アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

6.悟りへの階梯-6

2009-03-31 05:21:10 | 夢と真実
◎体験ではない何かが起きている

〈(1)十牛図の続き〉

第七 忘牛存人

頌(廓庵禅師)
牛に乗ってもう家に到着することができた、
牛は姿をみせず、人ものんびりしている。
朝日が高く昇るころになっても、まだ人はゆめうつつ。
鞭と手綱は草屋に置きっぱなしである。

牛が消えてしまったので、人間の体験としてのアートマン(牛)はなくなった。アートマンとの一体化は、個人、個性としての自分のないところにある。

端的にこれを示したと思われる文がクリシュナムルティにある。

『今朝早く途方もない力と美と清廉さを感じながら目覚めた。それはたまたま起こった何か、過ぎ去った体験、夢の中でのこととして、目覚めた時に覚えている体験といったものではなく、何か実際に起こっていることであった。人は何か完璧に清廉であるものに気づいた。その中では堕落して荒廃するいかなるものも存在し得なかった。

それはあまりにも測り知れなかったので、頭脳はそれを捉え記憶することはできなかった。そのような「清廉さ」の状態が存在していると機械的にただ記録することができるだけである。

そのような状態を体験することは、大変重要である。それは限界を持たず、触れられず、入り込むことができずにそこにあった。

その清廉さのために、その中には美があった。それは色褪せていったり、何か人の手によって作り上げられた美ではなく、美を装う邪悪さでもなかった。

人はその現存の中にいっさいの本質が存在することを感じ、従ってそれは神聖であった。それは何ものも滅びることのない生であった。死は清廉なものだが、人々はそれを、彼にとってまさに生がそうであるように、腐敗したものに変えてしまう。

それらすべてと共に、何ものも砕くことのできないあの山のように堅固で、どんな犠牲も祈りも美徳も触れることのできない力と強さの感覚があった。』
(クリシュナムルティの神秘体験/クリシュナムルティ/めるくまーるから引用)

個人の体験ではなく、何かが起こっている。しかし、それはそこにある。これが、忘牛存人の実況生中継だろうと思う。

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6.悟りへの階梯-5

2009-03-30 05:50:09 | 夢と真実
◎牛を飼いならす

〈(1)十牛図の続き〉

悟りには2種あって、神に出会うことと、神と一体になること。第三図はその神に出会うこと。神に出会ったことのある人は、何人に一人位の割合かと言えば、何百万人に一人いるかいないかくらいのものではないだろうか。国勢調査の項目にそんなのはないが、人口10万人の都市に一人そんな人が居れば、昔から住んでいる人たちの間には口ずてに伝わっているもの。ところが、そんなことはまず聞かない。だから知らず知らずのうちに何百万人に一人いるかいないかというような見込みを立ててしまう。

私の知る人の中で悟ってる人は3人。うち一人は、面識はないが原田雪渓老師。こんなに少ないのでは、ソドムの町のロトの故事ではないが、日本の先行きも覚束ないことである。

神を第三図で発見して、それに段々と順応していく手順が、以下の第四図から第六図となる。最初はアートマン(本来の自己)なる牛は言うことをきかない暴れ牛であるが、だんだんと馴れて来る。


第四 得牛
頌(廓庵禅師)
精力の限りを尽くして、その牛をとらえたが、
牛は頑固に力み、はやって、簡単には手におえぬ。
突然高原に駆け上ったと思うとさらに深い雲の中に居すわってしまう。

第五 牧牛
頌(廓庵禅師)
鞭と手綱を片時も手放さぬのは、牛が勝手に歩いて、
塵埃の中に引き込まれる心配があるからだ。
よく飼い馴らせば、すっかりおとなしくなり、
手綱で拘束してしなくても、自分の方から人についてくる。

鞭は覚醒のこと。手綱は生活全体のコントロールのこと。一旦は神を見たことがある人でも、元に戻ってしまうことがある。そこで鞭と手綱が要る。

第六 騎牛帰家
頌(廓庵禅師)
牛にまたがって、ぶらりぶらり家路を目指せば、
えびすの笛の音が、一ふし、一ふし、
夕焼け雲を見送る。
一つの小節、一つの歌曲にも
言いようのない気持がこもっていて、
真に音楽を解する人には、
余計な説明は不要である。

既に牛にまたがって家を目指すほどに馴れても、その吹き鳴らす笛の音は、異次元の響きである「えびすの音」(羗笛)。この段階になっても悟りのある生活は、日常生活感覚からは全く想像もつかない実感を生きるというギャップを避けることはできないのだと思う。

そんな見知らぬ風光の中で、平常心是れ道などと聞いたのなら、それは悟ってない者ののんべんだらりとした日常の生活感覚を平常心と語っているのではないことに気がつくだろう。




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6.悟りへの階梯-4

2009-03-29 06:38:43 | 夢と真実
◎只管打坐タイプの冥想のステップ説明

本来は段階を踏まないで、一足飛びに悟りに到達するのが只管打坐系冥想なのだが、どういうつもりなのか、段階を説明したものがある。そうしたものとしては、ケン・ウィルバーの意識のスペクトルや、ダンティス・ダイジの7ステップなどがあるが、その代表的なものが禅の十牛図である。

ケン・ウィルバーの意識のスペクトルと十牛図は、最初は個人の心理から入っていくが、最後の方では個人の心理などではなくなり、違う世界の説明となる。つまりトランス・パーソナル心理で途中まで進むが、最後の方は心理現象や心的経験ではなくなってしまうところに注意して読まないと間違えると思う。

(1)十牛図
禅の牧牛図にも何種類かあって、四牛図あり、六牛図あり、また江戸時代の月坡禅師の「牛かひ草」では12か月(12段)あって、特に10ステップと定まっているわけではない。

十牛図では、人は自分であり、牛はアートマン。

第一 尋牛
頌(廓庵禅師=十牛図の作者)以下同様
あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く、
山は遥かで、行く手はまだまだ遠い。
すっかり疲れ果てて、牛の見当もつかぬようになって、
楓の枝で鳴く、秋の遅れ蝉の声が、耳に入ってくるばかり。

第二 見跡
頌(廓庵禅師)
川のほとり、林の木陰ほどやたらと足跡がついている。
芳草が群がり茂っているのを
君はきっと見たに違いない。
たとえ深山のそのまた奥でも、
天に向いているその鼻をどうして隠せようか。

第三 見牛
頌(廓庵禅師)
鶯は樹上に声を上げ続け、春光は暖かく、
春風は穏やかで、岸の柳は青い。
ほかならぬこの場所より、他に逃れようはないのであり、
威風りんりんたる牛の角は、画にもかけないほどである。

この段が見性、見神に該当するところ。これより後が菩薩の道となる。




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6.悟りへの階梯-3

2009-03-28 06:57:55 | 夢と真実
◎悟りとステップ

悟りにはステップがないという説明をする場合と、悟りには何十ものステップを踏まないとならないと説明する場合がある。たどり着く神殿は同じでも表参道を行くか裏参道を行くかの違いではある。

1.ステップなき只管打坐タイプの冥想

ステップがないと説明しているのは、只管打坐系の冥想においてであって、禅は全くこの立場であり、霜を踏んで堅氷至るが如く、段階を踏んで悟りを開くのだと説明した途端にその発言者は棒で殴られたり、喝を食らったり、土間に蹴り落とされたりすることになるだろう。

クリシュナムルティの講演内容においても、段階などない、今すぐ気がつくことだけである、気がつきさえすれば、愛もあり、自由もあり、善もあるという内容が、手を変え品を変え繰り返されている。

老子もステップなどないという立場に変わりはない。老子第47章「不出戸知天下」における、
『わざわざ家を出て見ないでも、この世の中というものはわかる。わざわざ窓を開けてみないでも、晴曇風雨はわかる。

反対に世の中を知ろうと思って、世の中に入って行き、晴曇を知ろうと思って、外に出れば出るほど迷いが多くなって、決定ができなくなる。』
とは、そのことを指している。

達磨は、「荒海のような心が一旦は静まっても、やがては散乱するもので、そのような静まったり乱れたりすることに重きをおいてはいけない。人間の本性には静乱がないものであることに気づけば本物である」(二入四行論)とし、ステップがないことは勿論、心の落ち着きにもかかわるなと、悟りが心理現象ではないことも明確に指摘する。




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6.悟りへの階梯-2

2009-03-27 06:12:37 | 夢と真実
◎意識レベルの低下テク

悟りは、心理現象なんかではないとすれば、一歩別の宇宙とも言えないある場に踏み込んでしまうことだと思う。それは、今の世界から一旦は飛び出してしまうが、戻って来た人間が聖者、覚者としてあることから、心理の連続性という点では連続性はないが、生身の同じ人間が悟った前も居て悟った後も居るという点で連続性を認識することができる。

悟りへのアプローチとしては、さまざまなものがある。マントラ念唱、観想法、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガから、セックス、薬物、日常の仕事を精密にこなすことまでラインアップは幅広い。

しかしよく見ていくと、そのどれもが、最終的には、意識レベルを低下させ、潜在意識を露顕させようとするものであるように見える。でも単純に意識レベルを低下させさえすれば、悟りが起こるわけでもない。

それは、全身麻酔で見当識を失う体験をした人間がすべて、「自分はこの世界のあらゆるもの、すべてのすべてだった」という奇妙な体験をするわけではないことや、べろんべろんに泥酔して正体をなくするほどになっても、人間は神に必ず出会うというようなものなんかでは決してないのだ。

そこに悟りへの階梯への難しさがある。

悟りへの階梯を先人は十牛図などでフランクに説明してくれているが、さまざまな守るべき細かいルール、禁止事項があらゆるレベルにあって、それをマンツーマンで指導してくれる人がいなければ、まずさとりなんか覚束ないのだってことを、いろいろな覚者が示唆してくれているものだ。

悟りは、心理現象なんかではないけれど、意識レベルの低下プロセスがメイン・テーマでもあり、まず心から取りかからねばならないのも現実である。

そして心のトレーニング以前に、肉体の健康と柔軟性が保持できなければその心が乱れやすいものなので、まず肉体の健康と柔軟性を実現するためにハタ・ヨーガに取り組む人もいるし、肉体より一段上のエーテル体の調整が肉体の調整に役立つことを見て、気功・導引に打ち込む人もいる。

肉体内に発生するガスを原因として、雑念や魔境が心理上に現れることからすれば、ガス抜きという点から、ハタ・ヨーガも気功もそこそこに心得ておかならなければならないものだと思う。

明恵上人伝記には、「禅定を修するに三の大毒あり。(中略)一に睡眠、二に雑念、三には坐相不正」とあり、これは禅メディテーションに限った評言であるが、修行者にとっては意識の深化には、睡眠、雑念、坐相不正が障害になるので、この障害を取り除くのも無視できないテーマではあることを認めている。

また本気度というモチベーションの純粋さがその修行の成否を左右するというファクターもある。だから単純に意識レベルの低下だけで始末をつけられない。





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6.悟りへの階梯-1

2009-03-26 06:03:14 | 夢と真実
◎悟りは心理に非ず

悟り、覚醒、アセンション、ニルヴァーナ、禅の無、空、大日如来などなど悟りを表現する言葉は数多くまたそれを解説しようとするアプローチも無数にある。

禅語録にも、心で悟るのだ、心こそが仏だなどと語る人もいるので、これを真に受けた心理学者などは、悟りとは心にあるのだと大声で叫び、結果的に大衆を悟りから遠ざけるような誤解を生ませているように思う。

心理学者のC.G.ユングは、人間の心理は個人の表層意識から個人の潜在意識へと広がり、更に多数の人間に共通の集合的無意識層があり、その集合的無意識は、民族の集合的無意識、人類全体の集合的無意識などのようにさまざまなレベルに展開していることを発見した。

そうした研究の中で、禅の十牛図などを引き合いに出して、意識レベルの深化を説明したりしているが、そこには心理学の限界が露呈されていることに気がついていない心理学者の姿を見ることができる。

すなわち十牛図の第七は忘牛存人であり、牛であるアートマンを忘れ人だけがあるという絵であるが、この段階で、牛と人は一体になったが、個人の自意識が残る象である。この段階では自意識があるので、まだ心理学は成立する場面でる。

しかし第八図人牛倶忘になると牛も個人もなくなるので、ここで見ている自分すらもなく、ここで心理ではなくなり、居る世界が変わってしまうので、心理学の扱う世界を超えてしまう。

つまり第八図は悟りの表象、シンボルであるが、心理学者はそれを単なる心理現象として片づけようとするという根本的な間違いから抜けることがないように思う。

心理学は今の社会とそれに根ざした心の解明を行うが、第八図の一円相では、心理学の前提となっている「現今の社会」を飛び越えるので、心理学が成立しないのである。

悟りはちんけな心理現象の一種だという迷妄を大衆に与えたという点でユング心理学の弊害は大きかったのではないだろうか。




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徳であろうとすれば徳ならず

2009-03-25 05:55:42 | 老子
◎老子第38章 上徳不徳
『最上の徳は、徳であることがわからない。だから真の徳となるのである。下の徳は、徳であろうとする意識によって為されている。だから結局、本当の徳とならない。

最上の徳は、無のはたらきそのものに委せていることであって、自分の意志で為すことはないのである。下の徳は、すべて自分の意志で為し、それによって徳を為すのである。

上仁は、これを自分の意志では為すが、しかも仁のために為すというのではない。上義は、自分の意志でこれを為し、それによって義を為さんとす。

上礼は、これを意志的に為し、しかも相手がこれに応じないときには、強制的にも応じさせようとする。

この故に道がなくなってから徳が現れ、徳がなくなって仁が現れ、仁がなくなって礼が現れるのである。

そもそも礼なるものは、まごころの薄いところに現れるもので、それが既に混乱のはじめである。道を体得せずして、義人(先王尊)の言行でものを判断するのは、道における華(枝葉末節)であって、それは愚の始めである。だからしっかりした人は、その厚いところに居て、薄いところに居らず、その実のところに居て、その華のところに居ない、彼を去って、これをとるのである。』

徳・仁・礼の重層的構造を説明した箇所。

最近の日本では、「挨拶をしっかりやろう」ということをよく言われるが、その実は「挨拶ことば」を大声に発音するのみで、挨拶言葉を発声するときに本来あるべき「ありがとう」なら感謝、「さようなら」なら懐かしむ心などの「まごころ」が必要とされていない。

まごころのこもっていない挨拶こそ虚礼そのものであり、この章では虚礼の始まりと展開を言っているが、今の日本では、徳薄き礼の行き着くところまできた感がある。

挨拶するなら心底から「しみじみと」。

礼が通用しないところでは、刑罰をもって適用し、更に治安が悪化して厳しい刑罰による抑止力が効きにくい状況となると、警察力による取締まり強化というように段々とエスカレートしていく。

道を体得せずして、聖人・覚者の言行のみを重しとし、様々に自分勝手な解釈をすることについて批判があるのは、耳に痛いところである。




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空海の悟境

2009-03-24 05:12:09 | 密教
◎空海御遺告

空海御遺告に、空海が遣唐船に乗る時点では、大日経の中にわからない点が多々あり、問える人もなかったと率直に語っている。

また長安の恵果の俗弟子の呉殷の記録では、「日本の沙門(空海)がやってきたが、この人は並の者ではなく、そのレベルは十地の下から3段目の発光地にある菩薩である。」とあり、誰がこれを語ったのかという問題はあるものの、恵果または周辺の眼力のある人物が、空海は、 菩薩の五十二段階レベルの中で、上から10番目の発光地にあると断定していたということである。

これは、空海の弟子にそこまで眼力のある人物は少なかっただろうから、空海がその死を前に、自分の入唐時のレベルを弟子達に対して殊更に語っているシチュエーションである。

さらには、空海が恵果のもとを去る時までには、「(仏の位を継ぐ密教の秘法である)五智灌頂を受け、胎蔵金剛両部の秘密法を学び云々」、とあるので、大日如来との合体を果たした可能性があるように思う。




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5.悟りへの手段-13

2009-03-23 05:33:53 | 夢と真実
◎パワー・スポット巡り

宗派を巡る、宗派遍歴をするというのは、いわば無意識のパワースポット巡りである。人は何か自分に足りないところを感じている時にパワースポット巡りを始める。

パワー・スポットには2種類あって、地のパワー・スポットと人のパワー・スポットがある。

地のパワー・スポットとは、修験で巡礼地とされているようなところで、出羽三山、鳥海山、早池峰山、伊吹山、石鎚山等々日本全国北から南から、修験の聖地とされている場所。そうした聖地には人が集まるものである。

人のパワースポットとは、悟った人のこと。大日如来(仏、神)に出会えば、または身心脱落すれば、その人のバイブレーションは、不退転の精妙なるものになるので、その人はいわば「人のパワー・スポット」となる。そして、人のパワー・スポットにも往々にして人が集まるものである。

時にいろいろな新興宗教遍歴をしている人がいるが、こうした人は、新興宗教の教祖廻りという、いわば人のパワー・スポット廻りをしているようなもの。パワー・スポットであった教祖が亡くなると、往々にしてそのパワーに集まっていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなるのは、そのパワーに依存して修行していたのであるから、当然の流れということにもなろう。世間では、教団内の権力闘争だけが関心を呼ぶが、真面目な求道者にとっては、パワー・スポットがなくなることの方が死活問題である。

従って人のパワースポットがなくなると、やむなく地のパワー・スポット巡り(巡礼)を開始するということは、どうもありそうなことだと思う。人のパワースポットが生きていれば、そんなことをする必要はなかったのだろう。

いずれにせよ修験は、地のパワー・スポットを巡る特殊なカリキュラムであると考えられる。役行者が37歳で奥駆けをスタートしたのも、師匠が亡くなったなど、そうした事情があったのかもしれない。

「悟りへの手段」ということで3要素挙げたが、良いマスターであれば、適切なメソッドも与えてくれるし、モチベーションも高めてくれる。従って真剣な求道者であるほど、マスターの持つパワーの威力に敏感にならざるを得ないのだろう。神秘生理学的バイブレーションがどうということだけではないと思う。

今の時代はすべての人が、人のパワー・スポットとなることを期待されている時代であり、
それがアクアリアン・エイジ、つまり誰もが悟ることを期待されている時代なのだが、如何せん人のパワースポットは、あまり出ているとも思えない。それが続々と出るようになれば、また違った展開となるのだが。




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5.悟りへの手段-12

2009-03-22 05:44:02 | 夢と真実
◎宗派をどうみるか-3

「悟りへの手段」ということで3要素を挙げるとすれば、メソッド(冥想手法)とマスター(グル)とモチベーションということになるが、これを見ても、組織宗教に入る入らないはそもそも問題にならないと思う。

つまり現代とは、各人が自分が自分の悟りを求めるところに追い込まれている時代なのだから、自分にフィットするメソッドとマスターとモチベーションの組み合わせを考えた場合、一つの特定の宗派を選ぶことに拘泥する必要はないのではないかと思う。その宗派はまず自分にマッチするかどうか、そしてその宗派に入信することがしっくりくるかどうかということ。いにしえの覚者もしばしば宗派遍歴しているものだし。

結局最後は、自分自身がどうかということに収斂してくるので、宗派の善し悪し、また宗派に入信するしないはあまりこだわらなくてよい問題だと思う。その時に自分にマッチしたやり方を採るのがベスト。

8人に一人がうつ病になる時代にあって、精神を病まずに生きることすらもそう簡単なことではなくなった。

悟る悟らない以前に、人並の生活をするためだけでも、全身全霊でもって過酷な生存競争をくぐり抜けていかなければならない時代でもある

悟っていない我々は、なにかと邪悪なパイブレーションを出している罪深いものであって、何が正しいか何が善なのかしばしば決めかねる、頼りない知性と判断力の持ち主であるが、それでもその暗夜において、手燭一個で、本当に確かな光明を求めて進まざるを得ないのだ。




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5.悟りへの手段-11

2009-03-21 05:43:57 | 夢と真実
◎宗派をどうみるか-2

宗教は幸福を求める手段である。ところが幸福というのは個々人によって求めるレベルがあまりに違いすぎるもの。それを意識してか、金が儲かる・手近な願望が叶うという現世利益を是認する組織宗教もあるが、それを問題にしない組織宗教もある。

現世利益とは、マンモンの神ホワイト・フォックスの司るところ。どんな組織宗教でもそれを全否定はできないが、それを主要テーマに据えた途端にその組織宗教は堕落しやすくなってしまう。

さる南の国では、入信した組織宗教の数が増えれば増えるほど受ける福も増えるとして多数の組織宗教に重複入信することをよしとする社会通念のところまである。これぞ組織宗教の弊害の極みである。

もう一つの組織宗教の弊害は、信者は一律の規則・戒律の遵守を義務づけられるが、それは必ずしも個々人の状態にフィットしていない場合があること。組織宗教が誰に対しても十把ひとからげに出してくる戒律は、そのすべての条項が修行者全員に必要なものとは考えにくい。

つまり各個人のてんでんバラバラな激動する状態に、共通のものさしを当ててそれが有効かどうかはまた別の問題であるということ。本来正師がその個人個人にマッチした規則・戒律を個別にアドバイスするのがあるべき姿だろう。

またもう一つの弊害は、信者はとかく組織宗教のグルまたは教義に依存するものと思い込んでいるので、自分自身の悟りに対する取り組みについて甘えが育ちがちであるところ。

教義もグルも自分以外の外の権威である。自分以外の外の権威に従うのは、人の覚醒のプロセスにおいては、もはや有害なだけであることをクリシュナムルティなども公然と説き続けた。

外の権威とは、組織宗教の教義やグルだけではなく、チャネリングなどで登場する天使や観音、菩薩などの諸仏なども同類である。クリシュナムルティの場合は、高級神霊としてクート・フーミーなどが指導を与えていたことが知られているが、それを崇拝せよなどという方向は彼の著作のどこにもなかった。

組織宗教に入っていようがいまいが、最後は自分一人の勝負となるのだ。




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5.悟りへの手段-10

2009-03-20 07:18:32 | 夢と真実
◎宗派をどうみるか-1

宗教には、組織宗教があり,師匠と弟子だけの宗教もあり、一人だけの宗教もある。

悟った人を中心に大勢の悟っていない人達がとりまく宗教もあれば、悟った人は既に亡いが教義だけを中心に大勢の悟っていない人が集まる宗教もある。また最初から悟った人などいないけれども悟っていない人が集まる宗教もある。

また正しい宗教とされるものもあれば,真言立川流のように邪教とされるものもある。

教団の教祖やリーダーが悟っていようがいまいが、それはどちらでもよいことではないか。また極論かもしれないが、それが邪教だろうが邪教でなかろうがそれはどちらでもよいことではないだろうか。

というのは、今の時代は自分自身が悟るかどうかが試される時代であって、自分が悟った人の開いた宗教に参加しているかどうかや、その宗教組織の一員であるかどうかはほとんど問題にならない時代に入ってしまって久しいのではないか。同様に仮に邪教の一員であっても自分がそれをきっかけに悟りを開ければ結果的に何の問題もないのではないかと思うからである。

組織宗教が時代を安定させてきたという功績は無視することはできないが、一方で組織宗教の信者になるというのは弊害もある。

そのひとつは、組織の発展に協力させられることによる弊害である。まず多額の寄進をすればするほどよいとする思想が大体ある。本来寄進の多寡は問題にしないはずなのだが。

そして組織宗教である限りは、自分の宗教組織を守るために他の宗派組織を排撃するのは当然のことであるので、平和を捨て心ならずも争いをさせられ、他人を傷つけるということがある。ある宗派が他宗派を執拗に排撃するのは、組織宗教の宿命である。

夢窓国師は、弟子に「密教者、禅者がお互いに罵りあっている今の時代は大変な時代である。たとえ龍樹が再来しても両方兼ね備えることはできないだろう。」と述べ、禅と密教間の争いを収める困難を評した。




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5.悟りへの手段-9

2009-03-19 05:56:33 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガの弊害と適性

クンダリーニ・ヨーガはすごい。アストラル・トリップができるようになる。クンダリーニ・ヨーガは素晴らしい。超能力が使えるようになる。などというキャッチ・コピーを目にしたあなたは早速クンダリーニ・ヨーガ関係の書籍を手にして読んでみる。

するとチベット密教修行者が、標高4千メートル以上のコンビニもない人里離れたはげ山の洞窟に一人で何カ月も籠もって歓想法を繰り返す様子を読むようになる。

あるいは、カルロス・カスタネダがヤキ・インディアンの呪術師について、真っ暗闇のサボテンや灌木や岩のある荒れ地を全力疾走させられたり、背中をドンとどつかれていきなり深層意識に入らせられて、アストラルな世界でバトルみたいなことをしているのを知ることになる。

こういうところを読んで、こうした世界に更に関心が高まる人は、そんなに多くはないと思う。

クンダリーニ・ヨーガで修行するには、日常生活を捨てて、冥想修行に専念する生活に入らないとならないので、十人並みの社会生活はできなくなる。修行中においては、些細なきっかけで、魔境すれすれの幻視体験を引き起こしたり、深い定に入ったままで出て来れないというようなことがままあるようなので、そんな人では、毎朝の通勤を始め、労働ノルマに耐えられない。そのような人を許し、認めてくれるような社会のしくみにはなっていないのだ。

クンダリーニ・ヨーガは死の世界を扱う技術。死の世界を扱うとは、エーテル体宇宙、アストラル体宇宙、メンタル体宇宙などを取り扱うということで、現代社会のように肉体だけを公認している世界観の社会とは相いれない世界観で暮らすようになるということである。

要するにクンダリーニ・ヨーガ修行者は、修行の途中では、フツーの人とは話も考え方もかみ合わなくなってしまって、日常生活ができなくなってしまいがちになるのである。

クンダリーニ・ヨーガは社会的不適応者に残された最後の技術であると表現するのは簡単だが、実際にそういう生を生きるのは本当に大変なことだと思う。まともに進めば極貧で精神障害者ということになりやすいので、生活の面倒を見てくれるパートナーがいることが実際に修行を継続する数少ない環境のひとつとなってしまうのだと思う。クンダリーニ・ヨーガの修行を始めたからといって、いきなり霞を食っていけるわけではないのだから。

そこまでして修行をせざるを得ない人たちはどんな人なのかといえば、それは神秘家ということになる。

神秘家とは、一般人の目から見れば、日常生活への関心よりも、神霊や神秘体験の方に関心が強い人ということになるだろう。神秘家の内的世界では、神秘的世界こそが日常であると認識されている人ということになろうか。

要するに神秘家適性のある人だけが、クンダリーニ・ヨーガ、密教、チャネリングへの道を進むべきであって、欲得だけ、ちょっとかじってみたいだけみたいな中途半端な気持ちで入ると大怪我をしがちな道であると思う。よってクンダリーニ・ヨーガは万人に開かれた道ではあるが、極めてタフな道であることを承知しておくべきだと思う。




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5.悟りへの手段-8

2009-03-18 05:31:18 | 夢と真実
◎日常の仕事を真剣に

この章では、冥想の準備、冥想手法のランクわけ、個人における冥想手法の変遷・遍歴、
手法別のグルとの出会い方の相違、時代の流れにおける冥想手法の変遷と論を進めてきているが、坐る冥想とほとんど縁のない人向けの冥想について論じ漏れている。

坐る冥想とほとんど縁のない人向けの冥想とは、日常の仕事を一生懸命やることである。学生にとっては学業を必死にやる、主婦なら家事を丹精込めてやる、社会人なら仕事を精密にやることである。王陽明はこれを事上磨錬と呼んだ。

世の中にはその日その日を精一杯生き、老いて、やがて死んでいくというだけの人生があるが、確かにそうした人生には、その人生で果たすべきカルマを果たした、天命を尽くしたという美しさがあるものだと思う。

そしてその人生の中には、それぞれに応じた歓喜があり、絶望があり、その魂の成熟度によっては悟りが起きる人もいるが、大方は起きることはないだろう。

そんな生き方は決して否定、非難される筋合いのものではないが、現代の時代的な状況からみるとややのんびりしすぎている観がある。これだけ激しい生存競争が日夜繰り返されているのであれば、こんな牧歌的な生き方はもう現代では可能ではないのではないか。

自分もそうだが、一日のうちに冥想として坐る時間はとても限られている。従って仕事に一生懸命に打ち込むしかない状況にある人がほとんどではないか。

ところが働いている人にインタビューすれば、百人が百人とも「私は一生懸命やっている」と答えるに違いない。そうした自覚の中で、悟りに近い人とそうでない人のどこが違うかといえば、目に見えないルールを精密に守りながらやっている点ではないだろうか。

そのルールとは、冥想の準備で謳われるような、素直であること、正直であること、情熱的であることであり、何より無私であることなのだろうと思う。こんなルールに従って仕事をしている人はそんなに多くはない。

こうした日々の努力の積み重ねが、やがて悟り、おそらくは只管打坐型の悟りに導くことがある。

また日常の仕事を真剣にやることが、先に挙げた単に天命を生きる人とどこが違うかといえば、真剣味、本気の程度が違うとしか言えないけれども。

王陽明が事上磨錬の他に静坐も併用したように、われわれも、日常の仕事を真剣にやることはもちろん坐る冥想もするのが定番である。




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5.悟りへの手段-7

2009-03-17 05:50:39 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガの変貌

ダライ・ラマ脱出以前のチベットには、王の近侍に予言専門官があった。予言はどうやるのかというと、重いかぶりものをかぶって舞踏を始め、舞踏の中でトランス状態にはいり、さる神霊に憑依される。そこで予言を行うというもの。

これは、王が審神者であり、予言専門官がよりましということで、日本の帰神と異なる技術ではない。つまりチベット密教も古神道も古くから帰神をメインの技術に据えてやってきたわけである。

それと修法(呪法)。鬼神を使役したり、超能力を駆使して願望を実現しようとする技術。元寇の大難で国を挙げて戦勝祈願の修法がなされたように、前の大戦でも同様の戦勝祈願の修法がなされたという話がある。

帰神も修法も為政者に近いところで利用されてきた。つまり現象・肉体レベルをメインとする考え方が主流で何千年もやってきたのだと思う。

こうした流れは、20世紀半ば頃から究極を意識したものに変貌してきた。一つは出口王仁三郎が帰神をやめたことやクリシュナムルティが帰神をやめたことに象徴される。

クンダリーニ・ヨーガ的世界観を認識させるには、まず肉体がすべてではないことを認識させる。降霊術や帰神をやってみせて、肉体がすべてではなく、エーテル体やアストラル体があることを実証する。

ところがエーテル体やアストラル体にかかわることは、その世界のクリーチャーとコンタクトを持つことでいろいろな弊害もあるものだから、そこそこにしなくてはならない。
また肝心の究極そのものとはあまり関係がないので、寄り道はほどほどにしなくてはならない。

そこでクンダリーニ・ヨーガにもニルヴァーナがあることを積極的にオープンにする流れが出てきた。これが霊界物語であり、カルロス・カスタネダのシリーズなどであるように思う。クンダリーニ・ヨーガの究極は、秘教そのものであって、縁のない人間にとってはまったく関心を惹くものではない。それは宗教教義や人間の体験や人間の想像力を全く超えたものである。

つまり神霊、アストラル体などとかかわるのは、相変わらずマインドの所業であるから、マインドを脱けることが時代のテーマに切り替わったのだろう。マインドを脱けるのがアセンションであって、霊がかり、チャネリングはマインド・ゲームの内である。

クンダリーニ・ヨーガは、漸進的である、段階的な進歩を認めるという基本原則があるが、ある意味でそんなことを言っていられない危機の時代に突入してしまったというだろう。これはクンダリーニ・ヨーガの一つの変貌と見ることができる。

バグワンは『瞑想-祝祭の芸術』のサハスラーラ・チャクラの説明の中で『窮極』の説明を具体的にしている。
『マインドの終焉は象徴の終焉だ。そして最後の時には、マインドは自分が知っている象徴の中でも最も重要なものを使う。その後はマインドがなくなるから象徴を使う』

ここの象徴とは、人によっては高級神霊として見えることもあるだろう。高級神霊の終焉がマインドの終焉であるとも読めるように思う。




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