アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

4.悟りの効果-9

2009-02-28 07:03:15 | 夢と真実
◎揺らぐ現実感

神化、即身成仏などというが、そんなことは善良な社会人の常識では考えられないし、第一そんな体験を持つ人に出会ったことはないなどと人はいう。

チベット密教においては、修行者の見ている世界は、重厚な観想(イメージ・トレーニング)の繰り返しにより、何がリアルで何がリアルでないかわからなくなる。つまり見ている世界の現実感が絶対的なものとは感じられなくなり、相対化する。

そして、相対化するのは周りの世界だけではなく、それを見ている自分という固定観念もやがて相対化、希薄化し、いつしかその足元の地面も崩れていく。

修行が進み、それぞれのファンタスティックな観想で作られた世界の中で、たとえば自分の身体が八大菩薩や五明妃からできていることを見るのに成功した自分は、最後には神秘そのものによって殺されねばならない。

自分が死ぬ。と、なぜか、そこに何の理由も根拠もない歓喜、形のない歓喜がある。それが効果。

自分が死んだからには人間の側の効果ではない。
つまり金が沢山あるから嬉しい、健康だから愉快だ、人間関係良好だから気分がよいなどの種類のものではない。好き勝手な願望が叶うなんてものでもない。でもそこからはあらゆる世界に出入自在である気配があるようなのだ。

チベット密教の観想法も知らないし、諸尊格(神霊)のイメージ操作もやっていない我々も、なぜか何がリアルで何がリアルでないかわからなくなる瞬間があるような感じを持つ人が増えているように感じる。昨今、「魔がさした」ことによる犯罪が異常に多いが、その「魔がさす」とは、この何がリアルで何がリアルでないかわからなくなる一瞬の状態なのではないかと思う。

いわばカタギの現代人の心理は、半分修行の進んだチベット密教修行僧のようなところにあるのではないか。

なんでそうなっているかを想像すると、テレビやDVDを見ることによって半強制的にテレビ画像イメージにのめりこませることを繰返すことは、現実感を緩くする効果があるのではないかと考えられる。(任天堂DSなどのテレビゲームも同じ)

そしてテレビは最近の大画面化により更に臨場感を増し、テレビやDVDを見る頻度の高い人は一層現実感がブレやすくなるということがあるように思う。

つまり現代日本人の多くは、意図せずチベット密教の初歩である「現実感を揺るがす」修行をしていることになるが、それを意図していないことと、真正なグルにもついていないところが、予期せぬ悪影響を多方面に及ぼしていることが想定される。

現実感が揺らいだ人は、自分もやがて揺らぎ、真正のグルを求める段階となれば、グルは必ず現れるものだと古人は保証してくれている。




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4.悟りの効果-8

2009-02-27 06:03:15 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガの効果

クンダリーニ・ヨーガは、自分が死んでなんぼのテクニック。いくら霊が見えたり聞こえたりしても、自分が死なないと本当のところはわからない。死者の声を聞いたり本で読んだりしているあなたは何なのか。死者の姿を見ているあなたは誰なのか。そこのところがわからないと真相に迫ることはできない。

肉体は死ぬ。肉体の付属物みたいなエーテル体も肉体の壊滅後まもなく死ぬ。アストラル体も天人五衰というくらいで、いつか死ぬ。メンタル体も個別性ある色(物質、現象)の世界に属するものなので、神の属性たるチャクラが配されているといえどもいつかは死ぬのだろう。

これら広義のボディはいつか死ぬ。自分のボディが全部死んだら最後はどうなるのだろうか。その探検がクンダリーニ・ヨーガなのだろうと思う。素っ裸の自我の遍歴の終着点、それが中心太陽であり、大日如来であり、天御中主神になるのだろう。

クンダリーニ・ヨーガでは、自分が死んだことのない者はいくら霊能力、超能力があっても真正のグルとは、呼べまい。師弟ともに地獄に落ちる可能性が高いからである。

そんな鉄火場をわたり歩く道ではあるが、死者に対する慈しみがあふれるがごとく、クンダリーニ・ヨーガは人にやさしい。只管打坐タイプの冥想道は、究極しか問題にしてくれない峻厳なものだ。それに対してクンダリーニ・ヨーガは、中途の段階も認めてくれるやさしさがある。死者に対してやさしい道は、生者の求道者にもやさしい。

機能的な言い方をすれば、クンダリーニ・ヨーガに必要なものは、真正のグルとの出会い、いつでも死ねるほどに成熟した自我、柔軟で健康な肉体、正しい感受性。

そして身体から離脱して中心太陽と合一することの効果は、ヘルメスの言い方では神化である、空海なら即身成仏である。何か問題があるだろうか。それは人間としての効果ではないけれど。

映画『おくりびと』がアカデミー賞を受賞した。死は過去の歴史において常にタブーとされてきた。それが表に出て来たということは、神への入り口の扉がちょっと開けられたことになるという意味で象徴的なことである。




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4.悟りの効果-7

2009-02-26 05:24:28 | 夢と真実
◎霊能力・超能力を相手にしない

只管打坐タイプの冥想では、超能力は相手にしない。けれども、悟りにまで至った人々には、霊覚はあるし、超能力はお手の物である。

ただし彼らは、まずそれを大勢の前で披露するようなことはない。病気治癒能力や予知能力や、遠隔地の出来事を知る能力があることを時々目にするが、その能力は、おおむね依頼者個人、相談者個人のためなどの限定された目的のためにやむなく用いられるものである。

王陽明もそうだったし、クリシュナムルティもそうだった。

このように只管打坐タイプ冥想の悟りでの超能力は付随的に発生するものだが、彼らにとっては悟りの効果というほどの価値すらもないと意識されている。むしろ修行者にとっては百害あって一利なしと考えているところがある。

特殊の能力やパワーがあることは、人の権力欲、支配欲を刺激しがちなものであり、自我をいたずらに肥大化させやすいものだから、私を去って未発の中を得るという只管打坐タイプの冥想の目標到達の流れに棹さすものである。




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4.悟りの効果-6

2009-02-25 06:27:05 | 夢と真実
◎すべての人にとっての幸福

中国の禅僧洞山の言葉。先生とは洞山のこと。
『先生はある日、人々が畑仕事に出はらったあと、寮舎をみまわっていられると、一人の僧が仕事に行かずにいるのが目に入った。

先生、「君はどうしていかない」
僧、「わたくしは病気です」
先生、「君はふだん健康なとき、一度だって出かけたことがあるのか」』
(禅語録/柳田聖山編/中央公論社から引用)

これは健康な時だって悟れるのに、いわんや病気の時に悟れないということがあるものかというところだろう。

この逸話は、病気にあっても、絶対の幸福に出会えることが悟りの効果であることを保証してくれている。悟りこそが万人に絶対の幸福を与える最後の道なのだ。悟りの効果の絶対性はここにあると思う。禅も含め只管打坐タイプ冥想で悟った人はこれしか語らないといっても過言ではあるまい。




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4.悟りの効果-5

2009-02-24 05:59:01 | 夢と真実
◎クリシュナムルティの効果

クリシュナムルティのいうところの瞑想とは、メディテーション全般を指しているのではなく、悟りを指している。その悟りは只管打坐タイプの冥想における悟りである身心脱落のことである。

『言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、祈りに対する答えは既知なるものの反応である。

瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、その領域に思考は入れない。その中では何の分離もなく、それゆえ私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。

瞑想は開かれた場所にあり、そこには何の秘密も介在していない。あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、そのような明澄さの中ではじめて、愛とその美しさが現実のものとなるのである。』
(クリシュナムルティの瞑想録P166/クリシュナムルティ/平河出版社から引用)

まず思考がない、想念停止があり、そして自分という個別性が消滅する。その世界はどこにあるかと言えば、薄皮一枚を隔てたところでもなく、または破りやすい卵の殻一枚を隔てたところでもなく、開かれた場所にあるという。これは開悟した者が、彼岸からそれを語る言い方。

我々にとっては、薄皮一枚、卵の殻一枚が隔たっていると説明してもらった方が知的理解は容易であるが、そんな先入観すらも邪魔になることからクリシュナムルティはこのような言い方をするのだろう。

そこに至るには秘密などないとは、最後は只管打坐という冥想にこだわる必要もないとも言っているようにとれ、坐相は自ずと起こるということを意識したものだろうか。

そしてその悟りのなかで、愛や美などの徳目が花開く。これが身心脱落という悟りの効果というものである。愛、美、力強さ、歓喜、智慧、安心、自由それは目に見える効果でもあるが、悟りという根っこがないと花は開かない。

クリシュナムルティにとって瞑想とは、othernessそのものであって、坐ることではなかった。だから彼の著作はいまひとつわかりにくいところがあるのではないだろうか。要するに彼は著作の中で瞑想、瞑想と連呼しているのに、ちっとも瞑想のことなんか語っていやしなかったのだ。

クリシュナムルティの著作は多く、そのテーマは時間、思考、自由、暴力、意識、快楽、教育など、ありとあらゆるテーマに及んでいる。それらは、すべて悟り、othernessにいることによって、どの側面においても真正な生き方が展開することを述べている。それが悟りの効果なるものである。

勿論それは自分だけ得をするとか、自分にだけ都合のよい願望がかなうなんて下世話なことなんかではない。肉体を持つ以上は、下世話な生活からは逃げられないが、大本のところに根を張ることが必要なのだ。




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4.悟りの効果-4

2009-02-23 04:49:26 | 夢と真実
◎身心脱落の効果-OSHO-2

そして身心脱落が起こってから。

まず個ではなく、全体性の感じ、そして力の実感があった。
川とは、オームの川であり、個から全体へ遡行しようとする川、天の安の川原。その力強い流れを感じている。

そして全宇宙が天恵である感じ。
永遠の実感、毎瞬が奇跡とは、「いまここ」のこと。

この事件をOSHOは爆発と呼ぶが、この体験以後あるのものは虚空だけだとしているので、これは身心脱落だと思う。

『わたしのなかに、部屋を飛びだそう、空の下に出ようという深い衝動が湧き上がった。それは息づまりそうだった。それはトゥ-マッチだったのだ!殺されてしまう!もしあと数瞬でもそのままだったら、わたしはそれに窒息させられていただろう。そんな気がした。

 わたしは部屋から飛びだすと、道路に出た。とにかく大空の下で星々とともに、樹々とともに、大地とともにいたい・・・・・・自然とともにいたいという大きな衝動があった。そして、外に出たとたん、窒息しそうな感じは消え去った。部屋という場所は、あれほどの大現象には小さすぎたのだ。あの大現象にとっては、空でさえ小さい。それは空よりも大きいのだ。空でさえその限界ではない。しかし、そのときは部屋のなかよりも楽になった。

 わたしはいちばん近い庭園にむかって歩いていった。それはまるで重力が消滅したかのような、まったく新しい歩行だった。歩いていたのか、走っていたのか、それとも空を飛んでいたのか、どれとも決め難かった。そこには重力がなかった。 わたしは重さがないような感じだった。まるで、なにかのエネルギーに運ばれているかのように-----。わたしはなにかべつなエネルギーの手中にあった。

 生まれてはじめて、わたしは孤独(alone)ではなかった。生まれてはじめて、わたしはもう、ひとりの個ではなかった。生まれてはじめて、水滴は大洋に落ちたのだ。いまや、海全体がわたしのものだった。わたしが海だった。そこには限界というものがなかった。まるでなんでも好きなことができるかのような、途方もない力が湧いてきた。そこにわたしはいなかった。ただその力だけがあったのだ。

 わたしは毎日のように行っていた庭園に着いた。庭園は夜は閉まっていた。遅すぎた。ほとんど夜中の一時に近かった。庭師達は眠りこんでいた。わたしは泥棒のようにしてその庭園にはいらなければならなかった。門をよじのぼらなければならなかった。だが、なにかがその庭園に向かって引っぱっていた。わたしには自分をひきとめることができなかった。わたしはただ浮かび漂っていたのだ。

 それがわたしのくり返しくり返し言う「といっしょに浮かび漂いなさい。川を押し進めることはない」という言葉の意味なのだ。わたしはリラックスしていた。手放し状態だった。わたしはそこにいなかった。そこにはそれがあった。それを神と呼ぶならば---神がそこにいた。

 庭園に足を踏み入れた瞬間、なにもかも光り輝きだした。あたり一面に---その天恵、その祝福があった。わたしは生まれてはじめて樹々を見ることができた。
 その緑、その生命、樹液そのものが昇ってゆくところ---。庭園全体が眠りこんでいた。樹々も眠りこんでいた。しかし、わたしには庭園ぜんぶが生きているのが見えた。小さな草の葉でさえ、たとえようもなく美しかった。

わたしはあたりを見まわした。一本の木が途方もなく光り輝いていた。モールシュリの木だ。それがわたしを惹きつけた。それ自身にむかってわたしを引き寄せた。わたしがそれを選んだのではなかった。神自身がそれを選んだのだ。わたしはその木のところへ行くと、その下に腰をおろした。そこへすわると同時に、ものごとが落ち着きはじめた。全宇宙がひとつの天恵となった。

 わたしがどのくらいその状態にいたかは断定しにくい。家に帰ると、朝の四時だった。だから、時計上の時間でいえば少なくとも三時間そこにいたにちがいない。が、それは永遠だった。それは時計の時間とはまったく無関係だ。それは時をもたなかったのだ。

 その三時間は永遠の全体、終わりなき永遠となった。そこに時はなかった。時間の経過はなかった。それは純潔なるリアリティーだった。犯されず、触れられず、計測もされえない---。

 そしてその日、なにか今日まで継続していること---ひとつの連続としてではないが---いぜんとしてひとつの底流としてひきつづいているなにかが起こった。永続性とはちがう。毎瞬のように、それはくり返しくり返し起こりつづけているのだから---。一瞬一瞬がひとつの奇跡だった。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)




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4.悟りの効果-3

2009-02-22 06:52:16 | 夢と真実
◎身心脱落の効果-OSHO-1

身心脱落以前と以後でどう変わるか。それについては、OSHOのケースが、時代も最近のことであり、わかりやすいかと思う。

まず身心脱落が起こる瞬間の前後。

『わたしは眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。からだは眠っていたが、わたしはさめていた。それはじつに奇妙だった。まるで、自分がふたつの方向に、ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。自分が同時にその両極であるかのようだった。正と負が出会っていた。睡眠と覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。   

 それは気味が悪かった。生まれてはじめて、それはまさしく根底からあなたにショックをあたえる。あなたの基盤を揺るがす。その体験のあと、あなたは二度ともう同じあなたではありえない。それはあなたの生にひとつの新しいヴィジョンを、ひとつの新しい質をもたらすのだ。

 十二時近くになって、突然目が開いた。わたしが開いたのではない。眠りがなにかべつなものによって破られた。わたしは、部屋の中の自分のまわりにひとつの大いなる<現存>を感じた。それはとても小さな部屋だった。わたしはあたり一面に脈動する生命を感じとった。大いなる波動だ。ほとんどハリケーンといってもいい。光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐---。
 それが実に途方もなく現実的であるあまり、なにもかも非現実的になってしまった。部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、自分自身のからだも非現実的になった・・・

 その夜、もうひとつの現実(リアリティー)がその扉を開いた。もうひとつの次元が姿をあらわしたのだ。突如として、それはそこにあった。もうひとつのリアリティー、分離したリアリティー、本当に現実(リアル)なるもの・・・あるいは呼びたければどう呼んでもいい。<神>と呼んでもいいし、<真理>と呼んでもいい。<ダルマ>と呼んでもいいし、<タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。

 それは無名なるものだった。しかし、それは厳然としてそこにあった。じつにすきとおっていて、実に透明で、しかも手でさわれるぐらい確固としていた。そのおかげで、部屋の中は窒息しそうだった。それはトゥーマッチで、わたしにはまだそれを吸収する力がなかった。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

この後、すぐにOSHOは、部屋を飛び出して、なじみの庭園に向かう。このことから、クンダリーニ覚醒のプロセスのような呼吸や拍動の停止が起こってその後に覚醒があったわけではなく、この「身心脱落」は呼吸も拍動も残したままで発生したので、それが起こった直後に歩いて庭園に向かうというようなことができたと考えられる。

肉体が生きたままで、意識ははっきりと覚醒したままで、自分という水滴が全体なる大洋に落ちるように脱落したのだろう。

この分離したリアリティの登場によって、初めて「夢と真実」とは何を意味しているかがわかるような気がする。





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4.悟りの効果-2

2009-02-21 06:44:46 | 夢と真実
◎只管打坐の効果-愛

只管打坐の悟りは身心脱落で、それは言語では表現できないものとされるが、身心脱落の前段で、愛、大慈悲についての悟りがあるようだ。

ダンテス・ダイジが只管打坐による愛の目覚めを呈示しているが、天童如浄も宝慶記の中で只管打坐が大慈悲を伴うものであることに言及している。

曰く、阿羅漢、辟支仏(声聞より上で、菩薩より下のランク)の外道の坐禅は大悲を欠いている(が、只管打坐はそれを具足しているというニュアンス。)。また、声聞の中にも坐禅はあるが、慈悲が薄い。これらに対して、仏祖の禅である只管打坐は、常に慈悲の心があるとする。ここでは天童如浄がこのように殊更に慈悲について言及していることに着目した。

同じ只管打坐タイプの王陽明も、良知は、真誠惻怛とし、愛について感慨を語る。
王陽明は、晩年、弟子の聶文蔚に対して、
『良知とは、天理が霊妙な明智として自然に発現したものにほかならず、それは、真心から同情し痛み哀しむ心にほかなりません。そしてそれこそが実は良知の本体なのです。』
(王陽明大伝五/岡田武彦/明徳出版社から引用)

つまり良知とは、天の方からやってくる霊妙なる理(法則)の現れであって、その本体は真心から同情し痛み哀しむ心(真誠惻怛(しんせいそくだつ))であるという説明。
良知とは、自分の個の方にあるのではなく、天なる究極の側からやってくるものの現れであり、その本質は愛であると言っているように読める。

このように身心脱落に至る途中のステップで愛に出会うのが、只管打坐に特有のフレイバーなのではないだろうか。




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出口王仁三郎の肉体離脱

2009-02-20 05:39:02 | 古神道の手振り
◎愛の情動

出口王仁三郎は、人間の肉体と微細身をつなぐものは、実は愛の情動であるという。心臓は情動に相応し、情動は愛に属す。そして死後は、生前の平素の愛憎のあり方のままに生きるようなので、生前からを言い、善を行う必要があるとする。

メンタル体には、神の七つの属性たる7チャクラがあるとは言っても、人間にとって最も肝心なものは愛のアナハタ・チャクラであることを強調している。

また組織宗教向けの本でもあるので、善を言い、善を行うことを勧めることを忘れてはいない。

『人間の精霊が呼吸及心臓と内的交通をなす所以は、人間の生死に関する活動に就いては、全般的に、又個々肺臓心臓の両機関に拠る所である。而して人間の精霊即ち本体は肉体分離後と雖も、尚少時は其体内に残り、心臓の鼓動全く止むを待つて、全部脱出するのである。

而して之は人間の死因如何に依つて生ずる所の現象である。或場合には心臓の鼓動が永く継続し、或場合は長からざることがある。此鼓動が全く止んだ時は、人間の本体たる精霊は直に霊界に復活し得るのである。併しながらこれは瑞の御霊の大神のなし給ふ所であつて、人間自己の能くする所ではない。

 而して心臓の鼓動が全く休止する迄、精霊が其肉体より分離せない理由は、心臓なるものは、情動に相応するが故である。凡て情動なるものは愛に属し、愛は人間生命の本体である。人間は此愛に依るが故に、各生命の熱があり、而して此和合の継続する間は、相応の存在あるを以て、精霊の生命尚肉体中にあるのである。

人の精霊は肉体の脱離期即ち最後の死期に当つて其瞬間抱持した所の、最後の想念をば、死後暫くの間は保存するものであるが、時を経るに従つて、精霊は元世に在つた時、平素抱持したる諸々の想念の内に復帰するものである。

さて此等の諸々の想念は、彼れ精霊が全般的情動即ち主とする所の愛の情動より来るものである。人の心の内分即ち精霊が、肉体より引かるるが如く、又殆ど抽出さるるが如きを知覚し、且つ感覚するものである。古人の諺に最後の一念は死後の生を引くと云つてゐるのは誤謬である。

どうしても平素の愛の情動が之を左右するものたる以上は、人間は平素より其身魂を清め、善を云ひ善の為に善を行ひ、且つ智慧と証覚とを得ておかなくてはならないものである。』
(霊界物語第47巻)




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4.悟りの効果-1

2009-02-19 05:36:49 | 夢と真実
◎無用の用

老荘は無用の用を盛んに語り、車軸の穴は中空だが、その穴がないと車軸を差し込めないから車は走れないから、穴の中空はそれだけでは無用だが、実は役に立つとても大事なことだなどと、全然真意が推し量れない説明をして、読者を煙に巻く。

現代的な意味での無用の用とは何か。

それは冥想のことである。冥想こそ無用の用なのだ。無用こそ実用の母とは老荘のロジックだが、そこに論理的、演繹的な連続などない。無用なものはいつまでたっても無用のままである、実用、有用になりはしない。ところが無用を極めれば、なぜか実用の役に立つ、超能力さえも思いのままという不可思議な現実があるというだけのこと。

冥想の効果は、実用でないものが2種、実用のものが多数あるという言い方になるだろうか。

実用でない効果とは、身心脱落と中心太陽との合一である。これぞ悟り。

他方狭義の悟りではないが、実用的な冥想の効果は、観想法による願望実現や、マントラ・シッディ、広義ではランナーズ・ハイみたいなものもそれに入るだろうから、無数にあると言ってよいだろう。

この文では、悟りを身心脱落と中心太陽との合一しか認めていない。それ以外では逆転の可能性が常にあるからである。いまさらそんなものを語ってどうする。ギリギリのところでそれは通用しないのだと思う。崖ッぷちに立たされた人に耳触りのよいことを言っても通用しはすまい。

見過ごされがちだが、世界と自分との一体感には2種あって、肉体から離脱しない場合の一体感と肉体から離脱する場合の一体感である。

もっとも肉体から離脱する場合は、一体感などという言語表現にはならない。慧命経だと、「一片の光輝が法界を周る」みたいな感じ。両者は似たように見えて、実は雲泥の差があるのではないかと思う。




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3.悟りの必要性-17

2009-02-18 05:59:01 | 夢と真実
◎ソドムのロト

悟りの必要性という切り口で書くと、とうしても功利的な発想のにおいがつきまとうが、真相はそうではないことを改めて強調したい。

善行を積んで、将来天国に入りたいとか、みんなが善人になれば、この世は地上天国になって生活しやすくなるから、だから自分は善人になりたいとか、現代社会は地獄的様相を呈しており、このままでは世界戦争が起きて天変地異も発生して世界は滅亡しそうだからそれを避けるために、皆が悟らねばならないのだ、みたいな計算高いことを言っているように見えるかもしれない。

それは結果としてたまたまそうなるかもしれないが、そんな打算に基づいた行動をいくら繰り返しても、状況は決して良くはならないことも強調しているつもりなんだけれど。

煎じつめれば、当たり前に生きる、一生懸命本当に生きる姿の行き着く先が悟りであるということになる。ところが、ほとんどの現代人にとっては、当たり前に生きる、一生懸命本当に生きるって何のことかイメージすらも浮かばない。

そこで冥想する。
打算もなく、何の期待もなく、しみじみと坐ること。これから始めるしかない。

旧約聖書の創世記に、ソドムの町に正しい人が10人いれば、町全体を許してやろうと神に告げられたが、結局正しき人は、ロトの家族しかいなかったというエピソードがある。ロトはもともと町全体を救ってやろうという計算があって、正しい人になったわけではないだろう。そんな下心があれば、『正しき人』にはなれないからだ。一旦はそんな下心すら捨て去った人だけがそうなるものだと思う。

こうしたかそけき感触にピンと来る感受性がある人しか冥想を始めないのだろうと思う。




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出口王仁三郎の生死観

2009-02-17 05:57:08 | 古神道の手振り
◎死は惟神(かむながら)の摂理

『宇宙の万物は神の生成以来幾万年間同一体にして幾万年の未来に至るも変るものでは無い。吾人は神が生成し玉ひし祖先来の肉体にして幾万年の未来までも之を伝承し得るものである。

 凡て生物に死の関門があるのは 神様が進化の手段として施し玉ふ所の神の御慈愛である。死無きものは固着して変ることが無い。若し人生に死の関門なき時は人間も無く子孫も無いものとなる。生物は死あるを以て生殖の機能を有するのである。

故に死なるものは生物の最も悲哀とする所なれども是また惟神の摂理である。併し人間は他の動物と異なり死後始めて霊界に入り復活して天国の生涯を営むものなれば、人間の現肉体の生命は只その準備に外ならない事を知らねばならぬ。』
(霊界物語第56巻総説)

これは、天国の生涯を死後営むことを主とするクンダリーニ・ヨーガに特有の、死後をメインとする考え方。キリスト教にもこんな考え方のものがある。浄土系思想の根本はわりとこんなところから出てきているのかもしれない。人間以外の動物は,肉体を持ちながら、天国を生きているわけだ。

冒頭に、幾万年でもその肉体を保持しうることを何げなく書いているが、これは熟達したクンダリーニ・ヨーギなら、その意のままに肉体の変成若返りくらいはできることを意識したものではないかと思う。肉体の存続について大まじめに書いているので。




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3.悟りの必要性-16

2009-02-16 04:11:26 | 夢と真実
◎文明の自殺の回避-2

一方で、社会的、政治的な利害調整でそうした暴発をある程度防げるのではないかという観点もある。また平和運動や反戦運動で戦争の発生をくい止めることができるのではないかという観点もある。無私なる価値観やピースフルな生活様式の普及で世界に愛を広げることができるのではないかという観点もある。

しかし私は、そうしたものも自分勝手な願望実現の動きが無数にある中の一種にすぎないので、結局根本的な解決にはならないと考える。覚醒していない人間が、自分が善であると思い込んだ行動が、本当に善なる行動であることはほとんどないのが現実でもあるからである。

換言すれば、こうしたある種の価値観やイデオロギーや教義や哲学にもとづく運動は、最初の動機はまともかもしれないが、やっている行為を俯瞰すれば、わけのわかっていない人たちが自分たちに都合のよい行動を行う人を増やして、世間全体の混乱を助長しているだけのように思う。

また覚者や有力霊能力者に追従したり、その行為のまねをすることは、外見こそ宗教っぽいが、狂信的カルトになる可能性を秘めるがゆえにより危険なところがある。


自我とその構成する世界が一旦死滅するという体験を経て、自分のものを相手に与えることに躊躇しない人々が続々と出ることにより、社会は愛によりその自壊を免れ、各国はお互に支配したいという野望を捨て、真の意味での共存共栄の道を進むことができるはずである。

これで、悟りが社会の自壊と世界戦争の予防に必要なことはわかった。

しかし、いきなり人類全員が悟りを開けばいいのだが、そんなことはまずありえない。
実際にはその途中の段階で、少数の覚醒した人々が、大多数の覚醒していない人々の中に暮らすという状況が発生する。少数の覚醒した人々というのは、生存競争に負けることを良しとする人たちであるので、実生活ではとても苦悩に満ちた境遇を強いられがちになることになる。




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3.悟りの必要性-15

2009-02-15 06:25:10 | 夢と真実
◎文明の自殺の回避

自分がいれば欲望がある。

欲望があれば欲望実現の苦悩がある。

その苦悩は、欲望が尽きることがないがゆえに永遠に解消されることはない。

この文明の方向はなるべく、全く別の考えを持った多数の人間の欲望をできるだけ沢山実現しようとする動き。

欲望だけが肥大しつつある今、これでは、てんでんばらばらの欲望の調整はうまくいかず、地球の暴発に至るだけ。

自分の欲望を実現しようとする努力は、全体から見れば生存競争であり、その延長線上には戦争がある。覚醒なき人間たちの自己実現は、ついには戦争に至るのである。


このように自分があるがゆえに、戦争は起こり、社会は自壊しようとしているのだから、自分をなくして、自分勝手な欲望が起きないようにすることがその解決である。

それでは自分をなくして、自分勝手な欲望が起きないようにすることとは何か。

自分をなくす、自我をなくすとは、自我の見ているこの世界全体が一旦壊れ去ってしまうことなので、生活者感覚からすれば、とても恐ろしいことである。

しかし自我の知覚している宇宙全体や自分の抱えるあらゆる欲望が死なないと、自分をなくして、自分勝手な欲望が起きないようにすることなど起こらないのである。

つまり自分と自分の知る世界全体が一度死に、その後に世界全体がそれ自身に目覚めることにより、その状態は起きるのである。

そのプロセスを、禅では大死一番と言い、道元なら身心脱落と言い、中国の柳華陽なら三界を超出すると呼ぶ。

というわけで、世界を救い、社会を守るためには、日頃の生活感覚からは想像もできない、自分と自分の暮らしている世界を捨て去るという技だけが解決となることを知り、面食らう。おまけに日常の生活習慣にない冥想なんかをしないと何も始まらないのだ。

そして冥想から悟りへというパフォーマンスは日常生活に対して表面的には何の利益ももたらさないが、それがあらゆる混乱を回避する唯一のソリューションであるという、愕然とするほどのギャップを心ある人たちに与えることになる側面は無視できない。




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3.悟りの必要性-14

2009-02-14 05:48:12 | 夢と真実
◎異端者排除から文明の自殺へ

異端者排除とは、もともとキリスト教の社会において、その特徴が顕著な発想であり、政治的な動きにおける特徴としては、キリスト教と異なる宗教の人や国は原則として冷遇・排除する、民主主義は良い、独裁はだめなどという発想である。なぜか日本でも他宗派排撃の考え方を持つ人たちもいる。

そうした伝統的な考え方を背景として、大航海時代にイエズス会を先兵とした西欧列強による植民地拡大の動きが始まり、その後も軍事的優位を背景に現在も西欧が世界のヘゲモニーを握っている体制は変わっていない。

軍事的、政治的には、軍事力の格差が圧倒的な場合は、それをバックにした抑止力によって、戦うことなく相手国(異端者)に要求を呑ませることができる。ところが、軍事力の格差が僅少だったり、ICBMタイプの長距離の核弾頭付きミサイルを相手国(異端者)が保有している場合は、自国の軍事的被害を予防するため、妥協しながらの交渉となる。今はこうした段階になりつつある。

つまりアポロン型国家の命脈は昨今の核拡散により確実に脅かされているのである。核ミサイルはいわば不死のアポロンを殺すやどり木の矢なのである。

こうして近代西欧文明社会は、社会内部から自壊を始めていると同時に、また国家間のレベルにおいても軍事的パワーバランスの不安定な段階に入ったことから、核による世界戦争は近いものと予想される。これらを鳥瞰した時に、文明の自殺の可能性が高まったと見ざるを得ない。

それでは、社会内部の自壊と国家間の熱核戦争を防ぐ手段などあるのだろうか。




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