アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ノストラダムスの純粋なきらめき-6

2008-05-31 07:35:42 | 究極というものの可能性
◎恐怖の大王

『10巻72
年は一九九九年と七ヶ月
恐怖の大王が天より姿を現わすだろう
彼はアンゴルモアの大王を蘇生させ
その前後は火星が幸せに支配する』
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
この時代の終りに
人は、その足元が根底から崩れていくような恐怖を味わうことになる。
彼は次の至福千年の支配者を復活させるが
その前後の生活基盤は恵まれたものである。



1999年は、歴の年ではなく、この2千年紀の終り頃、すなわち今の時代。7ケ月は、肉体レベル(月)の七つのチャクラに象徴されるサイクルの満了のこと。
恐怖は、自分というものが残っている時にしか起こらないが、また本当の自分に直面する時に起こる。自分が失われる不安に震え、その深淵を覗き込み、天を仰いで救命を求める様である。

個人が恐怖に直面するメカニズムはこんな感じだが、ここは多くの人が集団的に恐怖に直面させられる事件、つまり本当の自分に否応なく直面させられる事態が発生することと見る。

それが起こるためには、多くの人にそういう心理的土壌が整っていることが条件となる。その時に冥想の習慣がなければ、本当の自分に直面し続けることはできにくいだろう。死か、発狂か、正気で生存か、の3者択一の中で。

閻魔大王は、地獄にあっては、恐怖の大王だが、その本質は恐怖でないことは知られている。その時、人は恐怖の最中に、閻魔大王の如きものに出会ってしまうのではないだろうか。

アンゴルモアの大王を、暗号解読好きの諸氏が解くようにモンゴルと見れば、次の千年王国の中心がモンゴルであることを示唆する人もいることから、ここは、次の至福千年の支配者のことをアンゴルモアの大王とみる。アンゴルモアの大王とは、ネガティブなものではないと考えられる。

火星とは、マニピュラ・チャクラのことである。火星そのものに安心や幸福という意味はない。火星とは人間の社会性、社会の中での自己実現のシンボル・マークのことである。つまりその前後に火星が幸福に支配するとは、恐怖の大王事件の前後は、社会の秩序がある程度維持されることを言っていると思う。

大洪水などの天変地異や、大戦争などの混乱の中では、人は生存するのに手一杯で、とてもではないが、社会の中での自己実現などに手が回るものではない。ところが人間の社会性が愛に転化していくのが、この文明のテーマであるから、その転化を促すためには、生活基盤を維持して社会秩序を守っていくことは必須である。

それで、この恐怖の大王事件は、生活基盤が完全に破壊される前の段階でワンチャンスとして起きて、その事件の後も社会生活が送れる程度の生活基盤は維持されることを保障してくれている・・・・というように読みたい。




コメント

ノストラダムスの純粋なきらめき-5

2008-05-30 09:58:13 | 究極というものの可能性
◎七番目の岩

『5巻32
なにもかも順風満帆なにもかも潤沢のところ
太陽と月のなかで その滅亡が近づく
そなたが自分の繁栄を鼻にかけていると それは降ってくる
七番目の岩と同じ状態で』
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
交通機関が発達し、貿易も盛んとなり、豊かな生活を享受できる時代に
人々は、生(太陽)と死(月)がバラバラなままの生活(アポロン的時代)を繰り返す中で、その文明の滅亡が近づく
そうした我が身の繁栄に増長していると、それが降ってくる。
精神の覚醒(七番目の岩)とは、物質生活の繁栄とは全く異なる次元のものなので、生活面では、しばしば災いとして現れ、降りかかる。
     
『哲学者は「賢者の石」を、他の七つの石から抽出する。』
(錬金術書、ヘルメス哲学の秘法/白水社から引用)

七つ目の岩は、最後の岩ということ。七つの岩とは、七つのチャクラの比喩である。七番目のチャクラは、サハスラーラ・チャクラなので、それが降ってくるとは、サハスラーラ・チャクラが墜落するのではなく、自分がサハスラーラ・チャクラに上昇することと思われる。

聖書のヨハネの黙示録では、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢が登場する。このうち封印が岩のイメージに近いので、岩を封印と見る。

第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあり、七つのラッパが与えられたとあるので、肉体レベルの七チャクラ(封印)を通過すると、静寂がしばしあり、後エーテル体レベルの七チャクラがあることを七つのラッパと書いているのではないか。

第七のラッパを吹き鳴らした後には、七つの鉢が登場する。鉢も災いを引き起こすので、善なるメンタル体レベルとは異なることから、鉢とはアストラル体レベルの七つのチャクラのことではないかと考えられる。この後大淫婦の裁きへと進む。

真摯な求道者としては、物質生活が豊かであるかどうかは問題にもならないものであるが、生活者にとっては大問題ではある。





コメント

ノストラダムスの純粋なきらめき-4

2008-05-29 06:06:45 | 究極というものの可能性
◎予言の成就

諸世紀1巻48
月の支配の二十年が過ぎ行きて、
七千年を超えてその君主制を維持せん。
太陽が力尽きし日々を引き受けんや、
そのときわが予言は成就し、終わらん。
(高田勇・伊藤進訳『ノストラダムス 予言集』56頁)

解釈
激変の20年が過ぎて、
地上天国、至福千年と云われる時代が始まるだろう。
太陽に象徴されるトップダウン型の組織宗教(仏教など)が影響力を失う時代を引き受けるのだろう。
その時、我が予言はすべて実現し終わるだろう。

月がある種の文明の暗喩として使われている例はノストラダムスの諸世紀にはほとんどないという印象を持ったので、ここの「月」は大変動の象徴と見た。また月はイスラム教の意味も含ませてあるので、イスラム勢力の強化がこの20年間にある。

7千年と書いてあるが、その7に数量の意味はないと見た。次の時代は、至福千年に決まっているからである。

太陽が力尽きし日々とは、組織宗教が人間精神に対して、根本的な影響力を失ってしまう時代のことで、現代のことである。仏教では末法であり、イエスのいう「終りの世」。

ノトラダムス予言の成就とは、北欧神話ラグナロークで終わっていたりするのと同じで、古い時代、古い文明、古い文化、そうしたものをすべて払拭できる何かが、今や人間の方に起きることを云うように思う。

UFO集団が地球を大挙攻撃しにくるかどうかなんてことは、ノストラダムスの関心の中心ではなく、どのように組織宗教の不要とされる時代が、今この時代にやってこようとするかどうかこそが関心の中心にあるように思う。それを予言の成就と謂っている。

このような予言の成就周辺が諸世紀のメイン・シナリオであって、その他のどこの王がああしたこうしたというのは周辺のエピソードに過ぎないと思う。





コメント

ノストラダムスの純粋なきらめき-3

2008-05-28 05:57:51 | 究極というものの可能性
◎東洋と西洋

ノストラダムスは、過去2千年において、東洋では仏教が支配的な宗教であり、西洋ではキリスト教が支配する、という並立体制であることを俯瞰する。

諸世紀5巻24
王国と法 金星のもとで高められ
土星が木星を支配するだろう
法と帝国 太陽によって高められ
土星一族を通じ 最悪の運命を耐えしのぶだろう
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
ヨーロッパでは、物質文明(王国)と宗教の精華(法)は、金星に象徴されるアポロン的文明の下で高められていく。
木星の示唆する現世の持っている本来の豊穣さというものは、ヨーロッパ的な世界の下では、大きく花開くことなく、土星の持つ清貧、禁欲、忍耐などの性格を持つ生活が宣揚されたライフ・スタイルとなる。

一方東洋では、太陽に象徴される仏教をバックボーンとして、宗教の精華(法)と物質文明(王国)が反映を継続する。
東洋では、土星に象徴される、物質的なことにしか関心のない為政者達のもと、仏教は、インドでは滅亡し、中国でも共産党政権の下でほとんど壊滅したといってよい状態だが、極東日本で、廃仏毀釈という法難に遭いながら、なんとかその命脈を保つ。

東洋人に比べ、西洋人の精神の方が、より物質的幸福に傾きがちな心性をもっているように思う。その意味で、中世までのヨーロッパとルネッサンス以後の世界に伝播した近代西欧文明にとって、イエス・キリストの出現は、結果から見れば、物質的にも、精神的にも成功であったことを意味する。




コメント

ノストラダムスの純粋なきらめき-2

2008-05-27 05:46:57 | 究極というものの可能性
◎チーム・ヘルメス

ノストラダムスの予言は、フランスの歴史や地名に通暁していないと何のことやらわからない詩が多いが、それはあくまでディテールまたはエピソードであって、メインストーリーではない。
実はクリティカルなシナリオは、近代西欧文明の帰趨の部分だろうと思う。

またディテールの部分は、西暦2千年までにほとんど成就したか、該当する時期は過ぎてしまったと考えるのが適当ではないだろうか。

さて日の神ウルカヌスによって、日の国に招請されたヘルメスは、日本に出現するのだが、そのヘルメスを、ノストラダムスは、黄金(ブロンド)の純粋なきらめきとして見た。

そして

諸世紀 10巻75
久しく待望されながら彼はヨーロッパには戻らぬだろう
姿を現わすのはアジアであろう
徒党が大いなるヘルメスから送り出され
東洋のあらゆる他の権力を越えて彼は力を伸ばすだろう
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
久しく待望されているのは、マイトレーヤであり、再臨の救世主(メシア)である。それは、ヘルメスとして出現が待望されたヨーローッパではなく、アジアに出現するだろう。
ヘルメスのチームが、ヘルメス自身から送り出され、
東洋のあらゆる他の権力を超えて影響力を拡大していくだろう。それは勿論、世俗の権力ではあり得ないが。

これをみると、ヘルメス自身が影響力を展開していくのではなく、その徒党であるチームが影響力を伸長させていくような書き方である。

がんばれ、チーム・ヘルメス!

この流れを更に読み解くには、ノストラダムスが、宗教の終わる時代、近代西欧文明の終り、この2000年期の終りをどのように見ていたかを承知しておく必要がある。




コメント

偉大なるメシアの法-2

2008-05-26 05:44:38 | 時代のおわり
◎アポロン的時代の終了

そこで偉大なるメシアの法の詩。

諸世紀5巻53
太陽の法 金星と争う
予言の精をあてながら
一方 他方 ともに理解されぬ
偉大なるメシアの法 太陽により保持される
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:太陽の法である東洋の宗教は、金星の法であるキリスト教と共に、神の正統な教えであることを争う。
どちらもノストラダムス予言の真髄(精)は掴んでいる。
仏教などの東洋の宗教もキリスト教も、為政者や貴族そして一般民衆にきちんと理解されているわけではない。
偉大なるメシアの法である冥想手法は、太陽たる東洋の宗教により保持される。

時代の終りには、宗教や教会が不要となることをノストラダムスも見ているので、ノストラダムス予言の真髄とは、個々人が神を直接知る時代が到来することである。

神を直接知る方法は只管打坐とクンダリーニ・ヨーガなので、これ以外にメシアの法と呼ぶべき冥想手法はない。その手法によって個々人がメシア(救世主)となるからである。

従ってこの文脈でいえば、2大冥想手法である只管打坐とクンダリーニ・ヨーガが、太陽である仏教により保持されていくと云うことができるだろう。




コメント (2)

偉大なるメシアの法-1

2008-05-25 08:08:15 | 時代のおわり
◎金星の意味するところ

ノストラダムスの諸世紀の多数の予言詩の中で、多分一番話題となっているのは、偉大なるメシアの法の詩。この詩を説くキーポイントは、金星の解釈にあると考えた。

金星は、諸世紀では、4巻と5巻に集中的に登場する。ノストラダムスは占星術も得意だったので、金星という言葉がゾディアック(黄道12星座)上の惑星を意味する場合も勿論ある。

そこで金星の登場する詩をいくつか見てみると、

5巻11
太陽の民 海を安全に渡ることなし
金星の民 アフリカ全土を握るだろう
やがて土星はもはや王国を支配せぬ
そこでアジアの一部が変貌するだろう
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
日本は第二次大戦中、海を安全に渡ることはできなかった。 
ヨーロッパ諸国は、アフリカ全土を1940年代までに植民地化した。
1990年代になると、占星術の土星マークに似たロゴを国旗とするソ連が解体した。
その結果アジアの一部であるカザフスタンなどが独立して変貌を遂げた。

ノストラダムスは、この100年ほどを概観しているのではないだろうか。ここでは金星はヨーロッパ諸国を指す。

5巻72
悪徳の勅令の快楽を求め
毒が法に混入されよう 宮廷で
金星があまりにも高潔ゆえ
太陽の栄光 ことごとく翳りをおびよう
(ノストラダムス全予言/山根和郎訳/二見書房から引用)

解釈:
金星は、キリスト教をバックボーンとする近代西欧文明の統治全般を云う。キリスト教は高潔であることを第一義的に求め、邪悪なることを徹底的に排除する傾向があるため、その傾向に便乗したろくでもない宗教政策、政治政策がしばしば登場することがある。
また近代西欧文明はその聖性の高さから来る高潔さのゆえに、東洋型の宗教のことである「太陽の栄光」すらも影が薄くなるほど。

ここで金星とは、近代西欧文明のことであり、光の部分を強調するアポロン型文明のことである。

ノストラダムスは、最後には、伝統的な東洋型の宗教である太陽の法も終わることを予言しているが、メシアの法とどのように位置付けられるのだろうか。




コメント

ノストラダムスの純粋なきらめき-1

2008-05-24 07:04:48 | 究極というものの可能性
◎火の神ウルカヌスとヘルメス

ノストラダムスの大予言関連本は、1999年7月が過ぎてからは、ぱったり出版されることがなくなった。不安を興味本意に煽っただけでは何も解決しなかったのだ。

ノストラダムスの大予言は、アカシックレコードに映じた様を4行詩に著したものだと思う。だから、正確に解読するためには、自分が自ら過去未来何千年のアカシックレコードを一旦見てみる必要があるのではないか。

つまりその見え方は、出口王仁三郎の云うように「過去、現在、未来が一度に鏡にかけたごとく見ゆるものであって、あたかも過去、現在、未来の区別なきが如くにして、しかもその区別が歴然推断され得る」なので、この状態で初めて4行詩が何のことを言っているのか確定できるものだと思う。

『日の国はメルキュールによってエクリプスを隠す

第二の空にしか置かれない

火と金属の神(ヴュルカン)により エルメスは祈らされる

日の国は純粋なきらめきとブロンドを見るだろう。
(諸世紀四巻29)』(大予言・日本編/五島勉/祥伝社から引用)

メルキュールを冥想技法と見れば、日本は伝承された冥想技法によりエクリプスである終末の大峠を乗り越えていくだろう。またその大峠=カタストロフィの間は、第二の空に置かれるだろうということか。

終末のメイン・シナリオであるハルマゲドンの戦の行なわれる空を第一の空とすると、第二の空にしか置かれないとは、日本はヘルメスの祈り以後は、しばし戦場にはならないだろうということだろうか。日本は、第二次世界大戦後の六十年間は戦場になっていない。

メルキュールは、メルクリウスのことであって、ヘルメスのこと。火と金属の神は、戦争の神であるマースであるが、マース(ウルカヌス=ヴュルカン)である戦争の惨禍を目の当たりにして、ヘルメスが日本を第二の空に置く祈りを強いられる。

さてエルメスはヘルメスのことだが、ヘルメスの祈る姿をノストラダムスは「純粋なきらめきとブロンド」と見たと考えるのが素直だろう。そこでノストラダムスの見た「純粋なきらめきとブロンド」は大弥勒のことと思い当たる。

火の神ウルカヌスは、炉に向かう錬金術師としても錬金術書では表現されるが、この詩のウルカヌスがヘルメスを観請したというくだりが、どうもハイレベルのご神業というべきものではないかと思われ、この詩の最大の眼目のように思う。




コメント

弥勒出現

2008-05-23 07:49:54 | 時代のおわり
◎霊魂の因縁性来

次なる短歌は出口王仁三郎の弥勒神をテーマとした連作の一部。

種々(種々)の大三災も小三災も 弥勒出現の先駆なるべし
※大三災は、風害、水害、火害。小三災は飢病戦。弥勒はマイトレーヤのこと。

一切万事知らぬ事なき人こそは弥勒の神の化身なりけり
※一切万事知っている人に出会ったことありますか。

小乗の教にかぶれし小人が 大神人を怪しみ見るなり
※小人は大神人に出会っても、まともな評価はできはしない。この意味でマスコミが小人も多数含まれる大衆に対して、無差別に宣伝し、影響を与えられるのは、世俗的なマターに限るのであって、愛や善については、小人に影響を与えることはできないことを云う。

小根は如何に諭すも教ふるも 悪田の如く実らぬものなり
※霊魂の因縁性来(精神の成熟度)がある程度高いものでないと、それは伝わらない。

中根は教えを聴きてたちまちに愛と善とに帰順するなり
※声聞レベルの人のことを指しています。

上根は教へずとても天地(あめつち)の神の心を悟り得るなり
※上根は悟り得る可能性は有するけれども、適当な冥想法についての理解と実践がないと悟ることはないのではないだろうか。
 ごく稀に、キュブラー・ロスが出会った黒人掃除婦のように死から再生してきた人はいるが、あくまで極くまれなことだと思う。

弥陀の世は終末となりて 弥勒神 世人を救はす世は近づけり
※阿弥陀如来におすがりして救われる時代は終り、弥勒神が救うのではなく、世人をして救わせしめるという意味だろうか。弥勒神が世人それぞれが自ら救うように仕向けるということだろう。
降誕した弥勒一人で何とかできるものでもなく、それをきっかけに世人が頑張らないとね。

久方の天より降りし 大弥勒は 東方(あずま)の光よ 闇世を伊照らす
※ノストラダムスが見た東方の黄金の光の輝きとは、この大弥勒降臨のことか。




コメント (4)

霊体と霊衣-2

2008-05-22 06:04:12 | 超能力・霊能力
◎神恩と世の大峠

『故に神徳ある人が鎮魂を拝受し、大神に謝罪し、天津祝詞の言霊を円満明朗に奏上したならば、たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立て直り、死亡を免れ得るのである。

斯くして救われた人は、神の大恩を忘れた時において、忽ち霊衣を神界より剥ぎ取られ、直ちに幽界に送られるのである。

自分はあまたの人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、信仰の徳によって漸次にその厚みを加え、身体ますます強壮になった人もあり、また神に反対をして人に妨害をして天寿の霊衣を薄くし、中には円い形をやや山形に変化しつつある人も沢山実見した。

自分はそういう人に向かっていろいろと親切に信仰の道を説いた。されどそんな人に限って神の道を疑い、却って親切に思って忠告する心をひがまし、逆にとりて大反対をするのが多いのである。

これを思えばどうしても霊魂の因縁性来というものは如何ともすることができないとつくづく考えるのである。』
(出口王仁三郎全集第五巻/出口王仁三郎/あいぜん出版から引用)

ここでは、重病人といえども、正しい信仰を行なうことにより、信仰の徳というものが積み重なり、霊衣が厚く頭部が円くなる人もいる一方で、健康な人でも神や人の反対を繰り返すことで、霊衣薄く頭部が三角になる人がいるとする。

首尾よく霊衣の厚みが戻った人でも、神恩を忘れた非道な行いをした時は、霊衣を剥ぎ取られ、幽界送りとなるとあり、よくお寺のホラースポットで脱衣婆の像を見かけるが、それは実在していたかと思い当たる。

さて昨今テレビや新聞を見ても、まず「徳が高い」などという言葉に出会うことはない。徳が高いとは、神恩を感謝し、惟神(かんながら)に生きることである。

惟神(かんながら)に生きるためには、大神(仏、禅の無、ニルヴァーナ)に出会って、惟神がその生き方の中で不退転となることが急務となる。
(るしやな仏 阿弥陀如来も 伊都能売(いづのめ)も み名こそかわれ 一つ神なり
  [出口王仁三郎])


出口王仁三郎は、他人や神を誹謗している霊衣の薄い人や頭の三角な、ちょっとヤバめの人に、天津祝詞の奏上を手始めとして、懇切丁寧に多くの人に信仰を勧めたが、入信することは本人にとっては大きな決断だから、そうしたプレッシャーの中で、かえってそうしたアドバイスを逆に受け取って反発までする人が少なくないことを云う。

そこで霊魂の因縁性来はどうしようもないとは、正しい宗教、信仰の道や、生き方に出会ったとしても、その人の霊的成熟度によってそれに応ずるかどうかが決まるので、すべての人を勧誘に応じさせるのは不可能であると見切ったことであると思う。

このあたりの見方によって、世の人々全員を救えはしないので、世の大峠には何人生き残るという厳しい見方になっていくことが理解できる。




コメント (2)

霊体と霊衣-1

2008-05-21 06:00:21 | 超能力・霊能力
◎死者との違い

『現界に生きて居る人間の霊魂を見ると、現人と同形の霊体を持っているが、亡者の霊魂に比べると一見して生者と亡者の霊魂の区別が判然する。

生者の霊体(霊魂)は、円い霊衣を身体一面に被って居るが、亡者の霊体は頭部は山形に尖り三角形の霊衣をまとっている。それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下に霊衣はない。

幽霊に足がないと俗間に云うのもこの理に基づくのである。

また徳高きものの霊魂はその霊衣極めて大きく厚く大きく光沢強くして人を射る如く、且つよく人を統御する能力を持って居る。

現代は斯くの如き霊衣の立派な人間が少ないので大人物と云わるる者が出来ないのである。現代の人間はおいおい霊衣が薄くなり、光沢は放射する事なく、あたかも邪神界の神々の着ている霊衣の如く、少しの権威もないように霊眼で見られるのである。

大病人などを見るとその霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣はやや山形になりかけて居るのも今までに沢山見たことがある。

いつも大病人を見舞うたびにその霊衣の厚薄と円角の程度によって判断を下すのであるが百発百中である。

何程名医が匙を投げた大病人でも、その霊衣を見て厚くかつ光が存しておればその病人は必ず全快するのである。これに反して天下の名医や博士が生命は大丈夫だと断定した病人でもその霊衣がやや三角形を呈したり紙の如く薄くなって居たら、その人は必ず死んでしまうものである。』(続く)
(出口王仁三郎全集第五巻/出口王仁三郎/あいぜん出版から引用)

まず霊衣とは、エーテル体かアストラル体かということについて。
この文では、亡者にも霊衣があるとしているので、アストラル体のこととわかる。エーテル体は死後まもなく崩壊するからである。従って霊衣とは、アストラル体の外皮のようなものだろうと知れる。

四柱推命でも、アストロロジーでも、易でも人の死期を知るのは最大の眼目の一つであるが、このレベルの霊眼を開けば、まず占断を誤ることはないだろうし、命式を見たり、ホロスコープを眺めたりする必要もなくなってしまう。

寿命が長いことがその人にとって幸福かどうかという問題は、これとは別の問題ではある。

そこで徳高き者が霊衣が厚く光沢が強いとあるので、どうすれば、徳を高くできるかということになる。

また、「徳が高い」ことに価値があるという考え方そのものが、もうほとんど顧慮されない時代になっているので、徳が高いということの意味を更に掘り下げる必要がある。(続く)




コメント (6)

猫に見る憑依

2008-05-20 06:35:54 | 超能力・霊能力
◎霊能力者の短命

の毛を逆に撫でると火が出るのは、強い電気が起こっているからであって、猫ほど電気に感じ易い獣はない。

天候をよく感知すると云われているのもこれが為である。それがため又霊的には甚だ怜悧であり且つ執拗である。

昔から犬や馬の化けて出た話は滅多に聞かぬが、猫の化けて仇をした話はしばしば聞くところである。

最初に飼う時に「お前は一年間だけ飼ってやるから」と言い聞かしておいて、もし一年経って飼い主が前に言ったままで忘れてしまっていると、猫の方はちゃんと覚えていて、知らぬ間にどこかへ行ってしまうものである。

だから一年経った頃に『これからもう一年だけ飼ってやる』と年季を延ばして言い聞かしておくのである。

斯うして猫に年季を切るというのは、もし飼いっ放しにしておくと、中には年月が経つとともに一種の霊力を具えて人を驚かしたりすることがままあるからであろう。猫が死人を踊らした実例は私も知っている。』
(出口王仁三郎全集第五巻/出口王仁三郎/あいぜん出版から引用)

この後に続く話に、飼い犬が病気で死ぬ時に、魂は飼い猫に憑(うつ)れと命じたところ、飼い猫の食物や挙動は飼い犬のそれに酷似してきて、猫なのに家族の送り迎えまでするようになってきた。

ところが猫はまもなく死んでしまうのだが、此の猫の臨終に別の飼い猫に魂は憑(うつ)れと命じたところ、こんどは別の飼い猫が犬の真似をやりだして、またもその飼い猫は短命に終わったという。

出口王仁三郎の説明では、一つの肉体に二つの精霊(魂)がある場合、肉体の統一、調整がむずかしくなって無理が多くなり、短命に終りがちであるとする。だから人間の霊能力者のケースでも、自己以外の他の精霊の助けを借りるため、大抵は短命に終わりがちなのだという。

今や世間はスピリチュアル・ブームとなっているが、これで何だか霊能力や憑依偏重になると、短命となって天寿全うできない人間が増える結果になるわけだ。

リードビーターなどが、クリシュナムルティにマイトレーヤーの魂を移植しようとして失敗したが、肝移植、腎移植ならぬ、魂魄の移植はもっと昔からあった。クリシュナムルティが、移植を拒否したのは、短命に終わるからいやだと言ったのではないだろうが、元々の与えられた肉体で生きるという、行雲流水のような自然な生き方というものの美しさの方を高く買っていたのだろう。

ヨーロッパでもチベットでも死人を動かす(踊らす)話が時々あるが、日本でもあって、なおかつ猫でもそんな芸当ができるとは驚きである。


    1日1善。1日1クリ。


コメント

哲学者の薔薇園の神秘-9

2008-05-19 05:57:03 | 錬金術
◎第十図 新たな誕生

魂は肉体に既に帰還し、第十図は、新たな誕生と名付けられている。これは両性具有者たる人間の完成であり、心理学者C.G.ユングの見解では、原人の完成である。

左側には、木に七つのチャクラがかかっており、サハスラーラ・チャクラを共通として、他の六個のチャクラが二重になっている。これは、エーテル体チャクラ、メンタル体チャクラなどチャクラが各ボディにそれぞれチャクラが存在していることをシンボライズしたものであり、またサハスラーラ・チャクラが他のボディへの通路であることも暗示している。

またチャクラの一連のシリーズを木と見たのは道教と同じである。

両性具有者は、ここで王冠をつけ、そのミクロコスモスの位置が、世界のすべての中心である天の浮橋にあることを示す。また翼を持っていることで、あらゆる次元を自由に往来する潜在能力のあることも物語る。

両手の蛇(メルクリウス)は、ホワイト・フォックス(白狐)なる現実を動かす諸力の象徴であり、それ自体善でも悪でもないが、そうした力をも自在に操れる超能力をも得たことを謂う。

ユングの説明では、宇宙の初めに現れる原人とは、賢者の石のことであり、これにより万物が始まるプリマ・マテリア(第一質料)であるとしており、いよいよ天の浮橋のイメージに近い。

またユングは、ボディと魂が結ばれた後、原人たる両性具有者は天国へと昇るが、術(メソッド/冥想テクニック)は、地上に残ることを、1550年フランクフルトで出版された「錬金の術」という書物を引用して裏付ける。
(参考:転移の心理学/C.G.ユング/みすず書房)

この『術は地上の王国に留まる』とは、単に冥想テクニックが口伝や書物で残るという意味だけではなく、完成した両性具有者は、肉体が失われた後も、アストラル体を残し、アストラル体で地上の見込みのある人間に、秘儀を伝授することを意味しているような気もする。そうした傍証もいくつかあるように思う。


    1日1善。1日1クリ。

コメント

哲学者の薔薇園の神秘-8

2008-05-18 06:13:02 | 錬金術
◎第九図 魂の帰還

魂が右上方から降下しつつあるのが、「魂の帰還」とされる第九図。

下の大地で2羽の鳥がコンタクトすることで、両性具有者がいまや完成を迎えようとしている一方で、現象レベルでは二元性と土を意味する、あいかわらず様々な悲喜劇が繰り返されることを象徴している。

詞書きには、「灰を侮る泣かれ、汝の心臓の王冠なればなり」とあり、灰とは肉体死の状態で横たわる身体であるが、ここに第八図の浄化によって魂が戻る復活の時を待つ。

人間の実体験ストーリーとして、浄化からそのまま死であっても何の問題もないが、灰である屍体にもどることで、いわば王冠をかぶった王の如く生きることが始まる。それが心臓の王冠という表現になっているのではないだろうか。

十牛図の第九図も、根源からの帰還である返本還源であり、この図と好対称を成している。

本来魂が、天上で何をしてきたかが、そこでどういう体験とは呼べない体験をしてきたかが、まず最優先に解明すべき事項であって、天上で何をしてきたかがわからない魂が突然肉体に戻ってくると言われても、無垢なる読者はやや困惑だろう。

それゆえ哲学者の薔薇園は、霊がかった、つまり霊という世界観から脱けだせていない、霊能力者の手によるものではないかという疑惑を禁じ得ないのである。霊能力者は天上に飛び込めないという限界がある傾向があるからである。


    1日1善。1日1クリ。


コメント

女性的自我なる鉢かづき姫

2008-05-17 07:04:53 | 究極というものの可能性
◎最愛の男性を超えて

美人でしとやかな若い女性が、なぜ鉢をかぶって世を生きなければならないのだろう。これが、童話鉢かづき姫を知った幼児における最初のインプレッションである。

おとぎ草子では、姫が13歳のみぎり、母が病気となって、死を予感する。そこで母は、一人残される姫のことを案じて、なぜか鉢を姫の頭にかぶせる。これが鉢かづき姫の始まり。

母の死後、父は再婚するが、継母によって鉢かづき姫は追放され、大きな川に身を投げる。ところが鉢が浮き袋となって沈まず、親切な漁師に引き上げてもらう。

九死に一生を得た鉢かづき姫だが、村人は頭に鉢のある奇妙な姿をみて嘲り笑う。

ここにリッチマン山蔭の中将が現れて、鉢かづき姫に自宅の湯殿で働くことを命じる。なぜか湯殿。やがて山蔭の中将の四男が鉢かづき姫に一目惚れし、湯殿で出会って、やがて一夜の契りを結ぶ(関係ができちゃうこと)。

さて鉢かづきのような嫁ができるのは一族の恥と、鉢かづきを追い出そうとして企画された嫁比べイベントの直前になった。四男は、嫁比べで恥をかくよりは、家を出奔しようと鉢かづき姫と一緒に戸に手をかけた瞬間、鉢がポロリとはずれた。

すると中から金塊、金盃、銀のバッグ、砂金の橘などなど数々の宝物がでてきて、パッピーエンドとなった。

ここには、2つの重要なモチーフがある。一つは錬金術での窮極。湯殿で汗をかいて、人間的限界を超えるのは、錬金術における浄化であり、ニルヴァーナとの接触である。

精神分析のC.G.ユングによれば、浄化は、錬金術においては、哲学者の薔薇園のように天からしたたる滴、シャワーと表現されることもあれば、湯殿で汗をかくという表現として出てくることもある。

男性と女性が湯殿で出会って汗をかいて合体するのは、王と女王が合体して汗をかく構図そのものである。

もう一つのモチーフは、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足することが鉢であること。

グリム童話にも灰かぶり姫が母と死別してから、台所のかまどのすみで、ぼろを着て、常に灰にまみれていたが、後王子に見初められ、女性として幸福になるというシンデレラという物語がある。

こちらのモチーフは更に起源が古く、古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。

ユングの弟子のマリー・ルイズ・フォン・フランツによると、この頭の上に載った容器は、女性の秘儀であるという。つまり、女性が精神的変容(つまり覚醒、神との合一)に至るためには、頭の上に載った容器を叩き壊すことがまず必要となる。
(参考:ユングコレクション4:アイオーンP328/人文書院)

すなわち頭の上に載った容器とは、最愛の男性と結ばれることによって充足するという
女性的自我の本源的な傾向のシンボルなのである。

女性は、窮極を目指す時に、龍や蛇の頭として現れる女性的自我のシンボルを踏みつぶしていくというモチーフもあるが、そのバリエーションのひとつが鉢が落ちる鉢かづき姫であると考えることができる。


    1日1善。1日1クリ。

錬金術書”逃げるアタランタ/汗かいてます”


コメント