アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

アトランティス人の身体

2008-10-31 06:07:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎両性具有者の起こり

エドガー・ケーシーのリーディングによれば、アトランティス人は、その濃密な大気の中で、最初は肉体を持っていなかったらしい。初めは肉体は持っていなくて、想念体しかなかった。想念体とは、文字通りならば、メンタル体だが、おそらくアストラル体のことを言っているのではないか。

アストラル体の人々であるから、思った瞬間にその肉体を思ったとおりに伸ばしたり縮めたりできる。このアストラル体人間は、肉体を持つ人間が段々増えるに従って、部分的には人間の形をとっていたが、必要に応じて鳥や魚、獣などの形の部分がある人が増え始めた。

また大きさも小人から巨人まであり、巨人とは3メートルから3メートル半の身長のものを云い、アダムは、こうした巨人の中で、最も理想的とされる巨人であり、両性具有だった由。

最初のうちは両性具有者だけだったが、肉体を持つ人間が段々増えるにつれて、次第に男女が分化していったようだ。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感は、肉体を持つ人間の特徴であり、アトランティス初期のアストラル体人間にとっては、意味がなかったことになる。

また両性具有は想像の産物ではなく、霊界のプロトタイプでもなく、史実であったらしいことに錬金術の両性具有の水源がこのあたりにあることを推察できる。

よくアトランティスの時代の思い出を語る前世記憶ブログがあるが、こうしたアストラル体人間を前提とした思い出ストーリーに仕上がっているのだろうか。例の未来透視実験での四つの未来の如く、過去を霊視した場合も過去が4種類程度はあっても不思議ではないのだが。

アトランティスでの最初の大破壊の時代以前は、すべての人は白い石(ツーオイ石か)を介して宇宙意識とつながっていたとのリーディングがあり、神社の御神体や仏舎利はそれとシンクロしていることから、組織宗教のプロトタイプが10万年以上前からあったことになる。




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芭蕉臨終の頃

2008-10-30 04:27:34 | 丹田禅(冥想法8)
◎人の終りと文明の終り

所思
此道(このみち)や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮れ ばせを

この句は、一般には芭蕉は門人多数に囲まれていながら、俳諧の先駆者としての道を孤独の中に歩んでいる心境を歌っているなどと説明されているが、それは俳諧人としての解釈。

求道者として見れば、その求道の道は、自分だけが歩む道であって、誰が助けてくれるわけではない。自分でその秋の道を歩むしかない、という虚心坦懐な句と見える。ここには霊がかりも八百万の神々もない。

芭蕉逝去の2週間ほど前の句であるから、体調も思わしくなく、すでに死の影は兆しており、自分でも覚悟ができつつあった時期の句ではないか。悲しいことにその心中を理解してくれる人とてない。求道者も覚者も大方が孤独に生きる。


旅懐
この秋は何(なん)で年よる雲に鳥 ばせを

これも同じ時期の句。この秋は、いつもの年にもまして肉体の衰えが感じられる。雲には、まもなく飛び立つ我が身を予感している凄味がある。


病中吟
旅に病で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る  翁(芭蕉)

これは亡くなる四日前の句。2日後に遺書3通をしたため、その2日後に没す。
芭蕉最後の句である。既にパノラマ現象並に記憶がかけ廻っている。この世に別れを告げる時は、見性体験のある人でも、あらゆる愛着が意識の表面に一斉に浮かんでくるものと見える。

芭蕉はこの時、「・・・・なおかけ廻る夢心」とも作って弟子支考に見せたが、上の5文字をどうするか問うことができず、結局そのままになったという。

文明に別れを告げる時も、一斉に様々な深刻なエモーションが増幅されて出てくるものだと思うが、ミュージック・シーンやシネマ、テレビ・ドラマなど芸術方面で、そうなり始めたら(もう充分にそうなっている?)、切迫していることがわかるに違いない。逆に、いかにも人工の作り物っぽいところが見えるうちは、まだ時間があるということになる。




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文明に別れを告げる

2008-10-29 06:12:25 | 時代のおわり
◎巻き込まれる個人

神と自分が直接向き合うことは果たしてどの程度の割合の人に発生しているのだろうか。個人のレベルで、たとえば昼御飯の雑談の中で、「神と自分が向き合うべく、毎日只管打坐で坐っているが、なかなか見えてくるものがない。」などという内容の話が、何の違和感もなく語られる状況では全然ない。

テレビ、新聞、インターネットまで含めても、たとえば只管打坐やクンダリーニ・ヨーガをテーマにしたものは、極めて稀と言って良いのではないだろうか。

そうした精神世界系のブログやサイトで、精神世界ランキングに載っているサイトですら、ヒーリングやセミナーなどのそれで商売をされている人の宣伝サイトが半数であり、残りで多いのが霊能力を売り物にするサイト。真剣な求道のサイトはほとんどない。

こうした状況は、とりもなおさず個人の意識においては、自分に何が問題かとい言えば、相変わらず自分の願望を実現することしか眼中にないことを意味している。

また「世界平和は夫婦の和合から」とか、法律に触れる触れないに係わらず「悪いことをしない、善いことだけをする」のように、冥想修行の前提となる清く正しい日常生活を勧めるスローガンに出会うことはとても少ないものだ。

おそらくこうした冥想修行や求道に無関心な日本人の心性は、昭和の初めからあまり変わることがなく、それを痛感した出口王仁三郎が、次の時代に生き残るのは、3割ではなく3分などとつい口走ってしまったのではないだろうか。

実体経済の約5倍に膨らんだ規模の世界の金融は今や破綻しつつあり,それが貿易や各国の財政を悪化させ、銀行の国有化はしたものの国家そのものが破産する国が出ようとしている。

これは物に価値があるとして、利益を稼ぐことを社会の主たる通念の一つとしてきた近代西欧文明のフィナーレの始まりということになるが、文明が終わるということは、個人にとっても、その文明が提供してきた様々な愛着あるもの、音楽、映画、ドラマなどのエンターテインメントを含む生活様式や文化、そして家電、交通機関などの文明の利器、こうしたものすべてに別れを告げると時期が来たということである。

つまりここに一場の夢は終り、ほとんど神と向き合うということに関心がなかった個人にとっても、否応なくそうしたものに向き合うべき時節が来たということになる。ただしそれでもぎりぎりの瞬間まで関心を持たない人が三分の二はいるだろうというのが古人の見立てではある。

出口王仁三郎が、弥勒菩薩が上半身を地上に出してきたとか、1960年代にアクアリアン・エイジだとか盛んに宣伝はしたものの、ほとんど付いて来る人はいなかった。ようやくのっぴきならないところまで来てしまった。

したがって神と自分が直接向き合うことは果たしてどの程度の割合の人に発生しているかという問いは、文明末期の個々人に対してアンケートしても、それが今後急速に変化する局面が見込まれるだけに、あまり意味はないということになると思う。

自分がどうするんだということだけが意味が問われる。




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臍の下の裂け目

2008-10-28 06:11:21 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎死期を見る

ドン・ファン・マトゥスが、カルロス・カスタネダの友人に死期が迫っていることを見た。

『「わしは、死が外部の力として早くもお前の友達をこじ開けているのを見た。」とあの時ドン・ファンは言った。

「われわれには一人残らずエネルギーの裂け目がある。臍の下にあるエネルギーの亀裂だ。呪術師が隙間と呼ぶこの亀裂は、人間が元気で若々しい時は閉じている。」

ドン・ファンによると、普通は呪術師の目にさえ、せいぜい白っぽく光る輝く球体のなかの不透明な褪色部分としか見えない。

しかしその人間に死期が迫ると隙間がくっきりめだってくる。ドン・ファンは私の友人の隙間が大きく開いていると断言した。』
(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

臍の下にあるエネルギーの亀裂とは、マニピュラ・チャクラのことだろうか。ここはアストラル体の出入り口なので、死期が迫るといわゆる霊的能力が開け、霊(アストラル生物)と交流することがあることを言っているのだろうか。

若くて元気な人には隙間が開かないと言うのは、そんな人には通常はそんな感じの霊感はないことを言っているように思う。我々の生活実感として霊能力者はとても少ないことからそんなものだろうと思う。

常習的にテレビ・ゲームをやる子供の中には、マニピュラ・チャクラが開いてしまう子供がいると聞くが、健全な精神が健全な肉体に宿るべき若者にとっては、そうしたことは害はあっても無用の能力なのではないだろうか。

これは、人生の最終ステージにあって、次のステージののぞき窓がちょっと開く、そんな感じのことではないだろうか。




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新薬師寺の金堂跡発見

2008-10-27 06:26:07 | 冥想アヴァンギャルド
◎聖者惨殺2

新薬師寺の金堂跡が発見された。推定の大きさは東西54メートル、南北27メートルで東大寺の大仏殿並の巨大さ。新薬師寺は、東大寺を創建した聖武天皇(701~756)の病気平癒を祈り、当時の権力者、藤原不比等の娘の光明皇后が747年に創建した。光明皇后は、病弱な天皇に匹敵する権力を持っていたことがわかる。

737年に、僧玄と吉備真備が中国から大量の経典を持参して帰国。

740年、藤原広嗣が、君側の姦である僧玄と吉備真備征討の軍を挙げたが、広嗣は敢えなく敗死。

745年 聖武天皇が重病になり、天皇の血縁の者を呼び集め、春日山上で、光明皇后が薬師悔過の修法を行なわせた。

746年光明皇后の愛人である玄は筑紫の観世音寺に配流。

747年玄は配流先で亡くなった。この時玄の死は広嗣のたたりとされ、奈良の各地に玄の首や胴がばらばらになって降ってきたという。
(この年、新薬師寺創建)

頭の降ったところは頭塔、胴の降った2、3か所は胴塚弁天となり、腕が落ちたのは肘(かいな)塚、こうした場所はたたりの場所とされ、土地の買い手がつかないそうな。
(参考:塔/梅原猛/集英社)

こうして並べてみると、新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒のために建立したのではなく(そのためならば、745年に建立すべき)、光明皇后が玄との愛人関係を清算しようと配流して殺させたが、実は聖者惨殺のパターンで、その反作用があり、新薬師寺という巨大伽藍を建立しなければならなかったと考えるのが穏当だろう。




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独身で忘れられた女

2008-10-26 07:26:21 | 究極というものの可能性
◎心置きなし

マリー・ローランサンの「鎮静剤」という詩の一節に、最も哀れな女は「忘れられた女」であるというのがある。

もともとは、こんな詩(堀口大學訳)。

退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です。
かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女

密教学者の正木晃さんが独身のキャリアウーマンを病気見舞いにいく話がある。彼女は若い時から、バリバリのキャリア・ウーマンで独身であった。50代でガンが発見され、入院する前から多額の保険料を支払っていたことを知り、彼女に前途への漠然とした不安があることを以前から正木さんは知っていた。

彼女は人付き合いも仕事関係だけであり、それ以外のお付き合いはなかったようだ。正木晃さんは彼女のお見舞いに3回行った。2回目に行った時は既に末期ガンだったが、彼女の足をさすってあげたら、今後いつ来てくれると問われ、その翌週お見舞いに行った。

そこで、死んだら一年に一回墓参りに来ることを半ば強引に約束させられて、その交通費とお花代の名目で多額の預金通帳を受け取るはめになった。

そこで彼女は、私はもうすぐ死ぬが、死んでまもなくなのに、誰からも忘れ去られるのは耐えられない。そのことを想像するだけで身の置き所もない気分になるので、誰か一人でもいいから、墓参りに来て、しばらくは自分のことを覚えておいて欲しいのだと懇請した。

翌週彼女は死んだ。
(参考:立派な死/正木晃/文芸春秋)

独身で初老の女が、死んでさっさと忘れ去られるのがイヤと、我が墓参りを請うのは、なかなかに凄惨なシーンである。しかし「人生に別れを告げる」ということでは、カルロス・カスタネダのあらゆる愛着に別れを告げる幾つかのイベントと同根のものを感じる。

ここでは、相手が未練や良い思い出を残すかどうかがポイントではなく、世を去る自分の心のひっかかりを取ることの方に力点があるように思った。どちらのケースもそれで心置きなく去っていけるのだ。




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神主主義社会への展開

2008-10-25 06:37:52 | 究極というものの可能性
◎愛、大慈大悲、mercy

神主主義とは、イデオロギーや哲学や思想ではない。神主主義を生きることのできる人は最低でも神(ドン・ファン・マトゥスの言う無限、タオ、宇宙意識)に出会った人だけである。

神を知る手法は大別して3種あり、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、そして神降ろしがある。只管打坐とクンダリーニ・ヨーガはこのブログでは多々言及しているので説明は要らないと思う。神降ろしは、出口ナオに大神が懸かったような類を言う。

手法は問わず、神を知った者だけが愛、大慈大悲、mercyというものを生きることができる。神主主義とは、神の七つの属性の一つである愛を知った者だけがいる社会において初めて実現するものであって、無私の愛や、他の人のために自分が損をしたり自分が犠牲になることをほとんど評価しない風潮の今の社会では、実現など夢物語である。

神を知り、愛を生きる人間の態度、生きる姿勢は、神と自分が直接につながっているのがベースとなる。神は自分であり、自分は神の一部であることを知っている。しかし自分はいつか必ず死すべきものであることを知っているが故に謙虚である。そして神の一部であることを知っているが故に、自分の殺されようが傷つけられようがそんなことにはこだわらない。

神を知り、愛を生きる人間の生き方は、過去の時代もこれからの時代も本質的には大差なかったのだろうと思うが、これから先の時代には違ってくるところがある。

現代文明は、個人の自己を社会において実現するというテーマを持っているマニピュラ・チャクラ型社会であり、個人の願望を実現することが是とされる社会である。それによって、社会の中において、ともすれば自分は、果てしない権力欲や金銭欲だったり、すてきな異性をモノにしたいという欲望を持ちがちなものだ。すなわちこうした個人的欲望の大きさという点では既に神に匹敵しており、自我の極大化はピークに達していると言える。

個人の欲望がこれ以上ないところまで膨れ上がれば、夫婦、恋人、家族から始まって社会の中の人間関係がうまくいかなくなるのは当然の流れである。

そして肥大化した自我には、人間であるがゆえの絶望が必ずついてまわることになる。

個人が大勢存在する社会での自己実現がテーマである社会は、それに相当する上部構造を持つ。それが、古神道でいえば主神1を含む181段の神々のヒエラルキーであり、密教で言えば曼陀羅の諸仏ということになる。主神は人間社会の王と同様に個人の遥か先に位置するものであった。

こうした神々のヒエラルキ-を強調することは、民心を動揺させることなく、社会全体を安定的に発展させる宗教形態として好ましいものであったたため、殊更にこのヒエラルキーが強調されてきたものであると見る。

この意味で、ドン・ファン・マトゥスが、アストラル世界での冒険をリードしながら、全く神々のヒエラルキーを語らないことこそ、アヴァンギャルドな行き方であると思う。中間を省略して、無限対個人、神とたった一人で向き合うのがスピリチュアルの最先端となったのだ。

多くの現代人の意識が極北に至り、神との直接コンタクトが可能な状況になっている以上は、いたずらにヒエラルキーを強調するのはいわば時間の無駄。たとえば古神道ならば、スサノオとか、アマテラスとか回り道していないで、天御中主神に直撃すべき時期が来たというような言い方になるだろうか。

次に、こうした神とのダイレクト・ディールが、一体どのくらいの人にとって、切羽詰まった問題になっているかということが、考慮すべきテーマとなる。




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ファンタジーとリアリティ

2008-10-24 06:04:07 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎奇跡的な天恵

通俗的な霊界の説明では、日本には、天照大神を中心とした霊的世界があって、メキシコにはケツァルコアトルを中心とした霊的世界があって、それぞれの国津神の上位にそれぞれ国別の天津神がいるんだみたいな説明はよく聞くところである。

これは、国別に政治や社会が分断されている世界観に暮らしている我々にとっては、それと全くシンクロしているので、違和感なく受け入れられる考え方である。でも、それって本当なのだろうか。

ある人が語る霊的世界や、神や霊が本物であるかどうかの基準が、まずそれを語っている人が窮極の神や仏、ニルヴァーナに出会ったかどうかにかかっている。語っている神名や仏の名が本当っぽいかどうかは基準にはなり得ない。

なぜならば、本物は、その基準をクリアした人だけに、向こうからやって来るものだからであると考えられるからである。つまりこの基準をクリアしていない限り、その人は本物かどうかを判断する能力はない。本物に出会っていても、それが本物であると確認はできないし、偽物に出会っても、本物と誤認するかもしれないということ。ただ高級神霊がサポートに入ることはあるが、それは例外的なイベントであるようだ。

翻って、カルロス・カスタネダのシリーズをいきなり読んでも、これはハリー・ポッターばりの超能力、魔術ファンタジーに過ぎないと思う人がほとんどなのではないだろうか。

メキシコの霊的世界の冒険譚なのに、ケツァルコアトルを頂点とした神々の話は全くないし、いわゆる土俗的シャーマニズムの香気はまったく感じられない。

むしろ異次元の時間と空間を楽々と出入りして戦う、ドン・ファン・マトゥスをリーダーとしたクンダリーニ・ヨーギのグループの戦記ものといった趣がある。国別の霊界ヒエラルキーのことはあまり関心がないのだ。無限(主神)と自分だけが軸であり、エヒラルキーには興味がない。これが社会での願望実現から愛へのメカニズム。

そしてこれまで何回か検討してみたように、クンダリーニ・ヨーガの伝統に共通した修行法や手法がその中に見られ、その発想や世界観・リアリティというものが正統的なクンダリーニ・ヨーガに根ざすものと思われる部分が多い。

またそうした世界を志す人間、カルロス・カスタネダは、人間の思いのままにならぬ人生を思い切り噛みしめさせられる境遇で生まれ育ち、そうしたエピソードに沢山出会って、もうそんなありきたりの人生の出来事に別れを告げられるほどの成熟した魂である。

クンダリーニ・ヨーガは、そうした魂のみに許された、奇跡的な天恵というべきもので、ちょっと不思議なものが大好きな、にわかスピリチュアル好きな人が手を出すべきものではないと思う。

アメリカの社会でカルロス・カスタネダのシリーズが評価されたのは、それだけ成熟した魂が、日本よりアメリカの方に多いということになろう。




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意識の光る上着

2008-10-23 06:08:21 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎利己的な世界観

ドン・ファン・マトゥスによれば、内的沈黙こそが、呪術のすべてが生じる立脚点である。そして内的沈黙は段々集められて蓄積されていく。

つまり内的沈黙、想念停止の先にあらゆる超能力、神通力があるとする。こうした超能力は現代人には失われてしまったが、それを失わしめたのはある外部の力であったとする。

その外部の力の正体については、その文脈の中でははぐらかして、明確には語っていないが、「捕食者」というあの世の生き物であるように思われる。

捕食者は、誰もが子供の頃に目撃している。大きな黒い泥のような影が、素早く空中を飛び回り、そして、地面へばたりと落ちる。

ドン・ファン・マトゥスによれば、幼児期の人間は、エネルギーの繭にきつくかぶせたプラスチックのおおいみたいな、意識の光る上着で覆われている。この上着は成長するにつれて、捕食者によって徐々に食べられて減って行き、成人する頃には、地面から足指の上までのわずかな部分しか残っていない。

このわずかな部分こそが、内省の中心であり、人間にわずかに残された意識の部分である。捕食者は、成功や失敗への希望や期待や夢を仕組んでその意識の炎を燃え上がらせることによって、その人間の意識のエネルギーを食べ続けるのである。

呪術者は修練によって、捕食者を遠ざける。その間に意識の光る上着は樹木のように成長を続け、童子の時と同様の完全な状態にもどる。

想念停止が捕食者を遠ざけるのであり、捕食者こそが自分勝手な世界観の根源なのだ。
(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)


ここの部分は超能力のところに力点があるのではなく、
人間にとって唯一の真実は、いつか自分は必ず死ぬということ。そしてその世界観とそこから来る謙虚な姿勢に立った、自我のくびきを克服した生き方の方に力点がある。これを無視するとブラック・マジックの方に進んでしまうことになるのだと思う。




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内的沈黙

2008-10-22 06:03:36 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎想念停止

想念停止それ自体が何かを産むわけではないが、冥想修行者にとっては重要なキーワードである。

ドン・ファン・マトゥスによれば、内的沈黙とは、思考の永遠の伴侶である内的対話の中断を意味する。その時に深い静謐の状態となる。内的対話が止まるとは想念が停止することである。

そして内的沈黙には、個々人にそれぞれの入り口があり(内的沈黙状態に入るこつを掴むという意味だろう)、そして内的沈黙は次第に蓄積するとする。

内的沈黙のことを世界を止めるとも呼ぶ。この状態を呪術師は完全な自由とも呼び、周囲の物事がそれまでの存在のあり方を止めることでもあるとする。

内的沈黙が始まるには、人生の連続性を破壊する破壊点が必要となる。その破壊点とは、そまれでの人生を完全に捨て去るということであって、家族も財産も社会的地位も友人も恋人もその他人間関係もすべて捨てるということを言っている。
(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)

クンダリーニ・ヨーガの修行を本格的にするためには、こうした既成のものをすべて捨て去る覚悟が要ることを承知してはいたが、それが想念停止を実現する前提、呼び水、必要条件としてあることは知らなかった。

覚者たちが出生の条件をより不条理に陥りやすい逆境を選んで来る理由は、この人生を捨て去るところに追い込まれやすい境遇をわざわざ選ぶことであり、この内的沈黙、想念停止がそれからの冥想修行のターニング・ポイントであることを知悉していたからであるように思う。




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深淵に飛び込む

2008-10-21 06:04:26 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎メキシコの中心太陽

中心太陽へ飛び込むことを深淵に飛び込むと表現しているとしか思えない場面が、カルロス・カスタネタ・シリーズにある。 

ドン・ファン・マトゥスは語る。
『「いったん無限のなかへ入ってしまったら、わしらに頼って連れ戻してもらうわけにはいかんぞ」ドン・ファンが言う。

「そのときはお前の決断力が要求される。もどってくるかこないかを決められるのはおまえだけだ。それからこれも警告しておかなきゃならんな。無限とのこの種の出会いを生き残れるのは、ほんの一握りの戦士・旅人にすぎんということをだ。

無限は信じられんほど魅惑的なのだ。だから混乱と圧迫と騒音と苦痛に満ちたこの世界へもどってくるのを、戦士・旅人はこのうえなくつまらないものに感じる。

いいか、よく覚えておけよ、とどまるかもどってくるかを決定するのは、道理にかなった選択の問題ではなく、それを意図することなのだということをな。

もしもどってこない方を選べば、おまえは大地に呑み込まれたように消えてしまうだろう。だがもどってくる方を選ぶなら、、ベルトをしっかり締めて本物の戦士・旅人のように自分の任務が完了するまで待たねばならん。その任務がどんなものであろうとも、そしてまた成功におわろうと失敗に終わろうともだ。」』
(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

無限とは中心太陽のこと。飛び込もうとチャレンジした者の多くは宇宙の藻屑として消えてしまう。

最後にカスタネダはこれに飛び込むが、なぜか断崖に向かって勢いよく走っていて深淵に飛び込むと書いてある。

飛び込んだ先のことは、言葉で表現できはしないので、何も書かれてはいない。





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メキシカン仙人への道

2008-10-20 04:51:27 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎死の隠れた選択肢

仙人が肉体を持っているかどうかというのは、議論のあるところ。

メキシコのヤキ・インディアンの呪術師にとって、死とは、自分のエネルギーを残らず動員して、その肉体全部を、分解されない意識を有するエネルギーに変換すること。

ドン・ファン・マトゥスは、カスタネダに言う。
『おまえはこう尋ねたくてうずうずしてるのだろう。わしが言っているのは、地獄や天国へ行く魂のことなのか、と。

ちがうぞ、魂なんかではない。

呪術師が死の隠れた選択肢を選び取ったときに何が起こるかというと、彼らは非有機的存在へと変わるのだ。極めて特殊化した、高速の非有機的存在、途方もない知覚の技を発揮できる存在へと変わる。

そのあと呪術師は、古代メキシコのシャーマンたちが最後の旅と呼んだものを開始する。そのとき、無限が彼らの活動領域になるのだ。』
(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

非有機的存在とは、アストラル体のようであるから、霊のことでもある。ドン・ファンによれば、この霊には、地球に寿命があるが如く寿命の尽きる時があるとする。

ドン・ファンによれば、死の隠れた選択肢とは、呪術師のためのものであるともいう。この変成した肉体は肉眼では見えなくなるそうだから、屍解の真相とはこれを言っているのかもしれない。またこれを持って仙人と同じかどうかという議論もできない。

エドガー・ケーシーのリーディングによれば、アトランティスの滅亡の時、アトランティスの本質的なところは、エジプトとマヤに逃避したそうだから、メキシコにアトランティス密教の正統的なものが伝承されていても不思議はない。

カルロス・カスタネダ・シリーズといえば、ソーマ・ヨーガだが、その手法そのものをいささか興味本意で知ることよりは、こうした正統な密教的世界観を現代語で語っていることのほうに注目すべきだと思う。




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霊がかりをやめよう

2008-10-19 07:36:45 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎気まぐれな隣人

神霊の方では、実のところ我々をどう思っているかというのは、初心者兼野次馬たる我々には関心の高いところである。ドン・ファン・マトゥスの説明では、ここは明快である。彼らは、力はあるかもしれないが、気まぐれで、同情心がないのだ。

古代メキシコの呪術師は、神霊を何種類かに分類したが、その中で人間に似ているのが斥候と調査者と呼ばれる存在。その2種は、人間と共生関係を作ることができると考えて、それを盟友と親しみをこめた名前とした。

ところが古代メキシコの呪術師たちは、もともと人格など有していない純粋なエネルギーに人間の特性を賦与したり(神々として親しみやすい名前をつけたり)、その神霊(非有機的存在)のエネルギーを利用できると信じた。

ところがその神霊は、もともと純粋なるエネルギーであるがため、いかなる努力をも持続することはできないので、神霊によるサポートを期待した呪術師にとっては、しばしばその期待を裏切られることになった。

他方、そうではないと考える呪術師のグループもいて、彼らは、神霊と友情を取り結ぶための神霊から人間への要求がいつも法外なものであるため、神霊を人間の親類と見ていながらも、それと友人になることは、無駄だと考えていた。

すなわち、神霊も人間もたまたま同じ世界に住んでいるけれど、以下のような理由から、ドン・ファン・マトゥスは、神霊と人間が協力し合って生きることについては、ほとんど無理であると結論づけている。一歩進んで、神霊から来るエネルギーには意味がないとまで断言している。

1.人間も神霊も、それぞれに病的なほど自己中心的であり、気むずかしくて、些細なことで腹を立てる。

2.人間は彼らを無意識のレベルで知っているが、神霊は人間をはっきりと知覚し、認識している。こうした人間と神霊の意志交換は始終行なわれているが、無意識においてのみである。

3.人間は神霊を助けることはできないし、神霊は人間を助けることはできない。
(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)

この理屈は、古代メキシコの霊的世界だけに通用するものではなく、世界の八百万の神々にも通用すると思う。またこの見方は、出口王仁三郎の守護神霊の見方とレベル的に共通すると感じる。

霊がかり好きな人がいるが、霊との相互作用は、マントラ念唱や、向精神薬や過呼吸などと同様に、深い意識レベルにアプローチする方法なのかもしれないが、だからといって人間の絶望や孤独、不安を超越するための確かな方法であるなどと、安易な期待を持ってはいけないと思う。簡単ではないのだ。

秋深き 隣は何をする人ぞ ばせを
(となりとは、神霊の謂いなるか)




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孤独と無力から自由へ

2008-10-18 08:22:28 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎あらゆる幽霊を凝視せよ

ある人は水子霊だと云い、ある人は狐だといい、ある人は○代前に亡くなった先祖の霊だと言い、ある人は邪悪なバイブレーションだと言い、ある人は単なる曇ったエネルギーのまとまったものだと言う。

こうしたものの正体の見分け方を、メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスが説明する。

『これからは不思議な亡霊の姿を前にしたら、気持ちをしっかり保って、断固たる態度で凝視するがよい。相手が非有機的存在であれば、それに対するお前の解釈は枯れ葉のように舞い落ちるだろう。もう何も起こらなければ、それはお前の臆病な心が生んだくだらん幻影にすぎん。そもそもそれはお前の心ですらないのだ。』
(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

非有機的存在とは、霊的存在や、アストラル的生物のこと。

実際にカルロス・カスタネダが、自分のことを盟友であると自称する二人の非有機的存在を見つめて見た。
『私は容貌を記憶しようとふたりをまじまじと見つめたが、彼らの容貌は刻々と変化した。見つめる私の気分によって変貌するようだった。

そこには思考はいっさい介在していなかった。何もかもが本能的感覚によって導かれていた。長々と見つめるうちに、彼らの容貌が完全にぬぐい去られて、ついに私の前にあるのは、二つの震動する輝く塊だけになった。

それら輝く塊には境界がなかった。内部に凝集力があって自らを維持しているように見えた。ときどき平べったくなったと思うと、また垂直方向に伸びて、人間の身長の高さになる。』
(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

ドン・ファン・マトゥスは、あらゆるものには、減ずることのできない残留物があり、それが
エネルギーだとする。そしてカスタネダは、このセッションで、非有機的存在、霊をその本質へ変容させ、自意識を持つ非人格的エネルギーへと変えることに成功し、その本来の姿を見た。

ドン・ファン・マトゥスはまた、単なる自分の心理的な思いこみがそんなイメージを作りだしそれを現実の生き物と認識するケースと、他人であるアストラル的生物に出会うケースがあるが、アストスル的生物のエネルギーを直接見ることが人間、つまり呪師であるクンダリーニ・ヨーギにとっては、最重要事項であると評価する。

クンダリーニ・ヨーギは、「意識の暗い海」と呼ぶ死の世界で様々なエネルギー体と出会うが、カスタネダの見えた状態が通俗的霊能力者の卒業というべきものなのだと思う。

ドン・ファン・マトゥスによれば、この世には600種類以上の世界があり、それぞれの世界と世界への間を移動する場合は時間が非連続となる。これが三千世界の実情なのだろう。

慣れていない世界で旅をするのは、孤独と無力感に襲われがちなもので、人の自惚れなど木っ端みじんに打ち砕かれる。我々も病的なほど自己中心的だし、霊なるアストラル的生物も病的なほど自己中心的だからだ。

そうした冷厳な世界の中で、戦士であるクンダリーニ・ヨーギは、絶望に陥ったり、発狂したりせずに、勇敢さ、力強さ、謹厳さを失わずに戦い続けられるのは、自分が「無限」(神、宇宙意識、イーグル)とつながっていることを充分に知っているからなのだと思う。




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ツーオイ石使用法

2008-10-17 05:10:51 | 究極というものの可能性
◎まず神と出会って後錬金術

エドガー・ケーシーのアカシック・レコードのリーディングによると、アトランティスの飛行機や艦船や車両の動力供給源であったのが、ツーオイ石と呼ばれる水晶体である。

その石の形状は、マヤ文明から発掘されてヘンシルバニアの州立博物館に持ち込まれる石に酷似しているという。その石の操作は、現今の自動車運転のように誰でもできたのではなく、自らを清め、ある冥想レベルに達した者だけが可能だったようだ。

ツーオイ石は、単なる動力源であるだけではなく、伊勢神宮のご神体のような聖性の根源でもあり、人体改造にも用いられ、反重力効果もあり、アトランティス第二期には、アトランティス大陸が島々に分裂した地殻変動を起こす原因ともなった。つまり効果も大きいが、その秘めるエネルギーの巨大さから、弊害も大きく、今の原子力みたいな感じのものであったようだ。

ツーオイ石とは、
『当初、それは霊的、精神的な接触を得る源だった。
理解したいと思うのであれば、それが法則に従っていたことを理解せよ。これまでにも述べてきた通り、法則の礎、大元は天地開闢よりこのかたずっと続いている。

生まれ出るものは霊において考案され、心にて形成され、物質界へ生まれ出る。アトランティスで使われた中心力をも同じ法則を使っていた。初め、それは人の子らと神の子らに、導きの力を知らしめるよう、力を一点に集中する手段であり、源だった。人間は最終的にこれを破滅の道具に振り向けた。人類は今もこの方向に突き進んでいる。』
(アトランティス/エドガー・エバンズ・ケーシー/中央アート出版から引用)

ツーオイ石といえばそのパワーだけに関心を向ける人が多いが、このようにそれが、霊において考案され、心で形成され、物質化されるという物質の根本原理をダイレクトに応用するものである以上、そのコントロールは、時の秘儀伝授者、つまり聖者に委ねられていたのは当然のことであるように思う。

言うなれば、そのコントロール者は錬金術の達人であったということになる。だからエドガー・ケーシーには、ツーオイ石のパワーを利用することを真っ先に考えるよりは、自らを清めよとたしなめるニュアンスのリーディングが見られる。




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