アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

まだやってこない不幸は避けられるべきである

2009-10-31 07:46:42 | 究極というものの可能性
◎一歩垂直に

「まだやってこない不幸は避けられるべきである」
これはパタンジャリのヨーガ格言集の一つ。

道を求める気持ちがいささかでもある自分は、嘘を言わないようにするし、悪いことをしないようにするし、自分のメリットを極力少なくするように生きる。こうして善行を意識的に毎日積んでいるが、意識的であるがゆえに悪いカルマを解消する反作用としてその善行が効果的に働くわけではない。

なんとなれば、何が正しいことなのか何が悪いことなのかをわかっていない自分がする行動の中には、実は自分では善だと思っていて行ったことが実は悪事であったということがままあるに違いないし、また意識的であるがゆえに善事を行った瞬間に報いが起こってしまうということもある。

つまり悟りを得ていない自分が、積善ごっこを何百年続けていてもあまり顕著な効果は望めないということはあるだろう。

勿論そういう考え方が功利性に凝り固まったものだという批判はある。更に逆に、崩されても崩されても川原に小石を積むようにその一つ一つ一つの行為の積み重ねがある時花を開くだろうということもある。

そうした善事と悪事の水平的な足し算引き算のゲームはいつまでも終らないだろう。それが禅問答に出てくる因果は昧(くら)まずってことだと思う。

そうした水平的な世界を一歩上に抜け出すのが悟りである。何が善で何が悪かという人間的な立場のない立ち位置に至れば、過去も未来も一つながりの「時間」の流れにあり、現在行う善行によって過去すらも変更できるということが歴然とあるのだろうと思う。

それが一族の中で一人でも悟った人が出れば一族全体が成仏できるという表現になる(一子出家、九族生天)のだろう。出家しても全員悟るわけではないので、ここの「出家」は悟りと見た。





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小野篁の井戸

2009-10-30 06:14:56 | チャクラと七つの身体
◎行きは一つ、帰りは七つ

小野篁は、京都東山区の六道珍皇寺からあの世に出かけて行った。

そして小野篁は、京都の上嵯峨大覚寺門前にかつてあった福生寺(ふくしょうじ)の七つの井戸から帰って来た。

福生寺は清涼寺から3百メートルほど東にあったが、戦前まで竹藪だったものを戦後開墾して農地にしたところ、七つの井戸が発見され、各々の井戸の後ろにはやや大きめの地蔵があり、井戸の前にも小さな多くの地蔵が置かれてあったという。
(いまは福生寺は嵯峨清涼寺山内の薬師寺に合併してしまっている。)
(出典:京都発見/新潮社/梅原猛)

クンダリーニ・ヨーギが七つのものを置きたがるのは、世界共通のサインのようなものである。いうまでもなく、それは七つのチャクラ、七つの存在レベルのシンボルであって、ニコラ・フラメルの七つの山であり、荘子の七つの竅(あな/きょう)であり、太乙金華宗旨の七重の並木である。

小野篁は、地獄に出かけた際、亡者の苦患を助けるべく亡者に代わって火炎の苦を受ける地蔵に出会った。その働きに感じて福生寺に地蔵像を置いたのだという。

いまは現世が地獄のようになりつつある時代。超能力、霊能力がなくとも、地獄のような出来事や人に出会うことがある。そんな時に、地蔵尊にすがろうとする気持ちを嗤(わら)えはしない。地蔵尊のようにしっかりしたものを持たぬ人がほとんどなのだから。





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ゾロアスターの実力

2009-10-29 06:02:12 | 究極というものの可能性
◎自由

アフラ・マズダと言えば、アヴェスター。ゾロアスターは、アフラ・マズダの預言者である。

『一(ヤスナ第35章)

1.義者にして天則に依る裁き人アフラ・マズダーをわれらは崇める。正しく支配し給う正見者アムシャ・スプンタたちをわれらは崇める。義者の境涯を、心霊界のものでも現世界のものでも、われらは崇める・・・・・・よき天則への讃嘆をもって、マズダーをまつるよき教法への讃嘆をもって。

2.われらは、もろもろの善悪、もろもろの善語、もろもろの善行にして、ここや他のところで現になされ、また既になされたるものの称讃者であるとともに、またもろもろの善事の追求者です。

3.そこでわれらの選取したいことは、このことです、アフラ・マズダーよ美しき天則よ。
すなわち世にあるもろもろの行いのうち、両界にとって最勝のものならんものを、われらが思惟しそして言語しそして実践したい、ということです。』
(世界古典文学全集ヴェーダ・アヴェスター/筑摩書房から引用)

これは、現世界、心霊界を平気で出入可能な練達のクンダリーニ・ヨーギだけが語れる言葉である。
ドン・ファン・マトゥスのグループの戦士たちがこうしたパフォーマンス、規律の中に生きていたのだが、「両界にとって最勝のものならんものを、われらが思惟しそして言語しそして実践し」とは、そうした生き方のことなのだと思う。

このようなライフ・スタイルは、現世のくびきをものともせず、また個生命の限界を苦にもせず、「自由自在に」生きること。ここまでのレベルは現代人に要求されているレベルを遥かに越えているレベルだろうと思う。

しかしながらこのゾロアスターの見解は、クンダリーニ・ヨーギの得る意志と行動の自由の正統的な発展の最終形を示すものだろうから、ここまでさらりと言えるゾロアスターの実力が、わけのわかった覚者に正当に評価されてきたのは、理由のないことではないと思う。

覚者たちのいう人間の「自由」とは、現世界、心霊界の区分をものともしない意志と行動の自由のことなのだろうと思う。フツーの日常感覚の目から見れば、おそらく何を言っているのかわかりはしまい。

最乗寺の慧春尼は、境内に薪を積み上げて火をつけてその中で坐禅した。火定に入ったのである。兄の了庵が、「慧春、熱いか、熱いか」と問うと「冷熱は生道人の知るところにあらず」と答えたのは、これと同じ消息なのだろうと思う。

ゾロアスターやアフラ・マズダは玄人受けするが、その理由は、生はんかなスピリチュアリストが理解できるところではないのだろう。
摩多羅神への丁重な扱いもそうした延長線上にあるのではないか。




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ネストリウス派の東漸-3

2009-10-28 06:23:36 | キリスト者の秘蹟
◎アフラ・マズダ

長安に大秦景教流行中國碑が建てられてから、60年ほど後の武宗の843年から三つの夷教が禁止された。それは、ネストリウス派キリスト教と、マニ教ゾロアスター教である。ついでに仏教も禁止された。

これは会昌の破仏であるが、もともとは仏教を狙い撃ちにしたものではなく、三夷教の禁断が眼目だったのだ。
これによって各宗の寺院は破壊され、僧侶は還俗させられ、信者も改宗しない者は国外追放となった。

比叡山から留学しに来ていた円仁は、唐国内の新羅人のネットワークの援助を受けながらほうほうの体で日本に帰国する。この円仁が摩多羅神を背負ってきたとされる。円仁も有力なクンダリーニ・ヨーギの一人。

ディオニュソス信仰といえば、西欧の歴史ではキリスト教の背後で生き延びてきたものだから、ネストリウス派とディオニュソス信仰がペアで長安に入って来た可能性は否定しない。

しかしながら、ディオニュソス信仰は唐では認知されていなかったのだから、そもそも会昌の破仏をきっかけに、円仁の帰国と一緒にディニュソス神がネストリウス派キリスト教と一緒に入って来たと推理するのはやや苦しいように思う。

むしろ一神教ゾロアスター教の神アフラ・マズダが入って来た可能性の方があるのではないかと思う。根拠としては、マズダの音が転じて摩多羅になったくらいのものではあるけれど。逆にディオニュソスが摩多羅の音を当てられることはないだろう。

これだけ頼朝、家康など歴史上の有力者によって、輸入外国神である摩多羅神が丁重に祀られるということは、その時代に開祖ゾロアスターの実力とアフラ・マズダの正当性を認めた覚者が、為政者に勧めて祭祀せしめたという次第なのではないだろうか。

これに改めてクンダリーニ・ヨーガの無国境性(ボーダーレス)と超時代性を感じる。




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次の一手

2009-10-27 06:08:08 | 究極というものの可能性
◎モチベーション

このブログでは、悟りの意義、究極に至るメソッドとしての冥想のバリエーションを紹介できた。

次の一手は、極めて難しい。なぜならば、20世紀のどの覚者も種は蒔いたかもしれないが、その花も咲かせたとは言えないし、果実も収穫できたともいえないところがあるからだ。

誰が考えたとしても、次の一手とは、冥想の必要性を認知させて、日常生活の中に広く冥想をするカルチャーができるようになることである。そうすれば、その生活習慣の中で続々と悟り体験を持つ者が増えていく。

冥想に向かおうとするモチベーションが出来あがるためには、どうしても冥想が生活の中になくてはならないものである、という思いが高まらなければならない。

そして、あらゆる刹那的な快適さを提供してくるマスコミの洗脳情報の嵐の中をかいくぐって、平時のうちにその思いを生きることができるかがクリティカル・ポイントとなるが、そうした冥想に向かう思いは決して一般的なものとは言えない。

冥想に向かおうとするモチベーションを高めるために古人はいろいろなことをやった。たとえば未来の人類滅亡預言。そうした様を幻視した者もいる。

しかしどうみても覚者のほとんどは、生まれ落ちてすぐ両親が早世するなど、何が人間にとって幸福なのかを突き詰めさせられるような環境に出てきている。

自分にとっての幸福感というのが相当な程度煮詰まっている内的緊張感、日常生活で見ている虚無感、何のために生きているのかわからないという感じ、こうしたものが冥想から窮極に向かわせる原動力だろうことはわかる。

そういう内心の共通認識をどの程度あぶりだすことができるか、それが次の一手の核心だと思う。


蛇足だけど、
スピリチュアル・ブログは多数あるけれど、悪玉除霊師や霊障の悪影響を強調してネガティブ・キャンペーンを張るブログや、霊や死後の世界があるということを強調するだけのブログなどが比較的人気が高いが、人間にとっての本当の幸福は何かについてのある程度の達見が先にあってそうした活動をしているとは思えないところがある。

つまり生活が安定して、自分の金が増えることのみが幸福であるという、本来の求道、精神性とは別のところにある「感覚における快適さ」を幸福として疑うことのないところから出てきている「スピリチュアル・ブログ」が多いように思う。

これでは何の解決にもならないのではないだろうか。




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ネストリウス派の東漸-2

2009-10-26 06:09:18 | キリスト者の秘蹟
◎大秦景教流行中國碑

紀元64年の明帝が夢知らせによって、西方の国に特使を派遣し,その国土に生まれ給いし偉大な予言者をお迎えして帰れと命じた。

果たして特使たちは帰路二人の伝道僧に会い、これを伴って帰って来た。この二人はそのまま宮廷に留まって明帝に仕え、その6年後に亡くなったという。

真偽は定かでないが、こうした内容の伝説が中国に残っている。これがキリスト教が中国に入った最も早い記録であろう。

これ以外で最も早い記録は、1625年、西安郊外で見つかった大秦景教流行中國碑である。

この碑文は、635年唐の太宗の時代に阿羅本という人物が聖書を携えて、シルクロードを経て、長安に到着した次第を述べる。そして勅許を得て長安に景教の寺を建立した記念に建中2年(781年)に、大秦景教流行中國碑が造られたというもの。

そして、その60年後には、会昌の破仏に会い、碑自体が行方不明になってしまう。

それにしても阿羅本が来てから約150年布教期間があり、ある程度布教に成功していたのだろうから、この間宣教師が日本を目指さないということはなかったのではないか。




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ネストリウス派の東漸-1

2009-10-25 10:51:32 | キリスト者の秘蹟
◎摩多羅神とペルシア

摩多羅神の由来を調べるには、フランシスコ・ザビエル以前のキリスト教の日本到来を調べなければならない。

南回りの海路で日本に入ってきたということも考えられるが、およそ東アジアにキリスト教を広汎に布教しようとするのであれば、まず中国に拠点を築こうとし、然る後にその辺縁である朝鮮、日本に布教しようと考えるのが穏当な推理だろう。

そこで、中国へのキリスト教の侵入を調査することが必要となる。そして中国へのキリスト教東漸の根拠地は、まずペルシアであった。

紀元250年ローマ帝国のデキウス帝によるキリスト教の迫害や同じく303年から305年のディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害によって、キリスト教徒はローマ帝国領内から、彼等にとっての平穏の地であるペルシア領内に続々と流れ込んできていた。

ペルシアはもともとゾロアスター教の盛んな土地柄であった。紀元225年にササン朝ペルシアの初代アルダシア王が、パルティアの最後の王国であるアルタバン(現イラン)を撃破したとき、そこには既に熱心なキリスト教徒の社会が存在していたことを認め、キリスト教の共存を認めた。

ペルシアでの布教の中心地は、メソポタミアのアンティオキアに近いエデサ。エデサは、アレクサンダー大王治世には、シリアに属していたが、以後三世紀ほどはローマとパルティアの2強国の間の緩衝国として存在していた。紀元216年エデッサはローマの領地となり、以後3、4百年はローマ帝国領内であった。

ペルシア領内には無数のキリスト教修道院があり、そこで識字を初めとする初等教育が行われ、ペルシア国外のエデサだけが高等教育機関として存在していた。

ペルシアでは、勢力を増すネストリウス派キリスト教徒に対して、在来のゾロアスター教徒の嫉妬やこれを利せんとするユダヤ教徒の煽動により、キリスト教徒への迫害が連続して起こった。それはサボール2世の339年~379年の迫害、バーラム五世の420年の迫害、エズデゼルド2世の438年の迫害となって連続した。

こうしたペルシア国内での迫害の連続もネストリウス派キリスト教の東漸のモチベーションとなったと思われる。




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摩多羅神

2009-10-24 09:16:22 | 究極というものの可能性
◎外国産のディオニュソス

円仁が唐から帰国する時に、自ら摩多羅神にして障碍神と名乗って、自分を崇敬しなければ、往生させないとすごんだ。そこで円仁は比叡山延暦寺の常行三昧堂に勧請して祀ったという。(渓嵐拾葉集)

円仁は中国五台山の引声念仏を日本に輸入して、 比叡山延暦寺の常行三昧堂を建立して、常行三昧を初修した。これにより、以後浄土経典と念仏の護持神として、それを害するものを破折するとされ、阿弥陀信仰においてはしばしば本尊として勧請され、念仏会が催される時には後戸で修行者を護持するとされた。

天台宗檀那流の口伝潅頂の一種に玄旨帰命壇(スタートは10世紀の覚運)というのがあり、この潅頂が摩多羅神を本尊とするもの。右脇侍が儞子多(ニシタ)童子で、はやし歌は、「ソ・ロソニソ・ロソ」とソソを思わせるもの 。左脇侍は丁礼多(テイレイタ)童子で、はやし歌は、「シツシリシニシツシリシ」と尻を思わせるもので、いずれも隠微な響きがある。

茨城県真壁郡大和村の楽法寺の摩多羅鬼神祭りは厄除け行事として知られ、藤原鎌足の多武峰の談山神社にある大きな翁面は摩多羅神、源頼朝は日光に摩多羅神を祀り、岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)には『常行堂二十日夜祭(摩多羅神祭)』がある。また京都真如堂には、摩多羅神像あり。また徳川家康も、これを日光東照宮や東叡山などに祀った。

このように歴史上のビッグ・ネームが、ことごとく摩多羅神への信仰をおろそかにしていないのは特筆に値する。摩多羅神は、ディオニュソスに相当するが、日本神話上のディオニュソスに該当するのはアメノウズメノミコトだろうが、なぜ摩多羅神は輸入神の体裁をとって現れてきたのだろうか。

日本は歴史の節目節目で、ある時は中国の属国、ある時はアメリカの属国というように外国が日本の政治を牛耳った時期があるように思うが、それを見て(予知して)、摩多羅神という外国産の世俗を司る神を為政者はおろそかには扱わないという作法ではないだろうか。




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三室戸寺の秘仏

2009-10-23 06:39:20 | キリスト者の秘蹟
◎救世観音に酷似

宇治市の三室戸寺には、法隆寺救世観音にそっくりの秘仏が本尊としておはします。
それがなんと今84年ぶりのご開帳だとのこと。

大正14年にご開帳があったというが、本尊の御前立は、細身の身体に、胸から裳にかけてくっきりと十字架が描かれている。その上に両手の組み具合は、手印ではなく、嬰児を抱く形に組まれている。光背がなければカトリックのものと見まがうほどのものである。

単なる隠れ切支丹の仏像ならば、姿形がここまで救世観音に似ることはないだろう。救世観音にそっくりな仏像がなく、また救世観音は長い間秘仏とされていたので、秘仏とされる前に秘かに見た人間でキリスト教関係者が、これを故意に制作したものだろうか。

このキリスト教風の御前立は、江戸時代の文政元年に光格天皇の弟の盈仁親王によって作られた。仏師は京都の横井師。

御本尊は、この御前立にそっくりであるとされる。

三室戸寺は、8世紀光仁天皇の御代に創建。寺伝によれば、その頃から二臂の観音が本尊であった由であるが。法隆寺より時代は下がるが、そのキリスト教の伝統を秘かに伝えていたものなのだろう。それにしても盈仁親王はどういうつもりで御前立を制作されたのだろうか。




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本物は向こうから来る

2009-10-22 06:19:47 | 只管打坐
◎本当の納得

本物は向こうから来るとは、クンダリーニ・ヨーガで連続的な観想法・イメージトレーニングにチャレンジしている時に現れるビジョンで、本物のビジョンとにせものビジョンがあるが、それを識別する時にいう言葉。

禅語録ではややニュアンスは違うが、基本は同じことのように見える。自分でない教祖や他人であるハイアーセルフや高級霊などに求めることを戒める。

唐代の禅者雲巌が云うに
「門から入ってきたものは宝ではない。たとえ人を説得して、心のない石ころをうなずかせても、やはり自分のこととは何の関係もない。」

ある僧が洞山に尋ねた。
「昔の人が云っています。「ただ心で納得せよ。何事かについて求めてはならない。」と。これはどういうことですか。」
洞山「門から入ってきたものは宝ではない」

僧「門から入らないものはどうでしょうか」
洞山「それをわがものとする者はいない」




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貧困の進行

2009-10-21 06:48:45 | 時代のおわり
◎悪事を平気で

厚生労働省は、2009年10月20日、国民の貧困層の割合を示す指標である「相対的貧困率」が、06年時点で15.7%だったと発表した。これは世界のワーストクラスであり、同じ貧困大国アメリカ並の膨大な貧困層が存在していることを示す。

短期的には小泉改革の結果貧困層が拡大したのだが、長期的には1990年代以降国家の産業振興策が効果的に機能しなかった結果であって、一朝一夕でこうした結果になったわけではない。

アメリカみたいに富裕層寄りの政策が採られることで良しとする国の姿を目標としているのか、それともかつてのような一億総中流の夢を追うのかはわからないが、給食費を払わない親の激増や経済的理由で高校を中退する制度の増加や百貨店の売り上げの伸び悩みや政府の税収大幅減などあらゆる経済的な事象が、国民そのものの貧困化の進行を示している。
あのイザナギ越えなどと言われた最近何年も続いた経済成長は実態があったのだろうか。 

幸いまだ街には餓死者があふれということにはなっていないが、広い意味で相対的に金持ちの老人が相対的に貧しい若い世代に金を融通してやるようなことを考えていかないと、国民が少ない金を分け合って仲良く社会秩序を失わないで生活できるようなことにはならないのではないか。

要するに相対的に豊かな老人がその年金水準を維持するために貧しい少人数の若者から収奪することが更に貧困を進行させているし、また年金受給世代の老人でも月額5万円の人が相当数いて、老人の中でも貧困化は進んでいる。

核家族化、個人生活の分断化が進んだ今、日本で「自分のものを与えることで全体が幸せになろう」などという発想は全くマイナーである。このまま黙って進めば、辻々に強盗の跋扈するとても住みにくい社会に更になっていくのではないだろうか。

悪事をすることに抵抗のない輩が増えても、自分がまともに生きるためにはまず日々の冥想しかあるまい。仮に悪事をするのが普通になって、自分も一緒に悪事を行うのが当たり前という感覚の人間が1/3を超えたら、日本は長くないだろう。そんな時に社会や政治が悪いと嘆く前に自分の生き方を直すしかできない。もはや半ばそうなりかけているのかもしれないが。




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池坊専應口伝

2009-10-20 06:25:23 | 冥想アヴァンギャルド
◎仙家の妙術

京都の六角堂は、聖徳太子の建立になるもの。隣に池坊がある。池坊保子さんはなぜか公明党から議員に出ている。

聖徳太子を支える外交面での有力者に小野妹子があった。この聖徳太子と小野妹子が六角堂頂法寺の地に至り、この地で湯浴みをして、六角堂建立を決めたという。

時代が下がって室町時代、小野妹子11代目の子孫池坊専慶が出て立花を始めたとする。

華道は、四条道場、金蓮寺を本拠地とする時宗の阿弥号を持つ遁世者(とんぜもの。故あって俗界の縁を断ち切り寺院で暮らす者)によって始められたもの。

小野妹子27代目の子孫池坊専應の池坊専應口伝では、およそ仏も初部の華厳から、一実の法花まで花に縁があり、また冬にも姿を変えない松や檜腹は、真如不変をシンボライズしているなどという表現がある。華道というのはもともと仏教において、向こう側からくるビジョンの中に花がふんだんに登場するのであるが、その花をもって一芸として立てる理屈づけがこの池坊専應口伝に見える。

注目したいのは、四条道場、金蓮寺に集まっていた時宗の阿弥号を持つ遁世者たちが、連歌や立花や作庭をなりわいとする当時のアヴァンギャルドな文化人集団だったのではないかと思えることである。

室町将軍のお側にあった絵師で同朋衆の三阿弥や、の世阿弥、作庭の善阿弥、立花の立阿弥などみんな阿弥号を持つ遁世者であった。よって池坊がもとは阿弥号を持つ時宗の遁世者であっても不思議はないだろう。

こうした新しいカルチャーはこうした環境の中から出てくるものだろうから、宗派の違いを意識しない『悟り』体験を持つ新たな人々が集うことで、次の新世代のカルチャーの香気が漂い始めるのではないだろうか。

池坊専應は立花を作庭を仙家の妙術と呼ぶが、そうしたカルチャーが次の霊的文明の呼び水となれば、これぞ仙家の妙術である。




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馬祖の三昧の華

2009-10-19 04:20:42 | 只管打坐
◎無相三昧

唐代の禅僧馬祖が南岳懐譲老師に質問した。
「どのような工夫をすれば無相三昧に合致するでしょうか。」
南岳は、
「あなたが心地法門を学ぶのは種をまくようなものだ。私が要点を教えてあげるのは天の恩沢のようなものだ。あなたの機縁はかなっているので、きっとその道を見るだろう」

馬祖が南岳懐譲老師に質問した。
「道は姿形ではないからには、どうやってそれを見てとることができましょう。」
南岳は「あなたが心の法眼が道を見ることができる。無相三昧も同様に見ることができる。」

馬祖が問うた。「成ったり壊れたりということはありますか。」
南岳は、「そういう変化の考え方で道を見れば、それは道をみることではない。私の偈を聞きなさい。」

「心はあらゆる種を含んでおり、恩沢にあってすべて芽を吹く
三昧の華は無相である。どうして壊れたり成ったりしようか。」

無相三昧とは、密教の言葉だと思っていたが、『智度論』巻20『大乗義章』巻二に、三種の三昧が説かれており、空三昧、無相三昧、無願三昧の三種の一だそうだ(馬祖の語録/入矢義高/禅文化研究所にあり)。

龍樹が大衆の前で満月相を現じたことを無相三昧ともしているので、定と三昧の区別はせず、また無相三昧と有相三昧の区別もしていない。

禅は悟りの段階を設けるものではないから、この問答での無相三昧は、悟りの境地と解して問題はないと思う。




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玉城康四郎と如来

2009-10-18 07:49:17 | 冥想アヴァンギャルド
◎禅定の度毎にダンマが顕現

玉城康四郎は縁がなく、これまでは、ほとんど読んだことがなかった。

彼は、結跏趺坐で坐っており、十代の頃から無数の小悟、そしておそらくは何回かの大悟を経てきており、曹洞宗の安谷白雲老師から見性を認められている。

それでもなお、いわばニルヴァーナに常住しようと思っているのか、毎日坐るのは勿論のこと、しばしば3日程度の冥想のみに打ち込む日を設けて坐っていらっしゃる真正の求道者である。彼の表現では、「禅定の度毎にダンマ(如来)の顕現を求める」という坐り方である。

おもしろいことに、安谷白雲老師から見性を認められた後に、再見性の重要性を感じて、公案を解くことと見性が異なっていることに気づき公案に取り組むことをやめた。
そこで釈迦の悟りがどういうものかと研鑽を重ねている方である。

彼によると、釈迦は三カ月間すべての弟子等を遠ざけて、入出息念定(ヴィパッサナー、安般守意)に入定した時期がある。残念ながら釈迦が、この三カ月間にどの時期に如来住に入ったかはわからないとしている。

彼自身も、三週間の入出息念定にチャレンジした。その結果最終解脱はなかったようだが、身体がそれ以前より禅定に傾斜していることを知ったと述べるにとどまった。
釈迦は、その3カ月でどう解脱したのだろうか。




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この世との折り合い

2009-10-17 08:14:53 | 只管打坐
◎悟りのビフォー・アフター

どんな高僧、善知識であっても、この世で生きていくからには、飯を食うために托鉢したり、御布施をもらったり、働いたり、炊事したり、衣服を洗濯したりしなければならない。つまり、世俗とどこかで折り合いをつけなければならない一点があるものだ。

それは自分が何のために生きるかという意味を求める現代人のほとんどが、内心ではなぜ食うために働く必要があるのかと日々疑問に思っているのと同根である。

イエスが明日のことを思いわずらうなと言ったのは、明日の食べ物の心配をするなと言ったのであるが、今日神に出会ってその感動に震えた者でも、明日になれば食べ物を探すことになるのだ。

禅では、世俗との折り合いにおいて、最も世俗を否定した側に位置する考え方の人物が二人いる。要するに、たとえたちまち飢え死にしても仏そのものを生きるべきだと考えた人たちである。

一人は臨済の友人である普化であり、もう一人は、唐代の疎山である。

普化は、いわば帝国ホテルのレストランのディナーに招かれて、話題が道のことに及ぶやいなや料理の並ぶテーブルを蹴り倒して出て行ったような猛者である。

疎山は、諸々の聖者のあとを慕わない、自己の神聖性も重んじないと言い放った。そう言ったからにはいつでものたれ死にする覚悟で日々を生きている。

悟った後にどう生きるかとは、世俗の折り合いをどこでつけるかという問題でもある。悟った人の生き方は、実際にビフォー悟りとアフター悟りでどう違うのか。そこをもある程度具体的に出していかないと、具体性と論理性とデータ重視の現代人を説得することは難しいのだと思う。

悟った人たち同士でも大きく見解が分かれるが、それは個性の違いに由来するので、それはそれでよいのだと思うが。




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