アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

断食の意義

2009-11-30 06:00:22 | 究極というものの可能性
◎人はパンのみにて生きない

世の中には、飯の美味い国と飯のまずい国があるのは知られてきた。スペイン、イタリア、フランスは美味いが、ドイツ、イギリス、アメリカはまずいなどである。

そうした中でも断食というものがある。断食そのものには聖性はないが、中国でもかすみ食う仙人は名物みたいなものであり、人間の七つのボディで食物を摂取するのは肉体だけであることから、一つの注目すべき事象ではある。

肉体エネルギーは、神経系を通して、気を呼吸するエーテル体と連動しているところがあるから、断食者の肉体とエーテル体との関係、とりわけ通常の人は食物を通じてエネルギーを肉体に摂取するが、恒常的な断食者たちは、エーテル体からエネルギーを肉体に摂取するということがあるかもしれないと思う。

よく肉体が死後でもしばらく腐敗しない聖者があるが、それはそうした技を用いているのではないかと思う。それはいわば屍解の逆みたいなもの。屍解は意図的に肉体を消滅させるが、そこでは意図的に腐敗を進行させないもの。

1950年、68歳のギリ・バラというインドの聖女は、12歳4か月以降何も食べなくなった理由を問われて「人は精神だということを示すため。神に近づくと人は食物によってではなく、神の光によって生きるようになると示すため」と答えている。

食べないだけなら、日本にも長南年恵がいる。釈迦も断食もどきをやめて成道をした。
断食よりもむしろ食べながら悟るということの方が、悟っても肉体を引きずることに似て、人間にとってノーマルな冥想修行となるように思える。





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天海と摩多羅神

2009-11-29 08:23:32 | 冥想アヴァンギャルド
◎神の戯れ=リーラ

円仁が持ち込んだ摩多羅神。この神の妥当な評価は、徳川家康のブレーンだった天海の摩多羅神の祀り方にあると考えても差し支えあるまい。

豊臣秀吉は、織田信長の比叡山焼き討ちの流れで、最盛期には500の伽藍が栄えた日光諸寺の所領を没収した結果、日光諸寺は廃れることになった。

天海は、これを次々に復興していった。
元和3年、天海は家康の遺骸を久能山から日光に改葬し、東照大権現として祀った。大権現の御霊の左に山王を配置し、右にはなぜか摩多羅神を配置した。

円仁の先達である最澄は、比叡山延暦寺の護法神として日吉山王権現を祀った。古事記に大山咋神、別名山末之大主神が比叡山(日吉、日枝)に座す土地神であるとあり、これが山王のこととされる。

摩多羅神は、外来神であるのに、ことさらに日本在来の山王と並立して祀られている。山王は、この世とあの世の秩序を旨とする神と見るのだと思う。

「玄旨重大事 口決私書」には、摩多羅神は、煩悩道、業道、九道の三道と貪欲、瞋恚(怒り)に愚痴の三毒を体現する本体である。そして摩多羅神とトリオになっている二童子は、ハイになって、狂喜乱舞する。中央の摩多羅神は、生死即涅槃を表わし、左右の童子は煩悩即菩提を表わすとする。

要するに摩多羅神は、神の戯れ=リーラの神であるというところだろう。摩多羅神なくして、この世の歓喜と苦悩のドラマは始まらないのだ。

もう一つの側面としては、これは徳川の鎖国政策をオカルティックに支えた作法だったかもしれないということ。大航海時代を経て、天海が、かつて遣唐使を取りやめたような気分で鎖国したとも思えないからである。摩多羅神の祭祀をもって外国の攻勢を抑えたというようなことはあるかもしれない。

また摩多羅神信仰が無垢なる民衆に広がれば、為政者としてはガバナンスの面で大変不都合なことか多々出来しがちなものであるから、摩多羅神信仰は、密教マスターたちの手によって面授口伝をもって秘密の伝承となっていたのは当然だった。




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ヨーグルトと明星

2009-11-28 07:48:50 | 密教
◎虚空蔵菩薩求聞持法の周辺

釈迦は6年間の苦行を捨てて、ヨーグルト(乳糜)を食べて体力を回復し、菩提樹下でメディテーションに入った。

そして、中国に伝わった最古の仏伝とされる修行本起経では、釈迦の覚醒時、『明星が出た時、釈迦は廓然として大悟し、無上の正真道を得た。』とする。

キーワードはヨーグルトと明星。ヨーグルトを食し、然る後に明星が出た途端に大悟したという二つにアクセントを置いた修行法、それが虚空蔵菩薩求聞持法のステップの中にある。

空海が虚空蔵菩薩求聞持法の典拠としたものは、善無畏訳「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」とされ、今残っている最古の求聞持法テキストは、覚禅鈔(求聞持同異説)か阿娑縛抄(第百四)(承澄作)とされる。

このテキストに、蝕とヨーグルトのことやら、虚空蔵菩薩のイメージ・トレーニング(観想)をしながら、マントラ百万遍を唱えることが書かれてある由。

またその中に毎日早朝(後夜)、明星を拝む手順があるが、朝に金星を拝めるのは一年のうち半分だけなので、蝕日を満行の日とし、また金星が朝出ている時期を修行期間に当てるという当時ではかなり高度な天文知識がないと修行期間の設定すらできなかったのではないだろうか。

空海はあらゆる経法の文義を暗記する力を得るために、高知県室戸崎で虚空蔵菩薩求聞持法を修した。すると谷響を惜しまず、明星来影した。ごうごうたる阿吽(オーム)の響きたる谷響のうちに、明星がやってきたということだろうか。(空海はヨーグルトにはこだわっていないようだ。)

中心太陽は、クリシュナムルティには星と見えたことがあり、ダンティス・ダイジでは紛れもなく太陽と見えていることから、空海がだんだんと中心太陽に接近する様子を「明星来影す」と表現している可能性がないわけではない。

いずれにしても明星とヨーグルトで、求聞持法の修行者は自分を釈迦に擬する。

明星来影について、空海はそれ以上明かにしなかったし、覚鑁(かくばん)も何が起きたかについて多くは語らなかった。




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阿弥陀仏はニルヴァーナの展開だった

2009-11-27 06:26:05 | 密教
◎覚鑁(かくばん)の見方

覚鑁(かくばん)の著書『一期大要秘密集』には「密教によれば十方の極楽は、みんなひとつの仏の浄土であって、あらゆる如来は皆この一仏の身であると。

・・・・・阿弥陀仏は大日如来の智の働きであり(智用)、大日如来は阿弥陀仏の理のボディであって、かの極楽は十方に展開している。・・・・

このように観ずる時、娑婆を起たずして、忽(たちまち)に極楽に生ず。
我が身は阿弥陀仏に入った。阿弥陀仏を替えないまま、すなわち大日如来となった。」

つまり観想法の中で、自分が阿弥陀如来となり、それか大日如来なるニルヴァーナに変じたことを実証したと語る。
「娑婆を起たずして、忽(たちまち)に極楽に生ず。」とは、自分という個別性が、娑婆てる肉体世界にありながら、微細身の極楽にもあるということを言っているということか。あるいはまた、クンダリーニ覚醒プロセスを示唆しているのか。

同じく覚鑁(かくばん)の著書『五輪九字明秘密釈』には、
「一切如来はことごとく、これ大日如来である。毘盧舎那仏と阿弥陀仏は、同じボディのものを別の名で呼んでいるだけである。また極楽と密厳浄土は名前は違うが同じ場所のことである。・・・・

五輪門を開いて自性法身を顕し、九字門を立てて受用報身を標す。既にわかった、毘盧舎那仏と阿弥陀仏の二仏は平等であると。」

ここは、大日如来なるニルヴァーナが展開して、毘盧舎那仏と阿弥陀仏になっていることを確認したというもの。

おそらくは、大日如来は無のニルヴァーナであって、毘盧舎那仏と阿弥陀仏は有のアートマンの側なのだろう。この見方に至るためには、『五輪門(5チャクラ)を開いて自性法身を顕し、九字門を立てて受用報身を標す』という冥想を行うのだろうが、その子細はわからない。




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冥想へのモチベーション

2009-11-26 06:17:13 | 究極というものの可能性
◎うつ病的な素地

冥想には、大別して2方向あり、一つはダイレクトに悟りを目指す只管打坐型であり、もう一つは段階的に悟りを目指すクンダリーニ・ヨーガ型である。

日本には、只管打坐型冥想メソッドは、禅として連綿として残る。クンダリーニ・ヨーガ型冥想メソッドは、古神道であり、密教として残る。

道教は、錬丹というクンダリーニ・ヨーガ型冥想の側面もあれば、老子のように只管打坐型冥想の頂点を指し示すものもあって、これまた日本にあってその伝統を継承している人もいる。

このように、昨今のスピリチュアル・ブームとは裏腹に、双方のメソッドについては、世間的には隆盛といえるほどではない。要するに続々と身心脱落した人間や中心太陽に突入した人間が輩出してはいないことを指して、隆盛ではないと見ている。

それでは、その真剣に取り組むためのモチベーションはどこから来るのだろうか。これは精神の成熟度、魂の煮詰まり度による。

真言密教の覚鑁(かくばん)の如きは、7、8歳の頃から現世的なものには既に関心がなく、ひたすら成仏のみに関心を持ち続け、当代のあらゆるマスターを遍歴しては、潅頂を受け、秘密の口伝を受け、ワンクール100日の虚空蔵求聞持法を9度もやって成就するまでやり続けるほどのバイタリティをもって取り組んだ。これは、生まれてきた時から、「もう生きたくない。生きる意味がわからない。」という状態の相当に煮詰まった人だからできること。

さて昨今、「もう生きたくない。生きる意味がわからない。」という状態の人が滅多に見つからないかというえば、そうでもない。軽重の程度の違いこそあれ、うつ病の人には、「もう生きたくない。生きる意味がわからない。」というところはある。おまけに、8人に一人はうつ病にかかるという高い確率である。

つまり冥想に真剣に取り組もうとするモチベーションを持つ人は、既に世の中にあふれていて、冥想手法とその効果とはいえない効果が、適切に効果的に伝達されれば、次の段階に進んでいくだろうと思う。

ところが、20世紀の日本にはあまりにも、ホンチャンの冥想から遠ざけようとする動きが多すぎた。国家神道による現人神洗脳、大本教事件、一連のオウム真理教事件などが起こった。これによって、素でもって、あらゆる先入観をさしおいて、気軽に手軽に本当に自分は何のために生きるかというアプローチをしようとする人を、世間はともすれば白眼視(シカト)するような風潮が根強いままに残されている。

それともう一つ食える、生活できるということ。もう冥想する人も冥想しない人も食うや食わずの状態になる人が沢山出るような状態になり始めてきた。だから冥想すると食べられないなんてことは、もう言えない。ただ冥想に専念すべき時期の人に、衣食住の環境が適切に与えられることを祈りたい。




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功を誇らず

2009-11-25 06:09:34 | 老子
◎老子第24章 企者不立

『爪先立ちで立っていることはできない。股を大きく広げては歩く事ができない。(人為的不自然の行われ難いこと)

自己宣伝する者は、却ってその真の価値が明らかにならない。自分で自分を正しいとすると、世間ではかえって彰かではない。自らの功を誇る者は、かえってその功を認められない。また自らの才能を自慢する者は、かえって他の長たることができないのである。

このようなことは、道においては、ちょうど食べ残しや、たん瘤のようなものである。大道は、このようなことをにくみ、道を身にたもつ者は、決してこれらのところに居らないのである。』

自らを低くするという習俗。これは、わりに日本では行われている。そういう行動の形から入った場合でも、いつか道に至ることもある。

いささか悟りかけても、自己宣伝したり、「オレは偉いんだ」とか、白隠のようにここ何百年でオレが一番などと慢心してはならないことを戒める。




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虚空蔵菩薩求聞持法もいろいろ

2009-11-24 04:28:28 | 密教
◎洗脳に無防備な状態

あの覚鑁(かくばん)ですら、虚空蔵菩薩求聞持法を9度も満行しないと、ものにならなかった。

この行法にチャレンジしていると、いろいろなことでダメになることがある。以下は、渓嵐拾葉集にある記事。

1.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、まず大海の塩水が道場の外にひたひたと満ちてきた。そのうちに潮水は、道場の中に波打って入り込んできて、行者と本尊の他にはことごとく大波が打ち寄せてきた。
驚いた行者は、行をやめてこの場を去って逃げ去った。それから程なくして、帰ってみると水もなく波もなかったそうだ云々。

2.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法に打ち込んでいる時、金星を拝見する窓の間から死人の首が突然現れてきて、だんだん巨大化して道場の中に一杯に充満するほどになった。杖を振り回して追い払おうにも振るだけのスペースがない。
しょうがないので行者はこの場を引き払って逃げ去った。

3.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、結願の時に当たって露地の儀式を執り行っていたところ、乳器の上に肉のついた馬の足が突然出現し、その臭いことは卒倒するほどだった。行者はやむなく立って、これを取って遠くに捨てたが、このために行を妨げられることになった。

4.ある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を行っている時、壇上に乾糞の雨が降ってきた。これを取り去るために仏壇を西に寄せたり、北に寄せたりしたが、とても行法の邪魔になった。

5.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行を積んで、ようやく結願の時になった。すると、金星を拝見する窓から、突然鳶が飛び込んできた。鳶は壇上でバタバタ羽を打ちつけまくり、肝心の乳(この行で用いるもの)をこぼして、行の邪魔をしてくれた。

6.またある行者が虚空蔵菩薩求聞持法の行をしていたことろ、黒犬がにわかに走り込んで、乳を食ってしまった。

意識レベルが落ちているといろいろなことがある。行者の方も、そんなのには慣れているはずだが、まましてやられる。首尾よくこれに引っかからなくて、満行成就しても何も起こらないかもしれないということもある。

テレビや映画を見るのも、それに入り込めば結構意識レベルが落ちていることがあるように思う。それに気がついていないというのは、洗脳されやすいということに自覚がないことでもあり、怖いものがある。日本人は、つい先だって素直に現人神洗脳でやられたばかりではなかったか。




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法然の往生Q&A

2009-11-23 07:44:32 | マントラ禅(冥想法7)
◎百四十五箇条問答

法然の百四十五箇条問答には、辺地往生を根本に据えた最終的にニルヴァーナに到達するメソッドとしての念仏の位置づけが明瞭に書かれてある。

その27条。
『問:
長い間、生死輪廻を離れ、迷いと苦しみの世界(三界(欲界・色界・無色界)) には生まれたくないと思って、極楽に生まれたとしても、その縁が尽きるとまたこの世に生まれるということは本当ですか。
たとえ国王ともなり、天上界にも生まれたい、ただ、この苦しみの三界から別れたいと思っているのに、どのような冥想修行をすると、また帰って来なくてすむのでしょうか。

答:
それは、みな間違いです。極楽に一度生まれれば、しばらくこの世に帰って来ることはなく、みな仏になるのです。

ただし、人を導くために、あえて帰って来ることはあります。しかしそれは、輪廻転生を繰り返す人としてではありません。迷いと苦悩の三界を離れ、極楽に往生するためには、念仏よりすぐれたものはありません。よくよく念仏をしなさい。』

極楽ライフの徳を消費し尽くせば、また別の転生をするのであって、必ず仏(ニルヴァーナ)になるとも限らないと思うが、法然は必ず極楽から仏になると請けがっている。

つまり極楽の辺地にワンクッションして、それから仏になるという観無量寿経に沿った展開で、人間の救いというものを考えていることがわかる。

ワンクッションが必要かどうかということについては、その人の適性やら冥想方法への相性による。クンダリーニ・ヨーガ型なら段階的に進むし、只管打坐型なら直截に進む。また何の冥想修行もなく、ただ座して死を待っているのでは、何も起こらないので、念仏も一つの方法である。余計な飾り気のない禅においてすら、方法も手段もないといいながら坐らせるものだ。




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法然の回心

2009-11-22 06:55:57 | マントラ禅(冥想法7)
◎念仏オンリー

法然は、43歳で回心(えしん)されたとされる。回心といえばキリスト者パウロだが、パウロと違って、はっきり書いていなので、どんなことが起こったのかわかりにくい。

それまでのオーソドックスな念仏以外の修行もやるやり方(聖道門)を捨てて、念仏オンリー(専修念仏)でいくことにしたことははっきりしている。またこの頃から念仏布教を積極的にしたこともわかっている。

法然43歳のある日、それまで何度も見ていた観無量寿経疏の一文にふと目が止まった。
『一心に弥陀の名号に専念し、行住坐臥時間を問わず、念仏をいつも念頭にかけ続けて捨てない者を、かの釈迦の願いにかなうことから、これぞ「正定之業」と名付ける』

この時、『地獄にも似た末世に生きるダメ人間(凡夫)でも、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば、かの「すべての生き物が成仏できますように」という釈迦の願いに乗じて、確実に往生できるのだ。』と確信した。これで法然は、以後念仏オンリーでいくことにした。
(法然上人行状絵図による)

これが回心。

冥想メソッド史的には、女性でも往生できる、結婚しても往生できるなど、マントラ・シッディに対する心理的な抵抗感を大幅に緩和してみせたという意義はある。しかし法然は本当に納得していたのだろうか。




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覚鑁(かくばん)の阿字観-2

2009-11-21 07:52:18 | 密教
◎ニルヴァーナへの展開

覚鑁(かくばん)の阿字観では、

「その行の時間は二時間ないしは一時間。この観を始めたらならば、行住坐臥、浄不浄にかかわらず、「アー」、「アー」と唱えなければならない。

このようにして時を惜しんで努力を積めば自ずから成就できる。疑ってはならない。
一心に乱れることなく行ずることを、本より成就するメソッドという。

というのは最初に「アー」と鳴いて生まれ出て以来、悦ばしいことがあれば、そのまま「アー」と笑い、哀しい事があれば、そのままに「アー」と嘆く。惜しい物をも「アー」と惜しみ、欲しい物をも「アーアー」と心を留める。とんでもない悪について「アー」と言わないことはない。

善悪の諸法、器界国土(山河大地などの我等の環境)、山河大地、すべて「アー」から生まれ出たものだからである。

また風が樹林を吹いて、波(浪)が真砂を打つ。鳥がカウカウと鳴き、雀がしゅうしゅうと鳴くように、何でも最初にマントラを唱えないものがあろうか。

このように不思議のマントラ(真言)だから、本(もと)自(よ)り成就していたことだったと、深く確信して(信心を致して)観ずることを本不生と申す」

それでもって初心者への注意があり、『初心者は、しつこくその理由を尋ねてはならない。ただただ一心に「アー」「アー」と唱えなさい。これは自然の道理のサマディ(三摩地)なのだから。』。


要するに何もかもが「アー」である。人間は、「アー」に喜び、「アー」に哀しみ、「アー」に死ぬという世界に生きている。これを疑うことなく一心に唱えて「アー」そのものになれば、本不生という永遠不壊になるということ。

最後の初心者への注意は、日蓮が禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊などとして他宗派へ浮気することを戒めたのと同じような趣旨だろうと思う。

すべてが『アー(阿)』のマントラ・シッディとは、マントラ・シッディを超えることを覚鑁(かくばん)は確言している。マントラ・シッディのニルヴァーナへの展開の可能性を、ここまで明瞭に述べた人はあまりいないのではないだろうか。






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覚鑁(かくばん)の阿字観-1

2009-11-20 06:13:37 | 密教
◎世界全体との呼吸

法然と違って覚鑁(かくばん)は、マントラ・シッディというものの効果に迷いはなく、阿字観によって、「諸仏も自分も同体である」ことを確認すると断言している。

阿字観の作法とは、八葉の蓮の上に月輪を書き、その中に梵字の阿字を書いて前に掛け、4尺ほど下がって半跏坐で、右足を左の膝に置く。

護身法(結界)などして、眼を閉じ口を開いて、阿に住す。
これによって、生き物も土石までも本不生の理を備えないということがなく、よってあらゆる衆生と自分と同体である。このことをあらゆる衆生が本来金剛薩タであるとする。

自分の心月輪の出息が外に出て他のものを救済し、あらゆる衆生の出息と又自分の入息が自分を救済する。また諸仏の阿字が外に出て自分の心月輪に住すのが入息となり、また自分の息が心月輪から外に出て、諸仏の心月輪に住す。

このように出入りすることは、この世の初めから今まで増減したことがない。

覚鑁(かくばん)の阿字観は、このように阿字を軸に世界全体が展開し、阿字が出息となり、入息となるところまで見ている。この呼吸は肉体の呼吸でもエーテル体の呼吸でもアストラル体の呼吸でもなく、世界全体の呼吸であり、その呼吸が世界全体と自分という個を出入りしているところまで見ている。

こうした世界始源を俯瞰できるポジションは、見ている自分が残っているかどうかは別にして、ほとんど輪廻の軛(くびき)を抜けて、解脱に近いということができるだろう。




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覚鑁(かくばん)の超能力

2009-11-19 06:24:51 | 密教
◎感情的な反発

覚鑁(かくばん)が密厳院で三昧を修しているとき、余りに室から出てこないので、弟子たちが室の戸の穴から覗くと覚鑁はおらず、代りに不動明王が炎の中に住していた。

覚鑁(かくばん)が、密厳院の庭の円池にのぞんで、月輪観を修したところ、この池に清涼円満の月輪が現れ、水面にきらめき、光明が明るく輝いてあたりは昼よりも明るくなった。

覚鑁(かくばん)が、根来で阿字観を修したら、黄金の阿字が襖に浮き出て、その阿字はその後数百年後に襖が破れるまで残っていた。

こういうのと本当の幸福とは何の関係もない。却って当時の人に悪魔的に見られて反発されたところがあったのではないか。それが高野山の人々の感情的な反発の原因の一つになったところがあるのではないか。

それは下情だけれども、数は力になるもので、高野山から根来に行かざるを得なかった所以であろう。日本では、妬み、そねみを無視できないので、優れたことはひた隠すのが作法。窮屈なことである。

覚鑁(かくばん)は、三密成仏は勿論一密成仏を説いた。また即身成仏を条件として、念仏経由の往生も、ある意味で認めていた風である。大日如来も阿弥陀如来も同じとまで言ったが、そうした度量の広さは認められず、上皇の威を傘に着る超能力者というところが、高野山の人々の気に入らなかったのだろう。

日本では、なかなかクンダリーニ・ヨーガの本質を理解してもらうのは難しいことだ。




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旧ソ連軍の急速な撤退

2009-11-18 06:24:26 | 時代のおわり
◎ミサイル戦主力の体制

冷戦の終結は、旧ソ連軍の海外駐留軍の急速な撤退につながった。

ドイツには38万人の旧ソ連軍が駐留していたが、1994年までに撤退。
東欧諸国には合計185千人が駐留していたが、東ドイツの共産党政権崩壊によってこれも1994年までに撤退。

アフガニスタン駐留のソ連軍は、1988年には116千人だったが、翌年にはほとんど撤退した。
またモンゴル駐留のソ連軍65千人は、1993年初めには撤退した。
以上ほとんどの場合で、撤退直後に政権が交代している。
(以上出典:米軍再編の政治学/ケント・E・カルダー/日本経済新聞出版社)

これを見ると、ヨーロッパを除くと中国周辺に展開していたソ連軍が一斉に引き上げたことがわかる。中国の経済成長は冷戦終結と同時にヨーイドンで走り出したという具合なのだろう。

アメリカの財政の中での軍事費負担の上限という制限はあるが、本来であればソ連軍の重しがとれたところには積極的にアメリカのプレゼンスを強める方向にいくのだろうが、決してそうはならなかったように見える。

そのもう一つの理由としては、この20年でミサイルの命中精度が劇的に向上したことによって、海外展開する駐留基地はミサイルによる攻撃に対して脆弱性を増したことが挙げられる。

このような理由から、総合的な方針として、米軍再編では、高いコストをかけても海外駐留基地を維持する必要性を認め得ないので、本当に必要最小限の海外基地しか展開しないという方向になったのだと思う。

こうして冷戦終結後、世界には、軍事的、地勢的空白地域が多数出現して、局地紛争は発生しやすい環境ができたというのも一側面である。
しかしそれよりも憂慮すべきは、これから先の時代は、明かにを含めたミサイル戦を想定した体制になっていることである。

終末の舞台はいよいよ整いつつあると表現すべきなのだろうか。




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アメリカの極東戦略

2009-11-17 06:16:37 | 時代のおわり
◎普天間移転の意味するところ

アメリカはドイツに10万人の米軍を駐留し、ついで極東にも約6万人を駐留させ、うち韓国の3万人は2012年には撤退が決まっている。残り3万人は日本に駐留しているが、それすらも沖縄の基地再編の波の中で微妙に縮小が図られつつある。

1990年代は、日中同盟こそアメリカの脅威とみなし、中国の先兵として北朝鮮の核武装の阻止がクリントン大統領の時代には大きなテーマとなったが、核武装阻止には失敗し、朝鮮半島の軍事バランスは均衡しているのかどうかよくわからないままに朝鮮半島からの米軍撤退を迎えることになる。

更に米軍再編の名のもとに日本の米軍も縮小方向となるのだから、アジアのバルカンとしての朝鮮半島についての即応力として展開していた米軍は、著しくその即応力を落とすことになるのは否めない。

米軍の台湾撤退、フィリピン撤退、韓国撤退、そして日本の駐留米軍の縮小というのが朝鮮戦争以後の大きな流れであるが、もう一つの基本方針として、日本の軍事的復活を許さず、特に日中同盟を絶対に阻止しようとするテーマが、かつてのアメリカにはあった。

こした大きな流れからすれば、この2つのテーマのうち、日本の軍事的復活を許さないという点については相対的に弱くなっているという指摘をすることはあながち間違いではないように思う。

米軍撤退後の台湾もフィリピンも自国で防衛力を強化せざるを得なかった。日本も在日米軍縮小に伴って、相応の防衛力強化を迫られるのは間違いなかろう。その結果が昭和神聖会みたいなことにならなければよいが。

これは日本から見た見方だが、全体から見ると、従来の常識であった『絶対に核戦力を使わない』という考え方が、核拡散と中国の軍事力増大の結果『相手国は核を使う可能性が少なくないので、いざとなれば核戦力を行使する。但し核防御は万全ではないので、米軍の駐留位置は後退させる』という考え方に、アメリカは劇的に変化したのではないかという疑念を禁じ得ない。




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空海と恵果のコネクション

2009-11-16 04:59:37 | 密教
◎時代を超えた友人達

あなたがどんなに開けっ広げな性格であったとしても、また相手がどんなにウマの会う人であったとしても、日本語も通じないような初対面の外国人に秘蔵のブランドもののバッグや宝石を惜しげもなくプレゼントし続けるものだろうか。

これが、唐代第一の密教のオーソリティ恵果が、空海に短期間の内に次々と秘伝を伝授していったことを知った時の大方の第一印象だろう。

空海の語るところでは、
恵果が亡くなる前夜、恵果が空海の夢に現れた。
そこで恵果は、「我等二人の宿縁の深いことにあなたは気がついたことがあるか。これまでの数知れない輪廻転生の生涯の中で、お互いに誓い合って真言の教えを広めてきた。そこで師となり弟子となったことは一回や二回ではない。

今回はあなたが遠方から来るようにして、私の深法を授けた。ここにあなたの学法は完了し、私の願いは成就した。しかしこの次は私が日本に生まれてぜひともあなたに弟子入りしたいと思う。」と。

そういた経緯があって、初対面で恵果は、「私は前からあなたが来ることを知っていて、待つこと久しかった。今日会うことができて大変嬉しい。」などと相好を崩している。

もともとそうした何千年にもわたるコネクションがなければ、豪華プレゼント攻めなどということは起こり得ない。日本が優れた国だから、気前の良い中国人が空海に法を託したなんて日本人に都合の良い理屈だけでは、このように運ばないだろう。

人と人との出会いは、節目節目ではこういったところがある。




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