アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

小周天の進行-1

2009-05-31 08:03:23 | 道教
◎煉己

柳華陽によると、
元精を煉るには、まず自分を煉らねばならない。昔呂洞賓は、まず自分を磨かなければならないとした。まずは己を煉って虚に帰さなければ、気を回すべきタイミングを失したり。小周天を停止すべき時期を見誤ったりするもの。

この金丹之道は、最後は一に帰するものだが、意識(神)と気の連動が必要なものだから、それをコントロールできるだけの冥想の深まり(虚)が必要である。

古人の語る己の煉り方は、一心を了徹し、無為の化境に入ることをターゲットとする。
それに至る姿勢、態度は寂淡、直捷、純一不二と、つまり無為への意志は純粋無雑ながら淡々としている。

また静をもって渾、虚をもって霊(生き生きしていること)であって、常に飄々としている。また暮らしぶりや身なりには気を使わず(形体には拘わらず)、精神はこだわりなく活発である(虚霊は有ならず無ならず)。基本は、寂にあって醒め、醒にあって寂である。つまり無為(ニルヴァーナ)を意識しながら、感性は活発にある様子を言っているように思う。

更に柳華陽の説明には、欲を断じ、愛を離れ、邪見を起こさず、大魔に逢っても乱れないとあるので、いわゆる見性レベルではなく、それ以上のレベルを求められていることになる。

つまり、ちらりとでも悪心が兆したり、悪事ができるようでは、丹は成らないのだと説明する。




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小周天のテクニカル・ターム-4

2009-05-30 07:05:19 | 道教
◎元精とは

更に元精とは何か。

精は、もともとは形のないものであるが、静の中に動が起こることをもって元精とする。

易経で言う無極とは、何も動いたり変化したりするものがない状態のことで、渾然空寂であり、見れども見えず、聞くにも聞こえない。この時は精でもなく、物でもない。
この時はまた万物が根に帰っている状態である。
易経には無極という言葉はないようなので、後世の太極図説で太極は無極のことだと主張して関係づけているので、それを意識しているのだろう。、 

この静の極致に、たまたま融会の妙意ありとは、静の極致である無極と一体となることがることを言っているのだろう。この静の極致を「道(タオ)」と名付け、柳華陽はこれが易経繋辞上伝にある大極であるとする。
※易経にあるのは、大極ではなく、太極。太極から陰陽が二つ分かれ、それはまた老陰、老陽、少陰、少陽の四象に分かれ、更に八卦が生成され、万物が起こる。

この機に、萌(きざ)すものが一つあって、これが元気(炁)である この元気が更に旋動するのを元精という。元精とは旋回運動するものなのだろう。

元精が、欲情の結果による射精となれば、修行は成らない。正念によって精神でこの元精をコントロールし、呼吸により煉れば、仙を修し仏になれる。




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小周天のテクニカル・ターム-3

2009-05-29 06:03:29 | 道教
◎精、元精

柳華陽曰く仙道は元精を煉って丹を為すなり。

元精とは何か。精の元である。精液を物質レベルとすれば、更に精妙なレベルの精がある。それが元精。どのレベルかという議論はあるが、肉体レベルと直に連動するのであれば、エーテル体レベルと見るのが適当ではないかと思う。

精は、射精でもって漏出することを「精すでに敗れる者」として、ダメ出ししている。一度も射精していない者を童真、「未だ敗れざる者」として珍重し、修行の進みが早いと評価する。

ここは一回でも精液を漏出したことがあるか否かにポイントがあるのではなく、精力強壮であって漏出しない状態を未だ敗れざる者と見ているのではないかと思う。童真以外がダメと決めつけるならば、ほとんどの人は可能性を持たないことになる。

また精力横溢していない中高年向けに精力充実を図る補精築基という方法があることも、それを裏付けているように思う。

未だ敗れざる者こそが、修行もしやすいし、効果も出やすいものである。

精を自然のままに任せれば、せいぜい子供ができるくらいで人の道としては十分だが、意識でもって精をコントロールすれば仙道が成る・・・・よって精とは死に入り生に入るゲートであるというのが柳華陽の精の説明である。

死を先に意識しているところが、クンダリーニ・ヨーガ的ではある。






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小周天のテクニカル・ターム-2

2009-05-28 06:00:15 | 道教
◎薬作り-2
 
1.ふいごの消息とは、呼吸のこと。
2.昇降の法度とは、頭頂より丹田を任脈、監脈経由で循環する度数のルール。
3.沐浴とは、循環時に呼吸を停止するこつ。

4.帰根とは丹田に戻ること。
5.採薬の時は、意識(神・元神)は暢明で、勇猛な意志でなくてはいけない。

6.天心の主宰を立定し、輻輳の運転を徘徊する。
  天心の主宰を立定しとは、これらの技術全体のコントロールが成るためには、自分が最低限天(神・仏)を見るだけでよいのか、それ以上求められているのかは不明だが、いずれにしても自分の中に天心に相応するものを確立すること。

  輻輳の運転を徘徊するとは、周天のコントロールを行うこと。

7.そして内に呼吸、外に周天の循環。なぜ呼吸と周天が別々に起こり、内と外に分離す  るのか判然としないが、それがトータル・コトロールなのだろう。

8.ここで、神(意識)と気が相依って行き、相依って停まる(住む)。これで周天は成る。

ここでは、呼吸と意識のコントロールに力点があるのは間違いないが、天心の主宰を立定するのが前提条件となっているので、悪を行わない善を行うという日常生活は勿論のこと、天を感得した生き方を既に確立していることが、周天を開始する最低条件になっていることがチェックポイントである。やみくもに欲得や、現実逃避的な動機からは成らないのである。 




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日本核武装論

2009-05-27 05:59:44 | 時代のおわり
◎軍備強化の末路

産経新聞などを見ると、6か国協議の参加国の中で、日本と韓国だけが核を持っていないので、日本も核武装しなければならないとか、北朝鮮のミサイル基地攻撃も選択肢として検討するなど、北朝鮮の地下核実験をきっかけに、これまで半ばタブーとされてきた議論が公然と表舞台で論じられるようになり始めた。

日本の国防が強化されるのは、それは結構なことだと思うが、単にそれは国際舞台で日本のプレゼンスを上げるだけではない大きな副作用があることを忘れてはなるまい。

それは、出口王仁三郎の型出しである。要するに日本が海外派兵を含む本格的な軍備強化に奔ったことをきっかけに日本は諸外国から攻撃されるという予言が置かれていることである。

昭和初期、出口王仁三郎は、昭和神聖会という似非軍事団体の活動を活発化させ、それが第二次大本事件に至った原因の一つともなった。出口王仁三郎は、これによって7年もの長きにわたり獄中生活をするはめになった。

出口王仁三郎昭和17年8月の出獄後に行った予言は、戦時中だったこともあって、第二次世界大戦のことを言っているものもあるが、中には明かに次の立替立直しのこと言っているのが混じっている。そんな予言のひとつ、

『日本がインドに手をつけたら世界同腹になる』(新月の光/木庭次守編/八幡書店)

インドに手をつけるとは、オランダ領インドネシアへの侵攻を言っているのではなく、インドへの侵攻を言っているのだと思う。前回はインパール作戦の失敗で結局インドに手を付けることはなかった。将来インドに手をつけることをきっかけに世界各国が日本を一斉に攻めたてることを言っているのである。




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小周天のテクニカル・ターム

2009-05-26 06:05:48 | 道教
◎薬作り

柳華陽の金仙証論の解説(錬丹修養法/たにぐち書店)において、伊藤光遠氏がテクニカル・タームの解説をしてくれている。この手の書物は、何をしようとしているかとテクニカル・タームがわからなければ、雲を掴むようなことになってしまうものだ。金仙証論では小周天のやり方が詳しい。

1.錬丹の基本は呼吸と意識。
2.丹とは意識(神)と気の合体したもの。
3.炉鼎とは、精や気(元気)を練る部位である丹田のこと。
4.道路とは、任脈・督脈のこと。
5.意識(神・元神)のことを汞とも言う。
6.気のことを鉛とも言う。
7.気は精を煉ることでできる。
8.意識(神・元神)は肉体(形)の内にある。
9.火とは意識(神・元神)のこと。火を用いるには風を使う。
10.風とは呼吸のこと。
11.竅とは、チャクラのことだが、気穴とも言う。精神が誠に存れば、精が気穴に自然に入る。そうすれば、薬も自然に生ずる。(薬は周天でまわすもののこと)
12.薬ができて後、呼吸でもって丹田に返すという周天に入らなければ、折角できた薬の意味はなくなる。

ここまでが、薬のできるまで。

徐福は童子多数を連れて、蓬莱に丹を求めたというが、蓬莱に見つかったのだろうか。




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小周天の始まり

2009-05-25 06:03:28 | 道教

◎採薬

柳華陽の金仙証論の第八章では、気の回し方の大要を述べている。

曰く、性を虚静にすること。これによって、いささかの塵念が発生しなければ、気が動き出すものである。

老いては気が集中しないので昇らない、若くては気がかすかなので昇らない。この周天で巡る気をキャッチすることを採薬と呼ぶが、初めて採薬する時は(性を虚静にして)、ちょうどよいタイミングを待たねばならない(時至り神知る)。
 
気たる薬が外に出ようとする時がそのチャンスである。またそのタイミングを失して何日も過ぎるのは虚耗とされ失敗。逆に元気旺盛で周天できるタイミングで周天しないのは、精が満ちてあふれるので、これも失敗。

この例から一度も射精していない童真は、小周天しないで、いきなり大周天させる。小周天をやるやらないにポイントがあるのではなく、採薬できるタイミングを掴んで周天を運行し、動いては、静かに、また動いて回す。このように勤行を怠らなければ、道の達成は難しいことではない。

だから丹田より直ちに泥丸(サハスラーラ・チャクラ)の頂に到る。気を回す河車は既に百回という。百回も小周天を回せば、大周天のスタートである大薬が採取できるようになるということだろう。




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ピンと来ない未来-2

2009-05-24 07:13:27 | 時代のおわり
◎モンローな霊界

ロバート・モンロー魂の体外旅行(日本教文社)のP344~362を読み返してみた。モンローがアストラル・トリップで西暦3000+アルファ年とおぼしき未来の世界を体験してみる部分である。

モンローは地球上空から降下し、日本から中国、中東、アメリカと地球をまたたくまに周回し、ヴァージニアに降り立つ。そのトリップで、肉体人間もほとんど見当たらない、建物も船舶、車両も自転車も見当たらない世界を発見する。

同行しているパイロットの説明の中心は、人間体験を卒業した後の個生命の行く先、運命のことにあるようだ。これがしばしば「鳥」と表現される個性命のこの先の発達ルートなのだろうと思う。それはそれで伝統的な考え方ではあると思う。

パイロットは、人間はいるが数は少ないけど、何かの出来事でそうなったのではないなどとはぐらかしているが、ここに生息している人間は、肉体を樫の木の下のシールドの中に保管して生きているそうだから、現代の基準からすれば、とても普通の人間ではない。

呪術師というか超能力を自在に駆使できる練達のクンダリーニ・ヨーギしかできないようなことを、この未来の人たちはやってのけているのだ。

またパイロットは、超能力でもって、土をとうもろこしに変成させて食べてみたりしてみせているが、意図したものを物質化するのだから、超能力の仕業とみるか、霊界の未来を見ているのだから霊界では意念が実現するのは当たり前の世界だから、そんなことができるのは当然とみるかは議論の分かれるところだろう。

このようにディテールについてはいろいろあるけれど、この未来像の注目点としては、都市や機械や交通手段など現代の物質文明がほとんど残っていないことと、人間の肉体の有り様が全く変わってしまっていることで、いわば、肺呼吸がえら呼吸になってしまうぐらいの違いがあるのではないかということである。

そしてどのように人間は少なくなったのか・・・・世界的に平和な少子高齢化の時代が千年続いてそうなったのか、核戦争や天変地異でダメな人間はことごとく死滅し、エリートだけがふるいにかけられた結果残ったのか、逆に生命力が強い人たちだけが残ったのか・・・そのことについては、モンローは明かにしてはいない。

モンローの見に行った未来霊界が最も実現可能性の高いものかどうかは別の問題だが、人間の変成の原因と過程、そして文明社会がなくなってしまう経緯がわからないと、その見た未来がウェルカムな未来なのかどうかはわからないと思う。我等にとってはそこが問題になる。




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離魂

2009-05-23 06:51:57 | 究極というものの可能性
◎死期と分身 

その肉体を離れて魂が漂泊することを離魂という。

北勇治という人が外出から帰ってきて、居間の戸を開けると机におしかかっている人がいた。誰だろうと思ってみると、ヘア・スタイルから衣類まで自分がいつもセットしたり着ているものと同じである。顔を見ようと歩いていくとその人は向こうを向いたまま障子の細く開いたところから縁先に出てしまって、後を追ったが、姿はみえなくなっていた。

それから勇治は病気になり、その年のうちに亡くなった。母やその家の家来は、勇治の父もその祖父もそのような病気で亡くなったことを知っていたが、敢えて勇治本人には教えないままにしていた。(参考:栗原清一/日本古文献の精神病理学的考察)

このように自分自身の姿を見ると死ぬという言い伝えは日本とドイツにあるという。
                

さて似たような話で、唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっている。

猜娘は王宙と相思相愛の恋中になるが、猜娘の両親はそれとは気がつかず、猜娘はやがて、両親の言いつけのままに他の男性と婚約させる。王宙はこのことを不本意として、都に上る旅に出る。

その日の暮れつ時、思いもかけず猜娘が裸足のまま後を追ってきて、二人はその足で、蜀に逃避行を敢行する。蜀で5年暮らすうちに、子供も二人生まれたが、猜娘が父母を恋しがるので、故郷へ帰ることにした。

猜娘の実家の近くで猜娘を待たせ、王宙が猜娘の実家に挨拶をすると、、母親は、「娘は病気で5~6年寝たきりなのに、でたらめなことをいう」と言って怒る。

両親がそれを確かめに猜娘に使いを出すと、間違いないことがわかった。寝たきりだったもう一人の猜娘はこれを知ると起きて着替えて迎えに出て行った。すると不思議や二人の猜娘は一つに合体し、着物までぴたりと一致した。


北勇治の話と猜娘の話は、全く別のスキームの話であると思う。

死期が近づき、人生の最終ステージになると、次のステージののぞき窓がへその下にちょっと開く。これでもって、何かの拍子にちょこっとアストラル・トリップしているのを肉体の側から見た。これが北勇治の話ではないだろうか。

猜娘の話は、フィリス・アトウォーターの8分身のことを知っていれば、練達のクンダリーニ・ヨーギであればできることだとわかるだろう。猜娘の思いの純粋さがこうした人間離れした出来事を起こしたのだと思う。




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徳山の棒

2009-05-22 05:55:46 | 丹田禅(冥想法8)
◎棒のたたき加減

徳山も会昌の破仏に遭遇して一時身をひそめていた。徳山は、もともと金剛経のスペシャリストとして自任していた。

ところが、餅売りの婆さんに問答をしかけられ、一言も返すことができなかったので、虎の子としていた金剛経の注釈書を焼き払うことになる。

徳山は弟子達に棒を振うことを得意技としていた。

ある日、欽山は徳山に禅問答をしかけた。
欽山「天皇和尚もこのように言い、龍潭和尚もこのように言っていますが、あなたはどのようにいいますか」

徳山「まず天皇和尚と龍潭和尚の言ったものを挙げてみなさい。」

欽山が更に話そうとすると、 徳山は、思い切り棒で欽山をなぐりつけた。

欽山は、そのまま病院に担ぎ込まれた。

後で欽山曰く、「それはそのとおりに相違ないが、打ち方があまりにもひどい」

こういう禅問答を変に知っているから、警策で頭や顔や耳を殴ることまでやる手合いが出てきたのだろう。

禅ではこういうのも老婆親切と言い習わすが、最近の人なら棒で打たれた途端にやる気をなくすだけだろう。デリカシーのかけらもない。でもそれはそれで、そんな性質もあることは間違いない。だから世間的には受けない。

受けないことを自覚した宣伝のやり方がなければ、本来の自己などという回りくどいのに関心を示す人も少ないだろう。




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観せる観想、観る観想

2009-05-21 05:56:58 | マントラ禅(冥想法7)
◎仏のみぞ知る

観想法とは、第一義的には自分で観ようとして観る観想のことをいう。密教では、日輪観、月輪観、阿字観など、観想法を多用する。また宗教に関心も係わりもない人でも、願望、希望の成就した暁のことを請い願って、観想法をそれとは意識しないままに用いることもある。

観想法が深まれば、それがありありと現前するビジョンが見られるものだというが、本物のビジョンは、自らつかむのではなく、ビジョンの方からやってくるものだという。

つまり最初は、観る観想ではじまるが、観せられる観想に至って、真に入るということがあるようなのだ。

浄土系の観無量寿経では、韋提希夫人が釈迦に懇願してさまざまな仏国土を見せてもらう。これは観せられる観想であって、釈迦が見せてくれるのだから本物。

これに対して13段観想を自力で行うが、これはその果てに仏国土を見ることを目的とするもので、観る観想。

人間は自分の力で髪の毛1本白くも黒くもすることなどできない。

欲望・願望の実現したイメージを無意識の世界に構築することによって、現実化しようとする観想法というやり方は、正統的な手法ではあるが、そのビジョンの中身と欲望・願望がどこからきているのかは、手法の善し悪し以前に、まずは真摯に問われるべき問題である。

そして観る観想が観せられる観想に転換することは、仏のみぞ知るマターであって、人の側の都合で何とかなる話ではないと思う。




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建礼門院と明恵

2009-05-20 06:08:03 | 冥想アヴァンギャルド
◎覚悟と本気さ

受戒するということは、在家であっても絶対服従の師弟関係に入ることを言うのだろうと思う。

一日、平家がまだ隆々たる勢力を誇っており、後に自らが源氏に追われて入水するなどという運命になるなど夢にも思わぬ国母、建礼門院に、明恵が戒を授けることになった。

そのとき、建礼門院は寝殿の中央の間の御簾の内にいて、手だけを御簾から差し出して合掌し、明恵を下段に座らせて戒を受けようとした。

これに対して明恵は、自分は地位の低い者だが、仏門にはいった以上は、国王・大臣に対しても臣下としての礼をとることはできない。また授戒・説法のためには僧は常に上座につくことになっている。自分は釈迦の教えに背いてまで、下座から授戒することはできないので、自分以外の誰か他の僧を招いて受戒されるが良いでしょうと言って、帰ろうとした。建礼門院は非を悟って詫び、明恵を高座に座らせて戒を受けた。

近代的自我のはらむ問題点から宗教を求めているわけではく、おそらくは、素敵なライフ・スタイルや、呪法・修法による一門の繁栄などの実利を念頭においた、当時の貴族の受戒に対する考え方がほの見えるエピソードである。気軽に受戒してはいけないのだ。受戒には相当の覚悟と本気さが要るが、そんなことは夢にも思わなかったのだろう。

明恵は、稀代のイケメンであり、貴婦人連の人気も高かったと聞く。だが生涯不犯だった。




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人間の最終ステップ

2009-05-19 05:59:03 | 古神道の手振り
◎九分九厘まで

昭和の大クンダリーニ・ヨーギ、出口王仁三郎の一言。
『九分九厘までは神様がつれて行かれるが、岸は人間が登らねばならない』
(新月の光(上巻)/木庭次守編/八幡書店から引用)

出口王仁三郎は36回の転生を繰り返したと語る。この地球での転生パックツアーでは、36回コースを選んで出発したわけだ。そのフィナーレか、それに近い1回が前回の人生。

出口王仁三郎は九分九厘の仕組みとよく言う。九分九厘までは、組織宗教の枠内で信仰を深めることで、九分九厘までは到達できる。最後の1厘は自分で登れと信者を叱咤する。

ところがクンダリーニの覚醒プロセスをみると、個人である自分が、最後の自分であるコーザル体が最後の1厘を登り切るメカニズムにはなっていない。アートマンが昇るのである。

従って、組織宗教の枠内では、修行の過程では高級神霊のサポートがあると盛んに宣伝するが、この一言は、サポートがない局面が最終ステージに到来することを予告しているもの。

人間のままでは最後の1厘を登れないことを承知している出口王仁三郎が、そう言うからにはこの言葉は、組織内部の修行者に向けたものなのだろうと思う。




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釈迦の実力

2009-05-18 05:28:39 | 究極というものの可能性
◎ウダーナヴァルガ

釈迦の名を借りた経典は多い。その中で釈迦本人の言と言われる数少ないものが、ウダーナヴァルガ。

『26.水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ---、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

27.そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28.さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いがなく、後悔のわずらいのない人は生存の矢を断ち切った人である。これが彼の最後の身体である。

29.これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(真理のことば感興のことば/中村元訳/岩波文庫から引用)
  
修行の基本は、悪を為さず、善を為すこと。そこから始まって、地水火風の四大・四元素もない現象の生起しない世界に踏みいる。そこには光も闇もない。

これはもはや人間個人の世界ではなく、それを描写するに値する言葉もない世界のこと。第六身体以上の世界でのこと。

ウダーナヴァルガには所々に、解脱する人は最後の肉体であることが語られているが、今生で解脱するような人は輪廻転生の最終ターンとしての肉体であることが、堂々と指摘されている。さすがに釈迦であり、そのフランクな語り口で重厚な真実を惜しげもなく述べている。




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与謝蕪村の辞世

2009-05-17 07:17:15 | 究極というものの可能性
◎しら梅に凛として

天明3年秋口から腹痛に悩んだ蕪村は同年12月25日臨終を迎える。24日には病勢も落ち着き、言語もいつもの通りだった。
 
まず2句。

冬鶯 むかし王維が垣根哉

うぐひすや なにごそつかす 藪の霜

うぐひすの句の方は何のことかすぐわかる。一生の終りを前に、まだごそつかす吾が乱れ
る思いがうぐひすである。

王維の居宅は長安東南郊の終南山にあった輞川荘のこと。そこには、柴戸があることが知られ、柴戸があれば、柴垣があっただろう。時をさかのぼり、その詩仙の垣に鶯となって止まる吾である。

そして絶句

しら梅に 明る夜ばかりとなりにけり

これを残して、眠れる如く臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけるとある。

これには夜明けの持つ有無を言わせぬ力強さを「明る夜ばかり」に見る。しら梅に凛として澄みきっている。意識清明にして死を迎えたのだろう。メンタル体でサハスラーラから出れたかな?




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