アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

修行の結果に個人差

2008-07-31 05:56:23 | マインド・コントロール
◎二重の不確実性

チベット密教では、数知れない観想法をこなすものだが、学者さんの書かれたものでは、その修行結果に個人差があることがしばしば指摘される。

つまり、カリキュラムや経典に従って、生起次第を行なっても、一時的な大日如来の円満相の示現もできないということがままあるということなのである。

これは今更ながら、修行者個人の準備ができていない、すなわちまだこの世の楽しみに充分な未練を残しているため、それに入る時期ではないという原因によるものだと思う。

円満相の示現とは、我が身が円満相そのものに成りきることで、観想法のひとつの成就だとは思う。これとて、日常の生活の次元を越えて、それらの世俗のものをすべて振り捨てて飛び込んでいくようなところがないと実現するようなものではないだろうと思う。

つまりまずその超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがないと、そうしたジャンプをしようとまでは思わないのだと考える。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、それが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

そしてジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。その人は魂の経験値がそこそこ積み上がっているので、やがてジャンプもした。ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。直地したところが仏の場合もあれば、悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

要するに、ある一定の修行方法ではある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではないし、その上、結果がその修行方法で予期された結果になるものではないという二重の不確実性があるのである。

この二重の不確実性も、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由と考えることができる。




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シャンバラの最終戦争

2008-07-30 06:04:58 | シャンバラ
◎イスラム教の席巻

インド仏教滅亡の直前に現れた時輪タントラでは、シャンバラでの最終戦争が説かれる。

それは、イスラム教の勢力が次第に拡大し、ついには地上の三分の二がイスラム教となってしまう。他方シャンバラでは、カルキ(カルキはシャンバラ王の別称)の統治のもと、仏教が栄え続ける。

こうした中、第25代カルキであるシャンバラ王ラウドチャクリンが、イスラム教徒との最終戦争に勝ち、地上に再び仏教が再興するというもの。

最終戦争の時期は、15世紀説もあったが、その後もイスラム教は存続しており、この説は消滅。現在では、25世紀というのが有力説のようだ。

時輪タントラでは、シャンバラの位置はコータンの北のモンゴルであり、チベット密教の盛んなモンゴルでは、この伝説は、シャンバラ往生を約束する時輪大灌頂を大いに流行させることになったという。

今になって見ると、イスラム教は地上の三分の二を席巻しそうもなく、キリスト教をバックボーンとした近代西欧文明が隆盛であり、かたや仏教は、インド、中国では事実上滅亡、チベットでは滅亡の危機にあり、南伝のビルマ、タイと日本、韓国、モンゴルで残っているという寂しい状態となっている。

シャンバラ国では仏教が盛んと説くが、どこから再興するんでしょうか。




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クンダリーニ・ヨーガの源流-3

2008-07-29 05:58:47 | クンダリーニ・ヨーガ
◎不死への上昇

(承前)『心臓の脈官は百と一ある。その内のひとつは頭頂へと走っている。(アートマンは)それによって上方におもむき、(頭頂の孔(ブラフマランドラ)から身体を脱けだして)不死に到達する。他(の脈管)はあらゆる方向に出て行くためにある。

親指大の人間(プルシャ)、(万物の)内部にあるアートマンは、常に人々の心臓に座を占めている。それを自分の身体から不撓の心で引き出すべきである。ムンジャ草から髓を引き出すようにそれを輝くもの、不死のものと知るべきである。それを輝くもの、不死のものと知るべきである。

ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった。

まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も(死を超越した者となるのである。)


オーム。われら(師匠と弟子)をともに嘉したまえ。われらをともに益したまえ。われらが共に精進せんことを。 学習したことがわれらに輝かしからんことを。われらが憎み合うことのなからんことを。

オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。』
(世界の名著 バラモン経典/中央公論社から引用)

アートマンは人によっては真我と訳すが、これは、個別性があるのかないのか誤解を招きかねない訳語であるように思う。有、「ただある」こそが、アートマンであって、個別性があっては本来のアートマンではない。つまり個別性が残る以上は、個別性の極北であるコーザル体であるときちんと表現すべきものをここでは、アートマンと呼んでいる。個別性の頂点であるコーザル体のこともアートマンと呼んでいるのだ。ウパニシャッドの時代には、アートマンに個別性があるかどうかはあまり問題にならなかったと見るべきだろう。

ここで個別性が不死たる中心太陽に到達する。この不死が中心太陽であることを初めて公開したのがダンテス・ダイジ。この時代にそれを公開する意義は、現代人の世界観では、個別性の極限を「不死」という生活実感の中でとらえるのではなく、肉体の死にも不死にもこだわらず、ビジュアルにこの世界を越えたいわば異次元の、自分というものをも捨てた先に有ることを鳥瞰的にとらえる必要があると見たのだろうか。

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、コーザル体は心臓の位置に見え、アートマン(真我)も心臓内の洞窟に見える。この見え方を前提として、心臓からの脈管という表現があるように思う。そもそもアートマンに個別性はないのに、なぜか心臓の位置に、原子よりも更に小さい球体として霊視できるとしている。

おまけにスワミ・ヨーゲシヴァラナンダのコーザル体の説明では、コーザル体の一番外側はブラフマンの光球であると説明している。コーザル体は個別性があるが、その中に個別性のないかつ全く次元の異なるブラフマンを視認できるとは、妙な気がする。

このアートマンとブラフマンはコーザル体を見に行った時に見えるとするが、見る自分というのがあって、アートマンとは見る自分と見られるものとの区別のない状態なのに、「ただある」のアートマンが見えたり、無なるブラフマンが見えるとするのは、ひょっとしたら霊覚者、霊能者の見方を超えていないのではないかという疑念を禁じ得ない。

しかしここではアートマンが心臓にあると説明し、それを抽き出してきなさいと求道のルートを説明している。それが当時の人にとっては、最も受け入れやすい説明だったのだろうが、個別性の極みにある現代人にとっては、心臓をいくら解剖してもアートマンなど発見できないと反論するだろうから、アートマンと個別性の議論と、肉体と七つの身体の議論を整理して出していかないと、我等が無垢なる隣人に理解の糸口をつかんでいただくことすらできないだろう。

いずれにせよ、頭頂から自分が脱け出し、不死なる中心太陽に到達することがクンダリーニ・ヨーガの目標であることが、古代インド、ウパニシャッドの当時から王道とされていたことをここでは確認したい。




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クンダリーニ・ヨーガの源流-2

2008-07-28 05:25:53 | クンダリーニ・ヨーガ
◎仮死で「ただある」

(承前)『五感の知覚も思考力も停止し、理性も活動しない時、それを人々は最高の帰趨という。
その確固とした感覚器官の保持を、人々はヨーガと理解する。そのとき人は心を散らさなくなる。なぜならばヨーガは(内的な力の)発現であり、(最高の帰趨への)没入であるから。
ことばによっても、思考力によっても、視覚によっても、それ(アートマン)は得られない。それは「ある」という以外には、どのようにして理解されよう。

ただ「ある」というようにのみ、それは理解されるべきである。両者(理解するものとされるもの)の同一である状態として。ただ「ある」というように理解されたとき、(両者の)同一である状態が明らかになる。

彼の心を拠りどころとするすべての欲望が追放されるとき、死すべきものは不死となり、この世においてブラフマンに到達する。

この世において心の結び目がすっかり解きほぐされるとき、死すべきものは不死となる。

以上が(このウパニシャッドの)教えである。』
(世界の名著 バラモン経典/中央公論社から引用)

五感も停止、思考も停止、理性も停止するとは、肉体機能が停止し、アストラル体に帰属する感情も動かず、メンタル体に帰属する想念も動かない状態と見ることができよう。ここでは冥想による仮死状態が前提とされていると見ることができよう。

まず「その確固とした感覚器官の保持」ともあるので、クンダリーニ・ヨーガ特有の聞き守る、見守るという冥想の基本がここで確認されている。

この時心の散乱がないということであるから、ダーラナーという心の一点集中を経て、冥想する対象と冥想する自分がつながりディアーナの状態となる。密教では、冥想(観想)対象として多数の尊格を用いるが、ウパニシャッドでは、その対象が何であるかはあまり重要視する必要はないものであると見ていることがわかる。

最後に冥想する者も冥想する対象が一体となる、サマーディ(三昧)の状態となり、ただ「ある」だけとなる。

例によって「ただある」なるアートマンに到達したら、論理的説明抜きで、次のブラフマンに行ってしまう。




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クンダリーニ・ヨーガの源流-1

2008-07-27 06:57:13 | クンダリーニ・ヨーガ
◎ウパニシャッド「死神の秘教」

ウパニシャッドの死神の秘教は、賢者ナチケータスが死神に死の秘密を明かしてもらうストーリー。ここでは、アートマンがあって、ブラフマンがあってというのが前提となっているので、これはクンダリーニ・ヨーガ的世界観、修行体系の中の話となる。

この章の冒頭に世界樹アシュヴァッタ樹が説明され、その根が上方にあり、枝が下方にあると説明される。根とは頭頂サハスラーラ・チャクラのことであり、他の6チャクラがそこから展開することを枝と謂う。アシュヴァッタ樹は永遠であり、不死である。

また全世界の比喩として、大きな恐怖、振りかざされた金剛杵(武勇神インドラの武器)も用いられる。金剛杵は、密教の秘儀のシンボルであり、真言密教、チベット密教の金剛杵のそもそもの出所はここにあることがわかる。みじめでちっぽけな自我の上に真っ向から振り下ろされようとする全世界がダイヤモンド・ハンマーであることを知る人は不死となる。

『感覚器官よりも思考力がすぐれ、思考力よりも純粋存在の方が高次である。純粋存在よりも大きいアートマンがまさり、大きいものよりも未開展のものが上位にある。

しかし未開展のものよりも、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たない精神原理(プルシャ)がすぐれている。彼(精神原理)を知って被造物は解放され、そして不死の状態に到達する。

彼の姿は目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考力によって表象される。このことを知る人は不死となる。』
(世界の名著 バラモン経典/中央公論社から引用)


純粋存在(サットヴァ)とは、コーザル体か。大きいアートマンよりも上位にある「未開展のもの」はブラフマン。
ブラフマンの更に上に「精神原理(プルシャ)」を置いている。「精神原理(プルシャ)」は、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たないという性質なので、アートマンのことと考えられる。ブラフマンよりもアートマンが上位かどうかという議論には意味がないように思うので、この書き方にはある意図を想像する。




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大仏開眼

2008-07-26 06:46:37 | 密教
◎密教の行法と成仏

密教学者の田中公明氏の密教全般の説明は、こんな感じ。

1.行者が観想によって本尊と一体化する行法を生起次第とする。
  本尊は、真言密教では大日如来だが、チベットのインド後期密教系では、男女合体尊となることがある。

2.真言密教では、金剛頂経の五相成身観や大日経の五字厳身観という観想法によって,仏になることを即身成仏と謂う。つまり真言密教では、五相成身観や五字厳身観が最終ステージの観想法と位置付けられている。

ところがチベット密教では、五相成身観は生起次第とされ、究竟次第の前段階とされる。つまり五相成身観は、将来必ず成仏することが約束されている修行者が諸仏のサポートによって未来の成仏を先取りして示現するだけだという。つまり一時的に仏の円満相を実現してみせるだけで、本当に向こうの仏の世界に行ってしまうのではないと説明する。

3.撥遣の有無
撥遣とは、仏像の開眼に対し魂を抜くことや、召還した神仏にお帰りいただくことをいうようだ。

チベット密教では、生起次第系の法では、修行者が本尊になりきった後、修法が終われば本尊を撥遣して、もとの人間に戻るが、究竟次第の最高位に達した行者は本当に成仏するので、本尊にお帰りいただく必要はないとされているとのこと。
(参考:真言密教とマンダラ/大法輪閣/平成7年)

本尊が大日如来以外の尊格であれば、個別の神仏として撥遣したりされたりすることは理解できるが、大日如来は、無をかりそめに大日如来と名付けたものなので、撥遣したりされたりできるはずがないので、大日如来は撥遣できないと思う。

だから奈良の大仏は大日如来だけど、大仏開眼って何のことを指すのか、とても疑問に思った。開眼するのは、大仏ではなくて、自分しかありえないからである。





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本物とにせもの

2008-07-25 06:02:47 | 密教
◎観想法の極み

チベット密教カギュー派の祖マルパは、インドに留学し、ナーローパから密教の奥義を得た。

そのナーローパは、本尊ヘーヴァジュラ(大悲空智金剛)の姿を示現して、マルパに対して、「おまえなら自分とヘーヴァジュラのどちらを礼拝するか」と質問した。

するとマルパは、ヘーヴァジュラの方を先に礼拝した。

これを見てナーローパは、なぜ自分を先に礼拝しないのかと大いにマルパを叱った。

この優劣論は、古神道流の言い方をすれば、幽の幽がナーローパにあたり、無の方であるが、、ヘーヴァジュラは幽の顕であり、有の方であるから、ナーローパの方がヘーヴァジュラに優るという理屈になるだろう。

密教で盛んに用いる観想法の恐ろしいところは、観想の極みでは、観想の対象は現象として実現するところである。観想は、最後には単なる意識の上に現れるイメージに留まることなく、現実としてやってくる。

そこで、ヘーヴァジュラも現実、ナーローパも現実のものとして現れたとして優劣を考えるのが素直だと思う。




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大日経説本尊三昧品

2008-07-24 05:59:16 | 密教
◎無相と有相

まず菩薩とは、少なくとも大日如来を一瞥したことのある人。

世尊バイローチャナ(大日如来)に秘密主金剛主さんは、お願いした。
「本尊の身をもって菩薩が秘密真言の門から菩薩行を行なう者達は、自分自身本尊の身であったと観想して、(最後には)自分自身が本尊の身となるというシッディ(悉地=ある願望に成りきった状態の謂い)を成就するという、本尊身にサポート(加持=感応冥助)するやり方を説明して下さい」

すると大日如来は、
「よい質問ですね。これから説明したことをちゃんと実行してくださいね。

本尊身には三種あって、文字と印と形相です。
その中で文字には2種あって音(聲)と菩提心(覚醒)である。

の相にも2種類あって、相を具えるものと相を具えないものです。

また本尊の身にも二種類あって、完全清浄なものと完全非清浄のものがある。
完全清浄なものとは、本来の自分(了解の自性)であって、一切の相と離れたものである(無相)
完全非清浄なものとは、相を具えるもので、色と形がある。

噛みくだくと、本尊による観想には無相と有相があり、有相の本尊の観想をすれば有相のシッディ(おそらく有相三昧)に至り、無相の本尊の観想をすれば無相のシッディ(おそらくは無相三昧)となる。ところが無相シッディにあっては、有相シッディにも成れる。だから無相の本尊の観想をしたほうがよい。

というように読んでみた。

無相の本尊とは、古神道の説明でいうところの幽の幽、大神を指すのだと思う。有相の方は、同じく幽の顕を指すと思う。

密教も古神道も同じクンダリーニ・ヨーガ系なので、違う体系を見ているはずもないと思う。




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貧困と無差別殺人

2008-07-23 06:01:51 | 時代のおわり
◎男女の相違とお国ぶり

スリランカシャーマンのフィールド・ワーク記録によると、かのシャーマンの大概は貧困な生い立ちで、幼児期より、親から充分な愛情を注がれることもなく成長する。成人になって、結婚するが、配偶者がなまけものだったり、DV(家庭内暴力)だったりして、実家に戻る。そこで神殿のダンス行事に参加しているうちに神がかりとなり、そのトランスを見た人がシャーマンとして祭り上げ、それ以後シャーマンとして神との交流で一生を食べていくというようなストーリーが多い。

そこでかのスリランカのシャーマンは、伸び放題のもつれ髪を神から許され、それが5房だったり7房だったりするが、それが正当シャーマンのトレードマークとなるのだ。

スリランカでは、貧困層は、女性の場合は、シャーマンになって神との交流にそのアンデンティティを見つけることが珍しいことではなかった。他方同じような貧困層の男性は、なまけものになって、お針子などの軽作業の女性に食べさせてもらうか、妻を殴って憂さ晴らしをするのがよく見られたパターンだったのだろう。

どちらにしても、日本の貧困層のように無差別殺人に走るようなことはなかった。

日本でもワーキングプアが問題となっており、社会に宗教的土壌が喪失した日本では、そうした男性の人達が無差別殺人を起こすようにまでなってきているが、それではワーキング・プア女性の人は、無差別殺人を犯さないで、どうやってその精神的な圧迫感から逃れようとしているのだろう。単に女性の方が与えられた環境に早く慣れやすく、またその厳しい環境に対して我慢強いということではないだろう。

外的な解消をしなければ、肉体か精神での解消を狙うものだろうから、うつ病や何らかの肉体の病気(自律神経失調など)やコストの安い気晴らしに転化しているのだろうか。いずれにしても、貧困層の女性の問題も、そうしたあまり喜ばしくない形で見え始めるのだと思う。




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共感覚者と変性意識

2008-07-22 05:43:05 | 冥想アヴァンギャルド
◎七つの身体と感覚

形を味わったり、色が音として聞こえてきたりする人のことを共感覚者という。たとえばある言葉を聞いたら、その言葉の意味だけではなく、味や重さや触覚まで感じてしまうことである。共感覚者には、単一の視覚や聴覚がバラバラにあるのではなく、いわば聴覚、味覚、触覚などが統合したセットされた状態で喚起される。

これは、あらゆる感覚が鋭敏となるといわれる霊的世界における感覚を連想させるので、何かの加減で、感覚が異常に研ぎすまされてしまった人のことを共感覚者と呼ぶのだと思う。

リチャード・E・シトーウィックによると、共感覚と類似性のある状態は次の六種。
1.LSDで誘発される共感覚。
  LSDで共感覚になる人もいればならない人もいる由。
2.写真記憶
  共感覚者は、細部まで鮮明に写真でとったように記憶する力を持つ。
3.感覚遮断
  ヘミシンクみたいなアイソレーション・タンクに入ると起きる感覚遮断を想定。感覚入力をすべて除去すると、精神病的な考えや、知覚のゆがみや幻覚が生じる。 
4.側頭葉てんかん
   てんかん発作の時は多数の神経細胞が同時に放電する。側頭葉てんかんで見られる症状は、単純な熱、味、麻痺などの感覚から、体外離脱や既視感や宗教的法悦のような複雑なものまでバリエーションが多い。
5.解放性幻覚
  視神経からの神経情報を受けとらないまま、脳が見る幻覚。幻聴の場合もある。
6.大脳皮質への直接的な電気刺激
  側頭葉への電気刺激で、過去の記憶をありありと思い出すこと。

リチャード・E・シトーウィックは、これらの共通性を大脳皮質の処理課程が混乱あるいは抑制状態にあって、感覚入力が遮断されていることだと指摘する一方意識の変性状態とも関係していることを指摘する。
(参考:共感覚者の驚くべき日常/リチャード・E・シトーウィック/草思社)

七つの身体論的には、肉体、エーテル体、アストラル体には、それぞれ分離独立した感覚みたいなものがあって、より深いボディでの感覚が意識化されるケースで、その感覚が認識されるということだろうか。より深いボディのほうが変性意識に近いからである。




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側頭葉の電気刺激

2008-07-21 07:41:46 | 究極というものの可能性
◎エクスタシーと脳

そんなに覚醒(エクスタシー)とよばれる体験が素晴らしいのなら、手軽に電気刺激でも当てて体験できるような仕組みを考案できないかと考えるのは、功利的な発想にたけた現代人の考えそうなことである。

ウィリアム・ジェームズは、「宗教的体験の諸相」の中で、エクスタシーとは、次の4つの性質を持つという。曰く、
1.言葉で表現できない。
2.受動性
3.認識的性質
4.暫時性

これに似ているのが、側頭葉への電気刺激である。
1950年代のこと。カナダの外科医ワイルダー・ペンフィールドは、側頭葉へ電気刺激を与えると患者の過去の出来事がまるで現在の出来事のようによみがえることを発見した。

患者は側頭葉への電気刺激が続いている間、何年も忘れていた近所の人、何年も聞かなかった歌、何年も前の会話を思い出し、その時の楽しかったことやきまりの悪かったことまで、現実として再体験した。

これだけなら、過去の個人的体験の具体的な再現に留まる。この体験はウィリアム・ジェームズの定義によれば、受動性、認識的性質、暫時性はあるものの、言葉で表現できないという要素は充たしていない。

これに対して、側頭葉転換の場合は、極度の宗教的至福感を味わうこともあるそうだが、「側頭葉てんかん」という病気のケースであるので、エクスタシー再現の技法として健常者に適用できるものではない。

つまり側頭葉の電気刺激である現実ではない過去の記憶を、まざまざと脳の中で再現して見せることはできるが、至福の体験、エクスタシーというものを電気刺激でもって簡単に発生することはできないということである。ただエクスタシーの重要な構成要素のいくつかが、そこには含まれていることはヒントにはなるだろう。

すなわち、覚醒を発生させるには、脳というものは必要みたいだということである。




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猫に気に入られたい

2008-07-20 08:00:22 | 冥想アヴァンギャルド
◎遊びをせむとて生れけむ

どうすれば、気まぐれなの歓心を惹くことができるかについていろいろ調べてみた。

すると、
1.どの動物も遊ぶのが大好き。喜びの情動は遊ぶことから生じる。

2.動物は抱きしめられるより撫でてやると喜ぶ。まるで親が子を舌でなめてやるように。

3.男性の犬、猫の扱い方は、女性のそれに比べて乱暴すぎる。

4.動物は言葉では思考しないが、映像で思考する。虐待されたりした時の恐怖の記憶は映像として記憶される。

5.おびえて怖がる動物を落ち着かせる時は、なでたり静かな低い声で話しかけたりしてなだめる。たたいてはいけない。

6.猫が鳥を追うような捕食行動は、突然の早い動きによって誘発されることが知られている。これは脳の別回路(本能)による行動であって、しつけたり矯正するには、ショックを与えるなどの手荒い手段が必要となる。

7.子猫の場合は、生後7週間までに社会的な絆を育むので、この期間までには、子猫を特にやさしく扱う。

8.猫をしつけるには餌の訓練が効果的。

9.餌のご褒美と行動を結びつけるためには、行動がうまくできた1秒以内に餌を与える。

10.ご褒美の基本はほめる、なでる、餌。

11.新しいスキルや芸を教える時には、罰を使わずに報酬を与える方が効果が高い。
(参考:動物感覚/テンプル・グランディン・NHK出版)

猫に気に入られるには、なでてあげるのと餌が基本ですね。人間と同じで幼時期に虐待されると一生社会とのかかわりに影響があるわけですね。以後「ダメ」「コラ」の叱責は慎み、メタボにならない程度に、タイミングよく餌を使って、「悪人」「キライなタイプの人」と思われないように、合理的に立ち回りたいものです。猫も人も楽しい生活が好きだから。

テンプル・グランディンによると、怖がりの動物は、概して世話がやけるので、物おじしない動物のほうが手間がかからない。身体のどこか一部に白い毛のある動物は、それがない動物よりも引っ込み思案でないそうだ(動物の白眉みたいなもの)。テンプル・グランディンは、踊るクマとカメラを見つめるカワウソの例を出しているが、なるほど犬、猫でもそういうことはありそうだ。





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冥想の3段展開

2008-07-19 06:56:51 | 究極というものの可能性
◎有種子・無種子

パタンジャリのヨーガ・スートラでは、冥想の展開は、3段階である。

第一段階は、ダーラナーと呼ばれる一点への集中である。ダーラナーとはダーラニーのことで、総持とも訳されるが、陀羅尼のことである。陀羅尼は、日本密教では、マントラの一種であるが、ある特定のマントラを唱えることでそのマントラへの帰依による集中を促すための素材であることがわかる。力点はマントラにはなく、「集中」の方にあるが、日本密教では、集中の手段としてマントラを推奨してきたということだと思う。

第二段階はディアーナ。漢訳すると禅、禅那にあたり、佐保田ヨーガ本では静慮などと訳してあり、つくづく訳語は統一してもらわないとわけがわからなくなりやすいと思う。それでなくとも日常生活とはかけ離れた観念体系で、苦労しつつ理解を組み立てている人が多いのに。

ダーラナーでは集中する対象を持つのだが、ディアーナは、その対象を認識する絶え間ない流れであり、その流れとはまるで、油をひとつの容器から他の容器へと移すように切れ目のないものであるという。冥想していて時間を忘れたり、肉体のあることを忘れたりする状態で、これは長い間ダーラナーの集中訓練をすると訪れる状態とされる。集中が無努力に転換するのだ。

第三段階は、サマーディ(三昧)。
それ以前は、見る自分と対象があったが、サマーディでは、その片方しかなくなる。サマーディには2種あり、
(1)サヴィカルパ・サマーディ(有分別三昧)またはサヴィージャ・サマーディ(有種子三昧)と((2)ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)またはニルヴィージャ・サマーディ(無種子三昧)がある。

この違いは自分というものに基づく欲望がまだ残っている状態がサヴィカルパ・サマーディであると説明されているが、カルマからみれば、まだ輪廻転生する必要を残した成熟度の場合は、サヴィカルパになるのではないかと思う。この世の歓楽を極め尽くしていないのである。

というわけで、この坐法は、「対象」などと言っているので、只管打坐ではない坐り方であり、陀羅尼がプロセスのひとつとなっていることから、どちらかというとクンダリーニ・ヨーガ型のステップであるように思う。




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社会生活上リスクの高い修行法

2008-07-18 05:38:17 | マインド・コントロール
◎社会生活と各種冥想

真言宗、天台宗などの日本密教そして、チベット密教はクンダリーニ・ヨーガ系であるがゆえに真剣にその修行に取り組もうとすれば、まともな社会生活はできなくなってしまう。クンダリーニ・ヨーガ系としては、古神道、道教なども該当する。

その他にもソーマ・ヨーガ(薬物冥想)、カーマ・ヨーガ(性愛冥想)などは、それぞれ単なる薬物中毒、薬物依存症になったり、単なる荒淫、相手を次々と替えてのセックス中毒に陥る可能性が高いことから、それぞれの窮極の姿は別にして、極めて危険性の高い修行法であると言える。

書店やインターネット通販の書籍コーナーに行けば、こうしたものが何の【危険】という表示もなく販売されているのが実態である。もっとも本を読むだけでは何も危険なことはないが、読者の何パーセントかはそれによって実際に修行に取り組むことになるのだろうから、何も危険はないということでもない。

従ってまともな社会生活が営めている人が大多数であれば、こうした社会生活的にリスクの高い修行法に取り組む人がさほど増加しはすまいと思う。

逆にこうしたリスキーなタイプの修行法に取り組む人が続々と出てくるようであれば、まともな社会生活を送れている人がとても少ないために、生活面で追い詰められ、絶望的な心境によってそうした修行法を選び採るところまで来ている人が多いのだろうから、その社会や国家は危殆に瀕しているということになる。

そこで、社会生活との両立がより容易であるタイプの冥想法としては、どうしても只管打坐タイプということになる。

只管打坐といっても、坐法こそ確立されているものの、道元の身心脱落という境地は、クリシュナムルティの著作のなかで現れるothernessのことだとか、老子の語るタオのことだなどというその絶対的な境地の共通性については、語る者すらいない状態である。

現今の科学的手法では、この3体験が同質であることを証明する手段などないし、道元はともかく、老子が只管打坐みたいな坐法を用いていたかどうかについても何の言及もない。クリシュナムルティに至っては、冥想という手段すら勧めない。

つまり只管打坐から身心脱落を臨む、社会生活と親和性の高い冥想法ですら、「只管打坐というメソッドとその結果とは言えない結果である身心脱落、タオ、othernessとは、実は冥想という行為の結果である」ことについて、第三者に対して再現性のある証明はできないという猛烈なジレンマがあるのである。

要するに少しでも論理的判断力のある人ならば、只管打坐で悟れるなどという理論は、再現性が覚束ないことから、一蹴してしまうだろうということである。

こうした現代冥想の置かれた絶対絶命の状況の中で、今日も未だ悟らざる我々は、ひりつく苦悩を誤魔化しながら、細々と冥想を続け行く。




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人の形の雲の出現

2008-07-17 05:07:09 | 時代のおわり
◎世の終末

『朝早く起きる人でないと見えないが、の方に人の形の雲が現れたら世の終末である。風が東北()から吹く時は激しくても物を破壊しない。艮はお父さんだから、憤られるようなものである。

南からの風は花が開くのであるが、坤からの風は激しくなってくると一切を破壊するのである。坤の方は愛の神様で、この神様が立腹されたら大変なことになるのである。

火の雨が降るとあるが、一間おきに火柱が立つのである。
(大正九年綾部にて)』
(新月の光/木庭次守編/八幡書店から引用)

坤の方角とは、南西のこと。このような話は、心得ておけば、それを見た時に思い出すものだと思う。




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