アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

6.悟りへの階梯-31

2009-04-30 06:02:00 | 夢と真実
◎慧命経の粉砕図
     
道教の柳華陽においては、慧命経の挿絵の第四図道胎図から第五図出胎図において、気が満ち足りて、やがて円熟すると胎児(道胎)は頭頂より出て行き、身外に出る。これを陽神の出現とも言い、千弁の花びらがある蓮華中の如来とも呼ぶ。これがメンタル体の離脱と考えられる。

第六図化身図では、この陽神が妙道を通って虚無と化していくとあり、無上の垂直道ならぬ「妙道」を通って中心太陽に向かうことを言っているのだろう。

有より出て無に入るとは、文字通りアートマンからニルヴァーナへ。

第七図面壁図は、アートマンとブラフマンの合体の前段になると思われるが、「心印は空に懸り月の姿は浄い」とは、アートマンを月に見立てている。
「筏は岸に到って日光に融ける」とは、アートマンの中心太陽突入を比喩しているのだと思う。

柳華陽の凄いところは、この後のモクシャのところまできちんと記録しているところ。それが第八図の粉砕図である。これは「一片の光輝が法界を周り、日も月も忘れて寂浄にして霊虚」また、「不生不滅にして、無去無来」そして、「碧空に雲が散り山色浄く、慧は禅定に帰し、月輪は孤である」

粉砕図は十牛図の第八図と同じ一円相ではあるが、そこに到る道程は、禅などの只管打坐系メディテーションとは全く異なったものであり、その終着点もまたフツーの人々の夢にも思わない世界に隠されているのである。





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6.悟りへの階梯-30

2009-04-29 06:18:38 | 夢と真実
◎肉体死からクライマックスへ

クンダリーニ・ヨーガで、冥想による肉体死から先へ進む話は、柳華陽呂洞賓出口王仁三郎にもあり、明恵にもそれらしい話が出てくる。

メンタル体らしきもので体外離脱するエピソードがそれとはっきり書かれているのは、柳華陽とダンティス・ダイジになるだろうか。そのから先のことを指して、死の世界を究めると言っているのだと思う。

ダンテス・ダイジの物語るメンタル体離脱以後のルートはこうなっている。

(1)頭頂から肉体を離脱する。

(2)メンタル体意識は消滅する。

(3)コーザル体は6つの次元を越えて、中心太陽に向かって上昇していく。
コーザル体は、最後の個人性・個別性を残してはいるが、完全な透明な光明意識である。そして個別性を残しながらすべてを見る局面があると彼は語っている。

(4)上昇しつつアートマンであることに目覚める。

(5)アートマンとブラフマンの合体

(6)モクシャ(実在・意識・至福)

(7)肉体への帰還

メンタル体離脱以後には、通俗的アストラル世界、つまり霊界にはまったくこだわりなく進んでしまっていることに注目すべきだろう。ここは霊界を相手にせず進んでしまうのだろう。

またステップということでいえば、メンタル体、コーザル体、アートマン、ブラフマンとステップを駆け上がるが、同一3次元エリア内ですべてのステップが展開するようなものではなく、世間の常識人の想像を完全に超えたものとなっている。




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陰極まって陽生ず

2009-04-28 05:53:00 | 老子
◎老子第36章 将欲歙之

『ものをゆるめようと思う時には、しばらく反対にこれを張る。弱くしようと思う時には、しばらく反対にこれを強くする。廃れさせようとする時には、しばらく反対にこれを興させる。これを奪おうと思う時には、しばらく反対にこれを与える。

これを明をぼかすと言う。

柔は剛に勝ち、弱は強に勝つのである。魚は淵を出てはならない。国の利器は人に示してはならぬ。』

ここは、世俗の権謀術策のことを述べているのでは勿論ないが、かといって人為の起こり来たってこれを無為の治世とするときはこれをしばしほっておくがよいというような意味にとるのもまた相違しているように思う。


過去現在未来を通観する視点から見るならば、この世においてあらゆる物事は「陰極まって陽生ず」であり逆に「陽極まって陰生ず」(易経)であることからして、ここの章の言はいわばこの世的物事の基本である二元性の転々流転の姿を述べたものであり、殊更に謀略を説いたものとは言えない。

大なるものは小となり、小なるものは大となり、また強者は弱者となり、弱者は強者となる因縁を淡々と語っている。この法則の利用を『国の利器』とみているのだろうか。




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6.悟りへの階梯-29

2009-04-27 04:46:33 | 夢と真実
◎死のプロセス-4

チベット密教では、悟りの成就のキーとなる「(8)光明(原初の光)」段階の滞在時間を問題にする。生前の修行によって「(8)光明(原初の光)」に対する感受性を上げないとどうにもならないわけである。

「(8)光明(原初の光)」を見る時間は、通常20~30分であり、邪悪な人生を歩んできた人々や健全でない精神の人々にとっては更に短い時間であり、指を鳴らす時間つまり1秒弱とも言われる。つまり普通の現代人にとっては、『原初の光』を見る時間はせいぜい数分かそれ以下だろう。

肉体死直後のサハスラーラ・チャクラからのメンタル体での離脱は、幻身と呼ばれるひとつの達成ではあるが、それは『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に書かれている別の次元への脱出と中心太陽への突入へのスタート台に乗ったに過ぎない。

チベット密教では、幻身から先がどうなっているのかは、屍解の話になっていることがままあり、巧妙に隠されてきているようだ。詳細は、然るべき技量のある師弟間で口伝になっていたのだと思う。


「生きとし行けるものはすべて、限りない回数、死しては生まれ変わってきている。彼らはこの名状しがたい光明(『原初の光』)を幾度となく体験しているにも関わらず、無知の闇に妨げられて、無限の輪廻を果てし無くさまよっている。」
パドマサンバヴァ(仏教をチベットに伝えた人)


※『チベット密教』で参考とした本
『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社
『三万年の死の教え』中沢新一/角川書店
『チベット死者の書』講談社
『チベット生と死の書』ソギャル・リンポチェ/講談社
『ゲルク派版チベット死者の書』学研M文庫




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6.悟りへの階梯-28

2009-04-26 06:32:41 | 夢と真実
◎死のプロセス-3

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら求道トライアルとしては失敗なのである。

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。

将来予想される同時大量アセンションにおいても、この点は、間違いなく大きな焦点の一つになるのだろうと思う。

○メンタル体での肉体離脱のサポート

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするば、それは妨げられねばならない(←意識を清明に保つための工夫)。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。

そうすることによって、生命力(クンダリーニ)は、中枢神経(スシュムナー管)から帰って来ることができず、ブラフマの開き口(サハスラーラ・チャクラ)を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書)
(※スシュムナー管は背中を通る3本のエネルギーコードの中央の1本。)


〈参考〉
アストラル体での肉体離脱

残念ながらクンダリーニが、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。




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6.悟りへの階梯-27

2009-04-25 06:50:01 | 夢と真実
◎死のプロセス-2

次に呼吸が止まって、心臓も止まったところから、肉体と意識が分離する直前まで。

2.内なる溶解

(5)80の概念からなる粗いレベルの意識がすべて溶解すると『鮮やかな白い心』(まばゆい光にあふれた秋の空)が現れてくる。(顕明)
※80の概念からなる粗いレベルの意識とは、五感と五感よりやや深い程度の、思考を伴う粗いレベルの意識。五感、恐怖、執着、飢え、渇き、喜び、驚きなど。

(6)『鮮やかな白い心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな朱色の心』が現れる。真っ赤に輝く太陽のように見える。(増輝)

(7)『鮮やかな朱色の心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな黒い心』が現れてくる。次第に真っ暗闇になる。(近得)

(8)プラーナ(ルン、気)の動きが弱まって、もっと微細なプラーナが起きると、失神したような状態は消え去り、まばゆいばかりの透明な光、もっと微細な『光明=原初の光、一切空、光明である根源的な生来の心』が現れてくる。

無上ヨーガタントラによるとこの光明以上に微細な意識はなく、この最も微細な意識が、輪廻と涅槃の現れすべての土台となっているとのこと。またこれは、別名母の光明と呼ばれる。母の光明は誰にでも現れる。

これとは別に観想法の修行(イメージ・トレーニング)によって類似の窮極のイメージを培って、空性を悟っている場合があるが、これを子の光明と呼ぶ。

ここでハイ・レベルの修行者は、母の光明を子の光明に変容させることにより、幻身と呼ばれるメンタル体とおぼしきボディを出現させることで、中有に入ることを回避する。

ハイ・レベルでない修行者は、中有にはいり、再度の輪廻転生ルートをたどることになる。




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6.悟りへの階梯-26

2009-04-24 06:11:39 | 夢と真実
◎死のプロセス-1

まず最初は、五感の感覚がなくなり、呼吸が止まるまでのプロセス。これは、ゆっくりと死が訪れる場合は、どんな人にも平等に起こる部分。

ただし意識がはっきりしていること(清明であること)、肉体をメンタル体で離脱することが、この後ののプロセスで『原初の光明』(神、仏、窮極)に出会う絶対条件となる。意識がはっきりしていることは只管打坐での作法でもある。

1.四元素と五感の溶解
本当の死は、クンダリーニ・ヨーガのプロセスで再現不能の部分もあるが(本当に死んで元に戻れない)、参考になる事柄が多い。

(1)地の元素が衰え、水に溶け込む。(陽炎)
身体から力が抜けぐったりする。
視界が暗くなって、ものの輪郭がぼやけ、目を開けることも閉じることもできなくなる。
陽炎のようなものが見える。

(2)水の元素が衰え、火の元素に溶け込む。(煙)
快さも苦しみも感じなくなる。
唾液がでなくなり、口、喉がかわく。
音も聞こえず、耳の奥のかすかな耳鳴りも止まる。
漂う煙が見える。

(3)火の元素が衰え、風の元素に溶け込む。(蛍)
生前善行が優位の人は、下半身が最初に冷たくなる。生前悪行が優位の人は、上半身が最初に冷たくなる。   
匂いを嗅ぐことができなくなる。
呼吸が苦しくなり、吐く息がだんだん長くなり、吸う息がどんどん短くなる。
鍋底で光る火花のようなものが見える。

ソクラテスも下半身が最初に冷たくなった。ソクラテスは、人が何人かいる前で、毒を飲まされて、死のプロセスが進行している最中に、『まだ足に感覚はありますか』などと突撃レポーター並の取材を受けているのだから、お気の毒としか言う他はない。
(プラトン/パイドン)

(4)風の元素が衰え意識に溶け込む。(燈明の炎)
身体を動かすことも、肉体的な接触も感じられなくなる。
鼻を通る息は、止まります(呼吸の停止)が、エーテル体の息はある。
燈明や松明の炎のようなものが見える。

以上の(1)から(3)までの状態が、大まかには、世間で言う脳死に該当しよう。
呼吸が止まれば心停止するので、(4)は肉体死のこと。しかし以後の段階の記述を見ると身体反応はできないけれど、意識は残っている。




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6.悟りへの階梯-25

2009-04-23 05:51:31 | 夢と真実
◎死の世界を扱う技術

クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を扱う技術だというが、この厳しい生存競争を伴う現代社会においてそれは使える技術なのか。それは実益とは全く関係のない趣味の世界でのことではないのか。また、そうした死の技術の狙いは何なのか。

まず死の世界とは、肉体以外のエーテル体、アストラル体、メンタル体などの宇宙を言い、広義には、個人的無意識、集合的無意識、潜在意識なども含まれると見て良いだろう。それは、夢の中で知らずにあくがれ歩く世界であり、また肉体より微細なボディの生息する異次元の世界をも総称して死の世界と呼ぶ。

ほとんどの人は死んだら終わりだと思っているが、人は死の世界に入ることにより、人生は実はそうした死の世界の一部分にすぎないことを知る。それでは、人生は実は死の世界の一部分であるとは、どんなイメージなのか。

要するに現代人が生の世界と考えているのは、肉体だけなのだが、七つの身体でいえば、第二身体(エーテル体)から第七身体(中心太陽・大神)までは、死の世界なのである。この死の世界にはすべての他人、すべての世界、すべての時代が含まれている。
人間は、その死の世界から生まれ、その死の世界へ帰って行くのである。そんなイメージである。つまり現代社会の人間や人生についての通念とは逆のイメージとなる。

よく心霊・オカルト譚では、霊界の現象が現界へと移写されるというが、最初に死の世界においてできあがった出来事やビジョンがやがて現実化することを言っている。これをしても死の世界は生の世界の母胎なのである。 

現代社会は肉体の死が人間のすべて終わりであることを前提に組み上げられている。肉体死によって、財産も名声も家族も人間関係もすべて終わりとなるとして、法律も社会習慣もできている。つまり誰もが内心は死の恐怖に怯え、緊張をかかえながら、社会生活を送っているのだ。

人間は、肉体死が個別人間の終わりではないことを発見することによって、そうした緊張から解放された、気張らない生き方を実現できる。これもクンダリーニ・ヨーガの効用の一つである。

しかしクンダリーニ・ヨーガの効用は、肉体死の絶対視という偏見を取り除いたリラックスしたナチュラルで素直なライフ・スタイルの呈示に留まるものではない。

というのは、死には2種あって自我の死と肉体の死があるからである。

チベット死者の書を見ると自我の死と復活は、全員にチャンスは与えられてはいるというものの、肉体死によって必ず自我の死も起こして「悟り」を開くわけではないことがわかる。肉体死する人がすべて悟りを開くわけではない。




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6.悟りへの階梯-24

2009-04-22 05:59:56 | 夢と真実
◎チベット死者の書の特徴

ケン・ウィルバーは、チベット死者の書の死に行くプロセスを意識の深化の段階の材料の一つとして使っているが、それだけのものではない。チベット死者の書の、同じクンダリーニ・ヨーガのテキストとしての違いは、死の世界を正面から捕らえて見せたところが違うのである。

つまり空海の十住心論にしても仏教十界説にしても漫然と読めば、単に仏になるためのカリキュラムの目次にしか見えないが、実はその各ステップの半分以上は死の世界の修行のことを語っているのである。ところが、死の世界と縁遠い一般民衆にはまずそれとは気づかれることはない。

チベット死者の書は死者の臨終シーンから始まるので、それと思い当たるが、死の世界のことを詳述するのは、実は他のクンダリーニ・ヨーガのテキストでもよく見かけることなのである。たとえばアストラル・トリップなどは、死の世界そのものであり、そのトリップの途中では、死者によく出会うものである。

チベット死者の書では、呼吸が停止し、五感が機能しなくなり、肉体から離脱し、原初の光たる光明に出会う8段階を駆け上っていく。

その8段階とは、、(1)陽炎 (2)煙 (3)蛍 (4)燈明  (5)顕明 (6)増輝 (7)近得 (8)光明
となる。





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肉体意識を脱却する手法の限界

2009-04-21 13:46:09 | 現代冥想の到達点
◎水平的な手法

肉体意識がすべてとなれば、他人の迷惑などお構いなしに、自分の都合のよいことばかり優先して考えたり行ったりしがちで、金だ、権力だ、勲章だ、名誉だ、人気だ、と我利我利亡者になりやすいもの。

その誤った世界観を脱却させるために、ひたすら人間の死体に直面させる不浄観や、九想の詩(空海の死体→白骨→灰までを詠じた詩)があり、ドラッグがあり、ヘミシンクがあり、アストラル・トリップがあり、マントラ・シッディがあり、はたまた現実を直視することにより人間として生きることの不条理に直面させようとするもの(禅)がある。

これらの手法を大別すれば、肉体が長持ちしないことを確認させるものと、肉体以外の他のボディ(エーテル体、アストラル体など)や他の世界があることを確認させるものとに大別することができる。

また霊界旅行記やチャネリング記録を見ることや心霊現象を探求したりすることは、「如何にして肉体意識を脱却するか」だけに焦点を当てた場合の、観念における解決策の一つではあるが、肉体がすべてではないとういうスタンス以上に発展しにくい。

肉体がすべてではないことを知っても、自分というものに決定的な何かが起きるわけではない。自我の死と肉体の死は全く別のものなのである。人間は死んだからといって、全員が悟りを開くわけではない。生前と同様に迷う者もいる。

従って、このような手法を採用する場合には、必ず垂直的な意識の進化が展望できる方向で冥想指導するのがオーソドックスなやり方ということになるだろう。垂直的な展開ができなければ、たとえ知覚が拡大したり、アストラル・トリップができるようになったり、前世記憶がよみがえったりしても、ただだ迷うエリアが拡大しただけで、真の光明は見いだせないままとなる。

このあたりが、世間が安易なオカルトやスピリチュアルに飛びつかない大きな原因でもあるだろう。水平的な手法では、もはや真の救済にならないことを皆感じているのだ。




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6.悟りへの階梯-23

2009-04-20 06:08:38 | 夢と真実
◎空海の十住心論-2

空海の十住心論の続き。

第六住心から第九住心までは、十界説で言えば、菩薩のレベルである。菩薩のレベルというのは、最低でも見性しているレベルであるが、見性しているからとりあえず良しとするわけではなく、ことごとく第十住心の秘密荘厳住心でないと、問題があると指摘している。

第十住心の秘密荘厳住心がニルヴァーナ(ブラフマン)であるのは問題ないと思う。一方第九住心の極無自性住心が、唯一の世界(法界)であるとして、華厳経の毘盧舎那佛のことであるとしているから、アートマンのことと見れる。よってこの十住心論の10ステップのトップ2も、やはりブラフマンとアートマンを置いていると思う。


第六住心
他縁大乗住心
心の海は静まり、波立っていないが、迷いの風が吹くために、波風は立つ。天国も地獄も自分の心が作り出したのだということを知らないレベル。

悪を行わず、あらゆる種類の善を長年にわたり行い、菩薩の52段階の修行を積み重ねても、本来の悟りは、自分の心の中にあることを知らない人のことである。心とそれが認識する対象物が別の物だと思っているが、菩薩としての修行がかなりできている人のレベルである。

第七住心
覚心不生住心
概念的な認識(五辺)は、本質的なものでない。原因により生起した心は、それ自体の性質(本性)を持たず、空であり、仮の存在であり、中道であり、アプリオリに存在している。
しかし本来の悟りは、遥かな過去から存在しており、自然や、清浄という表現も不適当で、言葉の表現を離れている。

ここで心の本性が不変で、自由自在であることを知り、無益な議論をすることはなくなったが、まだ本来の悟りの入口に初めて立っただけだ。

第八住心
一通無為住心
空性は、感覚と対象を離れて、形もなく境界もない。こうした認識主体である心と認識される対象との対立をなくしたところに常寂光土(浄土)がある。しかしその対立をなくし、常寂光土へ至る手だてはない。依然として無明のままである。

第六住心の課題は、認識主体である心と認識される対象との対立があることだったが、ここでは、その課題を克服する認識はできたが、実践方法が見つからないレベル。

第九住心
極無自性住心
ここまで積み上げてきた認識や哲学を総合すると、現象(迷い)と実在(さとり)は、唯一の宇宙法界(法界=世界)におけるものであることになるが、これは、単なる客観的な世界観に過ぎず、哲学にすぎない。これでは依然として真の悟りではない。

第十住心
秘密荘厳住心
大日如来は、あらゆる仏と一つであって、迅速な力という三昧(トランス)に入り、自ら証した心理の世界の本体という精神統一を説くレベル。仏界に相当。
仏の位に入るとは、即身成仏のことで、大日如来と一体化することである。





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6.悟りへの階梯-22

2009-04-19 07:44:35 | 夢と真実
◎空海の十住心論-1
 
空海は、人間の意識の発展段階として、十住心論を掲げている。
住心とは、心のあり場所や精神のおきどころの思想・哲学ではなく、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系のこと。冥想の縦軸、横軸という議論からは、十住心論は歴史的な社会の発展段階説でもあるので、縦軸のステップであるという見方も否定できない。

ここでは仏教十界説と並べて、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系の特徴と狙いを考えてみたい。

十住心論の10ステップは、十界説と1段階ずつパラレルの一対一の対応になっているのではなく、第一住心に、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の下位4界がまとめられていたり、更に菩薩段階から上が細かく分類されている、ちょっとデフォルメの効いた十ステップになっているところが特徴と言える。

デフォルメした狙いは、この論が、830年淳和天皇に命じられて編纂されたものであり、また真言密教が国家的にオーソライズされるために、真言密教が諸宗の冠たることを強調できるものに仕上げたということが考えられる。

しかし現代人にとっての課題を見るとすれば、第六住心以降の菩薩に相当する部分が最も必要性が高いので、その意味で十住心論の10ステップはとてもモダンな分類だと思う。

第一住心 
異生羝羊住心
牡羊のように性と食のみにとらわれ、本能の赴くままに生きているレベル
修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に相当。いきなり、下位の4レベルがまとめられていて、十住心論は、上位に力点があることがわかる。

第二住心
愚童持斎住心
愚かな子供ではあるが、生活の規則に目覚め、人への施しに目覚めるレベル。
人間界に相当

第三住心
嬰童無畏住心
いまだ輪廻の世界にいるが、来世の生があることを知って幼子のように一時的に安らいでいるレベル
天界に相当

第四住心
唯蘊無我住心
ただ物のみが実在することを知って、実体として個人が存在することを否定する。声聞の教えは自分一人のための小乗のレベル
声聞界に相当

第五住心
抜業因種住心
一切のことは因縁によってなることを自覚して、無知の元を取り除いて、ただ一人悟りを得る。縁覚のレベルに相当。
縁覚界





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6.悟りへの階梯-21

2009-04-18 06:24:33 | 夢と真実
◎見ている自分

原始仏教の10ステップの個々の説明は次のとおり

1.涅槃:ニルヴァーナ
2.滅想定:アートマン、本来の自己

続く4ステップは無色界となり、個別の人間の体験となる。たとえ「なにもかもがないという意識もない」というもの凄い状態にあっても、見ている自分が残っている限り、向こう岸にある悟りには届かないというつもりで、この分類を見るのが穏当と思う。いずれにしてもステップ分類へのこだわりが感じられるところであり、クンダリーニ・ヨーガらしい特徴といえる。

3.非想非非想処定(有想無想定):なにもかもがないという意識もないという状態(心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもない)

4.不用定(無所有処定):なにもかもがないという意識(いかなるものもそこには存在しない)

5.識処定(識無辺処定):あらゆるものが限りない広がりにあるという意識(心の識別作用が無限である)

6.空処定(空無辺処定):限りない広がりがあるという意識(空が無限である)


その次の初禅から四禅までは、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天(十界の一つ)の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

7.第四禅:苦楽を超越した境地で、心の思い(念)を守ることが清らかで純粋

8.第三禅:心の思い(念)に集中しつつ、楽しい

9.第二禅:浄らかな誠に満たされて、心の底からすっかり喜び、うれしい

10.第一禅(初禅):純粋な喜びと楽しさ




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6.悟りへの階梯-20

2009-04-17 05:44:09 | 夢と真実
◎原始仏教のステップ

釈迦在世に近い時代の仏教のことを原始仏教と呼ぶ。いわばオリジナル仏教と呼ぶべきものである。このステップは10ランクを設けており、意識の深化の階梯そのものとなっている。

1.涅槃
2.滅想定
3.非想非非想処定(有想無想定)
4.不用定(無所有処定)
5.識処定(識無辺処定)
6.空処定(空無辺処定)
7.第四禅
8.第三禅
9.第二禅
10.第一禅(初禅)

最初の涅槃が、ブラフマン、禅の無、道教のタオ、キリスト教の神にあたる。

次の滅想定は、アートマンにあたる。以上二段には、個別性はないので、人間の側のことではないので、体験とは言えない体験ということになる。

3番目から人間の側の話になり、個人としての個別性を前提とした人間としての体験となる。

3番目の非想非非想処定(有想無想定)から、6番目の空処定(空無辺処定)は、無色界の冥想に分類される。無色界とは、物質を超えた微細な世界で、精神の働きだけの世界で、精神の感受作用(受)、表象作用(想)、意志作用(行)、認識作用(識)だけの世界のこと。

7番目の第四禅から初禅までは、粗雑なエーテルアストラルなどの姿、形のある「物質」のあるレベルの冥想となる。

3番目~6番目でいうところの精神活動たる受想行識が四蘊で、これに四禅から初禅の物質(色)を加えると五蘊となる。五蘊について、般若心経では、物質も精神の働きも実態がない(色即是空・・・、受想行識亦復如是)などと言っているが、それを確認できるレベルは1、2番目の涅槃か滅想定という人間の側ではない体験を通過するしかないわけである。




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6.悟りへの階梯-19

2009-04-16 06:08:10 | 夢と真実
◎古神道のステップ


明治の古神道家本田親徳の流れをくむ出口王仁三郎のステップは四段。それなりに意識の深化のレベルで区分していると見れないことはない。

1.幽之幽
 無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊で、世間一般でいう神とはこれ。古事記では、天御中主神と奉称し、並びて高皇産霊、神皇産霊の二霊を合一し、三神即一神。独神而隠身也

2.幽之顕
  『霊系祖神《いざなぎ》』『体系祖神《いざなみ》』二神を顕現されておられる、天上の主神である天照大御神と素盞嗚神の事。天上の主権は、天照大御神様に帰し、地上の主権は皇祖素盞嗚神に帰した。幽之幽である神から出て来た幽の現。要するに幽の顕神は、天上の霊界を主宰する神々。

3.顕之幽
顕の幽神とは、地上の幽界を主宰する神々。
  
大地球成就の為に顕現し、国土を修理固成し、神人安住の基礎を定めて、地上の幽界を主宰する神霊。具体的には国祖国常立尊、豊雲野尊、又は一度現世にその肉体を表現された神様。
  
  この出口王仁三郎の説明(出口王仁三郎全集「第一巻第三編第三章 皇国伝来の神法」)では、わかりにくいが、天地創造神話に出てくるような神々と、その中で現世に生を受けたことのある神々というところだろうか。

4.顕之顕
まずこれは個なる人間のこと。顕之顕神とは、天照大御神の御子孫である現人神天皇陛下のことである。出口王仁三郎は、加えて天皇に仕える文武百官をも顕之顕神と見ている。それには、文武百官が神事を修行していることを前提としている部分があるように思う。上は天皇より下巡査に至る迄、是は百八十一の階級の神様。

およそクンダリーニ・ヨーガ(古神道の至厳至重なる神法、幽斉)の修行を希望するならば、天照大御神のお許しを得た上で、天皇陛下を敬い、国を愛する気持ちが必要である。

出口王仁三郎によれば、『天先ず定まり地成つて後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給ひし、皇孫邇々岐尊(ににぎのみこと)様を初め、天皇陛下は、天照大御神の御子孫で、顕の顕現人神に坐(ま)します。
至厳至重なる神法、幽斉の修行を希望するならば、第一に天照大御神の御幽許を受けねばならぬと同時に、其人が無二の敬神家、無二の尊王家、無二の愛国者でなければ、絶対に資格がないと云ふ事を承知して戴きたいのであります。』とする。

  
幽之幽は、ブラフマンであり、大日如来。幽之顕はアートマン。以上の2分類は、個人ではなく、一般的、正統的な分類である。

顕之幽と顕之顕は、人間の輪廻転生の主体を念頭に置いた説明であり、霊界(神界)のヒアエラルキーの説明になる。従って、意識の深化という視点からの区分と見ると苦しいように思う。但し、顕之幽と顕之顕は、個別性が展開するレベルであり、個別性のない幽之幽、幽之顕とは、全く異なっているので、意識の深化区分として使えないことはないと思う。





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