、神、仏と、ゴールは単一かもしれない。また悟りという言葉一つで片づけられるものの中には複数のステップがあることを、ユング派の心理学の精華から知ることができるように思う。




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LSDによるアプローチ

2009-12-24 06:20:39 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎絶対的、無時間的、即時的な全体

シドニー・コーエンの「内部の彼方」に窮極、ニルヴァーナのもつ安らぎが描写されている。

『(自己に向かう)川の流れが早まるにつれ、川はますます透明になってくる----潜水したあと、すぐに浮上して、頭の上で水が分かれ、光のある大気中に出るときのようだ。

光が強まる。----たいていトパーズ色をしている。

光の中で生きていることを意識するのが歓喜になり、魅惑的であるとともに心がやすらぐ。このレヴェルでは個人の感覚はまださほど失われていないか、もはや自我のものではない意識の内に辺境が失われるまで拡大されて溶け込んでいる。・・・・・哲学者ニコラウス・クサヌスの著述には鍵になる文章がある。

クサヌスは強烈な意識の状態について語り、「経験が対立物の葛藤を超越する」からこそ可能なのだとしている。「わたし」と「それ」の区別、「これとあれ」のちがいがなくなる。大きさと量はもはやない。比較や分析は消える。極性や志向性が欠落する。

これはしかし朦朧とした意識や混乱した理解ではない。喪失や困惑の感覚ではなく、絶対的、無時間的、即時的な全体の最も生なましい認識があるのだ。

理解は完全である。印象があるとしても、底知れぬ安らぎはとても言葉にはあらわせず、無尽蔵のエネルギーはあまりにも熱っぽい。この状態は根本的で、すべてに浸透しているのである。』
(錬金術の世界/ヨハネス・ファブリキウス/青土社p243から引用)

これは、LSDを服用はしているが三途の川を渡って、窮極に最接近した状態。行き着いている境地は、山岡鉄舟の男女の別を超えた境地と同様なので相当なものである。何より筆舌に尽くしがたい「底知れぬ安らぎ」を体感しているところがすごい。

既に愛の十字ポイントを超え、有相三昧に手がかかっているくらいか。

この流れこそオームの流れであろう。ここまで正統的にニルヴァーナにアプローチしていける例はさほど多くないので、ニルヴァーナへの接近例として貴重な材料である。




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リビドーの変容

2009-12-23 08:36:10 | 究極というものの可能性
◎死の闇をも貫く

リビドーがせき止められると衝動的になりがちで、いろいろな極端なことや社会規範から逸脱するようなことをしでかしがちになる。

リビドーのエネルギーの蓄積された者は、プロメテウスのように、穴を開けて、そこで棒をこすって、火を起こす。

起こされた火は英雄として感得される。やがて英雄は悲劇のうちに死して、死の国、闇の国を経て再生する。

火の誕生から再生まで一直線に貫いているものそれが、リビドーである。

リビドーは性欲として現れるだけでなく、精神分裂病の原因となることとがあるだけでなく、単なる心理現象の一因子にととまらず、それ以上の人生全体を支配するような大きなもののようだ。

そこでインド神話の火=太陽なるルドラの描写

『二.まことに、すべてこれらの世を支配力をもって支配する一者ルドラは、一瞬たりともとどまらない。生まれる者たちの背後にかれは立つ。繰り広げたすべての世を終の時に保護者(かれ)は集める。

三.かれは体中に目をもつ、体中にたしかに顔を、体中にたしかに腕を、体中に足をもつ。多数の腕で翼で、かれはかれらをだまし、天と地、唯一の神を作りだす。

四.神々のうちで起源でも成長でもあるもの、万物の主、ルドラ、力強い見者であるもの。昔のかがやく芽を芽生えさせたもの----かれが清浄な理性によってわれわれを結びつけてくれますように。

(中略)

七.この(世)をこえた、かなたのブラフマン、あらゆる被造物のなかにそれぞれの形にしたがって隠れている強力なもの、万物をとりかこむ唯一の主---かれを知ったものは不死になる。

八.闇をこえる、太陽のようなこの強力なものをわたしは知っている。かれを知れば死を渡り越す。死のかなたへゆく道は他には(まったく)ない。

(中略)

一一.・・・かれ、主は全宇宙のうえにひろがる。それゆえ万物に遍満するものとして、かれは恵み深い。

一二.強力な君主、人間、存在を完全な汚れない平和へ向かって出発させるもの、立派な燃えつきることのない光。

一三.おや指の大きさの人間、内部の自己はつねにすべて生まれたものの中心に坐っている。中心にいて心を支配し、心によってかれは現される。このことを知るものたちは不死になる。

一四.数千の頭(と)数千の目(と)数千の足をもち地上をくまなくおおいつくす人間、かれは指十本分の幅だけかなたにいる。

一五.人間はまことにこれらすべて、かつてあったものと今後あるであろうもの(の両方)、他のすべてのもののはるか上にいる不死の主で(も)ある。』
(変容の象徴/C.G.ユング/筑摩書房から引用)

いにしえの輝く芽とは、日本神話の葦牙(あしかび)を思わせる。泥の中から萌え出たのは火であった。

リビドーが起こす火なる”いにしえの輝く芽”は、最後には死の世界をも超えて、「他のすべてのもののはるか上にいる不死の主」となる。

よって不犯の禁戒は、リビドーが火を起こすに当たって、クリティカルな前提条件の一つとなっていることが想像される。

ルドラは、ヤキ・インディアンのイーグルのイメージともだぶる。また千手観音はどうして千本も手が要るのかとか、百目鬼はどういうつもりで誰が書いたかという疑問が氷解することにもなった。




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曇無識と涅槃経

2009-12-22 06:16:07 | 究極というものの可能性
◎涅槃経の後段

曇無識は、5世紀の中インド生まれの訳経僧で呪力優れていた。涼州で涅槃経の前段を訳したが、後段を訳し終えないうちに433年刺客によって殺害された。

東晋を継いだ宋代(420~479年)道場寺の慧観は、高昌出身の沙門道普に命じて涅槃経の後段を探し求めさせたが、船が難破して足を負傷して、途半ばにして亡くなった。その臨終で、「涅槃経の後段は、宋の土地とは縁がない」と慨嘆したが、これは出口王仁三郎が語る、「孟子は易姓革命を語るので、万世一系の天皇制の日本に入る時、孟子を積んだ船が何度も難破した」という説を思わせるものがある。

涅槃経の後段とは、菩提樹下で悟った釈迦がその後、布教活動を行って、最後涅槃に入るところの部分だろう。これは、未悟の修行者にとっては、一旦悟ったらどんなメリットがあるのかないのか見極めてもらうために必要であり、また覚者の現実社会との折り合いのつけ方、そして釈迦の涅槃の神秘的な展開を知るためには、釈迦の後半生を訳出する必要があったと感じていたのだろう。

仏教のここ二千年は、仏教が貴族のものであった時代から、次第に大衆化する運動を繰り返し、現代に至って、身分の違いにかかわらず誰もが悟りを開けることに疑問を持つ人はいないほどの社会通念を実現した。仏教の2千年は、経典も教団組織もメソッドも万人が悟りを開く土壌を用意する方向で変化してきたのだ。

舞台は用意されたので、あとは坐るだけ。




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僧と破戒

2009-12-21 06:13:17 | 究極というものの可能性
◎不犯と悟り

鳩摩羅什は、2度にわたり、女犯を強いられて、節を欠くことになった。最初は亀茲で亀茲の王女と、二度目は、長安にいた時に伎女10人と共同生活を強いられたことだが、相手が一人だろうが10人だろうと僧の破戒ということでは同じである。ただし女性と同居する僧は今の時代では珍しくもない。

このせいかどうか知らないが、鳩摩羅什は自分の悟りを求めていくというよりは訳経僧として道を選び取った。求道に専心するならば、必ず経典を捨て去る時期が来るからである。


明治政府が僧の妻帯を認めたおかげで、真宗以外の僧も大手を振って妻帯するようになった。このおかげで僧の女犯戒の本当の効果を知る人は極めて少なくなったと言えるだろう。

明恵のように生涯不犯であることが、珍しいこととされるのは、それほど難しい戒なのだろうが、不犯と悟りのプロセスは密接なものがあることを知らぬマスターは少ないだろうから、明治政府が大衆を悟りから遠ざける仕掛けとして僧の妻帯を認めたのだろう。

日本は伝統的に為政者に仏教への理解があったにもかかわらず、明治以降は仏教を堕落させる政策が執られていったのは、脱亜入欧のせいばかりとは言えまい。廃仏毀釈は切り抜けたが、仏教側の自浄の動きが弱かったということだろう。




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チベットのど青鳥の物語

2009-12-20 07:44:10 | 密教
◎インドの森から宇宙へ

チベットでは、かっこうのことをのど青鳥と呼ぶ。

のど青鳥の物語は、インドのベナレスの王子ダルマナンダが、別の身体の中に意識を移す術を用いてかっこうの身体の中に入り込み、かっこうの聖者として一生を過ごすことにした。一方ダルマナンダ王子の側室に関心のあった友人のラガナナは、ダルマナンダの意識がなくなって空っぽになった身体に易々と入り込み、以後ダルマナンダ王子としてこの世を過ごすことになった。

仏道の修行の進んだ「かっこう」のダルマナンダ王子は、強力な行者の力を借りて、鳥の中でも飛び抜けて素晴らしい心の持ち主であったプラカサヴァンの意識を王宮にある自分の肉体の意識に移しかえる術を行った。

この結果王子の肉体を占拠していたラガナナの意識は弾き飛ばされていずことも知れない境域に飛ばされた。

かっこうの王子は、かっこうの身のままで、かっこうの聖者として一生を終えた。

というのがその粗筋。


肉体の上に他の意識を移しかえようとするのは、クリシュナムルティの身体にマイトレーヤ(弥勒菩薩)の意識を乗せようとした企てが有名である。これは結局実現しないままに終ったようだが、インド、チベット方面では古くから知られている手法なのだろう。

洗脳の中には刷り込みによる虚偽記憶を創作しようとする方法もあるが、虚偽記憶も何年かすると剥離することがある。虚偽記憶の賞味期限は短いのだ。これの延長線上に他の意識を肉体に乗せるというやり方があるのだろう。いわば窮極の洗脳である。これが成功すれば虚偽記憶よりは、移入された意識に対する肉体の拒否反応は出にくいのだろう。

アストラル体を乗せるのだろうか、メンタル体を乗せるのだろうか。クンダリーニのエネルギー・コードを付け替えるということなのだろうか。

人間は若いころのことは老年になってもよく覚えているものであり、思春期以前に学校教育などで刷り込まれた虚偽記憶の有効期間は長い。だから教育というものは、用い方によっては恐ろしいものである。

国を挙げて戦争をする体制に持ち込もうとした明治政府は、まず政治(明治憲法)、軍事(軍人勅喩)、教育(教育勅語)を軸にして体制を整えていった。特に教育もしっかり軸に据えていた。NHKの連続ドラマ「坂の上の雲」がそうした走りでないことを祈りたい。

鳥は、聖典では、人間としての輪廻転生を卒業した魂が乗る次の乗り物として表現されることがある。この物語では上空を飛ぶ鳥たちだが、他の惑星を舞台にする鳥であってもまったく不思議はないように思う。




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塩、水、香

2009-12-19 07:42:51 | 超能力・霊能力
◎エーテル世界と電気磁気

善と悪との戦いは、自分がノーリターン・ポイントに到達するまで続く。だからといって守るべき自分が善とは限らないのに、クンダリーニ・ヨーギ(隠秘学者)であるダイアン・フォーチュンは、大きなお世話かもしれないのに、「心霊的自己防衛」などという本を書いて、必死に自分を守ろうとする方法を教えてくれる。

自分を捨てる方向こそ善であるのに、ここでは自分を捨てないでなんとか守ろうとする方法を示すというのはとても皮肉であるが、その人の発達段階において、守った方がいい段階もあるのだろうから、ここはそんな自家撞着には目をつぶりましょう。

ダイアン・フォーチュンは、心霊的攻撃とその防御である治療や癒しに共通する力の性質が電気に酷似しているという。これは、かの合気道の植芝盛平が電気に異常に敏感だったことを連想させる。

ダイアン・フォーチュンは、心霊的攻撃や猟犬からの追跡を巻くには、流水を超えると良いという実例を挙げる。流水には特異な電気的性質がある。水は浄化の媒体であり、キリスト教では洗礼で水を使い、密教潅頂では水を注ぐ。

キリスト教の洗礼の水には塩を少々入れ、神棚や飲み屋の入り口には盛り塩が置かれる。ダイアン・フォーチュンは塩水の水浴は心霊的攻撃を避けるのに好適であるとするが、そうすると海水による禊ぎも、きっとそうした効果が高いのだろう。確か塩水の方が真水より通電性が高いと思った。

電気の影響であるというからには、エーテル体レベルの事象のことであり、心霊的攻撃がエーテル体であるエネルギーを凝集してやってくる場合には、塩や水でそのエネルギーを攪乱しようというものだろうということだから、理にかなったことのように思う。

ダイアン・フォーチュンは、室内に硝酸を置いて、揮発させたままにすることもそうした不快なエネルギーの凝縮を妨げる効果ありとする。

また人の磁気というか残留電気というか、エーテル、プラーナというものは人の所有物や肉体から出るものにはわりと残存するものらしく、その残留エネルギーを利用した魔術の手法はいくつかある。

その中でも、とりわけ精液と経血は珍重され、たとえばヨーロッパでは、魔術の素材として高く評価されており、精液は豊作祈願に、経血と排泄物は小麦粉とまぜて黒ミサの聖餐用平皿に用いられる由。日本の邪教立川流でも赤白二という精液と経血を連想させる教義がある。これは妙な趣味趣向からこの素材を用いているのではなく、その方面のダイナミズムから然るべき理由があってこの素材を選んでいるようではある。

そして香。
ダイアン・フォーチュンは、線香は霊の形体化をサポートするために調合されているとする。よって成分不明の香は絶対使用してはならないとする。とすると塩水や硝酸の揮発とは逆の効果を狙うもののようである。彼女は、防衛手法についてポジティブなものや善なるもの観想する方法と高級善玉神霊を召還する方法の2手法を想定しているが、線香や香は後者で採用する手法なのだろうと思う。

いずれにしても、自分が善玉にならなければ話は始まらない。どちらかというと悪玉である自分を心霊的に防衛して、世にはばかってどうするんだろうか。





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カルマと記憶

2009-12-18 06:18:34 | 冥想アヴァンギャルド
◎ビデオ・テープとデッキ

記憶の中には、もともと潜在していて意識の表面に上がってきていなかったものが、何かの拍子に顕在化するものがある。これを回復記憶と呼ぶ。忘れていたトラウマを思い出すのがこれに当たる。

また実際には実体験ではないのに、刷り込みの結果自分の記憶として保持されるものがある。これを虚偽記憶と呼ぶ。虚偽記憶を作り出すのは比較的簡単だとされる。これは日夜我々がコマーシャルやプロパガンダによって無意識に刷り込まれている様々な記憶群のことである。飲んだことはないが○○ビールはのどごしさわやかなどというのがそれである。

ハーバード大学の心理学教授リチャード・J・マクナリーは、
『記憶はたとえトラウマ的な記憶であってもビデオ・レコーダーのようには働きません。記憶を思い出すとき、私たちは脳のあちこちに分散されている部品を使って、それを作り直します。

もちろん、その思い出された出来事の永久的な記録、つまり、それこそビデオ・テープとか公式の記録があれば、自分の回想が正確かどうかを検証することができます。

記憶は再構成されたものであってビデオ・テープではないということは、記憶は常にある程度は「偽」だということです。』
(奪われた記憶/ジョナサン・コット/求龍堂から引用)

これは、カルマと脳の関係を言い当てているにように思う。カルマがビデオ・テープであり、ビデオ・デッキが脳である。脳が病気や薬物や物理的打撃で物理的に破壊されても、カルマは残り、人は転生する。ビデオ・デッキが壊れてもテープがあれば、転生して続きを見れるのだ。

そして記憶再生時には、外部から来たいろいろな情報が付着して、それをも本来のテープの内容であるが如く思わせるのである。

こうして見ると、覚者候補にとって、父母早世のようなトラウマは、ある種の不幸で厭世的なカルマとして登場するのが目的というよりも、それによってある種の厭世的な情動を発生させることによって切羽詰まらせるという感情のエネルギーを高めさせるためにそうした境遇を選んで転生してきているような気がする。覚者たちは、受動的に、たまたま気の毒な境遇を選んで転生してきているわけではないのだと思う。




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無力と感謝

2009-12-17 06:05:18 | 究極というものの可能性
◎ノーリターン・ポイントから先へ

悟っていない霊能力者もダメだし、悟っていない超能力者もついには使いものにはならない。なぜならば、彼等はノーリターン・ポイントを通過していないから悪に陥る可能性が高いからである。

おまけに霊能力者は、その自らの世界でもって満足できるものだから、その語る言葉や居る世界が社会的に通用するものかどうかをほとんど気にしない。この意味で現代人が「霊能力者、超能力者」と聞けばまず眉唾と感じるのはそう当たっていないこともないと思う。

手を使わずにスプーンを曲げるのも超能力だし、自分が見た太古の神々の経緯(いきさつ)が万人に通じるビジョンかどうか疑いもせずに語るのも霊能力だし、35年住宅ローンを借りて返済しきるのも一つの超能力・霊能力みたいなものだと思う。それら個々の出来事や能力を願望実現と見ることもできるが、どちらにしてもその人の力だけで成っているものではない。その能力やその結果がどこから来たかを思えばそのことはわかる。

神はこの世のことは何一つ我が勝手な希望どおりに実現することを保証してくれているわけでもないが、一方我々は自分の意志だけで髪の毛一本白くも黒くもできるわけではない。

そうした確かなものが何ひとつない中で、日々の糧と命を与えてくれるものこそ神、仏、ニルヴァーナ、タオと気づけば、自ずと感謝はわき起こるもの。

感謝の中で、意識は神、仏に対してややオープンになる。オープンになりきった頂点の状態では神にも悪魔にもなれるとても危険な状態がある。これを過ぎないとノーリターン・ポイントにはならない。

だから感謝だけでは事は済まない。感謝だけでは日々の日常の混乱の中に後戻りするだけ。生の一瞬一瞬の貴重さを知っている者であれば、感謝から先に進まなければならない。
一日に一回ちょっとだけ神、仏にオープンになったからといってそれで事足れりとするのだろうか。ノーリターン・ポイントを超えねばならないのだ。それには冥想しかない。

人はノーリターン・ポイントを超えることを目指すほど、この世の人間的苦悩の本質を見透かしたのだろうか。100人に3人程度はそうなったのだろうか。




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