アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

3.悟りの必要性-1

2009-01-31 07:02:56 | 夢と真実
◎神の側から見た人間観・道徳観

悟りの必要性とは、「悟りをどの程度必要であると感じるか」ということである。

「悟りの必要性」については、神の側から見た人間観・道徳観と悟っていない人間から見た善悪の感じが全く異なっている、場合によっては正反対となるという認識からスタートしたい。

要するに通常の悟っていない人間にとって、悟りの「さ」の字も全く必要とは感じられないという現実からスタートする。

フツーの悟っていない人間は、ボランティアをしたり、一日一善をしたり、恵まれない人に寄付をしたりすることは、とりあえず善いことと思い込んでいる。ところがそれは、実は神の厳しい目からすれば、善いことでも何でもないのだ。白でも黒でもなく、現実世界の混沌をさらに引っかき回しているに過ぎないのである。

こうした神の側の見方をヘルメス文書でも見ることができる。
『神は人間について無知ではない。逆に神は完全に人間を知り、また人間から知られることを欲する。

神の認識(グノーシス)、これのみが人間にとっての救いである。これがオリュンポスへの登行である。

これによってのみ魂は善であり、それ以外には決してではなく、悪になる。しかも必然的に悪になる。』
(ヘルメス文書/朝日出版社から引用)

※オリュンポスへの登行とは、ヘルメス文書中の「上へ至る道」「上への道」のことであり、クンダリーニ覚醒を指すが、つまり悟りのことを言うと見る。

一般的に、自分が悪事をしておらず、善行をいくばくかしていれば、世間の目も厳しくはないし、内心の満足もそこそこあるものだから、精神の安定もまずまず保たれるものだ。

しかしヘルメス文書では、悟ってない人間の行動は、実はすべて悪であると断定する。この見解はとてもわれわれの生活感覚や常識とずれたものである。

ところがこの見方はヘルメス文書だけの特殊な見解ではなく、洋の東西を問わず、至るところでこうした見解を目にすることができる。




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2.悟りとは何か-18

2009-01-30 06:07:29 | 夢と真実
◎神降ろし

(3)神降ろし

神降ろしについては、我が古神道には古くからの歴史と伝統があって、また善悪真偽深浅取り混ぜて巷のあちらこちらで見聞きすることがある。チャネラーやシャーマンもその一種である。

これは、神と出会うのでも一体化するのでもなく、我が身に一時的に引き入れるものである。大正10年以前の出口王仁三郎が盛んにこのやり方を広めようとしたが、結局邪霊の発動がしきりであったようで、結局うまく行かなかった。入れ物である人間の浄化の程度に応じて憑る神霊の程度が変わるので、人間の御魂の磨き具合がいま一つだとかかる神霊もいま一つということのようなのだ。

平たく言うと、たとえば泥酔すると乱暴になる人は、その深層意識が表面化して乱暴になるのだが、憑依においても、その依代(よりしろ)の深層意識の程度に応じて憑依してくるという法則があるようだ。

つまり憑依、神降ろしは、憑依される方の人間と、憑依してくる神霊のレベルの2要素で決まる。

出口王仁三郎は、依代としての適性については、年齢性別など細かく適不適のあることを指摘している。結局依代として、老女は不適当、子供は早すぎる、中年以降の人は総じて不合格ということなので、「神降ろし」という技術は万人に適用できる技術とはなり得ないと最後は見切っていたようである。

一方憑依する神霊のレベル付けは次のようなものである。神がかりには3種類あるとする。
(注.精霊とは、肉体に宿るもののことで、エーテル体以上の総称。)

『1.帰神
人間の精霊が直接大元神(主の神または大神)に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態

2.神懸(しんけん)
大神の御神格に照らされ、智慧証覚を得、霊国にあってエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に下り来たり、神界の消息を人間に伝達すること。

3.神憑(しんぴょう)
 外部より、人件の肉体に侵入し罪悪と虚偽とを行うところの邪霊を悪霊または、副守護神というが、副守護神に侵入されたこの状態を神憑という。

チャネリング(交霊術)の達人には、神憑が多く、このような副守護神は、地獄の団体に籍を置き、人間の善霊を亡ぼし、肉体をも亡ぼそうとするもの。

大神が予言者と物語りたまう時は、太古すなわち神代の人間におけるがごとく、その内分(霊覚)に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先ず、おのが化相をもって精霊を満たし、この満たされた精霊を予言者の体に遣わしたまふのである。ゆえにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、その言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達というべきものである。伝達とは、霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為をいふのである。』(霊界物語第48巻/天声社から引用)

神降ろしとはこのように非常に達成条件のきつい技術であるが、成功の暁には、その神の言葉を一生抱いて、その感動の中に生きることもできたのではないだろうか。

ただし神降ろしの場面では、審神者のコメントはよく出てくるが、依代となった人の体験談はまず伝わっていないので、いわば依代の人格はないがしろにされており、依代はあまり相手にされてこなかったという印象を持っている。

その意味で,神降ろしは自己主張の盛んな現代人にとっては、レトロな技術と位置づけられるのではあるまいか。




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2.悟りとは何か-17

2009-01-29 06:08:26 | 夢と真実
◎禅の悟り

禅とは、切羽詰まらせてから、一気に打開させる方法をとる。それは最後には身心脱落となるのではないか。その中途において、公案を用いようが、棒で殴ろうが、大喝を与えようが、最後は落ちると見る。

禅者については、ここまでは道元しか挙げていないが、その他の禅者に、身心脱落・大悟徹底したものがいないなどということは勿論ないと考える。

禅語録とは、どんなものが大悟であるかという師匠と弟子の問答を延々と連ねたものである。臨済は確かに巨星であるが、臨済以前にも黄檗があり、六祖慧能、達磨があり、いくらでも覚者を目にすることができる。

道元の身心脱落と臨済禅の大悟徹底は最終的には、同じものではないかと思う。
その理由は、禅語録における悟りの説明が本質的には道元の語るそれと大差ないことである。

つまり臨済禅では身心脱落などとは言わないが、曹洞禅も臨済禅ももともとは同じことを目標としていたと見える。そしてまたどちらも諸神霊を観想することや、中途のステップでも上達すれば良しとするようなクンダリーニ・ヨーガに特徴的な修行の上達の考え方を取らず、一気に最終段階へ飛び出すことを常に意識する修行法であること。

そして修行法。
最近でこそ曹洞禅と臨済禅の修行法は大分違ったものになったようだが、昔はそう大差ないものであったこと。その修行法の違いは、大雑把には臨済禅では、まず胆(はら・丹田)をつくることを重視し、定力をつけるようにするプロセスがあるが,道元の禅では、胆や定力は気にしない。
(ダンテス・ダイジは、胆を作るのは、現代では回り道だと考えていたのかもしれない。)

そしてもう一つの側面がある。
宗派によって悟りの種類は違うと主張する人もいるのだろうが、冥想法は同じでもそれによって得る境涯は、只管打坐すれば必ず身心脱落するとか、クンダリーニ・ヨーガをやれば、必ず中心太陽と合体するというような一定の法則がないという現実も考えると、そうした主張の根拠は弱いと考えている。名の知れた覚者でも、若い頃はいわゆる他宗派の修行をよくやっているものだ。

臨済は修行者に語る、「私が『外に法はない』というと君たちはその真意を理解しないで、すぐに内にあると理解して、さっそく壁によって端座し、舌は上のあぎとにささえ、じっとして動かず、これが祖師の門下の仏法だと思っている。

それ(仏法が内にあると考えること)は、大間違いなのだ。」




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2.悟りとは何か-16

2009-01-28 05:55:10 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

2.ダンテス・ダイジのケース-2

(2)クンダリーニ・ヨーガ

クンダリーニ覚醒について、冥想法と実際を解き明かしたのは空前絶後と言ってよいだろう。特徴的なのは、チベット密教や日本密教にみられる諸尊格、諸神霊についての観想がほとんど出てこないこと。つまり霊がかり、神がかりのバイアスをほとんど排した、クンダリーニ・ヨーガとして画期的なものであると思われる。

そして技法はマハー・ムドラー、ヨニ・ムドラー、クンダリーニ冥想と進行し、七つのボディと七つのクャクラでクンダリーニ上昇の過程を説明していくのだが、七つのボディについても七つのチャクラについても定説がない現代社会では、そのメカニズムを誤解せずに、知的に理解することすら、頭でイメージすることですら簡単なことではないように思う。

ヘルメス文書もかなりきわどいところまで書いている、慧命経も核心に迫ったところまで書いているとは言っても、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」でもって、ここまでさらけ出さなければわからないほど、現代人類の闇は深まったことを感じざるを得ない。

そしてクライマックスは、中心太陽への突入と帰還であるが、それが安手の脚本による大型シネマと違うところはあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというところである。ここにタイム・トラベラーでも、スペース・トラベラーでもない、ディメンション・トラベラーの面目躍如たるものがある。

しかしそれは、宇宙のロケットの座席で一人のパイロットが体験する数日間のツアーというようなものではなく、「すべてはすべてであった」という全く個人の人間の想像を絶したものであることに注意が必要である。旅行会社任せで何とかなるようなしろものではないのである。

全身全霊をもって、その誠実さ、素直さ、敬虔さ、それまでに経てきたあらゆる実感をもって取り組まねば、重い扉のノブにも手もかからないし、最終ステージ近くでは、その自分も棄て去るというとてつもない恐怖のシーンにあわてふためくことにもなる。

最後に残された謎として、冥想十字マップがある。これは、時間的進化を縦軸に空間的進化を横軸に排し、その交点に「愛」が位置するものである。

縦軸については、7チャクラであり、この文明全体のテーマが「愛」なので、このマップが、社会における自己実現たるマニピュラ・チャクラから愛のアナハタチャクラに移行するというこの文明のテーマを意味しているので、この構図がこの文明全体のあり方を示唆するのものであることはわかる。

しかし有想定から無相三昧にいたる横軸が、なぜ空間的進化なのか見当もつかず、謎として残っている。




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2.悟りとは何か-15

2009-01-27 05:48:50 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

2.ダンテス・ダイジのケース-1

ダンテス・ダイジは、生前経典を残しており、そのものズバリで、クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も極めたことを自ら明かしている。

(1)只管打坐
 その著書ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、只管打坐の体験記が二種盛られており、一つは絶対愛の目覚めであり、もう一つはニルヴァーナの目覚めである。

絶対愛とは、大慈大悲でありmercyのことであり、神の七つの属性の一つという位置づけであろうことがわかるので、ニルヴァーナの前段に置かれているようだ。

そして、ニルヴァーナの目覚めの方は「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」と章が立てられており、その違いを明示している。要するに「愛」だけ悟っても、それは全体ではないことを強調している。

また、ニルヴァーナの目覚めで覚知した境地を「空」であると見て、空とは時空の超越状態であって、坐禅をしている自分もなく、絶対的静寂というか、絶対的充実というか、その空があるという表現を用いている。

そして只管打坐とは宇宙と一体になることでもないという。

『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも、物質にも、現象にも束縛されず、まして宇宙と一体になることでもない。

もちろん初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元はそれを「身心脱落」と言ったのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版から引用)

これだけ具体的で親切な只管打坐での覚醒のプロセスを書いてくれているものは、この他には、バグワン(OSHO)のそれくらいではないかと思う。




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2.悟りとは何か-14

2009-01-26 06:04:44 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

(3)只管打坐もクンダリーニ・ヨーガも極めた人

稀な中でこれまた稀な人物として只管打坐系の悟りもクンダリーニ・ヨーガ系の悟りも極めたとおぼしき人物が二人いる。その一人が釈迦である。

1.釈迦のケース
釈迦も在世中に経典を残すことはなかった。仏教は経典だけのことを言えば法華経などの釈迦没後数百年以上経った後世のリメイクみたいな経典のほうがむしろ大多数なので、釈迦の悟境を見るならば、釈迦の教えそのものがどう伝播していったかを見る他はないように思う。
また仏教は、13世紀にはインドにおいて滅亡したので、インドでその跡を追うことはまず無理であるという事情もある。

(1)只管打坐
 これについては、只管打坐そのものの伝播でみる。
只管打坐については、肉体の人から肉体の人へ伝えられたように思われる。というのは、クンダリーニ・ヨーガでは数百年生きなければ伝えることのない人物が数百年後にそのノウハウを伝える、たとえば、鍾離権から呂洞賓がその伝授を受けるというようなことがままあるのだが、只管打坐においては、師匠が弟子に伝える形で連綿と伝えていくように見える。

その言葉にできない体験は、釈迦に始まり、達磨から何人もの中国の禅者をへて、天童如浄、そしてその直弟子道元へとインドから日本に渡来し、花を開いた。

この身心脱落を伝える深奥に釈迦が位置するということで、それは禅の法系図などでよく見るのだが、説明としてはそれ以上のものがない。

(2)クンダリーニ・ヨーガ
密教は、まともに残っているのは、チベット密教と日本密教だけ。

インドに学んだパドマサンバヴァがチベットに密教を持ち込んだ。チベット密教は、あの月面のような高地で荒れた風土の中で、それは枝となり葉を付け、チベット死者の書のようなアドベンチャー・マップや、生起次第・究竟次第という最終的なメソッドとして確立したものとなった。

中国・日本密教については、その後西域からの渡来僧がインドから直送で中国に密教を招来し、恵果において中国密教の最後の輝きがあった。

これぞ歴史の不思議としか言えないが、恵果から留学僧空海が、金剛界の灌頂と胎蔵界の灌頂を受け、そのテクニックを面授された。空海は慌ただしく日本へ戻り、京都と高野山でその教えの熟成を図った。

こうした巨大な潮流の水脈の最源流に位置しているのが釈迦である。

釈迦が数百年、数千年後に現れて、後進を指導したというエピソードはあまり見ることはないが、クンダリーニ・ヨーガという極めて困難な道を成就した英雄の一人として釈迦が評価されており、また熟達した後進の者も大般涅槃経などでそれを認めているということで、釈迦がクンダリーニ・ヨーギの頂点にあったとするのは間違いないだろう。




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2.悟りとは何か-13

2009-01-25 05:50:24 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

7.ヘルメス・トリスメギストスのケース-2

(2)有の世界の外側

更にヘルメス・トリスメギストスは,神化がどのようなものかについて、限りなき自由な様を強調する。これこそが人間に与えられた神の属性の一つである自由の真相なのではないだろうか。

ここでは、アストラル・トリップの空間移動の自由を例に引いてその融通無碍さを強調しているが、最後の展開の外側、「有」の世界の外側ですらも知ることができる可能性を披瀝してみせている。

『天界の神々の誰ひとりとして、天の境界を後ろにして、地上に降りて来る者はないが、人間は天までも昇ってそれを測定し、天の上部にあるものがいかなる様であるか、その下部にあるものがいかなる様であるかを知り、その他すべてのことを正確に学ぶ。

そして何よりもすぐれている点は、地から去らなくとも上方に至るということである。彼が届くことのできる距離はこれほどに長大なのである。』
(ヘルメス選集X/ヘルメス文書/朝日出版社から引用)

『次に、自らかくのごとく知解するがよい。お前は、自分の霊魂に、インドへ赴くように命ずるのだ。すると霊魂は、お前の命令よりも速やかにかしこに居るであろう。

また霊魂に大洋(オーケアノス)へ向かうように命ずるのだ。すると霊魂は、再び同様に速やかにかしこに居るであろう。それは場所から場所へと移動して行くようにではなく、あたかも(いきなり)かしこに居るようである。

また霊魂に天へと翔けるように命ずるのだ。すると翼さえも必要としないであろう。いや霊魂を妨げるものとてないであろう。大洋の火も天空(アイテール)も、天の回転も、他の星辰のなす天体も(妨げはしないだろう)。

霊魂はもろもろの天体を突き抜けて翔けり、最後の天体にまで達するだろう。しかし、もしお前がそれ(最後の天体)をも完全に突き抜け、その外にあるもの・・・・世界(コスモス)の外に何かがあるとしてだが・・・・を眺めたいと思うなら,それも許されている。』
(ヘルメス選集XI/ヘルメス文書/朝日出版社から引用)




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2.悟りとは何か-12

2009-01-24 06:54:50 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

7.ヘルメス・トリスメギストスのケース-1

再生の秘密をあばくのはよくないことであるという認識がありながら、錬金術の本家本元ヘルメス・トリスメギストスは、体外離脱による神化のことを、わりと平気な感じで語っている。

後代の神聖な書物は人間の側からスタートして神に至る書きぶりであるのに対して、彼のヘルメス文書は、神の側から人間に展開する書き方をとるので、古代秘教型の世界観をとっている。学者によればこの文書の成立はせいぜい紀元前3百年頃とされるが、古代秘教型の世界観ならば、成立は、もっと遠い昔の時代にさかのぼるのではないかと思う。

(1)クンダリーニの上昇と神化

クンダリーニの上昇のことは、ヘルメス文書では、「来るべき上の道」と呼びこれをポイマンドーレス(=ヘルメス)が説明する。

『先ず、物質的な身体の分解において、お前は身体そのものを変化に引き渡し、お前の有する形姿は見えなくなる。そして(身体の)性向(エートス)をダイモーンに引き渡して無作用にする。また身体の諸感覚は、部分部分に分れ、共々に上昇して再び作用力を得つつ、自分の源へと帰昇する。また情熱と情欲とはロゴスなきフュシスの中に帰る。』
(『』内は、ヘルメス文書/朝日出版社から引用。以下の『』内も同様)

ここは体外離脱に先行する肉体死の説明と思う。肉体感覚は作用しなくなるが、ある種の感覚だけが残ることを言っているのだろう。
※「また情熱と情欲とはロゴスなきフュシスの中に帰る。」とは、情熱と情欲もマーヤ(無明)の中に吸収されていくくらいの意味か。

続いて

『こうした人間は、界面を突き抜け、さらに上へと急ぎ、第一の層には増減の作用を、第二の層には悪のたくらみを、計略を、無作用のまま、第三の層には欲情の欺きを、無作用のまま、

第四の層には支配の顕示を、(もう)願わしくないまま、第五の層には不遜な勇気と敢えてする軽卒を、第六の層には富の悪しき衝動を、無作用のまま、第七の層には隠れ潜んだ虚偽を返す。

すると彼は組織の作用力から脱し、本来の力となって、第八の性質(フユシス)に至り、存在する者たちとともに父を賛美する。そこに居る者たちは彼の到来を喜ぶ。彼は共にいる者たちと同化され、また第八の性質(フユシス)の上にいる諸力が何か甘美な声で神を賛美しているのを聞く。

すると彼らは秩序正しく父のもとに昇り、諸力に自らを引き渡し、諸力となって神の内になる。
神化、これこそが認識(グノーシス)を有する人々のための善き終極である。』

七つの層を通過するが、それぞれの層の説明が徳目ではなく、悪徳の項目となっているのは、興味本位の者の目からこれを遠ざけるためだろう。七つの層とは、通過する7チャクラのことでもあり、またあらゆる宇宙のシンボルでもあるだろう。

第八の性質(フユシス)とは、個性の最終段階であるコーザル体レベルと見てよいのではないか。

「諸力に自らを引き渡し」という件りが自分を手放すというところであり、神化の最大のポイントの一つを簡明に表現しているように思う。

(続く)





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パドマサンバヴァと世界の終末観

2009-01-23 08:00:10 | 密教
◎人間の都合を考えてくれない

チベットに密教を持ち込んだ男、パドマサンバヴァ

このブログでは、パドマサンバヴァが同僚の屠殺業者トゥンボをけしかけて、他の屠殺業者全員を殺させたことを取り上げている。

やがてトゥンボは、この屠殺業者全員を殺し、そしてパドマサンバヴァは、かねてよりの手筈どおり、全力を尽くして死んだ者の”意識原理を”神々のもとへ届けたという。

この話の延長線上には、この世界の破壊と再生のやり方について、地球は滅亡破壊され、別の天体に新しい世界が展開するシナリオすら見え、こうしたシナリオはミトラ教(ミトラはマイトレーヤの別称)のそれと同じであるように思われる。

いわゆる日常感覚では、こうした世界の終末観は受け入れられるものではなく、せいぜいヨハネの黙示録や北欧神話に出ているような、地球は存続し新しい大地が浮上するようなものであれば、容認できるレベルかと思う。

要するに、それは人間の進化のためには、地球の破壊や肉体人類の全滅をも厭わないという考え方に見えるのである。

密教とは死を扱う技術とは頭でわかってはいても、実際にこのようなパドマサンバヴァの事蹟をみると、凡俗の人間感覚を離れすぎており、ついていけないところがある。

パドマサンバヴァの開いたチベット密教には、生起次第、究竟次第という冥想技術の精華があり、またパドマサンバヴァの聖性にも疑問の余地はないが、古神道にも修祓の神々があるが如く、こうした人間の都合を考えてくれない側面に出くわす時はぎょっとするものだ。

そういう終末観の人が政治をやってると、困ったことになりがちだろう。




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内掌典の役割

2009-01-22 06:12:53 | 古神道の手振り
◎宮中賢所物語

天皇陛下の神事の舞台である宮中賢所の御用をするのが、内掌典。内掌典は、賢所の中でも神様をお祭りしている御内陣の御用までする。つまり幼女ではないが、古くは大物忌のした役割を内掌典がなさっているようである。内掌典の役割は神事のサポートのようだ。

内掌典は、昔は10年20年やるのが普通であったが、戦後はアメリカのご意向のためか、任期4年までになってしまった由。4年では慣れた頃に退職してしまうことになるので、勢い神事そのものの持つ境地や真の意味を伝承していくという点においてはやや心もとない感じがする。

内掌典は、手はしょっちゅう洗い清め、毎日朝夕は潔斎(湯殿で洗うこと)して顔もお湯で洗う。

また鶏肉以外は肉を食べないので、古神道的にはベジタリアンということになろう。

つまり内掌典の一日は、清めと神様への奉仕で終わる。

食生活も含めこうした生活を何年も続けていれば、神を見ることは比較的容易ではないのだろうか。これはキリスト教の修道院での生活では神を見ることが容易であるのと同じと思う。

ただ内掌典は神事の奉仕者なのに、この本には祝詞を唱えるシーンや鎮魂帰神のシーンの描写もなく、この本は聞き書きによるものだが、聞き手が聞かなかったか、故意に書かなかったか、語らなかったかのいずれかではないかと推測した。
(参考:宮中賢所物語/ビジネス社)





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2.悟りとは何か-11

2009-01-21 06:03:43 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

6.荘子のケース

荘子については、荘周胡蝶の夢のように、蝶が夢を見て荘周となっているのかと、自分のアイデンティティですらも自分ではしかと確認できない状態があることを見ている他、生を夢と見るのは、死のリアリティを見る立場があってこそである。つまり荘子はクンダリーニ・ヨーガ系冥想の覚者であるという状況証拠が多数ある。

ここでは、クンダリーニの上昇死の世界をも含む世界観という2つのポイントで、その悟りを確認するものとして2つを挙げたい。

(1).クンダリーニの上昇
 『「神人について お聞かせ願いたい。」

曰く「上の神人は、光に乗って、形とともに消えてなくなる(滅亡す)。これを照曠(しょうこう)(照らし方の広いこと)という。

万物の本質を見極めれば(命を致し情を尽くせば)、天地が溶け、万物がなくなる。

(そして)万物がもとの姿に戻ること、これを混冥という。」』
(荘子天地篇)

ここは、クンダリーニなる光とともに上昇し、広い光なる中心太陽に合体し、天地が溶け、万物がなくなり、そして万物が復活する秘儀を書いていると読める。


(2).死の世界をも含む世界観

斉物論篇には、「死を憎むのは、若い頃故郷を飛び出し、そのまま帰りを忘れているものと同じなのではないか」という、死の世界側を懐かしい故郷と見るクンダリーニ・ヨーガで覚醒した者特有の世界観がある。

また徳充府篇では、老子に「死と生を同じであると見、可と不可を一つと見る者によって、孔子の考え方の誤りを正せるのではないか」と発言させて、荘子が死と生を一つと見る立場であることを明かにしている。




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山岡鉄舟の修身二十則

2009-01-20 06:14:04 | 丹田禅(冥想法8)
◎誰に接するにも客人に接するように

かの天璋院篤姫や勝海舟は、江戸無血開城の脇役で、主役は山岡鉄舟である。
山岡鉄舟が13才でに志を立て、15才で元服した時に修身二十則という自分を律するルールを作っている。

我が15才の時のことを省みるに、山岡鉄舟はとても大人だと思う。神の七つの属性の慈悲・愛から来るものが多い。礼儀や、怒るべからずなど、人格涵養的なものも含まれており、全部が全部必ずしも求道の項目ではないが、大人は若い時から違うと思う。

特に第一にある嘘を言わないということや、不幸を喜ばないというのは今の人のなかなかできることではないと思う。他人の不幸を喜ばなければ、漫才のギャグでは笑えない。

誰に接するにも客人に接するようにというのも、自分ができていないだけになかなか気に入っている。

一. 嘘を言うべからず

一. 君の御恩は忘るべからず

一. 父母の御恩は忘るべからず

一. 師の御恩は忘るべからず
 
一. 人の御恩は忘るべからず
 
一. 神仏ならびに長者を粗末にすべからず

一. 幼者を侮(あなど)るべからず候(そうろう)

一. 己に心よからざる事は他人に求めるべからず

一. 腹をたつるは道にあらず候

一. 何事も不幸を喜ぶべからず候

一. 力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし

一. 他を顧りみずして自分の好き事ばかりするべからず

一. 食する度に農業(かしょく)の艱難(かんなん)をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず

一. 殊更に着物を飾り、あるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし

一. 礼儀をみだるべからず

一. 何時何人に接するも客人に接するよう心得べし

一. 己の知らざることは何人にてもならうべし

一. 名利のため学問技芸すべからず

一. 人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず

一. 己の善行を誇り顔に人に知らしむべからず すべて我が心に恥じざるに努むるべし




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2.悟りとは何か-10

2009-01-19 04:10:52 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

5.空海のケース

空海は、大日如来と合体などという露骨な表現はとらないで、大日経悉地出現品を引いて
「この身このままで、思うまま行動できる不思議な力を得て、大いなる空の境地において自由に振る舞いしかも聖なる身体(身秘密)を完成することができる」という言い方や、龍猛菩薩の菩提心論を引いて「真言密教の教えと行法においてのみ、この身このままで仏となれる」というような言い方で、人間が人間のままで仏に成れるようなイメージ誘導をしており、ややはぐらかした表現をとっている。

クンダリーニ覚醒プロセスについては、はっきりとは書かないのが、クンダリーニ・ヨーガの道の伝統なので、このようなはぐらかした言い方であることには、特に問題はないと思う。

またその境地の高みについては、十住心論で10段階の世界観を提示している。その十番目が、第十住心・秘密荘厳住心である。これには、顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証すとある。

つまり真言密教が蔵を開くと秘宝が展開し、数知れない徳がはっきりすると説明している。ところが、ここでその秘宝や徳の中身を具体的、羅列的に説明しないところが、エチケットであり、思わせぶりなところであるが、ここはそれを承知している者の作法と見るべきだろう。

更には、この時代にあって人間を超えるという言い方をしても理解できる自我意識の発達はなかったため、こうしたおとなしい表現になったのだろう。

そして晩年の著書「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の序には、

『三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し。

あらゆる世界の狂っている人は、自分が狂っていることを知らない。
生きとし生けるもので、眼の見えないものは、自分が眼が見えないことを知らない。
人は何度も生まれるが、生の初めに暗い。
人も何度も死ぬが死の終わりに冥い。
』とある。

まず生の始めに暗いとは、単純に出生後に前世の記憶がすべて無くなるとか、アストラル的な認識能力が無くなってしまうことを暗いと言うとは思えない。
チベット仏教の死のプロセスで言えば、原初の光という宇宙意識(神、仏、大日如来、タオ)の光明を見て、さらに中有から転生の行く先を選んでいくステージがあるが、こういった宇宙意識を知覚・体験していた思い出・感触をすべてなくした無知・デフォルトの状態で生まれることを暗いというのだろう。

次にクンダリーニ・ヨーガでもって何度か肉体死を経験した者だけが、死の世界の秘密を極め、「死に死に死に死んで」、死の終わりに冥い死の世界にまた帰っていくという感慨がここにあるように思う。従って生の始めには暗いだけだったのが、死の終わりにはその秘密を知って冥いと表現が変わるように思う。

つまりクンダリーニ・ヨーガ冥想の基本形である、死の世界を極めることにより、生の世界を知るという行き方をここに見ることができると思う。

また空海は、クンダリーニ・ヨーギらしく、その超能力を用いた伝説が無数にある。そして、このようにその著書から、死の世界を極めることを前提にした発想が推測できることで、空海こそ手練のクンダリーニ・ヨーギの一人であると考えられる。




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ヒトラー予言と日本

2009-01-18 07:30:36 | 究極というものの可能性
◎超人とクンダリーニ・ヨーギ

ヒトラーが死の直前にラジオ放送で流した予言では、このままでいけば20世紀末頃には旧約聖書の予言どおりユダヤが世界を統一するが、そうはさせない、その時ナチスが復活するというのが有名である。

実は一連のヒトラー予言には超人出現予言というのがあって、それがどうも日本のことを指しているようなのである。

『「私は若者たちを育てる。特別な若者たちを選んでユンカー学校へ入れる。彼らはそこで新しくつくり変えられ、”支配する術”と”どんな敵にも勝つ術”、”死を克服する術”、また”人の心や未来を読む術”を学ぶ。

そうすれば彼らと彼女たち全員ではないが、その中から新しい世界を支配できる超人が現れてくる。そう・・・・・今世紀末にはその結果が見られるはずだ。」(山荘でラウシュニングへ)

「それはほんとは、私が育てるようなものではない。放っておいても人間はいずれそうなる。大多数の者は支配される感情の中に沈むが、一部の者は超人に変わっていくのだ。

私はそれに手を貸して実現を早めるだけだ。そうでないとほかの民族の中からもそれが現れないとも限らないからな。」(ミュンヘンのナチス本部で、ハンス・フランクへ)

「前に”永遠の未成年者の実験場は東方だ”と言ったが、超人類を生むことについても東方が実験場になるかもしれない。今世紀末天変地異が襲うヨーロッパ各国にも、大戦の舞台になる中東にも、米ソやインドにも同じことが起こるかもしれない。

しかしなんといってもアーリアだ。われわれゲルマンだ。それが頭ひとつ抜いて超人類を創出する。それが創造されさえすれば、もはやわれわれに勝てる者はない。

考えてもみたまえ。世界中の猿が連合して人類に立ち向かってきたとしても、近代兵器を持ったほんの数人の人間に勝てまい。同じことがこれまでの人類とこんど現れる超人類のあいだにも起こるのだ。」(ミュンヘンで、ラウシュニングとフランクへ)

「その証拠を明かそう。じつはわたしは、すでにその人間を見たことがあるのだ。恐れを知らぬ目を合わせていられないような、苛烈で新しい人間をね。」(山荘でゲッペルスとラウシュニングへ)

「天地創造は終わっていない、とくに人間については終わっていない。人類はいま、つぎの階段を昇り新しい戸口に立っている。新しい種族が輪郭を示しはじめている。

それが超人の種族だ。彼らと彼女たちは出来上がりつつある。完全に自然科学的な突然変異によってだ。」(ゲッベルス、フランク、ヒムラー、ラウシュニングへ、山荘で)

「そして大破局が起こる。今世紀末に起こる。しかし救いのイエス・キリストなんか来ない。別の救世主(メシア)が来る。その時人類を救うのは人類を超えるもの・・・・彼らと彼女たちが、新しい世界・新しい宗教を創る」(アルプス山麓のデートで、レニ・リーフェンシュタールへ)

「ナチスは敗れる。第二次大戦で敗れる。しかしそれは単に私の作戦が間に合わなかったというだけだ。われわれが敗れようと敗れまいと、新しい人類の歩みは進む。

超人へ、脳と肉体の進化へ。自己と世界を完全にコントロールできる新しい種族へ。・・・・それが現れる。ハーケンクロイツの日に現れる。

その時ナチスは甦る。すべてに勝ち、すべては変わる。その日こそ人類はもう一度ナチスの前にひざまづくのだ!」(自殺の2週間ほど前、ゲッベルスとモレルへ)』
(1999年以後/五島勉/祥伝社から引用)

まずナチスが復活するかどうかには興味はありません。

ここで云う超人の特徴は明白に熟達したクンダリーニ・ヨーギのものである。彼らにとっては、肉体の一部としての脳のコントロールなんぞはお手のものだろうだろうし、”支配する術”と”どんな敵にも勝つ術”とは、クンダリーニの技法の延長線上にある奇門遁甲、気学、風水などの実地運用のこと。

また”死を克服する術”または”自然科学的な突然変異”とは、クンダリーニ上昇(アセンション)のことであり、”人の心や未来を読む術”はそれに付随的に発生する超能力の一部である。

従って時代の終わりにはこうした熟達したクンダリーニ・ヨーギが続々と出てくるのをヒトラーは見た。おまけにヒトラーは、そういう人物に出逢ったことまである。。

そしてヒトラーは”一生精神的に未成年のままの人間の集団が東方で出る”ことを別に予言しており、更にこの予言の中で超人を生む実験場も東方であるとしている。ニート、引きこもりが全盛の日本以外に、一生精神的に未成年のままの人間の巨大集団を抱えている東方の国があるわけではないので、これは紛れもなく日本のことだろう。

悪事は犯さず、善いことだけをする。そうした他人には気づかれにくい生活規律を持った人間で、縁あってクンダリーニ・ヨーガの指導を受けて育った人間が、やがてはそうした超人に育っていくのだろう。

しかし現今の社会が極めて地獄的な様相であるからには、超人の出現は、砂漠に花を咲かせることのように難しいのが実情と思う。

また他人を自分の思うままに支配したいとか、自分の幸せやもうけばかり願う手合いが、このような超人を目指すろくでもない事例がひきも切らず、かつまた大多数の者は支配される感情の中に沈み、マスコミに操作されるがままであり、まともな超人がヒトラーの見るように順調に出てくるとも思えないほどに、社会と人々の狂乱は更に深い。




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2.悟りとは何か-9

2009-01-17 07:03:06 | 夢と真実
◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

4.呂洞賓(ろどうひん)のケース

呂洞賓は8世紀の道家。呂洞賓の弟子の聞き書きが太乙金華宗旨

インド流のクンダリーニ・ヨーガでは、スシュムナー、イダー、ピンガラーという3本の左右に並ぶ脈管のクンダリーニの動きを用いるが、周天では、任脈、督脈という前後に並ぶ脈管での周回を用いるのが特徴といえよう。

太乙金華宗旨の根幹部分である逍遥訣の最後の方に『儒教、仏教、道教は、一言で言えば、死から出て生に入る無心の状態(神丹)であるとあり、この技法が死の世界を窮めること(坤徳)により、生の世界の真相を知るものであるとされており、正統的なクンダリーニ・ヨーガの流れのものであることを自証している。

すなわち、呼吸と脈拍が止まり、肉体死が起こり、そこからエネルギーが上昇して、天上(中心太陽)に帰っていき、死の世界の至福を味わうという流れであり、メインストーリーは、肉体死からの中心太陽突入をほのめかすものである。

そして神が神を神している状態の暗喩、「どこにもない場所こそ真の家である」で語り尽くしている。


逍遥訣

第一句
天心(タオ)は、魂の逍遥する秘訣を留め下ろしてきた。

第二句
「無為にして為す」の教えとは、精神の働きを集中させて、サハスラーラ・チャクラ(気の穴・金華)に入ることである。

第三句
六月に、にわかに白い雪が飛ぶのを見る。
(6月は、人間側の象徴。大周天とは宇宙と人間のダイナミックなエネルギーの循環をイメージしている。宇宙側は、0時または12月で象徴されることがあり、その反対位置の6月は人間の謂いだと思われる。
6月に舞う白い雪とは、ムラダーラ・チャクラからアジナー・チャクラまでの、6つの白銀のエネルギーコードが、はらはらとはずれていく風景が6個の白い雪が舞うと表現されたのではあるまいか。)

第四句
真夜中に、日輪が輝くのを見る。
(真夜中は死の世界のこと。日輪はまさに中心太陽のこと。死の世界で日輪を見るシチュエーションは、クンダリーニ覚醒のプロセスで、無上の垂直道から中心太陽をみるステージのことである。)

第五句
水中にそよ風が吹く
(クンダリーニが気の風に乗って上昇するということ。

逍遥訣にひき続き、次のような補足説明がある。
(1)『坎陽は上騰すれば、坎陽でない。乾陽の乾陽に応ずる』とある。坎陽(ムラダーラ・チャクラ)からクンダリーニが上がっていけば、乾陽(サハスラーラ・チャクラ)に出会うと読みたい。
坎陽の坎とは、水のことであり、水中にそよ風が吹くとは、クンダリーニ(エネルギー・コード)がムラダーラ・チャクラから、気(風)の流れに乗って、上昇する様と見る。

(2)坎陽と乾陽が会えば、それは純陽となり、『自分は、太虚の無量のように恍惚とした状態』となる。

(3)次に脈拍も停止し、呼吸が止まる(肉体死)。この状態を真の男性原理と女性原理の合体と呼び、月満水を涵(ひた)す状態と言う。
※月満水を涵(ひた)す状態とは、月たるタオが、水たる自己に一致している状態と考える。アートマン(第六身体)の光の輪が自分自身であったことに目覚める状態か。

(4)この冥冥たる状態から、にわかに天のエネルギー(天心)が動き始め、ここが陽気が動き始めるポイント(活子時)である。
このポイントから、昇降(周天)が始まる。

(5)そして 天のエネルギー(天心)は、上方の乾頂(中心太陽)に昇る。
中心太陽合体時は、心身は完全に開放されており、一切のかかわりは跡形もなくなる。
これを、(逍遥訣第一句の)精神がサハスラーラ・チャクラに入ることと呼ぶ。


第六句
天上(中心太陽)に遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わう。

第七句
そして奥義中の奥義をしめす一句がある。

第八句
どこにもない場所こそ真の家である。
(無何有郷は是れ真宅なり)




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